半吸血鬼はクラスメイトが気になります
桐原奈々は、ごく普通の人間だと周囲から認識されている。
クラスでは委員長をやっているものの、それも発端は小学生の時学校を休んでいる間に勝手にクラス委員にされて以来、なんとなく周囲に推されて続けているだけのことだ。
成績は普通、家族も両親と一つ下の弟の四人家族で特筆すべき点は何一つない。
しかしそれは、あくまで周囲から見ればという一点に尽きる。
「ただいまー」
「姉さんお帰り」
奈々が家に帰ると、既に帰宅してテレビを見ていた弟の直哉が飲み物片手に振り返る。
ストローから吸い上げているその液体は……血液である。
奈々はそんな弟を見て自分も喉が渇いてしまい、鞄を置いて手を洗うと冷蔵庫の扉を開けた。
赤、赤、赤。冷蔵庫の中の半分ほどは赤色で占められている。しかし彼女はそれらには目もくれずにオレンジジュースを取り出すと、コップを持って弟の隣に座った。
相変わらず血液を美味しそうに飲む弟を眺めながら、奈々もオレンジジュースを口に含む。
「いつも思うけど、どう考えても美味しそうじゃない」
「美味いに決まってるだろ。俺はそっちの方が好きじゃないな、酸っぱくて喉痛くなるから」
「そっちだってどろどろしてて喉越し悪そう」
「これがいいんだよ」
よく分からないなあ、と奈々はテレビに視線を移す。
弟の直哉は、吸血鬼である。いや、正確に言うと母親が吸血鬼、父親が人間の半吸血鬼だ。
そして言うまでもないことだが、同じ両親の元に生まれた奈々もまた半吸血鬼である。ただ直哉は吸血鬼の血が強く、奈々は人間の血が強いという違いがある。
人間である父親の血が強い奈々は半吸血鬼であるのに関わらず血を飲んだことがない。人間と同じ食事で十分に事足りるので問題なく日常生活を送れているのだが、その代わり少々他の女の子と比較すると力が強く、怪我の治りが早いこと以外は吸血鬼として何の能力も持っていない。日光やにんにくも平気なので、もうほぼ人間と言っても差し支えないくらいだ。
対して母親の血が強い直哉は定期的に血を飲まなければならない。吸血鬼の血が強ければ強いほど摂取しなければならない血液の量と頻度は上がり、直哉の場合は三日に一度、母親は一日一度必ず200mlの血液を飲んでいる。
ちなみに摂取する血液はどこで調達しているかというと、献血したものを融通してもらったり、また吸血鬼の存在を知る人間から売ってもらったりと色々だ。当たり前だがそれらの手段は非合法である。そもそも現代社会に本物の吸血鬼がいると知っている人が殆どいないのだから表沙汰に出来るはずもない。
吸血鬼といえば人を襲って血を吸うようなイメージが一般的かもしれないが、緊急時はともかく基本的に吸血鬼の中でも人体から直接血を吸うのはご法度である。量が定まっているパック詰めの血液とは違い、下手をすれば飲みすぎてしまい結果相手を吸血鬼にしてしまう可能性があるからだ。……勿論、まったくそんなことを気にせずに人を襲う吸血鬼がいない訳ではないが。
奈々と直哉の母親は吸血鬼だが元人間だ。事故に遭って死にそうになっていた所を居合わせた吸血鬼が咄嗟に彼女の血を飲み、吸血鬼化させて無理やり命を繋がせたという。吸血鬼になってまで生き延びたのは果たして良いことなのか悪いことなのか……奈々は一度母親に尋ねたことがあったが「可愛い娘と息子が居て幸せよ」と朗らかに微笑まれた。
続けて、「まあ吸血鬼になったと分かった時は思わず一発殴ってしまったけれど」と同じ表情で言われ、奈々は何とも言えない気持ちになった。
「そういえば、今日もあの人大変だったよ」
「また?」
互いにテレビを眺めながら飲み物を口にしていると、奈々はふと思い出したように話し始める。前から幾度となく話していたことであった為に言葉を尽くさずとも内容を理解したのか、直哉は呆れたように目を細めた。
奈々が言うあの人、というのは彼女のクラスメイトの一人のことだ。
