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時の軌跡 ~アヴァロニア大陸回生記~ 作者:タチバナ ナツメ

第一章 守護騎士篇

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第二十二話 護りたいもの、護るべきもの

 果たしてここは、地獄とどこが違うというのだろう――
 仰ぎ見た空を、でたらめに長大な上っ張りがすっぽりと覆い尽くしている。広い天蓋を形作っているものは、うねうねと絡み合う痩せこけた枝々だ。その異様極まりない姿かたちは、人の内に(くま)なく張り巡らされた脈絡を彷彿とさせる。
 一方、地表を見渡せば、瘤だらけの樹皮をぶら下げた枯茶の樹々が、朽ちた半身を汚泥の海にうずめ、亡霊のごとく胡乱げに佇む様がどこまでも広がっていた。
 ラナの眼前には、生命の温もりを残らず失った世界が横たわっていた。枯れ果てた森のすべてに、腐臭と瘴気がべっとりと蔓延(はびこ)っている――。


 闇夜の中においても、白昼と同じく周囲の景色をはっきりと掴むことが出来るのは、両眼に施した黒魔術――“暗視(ナイト・ヴィジョン)”の術式が功を奏しているせいに他ならない。
 一人前と言うには程遠い技量ではあるものの、実を言えばラナは、黒魔術への適性も持ち合わせていたりする――というよりラナには白魔術よりも得手と言って良く、むしろ黒魔術の方が、回りくどい思議もなくあっさり使いこなせてしまえるような、程良い肌心地を感じていたりした。
 けれどもラナは、その微かな資質に塵ほどの価値すらも見出してはいなかった。何故ならラナには、天から与えられた力を投げ打ってでも、白魔術の体得を諦められない“理由”があったからである。それには、常々ラナの傍らにあった、一人の女騎士の存在が深く関わっていた。
 鮮やかな紅の鎧をまとい、聖なる魔術の鉄槌でもって、優雅に敵を打ち砕く。“紅玉の騎士(ルビー・ナイト)”の二つ名で呼ばれたその女騎士は、ラナの絶対的英雄であった。是が非でもラナは、幼い日から崇拝にも似た憧れを抱き続けてきたその女騎士に()()()()と、本気で考えていたのである。
 彼女の名はシャルテ――図らずも、いがみ合いの続く小煩い兄と、将来を誓い合った“婚約者”その人であった。
 シャルテは唱歌(アリア)の名手でもあり、透くような美声で紡がれる魔術詠唱は、魔力を乗せずともその声をして、すべての兵の心を魅了すると言われていた。《審判》以前の北方との戦いにおいては、行軍中の敵兵までもがはたとその足を止め、彼女の聖なる詠唱に深々と聞き入る様が見られたのだという。
 乱世に舞い降りた、真紅の戦乙女――それがラナの憧れてやまない紅玉の騎士シャルテである。世が世なら、彼女はきっと騎士としてではなく、都の歌劇場に大輪の花を咲かせる詠い手として望まれたに違いない。それはラナだけにとどまらず、都の民の誰もが一度は抱いた空想であった。
 そんなシャルテは騎士としても、女としても、ラナの人生における最大の目標だ。自らが騎士となり、憧れの彼女のように立ち回るためには、彼女の力の代名詞とも言える白魔術の体得を、避けて通るわけにはいかなかったのである。
 ゆえにラナは、紅玉の騎士の辿った輝かしい軌跡とは縁もゆかりもない、黒魔術への適性などというものに、塵ほどの価値さえ見出してはいなかった――それなのに。
 シャルテ本人はもちろんのこと、友人や家族にさえ打ち明けたことがなかったその秘密に、たった一人、目ざとく勘付く者が現れたのだ。それはラナの不倶戴天の敵――幼馴染みのエスターであった。
 すべての発端となった忌々しい“事件”が起きたのは、《審判》の日の数ヶ月ほど後――つまり、ごく最近のことである。
『せっかくの適性を死なせておく手はないだろ、ラナ? 薄氷みたいな可能性に醜く縋り続けるのは、もう止したほうがいい』
“虫唾が走る”――この言葉の真の意味を理解したのは、間違いなくあの台詞を聞かされた瞬間のことだと確信していた。
 秘密を暴いた直後のあいつの顔ときたら――他にたとえる術の思い付かないほど、不愉快極まりないニヤけ顔を浮かべていたのだ。まさにそれは、人生最大の屈辱であった。
 魔術士の名門エルンスト家始まって以来の天才と謳われた兄にさえ見抜けなかったその資質を、よりにもよって、何故あんな男に暴かれてしまったのか――それは未だに謎でしかない。確かに嫌味男の抱く類いまれなる才能は、兄どころか王国中の騎士たちの認める所ではあるのだけれど。
 でも、だからって! よりにもよって、なんであいつなのよ!
 それから後は、我慢に我慢を重ねる日々が続いた。顔を合わせるたびいつも、あいつは毒と棘を散りばめたような嫌味ったらしい言い回しで、黒魔術の何たるかをくどくどと説いて寄越すのだ。それは、今朝の試験開始直前――他の守護騎士候補者たちと広間へ集まる直前まで続けられていた。
 どれだけラナが「聞きたくない」と拒んでも、「レヴィンにこのことを話してもいいのか」と切り返されてしまえば、もはや打つ手はなくなる。頑固の塊のような兄がこの事実を知れば、きっと兄はあいつ以上に、落ちこぼれの妹に眠る微かな適性を揺り起こそうと、全力で騒ぎ立てることだろう。そうすれば、彼の連れ合いであるシャルテの耳に触れるのも時間の問題となるわけだ――それだけは、何としても避けねばならない。
 まったく、このあたしが一体あいつに何をしたってのよ――そこまでして、見下す相手が欲しいわけ? ほんと悪趣味もいいとこだわ。信じられない!

