【9】闇を舞う-1
宏樹にメモ書きしてもらった住所を元に、悠奈は一つの駅に降り立った。辺りには、民家以外には何もない風景だったが、西に歩くと、すぐ目の前に青い海が広がっている。
吸い寄せられるように海へと向かった彼女は、堤防の手前で足を止め、真っ青な空を映した深い青を眺めた。太陽に反射している細かな光が、キラキラと輝いている。吹く風は冷たく、微かに潮の香りを運んできた。
—こんなところに亜希さんが⋯?
彼の普段のイメージからは程遠い場所だった。誰一人として姿をみかけない古い町並。しばらく海を眺めていた悠奈は、冷えきってきた身体を感じると、コートを着忘れていることに気付いた。慌てていたせいだろう、鞄の中には財布が入っているだけで、携帯も置いてきてしまっていた。苦笑いしながら、もう一度住所に目を通して、民家の方向に足を向ける。
亜希には、宏樹に送ってもらうようにと言われていたが、彼女は、一人で彼が居る場所を訪ねたかった。そうすることで、ほんの少しでも今の亜希の気持ちが分かるかもしれないと感じていたからだ。
民家から少し離れた海岸の間近に、平家が多いこの辺りには珍しい5階建の真っ白なマンションが見える。住所を確認した悠奈は、鼓動が高鳴っていることを感じながら、ゆっくりとマンションに向かって足を運んでいた。
—どうか、逢えますように
彼女は、祈る気持ちで一歩一歩足を進めていた。
そのマンションは、オートロックも、エレベーターもなく、長方形のようなシンプルな形をしていた。階段で5階まで上がり、部屋番号を探そうとした時、一番奥の部屋のドアが開いていることに気付く。部屋の前まで行った悠奈は、亜希の部屋だと確信を持つと、ためらうことなく中に入ってドアを閉めた。
玄関を上がり、薄暗い廊下を抜けて正面の扉を開けた途端、世界が変わったかのように急に視界が明るくなる。そこには、西から太陽の光が差し込む十帖程の部屋があった。
「一人で来たのか⋯」
バルコニーに繋がる窓辺に立っていた亜希は、部屋に入った悠奈を振り返りながら呟いた。白い長袖のTシャツを着て、太陽の光の中にいた彼は、髪も肌の色も透き通って見え、今にも消えてしまいそうに透明だった。
部屋には、カーテンすらなく、白いベッドマットが無造作に置いてあるだけだった。その上にぽつんと置いてあるスチール製の灰皿が、やけに目につく空間だった。
「ごめんなさい。宏樹さんが居たほうがよかったのかな⋯」
「⋯いや」
一言だけ言葉を落とした彼は、微かに微笑ってマットの上の灰皿を取り上げ、窓の下の床に移動させる。
「そこ、適当に座ってくれたらいいから」
ジーンズのポケットから煙草を取り出した、目で、ベッドマットの上を示した。
悠奈は、黙って彼が言った通りに座る。亜希は、煙草に火を付けると、窓枠に凭れて悠奈の顔を見つめた。
「怪我、良くなったみたいだな」
「⋯ん、亜希さんは大丈夫?」
「ああ、かすり傷だしね⋯」
ふっと笑った彼の表情が、少し窶れて悲し気に見えた悠奈は、急にせつなさが込み上げてくる。
—この人は、ここでずっと一人で居たんだ。全てを抱えたまま、ここで一人⋯
甘く漂う煙草の煙に、無言の時間が流れていた。床の灰皿に煙草を押し付けた彼は、窓を開け、前方に広がる海を見つめている。やはり、誰をも受け入れない壁を感じた悠奈は、彼の背中に向かって言葉を投げた。
「あなたのその瞳に映る悲しみの理由を教えてほしいの⋯」
その声に、ゆっくりと振り返った亜希は、色のない瞳で微笑う。
「⋯何のために?」
「あなたを救いたいなんて言わない。ずっとずっと、あなたの悲しみを感じていた⋯。あなたが気になって仕方ないの。わたしのために教えてほしい。」
「⋯もう、俺とは関わるな。俺が特殊なことは分かっているはずだろ? 隅内のことも⋯」
彼は、後ろ手に窓を閉めると、優しく笑みを携えた瞳を彼女に向ける。悠奈は、この世の悲哀を全て映したような亜希の瞳に、自分の瞳を重ねて見つめると一瞬目を細めた。
「その悲しみは、消える日が来るの⋯? わたしは、亜希さんに逢いたくて来たの。どうしようもなくあなたに逢いたかったから来たの。あなたのことが知りたい」
悠奈は、立ち上がると、迷いない純粋な瞳で真直ぐに彼に言った。
亜希は、静かに深い瞳で彼女を見つめたまま数秒の間を置いたが、彼女の揺るがない瞳を感じると、力を抜いたように微笑う。
「おいで」
彼は、穏やかな微笑みを浮かべて、片手を差し出した。
悠奈は、彼の行動に一瞬ためらうが、ゆっくりと近付き、ぎこちなくその手をとる。
「悠奈」
亜希の声に、顔を上げた彼女は、見下ろしてくる彼の瞳に強く引き込まれた。深く悲しい、そして優しい瞳。その瞳から目が外せない。徐々に視界がフェイドアウトしてゆくと同時に、身体の力が抜け、亜希の腕の中に優しく包まれたことを感じた。すぐ近くにある彼の静かな呼吸と体温を感じる。溢れ出しそうな愛情と理由の分からない不安が、彼女を取り巻いていた。
「怖がらなくていい」
耳元で聞こえる彼の静かな声が、悠奈の身体に響き渡る。彼女は、その声に安らぎを感じ、一切の不安を消して彼の胸の中に留まっていた。
「あ⋯」
心を開けた途端、暗闇を急降下するような錯覚に落ち、意識が夢と現実の間を彷徨うように漂った。直接伝わってくる彼の優しさの中から、じわりじわりと、絶望感や虚無感が身体に染み入るように流れ込んだ。真っ暗な闇。降下は続き、底がないように落ちてゆく。
—これは一体⋯ 亜希さんの心?
深い闇の静けさの中に、彼女の意識は浮遊していた。徐々に一つの光が近付いてくる。その光は充満して弾け、粉々に散らばり、前方に映像を写し出すスクリーンとなった。
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