霧野大和、新学期の当初は隣同士だった男子が件の人物である。見掛けはひょろりと伸びた身長と痩せた体、それに地味な顔つきでどこにでも居そうな男だ。あえて変わった点を挙げるなら色白で血色が悪いので周囲から病弱に見られているというところか。実際に体育は全て見学しているし、周囲が夏服に変わっていく今の時期でも頑なに学ランを着込んでいる。
しかし、実の所彼は病弱でも何でもない。学校を休んだことは一度も無ければ早退や遅刻すら一切無い。いつも一番に学校へ来て、そして遅くに帰っていくのでもしかしたら生徒の中では一番学校にいる時間が長い人かもしれない。
大和がただ病弱な人間でないと奈々が知ったのは新学期の始め、放課後に彼と二人でクラス委員の仕事をしていた時だった。
クラス委員に決まっていた奈々の隣の席に居たからという何とも理不尽な理由でもう一人のクラス委員に任命された大和。彼と一緒に担任に任された仕事を終えて、いざ帰ろうと荷物を鞄に入れていた時のことだった。
「あれ、霧野君。何か落ちたよ」
彼が立ち上がった拍子に鞄に入っていた何かが床へ落下したのを見た奈々は、そう言いながら床へ視線を落とす。
「わ、悪い」
「え?」
拾おうと立ち上がった奈々よりもずっと素早く、まさに目にも止まらぬ速さで落ちたそれを拾い上げた大和は、慌てた様子ですぐさま鞄の中にしまい込んだ。そのまま彼は急ぐように教室を出て行ったのだが、奈々は呆然とその後ろ姿を見送りながら先ほど見た物を思い出していた。
大和が落としたのは、銀色の四角いパッケージ。奈々はそれを日常的に見ている。
「あれって、血液パックじゃ……」
母や弟が飲んでいるものとそっくりだった。何も知らない人が見れば味気ない無地のパッケージだけでその中身が何なのか見抜くことなど出来ないだろうが、奈々は違う。
彼があれを持っていたということは、つまり導き出される結論は――。
霧野大和は、吸血鬼であるということ。
そう考えて次の日から観察して見れば、大和の可笑しな行動も吸血鬼だからという仮定で見れば答えを出せることに気が付いた。
朝早く来て夜遅くに帰るのは日光を避けているからで、夏服を着ないのも同じ理由だろう。体育も屋外にある運動場では授業に出られる訳もないし、もしかしたら吸血鬼特有の飛び抜けた身体能力を隠すためでもあるのかもしれない。
何より確証が持てたのは、大和が紙の端で指を切った時だ。配られたプリントを見ていると隣から「痛てっ」とごく小さな声が聞こえ、奈々が振り向けば血は出ていないものの指先に赤いラインが入っていた。
ところがそれは僅か数秒も経たないうちに元通りになり、奈々が見ていたことにも気付かなかったのか、彼本人も特に気にした様子もなくプリントに目を移している。
奈々の母親を例に挙げるまでもなく、吸血鬼は普通の人間に比べて怪我をした時の回復力が凄まじい。この時すでに彼を吸血鬼だと疑っていた奈々にとって、これは確信に変える出来事としては十分なものだった。
そして席が離れた今も大和の観察は続いている。……いや、もはや観察の域をとっくに出ており、彼が吸血鬼だとばれないように周囲にフォローするようになってしまっていた。
大和の席に日光が届きそうになればカーテンを閉め、力を込めてしまい学校の備品を壊してしまった時は「元々ひびが入っていた」と周囲を納得させ、せめて軽い運動でも、と彼をかんかん照りの運動場へ引っ張る教師には朝から体調が悪そうだから、と庇った。
同じ吸血鬼としての好もあるだろう、とにかく周囲から浮いて危なっかしい大和を奈々は放っておけなくなっていた。
「今日はお昼に他の男子から無理やり餃子を食べさせられそうになって今にも死にそうな顔してた」
「俺だったらその男子思いっきりぶん殴ってる」
「本当にやったら死んじゃうから止めてよ」
嫌いなことを知られていたのか羽交い絞めにされて餃子を食べさせられそうになっているのを見て、思わず助けてしまったのだ。
「霧野君、ちょっとクラス委員のことで話が……あと佐野君、数学のプリント今日提出期限だけどまだ貰ってないよね?」
「うわやべっ」
大和を解放させるついでに、餃子を掴んでいた男子の注意を逸らすべく奈々がそう言うと、彼は大和同様に顔色を変えて慌てて未提出のプリントを探し始めた。まあプリントのこと自体は本当に今日が提出期限である。
