父の死
「M病院さんからはまだ何の連絡もありませんか?」
そう言って携帯に突然電話をしてきたのは、N病院のいつもの年輩の看護婦さんである。仕事の真っ最中に、例によって携帯に「N病院」と着信表示されたので、ああ、また父が何か問題を起こしたか、あるいはまた付き添いのお願いかと一瞬うんざりしたのだったが、電話に出てみると看護婦さんの調子がいつもとちょっと違う。どこか晴れやかで、ウキウキした感じがある。M病院から音沙汰もなく困っていると告げると、看護婦さんは言った。
「ああ、それならよかった。実はですね、もしM病院さんから連絡がないようだったら、Kの町なかの病院にお父様を移されたらいかがかと思いましてね。それでお電話したのです。」
看護婦さんの声色が明るい理由がわかった。ようやく父を厄介払いできるからだ。
「その病院って、精神病院ですか?」
私は気がかりを一つずつ潰すように看護婦さんに聞く。
「いいえ、一般の総合病院です。ただ、ここのような救急医療型の病院とちがって長期療養型の総合病院なんです。」
認知症で徘徊癖のあるガンコ老人を拘束することなく酸素マスクを付けさせておくことができる、そんな奇特な病院が世の中にあるのか?
「こちらは救急医療病院ですから、お父様の看護にはどうしても限界があります。急患があったらそちらを優先しなければなりませんし、そのためにベッドも確保しておかなくてはなりません。お父様は入院された当初は危険な状態でしたが、酸素マスクさえつけておいていただければ、かなりお元気になられましたから、この際長期滞在型の病院へお移りいただいたほうがよろしかろうと・・・。これは先生のご判断です。」
なぜ父がN病院で厄介者扱いされるのか理解できた。
一口に病院と言っても病院にはさまざまなタイプがあるらしい。N病院は救急医療型の病院で、Kの病院は療養型の病院なのだ。救急医療型病院に元気になった患者を長く置いておけないというのは確かに道理であるし、そちらを専門に看護する人達に対して介護もどきの業務をお願いするのはそもそも筋違いである。それでもやってくれというのは虫のいい話なのだ。
それならはじめからM病院などという精神病院を紹介せずK病院を紹介してくれればよかったのに、と父の担当医にイヤミの一つも言いたくなるが、そこは慎重な合コン先生のことだ。拘束してでも生命活動を維持してもらったほうが安全と考えて下した診断だったのだろう。それにしても、療養型病院で父を預かってくれるというのなら、こんなにありがたい話はない。
「で、今空きはあるんですか?」
そう聞くと、
「ちょうど空きができたのです。もしM病院からまだ何も言ってこないようであればそちらはキャンセルなさって、すぐにでもこちらへお移りになられたらいかがでしょう? すでに△△先生(たぶん合コン先生のことだろう)から先方の先生に連絡が行っておりまして、先方からは、今なら入れるからすぐにでもお連れするように、とのことなんです。いかがでしょう、K病院の電話番号をお教えしますから、まず一度ご連絡なさってみたらいかがですか?」
早速看護婦さんに教わった番号に電話して用件を伝えると、入院手続きは後回しでかまわないから、すぐにでも本人をつれて来い、できれば明日にでも来いと言う。
明日だって? 明日は平日じゃないか。また休みを取って長岡まで帰らねばらねばならんのか。その辺を匂わすと、K病院の事務員さんは脅しとも取れそうな、こんなことを言った。
「早く入院されませんとすぐに次の患者さんが入ってしまいますよ。」
やむを得ず翌日休みを取って新幹線で長岡へ。いったん家へ帰り、急いで車でN病院へ行く。
それにしても、K病院は老人専門の療養型病院だというから、空きができたということは、おそらく誰か老人が一人亡くなったということだ。父はその亡くなった老人の後に入るということになる。N病院まで車を走らせながら、私は漠然とK病院に《姥捨て山》のイメージを抱いたのであった。
N病院側はもうすっかり準備が整っていて、あとは父の身の回りの品をまとめるだけだった。ずいぶん用意のいいことである。一刻も早く父を追い出したいのだろうが、厄介払いできてせいせいするといった雰囲気を微塵も感じさせないところがまたイヤラシイ。
とはいえ人の感情というのはどんなにひた隠しにしてもビミョーに表に現れてしまうものだ。いつもツンケンしていた看護婦さんたちが、今日に限ってどこかほほえましく、やたら優しい。父がいる間には見たことのない晴れやかな笑顔で応対してくれる。中には「せっかくお友だちができたのにねえ。」だの「これから寂しくなりますねえ。」などと声をかけてくる看護婦さんもいる。
しかしながら、まだ病院は甘い、父を甘く見ているとしか言いようがない。K病院に移るに当たり、重大な懸念事項が一つあることに、看護婦さんたちはまったく気づいていないからだ。それは父を説得し、何らかの《理論》で十分納得させることができるか否かだ。これに成功しない限り、父はテコでも動かないだろう。駄々をこねて、みんなを困らせるだろう。
母の心筋梗塞以降、この三ヶ月の間、父は合計三つの施設を転々としてきた。Y町の介護施設、介護付き有料老人ホーム『天使の庭』、そして今のN病院。これから向かうK病院が四つめの施設になる。私はそのつど何らかの《理論》を使い、またそれらしい《作戦》を立案して、ことごとく成功を収めてきた。《若い女の子が手伝ってほしいとお願いしている理論》であったり《じいちゃんでなければ入れない理論》であったり、はたまた《駄々っ子あやし作戦》であったりと、すべては父が認知症であればこそ可能な《理論》であり《作戦》であった。そのつど手法も言っている内容も変わったが、これまでの傾向を振り返るに、きちんと筋さえ通っていれば、たとえ内容がウソであろうと父は納得した。父はそのつど私にいいように言いくるめられ、何とか施設を移ったのであった。このたびの移動に関しても、私には十分に勝算があった。もし嫌がるようだったら、私は父にこう言ってやるつもりだった。
「じいちゃん、今度の病院は山奥の環境のいいところだぞ。酸素マスクなんかいらないくらい空気が澄んでて、きっとよくなるよ。」
これぞ新たな《自然環境のいい病院で療養するといい理論》!
