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【1】目眩-2
 ―まただ…酷く疲れてるのかも…

 悠奈はこめかみを押さえると、ゆっくり深呼吸し、目眩とそれに伴う不安な気持ちを落ち着かせた。 

「どうかした? 頭痛?」

「え…あ、ううん、何でもないの。で、伍番がなんなの?」

 悠奈は、心配気に声をかけてきたユキに、少し無理をして笑顔で答えた。

「ん…、あの、団体客なんだけどね…」

 座敷に目を向けて呟くユキの声に促され、目眩の余韻を感じながらも、再び視線を伍番席に向ける。
 店の入り口から一番近い伍番の席に座っていたのは、10名近くの団体客だった。そこには二十歳前後の男女のグループが座っていたが、各々が個性的で素人離れしていて、この居酒屋の一角に異色な空間を作り出していた。

「こっち向いて座ってて、帽子被ってる人いるじゃない? あの人、どこかで見たような気がするんだけど、悠奈ちゃん知らない?」

「…え、ん〜、帽子? 被ってる人はいるけど…。ここからじゃ良く見えないなあ…」

 背筋を伸ばして首を傾けながら、悠奈は伍番席を凝視した。
 そこにはハット帽を目深に被って、薄手の皮のジャケットを着た人が座っていることは確認できたが、帽子の鍔で表情までは分かりづらい。彼は決して目立つ行動はしていなかったが、団体の中でも浮き立つ存在感が目を引かせた。
 二人が、伍番席に目を向けていると、後ろで小さく舌打ちが聞こえる。

「また堂藤亜希かあ?」

 巧が、いつの間にか厨房からカウンターに出てきていた。

「なに? 堂藤って? 巧くん、彼のこと知ってるの? あの団体知ってるの?」

 咄嗟に目を輝かせて振り返ったユキは、彼を質問攻めにした。

「…いやぁ、団体ってか、俺が知ってるのはあの帽子の男、堂藤だけだ。悠奈は知らないのか? あいつ、うちの大学の俺と同じ4回生だぞ。やたらと女にモテモテで騒がれてるだろ?」

 面白くなさそうな声で呟く。

「へえ…そうなの? 知らない」

 悠奈は、帽子の彼を見つめたが、見たことも、堂藤という名前を聞いたこともなかった。

「ユキ、あれはやめとけ。常にいい女が周りを固めてるから、お前なんか相手にもされないぞ。」

「べ…べつに、そういうんじゃなくって、見たことある人だったから…」

「あ〜、なんか昔、雑誌モデルしてたとかなんとかって噂だからなあ…。それで見たことあるんじゃねーの?」

 吐き捨てるように言った巧は、そんなにいい男かあ〜? と、ぶつぶつ言いながら厨房に戻って行った。

「ってことみたいよ。分かった?」

 まだ、じっと放心状態で伍番席を見ていたユキに、悠奈は苦笑いで声をかける。

「あ、うん、雑誌かなにかで見たのかもしれないね…」

 心ここにあらずという感じで、口先だけで答えたユキの顔には、能面のように表情が見られない。

「ユキちゃん、大丈夫?」

「え?なにが?」

 ユキは、ふっと夢から覚めたように不思議そうな顔をした。

「…ん、なんでもない。あ、わたし、そろそろ片付けに戻るね」

 悠奈は、ユキの様子に違和感を覚えていたが、考え過ぎだろうと思いながら洗い場に戻った。

 1階席の客も全て帰り、午前1時少し前になった頃、店内がほぼ片付いたのを見計らって、悠奈は掃除機をかけはじめていた。

「あれ〜?」

 ちょうど悠奈の目の前で、かがんで座ぶとんを整頓していたユキが声をあげた。
 悠奈は、その甲高い声に、掃除機のスイッチを切って彼女を見る。

「どしたの?」

「携帯忘れてる」

 ユキは、手に持ったレモン色の携帯を、ほらっとばかりに高く上げて見せた。

「この携帯…この席って、確か堂藤って人が座ってたんだよね…」

 独り言のように呟いたユキは、その携帯電話を躊躇せず開いた。

「ユキちゃん、携帯、店長に渡した方がいいよ」

 悠奈は、他人の電話を覗く行為に驚いて声をかけたが、ユキは全く聞こえていないかのように無心でボタンを押し続けている。

「ユキちゃん?!」

 咎めるような呼び声に、ユキは我に返ったように携帯電話から目を離した。

「あ…じゃ、これ、ごめん、店長に渡してきて」

 とってつけたような笑顔浮かべると、立ち上がって手を延ばし、携帯電話を差し出した。

 ―なんで自分で持って行かないんだろ…

 いきなり携帯を渡された悠奈は、普段のユキらしくない行動を不思議に思いながらも、店の入り口のレジで売上げの計算をしていた店長に電話を届けに行く。

「店長、すみません、携帯電話の忘れ物なんですが…」

 小銭を数えていた店長に、小声で気を遣いながら声をかけた。

「え、携帯?」

 店長が、少し面倒そうに彼女を振り返った瞬間、店の玄関の扉が音もなくスッと開き、微かにオリエンタルな柑橘系の風が流れ込む。

「あ…」

 香りに誘われるように視線を向けた悠奈は、思わず小さく声を上げた。

「…あの、携帯、忘れてなかったです?」

 落ち着いた声と静かな物腰で店に入って来たのは、さっきまで伍番席にいた堂藤と呼ばれていた彼だった。
 悠奈は、間近で見ることになった彼の姿に、強い引力のあるオーラを感じ目を奪われた。細身の長身に、さらりとした茶色い髪。帽子を取っていた彼の表情を目前にした彼女は、長めに延びた前髪の奥の、切れ長で魅惑的な瞳に吸い込まれる。

「恩田さん、その携帯、お客さまの携帯じゃないか?」

 店長は悠奈の持っていた携帯を見ると、

「あちらの携帯でしょうか?」

 と、彼ににこやかに笑って聞いた。

「そう、それです」

 ほっとした表情を見せた彼は、レジの横に立っていた悠奈に数歩近付いた。

「…あ、ど…どうぞ」

 何故か自分の鼓動が聞こえる程の緊張を感じていた悠奈は、視線を落としたまま、携帯を両手で持って差し出した。

「ありがとう」

 お礼を言った彼は、悠奈の手の平から携帯を取ったかと思うと、数センチ程持ち上げたところで手を止める。
 なにか不都合があったのだろうかと自然と彼を見上げた彼女は、一瞬、時が止まったかのように息を詰まらせた。深く落ち着いたオリーブ色の瞳に真直ぐ視線を捕まえられ、逸らすことができない。逃げたくても逃げられない、そんな無力な感覚に落ちた。
 彼は、悠奈に向かって静かに微笑うと、何もなかったように携帯をポケットに入れ、店長に軽く会釈して店から出ていった。

「恩田さん、もしかして知り合い?」

「…え、いえ…」

 店長の不信気な表情に、逃げるようにさっさとその場から離れる。
 悠奈は、理由の分からない胸の動悸を抑えることができず、急いで洗い場に行くとコップに水を注いで一息で飲み干した。 

 ―なに? なんなの? この気持ちは…?
 
 彼と視線を合わせた時の、不安と期待が絡まったような、今までに感じたことのない胸の高鳴りに戸惑いを感じていた。
 
 ―あの瞳は…

 悠奈は、自分のざわついている胸を、握りしめた両手で強く抑えた。



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