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第16話 真実と唇
 今の俺たちは、五年前のあの夜の二人に戻っているのだろうか。
 繋がれた手が、やけに熱い。黙って見つめ合っていたが、やがて水葵はこくんと頷いた。
“あの夜のこと、忘れたワケじゃねえだろ”
 その問いに対しての答えだった。
 あの瞬間を思い出すと、こっちも身体が熱くなるほど恥ずかしかったが、それでも俺が水葵に対して罪を犯したことには変わりない。しかし忘れたいことだろうに、水葵はそれを受け入れてくれるかのように、ここに立っていた。
 ――何でだよ。
 水葵の気持ちが分からず問いただす。罪の意識から逃れたいのもあって。
「怒ってんだろ、俺のこと。当然、恨んでるだろうし。謝ったってもう、許してもらえねえって分かってるけど、……ほんと、悪かったって思ってる」
 そのくせ逃げられたくなくて、細い手はしっかりと握り締めたまま。だが水葵はそこで首を横に振ったのだった。
「謝らないで……違うの」
 その言葉に目を見開く。信じられないものを見ている気分だった。そして五年前も、俺が怒ってしまい話を聞かなかったものの、彼女が何かを言おうと「違うの」と繰り返していたことを少し思い出す。だから、今度は最後まで話を聞こうと尋ねた。
「違うって、何がだよ。『友達』が嫌って……、ワケわかんねえよ。五年前、お前の方から『友達でいよう』って言ったんだろ?」
 あの頃訳も分からず、それにイラついていた。だけどそう思った理由も、今なら少し分かる気がする。
 触れている、その手が熱い。――それが、答えだ。

 俺が水葵の手をもう一度強く握ると、
「違うの……」
彼女ももう一度切なげに呟いた。
 ――だから、何が違うんだよ!
 答えを求めたく、咎めるように水葵の腕を掴んで引っ張り、その顔を上に向けた。すると再び俺と眼が合った水葵は、震える小さな声で語り始めたのだった。五年前の、真実を。
「謝らないで、あの日のこと……だって、忘れられないんだから。なかったことに、されたくない……」
 ――あんなこと、されたのにか?
 俺の強い視線に、水葵はこちらの困惑が分かっているように静かに、でもどこか虚ろな表情で言葉を続ける。
「だって……私、心矢に嘘……、ついてたから」
「――?」
 五年前の彼女に完全に戻ったのか、水葵はとうとう俺のことを昔のように呼び始めた。それにどこかほっとしつつも、その言葉に眉を寄せた。
「本当は……友達なんか、嫌だった。友達なんかで、いたくなかった」
 あれだけ「友達」を強調していた奴からの、初めて明かされる真実。頭の中は混乱していたが、ただ黙って水葵の話に集中しその言葉をどうにか理解しようとしていた。
「最初は友達だって、思ってたよ。だって、すごく話合うし、価値観も合うし。冷たそうなくせに私が困ってる時とか、いっつも自然に声かけて助けてくれるし、私が意地悪しても絶対に怒らなかったし……だから心矢のこと、一番……いいやつだなって、ずっと思ってた」
 どういう、意味か、分からない。
 ただ水葵の腕を掴む手に力がこもり、心臓が早鐘みたいに鳴り響いている。
「だから『一番の友達』なんだって、思ってたんだ。でも……他の女子が、心矢のこといいなって言ってるの、中三の夏休み前に聞いて……でも私、頭悪いから同じ高校には入れないし、引越しもしちゃうから。だから心矢が高校入って、誰かと付き合っちゃったりしたら、もうその人には勝てないのかなって、その時初めて思って。――ただ同じクラスだっただけの私なんて、すぐに忘れられちゃうだろうって」
 そして想像もしなかった。あの時、水葵が俺と同じことを考えていたなんて。
「だから、『ずっとずっと友達でいたい』って約束したの。そうすれば、ずっと一緒にいられるから。そう約束しておけば、他の子みたいに、卒業したらそれまでってことにはならないって思ったから……」
「って……」
 喉に張り付いたような声しか出ない。見てはならない答えが入った、箱の蓋が開こうとしている。
「私もなんでそう思うのか、なんでずっと一緒にいたいのか、よくわかんなかったし、考えるのも恐かったけれど、心矢と一緒にいられなくなったら嫌だなって思った時から、陸上でがんばって走ってるとことか、あと、ふざけてる時の笑う顔とか、優しいこと言ってくれる時の顔とか……、どれもなんか見るたびに嬉しくなって、変な感じして、見れない日は寂しくなって、これから見られなくなるって思うとすっごく嫌で――なんか急に、気になっていった」
 虚ろな眼をしていた水葵は、そこで俺の眼をしっかりと見て一呼吸おいた。
 そこには何か覚悟を決めたような、強さが感じられた。
「そのうえさ、花火も二人だけで行こうなんて言うから、もっと意識しちゃって――だから、覚えてるか分からないけど、あの時、『気になる人』がいるって言ったのは……、心矢の、ことだよ……」
「――」
 そして知らされる、五年前の、くらむような、真実。
「それは、嘘じゃない」
 はっきりとそう言い切る水葵。まるで自分たち以外の時が全て止まってしまったかのように、どくどくと心音だけがやたらうるさい。

