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時の軌跡 ~アヴァロニア大陸回生記~ 作者:タチバナ ナツメ

第一章 守護騎士篇

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第十六話 試験開始

 星河を泳ぎきったのち、再びユダは、薄暗い森の中を疾走していた。
 死に物狂いで走るユダの後方には、不気味な追手が迫っている。
 逢魔の森でのひと騒動から、たったの一日が過ぎたばかりである。望むまま飛び込んだ試練の道程とはいえ、こうまで似た窮地が重なるものかと考えると、つい弱音を吐きたくもなる。聖域に辿り着いたばかりの頃の安堵感が、今となってはひどく懐かしい――
「ガラハッド、どこにいるの! 僕はここだよ!」
 右を向いても左を向いても、人と思しきものの影は見当たらない。何処の森にも数種ほどは必ず見かけられた、比較的瘴気の影響を受けにくいとされる“魔獣”の気配でさえ、どこにも感じない。
 この深い森は、魔獣すらも生きられぬ辺境の地だということなのか――
 そんな現状を思うと、傍らを振り返れば仲間の姿があった昨日は随分ましな状況だったのかもしれないと、今更ながらに思われた。
 闇雲に駆けずり回ることを始めてから、果たしてどれだけの時間が過ぎているのだろう――行けども行けども薄暗く、枯茶色の景色が続くばかりの樹々の海を駆け回るうち、時の流れを感じる力も、方位をはかる力も、全てを失ってしまった。
“すぐ近くにいるはずだ”と言っていたガラハッドの所在も、皆目掴めないままだ。これでもしも、相棒の懐へ近付くどころかどんどん遠ざかっていたらと考えると、もはや悲観的な感情以外に湧いてはこない。
「ガラハッド、返事をして! 僕は――」
 再び声を限りに叫んでみるも、やはり相棒からの応答はない。
 言い知れぬ失意と絶望の感情が、辺りに立ち込める腐臭と交じり合い、じわりじわりとユダの胸を締め付けていた。
 元々は樹木の伐採場として機能していたらしい逢魔の森には、荒れ果てた状態とはいえ、方々に人の手の入った痕跡が残っており、ほどほどに歩ける道も多く見受けられた。
 だがこの森は元来、永きにわたって人の介入の一切を拒んできた、未開の土地であったようだ。頭上では、乱立する巨木が空を覆うように枝葉を伸ばし、足元では、汚泥から突き出した無数の樹の根が複雑に絡み合い、縦横無尽に地を走る――まさに“樹海”と呼ぶに相応しい場所であった。
《審判》以前の世界においては、鳥獣たちの楽園を描いたような、美しい森であったに違いない。
 しかし現状の樹海は、咽ぶほどの瘴気が渦巻き、腐敗した地面からのぼってくるカビ臭さが強かに鼻を突く、淀んだ土地だ。病痾(びょうあ)に蝕まれ、瘤だらけになった醜い幹が、老婆の指先のように痩せ細った枝を垂らし、おどろおどろしく衣擦(きぬす)れの重奏を掻き鳴らす――そこはもはや、悪夢の中を切り出したかのような世界。さながら冥府の一区画でしかなかったのである。
 振り返ればすぐ後ろには、大勢の異形たちが一団を形成し、たった一人の獲物であるユダの背に追いすがる様が見える。その数の多さといったら、指折り数えるのが恐ろしくなるほどだ。
 犬に似た頭部と、二足歩行を難なくこなす、人に近い形状の胴体。腐乱死体のように垂れ下がる、ブヨブヨとした皮膚。追走者たちの正体は、他の土地でも頻繁に見かけたことのある《食屍鬼(グール)》と呼ばれる種の異形だ。
 従来《食屍鬼》は、人の目の届かない森や洞窟の奥深くで小動物の死肉を漁るだけの、比較的害の少ない異形であったはずだが、飢えが続くと時折集団で人を襲う事例も確認されているという。