 しかしながら、皮肉な巡り合わせというのはあるものだ。
 白魔術士を志す自分が、黒魔術――それも、不倶戴天の敵から()()()()()()()術の恩恵にあずかる日が、まさか本当に訪れようとは。
「だけど実際この術がなかったら、きっとろくに歩き回ることさえ出来なかったはずなのよね――」
 思わず、掠れた独言と深い溜息が漏れる。
 不本意ながら、あいつの棘だらけの講義が役に立つこともあるのだと、認めざるを得ない状況であった。
 だからと言って、あいつに感謝などしてやる義理はないはずだ。たとえどんな理由があったにせよ、戦う前から逃げ出した人間のことなど、絶対に――!
 そんな風に次々と湧いて出てくる苛立ちさえも、今や暗い森をひとり突き進むラナにとっては、かけがえのない原動力となっていた。
 と言うよりも、そうやって頭の中を何かでいっぱいに満たしていなければ、果てなく広がるこの枯れ森の恐ろしさに、呑みこまれてしまいそうな気がしていたのだ。
 生まれて初めての孤軍奮闘は始まったばかりだというのに、傍らに頼る仲間のいない環境は、想像以上に堪えていた。
 せめて話し相手くらい居てくれれば、気も紛れそうなものなのに――今となってはもはや、あの幼馴染みの嫌味ったらしい台詞でさえ、恋しく思えてきている。
「ダメダメ、出だしからこんなにも弱気になるなんて」
 闇に沈んだ樹海は、汚泥の放つカビ臭さと、まとわりつくような湿っぽさに覆い尽くされている。過度の刺激を受け続け、すっかり馬鹿になった鼻を気休め程度にごしごしと擦って、ラナは雑念を払おうとかぶりを振った。

 元々《審判》の以前から、都の外側の世界を知ることなく育ってきたラナには、この場所が、天蓋の接ぎ目から垣間見えた“天空樹”の膝元であるということ以外、何ひとつとして掴めてはいなかった。
 仲間の姿を求め、樹々の海を当て所もなく歩き回るうち、「どうせ分からないなら、樹海のどこに居たって変わりはしない」と、腹を括れるくらいには時が過ぎていた。幸いにも、未だ異形には出くわしていない。これほど重く瘴気の立ち込める環境ならば、どこかに強力な個体が潜んでいてもおかしくはないはずだが――
「誰……?」
 不意に、視界の端を見慣れない影が(よぎ)ったような気がして、ラナはふと足を止めていた。外套代わりに肩から羽織っていた帯の結び目をぎゅっと握り締め、じっと辺りを探る。
 取り立てて怪しいところはなかった。気を張りすぎていたせいで勘違いしたのか、それとも単に、無害な生き物が通り過ぎただけだったのか――
 こんなことを何度となく繰り返しながら、もう随分と長い間歩き続けている。そして同じだけ、いつまでこんなことを続ければ良いのかと途方に暮れながら、再び歩き出していた。
 大丈夫。諦めなければ、絶対にみんなと合流出来るはず。
 その度に、根拠のない確信を何度も自身に言い聞かせながら、ラナはまた胸元の結び目をぎゅっと握り締め、不快なカビ臭さを僅かでも凌ごうと口元を覆った。

