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第7話 熱帯夜
 五年前に水葵を傷つけた、あの夏祭り。もう二度とあいつとは行かないだろうと思っていたのに、五年後、もう一度一緒に行くことになった。どちらも俺から誘ったのだが。
 ――ナンデ、誘ッタノ?
 それを誰にも聞かれないのをいいことに、考えようとしなかった。ただむしゃくしゃした気持ちをどうにかしようと、いつだって動物みたいに直感で動いていた。
 水葵と再会し、まるでデートのように時間を過ごした、この二日間。もうこれきり会えないのが嫌で夏祭りに誘ったら、断られるかもしれないところ、あっさりOKがもらえた。それが、あと一週間後のこと。それまでは、会えない。
 ――つまんねえな。
 何故か、そう思った。

 ・・・・・・・・・・

 水葵と懐かしい場所を巡った次の日、付き合っている彼女と会った。
 付き合って一年近くになる相手。だけど最近は付き合い始めのように頻繁に会ったりもせず、互いの生活を楽しんでいた。お互いのしたいことを尊重したい――というのもあったが、彼女の気性が少々きつく、派手な雰囲気もあるからだろうか。俺なんかを気に入ってくれたのは嬉しいが、こちらから好きになったわけでもないので、恋焦がれてたまらないというのとも、少し、違った。
 もちろん一緒にいてそれなりに楽しいし、愛しいと思うからこそ互いに触れ合い、身体の関係だってある。何より俺なんかと付き合いたいと言ってくれたのは嬉しかったから、大切にしようと思った。
 それなのに今日、大学の構内で彼女と会ってもその後食事に出かけても、何か物足りなさを感じていた。

 嫌だというわけじゃない。第一こんな風に感じるなんて、今まで時間を重ねて付き合ってきた相手に対し、酷い背信だ。
 だけど時折煙草を口にする化粧をした彼女の微笑と、飾り気のないあのひまわりみたいな笑顔を、ついどこか比較してしまっていた。
 罪悪感や焦燥感に苛まれる。そう悪いと思っていても、最低な俺の心は正直で、どうしても彼女に対して気もそぞろな返事をしてしまい、態度もどこかよそよそしくなってしまう。
 水葵とはまだ何の関係も結んでないのに。どうしてなのか。
 結局、俺のそんな中途半端な気持ちを見抜かれたのか、その晩は触れ合うことなく、空々しく別れた。バイトで疲れてたんだ、と見え透いた嘘をついて。
 それなのに、内心ではほっとしていた。そのくせ頭とは別に、身体の方は彼女と繋がれなくてがっかりしている。
 ――ホント、最低だ。
 心なんかなくたって、しろと言われれば出来てしまう。でもそれでは彼女を馬鹿にしているようだし、そんなことをすれば余計に自分自身が情けなくなり、焦りが強くなる気がした。だから今夜は、これでよかったのかもしれない。手を出さなければ、誰も傷つかずに済むのだから。
 そうは言っても心も身体もスッキリせずにもやもやしたものを持て余し、夜中、家の庭で煙草をくゆらせる。
 ――時間、何時にするんかな。
 むしゃくしゃする気分の中で水葵との週末の約束を思うと、苛立ちが募る反面、少しだけ嫌なことも忘れられた。
 携帯電話を何度か見たが、その日、水葵から連絡はこなかった。奴とどうなりたいのか、自分でも分からなかったから、俺もそれ以上考えるのはやめた。

 ・・・・・・・・・・

 三日後、今度こそ水葵からメールが届いた。深夜バイトの始まる頃に受信していたので、ゆっくり確認できたのは次の日の真昼、けだるい眠りから覚めた後だった。
『この前はありがとう! 花火、何時にする?』
 絵文字なんかも使っている明るい文面に、妙にほっとさせられた。メールひとつでも、あの頃はまだあいつが携帯を持っていなかったから、新鮮に感じられる。
 気になっている理由は、ただそれだけかもしれない。懐かしいから。どれも「初めて」のことばかりだから。目新しいから。それだけかもしれない。
 だから本当は、水葵じゃなくてもいいのかもしれない――今の彼女とのように、しばらくすれば興味を失うかもしれない。
 だけどそれなら、言い換えれば傍にいてほしい女は、今の彼女じゃなくてもいいんじゃないのか?
 一瞬、心に黒い影がよぎり、ぞくりとした。そして水葵に直ぐに返信するのがどうにも背徳的に感じたので、結局後回しにしたのだった。

 そのまま夜になり、むしゃくしゃした変な気持ちのまま当てもなくパチンコに行き、本屋に寄る。
 就職のことも考えないといけない。流通業に興味があるものの、こんな時代だし自分に強みを持たないと、手厳しい。そういう漠然とした不安や焦りも抱えている帰り道、昼間の恐ろしい考えは振り払い、車の中で水葵への返信メールを打つことにした。
 待ち合わせの時間と場所を、どう提案しようか考える。しかし夕飯を先に食ったほうがいいのかとか、色々細かいことを考えていたらメールを何度もやり取りするのが面倒になってきた。元々、メールはあまり好きじゃない。
 ――まどろっこしいな。電話で決めるか。
 ディスプレイに水葵の電話番号を表示させる。あとは発信ボタンを押すだけだと言うのに、何故だかすごく、緊張した。
 ――何なんだよ。これじゃまるで……、初めて女と付き合った時みたいじゃないか。
 悔しいのに、なのに奴へと繋ぐその電話番号の発信ボタンを押したくなった。無性に声が、聞きたかった。

