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時の軌跡 ~アヴァロニア大陸回生記~ 作者:タチバナ ナツメ

第一章 守護騎士篇

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第十九話 闇夜への嚆矢

「以上で報告は終わりだ。今回の報告を簡単にまとめた資料を用意しておいたから――」
 そう言って傍らへ差し出した手の平から、望んだ重みが伝わってくることはなかった。
 ひとしきりの沈黙と空虚を味わった後で、デューイはようやく思い出していた。
“彼女”は今、ここに居ない。

『クッキーを焼いておいたので、お腹が空いたら召し上がってください。でも、これだけではいけませんよ。きちんと食事もなさってください。考えごとをなさっているときのデューイ様は、お食事を摂られないまま平気で丸一日過ごされたりしますから』
 まるで、どちらが歳上なのかと問うてしまいたくなるような言い回しである。
 しかし、木漏れ日のように優しく幼気(いたいけ)な少女の言葉は、少しの(つか)えもなく、いつも心の真ん中にすとんと落ちてきてくれる。
 世界が災厄の炎に灼かれて間もない時期から、傍らでずっと秘書官のような役目を果たしてくれていたメリルの面影が、はっきりと今、デューイの脳裏を()ぎっていた。
 消えた面影は、ひとつではない。広い執務室の片隅――部屋全体を隈無く一望できる定位置から、常々デューイの後背を守り続けてくれていたフレドリックの姿も、今ではどこにも見当たらなくなっている。
 それを思って初めて、デューイは寡黙な“紅獅子”の与えてくれていた安堵の大きさを思い知らされていた。
 日常が、ことごとく消え失せている。
 今しがたまで当然のように繰り返されてきた、傍らの面影たちが言葉を交わし合う――とは言え、毎度メリルの方が一方的に語り掛けるばかりであったのだが――光景が、遠い昔の出来事のようにひどく懐かしく感じられた。
 深々と息を吐ききり、力なく背もたれに重みを預けると、馴染みの肘掛け椅子がいやいやとばかりに、いびつな軋りを漏らしていた。

 定例の報告会。重苦しくわだかまった静寂を散らすのに、これほど体の良い口実もなかったろう。
 馴染みの顔触れたちと言葉を交わせば、幾分その重圧が軽くなるとでも――? 何を馬鹿な。逃れて良いはずなどないというのに。
 次々と浮かんでは脳裏を過ぎってゆく、前途ある若者たちの希望に満ちた表情を思いながら、デューイはさめざめと自嘲する。そんな矢先のことであった。
「ぼんやりするな、資料はここだぞ」
 短い叱責と共に、卓上へ羊皮紙の束を投げてよこしたのは、執務机の前のソファに腰掛けていた守護騎士の一人――レヴィンであった。弓術で鍛え上げた強靭な腕を胸の前でがっちりと組んだレヴィンは、二色の妖瞳(オッドアイ)を鋭く据わらせて、デューイを睨め付けている。
 ――やれやれ。これでも一応、君と同じく心を擦り減らしている身なんだがね。
 相も変わらず、無遠慮な男である。
 けれども、デューイは熟知していた。忌憚のないその言動が、気心の知れた相手の前でしか見せない、彼なりの特別な態度なのだということを。
「ああ……すまない。ありがとう、レヴィン」
「礼などいいから、さっさと話を続けろ。皆、長話に付き合えるほど暇ではないんだぞ」
 眉間に深い皺を刻み、レヴィンは何とも呆れたような顔つきで、ふんと鼻を鳴らしていた。
「もう、レヴィンったら。いくら仲が良くたって、最低限の気遣いは必要だと思うわ。今後そういう言動を見掛けたら、しばらく口を利いてあげないから」
「君の前で、俺がそんな態度を取ったことがあったか……」
「自分より友達が言われるところを見る方が、ずっと腹が立つものよ」
 デューイの苦々しい思いを真っ先に汲み取ってくれたのは、紅一点のシャルテであった。今や守護騎士たちの間では年長者となったレヴィンの発言に口を挟もうとする者はそうそういないが、こういう時に専ら強みを見せるのは女だ。近々正式な場で将来を誓い合う二人の、これからの力関係がはっきりと見えるようで、思わず笑いが込み上げてくる。
「おーい、カイルが限界みてえだぞ。終わるんならさっさと終わらせてやれよ」
 続けて、会議の場とは思えぬほど奔放にソファへ踏ん反り返ったサイが、ひらひらと手を挙げて何やらアピールを始めた。言葉通りにサイの傍らでは、僅かに顔を伏せたカイルがうつらうつらと舟を漕いでいる。
 しかしながら、カイルの居眠り癖は今よりずっと若い時分からのもので、長引く会議の席では既にお馴染みの光景であったりする。庭の木や柱に、立ったまま寄り掛かって寝ていたり、見張り塔の矢狭間に、華奢な身体をすっぽり収めて寝ていたりと、その珍妙かつ変化に富んだ居眠り姿は、この城の名物にさえなりかけているほどだ。
 ゆえにサイの発言が、マイペースな隣人のためなどではなく、自らの保釈のためのものであることは想像に難くなかった。
「いや……まだもう少し話し足りないのだけれど、続けてもいいかな」
 度が過ぎるほど平常通りな仲間たちの態度に、思わず苦笑いがこぼれる。
 そうだね、みんな。
 我々が“日常”を送れないようではいけない。こんな時こそいつも通りに、やれるだけのことをやっていかなくては――
 羊皮紙のかがり紐をゆっくりと引いてほどきながら、デューイの心はどうにか元の平穏を取り戻しつつあった。
「もたついてしまってすまなかったね。では、続けるとしよう」