*****

「まさか、試験会場が“ここ”だったなんてな。昼間見てた夢の続きなんじゃねえかって、一瞬面食らったぜ」
 (まぶた)に馴染んだ作業場で、土埃にまみれた工具とともに白木の彫像を拾い上げたヴァイスは、小さく息を吐き散らし、独りごちる。湿風(しめかぜ)の吹き抜ける音が響くこの場所は、懐かしい古巣の一部であった。
 人の姿だけが霧のように掻き消えた村を粛々と歩きながら、集落中央の小高い丘を目指す。あそこには古びた教会があるはずだ。この未完の彫像を安置するに相応しい、集落でただ一つの霊廟が。
 脇に抱えた彫像は彫り掛けもいいところで、完成図など少しも思い出せないくらい大まかにしか手を付けられていない。しかしながら、顔のあたりだけが妙にくっきりと彫り進められているおかげで、それが“女神”を象るつもりのものであったことだけはどうにか思い出せた。
 この国で“女神”と称される存在といえば、魂の管理者として大陸中で広く崇められている“光の女神アンヘル”を指すのが一般的だ――というより、元々大して信仰深くもなかった自分は、件の女神以外の存在をよく知らない。
“細部に手を付けるのは終盤に差し掛かってから”という彫り物のセオリーを放り出してまで、当時の自分は、何を思いながらこの笑顔を彫っていたのだろうか。いくら頭を捻っても、あの時のことはほとんど思い出せない。
 平凡でも確かに満たされていたあの幸せな日々を、何ゆえもっと鮮明に焼き付けておかなかったのか。今更ながらにそんな後悔ばかりが募っている。
「随分帰りが遅くなっちまったな……初めは買い出しがてら、ほんのちょっと羽根を伸ばす程度にしか考えてなかったってのに」
 世界が災厄に見舞われた後の二年間は、集落での日常とは何もかもがかけ離れすぎていて、時折ひどく現実感を得られなくなることがあった。ふとした瞬間に、“過去の出来事”と認識していた記憶の全てが、夢まぼろしであったかのような――またそれとは逆に、自身がたった今生き、立っているその場所が一体何処なのか、唐突に分からなくなるような思いがよぎるのである。
 しかし、懐かしい生家を見つけた途端、ヴァイスの脳裏には朧げになりかけていたあの日の光景がはっきりと蘇っていた。
 憂い顔の母と妹を残し、「いってきます」といつものように村を出た、二年前のあの日。時が止まったかのようなかつての故郷を目の当たりにし、ようやっとヴァイスは自身の記憶が虚構などでなかったこと、いま自分がここに生きていることを実感したのであった。
「ただいま。親父、お袋、爺ちゃん。それから――リディアも」

