殺し屋の瞳─3
「依頼はキャンセルだ。何やら、翌日本当に学校に来なかったのを見て怖くなったんだと。まだ終わってねえと言ったら金はそのままでいいからキャンセルしてくれときたもんだ。いやぁ、想像通りの間抜けだぜ。おかげで、えらく簡単に儲けられた」
「………」
一夜が明けて、時刻は既に正午に差し掛かっている。何も考えずに移動を繰り返した結果、気付けば俺はやけに偉そうな高層ビルがそこかしこに乱立する街に来ていた。排気ガスが絶えず充満する無機質な庭の中を、大勢の人間が忙しなく動き回っている。
本来帰るべき場所からは、もはや遠く離れていた。電話口から、現在地を尋ねられる。
俺は答えず、僅かな沈黙が流れ、再び催促の言葉を掛けられて──口が、自然に動いた。
「俺はもう、殺しをしない」
「は?」
会話の相手が、俄かに不機嫌そうな声で疑問符を発する。
俺がもう一度同じ内容を繰り返すと、呆れたような、そしてやけに真面目くさった口調の返事がきた。
「そりゃお前……勿論、全部承知の上で言ってんだろうな」
「ああ」
俺達は皆普段、俗世の管理が行き届かない世界で、彼らの道理に背反するように生きている。そこにあるのは、血の契と鉄の掟だ。俺達の異常な日常を支える唯一の法であるそれらに適合せず、適応不可能と判断された者は構造から容赦なく弾かれる。
こと脱退となれば、それはより残酷な、徹底的な手段でもって粛清される。自分達の存在を表舞台に晒す危険性を持った因子が、生存を許容されることは決してない。
故に──影のように密かに逃げようと試みる者すら瞬時に包囲してしまう組織力に対し、俺の発言は、あらゆる意味で思慮に欠けたものと捉えられた。
「……お前とはそれなりに付き合いが長いからな。叶うならここらで、撤回の言葉を聞かせてもらいたいもんだが」
「考えを曲げるつもりはねえ」
「そうだ。実行班が嫌になったなら別のところに異動させてもらえるように話してみるか。それなら……」
「くどいな。これ以上、お前の下らねえお喋りには付き合ってらんねえぞ」
やがて、観念したような溜息の音が聞こえると。
電話口から響く声の音階が、明らかに低いものとなった。
「こっちにも立場ってものがある。昔馴染みだからと言って見逃したりはしない」
あばよ、という言葉を聞いて俺は携帯の電源を切り、踏み潰し、近くのゴミ箱にそれを投げ捨てた。
後悔はしていない。利き腕の震えが幾分か収まり、視界が徐々に明瞭なものとなってきた。
自ら進んで死ぬつもりはない。それは──背徳だ。
己の所業に負い目を感じていたわけではない。その発想すら持っていなかった。
──違うのか。自分の在り方に疑問を持っていたからこそ、あの問いは脳に粘着しているかのような浮沈を繰り返していたのか。
何とでも言えることだ。潜在意識などという言葉を使うくらいならば、俺は俺の感性の方を選ぶ。
俺の中に、死者やその遺族に対する懺悔の念など存在していない。動いていたものが動かなくなった、それだけのことだ。
ならば。
どうして俺は、あの女を見逃した。
どうして俺は、あの言葉に怯えている。
こういう時、間を置かずして常に空疎で単調な回答を用意してきた知恵の足らない俺の脳は、幾ら待てども沈黙を続けるのみだった。
「そして俺の逃亡生活が始まった、ってわけだ」
「もう、終わりを迎えようとしているけど」
過去の蓄積に頓着が無かった俺には、今の内容を、どれだけの時間をかけて語っていたのかも分からない。
長かったのか、短かったのか。
身体は弛緩し切っている。頭に霞が掛かったような眠気を感じる。
「もう何年も前の話にはなると思うが、詳しくは知らねえ。どれくらい逃げ回ってたんだろうな、俺は」
「話を聞く限りだと」
傘を差した女は、今まさに手の届かないところへと運ばれようとしている人間を目の前に、冷静な口振りを保っている。
現実味がないのかもしれない。身の回りに起こり得る様々な危険の可能性をあげつらっておきながら、自らの存在を棚上げするというのはこれくらいの年代の人間の特徴だ。
「こうしてあなたと会話をしているわたしも、危ないのではないかしら。何らかの機密を漏らされているかもしれないと考えるんじゃない」
「心配すんな。んなもん、とっくの昔に変化してるに決まってる」