「おっと……その前によ、ひとつ質問したいことがあったのを思い出したぜ。構わねえか?」
「ああ。何だい、サイ?」
 口から先に生まれたような平時の振る舞いからは想像し難いが、サイがこうした会議の場で自発的に話すことは珍しい。さっきまでのように、涼しげに皆のやり取りを聞き過ごすかの如く聞き澄まし、時として論戦が白熱すれば卒なくそれを諌め、最後には「皆がそう思うならそれでいい」と、すんなり納得する――会議の席のみにとどまらず、この新生守護騎士団において、彼はもはや欠かせない調和の製造人だ。いくらレヴィンが「粗放者を会議に呼ぶ必要はない」と機嫌を損ねようとも、必ずサイを同席させるのはそのためである。
 そんな彼からの(たま)の申し出であったせいか、ついついデューイは無警戒に発言を許容してしまった。
 受け容れてすぐさま、デューイは己の落ち度に気付かされていた。ソファの背もたれから自重を引き取り、前のめりにこちらを覗き込んできたサイは、いつになく無機質な面持ちを浮かべていたのだ。
 こういう時の彼は、往々にして“憤っている”。こちらの動揺を見透かすかのように、燃える紅い瞳を静かに据わらせると、サイはゆっくりと口を開いていた。
「デューイ――お前さ、土壇場で選抜試験の会場を変えたろ。試験開始が随分と遅れたのはそのせいだ。違うか?」
 やはり、そう来たか――
 サイの問い掛けには、少なからず懸念があった。
 遅かれ早かれ、誰かから持ち上がる疑問だとは思っていたが、この状況はあまりに分が悪い。
 当然といえば当然の話だが、信頼に値しない相手に協力する義理はないというのが、彼の基本の信条。彼の“調和”の恩恵は、互いの信頼を糧に生み出されるものであるということだ。小手先の弁明が通用しそうにない点で、彼は間違いなく厄介な相手である。
 咄嗟に二の矢を継げずにいたデューイに、サイは容赦のない連撃を浴びせてくる。
「何も言わねえってこたあ、肯定してんのと同じもんだと受け取らせてもらうぜ。変更理由に関して下に一切説明がねえのは、一体どういう了見なんだ」
 こちらを睨み据えたサイは、「納得のいく説明がなければ、梃子でも動かない」とでも言いたげだ。
 無理もない。近頃あまり浮いた噂を聞かなかった彼が珍しく熱を上げているという、件の少女にも大きく関わることだ。かわす術があるとするならば――いや、万にひとつも、言い逃れなど通じないのだろう。
「おい、今その話は――」
 膠着状態を見兼ねてのことか、いつも以上に眉間の皺を深くしたレヴィンが割り入ろうと乗り出してきた。サイはすぐさまそれを苛立たしげに側め、何事か言い掛けたのだが。
「待って、レヴィン」
 そこへ想定外の横槍を刺し入れてきたのは、レヴィンの傍らに居たシャルテであった。
「それについては私も興味があるわ。いつでも用意周到なデューイが、直前になって計画を変更するだなんて。何か特別な意図があるとしか思えないものね」
 意外そうに両眼を見開いたレヴィンとサイは、無言のままシャルテを振り返っていた。
 思わぬシャルテの介入が、衝突寸前の二人の良剤となったことを悟ると、デューイは胸を撫で下ろしていた。
「いつだってこいつは、思惑の全てを語らない。昔からこいつは、そういう奴だった」
「聞くまでもないことを話す必要はないと思うわ。でも、今回はいつもとは訳が違うじゃない」
「それは……そうかもしれないが」
 ぐっと言葉を呑み込んだレヴィンはいかにも不服顔であったが、他ならぬシャルテの言い分ともなれば、無下には出来ないと考えたのだろう。一方のサイは追い風得たりと言わんばかりに得意満面を浮かべ、元の落ち着きを取り戻していた。
「相も変わらず、お前の嫁さんは柔軟ないい女だぜ。大酒飲みのぐうたら女じゃなけりゃ、非の打ち所がねえんだが」
「ちょっと、それどういう意味?」
「どうもこうも、そのまんまじゃねえかよ。なあ、デューイ?」
「いやいや、私に同意を求められても困るなぁ……」
 静かな怒りを漂わせるシャルテを尻目に、再びどっかと背もたれに身を預けたサイは、黒いブーツに覆われた脚を優雅に組み直し、不敵な笑みを浮かべた。
「まあ実際のところ、だいたい想像はついてんだけどよ。大方、俺の連れてきた候補者が原因ってとこだろ。雲行きが怪しくなってきやがったのは、今朝方のことだったからな。お前、ゆうべあの二人と何か話したんだろ」
 ――さて、どう説明したものか。
 頬杖をついたデューイは、持て余した指先で耳飾りをいじくると、小さく息をついた。
 最愛の伴侶に(つつ)かれて以来、すっかりおとなしくなってしまった親友をちらと覗き見てみると、彼は潮時を告げるかのように凛々しい眉の片側を持ち上げてみせた。
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