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作者:深月咲楽
「ちょっと待ってよ」

 背中にかけられた声に振り返る。

「まったくもう。陽ちゃんったら、さっさと先に行っちゃうんだから」

「ごめん、ごめん。足元に気を付けて来いよ」

 文句を言う夕子に微笑みかけると、俺は素直に謝った。

「ホントにもう」

 夕子の愚痴は続く。

「山道を上るなら上るって、あらかじめ言っておいてよ。滝を見に行くとしか聞いてなかったから、サンダルで来ちゃったじゃない。いつ転げるかって、怖くてしょうがないわ」

「気を付けていれば大丈夫だよ。この間来た時は、小さな子供もちゃんと上ってたんだから」

 ここからもう5分ほど山道を行くと、驚くほど綺麗な滝がある。

 友人の栄次に教えられて上ってみたのは先週の土曜日。その話を恋人の夕子にしたところ、自分も見たいと言い出したのだ。

『栄次君のお薦めなら間違いなさそうだし。彼、あちこち旅して回ってるって言うじゃない?』

 彼女は、目を輝かせて微笑んだ。

 夕子が追い付くのを確認して、再び歩き出した。後ろからは、延々と彼女の泣き言が聞こえて来る。

「あー、もう疲れちゃった。あたし、行くの止める」

 これまでで一番細い山道に出た時、夕子がついに音を上げた。

「何言ってるんだよ。ほら、もう滝の音が聞こえて来てるだろ?」

 再び振り返り、前方を指差して言う。

「たしかに、聞こえてはいるけど……。足が痛くて我慢できないわ」

「でも、もう少しだぜ。せっかく来たんだから、頑張れよ」

 俺は笑顔で声をかけた。しかし、彼女は肩をそびやかすだけで、歩を進めようとはしない。

「まったく、しょうがないなあ」

 彼女の我侭には慣れている。俺は来た道を引き返し、彼女の隣に立った。

「ほんとは、帰り道で教えてあげようと思ってたんだけど……。崖の下、ちょっと覗いてみろよ」

「崖の下? イヤよ。怖いもん」

「すっげえ綺麗な花が咲いてるんだよ。気に入ってくれると思うんだけどなあ」

 俺が残念そうな顔をすると、彼女は小さく溜息を付いた。

「どの辺?」

「ちょうど……この辺かな? この間、滝の方まで上って振り返ったら、見えたんだ。たしか、曲がりくねった木のある辺りだったから、うん、この辺だ」

「そう」

 夕子は学生時代に花屋でバイトをしていただけあって、植物にはかなり詳しい。渋々といった体を装いながらも、実は興味津々のようだ。

「立ったままで覗き込んだら危ないから、しゃがんで見た方がいいぜ」

「わかった」

 ひざまずく夕子を横目で見ながら、俺はさっと周りを見回した。栄次の話どおりだ。周りには誰もいない。

『彼女と2人きりになりたかったらさ、平日に行った方がいいぜ。名所だって言うのに、まったく人がいないからな。土産物屋だって、しょぼい無人のが一軒あるだけだし』

 勤めていた自動車修理工場が潰れ、目下失業中の栄次は、そう言って笑った。

 幸い、今日は創立記念日で会社は休み。平日の真っ昼間であるにもかかわらず、夕子と共に、こうしてここに来られたというわけだ。

「気を付けろよ」

 そう言いながら、俺は彼女の背中にそっと手を乗せた。少し力を入れれば、彼女は間違いなく転落するだろう。

「やっぱり怖いわ」

 突然、夕子が振り返った。

「滝まで行けば見えるのよね。やっぱりそこから見てみることにするわ」

「そうか」

 手を引っ込めると、俺はぎこちなく微笑んだ。

 山道はまだ続く。チャンスはあるはずだ。

 立ち上がる夕子を見ながら、小さく深呼吸する。

「行こうか」

「うん」

 座り込んだことでひと休みできたのだろう、彼女は素直に立ち上がった。

「うわあ、素敵な滝ねえ」

「ああ。そうだろ?」

 陽の光を受けてきらきらと輝く滝を見上げ、夕子が歓声を上げた。

「虹まで出てるわ」

「本当だな」

「見事ねえ」

 この世での見納めだ。ゆっくり見ておけよ。

 嬉しそうな彼女の横顔に、俺はそっとつぶやいた。

 お前の浮気に気付かないとでも思っているのか。俺に散々貢がせておいて、その我侭で振り回しておいて、自分はどこかの誰かさんとお楽しみかよ。ふざけるな。

 俺を裏切りさえしなければ、もう少し長生きできただろうにな。本当に馬鹿な女だ。

「ねえ、もう少し向こうまで行ってみましょうよ」

 はしゃぐ夕子の姿に、俺はそっと微笑んだ。

 この辺りの岩は、水に濡れて滑り易くなっている。ここで自ら転んでくれれば、手間はかからないのだが。

 と、その時だった。

「今、人が落ちたみたい」

 夕子が、俺の後ろの方を指差して言った。

「悲鳴、陽ちゃんにも聞こえたでしょ?」

 夕子が青い顔でこちらを見る。

「いや、俺には何も……」

 彼女の足元に集中していたせいだろうか。全く気付かなかった。

「ねえ、行ってみましょうよ。ちょうど、さっき私が覗き込んだ辺りだわ」

「あ、ああ、そうだな」

 予定外の出来事に戸惑いながらも、俺は頷いた。

 崖下を覗き込むが、人影は見えない。

「誰もいないみたいだぜ」

 俺は、隣で並んでしゃがみ込んでいる夕子に話しかけた。

「おかしいわねえ。たしかにこの辺りだったんだけど」

「見間違えじゃないのか?」

 俺は立ち上がり、膝についた土を払った。