ところが、である。意外にも父は、このたびの移転に関しては、何の抵抗もなく「そうらか」と素直に受け入れたのであった。ずいぶん気合を入れて理論を作ったのに、私は拍子抜けしてしまった。それと同時に何か嫌な予感がした。
「そいじゃ、行ごうかの。」
そう言ってのっそりベッドを下りる父の姿は、自らの死期を悟り、伝説の墓場へ向かう老いたアフリカ象を想像させた。
「K病院まではわたくしがご同行しますから。」
そう申し出たのは、いかにもまじめそうな、丸顔で目の細い若い看護婦さんだった。主に平日の日勤帯で働いているのだろう、初めて見る顔だ。
看護婦さんは、どこからか人間の片脚ほどの大きさの酸素ボンベを運んで来た。結構重そうな灰色の酸素ボンベで、看護婦さんはそれをよっこらしょと専用の車椅子に取り付けようとする。か弱い女性が一人でやるのは相当難儀だろうなと思われた。それでも看護婦さんは、これは自分に与えられた仕事なのだと言わんばかりに、懸命に取り付けようとする。しかし、なかなかはかどらず、私に手伝って欲しそうな感じだったので、
「やりますよ。」
そう言って手伝うと、
「助かります、ありがとうございます。」
と大いに感謝する。
車の後部座席に父と丸顔の看護婦さんと酸素ボンベを乗せ、K病院までの略地図を片手に、N病院を後にした。
大手大橋を渡るとき、父は自慢げに看護婦さんにこう言った。
「この橋はおれが作ったがあて。設計のときからずっとやってたがあて。」
ホントかよ! 私は思わず大声で笑ってしまったが、さすがに看護婦さんは扱いに慣れていた。
「へえ、そうなんですか、すごいですね、長沢さん。こんな大きい橋を作ったなんて。」
父の言うことがまったくのデタラメだったかというと、実は必ずしもそうといえないフシがある。というのは、この橋の建設に当たって父の会社が電気工事を請け負っていた可能性があるからだ。父が現場監督として電気工事に立ち会ったということは、決してあり得ない話ではない。だからといって「自分がこの橋を作った」ことにはならないが、正常な人なら「この橋を建築するに当たって電気工事に立ち会った」というべきところを、認知症患者でありかつ自慢好きな父は「自分がこの橋を作った」と表現したのかもしれない。父の言うことがまったくのデタラメだと断定できない理由を、子たる私はよく知っていたのだ。しかし看護婦さんは父のそんな過去の業績など知るよしもない。看護婦さんは認知症患者の単なるたわけた妄想と捉えていたのに違いない。父のことをほとんど知らない看護婦さんの認識と父の子である私の認識との間にこのような微妙なギャップがある。看護婦さんが父の取るに足らない自慢をまったくの妄言と捉え、職務として応対する大人の態度がちょっと癪に障る。
相変わらず父は昔のことは実によく覚えていた。地理に不案内な私達、私と看護婦さんにKの町を次々道案内する。「ここを曲がると昔の操車場に出る」そのとおり曲がると本当に操車場跡がある。「このT字路を左に曲がれば町役場の前に出る」実際そのとおりであった。
なぜ私達はこんな父を認知症患者として扱わねばならないのだろうか。よりによって私達はこんな父を精神病院に入れて拘束しようとさえしたのだ。M病院に入れなくて済んだことを大いに感謝する私であった。
K町はもともと独立した一つの町だったが、このたびの市町村合併で長岡と合併した。山奥の小さな町で、芸能人や有名人が何人か出ている。高校時代の同級生でここから長岡までバスで通っていた友人が何人かいた。K町にも高校はあるが進学校ではないので、成績のいい奴はこちらへ来るのだ。今でこそ幹線道路が整備され、車で三十分も走ればK町まで行けるが、当時そんな便利な道路はなく、冬になると主要道が雪で閉ざされてしまうので、K町出身の同級生連中は長岡市内にアパートを借りて自炊していた。
小さなK町の中心を信濃川の支流となる川が流れている。町並がこの川中心に形成されているのを見ると、古くはこの川が長岡との交通手段であり、重要な流通経路であったことが偲ばれる。町役場も警察署も消防署も公園もすべてこの川に沿って建てられている。K病院もまたK町を彩るこれらの建物の一つとしてこの川沿いにあるのだが、この川、恐いことにはガードレールが一切張られていない。道路からすぐ下が崖になっていて、一つ運転を間違えると、車ごと真っ逆さまに川の中に落ちてしまいそうである。折からの豪雨で川は茶色く濁り、水嵩が増していた。車をK病院の駐車場に入れる際、川に落ちないよう十分注意しなければならなかった。
K病院はひっそり閑としていた。入り口を入るとすぐ左手が受付、目の前が待合室になっている。暗い待合室には長椅子がいくつか置いてあるだけで、外来の患者さんはお婆さんが一人いるだけだ。お婆さんは背中を丸めて古びた女性週刊誌のページをめくっている。奥には小さな売店が見える。中の売り子のおばさんはいかにもヒマそうな感じだ。
この病院、小さいながらも昔はK町を代表する総合病院だったようで、レントゲン室やCT室など、それなりの施設を備えている。が、なにぶんにも患者がいない。事務員のほうが多いくらいだ。後で聞いた話によると、数年前に長岡とK町との境にできた大型総合病院に患者をごっそり取られてしまったとのことだ。N病院にも匹敵するその大型病院が開設されて以降、老人介護医療専門の療養型病院として路線を変更してしまったため、せっかくの最新医療設備もほとんど使われることなく、過去の栄光を偲ぶだけの記念碑のようになってしまった。
「長沢さんはこちらの病室になります。」
整った顔立ちのちょっと小奇麗な中年の看護婦さんが案内した部屋は、三階の三人部屋だった。父のベッドはいちばん奥の窓際である。
他のベッドには半ば動きの止まったおじいさんが横たわり、じっとテレビを見ていた。新参者の入室で騒がしくなったにもかかわらず、彼らは私達を目で追うだけで、看護婦さん達の会話はもちろん、これから自分達と一緒に生活することになる老人がどんな人なのかという最も重要と思われることに対して、興味すら示そうとしなかった。それぞれのベッドは間隔が狭いわりにピンク色のカーテンで仕切られているだけで、ちょっとした物音もうるさそうであった。これではテレビもまともに見られないのではないか。