 しかし、獣並みの知能と、愚鈍な運動能力しか持ち合わせていない彼らは、異形の中では低級に属する種であり、平時ならば、ユダ一人でも充分戦って勝てる相手だ。
 だが、これほど多くの《食屍鬼》たちを一度に相手取るとなれば、状況は全く違ってくる。ユダの飛ばされた地点はまさに、飢えに飢えを重ねた《食屍鬼》たちの巣窟とも言える場所だったのである。
 喘ぐように喉を鳴らし、カビ臭い空気を目いっぱい吸い込みながら考える。
 このまま当て所もなく全力の逃走を続けるか。
 それとも、一か八か立ち止まり、《食屍鬼》に有効とされる白魔術をお見舞いしてやるか――
 後者はほとんど、賭けのようなものだ。こと魔術に関してユダは、命懸けの局面で当てにするには忍びないほどの技術しか持ち合わせていない。
 しかしながら、いつまでも前者の選択を続けるわけにもいかないだろう。遅かれ早かれ体力は底を尽き、動けなくなる瞬間は必ずやって来る。

 ところが。
 無慈悲な選択を迫られる瞬間は、否応なしに訪れてしまった――想像していたよりも、ずっと早いタイミングで。
「しまった……」
 突如前方に姿を現した、巨大な樹木の障壁。いびつな螺旋を描いて絡み合う樹々が、まるで通せんぼをしているかのようにユダの行く手を阻んでいた。
 天然の障壁の高さは、ゆうにユダの背丈の三倍以上はある。乗り越えられない事も無いが、苔むした壁をがむしゃらによじ登って、万一足を踏み外すようなことがあれば――
 僅かな思案を挟む間に、ユダは更なる窮地へと追い込まれていた。
 気付く頃には、後方を走っていた《食屍鬼》たちが、すっかりユダの周囲を取り巻いている。
 敵影はそれだけではない。樹々の隙間、生い茂る(くさむら)の影からも、爛々と光る飢えた瞳が、こちらを凝視していた。
 おそらくこれが、正念場というやつだ。是が非でもこの苦境を切り抜けなくてはならない。奴らは今にもこちらへ飛びかかる気でいるはずだ――!
 冷汗が眉間を滑り落ち、ごくりと唾を飲み下す音がやけに大きく聞こえた。ユダの心を恐怖と緊張が覆い尽くした瞬間、眼前の異形たちの身体に、飢えた瞳のそれとは違う、もう一つの輝きが灯ってゆくのが分かった。
 たくさんの色彩が一つところに交じり合った、儚く淡い光。それはまるで、真珠のように幻想的な光の小塊である。《食屍鬼》の醜悪な姿にそぐわぬその美しい輝きは、おそらく彼らの(コア)であろう。窮地に追い込まれたユダの本能が、異形たちの急所を見抜き、浮かび上がらせたのだ。
「こんなところで、死んでたまるか――!」
 食糧となる鳥獣たちがことごとく死に絶えた環境のおかげで、彼らは極限まで飢えに飢え、他の地域では類を見ないほどに凶暴化している。
 階層(ヒエラルキー)の底辺にいる《食屍鬼》たちでさえ、これほどの凶暴化を辿った土地だ。濃度を増すほど強力な異形を呼ぶと言われる瘴気が、これほど濃く深く満ちていることから考えても、彼らの遥か上を行く凶悪な存在が、この森の何処かに潜んでいる可能性は高い。
 もしもガラハッドとの合流を果たす前に、そんな上級異形と遭遇してしまったら?
 早く――早く何とかしなくては。
 仄暗い空間に浮かぶ無数の核の光を見据え、ユダは意を決して剣を身構えていた。

 その時のことである。
 《食屍鬼》の群れを飛び越えた先に、天にも届かんばかりの勢いで、巨大な光の柱の上がるのが見えた。
 眩しいほど白く輝くその光は、紛れもなく“白魔術”によって生み出されたものだと分かる。
「ガラハッド!」
 きっとあの光は、彼が打ち上げた狼煙に違いない。
 どうにかしてこちらも、あの信号に応えなくては――それにはやはり、魔術の力に頼るほかは無さそうだ。
 障壁を背に、ぐるりと敵影を一望したユダは、とうとう腹を括っていた。
 刹那、ユダの覚悟を嘲笑うかのように、《食屍鬼》の一匹がけたたましく叫びをあげ、飛び掛かってくる――!
