ここは闇の中を彷徨うのと同じだ。
鞭と化したしなる細い枝が俺の頬を打つ。藪に阻まれ羽交い絞めされ、行く手を塞がれる。しなやかな牢獄。全ての安息から覆い隠すように鬱蒼と茂る高木の枝葉は、心の平生を取り戻すための陽の光まで微かな木漏れ日に変え、自然の息吹が有り余る世界に立っているはずなのに、息苦しいほどに死の馨りが漂う。あたりに耳を欹てても、己の息遣いしか聞こえない。いや、確かに太い木々の間から猥雑な語りが、俺に向かって投げられている気がする。しかし、それは死神の戯言であって、俺を生へ導くものではない。
時々、聞こえる何かに怯える野鳥の静寂を破る雄叫びも、あまつさえこの森では風景の中の恐怖で、それは、奇怪で不気味でなくてはならない。
もう太陽は随分傾いているはずだ。死に場所を求めて歩き続けた足は、道なき道を進むには鉛の枷をつけたように重い。
もう良いだろう……。
俺は一際大きい樹の幹に体を預け、そのまま根元にへたり込んだ。いつも着慣れた自慢のスーツが、ココの住人達の手で破かれ引き千切られて、身なりはぼろぼろだ。
臆病な俺には苦しみもがき死を迎える勇気などない。次に目覚めれば死んでいる……。そんな都合のよい逝き方がココを選んだ理由だ。俺は弱い人間で、死後の醜い死体を愛する者達の前に晒されて、死んだ理由をとやかく詮索される事さえ怖い。だから、ココで土と化すのが理想の逝き方だと思っている。
力なく歩き疲れた足を投げ出して、ぼんやりと鬱蒼とした森を眺める。汗で湿った左手の中には、小さな小瓶をずっと握り締めている。目の前に掲げると、カラッと音を立てた。それが妙に軽やかな音に聞こえ、半分ほどの粒が子供の頃に集めていたガラス玉や貝殻の宝物の類に思えてくる。これをゆっくり口に含めば、その内ただのむくろになれる。毒の小瓶が自分を救う万能薬に思えるから不思議だ。俺はそっと小瓶を握り締めた左手を、大切な物を守るように右手で包んだ。
人を拒んだここには静寂しかない。その中で、いろいろなしがらみから開放された意識は、ただ朦朧と宙を舞う。
何も聞こえないし、何も見ていない……。もう、何も聞く必要もないし、見ようとも思わない。これで全てが葬り去れる……。言いようのない安堵した心地良さが俺を包んでいる。疲れた体は思考さえ諦めたように、次第に眠りに落ちていく。
樹海はこうして自然に、俺も森の一部に飲み込んでしまうんだ。永遠に……。
バシッ!
突然、頬に痛みが走り、俺は目を覚ました。霞んだ目にぼんやりと人影が現われた。
「生きているのか!! しっかりしろ!!」
夢の中で揺らいでいるような俺の意識に、懸命に声を荒げる男の顔がはっきりしてきた。目の前で鳥打帽を目深に被った男が覗き込んでいる。
「あ……」
「ばかやろうが! こんなところで死ぬつもりなのか!」
男は俺の肩に両手をかけて、激しく揺さぶった。
「しっかりせんか! いい若いもんが何考えてる!!」
日に焼けた顔につりあがった目で、呆然とした俺を怒鳴りつけた。肩の手は痛いほど食い込んでいる。
「あ、あ、う……うう……」
言葉が出なかった。何も話すことが出来ない。その代わりにどうしたわけか、どっと涙が溢れてきた。思考は止まったままなのに、体中の水分が目からあふれ出ている感じだった。男は俺の手に握られた小瓶に気づき、
「こんなもん、飲むつもりだったのか? ばかやろうが!」
と、もう一度罵声を浴びせて、小瓶を手から奪い取り自分のポケットに押し込んだ。
そして男はそっと俺の肩を引き寄せ抱き締めた。
「良かったなあ! まだ生きていて」
彼の言葉に、俺はその意味を理解する前に慟哭していた……。
男は樹海を楽しみに来ていると言った。
スーツ姿で革靴という奇妙な姿の樹海への侵入者の手を引いて、男は無言で森を明るい方へと歩き出した。しっかり背負われたリュックと登山靴。その姿がまるで樹海から身を守る鎧を身に着けているように見えた。
藪を払い、苔むす倒木を越え、そのごつごつした手は、ふらりふらりと歩いている俺の手首を痛いほど掴んで、離すつもりは無いようだ。まるで、駄々を捏ねている小さい子を無理やり引き回すように、がつがつと歩いてゆく。
俺はただ、鈍くなった頭で、この奇跡としか言えない出会いを成し遂げた、小柄な五十がらみ男を観察している。
その男の無言の背中は、案外小さくて鳥打帽から覗く首筋には白髪交じりの髪がが張り付いている。俺よりも老いた体で、丸二日俺が彷徨い続けた樹海を、迷う事もなく精力的に突き進んでいく。このあやかしの森をまるで熟知しているように、立ち止まる事も無かった。
「でも……俺、死ななくちゃあ……」
男の背中に甘えるように呟いた。その声に、男は歩みを止めず尋ねた。
「何でだ? 人でも殺したか?」
「い、いや! そんなことは……。でも、女房や子供に嘘をついていた。もう3ヶ月も前に仕事をクビになったのに、言えずに勤めてる振りをして……、借金もしてしまった……。ただ、今の生活を壊す勇気がなかったから……でも、もう限界で……」
突然、男が立ち止まり、振り向いた。俺をじっと睨みつける目は、ぎらぎらして怒りを露にしている。奥歯を噛み締めているのが、頬の動きで解かった。
