引越し(1)
「申し訳無いんだけど今日はここで失礼するよ。これからの事を真剣に考えてみる必要があるからさ。それに勉強もしなくちゃならないし」
光輝は中山マンションの前でハルカに別れを告げた。
「うううっ、……わ、分かった。辛いけど我慢する。本当の事を言えば、アタシもこの頃勉強が遅れがちなんだ。ああ、でも、……」
ハルカはちょっと涙ぐみながら、辛い気持ちを堪えていた。強引にでも光輝を自分のアパートに引っ張って行きたかったが、実際には勿論出来なかった。
不良時代には容易く同棲出来た。その代わりあっさり裏切られた。別れた、別れた、と言いながら、何人もの女子と付き合っている、イケメンの男子がいた。他の女子と付き合っている事をなじると、殴る蹴るの暴行を受けたりもした。
『光輝はあいつ等とは全く違うしな。あいつ等だったら、今頃簡単にアタシのアパートに転がり込んで来ていただろう。それで何の問題も無いのに、光輝はそれを断るんだからな。アタシが良いって言っているのに、……』
自分の勝手な都合だけで動かない光輝がもどかしかったが、そこがまた魅力的に思えるのだ。
『だから、だからますます好きなんだ! でも、本当はせめてキス位してから別れたかったんだけどな……』
笑顔を見せながら手を振って別れた後で、ハルカはちょっぴり後悔していた。
『ハルカ、辛そうだったな。成り行きとは言っても、関係が出来てしまったんだからな。遊び人同士の軽い関係じゃないし……。
あああ、どうすれば良いんだろう。そもそも何をするにも金が無い! この間の張り込みで大分使ったからな。本当の事を言えばラブホテルが痛かった。冷蔵庫の中も空っぽだし、カップ麺の買い置きも遂に最後の一個になったし、……』
そんなことを考えながらマンションの部屋に戻ると、何と無く気になって、ぐるりと首を回し、部屋のあちこちを見回した。
『校長の中山剛太郎が、この部屋に入って隅々まで調べたと言っていたな。気が付かなかった。うーむ、プロの仕事だ! あの男も単なる腕自慢ばかりじゃなくてスパイや探偵の真似事位は出来るみたいだな。ちょっと侮ったか!』
何時もなら長風呂に浸りながら考えるのだが、
『何もかも知られていると思うと風呂に入る気がしない。シャワーも不愉快だ。明日辺り銭湯にでも行く事にして今日は我慢しよう』
最後の一個のカップ麺を啜りながら、そう思った。
光輝は部屋の中で一言も喋らずに、ひたすら頭の中だけであれこれ考えた。
『とにかく引越しの準備をして置こう。と言っても大きなバックが一つあれば、全部入るな。オヤジの荷物はいらないから処分して貰う事にしよう。
まてよ、リサイクルショップに全部持って行って売っちまおうか? ああ、それが良い。確か割合近い所にリサイクルショップがあったよな。大した金額にならないかも知れないけど、ちょっとでも足しになれば良い』
その晩、勉強の他には専らマンションを出て行く事だけを考えていた。住む場所の事はまだ考えないことにした。どうにもならなければハルカに頼むしかないが、それは最後の手段と決めていた。
夜も更けて、いよいよ眠る事になったがベットに入る事もまた不快だった。仕方無しに私服を着たまま、ベットの上に仰向けになって眠る事にした。眠りの世界に入るまでの暫くの間、校長のした事等について、あれこれ考えてみた。
『あの鞄が爆発しない事は見抜かれている。それと暗号の送り先の電話番号が使われていない事も知っているんだろう。暗号文やそれを解く鍵の資料もある程度置いてあるから、幾つかは解読したんだろうな。
だけど大したものは残っていない筈だし、コインロッカーを使った事までは、知らないだろうよ。それで多分、俺が暗号を送った振りをしていた、と判断したんだろう。つまり実体の無い組織を、ある、と校長に思わせた、と、そう思っているんだろうね。
結果的には校長の言う通り組織は無いのに等しいんだけど、実際に暗号文のやり取りがあったんだ。しかしそれが知られなくて良かったよ。
俺を侮ってくれた方が、かえって何かの時に役に立つ事があるかも知れない。それに組織の一員と称する連中がもし校長に捕まったら、俺の無国籍がばれてしまう恐れがある。そうなったらもう駄目だ。俺の一番の弱点だからな。
それにしても俺は実に不思議な存在だ。本国では死んだ事になっているんだからな。だから無国籍なんだけど、それでいて本国では俺が生存している事を知っていると、オヤジは言っていた。つまり反政府ゲリラの拠点の一つだった俺の村、本当に小さな村の、俺が唯一の生き残りなんだそうだ。
まあ、まんざら嘘でもあるまい。国外に脱出出来たのは俺一人位だった様だし、大半は処刑されたし、残った連中も、地雷の除去なんかの超危険な作業をさせられて、殆ど死んでしまった。
オヤジの話と俺が調べた事とを総合して判断すると、先ず間違いの無い所だろう。つまりは俺には帰れる場所は無い。秘密は絶対に守り通さなくては、これから先、生きて行けない!』
そう決意をすると急に頭の中が空っぽになって、スッと眠りの世界に入って行った。
「リリリリリ……」
目覚ましが鳴って直ぐ光輝は起き出した。
「ヘヘへ、今日は寝坊はしなかったぞ!」
つい声を出してちょっと慌てた。
『いかん、声を出すのはご法度だよな。今日は金曜日。今週中に出て行く、という事は明日一日がタイムリミットという事だ。今日、帰って来てからが忙しいな』
そんなことを考えているうちに、
「グウ〜ッ!」
と、腹の虫が鳴いた。昨夜から最後の一個のカップ麺以外何も食っていないのだ。若い男性にとっては全然足りなかった。
『ああ〜っ、腹が減った! さすがに応える。コンビニにでも寄って何か食べて行こうか? しかしハルカが待っているかな? それはちょっと拙いか』
だが空腹に耐えかね、一番近いコンビニに走って行って、ボリュームのある弁当を買って戻った。夢中になって食べた。
『美味い! 腹が減っているせいか、何時もより格段に美味い気がする!』
そう感じた。しかし、
『音楽の臨時講師の一万円も使っちゃって、とうとう、残りのお金が五千円を切ったな。今日学校から帰ったら、リサイクルショップに不用品を売りに行くことが先決だ。一文無しになったらさすがに怖いぞ!』
そう決めてから登校する支度を始めた。 |