 醜悪な外見から来るイメージについ気圧されそうになるが、彼らの運動能力そのものは、標準的な人間のそれより随分劣っている。極度の飢えのために、目の前の餌への執着心だけはとんでもなく増長しているようだが、それでもやはり、元来の力関係が覆るまでには至らないらしい。難なく鍵爪の一撃をかわしたユダは、すれ違い様に鋭く太刀筋を叩き込んでいた。
 ガラスの弾け飛ぶような儚い破裂音が響き、虹色の光彩が砂つぶをばら撒いたように四散する。核を砕かれた《食屍鬼》は、しばし悶絶しながら地を転げ回っていたが、核の光が周囲の景色に溶けて消え去ると、無音のうちに、煙のごとく消滅してしまった。後には、死骸さえ残ってはいない。
「何も、聞こえないぞ……」
 しこたま苦しみ悶えた異形が、音もなく消え去ってゆく――たった一瞬の出来事だったが、ユダにとっては大きな革新であった。あれほどもがき苦しんでいたにも関わらず、《食屍鬼》の“断末魔”は僅かほども脳裏に届かなかったのだから。
 異形の発する断末魔は、聴覚を伝わって聞こえるものではなく、意識の中へ直接流れ込んでくる強烈な思念の塊だ。耳を塞いだところで避けられるはずもないそれをすっぱりと遮断してくれたのは、紛れもなくユダの胸元に下がった瑠璃色の護符――“輝聖石の首飾り”であろう。
 想像以上の効果だ。これならもっと、効率的に異形と戦える!
 歴然たる違いを実感し、ユダは初めて輝聖石の力の恩恵を噛み締めていたのだった。

 ところが、安堵も束の間――
 先駆した《食屍鬼》があっさりと倒されたことに面食らっていたらしい異形の一団が、硬直から解き放たれるときがやってきた。一匹の甲高い叫びを皮切りに、物陰から隙を伺っていた他の《食屍鬼》たちが、突如としてユダに一斉攻撃を仕掛けてきたのである。
「くそっ……」
 僅かでも頭数の少ない方――すなわち、核の光の少ない方向を見定め、ユダは襲い来る《食屍鬼》の群れを着実に切り崩しながら、逃げ道を切り拓いてゆく。
 それでもやはり、多勢に無勢の状況は少しも変わらない。
 死角からの一撃に対処出来ず、背中に薄く初太刀を浴びる。構わず戦い続ける間にまたひとつ、ふたつと傷を負い、やがて無数の“掠り傷”が重なって、大きな痛みを生み出していった。
 ところが、数えきれないほどの異形たちを掃討せしめたにも関わらず、それらは再び叢の影からわんさかと湧き出し、怒涛のように押し寄せてくる。
「退いてくれっ! 僕は――」
 こんなところで、立ち止まってはいられないんだ。
 相手に人語を解する知恵などないことは百も承知だったが、思いを吐き出さずにはいられなくなっていた。
 叫ぶ勢いのまま、手の中の白刃を翻す。再び鋭利な一閃で懐を切り崩し、血路を開く。
「あ……れ……?」
 ところが、頭の中で組み立てたイメージと、実際の行動が結びついていないことに気が付いたのはその時だった。
 薙ぎ払いの途中で、無情にもユダの剣は、手の中からすっぽ抜けてしまったのである。
 遅れてようやくユダは、自らの利き手が、指先さえも満足に動かせないほど痺れきっていることに気が付いていた。更にその後で、上腕を滴り落ちる血液の紅さに言葉を失う。果たしてこれが、自らの内から流れ出たものなのかと、目を疑った。
 地に転がり落ちた愛剣は、押し寄せる《食屍鬼》の群れに難なく踏み越えられ、すぐさま視界から消えてなくなっていた。
 異形の巣窟で、とうとう武器を失ってしまった。
 勝ち目などもはや、あるはずがない。
 勝ち目など、もはや――
 絶望に、天を仰ぐ。
 傍らで再び、《食屍鬼》の金切るような声が響いていた。
 耳障りなあの音色は、狂喜の旋律だろうか――

 刹那。
 天上に光が溢れていた。
 はっとして見遣ると、先ほどと同じ地点から、再び光の柱が立ち上っている。
 ――そうだ、相棒は僕を探している。
 諦めるわけにはいかない。彼は今もまだ、あそこで戦っているというのに!