 ……何を言えばいい?今更そう言われて、何と答えればいいのか。
 今、何を言うべきか、何が言えるのか、何を言いたいのか、全く分からなくて、情けなくも水葵を睨むように直視することしか出来なかった。
「だから『あの時』も、いきなりで恐かったし、最後までしちゃったらどうしようって焦ったけど、……後から、すごくドキドキした」
 そこで水葵は恥ずかしそうに俯く。
「心矢とだったら……嫌じゃないかも、って思った」
 初めて女を抱いた日に、あの時途中までしか触れなかった水葵の顔が、幻覚のように蘇りそうになったことも――、思い出した。
「あれが『そう』って言えるのか分からないけれど……、初めてのキスが、心矢でよかったなって」
 そこで水葵は、顔を上げた。
「だから、私、もう一回嘘ついた」
「……?」
 いつ嘘をついていたのかと、俺は水葵との記憶を掘り起こす。
「今回ここに帰って来たのは、ただ懐かしかったからだけじゃないの――本当は、心矢に、会いに来たの」
 そこで水葵は、そっと微笑んだ。泣きそうな顔で。
「ほんとはずっと会いたかったけど、五年たってやっと勇気、出た。会いに行こうって、会って、ちゃんと言おうって」
 彼女の唇が、夏の闇の空間を妖しく震わす。

「――すき」
 心矢が、すき。
 振動は、耳に届いた。

 その瞬間、付き合っている彼女のことも、水葵を大切に想う人々のことも、全て遠のいた。何より奴が切なげに眼を潤ませて、俺のTシャツを握ってきたから。
 ――止まらなかった。
 触れるなら「覚悟」を決めねばならないと、心の奥で誰かが警告する。腕を掴んだまま、顔を近づける。頬の熱が、伝わる。
 ゆっくりと、重ねた唇は――柔らかかった。
 このまま抱き締めて全てを手に入れたくなったけれど、その瞬間思考が弾け、身体の動きが止まってしまった。
 ただ今はあの時感じられなかった、相手を素直に愛しく想う、その単純な心地よさを幸福と興奮の中、味わっていた。背徳の香りすらする、甘いものを。

 ……一体、どれくらいの時間の後か、唇を離した。水葵は顔を離した俺と一瞬恥ずかしそうに眼を合わせたが――、そこで彼女の腕を指が食い込むほど握り締めていた俺の胸を、ぐっと強く押したのだった。拒絶するように。
 その理由には心当たりがあった。
「お前、彼氏いるんだろ……」
 また胸がムカムカとしてきた。自分のことを棚に上げて、唇を許した水葵を詰るように言う。しかし水葵はそこで肩を竦めて笑うと、こう言ったのだった。はっきりと作り笑いと分かる表情で。
「ごめん。それ……、三つ目の、嘘」
「――! って……」
「だって心矢が、彼女いるって言ったから……」
 水葵はそう言うと、呆然と力の抜けた俺の手からするりと腕を抜くと、また笑った。やはりひまわりになれない、しぼんだそれで。
「だから告白と一緒に、失恋。『友達』のままでいればよかったのにね……でも、無理だった。心矢がなんであの時二人でお祭り行こうって誘ってくれたのか、あんなことしたのか、ずっと気になってたけど……でももう、聞くのやめとくね。どんな答えだったって、もう遅いんだもん」
 そして彼女は一歩、後ろに下がる。
「だけど嬉しかった……余計に、つらくなったけど」
 恨みがましさすら感じるその言葉は、今日まで彼女の茶番に付き合ってきことか、それとも今、キスしたことか。もう一度俺を見た水葵は、今にも決壊しそうな顔で笑い続けていた。
「ありがとう――さよなら、」
 もう二度と、ここには来ないという決意が込められたような声でそう告げる。五年前に言えなかったという想いの全てを、焦げ付くように俺の中に残して。

 全てを話した後、水葵は俺の横を素早く通り抜けていった。呆然とそれを見送りそうになってしまった俺は、はっと我に返り、
「待てよ!」
と慌てて振り返ると、水葵を追いかけようとした。何をどう言えばいいか分からなかったが、川沿いの道へと戻る水葵を捕まえるため手を伸ばす。しかし、
「触らないで!」
硬い声で言われて、咄嗟に手を止めた。――お前には彼女がいるくせに。そう言われている気がして。
「私も、まだ彼氏じゃないけど、私なんかのこと、いいって言ってくれる人いて。まだちゃんと言ってないけど……その人に、OKするから」
 俺に三度嘘をついた水葵のそれが、今更本当の言葉かどうか分からないが、
「だからごめん、一人で帰る――」
彼女はそう言ってきかなかった。それでも女性を一人で帰すのはためらわれたが、「大丈夫」と水葵が俺をかたくなに拒み、人混みの中へと小走りに戻っていってしまうので、その固い意思にどうすることも出来なくなってしまった。
 結局俺一人で虚しくも最後まで会場に残る羽目になったものの、渋滞が酷く車は中々駐車場の外へと出られなかった。混雑が終わるのを待つ車の中で、何度も何度も水葵に電話した。しかし奴は一度も電話に出なかった。心配ではあったがそれこそこんな時間に実家に押しかけるわけにもいかず、無事を祈り連絡することを諦めた。
 代わりに何本も何本も、車の中で煙草を吸う。五年前と同じように、楽しかったはずの夏祭りから一人で帰ることに、砂を噛んでいるような空虚を胸に抱きながら。
 ――今夜の出来事を思い出すと、情けないくらいに胸が疼く。この五年間にはなかった、最低で忘れられない夜となった。
 

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