体制は老朽化する。放っておいても、どこかしらのタイミングで変革を加えなければ維持出来ない。
拠点を変え仲間を変え名前を変え方法を変えて──今も奴らは、何処かの闇の内側にいる。
だったら──と女は言う。
「どうして追跡されなきゃいけないのよ。ほっといてもばれる可能性は無いんでしょ」
「意地やけじめっつーもんがな。女には、理解出来ねえかもしれねえが」
「そう。分からなくもないわ」
次に女は、追っ手に狙われながら、俺が今までどうやって過ごしていたのかを尋ねてきた。
それを聞いた時、俺の口は反射的に皮肉の笑みを浮かべていた。
「他人を殺して、服や金を奪った」
女は遂に表情を崩し、僅かに眉を顰める。
「無茶苦茶じゃない」
「そうでもねえ、と実際にやってる時は思ってたんだがなぁ」
矢張りおかしいのかもしれない。あの人は俺を怨むだろうか。
いや──。
「苛められている奴をな、見つけたんだよ」
──怨むだろう。絶対に。
「人目の無い路地裏に連れ込まれてな。丸い眼鏡をかけた、大人しそうな奴だった。相手は三人だったか。刃物ちらつかせてよ、どいつも心の貧しさが透けて見えるような面してたぜ。あれはお坊ちゃまか何かだったのかね、かなりしつこく金を要求されていた」
女は黙って聞いている。
「下らねえ、ガキの戯れだ。そうやって、最初は通り過ぎようとした。けどな、考えたんだ。あの女が救うとのたまったのは、実はそういう人間なんじゃねえか」
何の言い訳にもならないか。
「何か大変なことが起きているのを知っている癖に、面倒事に巻き込まれたくないがために見て見ぬ振りをし、テメェで勝手に問題を矮小化し、関わらなかったことを後で肯定するような奴に見捨てられ、痛い目に遭う奴。あの女が言っていたのは、世の中に断続的に生産され続けてる無数のそんな奴らに、一々その手を差し伸ばしていくって、そういうことなんじゃねえのか」
「だから、手を出したの?」
「ああ、そうだ。今まさに搾取されようとしている弱者を見捨てない、身の丈を弁えねえ正義感だ。俺は三人を殺した。苛められていた奴は泣きながら逃げた。けどな」
ここで、この相手に、話したところで。
「去り際に、有難うって、言ってたぜ。あれは俺の幻聴か? 暴力で、人は助けられないか? 助けられることを望まないか?」
俺は誰に話している。
「それがきっかけになって、俺は色んなところを飛び回って、何度も同じことをした。気が弱くてからかわれている奴、複数の男に絡まれた女、そんなやつらを全員助けてきた。加害者は全て殺した。殺さねえと、終わらねえだろ。なぁ?」
もうそこには誰も居ない。
「俺にもう少し出来の良い頭があって、よく回る舌が備わっていたらあいつら全員血を流さずに救えたのか? その場凌ぎにならず、やる側は中身を入れ替えられたみたいに大人しくなるのか? ふざけた暴力には、どうしたって太刀打ち出来ないとあの人は言っていた! なら! それを止めるのはより強力な暴力じゃねえのか、俺は間違っていたのか!」
答えてくれよ。
誰も居ない筈の空間から。
声が。
「間違ってるわよ」
視界が開ける。廃れた店と、曇天の空。
全ての過去を洗い流す雨、傘を差した女。
「間違ってるに、決まってるわ」
「──」
審判の声は下された。
俺の罪は過去の全てであり、俺の善行は。
あの人を無事に、この世へと送り出したことだ。
「でも、人は間違ってることで傷付いて、間違ってることで癒されるもの」
雨の勢いが一層強くなった。それなのに、雨音は段々と遠のいている気がする。
俺には何か、言わなければならないことが。
「……お前の瞳は」
女は見届けようとしている。もうすぐ世界から離れてしまう俺のことを。
「あの人によく似ているよ」
そして──ああ、女が振り返ってしまった。幕はすぐに降ろされるだろう。
生命を宿したばかりの赤ん坊には純粋な魂が輝いていて。
憂き世の空気に触れていく内に、それは時間を掛けて濁っていく。
世界は人を弱らせる。世界は人を腐らせる。
目の前に両親が現れたら、俺は彼らを殺せただろうか。
それとも既に、殺してしまっただろうか。
あの人なら──。
きっと、救うことが出来たのだ。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。