「そもそも昔は、“瘴気”なんて仰々しい呼び名はなかったんだよな……俺なんか不勉強だから、天空樹を覆ってるあの神聖な気配と一緒くたに考えてたし。取り込みすぎるとよくないもの、くらいの認識でさ」
 無論、話し相手などいるはずもないことは分かっている。それでも、重くはびこる孤独の気配を吹き飛ばしてしまいたくて、ヴァイスはわざとらしい身振り手振りで大袈裟に語ってみせていた。
《審判》の以前から、天空樹のある中央部を除き、この樹海には瘴気の発生する場所が数多く在ったのだが、生まれた頃から微量の瘴気を吸い続けて育ってきたためか、どうやらヴァイスは、瘴気の悪影響をほとんど受けない体質になっていたらしい。奇しくもそれは災厄ののち、瘴気によって次々と人が病に倒れ伏してゆく様を見ることで、初めて露呈した。ヴァイスの場合、王都周辺の瘴気程度ならば、不快を感じることすらないのである。
「そういや昔、村祭りの夜が来ると、子供ばっかを掻き集めて、天空樹の根元にある《神さまの村》へお祈りに行かせるって謎の行事があったんだよな。(けが)れた人間が天空樹の吐き出す息に触れると、女神様に連れていかれちまうって教えがあったのに、なんて悪趣味な度胸試しなんだと思ってたけど……子供しか参加させねえのには、それなりに意味があったってことか」
 小さな子供ばかりが参列者となり、樹海の最奥を目指して夜通し練り歩くその奇妙な風習は、挫けぬ精神を育むための通過儀礼――と言うより、単に瘴気に耐性のついた大人の身では、あの神樹に近づくことが出来ないためだったのではなかろうか。瘴気に慣れることを“穢れを帯びること”だとするならば、それは体質が変化する前の子供にしか出来ない所行だったというわけである。
「そうだ、あの村は今どうなってんだろ……天空樹の側にあるなら、もしかしたらここよりマシな状態なんじゃねえのかな」
 ひたすらに独言を零しながら、ヴァイスはかつての《神の村》の風景を思い起こそうとする。だがいくら記憶を掻き分けても、苦行を分かち合った仲間の顔ぶれすら思い出すことが出来ない――足取りも覚束ぬほど幼かったことを思えば、無理もないのかもしれないが。
 待てよ。そんな子供の時分に、どうやったらあんな遠い所へ辿り着けるってんだ?
 そういえば、誰か参列者を先導する人間がいたような――見上げるほど上背のあったその人物は、子供ではなく大人であったような。
 思わず立ち止まって考え込んでいたが、ようやく何かが降ってきそうな気配がしたところで、指先に鋭い痛みが走るのを感じ、ヴァイスは傍らへ視線を奪われていた。
「痛ぇ――何だよ、こんな時に」
 よくよく見てみると、抱え持った掘りかけの彫像の一部分が妙にささくれ立っており、小さな棘となってヴァイスの指先を突き刺しているようだと分かる。
「余計なことを考えてる暇はねえって? はいはい、分かりましたよ女神様」
 雑っぽく引っこ抜いた棘を溜息とともに吹き飛ばし、ヴァイスはぼりぼりと頭を掻いて再び前方を見つめた。
 兎にも角にも、災厄によって住み慣れた土地を失い、文字通り路頭に迷う羽目になった自分を拾いあげてくれた女騎士レベッカの目の付け所は、この特異体質にあったようだ。未開の荒野を探索する役目を担った彼女の部隊には、打って付けの人材というわけである。
「ま、そうは言っても、半分くれえは同情や励ましの意味もあったかもしんねえけどな。ああ見えて優しいから、あの人は」
 レベッカの勇壮な、けれどもどこか幼さの残る笑顔を思い出した途端、胸の疼きとともに、これまでどうにか押し殺してきた心許ない思いが急激にぶり返して来るのを感じた。
 なんと矮小なのだろう――結局のところ自分は、村祭りのあの夜と同じに、底知れぬ闇の深さに怯えている。
「無事に還れっかな、俺……はは、また怖くなって来やがった。いい大人の言うこっちゃねえけど、怖くてたまんねえよ。ちくしょう」
 卑屈な笑いに口許を引きつらせながら、ヴァイスはもう一度歩き出すことにしていた。