力任せに振りほどくことも出来ただろうに彼がそれをしなかったのはクラスメイトを傷付けてしまうと懸念したのかもしれない。弟とは正反対だ。
そんな感じで奈々は日々、お節介かもしれないと思いつつも大和が吸血鬼だとばれないようについ世話を焼いてしまっていた。
話を聞き終えた直哉は「ふーん」と然程興味を引かれない様子でずずず、とパックの底に溜まった血液を啜った。
「……まあでも、あんまり深入りするなよな。一応そいつも吸血鬼なんだから」
「直哉は心配性だね」
「姉さんが楽観的過ぎるんだ。何かあってからじゃ遅いんだからな」
「はいはい」
仮にも半吸血鬼であるのに何の能力もない姉が心配なのか、直哉は昔から奈々に対して過保護気味だった。「姉さんは俺が守る」とよく口にし、呑気な彼女にこうしてしばしばお小言を言うのである。
しかし確かに普通の吸血鬼よりは弱いとしても、ただの人間よりは頑丈なのだから何も心配することはないのでは? と奈々は常々思っており、弟の言葉を聞き流すのが日常だった。
そんな日常に変化が起きたのは、何てことのないいつもの放課後だった。
ただいつもと違っていたのは、普段から顔色の良くない大和がその日は特別体調が悪そうだったところか。心配になって何度も視線を送っていると、友人から「奈々、また霧野君のこと見てるね。好きなの?」と茶化されてしまった。否定はしたものの、女子高生というのは――他人事ならば奈々も――何でも色恋沙汰に結び付けてしまうものなのである。結局信じてはもらえなかった。
その日は日直で、もう一人が風邪で欠席していた為最後の掃除を終えるまで随分時間が掛かってしまった。手早くごみ袋を縛って、ついでに帰ろうと鞄も一緒に持ってごみ捨て場へと運んでいると、不意に何か物音が聞こえた気がした。
彼女の聴覚はあまり人間とは大差ないが、それでもその音が聞き間違いではないと判断したのは、一度ならず何度もその音が続いて聞こえてきたからだ。
その音はごみ捨て場へ向かう度に大きくなる。奈々は不審に思いながらも足を進め、そして目的地に到着した時、その音が何だったのかをようやく理解することとなった。
「く……ぁ……」
そこには、倒れ伏してもがく大和の姿があった。苦しいのか胸を掻きむしるように悶絶している彼を見て、奈々は荷物を放って一目散に駆け出す。
「霧野君!」
「きり、はら……? 来るな!」
血走った目で奈々を捉えた大和はその目を限界まで見開き、そしてすぐさま叫ぶ。
思わず足を止めてしまった奈々距離を取るように、彼は苦しげに上半身を起こすとずりずりと体を引き摺って後ずさりした。
「大丈夫……じゃないよね。一体何が」
言いかけた所で、奈々はふとこの状況に見覚えがあったのを思い出す。確かあれは……そうだ、直哉が血相を変えて家に帰ってきた時のことだ。奈々が心配して近づこうとすると、同じように「こっちに来るな!」と鋭く叫ばれた。
もし弟と同じ状況ならば、多分。
「霧野君――血が、足りないの?」
「な」
肯定も否定もせずに固まった所を見ると、恐らく正解でいいのだろう。ある程度摂取しなければならない血液の量は分かっていても、絶対にそれで大丈夫というと言い切れる訳ではないのだ。あの時も玄関で死にそうになっている弟に血を持ってきてと言われ、慌てて冷蔵庫から血液パックを取り出して――近づくと危ないので、弟に投げつけたものだ。
吸血衝動に駆られた吸血鬼というのは本当に危険だと何度も教えられてきた。理性がなくなったら最後、誰彼構わず人間を襲って満足するまでその血を飲み干してしまう。
けれど当然ながら奈々は血液パックなど持っていない。ただ、血がないとは言わない……彼女の体には目いっぱいの血液が巡っているのだから。
まだ会話できるほどの意識は残っているようだが時間の問題で、彼女に迷っている暇などなかった。
「私の血、飲んでいいよ」
吸血鬼なの知ってるから大丈夫、と片腕を差し出すと大和は目に見えて動揺を激しく表し、ごみを入れておく倉庫に思い切り体をぶつけた。
