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第2話 約束
 五年前の夏も、暑かった。でもあの頃はまだ子供だったからか、熱帯夜でも眠れていた。子供ではいられない身体が、大人に向けて急激に変わりつつある時期――中学三年生。
 夏休み最初の大会を最後に、三年生は部活を引退する。俺も例に漏れず陸上部を引退した。市大会ではそこそこの順位だったが、地区大会には出られなかった、そんな結果で幕引きを迎える。
 それでも毎日続けていた部活が終わるのは、炭酸飲料の気が抜けてしまったように、けだるい。すぐに受験勉強に取りかかる気にもなれないのに、通い始めた塾で夏期講習が始まった。
 そんな大人と子供の狭間で、いきがりたい気持ち、苛立つ気持ちのままに、友達とタチの悪いイタズラにも手を出す。夜の部の講習の帰りに、数人でドキドキしながら煙草を一本だけ経験してみる、子供が買えるはずのない卑猥なものを手に取り合う、立ち入り禁止の場所の幽霊伝説を確かめに行く――など、後から考えればよく警察の世話にならなかったなと思うようなことまでしていた。何のために通っている塾だか分からない。
 部活と言う枷が外れ、成績も横ばいのまま。気だけは焦るが何も得るものがなく夏休みは過ぎていき、どこか苛々したものが胸にあり続ける。一応適当な進学校に入学できる成績だったが、教員である厳しい父親に心配され、苦手科目の補習クラスを増やされた。

 その昼間の講義が終わった、帰り道のこと――。
「心矢は私より頭いいくせに、バッカなことやってんだね。なんか余裕みたいでむかつくー」
「……うっせえよ」
 志望校が違うので通常のクラスは違うが、補習クラスは一緒だった水葵と自転車で連れ立って帰っていく。
 彼女に聞かれるままに友人達との、馬鹿で無茶なひと夏の体験の話をしたら、笑い飛ばされた。だからこちらもふて腐れたようにそう言うと、自転車のペダルを強く漕ぎ、水葵の前へと踏み出した。
 家から自転車で二十分ほどの場所に塾はあるが、暑い中わざわざ来たのに真っ直ぐ帰るのも癪である。それに水葵がまた思いつきで勉強を教えて欲しいと言ってきたので、二人で自転車を走らせ更に遠出した。
 隣の学校区まで来たところで、適当なコンビニに寄り飲み物とアイスを買うと、近くにあった大きな公園の木陰に自転車を止める。
「クーラー効いてんだから、塾にいるうちに聞けばよかったじゃねえか」
「だって冷房、あんまり好きじゃないし」
 そうやって水葵らしいことを言って笑われると、何も言えなくなる。
 確かに部活の時間、真夏の太陽の下で、彼女が細い手足でソフトボールの白球を追いかけていたことを思い出す。――やっぱりひまわりみたいだな、と思った俺は、諦めたようにその隣に腰を下ろした。
 そして木の下で塾のテキストを広げると、既に溶け始めたソーダ味のアイスを齧る。それはイケナイことだと分かっていながら試しに一口吸った煙草よりも断然美味くて、そんな自分が酷くガキ臭く感じられた。だけど素直に美味いと喜ぶ水葵を見ていると、それでもいいかと思えてきた。
 アイスを奢らせたので、その後は彼女が分からないと言ったところを教えてやる。
「へー、ふーん、やっとわかったあ。やっぱ心矢はすごいねえ」
 こうして素直に褒めてくるので、炎天下で勉強を教える羽目になったことも、とりあえず許してやろう……。

 蝉の声はうるさく響くが、大きな木の陰に入っていれば風を感じることもあり、思ったより暑さもしのげた。意外と熱心に食いついてくる水葵に何問か解説した後、喋りつめたため喉が渇き、一気にペットボトルのスポーツドリンクを飲み干した。
「もう一本、買おうか」
 水葵の提案に頷いて立ち上がる。お互いに「帰る」という選択肢はなかった。
 公園近くの自販機で二本目の飲み物を買い、再びこの木陰に戻ってくる。広い芝生のはるか向こうからは、小学生の歓声が聞こえてくる。まだ暑いものの、夕方が近づいてきたことを知らせる風もすうっとぎっていった。
 水葵はハーフパンツの脚で男子のように胡座をかき、喉を鳴らしてペットボトルを傾けている。見慣れた姿に最早突っ込むこともなく、俺も同じ格好でそれを勢いよく空にした。飲み終わったところで、今度こそ帰るのかと思っていたら、水葵がふと思い出したように呟いた。
「心矢ってさー、やっぱり北高受けるの?」
「……多分な」
「いけないこともするくせに、頭はいいんだねー」
「……るせえよ」
「小学校の三年生から一緒だったけど……、じゃあ、もうこれで終わりだね」
「――」
 いきなり残念そうにそう言い始めた水葵を、眼を瞬かせて見る。
「私じゃ北高は無理だしなあ」
 確かに、水葵の方が俺より成績は良くない。彼女も進学校を志望しているみたいだが、塾でも俺と同じ選抜クラスには通っていない。つまり、高校は確実に別々になることが決まっているのである。

