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昨日は結局、敏行とは飲まなかった。いや、飲めなかった。
あの後すぐ、取引先から電話があり、また別のデータを用意して欲しいということで、夜中までデータの整理にてこずっていた。
その間、敏行から電話があり、飲みには行けないことを伝えると、
「じゃあ、明日の昼はおまえのおごりだな。」
と、敏行らしいやり方で気遣ってくれた。電話の最後に、
「さすがだが、約束忘れるなよ。」
と、敏行らしい労わりの声で付け加えて。
こういう時の敏行は、素直に好きだと、由香里は思える。
そういうわけで、今、由香里は敏行とオープンカフェに来ていた。
高層ビルが立ち並ぶオフィス街に、周りから取り残されたような小さな森林公園があり、その一角にその店はある。店全体が一本の樹に覆い包まれ、天気も良いということもあり、木漏れ日が二人のテーブル席に光と影のまだら模様を織り成す。
「少し暑いわね。」
と、由香里がスーツの上着を脱ぎ、真っ白なハンカチを額に押し当てながら言うと、
「もう夏だからな。」
と、麻でできたカジュアルなスーツの上着を着たまま、十分涼しそうな顔の敏行は当たり前のことを言い、足を組替え微笑んだ。
二人はこの店が気に入っていた。正確に言うと、昼食時のピークを過ぎたこのくらいの時間に、この店に来られることをだ。店は日本人のオーナーシェフが切り盛りしている。顔に似合わず、繊細な料理をそこそこの値段で提供しているということと、その立地条件に合った洋風の淡く、どこか懐かしさを感じさせるモダンな店の造りと相まって、昼食時ともなるとビジネスマンやOLの姿で埋め尽くされる。
しかし、ピークを過ぎると途端に人影はまばらになり、また、もとの静かな落ち着いたオープンカフェに戻る。由香里も、このときばかりは時間に融通のきく仕事に感謝をし、人と時間をずらせることほど、贅沢なことはないと思う。
目の前では、敏行が、昼間から(といっても、ずいぶん遅いが)グラスワインを飲んでいた。いくら酒好きの由香里でも、徹夜明けの昼間から飲むほどの気力は持ち合せていなかった。
隣の席では老人が、新聞を読みながら、煙草をふかせている。
二人は食事中、お互いの仕事について二言三言、冗談を交えながら意見を出し合った。仕事から離れている時にまで仕事の話しをするなという同僚もいるが、二人はこの考えを全くの見当違いだと認識していた。仕事から離れているときにこそ、今の仕事の状況を客観的に見つめられるのではないかと。
食事も終わると、コーヒーが香ばしい香りとともに運ばれて来た。
敏行は一口、静かに啜ると、由香里とまっすぐに向き合い、それまでとは打って変わった態度で、由香里をまっすぐに見つめ、静かに切り出した。
「何を悩んでいるんだ?」と。
来たか、と由香里は思った。
どうして敏行にはわかられてしまうんだろう、とも。
由香里は、身じろぎせず、上着を着ながら、
「仕事、辞めようかと思っているの。」
と、半ばそれがいつもの仕事に関する情報の交換のように、そう答えた。
驚きを隠せないといった表情の敏行は、呆れたとでも言うように、
「悩んでいるとは思っていたが・・・しかし、また、突然どうして?男絡みなんて言わないよな?」
「男なんていないわ。あなたが一番、知っているでしょう?そんな、単純なことじゃ・・・・」
由香里は、敏行らしいな、と思った。結果があれば、必ず原因があると思う。しかし、原因はそんなに簡単に剥がれるような生易しいものではない。もっと、深く、体の細胞一つ一つに刻み込まれ、長い時間をかけて化膿し、かさぶたとなって張り付き、それでもそれをいじらずにはいられず、また血を流し悪化するような・・・・・
由香里はそれを話そうかとも思った。だが、思ったと同時に、話せば自分の中の何かが崩れていくような錯覚に囚われ、そう囚われる自分を哀れで孤独だと感じずには、いられなかった。しかし、哀れで孤独だが、それが今の自分自身を、何かから唯一踏みとどまらせているものだとも・・・・
それで、しばらくの沈黙の後、席から立ち上がり、
「あなたには関係ないことよ。」
と、言うので精一杯だった。だが、発せられた声がひどく弱々しいことに、由香里自身も困惑せずにはいられなかった。細心の注意を払ったつもりだった。
敏行の目はひどく傷ついたように、だがそれは傷つけられたというよりむしろ、自分と同じような人間を哀れむようであり、由香里はそんな目をさせるに耐えきれず、
「でも、今すぐにと言うわけじゃないわ。」
と、なんとか平静を装った。
それからの会社までの帰り道、敏行は理由について一切触れなかった。
だからまた、何気ない会話の後、由香里は自分のオフィスに戻る間際、敏行に、
「心配しないで。」
と、いつものように静かに微笑んで見せた。
由香里は自分のオフィスに戻り、敏行の背中を背景にしてゆっくりと扉を閉める。それから立ったまま、窓の外をぼんやりと眺めた。すると途端に、途方もない不安が押し寄せてくるのがわかり、由香里はすぐさまパソコンの青白い光に向き直るのだった
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