 瞳に力を込め、ユダは高らかに雄叫びをあげていた。
 姿勢を低く保ち、湿った大地を力いっぱい蹴り付けたユダは、眼前の敵影めがけて無我夢中で突進する。
 渾身の体当たりをまともに喰らった《食屍鬼》は、後列の数匹を巻き込んで、折り重なるように地面へ倒れ込んでいた。じたばたともがく《食屍鬼》の塊を躊躇なく踏み付けて足場にし、更にユダは、手近にいたもう一匹の頭を踏み台にして、勢いのまま宙へ駆け上がる。
 空を躍るユダの姿に、愚鈍な追走者たちはただ呆然と釘付けられていた。
 腑抜けた《食屍鬼》の鼻っ柱を迷うことなくブーツで踏み付けながら、飛び石を渡る要領で宙空を駆け抜ける。それと同時にユダは、これまで相棒が、てんで飲み込みの遅い自分に根気よく続けてくれていた“講義”の一連を、細かに復習(さら)っていた。
 これは、紛れもなく一世一代の“賭け(ギャンブル)”である。しかし、自信ならば訳もなく湧いていた。
 こと“賭け”に関して、ユダは勘の鋭いガラハッドにすら一度も負けたことがなかったのだ。ここ一番の勝負ともなれば尚更のことである。
 コツはたったひとつだ。失意や絶望を払拭した後は、ただひたすらに己の勝ちを信じる――たったそれだけのことだった。
 命の危機を感じるほどに、どこからともなく湧き出した得体の知れない冷静が、ユダの意識を冴え冴えとさせていた。相棒の言葉の一言一句が、次々と脳裏に蘇ってゆく。
 記憶の底から掘り当てた“詠唱”を紡ぐ。隠された神の名を掲げ、加護を請い、大いなる恩恵に畏敬を示す――斯くして、神の威光を借り受けるための“賛美の詩”は完成するのだ。
 一連を唱いあげたとき、ユダは自らの内側で、複雑に組み上げられたいくつもの歯車が、狂いなく噛み合ってゆくような手応えを感じていた。手の平から零れ出した白い光を目の当たりにすると、いよいよそれは確信へと変わる。
「よし、いいぞ――!」
 これこそ、魔術士たちが言うところの“はまった”感覚だ。
 未だ記憶にある中ではたった数回鉢合わせただけの――魔術を志す者のみにしか味わうことのできない、えも言われぬ高揚感である。
 滑空を終え、再び巨木の障壁の前へと降り立ったユダは、振り向きざま、声高らかに吠え立てていた。
「清らかなる光よ!」
 咆哮が響き渡った瞬間、視界いっぱいにまばゆい白が満ちていた。
 ぬかるんだ大地から、無数の光の粒子が間欠泉のごとく噴出する。柱状に寄り集まったそれは、ユダの足元を起点とし、波紋を描くように拡がっていった。
 肥大した光の柱は、唖然と突っ立ったままの《食屍鬼》たちをことごとく飲み込んでゆく。膨大な光の奔流に抱かれながら、異形たちは成す術なく塵と化して崩れ去り、やがてすべての光が収まりゆく頃には、その死灰さえも消えてなくなっていた。

 ――枯れ森に、静寂の(とばり)が下りる。
 獣道の至るところを埋め尽くしていた追走者たちは、残らず消滅してしまったらしい。
 閑散とした森の景色を一望したユダは、深いため息とともに肩の強張りを解いていた。
「う…………」
 しかし、手放しでは喜べない。
 怪我による出血。慣れない魔術を行使したことによる、過度の精神疲労――自らを蝕む要素が重なりすぎている。
 腕のみにとどまっていた痺れは足元にまで及んでいた。吐き気をともなう強烈な浮遊感にあおられ、ユダは力なくその場に崩れ落ちていた。荒げた呼吸の音を掻き消すほどの爆音が、胸の真ん中で鳴り響いている。
「ちょっと、張り切りすぎちゃったかな――」
 気負うあまり、器量にそぐわない手段を選んでしまったかもしれない。