テレビといえば、驚いたことにこの病院のテレビは液晶テレビで、ベッドのすぐ脇の台に金属のアームで据え付けられている。このアームを調節すると、画面が前後左右に百八十度回転するという便利なシロモノで、もちろん地上デジタル放送も見れる。N病院はまだアナログ放送のブラウン管だったぞ。さらにすごいのはリモコンのボタンを押すと『院内メニュー』という画面が出てきて、ここから食事の選択や売店で買い物ができることである。これはホントにすごい。優れモノである。ただしここの老人達がこれを使いこなしているかどうかは大いに疑問であるが。ちなみにテレビを据え付けてあるこの台のことを、専門用語で床頭台というらしい。床頭台そのものも明るい木目調でしゃれていてN病院の金属製のやつよりもずっと高級感がある。
看護婦さんの制服もちょっとカワイイ。カワイイだけでなく優しい感じがする。N病院の看護婦さんの白衣はブルーがかっており、それはそれで清潔感と折り目正しさが感じられたが、その分どこか冷たい印象がある。この病院の看護婦さんのはピンクがかっていて、ぬくもりと若々さが感じられる。
色の違う白衣を着た二人の看護婦さんは父の引継ぎをする。あれこれと専門用語を使って、ひとつひとつ手順を確認しているようだ。後で聞いたところによると、看護婦さん同士のこのようなやりとりは、正式には「引継ぎ」とは言わず「申し送り」というのだそうだ。
やさしさが感じられるのは白衣だけではない。看護婦さん達本人もまたN病院の看護婦さんのようにツンケンした、人を見下したような態度がない。全員どこか素朴な田舎びたあたたかみがあり、すれた感じがしない。N病院が決してそうでないというわけではないが、患者を人間として扱おうという態度がうれしい。いずれにせよ精神病院に入って手足を縛られて酸素マスクをつけられるよりはずっと居心地がいいはずで、M病院に空きができなかったのは、かえって幸いというべきだ。
院長から話があるというので、父を看護婦さんに任せ、私は院長室へ出向いた。院長室は同じ三階の小さなナースステーションのすぐ脇にあった。中に入ると、右の壁には書類が雑然と積み上げられた事務机とびっしりスケジュールが書き込まれた白板があり、左の壁には薬品箱や茶色い薬瓶がすらり並んだ棚があった。院長室というより薬局といったほうが近い感じの部屋だ。
院長先生は五十半ばのずんぐり太った人で、黒々した天然パーマ、日焼けなのか酒焼けなのか、浅黒い顔に厚ぼったい大きな口、垂れた小さな目をしていて、白衣をまとっていなければ医者というより土建屋の社長といった雰囲気だった。院長先生は黒いビニール皮の回転椅子に浅く腰掛け、重そうな上半身を背もたれにもたせかけ、ここへ座れと手招きした。診察を受ける患者さんのように先生の前へ座ると、先生は太鼓腹の目立つ体の向こうから見下ろすような視線で言った。
「N病院からお話は聞いています。ここに入ればもう安心ですから。」
それから父の病状を簡単に聞き取り、手元の紙を遠目がちに見ながらこんなことを言った。
「お父様があんまり手を焼かせるんで、N病院のほうもずいぶん大変だったようですなあ。本来であればこちらもそう簡単に患者さんをお引取りするわけにはいかないんですが、何せN病院の看護婦さんたちが担当の先生に何とかしてくれって、みんなして大勢で直訴したらしいですからね。もう担当医じゃどうにもならないんで、結局N病院の副院長からじきじき私のほうに依頼がありましてね。それで今回こうしてお預かりさせていただくわけなんです。」
「ハァ、そうなんですか。ありがとうございます。」
しばらく間がある。再び院長先生が口を開く。
「医者の世界というのもサラリーマンの人たちとおんなじで、いろいろとつながりがありましてね。N病院の副院長は同じ大学のボクの一コ先輩なんですわ。その人のたってのお願いじゃねぇ。無理してでも何とか空きを作らないとね。」
「ハァ。」
そうだったのか。こういう施設の空きは、誰かが死なない限りできないとばかり思っていたのだが、今の院長先生の話っぷりだと必ずしもそうでもないらしい。
また少し間ができる。こちらが何か言い出すのを院長先生が待っているようにも感じられる。私が何も言いそうにないのを見て取ったのだろうか、院長先生は、フゥッと大きくため息をついて、再び口を開く。
「まあね、お預かりするからには、こちらで責任をもって面倒見させていただきますから、ご安心ください。」
「ハァ、よろしくお願いします。」
「それとね、M病院の空きをずっと待っていらしたんですって?」
「ハァ、そうなんです。なかなか空かなくて、困っていたんです。」
「フゥム、なるほどね。ナルホド、ナルホド・・・。そりゃあそうでしょうな。」
院長先生はそう言って、何やら意味ありげににやりと笑った。厚い唇がいびつに歪む。ナルホドを繰り返すからには、何らか私の預かり知らぬ医者の世界の事情があって、院長先生はそれを十分知っているのだろう。院長先生は言う。
「とりあえずM病院には入院願を引き下げると言っておいてください。なに、電話でかまいませんよ。」
「ハァ、わかりました。」
「ハイそれじゃね、入院の手続きだけは今日中に済ませておいてください。お父様のほうは後ほど診察させていただきますから。あ、そうだ、あとね、入院の受付といっしょにここの介護センターのほうも受付しておいてください。」
「え?介護センターですか? どこにあるんですか?」
「この病院棟の隣の棟が老人福祉介護センターになってます。入院の手続きが終わったら事務員が場所を教えてくれますよ。長沢さんの場合、単なる入院じゃなくて介護付きの入院になりますからね、ここへ行って担当の介護福祉士を決めてもらってください。」
「長岡の福祉センターに担当の介護士さんがいましたけど、そちらはどうなりますか?」
たまに後光の射すように見えたあの××さんのことである。
「それとは別の申請になります。ここの病院の介護福祉士でなければ介護はできません。」
「そうですか。わかりました。」
院長先生との面談で確実にわかったことがある。それはN病院の看護婦さんたちが労働組合の団交にも似た訴えを起こしたことであり、これに困った合コン先生が父をここに入れるためにN病院の副院長まで動かしたということである。真偽のほどはともかく、院長先生はなぜわざわざそんなことを私に教えてくれるのだろうか。その理由がわかるのはこれからもう少したってからのことである。あのMの精神病院がなぜなかなか空かなかったのか、その理由もそのとき明らかになる。