正直に言うと奈々だって噛まれて血を飲まれるなんて絶対に御免だ。勿論痛いだろうし、何より怖い。今だって腕を差し出しながらも、足は逃げ出しそうになっているのを必死にこらえている。
だがここで彼をそのままにしておけばきっと彼女は罪悪感で押しつぶされると確信していた。理性を失って大和に噛まれるであろう人間に対しても、そして人を襲ってしまった彼に対しても。
数か月の間彼のフォローをしていく中で、大和が人を襲っても平気でいられる人ではないことなど分かり切っている。だからこそきっと、吸血衝動にかられて人気のない場所へ逃げて来たのだろうから。
眼球が迷うようにぐらぐらと揺れる彼に「早く飲む!」と口元に手を近づけると、大和はようやく奈々の手首を掴む。
そして、そのまま彼女の腕は強く引かれた。
「え」
そのまま腕を噛まれると思っていた奈々は前かがみに倒れ、そして大和の胸へと飛び込む形になった。一瞬呆然としていたのもつかの間、何が何だか分からないまま奈々が次の感じたのは、首筋の激痛だった。
「あ、痛っ!」
痛みに混乱し、手ではなく首を噛まれたのだと理解するまで時間が掛かった。確かに飲んでいいとは言ったが、まさか首を噛まれるとは思ってもみなかった。牙が皮膚に刺さる感触が恐ろしくて、溢れ出す血を一滴たりとも逃さないとばかりに吸い出している様子に意識を飛ばしそうだ。
脳が痛みをシャットアウトしているのかだんだん感覚が麻痺してくる。奈々は「あ、これ死ぬかも」と急に冷静になって思ったものの、今更どうすることもできない。
一分か三分か、はたまた10秒だったかもしれない。ようやく大和が口を離すと、奈々は崩れ落ちるように地面に転がった。
「っ桐原!」
しばらく沈黙が訪れた後、我に返ったらしい大和が口に手をやって青ざめる。そうして倒れたままの奈々に駆け寄るとすぐに彼女を抱え上げると、どこかへ向かって一目散に駆け出した。ずきずきと頭が貧血でぐらついていた彼女はぼうっとしたまま流れる景色を目で追い、やっぱり吸血鬼は足も速いんだなあと至極どうでもいいことを思った。
大和が足を止めたのは保険室だった。もう時間は遅く入口の扉は既に施錠されていたのだが、大和は奈々を一旦廊下に下すと体を霧に変えて扉をすり抜け、そして内側から鍵を開けたのだ。
血の濃い吸血鬼の中には霧や蝙蝠に姿を変えることも出来ると聞いたことはあったが、まさか本当だとは、と奈々は信じられないものを見るようにその光景を眺めた。
椅子に座らされて黙々と手当てを受けていると、重苦しい沈黙がその場を支配する。奈々はちらちらと大和を窺うものの、俯いていてその表情は見えない。
一通りの手当てが終わると、大和は俯いていた顔を更に大きく下げる。
「……本当に、ごめん」
「いや、大丈夫だよ。私から言い出したんだし」
なけなしの吸血鬼の血の所為か、最初は激痛だったものの今は随分ましになった。おかげで手当ても消毒とガーゼだけで済んでいる。
「ところで、何で首だったの? ……って別に責めてる訳じゃないからね」
手を差し出したのだから指か腕を噛まれると思ったのだと伝えると、大和は申し訳なさそうに目を逸らした。
「……指や腕だと、食いちぎりそうだった」
「首にしてくれてありがとう」
さすがに切り離されたら治らないだろう。お礼を言うのもおかしな気がしたが、ついそう言ってしまった。
「……何で、俺が吸血鬼だと知ってたんだ」
「私も半分だけ吸血鬼だから、霧野君の行動見てたらね。前に血液パック落としてたし」
「そういえば、見られてたような……じゃあ、桐原が俺に構うのは」
「うん。吸血鬼だと知ったらほっとけなくて、ついつい色々お節介焼いちゃってた。迷惑だったかもしれないけど」
同じ委員でも特別親しくないクラスメイトがどうして一々構ってくるのか疑問だったのだろう。私も逆の立場ならきっと変だと思ったはずだ。
「迷惑なんて思ってない。……でも」
「でも?」
「桐原が俺に優しくしてた理由は全部、それだけだったのか」
「え、うん」
「そうか……」
突然大和は両手で自分の顔を覆うと、大きくため息を吐いた。
「好きだ」
