終章
5日後、悠奈はヒースロー空港に降り立った。
地下鉄でロンドン中心部のピカデリーサーカスまで移動した悠奈は、地上に上がると、ロンドンの街を肌で感じる。華やかな中にも歴史を感じる活気ある街は、立っているだけで圧倒されそうだった。
彼女が予約していたB&Bはウエストミンスターにあったのだが、チェックインまでまだ時間があり、待ち時間の間に有名なピカデリーサーカス周辺を観光しようと考えていたのだ。
すぐにでも亜希がいるサウスバンクに訊ねていきたい気持ちはあったが、スーツケースを持ったまま訪れるわけにもいかず、ロンドンという街に少し慣れて、気持ちを落ち着けてから逢いに行くつもりだった。
慌てて日本を飛び出してきた彼女は、ガイドブックを用意する余裕もなかったため、街の中など右も左も分からなかった。インフォメーションで、たどたどしい英語を使いつつ道を聞いて、地図を見ながら歩いてみるのだが、少し歩くとすぐに方角が分からなくなる。
しばらく、どこからともなく甘い香水の香が漂ってくる街を、あてどなく歩き続けると、前方にテムズ河が見えてきた。彼女は、気持ちが高まり、歩調をはやめて河の遊歩道まで急いだ。
—想像してたよりずっと大きな河⋯。亜希さんはこの河を見ながら暮らしてるんだ⋯
悠奈は感慨深く、そのロンドン独特の景色を目に焼きつけるように立ち尽くす。
亜希は、この街で、自分のパワーに向き合い探ろうとしている。想像を超える痛みを伴うだろうと思うと、彼女は胸が締め付けれた。
彼女の気持ちとは裏腹に、美しい街や橋やクラシカルな舟は、ずっと眺めていても飽きることはない。
日が傾きかけ肌寒くなってきたころ、彼女はその美しい場所から離れる決心をして地図を広げ、ウエストミンスターの方角を確認した。
「Is not the road understood?」
いきなり、彼女は後ろから声をかけられた。無防備になりすぎていることに気付いた悠奈は、慌ててスーツケースを持つと、「It's safe」と振り返りもせずにその場から逃げ去るように歩きだす。だが、彼女は耳に残る少し低い落ち着いた声と、漂ってくる香水の匂いを感じ取って、すぐに足を止めた。
—この感覚⋯
「The direction is different. 」
柔らかく悠奈の身体にすっと入ってくる声に、彼女はゆっくりと振り返った。
「悠奈、ウエストミンスターはそっちじゃない」
彼女の目の前には、色素の薄い切れ長の深い瞳があった。
悠奈は、目の前に現れた人物を、実体がなく、スクリーンに映し出されている映像のような感覚で捕らえていた。グレーの長袖Tシャツに、薄手のフード付きのグリーンのコートを重ね着し、ジーンズを履いている彼は、少し髪が短くなっていること以外は、二年前と何も変わらない。コートのポケットに両手を入れ、瞳に優しい微笑みを携えて立っていた。
—亜希⋯さん?
幻を見ているのではないかと、彼女は何度も瞬きをしたが、ロンドンの街を後ろに佇む彼は、視界から消えることはなかった。
「昨日、桜が舞い降りる夢を見た」
久しぶりに聞く声が、ずっとこの日を待っていた悠奈の心を揺さぶる。
「亜希さん⋯なの?」
彼女は、まだ彼に実体があることが信じられずに、声に出して本人に聞いた。
亜希は、くすっと笑うと、「何に見える?」と首をかしげる。彼の何かを尋ねる時の癖。彼の前髪が、さらりと流れた。その姿を見て現実感が増した悠奈は、亜希を見つめながら近付くと、そっと手を延ばしてコートの裾を掴んだ。ふわり、と、オリエンタルな香が漂う。触覚と臭覚に感じる現実。
—限り無く優しく、そして冷たい程悲しい瞳。やはり彼なんだ⋯
見上げた彼女は、亜希の瞳に魅せられる。
「ほんとに亜希さんだ⋯」
そう言うと、これまでの複雑に混ざった感情が一気に沸き上がってくることを感じ、自然と落ちてくる涙を止めることができなかった。
「驚かせた?」
亜希は、微笑みを浮かべて彼女の顔を覗き込む。
「ううん、嬉しいの。ごめんなさい。涙、止められなくて⋯」