父がK病院に入った当初、看護婦さんから私あてに何度か電話があった。想定の範囲内ではあったが、それでも電話を受けるたび私は憂鬱な気分になった。何度かに一度は電話を取ろうとさえしなかった。普段から電源をきっておこうかとさえ思った。K病院からの電話の内容はN病院とほとんど同じであった。父が酸素マスクをはずして勝手に歩き回るので困る、何とかしてくれ・・・。看護婦さんの悲痛な訴えである。私は看護婦さんにこう言い切った。
「本人が勝手にはずして出歩いてるんですから、無理矢理マスクつける必要はないです。見つけたときに適当に注意してくだされば、それで結構です。」
「でも何か事故でもあると大変ですから。何かあったらこちらでは責任を負えません。」
これもまたN病院の看護婦さんが言ったこととまったく同じだ。それに対しては私も同じ言い方で返す。
「大丈夫、事故なんてありませんよ。仮にあっても、そのときに処置を考えればいいじゃないですか。」
「それでは困ります。この間だって一人で階段を下りられて、二階の踊り場でぜいぜいされてたので、階段から落ちでもしたら大変だと、看護婦みんな大騒ぎでしたよ。あそこから飛び降り自殺でもするんじゃないかと言う者もおりましたくらいで。」
「大丈夫ですよ。オヤジに限って自殺なんてしやしませんから。」
「いや、そういう問題ではなくて・・・。」
「大丈夫です。放っておいてください。」
ここまでのやりとりはN病院の時とさほど変わらない。K病院がN病院と決定的にちがっていたのは、看護婦さんのこの一言だった。
「わかりました。もし何か事故がありましてもこちらとしては一切責任を負わないということでよろしいですね?」
「全然かまいません。何も文句は言いませんから。」
これ以降K病院からの突然の電話はぴたりと止んだ。私はふと考えた。もしかしたら、私からこの一言を得るためだけに電話してきたのではないだろうな、と。
現在の母の生活はすでに父の不在を前提として成り立っていた。何しろ介護の労苦から開放されたのだから、まずそれだけで日々を十分平穏無事に過ごすことができる。心臓への負担を考えるとこれは大きい。何をやっても怒鳴られる心配はないし、友人達とのつきあいも自由にできる。子供に手がかからなくなってパートに出ることを決めた若奥様の気持ちに近かったかもしれない。
父がN病院に入院した当初、母は父がもはや家に帰ることはないだろうと直感した。母は自分の直感を信じ、父の存在をわずかでも意識させるものをひとつずつ身の回りから消していき、家の中を母の望む色合いに染めていった。有名な洋画のコピーを壁に貼り、台所の暖簾を新調した。水冷式クーラーを撤去してエアコンに変えた。BSアンテナを取替え、地上波デジタル放送を見れるようにした。父不在の毎日が徐々に当たり前の日々となっていった。母は生存競争の勝利者としてその権利を思う存分行使したのであった。
とはいえ、いまだに母を捉えて離さない気がかりがひとつ存在した。それは父が健康を快復して家に戻ってくることであった。
父が生きているのは紛れもない事実であり、生きているからには快復の可能性がゼロではない。医者の匙加減ひとつでいつまた家に帰されるかわからないのである。毎日を平穏に暮らすうち、この気がかりは次第に不安へと変わり、不安は恐怖となって母を苦しめるのであった。実際には父が元気になって帰ってくることはまずあり得なかっただろう。にもかかわらず母の不安は日々増すばかりで、果ては父が勝手に病院を抜け出して一人で山道を歩いて帰って来るのではないかという、まるで父が幽霊かゾンビか何かのような恐怖の妄想を抱くまでに至った。こうなるともはや神経症に近い状態で、M病院に入ったほうがいいのはむしろ母ではないかとさえ思われた。かつて元気だった頃の父より現在の父を恐怖に感じるというのは、おかしな話である。不安で現実が見えなくなっているのかもしれない。このように不安が原因となって恐怖を抱く神経症のことを精神病理学の専門用語では何というのだろう。脅迫観念症?抑うつ質? 不勉強な私にはよくわからない。
病院からの電話はすべて私が取次ぐから余計な心配するな、ろくに歩くこともできない父があんな山奥のKの町から家まで帰れるはずがないではないか、私はそう言って何度も母を安心させたが、母の心の底にいったんこびりついた不安はなかなか簡単には拭い去ることはできなかった。父が生きている限りこの不安が消滅することはないだろうと思われた。
生存競争には勝利したものの、母の心の中にはこれまで父から受けた数々の仕打ちに対する嫌悪感がトラウマとして根強く残っていて、このトラウマが、今度心筋梗塞を再発したら確実に死ぬという恐怖感とないまぜになり、不安をいっそう煽ったのかもしれない。あるいは父を現代の『姥捨て山』へ捨ててしまったことに対する罪悪感が心のどこかにあって、この罪悪感がわだかまりとなっていたのかもしれない。
いずれにせよ、父が帰ってくることへの母の恐怖はすさまじいものがあった。K病院へ見舞いに行こうと何度誘っても決して行こうとしなかった。自分が行くことによって里心を起こされたら困るというのが行かない理由だったが、正直なところ、母はもはや父に会いたくなかったのだろう。その理由は、決して父を嫌っているからではなく、父の顔を見ることによって、自分の中の不安と恐怖が増幅してしまうことを恐れたからだろう。この不安を少しでも抑えるために、まるでキリスト教徒がイエス様に誓いをたてるように、母は二度と父に会うまいと心の中で誓いを立てたかのようであった。
父が生きている限りいつ何時家に舞い戻るともわからない、そこで母は考えたのであった。仮に父が帰ったとしても、そこに自分の居場所がないとわかれば再び病院に戻るのではないか、と。そのためには、ここがもはや自分の家ではないことを父に十分わからせる必要がある、この家がもはや父のものではないこと、父が安逸を得られる唯一の場所ではないことを、何らかの形として徹底的に示しておく必要がある、と。生存競争に勝利した母がいまや生活の全権を握っており、誰もそこに口を挟むことができないことを、誰の目にも明らかな形で明確にしておく必要がある、と。家の前庭を取り壊して駐車場にしてしまおうと母が言い出だした背景には、こんな理由があった。表向きの理由は手入れをする者がいなくなったから、そして庭を駐車場にしたいからであったが、本当はそうではない。確かに庭を駐車場にしてしまえば私や倫子が帰省したとき車の置き場所に困ることはないし、水撒きや雑草むしりなどの面倒な手入れ作業からも開放される。いいことだらけだ。