 先ほどユダが展開したのは、《浄化(パージ)》の術式である。元来、不死者や悪霊といった“不浄なるもの”を灰と化すための術式であるが、低級の異形にも同等の効果を発揮することが知られている。術式そのものは初心者にも扱える構造だが、術者の力量に合わせて際限なく威力を上乗せ出来るため、力加減にはそれなりの技術と経験とが要求される。
 つまりは単純に、加減を間違えてしまったのだ――なけなしの魔力を極限まで放出してしまい、体力が底をついてしまった。敵は掃討出来たものの、これではおそらく、治癒の魔術を使う余裕などないだろう。
 それでもきっと、別地点にいる相棒へ信号は伝わったはずだ。
 あとはこの場でじっと身を潜め、彼が現れるのを待てば良い――何とも他力本願ではあるが、もはや一歩も動くことができないほど疲労困憊していたユダに、その他の選択肢など存在しなかったのだった。
 苔むした巨木にもたれかかる。僅かに身じろぎするだけで、焼けるような痛みが全身を走っていた。
 ――そういえば。
 つい今しがた、異形の群れの下敷きにされてしまった愛剣はどうなったのだろう。まともに動けない状態とはいえ、丸腰のままじっとしているのは、いくら何でも無防備が過ぎる。
 慌てて辺りを見回してみると、焦がれた半身は意外にもすぐ見つかった。何がどうしてそうなったのか、ユダの剣は前方の地面から突き出した樹の根にまっすぐ突き刺さっている。
 とても身内に聞かせる気にはなれないほど情けない呻き声をあげながら、痛む身体に鞭打ってよたよたと歩く。どうにかこうにかそこへ辿り着いて見てみると、カビ臭い泥をしこたま被ってはいるものの、愛剣に壊れたような箇所は見当たらなかった。小さく安堵の息を漏らし、ユダはゆっくりと剣に手を伸ばす。
「――え?」
 刹那のことであった。
 湿っぽく淀んだ空気が、大きくゆらめく気配を感じ取っていた。
 皮膚のあちらこちらから、圧力のぶつかる感覚が伝わってくる。
 これは、視線?
 それも渇欲や執着といった、強烈な悪意に満ちた――
 辛々の足取りで、地に突き立ったままの愛剣にしがみつき、四囲を見渡す。
 ユダの両目が捉えたものは、先ほども散々と見てきたばかりの――樹々の隙間からこちらをねっとりと見つめる、《食屍鬼》たちの眼光であった。
「そんな……一体どれだけいるっていうんだ!」
 嘆きと混乱に満ちた自らの叫びが、まるで他人のそれのように遠く聞こえていた。
 涙の滲む両目で、もはやどこを見ていればいいのかも分からなくなっている。
 枯れ森を覆う灰色の天蓋と、粘ついた異形の気配とが一斉に覆い被さってくるような、耐え難い恐怖がユダの全身を震撼させていた。
 立ち尽くすユダの背後から、ぬかるみを踏みしだく足音と、耳障りな金切り声が近づいてくる。
 空を裂く音。
 頬の一部に焼けるような痛みが走っていた。
 鍵爪を振り抜いた《食屍鬼》が傍らに姿を現したおかげで、どうやら自分が、その一撃をかわしていたらしいことを理解する。
 しかしユダには先の一撃をかわそうという気などなく、受身すらも取らぬまま、偶然ぬかるみにへたり込んでやり過ごせただけのことであった。
 いくら奮い立たせようとしても、もはや戦意など少しも湧いてこない。
「ガラハッド――」
 嫌だ……こんなところで、死にたくない。
「ガラハッド! 助けて!」
 再び鋭利な鍵爪を振りかざした《食屍鬼》の表情は、獲物を捕らえた悦びに満ち溢れているように見えた――

 いかな低級異形といえど、どうにか少ない手順でもって獲物を捕らえようと、工夫をこらす知恵くらいは持ち合わせているらしい。
