【1】目眩-1
二年前の春の終わり―
桜は花びらを雪のように落とし、初夏の太陽が照りはじめていた。
郊外のマンションに母親と二人で暮らしていた恩田悠奈は、大学生活2度目の春の終わりを、季節が移ることを感じる余裕もない程忙しく過ごしていた。
彼女は、大学の講議が終わると、ほぼ毎日深夜までのアルバイトをしている。悠奈が中学に入ってすぐ、父親の起業の失敗が原因で両親は離婚した。余裕のない生活の中で、少しでも母の負担が軽くなるようにと、高校生の頃から続けてきた居酒屋でのアルバイトは、あっという間に5年目に入った。
そんな学業とバイトの掛け持ちの毎日は慌ただしく過ぎていったが、悠奈にとっては一日一日が充実している日々だった。
その日も、いつも通りに夕方6時に居酒屋に着くと、店の2Fの更衣室で作務衣のようなグレーの制服に手早く着替える。腰にエプロンを巻くと、栗色の緩いウェーブの長い髪を一つに束ねて軽く化粧直しをした。
―巧くん、もう来てるのかな…
彼女は手に持ったファンデーションケースの鏡を覗き込む。そこには、丸い大きな濃い茶色の瞳、小振りの鼻、形のいい唇が順に映った。
悠奈は1年程前、この居酒屋で働き出したアルバイトの隅内巧と知り合った。同じ大学の1回生と3回生だった二人は、何かと会話もはずみ意気投合し、恋人同志として付き合うようになるまでに、そう時間はかからなかった。
支度を済ませた悠奈は、更衣室から2階の個室の座敷部屋を抜け、階段を降りて厨房に向かう。1階は厨房が見えるカウンター席とオープンな座敷になっている。所々に生け花が活けてある上品な店内、そして新鮮な魚と天婦羅が楽しめる、巷で評判の店だった。
「おはようございます」
悠奈は、厨房にいた店長に気付いて笑顔で挨拶をした。
「あ、おはようございます。今日もよろしくお願いしますね」
丁寧に愛想よく返事を返す店長は、まだ二十代後半の少年のようなあどけなさの残る、この店『椿屋』の二代目跡取りだった。
店内を見回した悠奈は、まだ客もまばらであることを確認すると、厨房から裏口に出た。通路に並べてあったケースの中のビール瓶を手早く拭き、ケースごと引きずって店内のドリンク専用の冷蔵庫の前に置く。
「おはよう」
ふいに、真後ろで聞き慣れた声に振り返ると、エプロンを後ろ手で締めながら、人なつっこい笑顔で立っている巧の姿があった。
「あれ? 遅刻?」
「バイトまでちょっと仮眠と思ったら寝過ごしちまった」
寝癖のついた真っ黒な短髪を撫でつけるように押さえた彼は、くっきりとした顔立ちに苦笑いを作る。
「じゃ、またあとで」
片手を上げると、調理の補助をするために、急いで厨房の中に入っていった。
―まったく子供みたいなんだから…
悠奈は笑みを浮かべながら、ビール瓶を冷蔵庫に並べはじめる。
彼女にとって、巧は年上だが目の離せない弟のような存在だった。以前、彼に他の女性の存在を感じた時も、そのことを追求せず静観していた。巧は、自分の移り気を察している筈の悠奈が何も言わないことに後ろめたさを募らせ、結局は彼女一人に気持ちを戻す。喧嘩もなく穏やかに付き合いを続けているのは、悠奈が母親のような気持ちに徹しているからだった。
8時を過ぎた頃、店内は満席の状態で客の笑い声や店員のオーダーを読み上げる声で賑わっていた。店の玄関に置かれた木製の長椅子には、席が空くのを待っている客が並んで座っている。
「恩田さん、悪いけど、上の座敷に人が足りないから手伝ってくれないかな?」
突然、バタバタと2階から降りてきた店長が、階段下にいた悠奈に声をかけた。
「あ、はい、いいですけど…」
「じゃ、とりあえず、先に2階のトイレチェックして、個室のお客様の空いた皿やグラスを引いていってください。あとはマネージャーに聞いて」
彼は早口でそれだけ言うと、忙しなく小走りにカウンターに向かって歩いていった。
悠奈は、店長の指示通りに階段を駆け上がり、すぐ右にあったトイレの扉に掃除中の札を掛けて入った。トイレの扉を閉めた瞬間、身体に何かが通過したような、ふわっとした軽い目眩を感じ、足下がふらついて洗面台に両手を付き項垂れる。
―まただ…疲れてるのかな…。寝不足だし今日ははやく寝なくちゃ。
最近、悠奈はこの奇妙な目眩を頻繁に感じていた。
洗面台で勢いよく水を出して、両手を冷たい水に晒し続けると、除々に目眩はおさまる。血圧は元から低かったが、貧血の目眩ではない。宙を浮いたような感覚と同時に、確実に何かが通り過ぎるのだった。人間の視線のような、感情のような、説明のつかない何かを感じていた。その度に気が遠くなるようなふらつきを覚えた。
ちょうど去年の秋頃からはじまった目眩は、月に2度程だったものが、この一ヶ月位は週に2、3度程度までに回数が増えている。日々の忙しさに、病院にも行かずじまいになってしまっていることを後悔する瞬間だった。
―しっかりしなきゃ
彼女は、軽く両頬を叩いて、無理矢理に鏡に向かって笑って見せてから、気持ちを入れ替えトイレ掃除にとりかかった。
店の忙しさがピークを過ぎた頃、2階での仕事を済ませた悠奈が下に降りると客は半数ほどに減っていた。厨房の横の洗い場には、洗い終わって積み上げられた食器が山積みになっている。布巾を片手に食器に手を延ばそうとした彼女は、音もなく、いきなり後ろからグッと腕を引っ張られた。
「悠奈ちゃん、ちょっと」
突然の人の気配に驚いて振り返った悠奈の目の前に、同期のアルバイトの樹杉ユキが立っていた。
「びっくりした…。どうしたの?」
面喰らった表情を浮かべた悠奈に、ユキは腕をつかんだまま、にこにこと笑っていた。
丸顔に、眉の上で切り揃えられた前髪。少し赤茶のボブが印象的な彼女は、顔全体で笑うような笑顔が魅力的な女の子だった。
だが、目の前のその笑顔が、悠奈にはいつもとは違って見えた。自分に向けられた視線が背後に抜けてしまっているような、微妙に焦点が合っていないような、どこか奇妙な感覚を受ける。
「ユキちゃん、大丈夫?」
顔を近付け、ユキの瞳を覗き込んだ。
「ちょっと、こっち来て欲しいの」
悠奈の呼び掛けを無視したユキは、ついてこいとばかりに手招きしたかと思うと、洗い場から座敷へと向かって歩いていく。悠奈は、理由が分からないながらも急いでユキの後を追い、1階席が見渡せるカウンター前に立っている彼女に追い付いた。
「ねえ、伍番席、見てみて」
ユキは、悠奈の耳に顔を近付けて小声で囁く。
悠奈は言われた通りにその席に目を向けたが、途端に、ふぅっと軽い目眩を感じた。
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