顔を上げた彼は、唐突にそう言った。
奈々は一瞬その言葉の意味が呑み込めなかったが、しかし彼女が理解を終える前に大和は更に言葉を重ねる。
「……ずっと、好きだった。お前の善意を都合のいいように受け取って、他のやつらが桐原が俺のことばっかり見てるって囃し立てたのを勝手に勘違いして……全部、思い上がってただけなんだな」
「……あの、霧野君」
「悪い、困らせて」
奈々は目を白黒させて黙り込む。昼間の友人ではないが、まさかそんな風に思われていたとは欠片も思っていなかった。
そして奈々も大和のことをそういう目で見たことは一切ない。吸血鬼だと知る前はただの病弱なクラスメイトとして、そして吸血鬼だと知った後は危なっかしい彼をフォローしようと妙な使命感に駆られていた。見た目がひ弱そうなのもあるだろう、むしろ守ってあげないとという庇護欲を感じていたと言ってもいい。
「今のことは忘れてくれ……と言いたいが」
大和は痛々しそうに私の首にあるガーゼを見つめる。
「そんな怪我をさせたんじゃ、忘れられる訳ないよな。……本当にごめん、謝っても許されることじゃないが、本当に」
「だ、大丈夫だって! 私も一応吸血鬼だからすぐに治ると思うし」
「だが」
「ほら、お腹空いて死にそうだったんだから不可抗力だって。うちの弟も血が足りなくなったことあったし」
そう何度も言葉を重ねるものの、大和は一向に沈んだ表情を変えない。これは血をあげず見捨ててたら本当に後悔で死にそうだったな、と先ほどの自分の判断に感謝したい。
何か言わないと納得しなさそうだなとは思うものの、さてどうするか。
「……あ。じゃあご飯、奢って」
「は……?」
「血……霧野君にとってのご飯を分けてあげたんだから、その代わりに私に何か奢ってよ。それでいいから」
「本気で、言ってるのか」
「勿論! ……あー何にしようかな。高いもの選んじゃおうかなあ」
奈々がわざと声を大きくして何にしようか、と考えるようにすると大和は困惑した表情のまま、「……好きなものを選べばいい」と妥協するように一応は納得した素振りを見せてくれた。
その日はそのまま家に帰ったのだが、一番大変だったのは首の怪我が家族に見つからないようにすることだった。
結局目敏い直哉が「それどうしたんだ」と問い詰めてきたので適当に誤魔化すことになった。……が、納得していないだろうなと奈々は疲れたように息を吐く。
そういえば告白されたんだっけ、と彼女が思い出したのは眠る直前だった。
次の日、どうにも告白されたことに意識を取られてなかなか眠れなかった奈々は、寝不足の体を叱咤して学校へと向かっていた。寝坊した所為か直哉と会わなかったのは幸いだ。あの様子だと朝から質問攻めにされていただろうから。
「……」
「……」
弟は回避したものの、一緒に授業を受けるクラスメイトまでは回避しきれない。
更に運が悪いことに先生からクラス委員の仕事を押し付けられてしまい、奈々は複雑な心境で目の前でプリントを纏める大和をこっそりと窺った。
放課後の教室で、二人である。
奈々の視線に気が付いたのか顔を上げた大和と思い切り目が合う。びっくりして慌てて目を逸らした奈々に対し、彼の視線は少し下がり首元へと向かっていく。
「……痛いか」
「え、ううん大丈夫! もうほとんど痛くないよ」
奈々は疑わしげに見る大和に笑顔で言葉を返した。実際の所、ほとんど痛くないどころかさっぱり痛くない。半吸血鬼だがこんなに怪我の治りは早かっただろうかと疑うくらいなんでもないのだ。
首なので彼女は自分で傷を見ることが出来ない。だからそんなに深い怪我ではなかったのかなと思いながらも、彼女はプリントに目を移した大和をもう一度――今度は気付かれないように慎重に見やる。
……怪我のことよりも奈々の頭の中を占めていたのは、告白の方だった。
今まではまったく大和のことを意識したことはなかったのに、いざ好きだなんて言われたら途端に二人きりでいるのに緊張するようになってしまった。
「桐原」
「……な、何?」
「……奢るの、決まったか?」
ぼうっとして手が止まっていたのを咎められるのかと思ったのだが違った。
