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忘却の女
 俺は生活もままならない自称フリーライター。

 その日の飢えを凌ぐので精一杯な事をずっとして来た。

 もういい年なのに、まだ物書きとして大成しようと馬鹿げた野望を持っている。

「あら、久しぶり。元気?」

 いきなり後ろから声をかけられた。

「は?」

 俺は反射的に振り返り、声の主を見た。

 そこには、俺と同年代か、あるいはもう少し年上のおばさんが立っていた。

 お世辞にも美人ではない。だが、愛嬌のある笑顔だ。

 誰だ? 全然思い出せないのだが。

「忘れちゃった? 私よ、私」

 そんな謎かけのような言い方ではなく、サッサと名前を言え!

 そう叫びたくなったが、その何とも言えない笑顔のせいで、そんな気は失せた。

「思い出せないの? そうかあ、私、印象薄いからねえ」

 その女性はそれでもニコニコしながらそう言った。

 俺は何となく申し訳なくなり、

「すみません、どちら様でしたっけ?」

と思い切って尋ねた。

「いいのよ、気にしないで」

 女性はそう言うと歩き出した。

「はあ」

 俺はもどかしい思いで女性に背を向け、歩き出した。

 それにしてもどうしたって言うのだろう?

 人の顔を忘れるなんて、今までなかったのだが。

 完全に忘却の彼方だな。全然思い出せない。

 

 もやもやした気持ちのままで、俺はアパートに帰った。

 郵便受けに何かが挟まっている。

 珍しい事に、出版社からのものだった。

 開いてみると仕事の依頼だ。

 電話も止められている俺にはこんな通信手段しかないか、と改めて惨めになった。

 仕事はあまり気乗りのしないグルメレポートだった。

 しかし、もうここ何日かロクなものを口にしていないので、まさしく「背に腹は変えられない」思いで引き受ける事にした。

 食費も浮かせられるし、一石二鳥だ。

 その足ですぐに出版社に向かった。

 歩いていける距離だったのがちょうど良かった。でなければ、行く事すらできなかっただろう。

「しばらくぶりだな」

 俺は出版社が入っているビルを見上げた。

 以前来たのは、去年の暮れだった。

「あら、また会ったわね。今日は縁があるねえ」

 どこかで聞いた声がした。

「あ」

 振り向くとそこには、さっき街で声をかけて来た女性がいた。

「また仕事?」

「はい」

「頑張ってね」

「ありがとうございます」

 そうか。彼女はここのビルの掃除のおばさんだったのか。

 仕事頑張ろう。そんな気持ちになった。
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