そもそも庭は父が命の次に大切にしている大事な財産であった。実際施設に入っている時も父が最も心配していたのは庭の手入れを誰がやるか、誰が植木の面倒を見るかということであった。実際には誰も面倒見てなどいなかったが、私は近所の柴田さんがやってくれているから大丈夫だと言って父を安心させたのだった。
立派な庭のある家に住むことは、父の子供の頃からの夢だったのだろう。いや、夢というよりもむしろ、地主の家に生まれ育った自分、他の人間と格式が違う自分が住むにふさわしい家は立派な門構えに豪華な庭のついた家以外にない、そのような家に住むのが当然と、そんなふうに思っていたのかもしれない。それゆえ父はこの家をはじめから庭ありきで建てたのだった。庭は父の手で造られ、育まれた。赤松やらツツジやらモミジやらの植木が次々と植えられた。父は毎日のようにこれらの植木に水をやった。どこからか大きな庭石が運び込まれ、狭い庭の山紫水明を彩った。私がまだ幼かった頃、庭には小さな池があり、大きな錦鯉が泳いでいた。この池を大きな庭石が取り囲み、春になるとこれらの庭石の上を薄紫の藤の花の房が垂れ下がった。池の手前には水芭蕉が活けられ、熊ん蜂がしょっ中飛んで来た。池にアマガエルが卵を産みつけたこともあった。卵が孵って大量のオタマジャクシが大量発生したが、ほとんどマツモムシに食われてしまった。庭でカクレンボもできた。狭い庭ながらも子供にとって絶好の隠れ場所になるところがいくつもあった。雪が積もってスキーやソリをしたこともあった。庭で遊んでいて植木鉢を壊すと父にこっぴどく叱られたものだ。庭は父の宝物であると同時に私にとっては子供の頃を思い出させてくれる貴重な場所でもあった。そのような庭であったにもかかわらず、取り壊して駐車場にすることに関して、私も倫子も一切反対しなかった。
庭の取り壊し工事は、父がK病院に入って二週間ほど経った土曜日、朝から半日がかりで執り行われた。母は私の従兄弟である本家の秋幸さんに頼み、本家で使っている庭師を手配してもらったのだった。この庭師、実は秋幸さんの母方の親戚で、その縁もあってかなりお安くやってくれるとのことだった。
庭師は、クレーン付の大型トラック一台に小型のショベルカーを積み、軽トラック二台にスコップだの荒縄だの用具類一式を積み込んでやってきた。総勢五人。全員ヘルメットをかぶっている。中にはあきらかにバイトと思われる若い人もいた。トラックの荷台の横には『(有)安岡造園』と白ペンキで書かれていて、本家の叔母さんの旧姓が安岡さんであったことが初めてわかった次第である。
始めに取り払われたのは庭石だった。あるものはネットをかけられ、またあるものは荒縄でしばられ、それぞれクレーンで吊り上げられた。クレーンのある大型トラックのそばで、誘導係が吊られた石を見上げ、オーライオーライと大声をあげていた。がなりたてるクレーンの騒音を聞きつけた近所の人たちが、何事が始まったのかと表に出てきた。はす向かいの鈴木さんの旦那さんがびっくりした顔で出てきて、私に問う。
「陵ちゃん、庭、壊すがあけ?」
「ええ。オヤジがあんなになった以上誰も手入れができませんからね。去年の冬も雪囲いしなかったんですから、今年はもういいだろうとばあちゃんが言うもんで。」
この鈴木さん家の旦那さんもまた十年近く前に母同様心筋梗塞で倒れた人だ。今は心臓にペースメーカーを埋め込んでいるという。母が入院していた頃、私が回覧板を持って行ったのだが、そのとき心筋梗塞の恐さをいろいろと教えてくれた。最悪の場合、脳梗塞を併発し、半身不随になる場合もあるという。鈴木さんの旦那さん、「ホラ、触ってみ」と自分の左胸の上方を指さすので、おそるおそる人差し指で触ると、そこだけがカチンカチンになっていた。四角い小さな板が皮膚の下に埋めてあるのだ。旦那さんは教えてくれた。
「これがペースメーカーらて。いまは技術が進歩したすけん、十年ぐれえ電池交換しねえでいいがて。これさえしてれば絶対に心臓が止まることはねえすけ、安心して生きていらっるて。ありがてえこっつぁ。」
子供の頃、まだ新婚家庭で子供もなかった鈴木さんの家へ回覧板を届けに行くと必ずお菓子をくれた。私はそれが楽しみで鈴木さんの家にだけは欠かさず回覧板を届けに行ったものだ。奥さんはきれいな人だった。昔の思い出だ。あれから四十年近くたち、旦那さんの髪の毛は薄くなり、奥さんもすっかり白髪になった。お子さんは二人とも東京で働いている。今はご夫婦二人で静かな隠居生活を楽しんでおられる。母は言っていた。この町内はすっかり老人の町になってしまった、と。
庭石は土のついたまま大型トラックの荷台に積み込まれた。荷台はあっという間に石で一杯になった。めぼしい庭石のいくつかは近所の柴田さんが自分の庭用に両手で抱えて持っていった。柴田さんは父と同じ会社の仲間で、庭いじりを共通の趣味としていた。父が最も心を許していた同僚で、入院してからもたまに父を見舞ってくれていた。
庭の中央に赤松が聳え立っていて、そのちょうど真下あたりに置かれた庭石が最も大きな石だった。どうやら父が群馬の業者から二束三文で購入した庭石らしく、ここへ運搬する際、秋幸さんが手伝いをさせられたという。ここにまた私の知らない歴史があった。子供の頃から毎日見慣れた庭であったが、どのようにして成り立ったのかについて私は何も知らなかったのだ。私よりはるか年上の従兄弟たちは、私の知らない歴史の証人であった。普段何気なく眺めているのに、実はそれがどうやってここに存在するようになったかわかっていない事柄というのは数多くある。自分にとってあまりに当たり前すぎて興味を抱くことさえない事柄の経緯を、それに無関係な他人がよく知っているというごくありふれた事実に、私は改めて驚くとともに、そのような事柄があることを理屈ではわかっていながらも、実体験として肌で知るということがいかに貴重な体験であるか、目を見開かれる思いに捉えられるのであった。