 いくら一番ウマが合う友人だと言っていても、この腐れ縁もここで終わりかもしれない。いつまでもこうしていられるような気がしていたが、その現実を俺は初めて考えてみた。しかし、だからと言ってどうできるわけでもないので蝉の声を聞きながら、ただ押し黙る。
 水葵は少し寂しそうな顔をしていたが、すぐにまたいつもの明るい笑顔に戻った。
「小学校三年の時に隣の席になって、私野球やりたかったからスポ少でも一緒だったし、クラス変わっても委員会で一緒になったりして」
 そして今度はどこか遠くを見ているような笑顔で空を見上げると、突然懐かしそうに語り始める。
「笑うツボも一緒だし、口げんかしてても楽しいし……なんでだろうね」
 そこで彼女は困ったように苦笑して俺を見たけれど、俺はそこから思い切り顔を背けてしまった。その視線の動きを誤魔化すようにペットボトルを煽ったが、既に空になったペットボトルからは、ぬるくなった甘い液体が一、二滴落ちてくるだけだった。
「そう思うのって……、私だけかなあ」
 水葵も眼が合わない俺から眼を逸らすと、再び夏の空を見上げる。風がまた吹いた。
「知るかよ」
 答えにはなっていないが、本当によく分からなかったから短くそう答える。水葵はそれでもいいというように、また笑って俺の方を見た。

 ――それは、「友達」だからだ。
 言葉にして確かめなくても、お互いを信じていればいい。そんなこといちいち言わなくても、楽しいから傍にいる、それが「友達」。
 一番の親友と言うならば尚更、言葉にさせるのは相手を信じていないようじゃないか。だから俺はそう答え、水葵は笑っていたんだろう。
 そして彼女は口を開いた。ひまわりのような、屈託のない笑顔で。だけど夏の終わりのしおれかけたそれのような、少し陰りのある笑顔で。
「高校生になってもさ……、ずっとずっと、友達でいようね」
 ――え?
 胸が、ざわつく。
 心が、何か変な方向にぐにゃりと曲がり、気持ち悪くなる。
「おじーさんになってもおばーさんになっても、こうやって心矢と笑っていられたら、いいなあ」
 遠い未知の未来まで、このまま、「友達」でいられたら――。
 それが、彼女の願い。
 ――どうして?
 だけど俺に浮かんだ思いは、まずそれだった。
 なんで、そんなことを思ったかは分からない。俺だって、いつまでも馬鹿みたいに二人で笑っていたい。
 でもそれだけでいいのか。水葵はそれ以上、何も望まないのか。そう思うと何か……、悔しくなった。

 笑顔以外の醜い顔。笑顔よりももっといい顔。「友達」には見せない顔だってきっとあるだろう。――「女」の顔とか。
 本当の、心の底の気持ちとか。喜びも、哀しみも。
 今はまだ、それらをどうしたいのか、そう思うことがどういう意味なのか、よく分からない。
 だけど、いつか、は――? その時、隣に居るのは、誰?
 俺はどうしたいのか。
 どうして、こんなに、

 水葵の声と笑顔が、少し遠のく。
「そ、だな……」
 誰かにそんなことを言ってもらえるのは初めてなのだから、嬉しくないわけないはずなのに、何故か少しも面白くなかった。だがそれ以外に返事のしようもなかった。妙にショックを受けていた。
 いつかお前に彼氏が出来ても、同じこと言ってくれるのかよ。そんな相手が出来たら、俺なんか相手にしてくれなくなるだろ。「彼氏」は「友達」以上にいいモンなんだろ。
 そう思って、俺自身どうしたいのか、水葵にどうして欲しいかよく分からなかったが、ただ焦りだけをやたら感じていた。しかし俺の返事に、水葵はひとり満足そうに微笑んでいた。何も知らずに。それにまた腹が立つが、自分の気持ちも分からない俺には何も言えなかった。

 勝手にさせられた約束。“ずっとずっと、友達でいようね”
 これさえ守れば、今までの関係はずっと保たれる。
 「友達」である水葵を裏切らないためには、これ以外の関係には絶対になってはいけない。今はこの関係が一番居心地がよく、壊したくないから――。
 なのに、外気はこんなにねっとりと熱いのに、俺はそれをまるで氷のように冷たい宣告に感じている。だけど水葵が望むのは「それ」なのだ。彼女も俺を一番の「友達」だと思っているから。
 それがなんでこんなにショックなんだろうか。
 どうしたいのかも分からずに、その複雑な想いを胸の奥に閉じ込めながら、夕暮れの風が水葵の短い黒髪を撫でる様子をただ眺めていた。
 

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