【5】蜘蛛の巣-3
悠奈が亜希のマンションに引っ越し、1ヶ月以上が経とうとしていた。
日々の生活は何も変わらず、彼女は大学とアルバイトで忙しい生活を送っている。変わったことと言えば、事件以来、沈みがちだった母が落ち着きを取り戻し、仕事に復帰したことくらいだった。
たまに宏樹が部屋に顔を出しに来たが、亜樹とは話す機会さえなかった。彼の部屋で留美と顔を合わせてからというもの、引っ越しの挨拶もメールで済ませたままにしている。数回、エントランスで女子高生らしき団体に囲まれている彼の姿を見かけ、横を通り過ぎる時に会釈はしたが、そういう近所挨拶程度の関わりがなければ、全くの他人と同じようなものだった。
その日は土曜日で、悠奈はラフな部屋着で一日のんびりと家事をして過ごしていた。朝から天気が悪く、今にも雨が降り出しそうな曇空だったが、マンションには乾燥機が設置されていて、今日二度目の洗濯をはじめていた。彼女は、前のマンションよりずっと贅沢な生活を送っている気分になっていたが、その便利さに慣れられず、食器も洗浄器があるのに少量なら手で洗ってしまう。
―やっぱり、貧乏性って抜けないなあ…。
長年培ってきたライフスタイルは、すぐには変わらないことを痛感し苦笑いした。
キッチンを片付けて自分の部屋に向かっていた悠奈は、設置電話が鳴っていることに気付く。急いで部屋に入ると、子機の受話ボタンを押した。
「はい、恩田です」
「あ、恩田悠奈さんですね。警察のものですが、事件の件で…」
受話器から、少し神経質そうな男の声が聞こえた。
「あ。はい、何か分かりましたか?」
「ええ、被疑者が、ほぼ確定したんですが…」
「え? 分かったんですか?」
悠奈は、子機を持つ手に力を込めて、思わず大きな声を出した。
「はい、隅内巧という二十一歳の男性です。お知り合いですよね…」
「…は?」
彼女は、一瞬目を見開き、耳を疑った。
「隅内巧。あなたとお付き合いしていた人物ですよね?」
淡々と話すその声に、悠奈は、除々に足が震えてくるのを感じ、その場にゆっくりと座り込んだ。
―…まさか、彼が犯人? どうして…
彼女には巧が被疑者だということを、にわかに信じることができなかった。
真実だとしたら、一体、何のためにあんな事件を起こしたのか。どう考えても彼の動機に見当がつかなかった。
悠奈は、受話器から聞こえてくる刑事であろう人物の言葉に、呆然としながら耳を傾け続けていた。
警察は、火炎瓶に使われた瓶が、この近辺では『JANGG』でしか扱っていない輸入飲料だったことから、当日『JANGG』に行っていた悠奈の身辺から捜査をしていたということだった。元々、アリバイのなかった巧に目を付けていた警察が、ほぼ被疑者だと固めたのは、犯行当日、駐車場に残ってあった僅かな指紋と、巧の指紋がほぼ一致したことからだった。
巧は、あの日の事件以降、度々、悠奈の部屋を黙って見上げている姿を住人に目撃されていた。パトロールをしていた警官が、夜中に彼の姿を見つけたが、警官を察知した彼は逃げ出し、現在は行方不明だという。
その日の夜、悠奈は仕事を終えて帰ってきた母と夕食を済ませた後、自分の動揺を悟られないように平静を装って、事件の被疑者が巧であることを知らせた。
一瞬、持っていたコーヒーカップを強く握り、まさかというような表情をした母は、ふっと力が抜けたように、
「そう…。でも、巧くんらしくない、なにか魔が指したのかしらね」
と、同情の色を瞳に浮かべ、自分の娘を見つめて苦く笑った。
「分からないの。まだ信じられないくらいだもの」
悠奈は、無理に笑顔をつくって母に答える。
「…でも、悠奈、あなたのせいじゃないのよ」
母は、包み込むような優しい声音で言った。
悠奈は、その言葉に、心の氷が解けたように胸が暖かくなり、目頭が熱くなる。彼女は、自分が付き合っていた彼が母に危害を加えたということで、重い責任を感じていたのだ。
まだ捕まっていない巧のことなど、事件に関しての問題は山積みに残っているものの、見知らぬ第三者ではなく、知人の犯行だと分かっただけでも先の生活に光が見えた。被疑者が確定した以上、犯人に怯えることなく、元のマンションに戻ることができる。
元のマンションの住人には、すぐに全てが知れ渡ることになるだろう。そんな環境に戻ることは、悪い意味での注目の的となるに違いなかったが、これ以上このマンションに居座ることはできない。
考えてみれば、よく知らない他人のマンションに住んでいること自体が常識はずれなことだった。冷静な判断能力が鈍っていて、部屋を借りることにしたのも先走り過ぎたのかもしれないと悠奈は思っていた。
亜希の存在を、いつも心のどこかで気にしていた悠奈だったが、これをきっかけに距離を置くことを決心する。今までも、決して意識的に近付くつもりはなかったが、この数ヶ月の間で微妙に距離は縮まっていた。彼にはこれ以上近付かない方がいいと、彼女自身の無意識の層から警告が出されていることを無視し続けることは出来なかった。
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