植木の引き剥がし作業が始まった。懐かしい四季の思い出とともにある木々が次々引き抜かれていく。春になると淡い上品な紫色の花房を垂れる藤の木が引き抜かれる。恥じらいもなく豪奢な赤い花を身にまとう椿がスコップで掘り起こされる。小さなピンクの花々で綿帽子のような可愛らしさを見せるツツジが地面から根こそぎくり抜かれる。秋になると小さな赤い実を自慢するようにふんだんに身にまとうナンテンが残酷に引き抜かれる。カエデの木が掘り返される・・・・。庭は断末魔の悲鳴を上げているように思えた。
いくつかの植木は庭師が土ごと根っこに荒縄を巻いて持ち帰った。どこかに売り払うのであろう。冬が近づく頃、これらの木々に一生懸命竹で雪囲いをしていた父の姿が目に浮かぶ。さあ、いよいよメインの赤松の番だ。庭師の一人が聳え立つ赤松にするすると登り、手始めに邪魔になる枝をノコギリで次々切り落としていく。
「この赤松、結構いいものだとオヤジは言ってましたけど、これもどこかへ売れないですかね?」
傍らにいた監督らしき年輩の庭師にそれとなく聞くと、庭師はダミ声でこう言った。
「たぶん元は相当いい樹だったがあでしょうな。それなのに旦那さん、自分でいろいろと手を入れてしまったんで、これじゃあ商品価値はゼロですわ。いや、もったいねえことをしました。この松を相当可愛がってたがでねえでしょうかねぇ、旦那さんは。」
この赤松を引き抜く作業に最も手間がかかった。ブロック塀を崩した小型ショベルカーをそのまま庭まで引き入れ、何度も根っこから掘り起こすが、赤松はびくともしない。ショベルで向こう側に押し倒そうとするが、それでもだめだ。それじゃあということで縄をかけ、軽トラックで引っ張るが、それでも抜けない。子供に読んでやった絵本を思い出す。「おじいさん、おばあさん、孫、犬、猫、ねずみがかぶをひっぱって、それでもかぶはぬけません」ってやつだ。まったくびくともしないので、仕方なく胴体を切り倒すことになった。聳え立っていた赤松はチェーンソーで真っ二つに切られた。この状態ならば四方からショベルカで掘り起こすことが可能だ。根元の部分が徐々に揺れてきた。あともう少しだ。根元に荒縄を巻きつけ、四人がかりでせえので引っ張る。その反対側からショベルカーがぐいぐい根っこを掘り起こす。しつこかった赤松もこれでようやく観念した。引き抜いたときにズボッという音がしたように感じられた。みんな汗をかきかき労働の成果を喜び合った。
子供の頃から見慣れた庭はこうして跡形もなく解体され、湿った黒土が剥き出になり、でかいミミズが行き場を失ってくねくね這い回っていた。小型ショベルカーが黒土を掻き分け掻き分け全体を平らにならしていった。かつて華やかだった庭はコンクリートが打たれるまでの間青いビニールシートで覆われた。
このとき私はかつて倫子が離婚する前、初めて梨本家に招かれたときのことを思い出していた。あのときまだ倫子の亭主だった正明は私にこんなことを言った。
<家の主が死ぬと、庭の樹木のどれか一本必ず枯れる。自分がまだ小さい頃竹林の前に大きな楓の木があったが、曽祖父の死と同時に枯れ果ててしまった。たぶん自分の父が死ぬと必ずどれか一本枯れるであろう。植物も生きていて、自分と同じ時代を生きた人と一緒に一生を終えるものらしい。>
私は当時この言葉を聞いて「鬱蒼と生い茂る梨本家の庭の樹木の中、私は不思議な感覚に捉えられた。時空を超えたいけとしいけるものの性を目の当たりにしたというか、何かこう梨本家にいまも息吹く土地の霊とでもいったものに私の存在が認知されたような感覚だった。私は現在の梨本家だけでなく、その土地の霊にさえ卑屈にされたのかもしれない。」と感じたのであった。
取り壊し工事は夕方近くに終わった。一段落した後、私はK病院へ向かった。
越後の山々がそろそろ赤く色づき始めようかという頃だった。黄金色になった棚田の上を赤とんぼの群れが飛び交っていた。夏を彩った蝉の声は止み、代わって蛙の鳴く声がどこからともなく鳴り響いていた。陽は徐々に弱まりあかね色が増してきた。静かな初秋の夕暮れだった。
Kの市街地を抜けるとすぐに川と交差する。この川のほとりにK病院がある。川の脇の道路を走りながらふと川面に目をやると、そこに一羽の白鳥がすっくと立っているのが目に留まった。いったいどこから飛んできたのか、白鳥は川の中州に細長い脚を立て、しなやかに伸びた首を上下に動かしながら水を飲んでいた。黄金色の夕日が白い身体を輝くばかりに照らし、暗い川底に鮮やかに映えていた。私は珍しいなと思うと同時にその不思議な美しさにしばし目を奪われた。おっと、車を運転していたのだった、危ない、危ない。
三階の病室へ行くと父がベッドにいないので、慌てて看護婦さんに行方を聞くと、同じフロアの大広間でテレビを見ているという。酸素マスクはどうしたのだろう、勝手にはずして行ったとしか考えられないが、看護婦さんはそれを放っておいたのだろうか。電話で言ったとおり見て見ぬふりをしているということか。そんなことを考えながら大広間へ向かうと、そこにはソファに座る見舞い客達に混じってテレビの真ん前を陣取る父の姿があった。父は薄汚れた病院着姿で車椅子に座ってあんぐりと口をあけたままテレビを見ていた。車椅子の下には濡れてくしゃくしゃになった新聞紙が所せましと散らばっていた。車椅子に据付の簡易テーブルに飲みかけのお茶を入れた紙カップが置かれていた。K病院の看護婦さん達はこのあわれな父の姿を見て何も感じないのか? 何の措置もしてくれないのか? これがN病院だったら一大事だぞ。
「じいちゃん、何だよこれ、汚ったないな。お茶でもこぼしたのかい?」
そう声をかけると、質問には答えず、「おお、来たか」と返すだけだった。
私はすでにお約束となっている質問をする。
「今日は誰か見舞いに来たかい?」
父は答えた。
「おお、今日は半蔵が来たいや。」
半蔵? 私の知らない名だ。誰のことだ?それ。誰のことか問うより、今は父の気分を少しでも良くしてあげたい。
「おお、そうか、そうか。よかったなあ、じいちゃん、見舞いに来てもらって。他に誰が来た?」
「阿部のシゲが来たなあ。」
阿部のシゲ? それも知らない人だなあ、いったい誰なんだ?