 馬鹿じゃねえのか、と自分でも呆れて、ぞっとする。俺に彼女がいるからだけじゃない。五年前にあんなことをしておいて、元のように笑ってほしい、なんて――。
 それに水葵には、彼氏がいるんだろ。その事実を思い出し、今度は胸が重くなる。
 面白く、なかった。大学生だしもちろんヤッてるんだよなと、下世話なことを考えてしまい、自分だって同じことをしているくせに、余計につまらなくなった。相手にどんな「女」の顔を見せているのだろうと、一瞬想像し更に腹が立ってくる。
 やはり携帯を閉じようとした。だけど、それは出来なかった。
 何よりも、水葵は帰省中だ。どこの誰と付き合っているかは知らないが、今は彼氏と一緒ということはないだろう。結局は負けて、吸い寄せられるように、ボタンを押していた。
『はい、もしもし?』
 少し驚いたような水葵の声。意外と早く電話に出た。
「今、話していいのか」
『う、うん』
「今度の土曜のことだけどさ、」
 水葵が話せる状況であったことにひとまず安心すると、週末の花火大会のことを打ち合わせる。決めている間、顔は見えないが昔のように明るく話が出来ていた。
「……今、何してた」
 用件が済んだ後、それこそ余計な質問だよな、と思いながら尋ねてしまう。
『お風呂、出たとこ』
「ふーん」
 男と一緒でなかったことに、またほっとしてしまったが――じゃあ、呼び出せねえな、とふと思った。
 思って、何考えてんだ、と思った。この前会って三日後にも会うのに、こんな遅い時間から会って何をするわけでもないのに――、何、考えてんだ。顔だけでもいいから、なんて。こんなの。

 それでも駄目で元々、言ってみようかと口を開きかける。車に冷房は効いていたが、喉はからからに渇いていた。しかし口を開いたのは水葵の方が先だった。
『ね、ねえ。……明日、よかったら、ごはん食べに行かない?』
「――」
『えっと、だめならいいんだけど、あのさ、隣の市の、ほら、お気に入りだったショップとか行きたくって、もう一回付き合ってほしくって。あ、花火の時でもいいんだけどその日有川くん、昼間バイトなんだもんねえ』
 俺が驚いているのを悟ったか、水葵は早口でまくし立てる。
 ――どういう、つもりだ。その真意は分からない。
 あんなことした俺のこと、また信じてくれるのかよ。彼氏、いるんじゃねえのかよ。
 だけど誘っている内容は女友達が相手でもいいような用件だから、特別な意味はないんだろうか。自分に彼女がいることはすっかりと棚に上げて、そうぐるぐると考えている。
 焦りが、焦りが、増していく。その誘惑の渦から逃れるために、それに強引に飛び込むことでやり過ごそうとしている。
「お前も、暇だな」
『もう、うるさいな! 嫌ならいいよっ』
「嫌とは言ってねーだろ」
『……ほんと?』
 できるだけ自然な流れになるように、偉そうな憎まれ口で――OKの返事をした。明日って、その二日後に花火大会で会うのになと思いながら、当日のことはそこでもう一度ゆっくり話そうと、大した用事でもないのに言い訳のように約束する。

 そこで間を置いた後、水葵は呟いた。
『有川くんは、……優しいね』
 その言葉に思わず目を見開く。逆に俺の中の黒い感情を浮き彫りにされたような気がした。
「――なワケ、ねえよ」
 五年前、水葵を傷つけて、今、彼女を裏切っている俺がか?そしてまた、中途半端に誰もを傷つけようとしている奴がか?
 声を出さずに嘲笑を浮かべた。サイテーだな、と。
 それから少しの間、無言が続く。なのに、この電話を中々切ることが出来なかった。
 今から会おうぜ、と何度も口走りそうになりながら、他愛無い話に切り替える。家族に聞こえないようにか、囁くような水葵の声が耳元に吹き込まれ、もしかして彼女も今、同じ気持ちなんじゃないかとくだらない期待を抱いてしまいそうになりながら。
 ――何、考えてるんだよ。俺も、お前も。
 そしてしばらく話してから電話を切る。手がやけに汗ばんでおり、握り閉めていた携帯がじっとりと濡れてしまっていた。それをジーンズで乱暴に拭うと、胸がどくどくと波打っている高揚した心のまま家へと帰る。
 冷房の効いた車から降りると、昼間の熱を閉じ込めていたねっとりとした空気が部屋で出迎えた。寝苦しい中、今夜も思い出すのは、ひまわりのような笑顔――を水風船と共に踏みにじった、五年前の夏祭りの夜。
 今の今まで、思い出そうとは思わなかった、それ。しかしそんな情けない、思い出したくない嫌な出来事でも思い出さなければ、到底今の盛り上がった気持ちを抑えることが出来なかった。
 それにそうすることによって、この変な気持ちの正体が、単なる郷愁であったり罪を償いたいからだけのものだと、言い訳がつくような気もしたから。そして今になって俺に近づいてきた水葵の気持ちも、もしかしたら少しでも分かるかもしれないと。俺はただ、あいつが望んだ「友達」の形でやり直したいだけなんだ、と自分に言い聞かせるために苦く忘れたい思い出の蓋をこじ開けた――。
 

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