そういえば血を分けたお詫びに何かを奢ってもらうんだったと彼女はその時思い出し、急いで頭を回転させた。彼がこれ以上罪悪感を持たないように安すぎない、しかし常識的な高さまで。難しいなと思いながら考え、奈々は一つ思いついた。
「学校の近くのカフェに隠しメニューがあってね、あれ一度でいいから食べてみたかったんだ」
「隠しメニュー?」
「大きいパフェなんだけど」
昨日血を取られた所為で貧血なのか、別の理由なのかは分からないがとにかく今はお腹が空いていた。前々から一度注文してみたいと思っていたパフェなのだが、金額もさることながら大きさから食べられる自信がなかったのだ。今日ならば食べられる、血を作らなければと思いそう提案すると、無言で頷かれる。
カフェはこのままクラス委員の仕事を終えてから向かうことになり、奈々は先ほどとは正反対にてきぱきと仕事を再開させた。
早々と仕事を終わらせ帰る準備を始める。奈々の頭の中は既にパフェのことしかなく、意気揚々と立ち上がって教室を出ようとした。
ところが、いざ立ち上がり一歩踏み出した瞬間に奈々の視界はぐるりと回転することになった。
「桐原!」
大和の焦った声が上の方から聞こえる。その時ようやく、奈々は自分が倒れていることに気が付いた。だが体に力を入れることが出来ず立ち上がることはできない。
何故、と思う前に急に彼女の体がおかしくなる。胸の奥が途端に苦しくなり、喉が干上がるような感覚がした。
「な、に、これ」
苦しい。昨日の痛みとは違う、体の内側から狂ってしまいそうな感じがする。大和に抱き起されてもろくに言葉を返せず目の焦点が合わない。
「桐原、どうしたんだ!」
「わか、らない。急に苦しくて……喉が、渇いて」
「……吸血、衝動か」
吸血衝動? そんなはずはない。奈々は生まれてから十七年間一度も血を口にしたことはないのだ。それで何の支障もなかったのに、何故。
「飲め」
そう言って大和が昨日の奈々のように手を差し出してくるが、奈々は無言で首を振った。
パックに詰められた血液ですら口にしたことはないし、匂いだけで気持ち悪くなるくらいだ。第一人の体に噛みつくなんて出来るはずもない。
しかしそう考えている間にも体はどんどん蝕まれ、狂ってしまいそうになる。
「……文句なら後で言え」
苦しむ奈々に痺れを切らしたように大和はそう言い、彼女に向けていた手を引っ込める。何をするつもりかと涙で潤んだ目で彼を見上げると、大和は戻した手を今度は自分の口元へ向けた。
「――え」
次の瞬間、彼は自分の手に噛みつき、そしてそのまま横に引いた。それこそ食いちぎるように自分の手を引き裂いたのだ。
驚愕に一瞬苦しみさえ忘れた。動きを止めた奈々に大和は構うことなくそのまま血塗れになった手を無理やり彼女の口に突っ込んだ。
「むが」
いきなり入っていた手に思わず反射的に歯を立ててしまうと更に押し出すように血が溢れ、そしてどんどん口の中へ流れ込んでくる。
気持ち悪いと思ったのはほんの一瞬だった。一度喉を通ってしまうと途端に血が沸騰するように熱くなり、もっと欲しいと体が欲しているのが分かる。気が付けば奈々は大和の手を掴み自ら血を啜っていた。
「……はあ」
ようやく落ち着いて手を放す。奈々は無意識に口を拭い、そしてその手が真っ赤に染まっているのを見て思わず悲鳴を上げた。
「落ち着け」
パニックになりかけた奈々の手にハンカチを押し付けながら、大和は酷く冷静だった。
彼に謝りながらハンカチを受け取ったものの、しかし自分よりも大和の方が余程ハンカチを必要としていることに今更気が付いた。
「霧野君、手を……」
「大丈夫だ、もう血も止まってる」
ほら、と手を見せられると確かに既に出血は収まり、そればかりか少しずつ傷がふさがり始めているではないか。
大和は再度奈々にハンカチを渡そうとして、しかしそのまま自分で彼女の手や口に付いた血を拭った。
「き、霧野君!?」
「とりあえず水で洗った方がいいな。……もう立てるか?」