後になって義弘叔父や本家の秋幸さんにこの話をし、父を見舞ったというこれらの人達がいったい誰なのか聞いた。
「半蔵らあ? 裏の家のか? そりゃお前、何十年も前に死んでるれや。」
秋幸さんはゲラゲラ笑いながら答えた。
「あと、阿部のシゲさんていう人も見舞いに来たと言ってたな、どこの人だろう?」
「それもこって(たいそう)前に死んでるいや!」
私は愕然とした。さらに私は父が言ったことを確認するように聞いた。
「あとさ、『本家の婆さ』って、ここの家のおばさんのことかな?」
「うちの婆さんのことか? 」
「いやね、じいちゃんが『本家の婆さが見舞いに来た、いい婆さらったなあ、あの婆さは』とか言ってたんでね。」
いまだ健在な秋幸さんのお母様、つまり私にとって義理の叔母に当たる本家のおばさんが見舞いに来た、とボケた父は言ったのだろうと思っていた。しかし義弘叔父に聞いたところ、父は本家の叔母さんのことは「本家の母ちゃん」と呼んでいたという。ということは「本家の婆さ」というのは、二十年ほど前に死んだ私の祖母、つまり父の母のことを指していたのである。これを聞くに及び、私は父が決してボケていたのではない、決してウソを言っていたのではないということを悟ったのであった。彼らは確かに父の元へ来ていたのだ。ただし、彼らは見舞いに来たわけではなく・・・。その先はまだ語らないほうがいいだろう。
「陵、喉が渇いたいや、水くんねえか。」
父の求めに応じて小さなペットボトルのお茶を買ってきて、紙コップに注ぐ。のっそりとコップを手にしお茶を啜った瞬間、父はゲホゲホと激しく咳き込んだ。いったん飲み込んだはずのお茶が涎と痰と混じり合い、すべて吐き出されてしまった。
「なんだおい、しょうがないなあ、じいちゃんは。」
そう言って私はそばにあった新聞紙で父の汚れた胸元と腿を拭いた。床にもこぼれていたので、これも拭いた。汚れた新聞紙の原因はこれだった。父はいまだに咳き込んでいた。見ていてあまりに苦しそうなので、
「大丈夫か? じいちゃん。」
と、私は父の背中を何度もさすった。山脈のような背骨の瘤の感触が手のひらに伝わった。しばらく咳き込んだ後、ようやく咳は止まった。
「どうだい、楽になったかい?」
「ああ、楽んなった。ありがとな、陵。」
ふと周りを見渡すと、見舞い客はみな私と目を合わせようとしない。われ関せずといった表情で新聞を読んだり、テレビを見たりしている。私が見舞い客の立場だったらやっぱり同じ態度を取っただろう。
「陵、おれが良くなったら、またみんなで温泉行ごうれなあ、正月んなったら、みんなして、正道やあずさも呼んで、また温泉行ごうなあ。」
父が施設を転々とし始めてから、この言葉を私は何度聞いたことだろう。さらに父は言う。
「ミキやユメやトシアキ(うちの子供たちの名前です)にまた小遣いやるすけんなあ、ホントにいい子供達らいやなあ、大事に育てんきゃあダメらろ、なあ。」
これも何度となく聞いた。私はそうだな、そうだなと繰り返し答えるだけだった。
父はしばらくぼうっとテレビを見て言った。
「陵、タバコくれいや。」
また始まった。返す答えはいつも同じだ。
「さっき吸ったばっかりだろ、じいちゃん!」
すると、
「おお、そうらったかなあ。」
と言って引き下がる父であった。
もうすぐ六時になる。そろそろ家に戻って、帰りの新幹線に乗らねばならない。
「じいちゃん、じゃあ俺、そろそろ帰るから。明日用事があるから、これから東京へ帰る。」
そう言って席を立つと、父はよぼよぼと細い腕を差し出し、掌を上にして、
「陵、カネが無えがいや、ちとカネくれいや。」
と言う。私は父の手を握り返し、軽く微笑みながら、
「何だ、じいちゃん、オレにカネをくれるってんじゃないのか? カネなんてじいちゃんのほうがたくさん持ってるだろ?」
私の笑顔につられて父もまた弱弱しく笑い、
「カネなんか無えがいや。」
と返す。
そのやりとりがおかしかったのか、田舎っぽい見舞い客の男性が「アハハ」と笑う。その人と目が合い、私はもうあきれてマトモに相手に出来ないという様子の視線を返した。
大広間を後にしようとすると例の顔立ちの整った中年の看護婦さんがやって来た。
「あの、今日はこのままお帰りですか?」
そのつもりだと答えると、
「大変申し訳ないんですけど、もうすぐ夕食ですので、それが終わるまでお付き添いいただけませんか。お食事が終わればすぐにお休みになると思いますので、それ以降はお帰りになって結構ですから。」
若干夜遅くなっても上りの新幹線ならいくつかあるだろう。東京に着くのは十時過ぎかもしれないな、そんな風に思い、しぶしぶながら父の夕食に付き合うことにした。
K病院の食事はそれなりに豪華で、ちょうど空腹感を覚えていた私には羨ましく思えた。オレンジ色のプラスチックのお盆に載せられて夕食が運ばれてきた。今日のメニューは煮込みうどんとヨーグルトにバナナ、そしてオレンジジュースであった。ベッド備え付けの台にお盆を乗せ、父は背中を丸くしてうどんをすすり始めた。煮込みのいい香りが運ばれてくる。腹が鳴る。
「じいちゃん、ずいぶんうまそうだな、それ。いいなあ。どうだい、うまいかい?」
「ああ、うんめえ。」
「そうか、そりゃあよかったなあ、じいちゃん。何だか俺も腹が減ってきたよ。」
すると父はとヨーグルトを手にして
「これ食うか?」
と勧めるが、遠慮する。
オレンジジュースを口に含んだとき、父は先ほどのように激しく咳き込んだ。いったん飲み込んだジュースがすべて口から出てしまう。シーツがオレンジ色に濡れて染まる。口から糸を引いて垂れた黄色い涎が、咳で前後左右に揺れる。かなり苦しそうである。
「大丈夫かい、じいちゃん。」
先ほどと同様、私は懸命に父の背中をさすった。ようやく咳は収まったが、それから父はジュースに手をのばそうとしなかった。私は一瞬思った。まさか、水を飲みこめない状態になったのではないだろうな、そういえばさっきも喉が渇いたと訴えていたし、看護婦さんも先生もこんなになった父の姿にまったく気づいていないのだろうか。
ジュースをあきらめた父は、やむなくヨーグルトを食べようとするが、蓋をうまく引き剥がすことができないので、私に空けてくれと頼む。ヨーグルトをじゅるじゅる注ぎ込むようにして食べ終わった父は、子供のように口の周りを白くする。
「ホラ、口拭けよ、じいちゃん。」
床頭台の上のティッシュを一枚取って父に渡す。ゆっくりと口をぬぐう父。
「メシは終わったかい? うまかったかい? じいちゃん。」
父は素直に答える。
「ああ、うんめかったいや。」
二人だけの静かな晩餐は終わった。お膳を片付けて、例の液晶テレビをつける。土曜の夜のバラエティ番組をやっている。はやりのお笑い芸人がおかしなゲームをやっている。テレビは賑やかな笑い声を立てている。この液晶テレビ、絵はそれなりに綺麗だが、音はかん高く安っぽい。楽しげな笑い声であるにもかかわらず、か細く金属質の高音なので、どこか虚しく、淋しささえかもし出しているように思える。お笑い芸人の滑稽な動作を見て、私は声を上げて笑うが、父は仰向けになって目を閉じたままである。
「じいちゃん、おもしろいよ、見るかい?」