「デューイさんがここを選んだのは偶然……だよな。俺がここの生まれだってことは、まだ誰にも話してねえんだ」
 かぶりを振って強引に、再び故郷の現状に想いを馳せる。最悪の事態はとうに予測していたつもりであったが、やはりまざまざと現実を突きつけられるのは辛かった。首飾りの力で転移させられた当初は、自身の置かれた状況をただただ咀嚼しようと努めるのみであったが、時が過ぎるごとに湧き出した悲しみや怒りが、少しずつ懐かしさを蝕んでゆく気配があった。それでもぎゅっと歯を食いしばり、芯から上がってくる震えを押しやったヴァイスは、道すがらの景色を次々と目に留めていった。
 今や完全な廃墟となった故郷であるが、四方を取り囲んでいた結界は《審判》以前からそのまま残っていたようだ。村の周囲には、大型の獣や悪霊の類から人々を守るため、村で唯一の魔術の使い手であった長老――ヴァイスの祖父の施した防御結界が張り巡らされていた。
「爺ちゃん、あんたの張った結界は凄えよ。“昔は王様の近衛騎士だった”って話、今ならホントかもって信じられる。ついさっきまで法螺話だと思い込んでた俺が馬鹿だったよ」
 けれど、異形をも退けた結界の内側には今、守られるべき人間だけがごっそりといなくなっている――これ以上の皮肉があるだろうか。祖父の無念を思うと、目元に込み上げる熱が抑えきれなくなってくる。
「こんなつもりじゃなかったよな……悔しいよな、爺ちゃん」
 何もかもが消し飛び、草ひとつ育たぬ荒野と化した他所とは違い、この樹海は《審判》の折、爆風と熱波の影響を驚くほど受けなかったようである。瘴気による土壌の汚染はもはや壊滅的と言っていいほど進んではいるものの、集落の建物のほとんどが以前の状態を保っている。それはまさに奇跡のような光景であったが、異様なまでの静けさに包まれた空き家の群れは、えも言われぬ不気味さをも醸し出していた。
「おっと……」
 唐突に吹き込んできた強風に煽られ、慌てて足を止める。
 刹那、骨身を揺るがすほどの衝撃とともに荘厳な鐘の音が響き、ヴァイスはようやっと目的の教会前へ辿り着いたことを悟っていた。何気なく顔を上げると、鈍色の空へ吸い込まれるように(そび)え立った教会の天辺で、巨大な鐘がゆらゆらと揺れているのが見えた。
「イサカル……? そこに居んのか?」
 不意にそこへ、懐かしい影が重なった。教会の煙突掃除を日課としていた、親友の姿である。
『ヴァイス、どうせ暇なんだろ? 後から沢の方へ釣りにでも行かねえか。妹のリディアも誘ってさ』
 煤だらけの顔からくっきりと白い八重歯を覗かせ、屈託無く笑う少年の面影が、瞬く間に闇夜へと溶け出し、消えてゆく。
 続けざま、厳めしい教会の扉からひょっこりと顔を出した牧師の姿が、その穏やかな笑顔と瓜二つの少年の姿が、日がな一日礼拝堂で祈りを捧げていた敬虔な老夫婦の姿が――かつての光溢れる世界にあった全てのものが、次々とヴァイスの眼前に現れては、泡沫(うたかた)のように消え去っていった。
「なんで――なんで誰もいねえんだよ、ちきしょう」
 唐突に、あの青さを忘れた広い広い空がずしりと両肩に落ちてきたような、激しい重圧感に襲われた。その圧力に押し潰されるがまま膝から崩折れたヴァイスは、絞り出すように呟くと、力の限り慟哭していた。

「ああ、駄目だな。こんなことじゃ、またリディアや爺ちゃんに雷落とされちまう」
 ひとしきり吼え尽くした後で、掠れきった自らの声を聞いたヴァイスは思わず自嘲していた。
 鼻っ柱をごしごしと荒っぽく拭い、取り落としかけた未完の像を再び抱え上げ、教会の厳めしい妻戸を見つめる。
 そして下っ腹に力を込め、両開きの扉をゆっくり押し開けると、ヴァイスは深く頷いていた。
「……よし、やっぱ考えてた通りだったな」
 礼拝堂の風景は、山のような埃に埋もれていることを除けば、災厄の以前から何も変わってはいない。ならば、高い天井に覆われたこの霊廟が、外と比べうんと清らかな空気で満たされている気がするのも、錯覚などではないと確信した。
 ここは元々、有事の際には村人たちの緊急避難場所として機能するよう設計されていた。教会の外壁は、炎熱を通さず、魔力による干渉や邪悪な力の侵食を撥ね付ける特殊な石材から作られている。
 つまりこの教会の中に立て籠れば、汚れた瘴気から身を守れるということだ。瘴気の入り込めぬ場所となれば、おそらく異形も易々とは近づけない。試練を乗り越えるための拠点とするにはもってこいの場所だということである。
 しかしながら、早々に安全地帯を見つけたとはいえ、一歩も動かずにじっと潜み続けるというのは性に合わない。
「あとは、他の奴らをどうやって探し出すかだよな……」
 無用に危険を冒すことは避けたいが、せめてこの集落の周辺だけでも、他の候補者たちを探し回ることができれば――
「ちょっとばかり力を貸してくれよ、女神様。みんなを無事探し出せたら、続きを彫ってやるからさ」
 積もりに積もった埃を丁寧に払いのけ、彫像をそっと祭壇へ寝かせたヴァイスは、苦々しく口端を持ち上げていた。
 いびつな白木の衣を纏った女神の像は、依然として、慈愛に満ちた微笑を(たた)え続けている――。
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