子供のように口を拭われたのに驚いていると手を引かれて立たされた。先ほどのように力が入らないこともない。むしろ体は充足感に満たされており、今なら何でもできそうな気さえした。
他の生徒がいないのを確認して二人は教室を出ると、素早くトイレで手や口元を洗った。そうしていれば心はどんどん冷静になり、疑問が湧き上がって来る。
「……どうして、急に血が欲しくなったんだろう」
大和に聞けば何か分かるだろうかと彼に合流した奈々は頭に巡る疑問を投げかけた。
「今まで、一度も血を飲んだことはなかったのか?」
「うん、私は半吸血鬼って言ってもほとんど人間と変わらなかったから」
「……悪い、ちょっと見せてくれ」
眉を顰めた大和は一言断ると奈々の首にあるガーゼを剥がす。傷はまだ残っているものの完全に塞がっており、それを見た大和は不思議そうに眼を細めた。
「昨日の傷が殆ど治ってる。いつも、こんなに早いのか?」
「え? ううん、いつもはもっと時間掛かるよ」
前に転んで擦りむいた時は早かったがそれでも完全に傷がなくなるまで三日は掛かった。
奈々がそう言うと大和は苦虫を噛み潰したように表情を歪め、彼女の両肩を掴む。
「……俺の、所為だ」
「どういうこと?」
「人間が吸血鬼になるのは、どういう時だか分かるな」
「そりゃあたくさん血を飲まれた時で……あ」
「そういう、ことだ」
俺の所為で桐原は吸血鬼の血が濃くなったんだ、と大和はうなだれるように言った。
だから怪我の治りも早くなった。そして……血が、必要になった。
「今度こそ、ごめんじゃ済まないことをした。これからずっと、血を飲んで生きていかなければならない体にした」
「……うん」
奈々は困ったように頷いた。正直、これからずっとと言われてもいまいち実感が湧かないのが本音である。元々が純粋な人間ではなかったということもあるだろう、母や弟と同じ存在になるだけだと思うだけなのである。
これだから弟に楽観的だと言われるのだ、と彼女自身も分かっているのだがどうしようもない。
「……桐原の家に行ってもいいか」
「家?」
「お前の家族にも、言わないと」
確かに昨日のこととは違い、吸血鬼に近づいたという事実は隠しておけるものではない。むしろ隠していれば奈々の命が危うくなる。彼女の分の血液も必要になってくるのだから。
どうしても譲らない様子の大和に折れ、奈々は彼を家まで連れていくことになった。
もう日は暮れていたので躊躇うことなく外に出て家まで向かう。隣を歩く大和は会話をする余裕もないようで話しかけてもろくに返答が来ない。
しかし、本当に吸血鬼に近づいたんだろうか。傷の治りは早くなったようだが、では日光は? にんにくは? 銀は? 分からないことだらけだ。
明日の朝、日の下に出たらどうなってしまうのかと考えていると、ふと進行方向に人影が見える。
「姉さん!」
それがすぐに弟だと分かったので、きっと視力も上がっているんだろうなと漠然と思った。
「直哉?」
「良かった、遅かったから何かあったんじゃないかと……誰だ」
直哉は奈々を見つけたことに表情を緩めたが、しかし即座にその隣にいる大和を胡乱げに見上げた。
「……桐原の、弟か?」
「そうだけど、お前なんだよ」
「ちょ、霧野君待って!」
奈々が制止するがもう遅い。大和は直哉が彼女の家族だと認識するとすぐに謝罪を言い、事情を話し始めてしまった。
やばいと思った。直哉は短気であるし、奈々に対してはかなり過保護だ。そんな彼が事情を聞いて冷静でいられるはずもない。途中で口を出して割り込むのだが「姉さんは黙って」とぴしゃりと言われてしまった。
「……ふざけんなよっ!」
案の定全てを聞き終えた直哉は怒りの勢いをそのままに大和に殴りかかってしまう。思い切り顔を殴り付け、後ろに倒れた大和に乗り上がって更に殴り続けた。
「直哉、止めて!」
「うるさい! こいつが、姉さんを!」
「桐原、止めなくて、いい」
殴られながらも大和は途切れ途切れにそう言い、一切の抵抗もしないまま直哉に殴られている。彼も吸血鬼なので回復は早いものの、それでも同じ吸血鬼である直哉に全力で殴られて平気なはずではない。普通の人間なら一発目で死んでいるかもしれないのだ。