アームを動かして画面を父の方へ向けると、父は横目でちらと見て「ああ、見える」と答えただけで、再び目を閉じてしまう。
「もう寝るかい? じいちゃん」
寝るというのでテレビを消し、明かりを落とした。病室全体が墓場のように静かになった。
私はせめてぐっすりと眠り込むまではそばについていてやろうと思い、しばらく父の脇で文庫本を読み始める。すると父はいきなりむっくり起き上がり、酸素マスクをはずそうとする。
「じいちゃんダメだよ、これはずしちゃ。」
とマスクを付けさせようとすると、
「脚がしゃっこい(冷える)て、寝らんねえがいや。」
と言う。そりゃあそうだろう、両足が毛布からはみ出ているんだから。
「これでいいか? どうだい、まだ冷えるかい?」
毛布を直してやるが、まだ冷えると言うので、床頭台の中からバスタオルを出し、毛布の上からかけてやる。それでも冷えは収まらない。
「仕方ないな、おれが足をさすってやるよ。」
私はそう言って毛布の上から何度も何度も父の足をさすった。父の足は棒切れのように細くごつごつして、肉の感触はどこにもなかった。かつて中距離走で世を馳せた男の足とは到底思えなかった。
「どうだい、じいちゃん、ちっとはあったまったかい?」
「おお、楽んなったいや。ありがとうな。」
「そうか、じゃあもう一人で眠れるな。おれ、明日用事があるから、これから東京に帰るけど、看護婦さんの言うことよく聞いておとなしくしてなきゃダメだぞ。マスクも外さないようにな。はずすと死んじゃうんだからな。」
「おお、わかったいや。」
「じゃあな、じいちゃん、また来週来るから。」
そう言って私はK病院を後にした。
母の作った夕飯を食べて長岡駅に着いたのは八時をちょっと過ぎた頃だった。駅に着けば上りの新幹線はすぐ来るだろうと思っていたが、甘かった。ひとつ前の新幹線は十分ほど前に出たばかりで、次が来るまでまだ三十分以上あるではないか。一刻も早く家に帰りたいのに、この三十分がとてつもなく長く感じられる。今週も見舞いで貴重な週末が潰れてしまったのだ。ここ三、四ヶ月の間、まともに家族と週末をすごしたことはない。週末を家族とのんびり過ごす時間がいかに貴重なものであるか、家族みんなで終日ダラダラすごすだけの休日がいかに尊いものであるか、私は改めて思い知らされた。この分だと家に着くのは十一時だろう。JRをうらめしく思ったりする。
やむなく自動販売機で切符を買い、一階のスタバで時間を潰すことにした。苦いコーヒーを啜りながら駅ビルで買い物する華やかな女性客らをガラス窓越しに眺め、長岡にも都会的できれいな人が増えたなあなどと考えている間にいつしか時間は過ぎ、発車の十分前になった。いそいそとスタバを後にし、改札を通り抜け、東京行きホームの階段を上がる。列車のドア番号が表示されている箇所の前にすでに短い行列ができている。この時間なら自由席も空いているだろう。適当な列の最後尾に並ぶ。私の前では大きな旅行鞄を持ったOL風の女性客が携帯メールを打っている。飾りのついた長い爪であるが、キーを打つのはすごく早い。言い訳するわけじゃないが、この列を選んだのは偶然で、あえて女性客の後ろを選んだわけではない。
"今度の四番線には二十時四十分発MAXとき三百五十号東京行きが参ります。この電車は二階建て八両編成で自由席は一号車から四号車です・・・"
聞きなれた新幹線到着前のアナウンスが流れる。ようやく家に帰れる。新幹線よ、早く来い。
突然尻のポケットの携帯電話が震えた。一瞬心臓が止まりそうになる。表示をみると、ああ何ということだろう、K病院である。あれ以来しばらくなかった突然の呼び出しだ。
もしかしたら私は今日この呼び出しの電話が来ることをある程度予感していたのかもしれない。父の様子がこれまでと明らかに違っていたからだ。水を飲んであれだけ咳き込む姿からして、父の容態はかなり悪化していると思われた。何かあるにちがいないのだ。しかしながら私のとった行動は哀れに変わり果てた父に対して何ら措置を施そうとしないK病院のそれと同じだった。容態が悪くなっておりことを知っていながら私は普段の見舞いとまったく同じそぶりをしたのだ。私が一刻も早く家に帰りたかったのは、本当は早くこの場から逃れたい、現実から逃避したいという気持ちから来るものだったのだ。
勇気を出して私は携帯電話に出た。いつもの小綺麗な看護婦さんの声だ。看護婦さんは言った。
「お父様の様子が変なんです、すぐこちらへお越し願えませんか?」
「変って、どう変なんですか? また勝手に歩き回ってるんですか?」
「息子さんが出られた後またおひとりで出歩かれてしまいまして、その途中で倒れられたんです。」
頭の中に苦しげな息をしてベッドに横たわる父の姿が浮かんだ。例によって歩き回って看護婦さんに迷惑をかけたのだろう、しかたない、謝っておくか。それですむかと思ったが、どうも看護婦さんの様子がいつもと違う。悲壮感が漂っているような声である。もしかしたらもっと何か大切なことを看護婦さんに確認すべきではないのか、その大切なことって、一体何だ? いろいろと思案するうち、
「どうでしょう、すぐこちらへ来れますか?」
看護婦さんが改めてそう私に問う。
「いや、もう無理ですね。実は私、今、駅にいまして新幹線が来るのを待っているんです。あと一、二分で新幹線が来ます。申し訳ないのですがそちらで対応していただけませんか?」
「そうですか、来ていただけませんか、困ったな・・・。それじゃ仕方ありませんね。でも事は緊急を要するのです。もし息子さんが来れないなら、誰かご家族の方でいいですからすぐに来ていただきたいのですが、どうでしょう。」
そのとき私は看護婦さんに必ず確認すべき事が何であるのか、ようやく気がついた。
「いま、父は意識があるのですか?」
そう、これなのだ、これを確認しなければならないのだ。看護婦さんは冷静に答えた。
「それがまったく意識がないのです。」
この一言を聞いて、一瞬頭の中が白くなった。新幹線がゆっくりとホームに入ってきた。もうどうしていいのかわからなくなり、看護婦さんに言った。
「もう新幹線が来ました。すみませんが、これから乗ります。とりあえず私のほうから母に連絡して、必ず誰かそちらへ行かせるようにします。」
「わかりました、必ず来てください。お待ちしています。」
そう言って電話は切れた。
新幹線のドアが開いた。列に並んでいた人たちが順番に電車の中に入っていく。私の前にいた女性が大きな旅行鞄を転がしながら進み始めた。しかし私はその場に立ち竦んだままだった。頭の中に今日一日のさまざまな映像が浮かび上がっては消えていった。咳き込んで水を吐き出す父、背中をさする私、足をさする私、取り壊される庭、引き抜かれた赤松、K町の川に佇んでいた白鳥・・・。
私のすぐ後ろに並んでいた人が、一向に前に進もうとしない私に「すみません」と声をかけた。私はすっと列を離れた。後ろの人はいぶかしげな表情で私を見、私を通り越して前へ進んだ。次の人もその次の人も同じように電車の中に入って行った。
私は後ろを振り返り、ホームの階段を急いで駆け下りた。一刻も早くK病院に行かなければならない。新幹線の発車のベルがホームにけたたましく鳴り響いた。待ってろよ、じいちゃん、すぐ行くからな・・・。
(父の死 了)