「変だなあ」

 夕子は尚も崖下を気にしている。俺は再び、彼女の背中に手を乗せようとした。

「ねえ、救急車、呼んだ方がいいんじゃないかな」

 夕子が振り返る。

「救急車って……。ホントに落ちたかどうかもわからないのに? 第一、俺には悲鳴だって聞こえなかったんだぜ」

 俺は手を離しながら答えた。

「じゃあ何? あたしが嘘を付いてるとでも言うの?」

 彼女が気色ばんで立ち上がる。

「いや、そう言うわけじゃないけどさ」

 夕子が納得しそうな言葉を必死で探す。

「第一、こんな山ん中じゃ、携帯の電波も届かないだろう?」

 適当に思い付いたことを口にした。

「ほんとね。アンテナ、立ってないわ」

 夕子は、携帯を手に眉間に皺を寄せる。当てずっぽうで言っただけなのに、正解だったようだ。

「じゃあ、急いで駐車場まで下りましょう。あそこなら電波が入るかも」

「え? でも、たった今、来たばっかりだぜ。滝だって、ろくに見てないじゃないか」

 山を下れば、もうチャンスは無くなる。俺は慌てて引き止めた。

「誰かが死んじゃうかもしれないのよ。陽ちゃん、放っておけるの?」

「いや、まあ、そりゃそうだけど……」

「ほら、行くわよ」

 夕子は俺の手を握ると、山道を歩き始めた。

 駐車場に着く。

「ダメね。ここでも携帯、入らないわ」

「そうか。それなら、もっと下まで降りるしかないな」

 がっかりする気持ちを押さえ込み、俺はリモコンキーを押した。

 夕子はまだ、携帯とにらめっこしている。

「さあ、行くぞ」

 彼女の肩に手をかけたその時、駐車場の隅に停まっている黒い車に気付いた。

「俺達の他にも、滝を見に来てるやつがいるのかな? それとも、落ちたヤツのだろうか」

 俺がその車に向かって歩き出そうとした時、夕子が俺の前に立ちふさがった。

「あの車なら、来た時にもあったわよ。誰ともすれ違ってないんだから、その人のものじゃないでしょう?」

「そうだったかな」

 ここに来た時のことを必死で思い出す。

「いや、あんな車、なかったぜ」

「そんなことないって。あたし、覚えてるもん」

 緊張していて、目に入らなかっただけだろうか。他の人間がいないかどうか、かなり神経を使って確認したつもりだったのだが。

 それに、あの車、どこかで見たことが……。

「もう、そんなのどうでもいいじゃない」

 夕子が怒ったような口調で言う。

「わかったよ」

 俺は肩をすくめると、車まで歩いて行った。しかし、肝心の夕子はその場を動こうとしない。

「何やってるんだよ。早く乗れよ」

 俺の言葉に、彼女は首を横に振った。

「あたし、やっぱり、一刻も早く通報した方がいいと思う」

「でも、携帯は使えないんだろ?」

 いつものことながら、言っていることがメチャクチャだ。俺は、車のドアを開けながら苦笑した。

「あのね、さっき、ふと思い付いたんだけど」

 夕子は、俺の顔を見た。

「あそこにあるお土産物屋さん、無人だって言ったって、電話くらいはあるはずよね? あたし、かけてくるわ」

「え?」

「陽ちゃんはさあ、どこか地元の人に連絡してよ。もし、電話がなかったらいけないし……。たしか、来る途中に民宿みたいなのがあったわよね?」

「ああ、でも……」

「連絡し終わったら、あたしを迎えにここまで戻って来て。頼んだわよ」

 夕子はそう言い残すと、土産物屋へと走って行った。

「おいおい、いい加減にしてくれよ」

 ホントに、自分のペースでしか動かないやつだ。今までどれだけ、この自分勝手に振り回されたことか。

 それにしても、厄介なことになってしまった。やっぱり、今日は諦めるしかなさそうだ。

 そんなことを思いながら、俺はシートに腰を下ろした。

 車の調子がおかしいことに気付いたのは、車道に出てからだった。

 ブレーキの利きが悪いのだ。いや、全く利かないと言ってもいい。道は下り坂。スピードはぐんぐん上がる。

「何でだ、何でだよ」

 先週、点検に出したばっかりだ。故障するはずがない。

 ブレーキを必死で踏み込むが、車は加速する一方だ。ハンドルを左右に大きく回しながら、何とか転落を避け続ける。ひとつ、ふたつ、カーブをかわし切った。

 ほっと力を抜いたのも束の間、目の前に大きな木が飛び込んで来た。

 スローモーションで景色が流れる。その直後、すごい衝撃が全身に走った。痛いのか熱いのか、苦痛の中で視界がぼやけている。手も足も動かない。

「畜生、あそこで人さえ落ちなければ、こんなことには……」

 平日の昼間。通行車は望めそうにない。

 無人の滝で、死ぬのは夕子のはずだったのに。

 その時、胸のポケットに入れていた携帯が、振動を始めた。電波が届かないはずの携帯が、メロディーを奏でる。

「そうか、そういうことか。なるほどな」

 知らされた真相に、全身が凍り付く。

 携帯が入らないという嘘。俺には聞こえなかった悲鳴。この車に乗らなかった事実。

 ――夕子。お前も俺を……。

 そして、あの見覚えのある黒い車。

「夕子の浮気相手は……。このブレーキだって……」

 ――お前だったんだな。……栄次。

 目の前で炎が上がる。

 絶望感だけが、俺を包み込んでいた。


 <了>

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