 それゆえ彼らは、獲物を仕留めんとするとき、必ずと言って良いほど相手の喉笛を狙って攻撃を仕掛けてくるのだという。
 絶体絶命の間際、そんな相棒からの受け売りを思い出したせいか、ユダは反射的に身を屈め、両腕で頭を覆い隠していた。
 とはいえ、今更抗ったところで、捕食者の餌食となる瞬間が遅くなるか早くなるかの違いだけだ。苦しむ時間が長くなるのなら、いっそのこと防御姿勢など取らない方がましだったのかもしれない――
 最悪のイメージがユダの脳裏を過ぎった瞬間、頭を覆った腕の隙間から、細長く螺旋を描く幾筋もの光がこちらへ突進してくるのが見えた。
 それはまるで、光を抱く竜巻である。ユダの周囲に押し寄せていた《食屍鬼》たちの間を、縦横無尽に疾走した気流の群れは、瞬く間にユダの脇を通り過ぎ、衰えることなく遥か後方へと奔り抜けていった。
 気流の蹂躙に巻き込まれた《食屍鬼》たちは既に灰と化し、程なくして灰から無へと帰していた。
 一連を間近で目の当たりにした生き残りの《食屍鬼》たちは、獰猛な気流をけしかけた絶対者の存在を怖じ恐れているかのように、揃ってその場に立ちすくんでいた。
「遅くなってごめん。大丈夫かい、ユダ」
 恐怖に凍り付いた異形の群れの真ん中を、悠々と歩いて過ぎる人影がひとつ。
 彼の名はもちろん――
「ガラハッド!」
 体中を蝕む痛みのことも忘れ、ユダは見慣れたその人影めがけ、無我夢中で飛びついていた。
 ユダの勢いに押されて思わずふらつくも、ガラハッドは脱げかけた鍔付き帽子を押さえつけ、ほんのりと笑顔を浮かべていた。
「遅いよ……今度こそ本当に死ぬかと思った!」
「ごめん、思ってたよりもかなり軌道がずれちゃって。少し詰めが甘かったみたいだ」
 微笑むガラハッドを見るなり心底安堵したユダは、満面の笑みを咲かせて相棒の襟元に鼻先をうずめていた。
 ところが、再開の余韻に浸ることもせず、彼はユダの体を気遣うようにそっと引き離したのである。
「さっきの《浄化(パージ)》で魔力を使い果たしちゃったみたいだね。それに、酷い傷だ」
 傷だらけのユダの腕を取り上げたガラハッドは、浮かない顔でこちらを見下ろしている。
「……これをやったのは、お前たちか」
 そう言った途端、(かげ)った相棒の瞳に、ほんのりと淀んだ色が混じるのが分かった。
「ガラハッド?」
 鋭く据わった相棒の瞳には、静かな怒気が滲んでいた。
 立ちすくむ異形たちのもとへ、まっすぐ向かっていこうとする相棒を認めるや否や、ユダの胸には一抹の不安がよぎっていた。
「ねぇ、ちょっと落ち着こうよ……」
 思わず肩を叩いて呼び止めたユダに、振り返った相棒は満面の笑みを向けていた。
「何を言ってるんだい、僕は冷静だよ」
 けれど、彼の瞳の奥はまるで、この瘴気に閉ざされた樹海の夜闇そのもののような、淀みと歪みに満ちている。篝火の側で談笑のひとときを過ごしているかのような、落ち着き払った声音からは、及びもつかぬほどの。
「ただ、確信しただけだ。やっぱりあいつらは、この地上に生きてる価値なんてない。たった今、決めたよ。僕はこの汚らわしい獣たちを根絶やしにする」
 ぞくりと、ユダの背筋を冷たいものが走り抜けていた。
 どす黒い殺気を纏った相棒の傍らでは、目も眩むほど精密で、そして皮肉なほど清廉な魔術が凄まじい速さで編み上げられていく。
「さあ、お別れの時間だ。告解は一切受け付けないから、そのつもりでね」
 短く告げた相棒は、そのまま振り返りもせずに駆け出していた――
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