巻き込まれるだけでも大怪我必至だが、どんどんぼろぼろになっていく大和を見て、そして彼を殺しかねない弟を見て奈々はとうとう恐れを投げ捨てて直哉に飛び掛かった。
「いい加減に、しろ!」
今度は奈々が思い切り直哉の頬に平手を食らわせた。後ろに吹っ飛んだ弟の前に立ち、彼女は大声で叫ぶ。
「死んじゃったらどうするの! あんた自分の力くらい分かってるでしょうが!」
「桐原」
「霧野君ごめんちょっと待って、すぐ謝らせるから――」
「いや、そうじゃなくて……」
起き上がった大和は奈々の元へ向かうと、ちらりと直哉に目を落とした。
「……気絶してる」
「え?」
自分の力を分かっていなかったのは奈々の方だった。
白目を剥いて気絶した弟を家まで運び、彼が起きるまで両親に事情を説明することとなった。
「……という訳で、娘さんには本当に申し訳ないことを」
「よくもうちの娘を」
「はいはい、お父さんはちょっと黙ってて」
怒鳴りかけた父親をまるで荷物のようにどけて黙らせてた母親は、一息吐いた後「奈々、あんたは納得してるのね?」と言葉を投げかけた。
「うん」
「ならいい。私たちがどうこう言うことじゃないわ」
「しかし母さん……」
「奈々はこの男の子の命を救ったのよ。……死にそうになっている人を無視するのが正解なんていうなら、私は今ここにいないわ」
そうでしょ? とにっこり笑って言った母親に父親は愕然として黙る他なかった。
そして、もう一人同じように愕然としている男がいる。
「姉さん……」
「直哉!」
弟が目を覚ましたのに気付いた奈々はすぐさま彼の傍に近づく。気絶する前とは違いどこか遠い目をする直哉は体を起こして姉を見上げた。
「ごめん強く叩きすぎて……でも、もう直哉も怒らないでほしいの。私が自分からやったことだから」
「……もういいよ。それに、姉さんが守らなくてもいいくらい強くなったのが分かったから」
やけに脱力しながらそう言われる。どうやら守らなければと意気込んでいたのに、奈々が自分よりも力を付けてしまったことに心が折れているらしい。
大和の血は随分濃かったようで、直哉やもしかしたら母よりも吸血鬼に近くなっているかもしれない。
直哉の様子が気になったのか大和が彼の傍までやって来ると、直哉はそれでもぎろりと大和を睨みつけた。
「……おい」
「何だ?」
「いきなり殴って、悪かった。……それと、姉さんを頼む」
「……ああ」
謝ったかと思えば一体何を頼んでいるのだろうかと奈々は首を傾げる。そして大和は何故頷いているのだろうと。
その答えは――実際に彼らの考えがそこまで至っていたのかは不明だが――後日判明した。
べきり。
「あ」
学校でのテスト勉強中、奈々はなかなか解けない問題に苛立つあまり手に力を込め、その結果シャーペンを折ってしまった。
日光もにんにくも、以前と比較すれば辛いが然程問題がなかった奈々が最も苦労するはめになったのは、力加減だった。落ち着いている分には特に問題なく過ごせるのだが、今のようにちょっと苛立ったり焦ったりするとすぐにリミッターが外れてしまう。
「桐原、大丈夫か?」
そんな時にサポートしてくれるようになったのが大和である。自分も同じような経験を何度も繰り返しているので、まるで以前の奈々のように――いや、それ以上に甲斐甲斐しくフォローしてくれている。
「そんなに世話焼かなくても大丈夫だよ」
「俺がしたいんだ」
「……責任感じなくてもいいのに」
「それだけじゃない。……個人的な問題だ」
少し前とは立場が完全に逆転している。自然と一緒にいることが増え、茶化していた友人にも「あれ、付き合い始めたんじゃないの?」とごく当然のように言われ、閉口した。
確かに随分助かっているし、吸血鬼であることを知っている彼と一緒にいるのは気が休まる。……が、付き合ってもいないしまだ好きになんてなっていない。まだ?
「どうした」
「……何でもない」
目の前の席に腰を下ろした大和と目が合いそうになり、奈々は慌てて顔を背ける。
……気になってなんか、ないから。
※2015年10月6日の活動報告に大和視点の話、掲載しています。