悠奈は、無理に笑顔を作ろうとしたが、予想しなかった喜びにどうしても涙が止まらず、手で顔を覆った。
亜希は、悠奈の頭に優しく手を乗せ、穏やかな表情で彼女を見つめていた。
「ごめんなさい。もう大丈夫」
「少し、歩こうか」
亜希は、ようやく笑顔になった悠奈に微笑みかけると、さりげなく彼女のスーツケースを持ってゆっくりと河沿いを歩きはじめた。
彼女は、亜希の背中を見つめながら少し斜後ろを歩き、徐々に、彼の存在がすぐ近くにあるという現実を実感できるようになっていった。
すれ違う人々は、誰も二人に関心を向けない。ここはロンドンなのだと、悠奈は実感した。誰もがいい意味で他人に関心がない。日本のように他人のことが気になり、他人の目が気になる国民性ではないのだろう。人々は自立して、自分の道をしっかり歩んでいるように見えた。
亜希は、時計台の傍まで歩くと、不意に悠奈を振り返って微笑みを浮かべた。
「君が俺をずっと待っていたことは感じてた。俺の力を知った上で、それでも待ってるなんて⋯不思議だったよ。ここに来ることを選んだのも⋯」
彼は、悠奈を静かに見つめる。彼女は、亜希の視線に高鳴る鼓動を感じて胸を手で押さえ、彼の瞳を見つめ返して微笑んだ。
「ただ、逢いたいって思ってたの。逢えるって信じてた。亜希さんの傍に居るって、居たいって、ずっとずっと願ってた」
悠奈の瞳は一切の曇りもなく澄んでいた。亜希は、彼女に向かって手を差し伸べる。
「君は、あの雨桜の日から変わらない⋯。この俺の手が取れるのか?」
亜希の声に、その奥にある痛みを感じた悠奈は、彼の全てを受け入れるような鮮やかな微笑みを浮かべると、迷いなく両手を差し出して、彼の手を包むように握る。亜希は、ふと笑うと、柔らかい表情で彼女の片手を取り、置いていたスーツケースを再び持って、ビッグベンに背を向け、来た道の方向へと歩き出した。
「亜希さん⋯?」
「今すぐ連れ去ることにした」
亜希は、悪戯気な笑みを悠奈に向け、彼が住むサウスバンクの方向へと歩みを進める。悠奈は、少し驚いた顔を見せたが、すぐに笑顔をつくると彼のほんのわずかに後ろを歩いた。
—離れない。何があろうと、絶対に離れない
「風が出てきたな」
亜希は、吹く風の方向を見るように頭を上げ、繋いだ手を離し、コートの片側に悠奈を包み込んだ。
彼の体温を間近に感じると、悠奈はそっと亜希に寄り添った。
あの日、桜の下で出会ったこと、再会してしまったこと、全ては宿命なのだと悠奈は感じた。隣に居ることを夢に見ていた亜希が、今ここにいる。彼女は、今までにない強い愛おしさの中に、微かな独占欲が芽生えていることを感じたが、そんな自分の気持ちを全て受け入れる。
—彼の傍で、この先、どんな運命を舞うことになろうと後悔はしない。自分で決めた運命なのだから。地獄に堕ちてもかまわない
気まぐれに二人を結びつけた桜の宿命に、彼女は従うことを決めていた。桜は彼の痛みを知っていたのだろう。彼の座るベンチの隣で、ずっと慰めようとしていたのだろう。
「桜になりたい⋯」
悠奈はぽつりと呟いた。
亜希は、ふと睫を伏せて彼女を見下ろし、美しい瞳で微かに笑う。そこには優しく深い悲しみを映す瞳があった。瞳を重ねて幸せそうに微笑んだ悠奈の背中に、いきなり手を回した亜希は、彼女を抱き締めるように引き寄せる。思わず彼の胸の中に包まれた悠奈に高い緊張が走ったが、すぐに力を抜いて身体を預けた。亜希の腕の中で、彼の意識に包まれながら、悠奈はなにものにも変えられない幸せを感じていた。
—逢うと決めていたのよ。地獄に堕ちてもいい。あなたの傍に居る。
そう、ずっと前から決まっていたの⋯。
傾いた夕日でオレンジに染まりかけた重厚な美しい街だけが、抱き合う二人を静かに見つめていた。
つたない文章を読んでいただき、ありがとうございました。
評価していただいていた読者様、本当に感謝いたします。
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