世間から見ればよくあるつまらない理由。『そんな事で』と思われて当然かもしれない。だが、俺にとっては……。
「わっはっはっは……」
突然男の顔が歪んで、小柄な体躯をくの字に曲げ、大声で笑い出した。俺は驚いて、彼を見つめた。
「いや、すまない。プライドのある自殺という訳か。美しいなあ。しかし、もうそんな事気に病む必要はないさ。あんたがこうして行方をくらました時点で家族には働いてない事がばれてる。はは、ごめんなさいで済むじゃないか」
男の馬鹿にした高笑いと、呆れたと言わんばかりの言い方に、何故か途端に心の呪詛が解けたように死への呪縛がぷっつりと途切れた。男は優しい目になって、俺に話しかけてくる。
「いくつだ?」
「三十歳です」
「まだまだやり直しは利くじゃないか。人生、死にたいと思うことは何ぼでもあるさ。一回目で何も首尾よく死ぬこたあない」
「……はい」
俺達は、また歩き出した。男は前を向いたままで、途切れ途切れに言葉を掛けてきた。
「死んだつもりでやれば何でも乗り越えられるというが、それは本当だ。この歳になるまで、俺もそうしてやってきた。家族を路頭に迷わせたくないと懸命にな」
男は空を覆った巨木の枝の間に見え隠れする太陽を、手を翳して見上げながら、くぐもった声でゆっくりと語った。
「あんたにも子供がいるんだろ? まだ小さいか? 子供は可愛いもんだ。どんな親でも慕ってくれるし頼ってくれる。きっと心配して待ってくれているさ」
「はい。まだ五つの女の子がいます……。会いたいです。心配してますね、皆……」
また、視界が霞んで頬に涙が流れた。俺のことを心配している瑤子と二人肩を寄せ合い、不安な顔をしているだろう娘の香澄が瞼に浮かぶ。俺は本当に馬鹿な奴だ。
「待っている家族がいるんだ。それは本当に幸せな事だよ」
俺に背中をむけたまま呟かれた男の声は、心に穏やかさを取り戻させてくれるほど優しかった。
森が明るくなるにつれ、何故死なねばならなかったのか、自暴自棄だった心に理性の楔が一つずつ打ちこまれるような気持ちだった。ただ、瑤子に会いたい……娘の香澄に会いたい。男の背中を見ながら、俺はほろほろと泣いた。
彷徨った樹海から日が暮れる頃に車道へ出た。死のうと決めて家を出てから彷徨したこの二日間が夢のように、簡単に人の気配を感じる場所へ戻ってきた。
男は暫く歩いて、薄暗くなった道路わきにポツリと見える店の明かりを指差した。
「あそこの食堂へ行って、なんか食って家に連絡すれば良い。子供じゃないんだから、もっとしっかり遣りなさいよ。じゃあな」
「ホントに……なんて言ったらよいのか。有難うございました」
「いやいや、君が羨ましいよ。何ぼでもやり直しが出来るんだから。家族を大事に頑張れよ」
と、男は軽く手を上げ、俺と反対方向へ来た道を歩いて行った。俺はその背が暗がりに消えてゆくのを黙って見つめた。男の事を詮索するゆとりも無いほど疲れ切っていたが、一方ではまるでこの世に存在しない、俺を救うために現われた神のような人に思えた。姿の消えた後も、俺は深々と頭を下げ続けた。
全ての悪夢から覚めたようだった。だが、まだこの奇跡に実感がない。死のうとした事が夢だったのか、生きてここにいることが夢なのか……。とにかく今は疲れた体を休める場所が欲しかった。
男の言うとおり、暖かい明かりの漏れたその食堂へ、敗れた上着を脱いで入った。そして客のいない寂れた店内を見ながらテーブルに着いた。なんのしゃれた飾りつけも無い店内には、テレビの耳障りな大きな音だけが流れている。しかし、それが人の存在のない場所に長く居た俺には、とても心地の良いものに聞こえた。
「いらっしゃいませ」
と、中年の女が水を持ってきた。でも、コップを置く先よりも壁に造りつけられた棚のテレビが気になる様子で、顔はそちらに向いたままだ。俺もつられて画面に見入った。夕飯時のニュース番組のようだ。古い型のテレビの中で男のレポーターが、現場らしい家を背景に淡々と語っている。
――『昨夜未明、K市の主婦大山佳代さんと高校生と中学生の子供二人は、この家の中で首を絞められ殺害されていました。県警本部は、夫の大山大輔、五十三歳を容疑者と特定し行方を捜しています。事業に行き詰まり、経営していた会社が倒産。行く末を悲観した夫の大山容疑者が無理心中を図ったとみられ、容疑者本人も自殺の可能性があると行方を追っていますが、所在は不明。今のところ手がかりも無い模様です』
ガタン! と、椅子を倒して立ち上がった。見間違いかとキッと目を凝らして見つめた。TVの画面に映し出された家族写真のその「容疑者の夫」の顔! その顔は俺を樹海から救ってくれた男だった……!
強張った体で、押し出すように言葉を吐いた。
「う、うそだろう……!? あの人が……嘘だ! 何かの間違いだ!」
テーブルに手を勢いよく着くと、その拍子に倒れたコップから水が零れ、一回転して、俺の足元でガシャンと砕け散った。
テレビに映し出された男と家族の写真は、報道のアナウンスの言葉を無視して、朗らかに笑っていた。
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