死にたがりの声
「氷山筑紫くん、十八歳。学年が上がった時から大学受験のため律儀に勉学に励むも、最中にその言い知れない感情に駆られて自分の人生に疑問を抱き、ドロップアウトする。現在はそこそこ収入に恵まれた両親の庇護のもとで将来に何の希望も持てず、ただダラダラと寿命を消費する毎日を送っている、と」
女性は片手に持った手帳に目を通しながら、一息にそう言い切ると。
「話を受けた私個人としての総括は大体こんな感じなんだが、聞いていてどこか訂正したかった箇所はあるかい?」
手帳から顔を上げ、薄いレンズ越しに覗く涼しげな眼を、真っ直ぐ僕の方へと向けてきた。
彼女の言ったそこそこ裕福な家庭を象徴するかのような広めのリビングの、テーブルを挟んで向かい合う柔らかなソファに座りながらのやり取りだ。
「いや、その通りです。特に無いです」
「そう、良かった。だったらやはり気にしなければならないのは、言い知れぬ感情、とやらのことだろうね。そこをもう少し掘り下げていこうか」
そう言うと再び手元の手帳に視線を落とし、手先の滑らかな動きで何かを書き記していく。
──見知らぬ女性を自宅に招いて、二人きりで対面する。
僕は──。
やはりその間、あまりに突飛な、未だ現実感の追いつかない状況を前に、どこか怪訝な表情をしていたのだと思う。
「ん?」
メモを終えた彼女が少しばかりその眼を見開いて、作り物のような透き通った声で僕に尋ねた。
「ははっ。まぁ、訝しむのも無理のないことだと思うよ。ネットの簡易投稿サービスでひたすら壁を殴るような言葉を吐いていたら見知らぬ人物に突然コンタクトを取られて、悩みがあるなら聞こうじゃないか、ときたもんだからね。警戒するのは当然だ、と言っても……」
家に上げてからというのは、些か鈍感な反応だと思うけどね、と妙に格式ばった装飾物の整頓された部屋を見渡しながら笑った。
その横顔を眺めながら思う。綺麗だが、彫刻のような冷たさのある顔。長く伸ばした艶のある黒髪。とても落ち着いた雰囲気があるけど、年齢はよく分からない。それでも多分、成人はしているのだと思う。
初対面の印象は──その、僕には分不相応の過ぎる容貌にも圧倒されたが、それ以上に、理知的で、どちらかと言えば冷徹な、機械のような人だと思って、少し怖いというものだった。
雪のように白い、体温を感じさせない色の肌と言い、あまりにも、人間離れしていたからだ。
しかし蓋を開けてみればそれはどうやら印象に過ぎなかったらしく、その振る舞いは決してふざけているわけではないが、余裕に溢れていて、よく笑顔を見せた。
待ち合わせ場所に──外に出ることを想像しただけで赤面し、鏡の前で服装に四苦八苦する内に発汗してしまうような僕が、とても話しやすいと思える人だった。
それでも。
彼女が述べた通り、その邂逅は余りにも唐突で、言ってしまえば異常なものだ。
思い切って信じたい、胸中を打ち明けたいのにそう出来ない──昔からずっと僕の邪魔をしてきたこの臆病な警戒心が、そのような場面において働かないわけがない。
それじゃあもうちょっとだけお話をしようか、と彼女は作り物のような声で、どこか優しさを含ませながら言った。
「キミの疑問が解けるまで、どんな質問でもしていいよ。まぁ先に断っておくと、プライベート方面の面白い話は全くないけどね。これといった付き合いのない、仕事場で寂しい一人暮らしさ」
言いながら、自分で笑う。その外見と比べて、笑い声はとても自然なものように、僕には聞こえる。
僕は。
「仕事って、一体どんな……?」
そう訊いた。だいぶ偏見はあるけど、ただのカウンセラーにしては対応が大袈裟過ぎる気がする。
日夜ネットの書き込みをチェックしてはそれらしいアタリをつけて即訪問にこぎつけるなんて力の入れようは、流石に普通じゃないだろう。
「メールでやり取りした時にも伝えたと思うけど、じゃあもう一度言おうか」
そう言えばそうだったかもしれない。僕は思い出せない。
しかしこのような愚昧極まる質問に、これといって嫌がる素振りも見せずに、彼女はソファの上で一度背筋を伸ばした。
「取りあえず掲げている看板には、天宮人生相談所、と外連味に欠ける記号が乗っているよ。実態もまぁ、大袈裟なものじゃない。困っている人の所に出向いて、場合に拠ってはご足労頂いて、話を聞いて出来る助言があればする。料金も大した額じゃない。今時なら中学生のお小遣いでも済む程度だ。それで少しでも救われる人がいるなら、と思ってるけど、実際どれだけ貢献できてるかは分からない」
自営業、ということだろうか。なら、取りあえずこの場はそう納得するしかないようにも思う。
最後の方は苦笑が混じっていた。僕は不必要に慌てて、何も知らないくせにそんなこと無いですよなどと言ってしまう。
もしかしたらそれは挨拶代りの冗談程度のことだったのかもしれないけれど、待ち合わせの場所に彼女を発見した時、裏切られていなかったということが判って、僕は本当に随分と救われた気になったのだ。
だから本心を伝えた。声もかすれ気味で、フォローにもならない小人の醜態を、それでも彼女は有難うと言葉にして感謝した。
「でも、それはキミの警戒網をほどくだけの情報にはなり得ないね。嘘を言っているかもしれない。疑いの証拠を提示するのは簡単だが、その逆は往々にして難しい。さて、どうしたものか……」
手の甲で顎を支えるようなポーズをしながら、彼女は懸命に思考を巡らせているようだった。
僕は、少しばかりその様子を黙って見ていたのだけれど。
やがて。
「いや、もう大丈夫です」
と、言ってしまった。
ん? と彼女が疑問を如実に浮かべた顔をする。
そして、僕は自分から切り出したくせに赤面した。気を遣ったわけではない。突然面倒になったのだ。確かにこちらから尋ねておいて、今更余分な説明はいらないと切り捨てるのは失礼かもしれない。けどそれは本心に違いない。だから問題はそこじゃない。
果たして今のタイミングで、今の言葉選びで正しかったのか、もっと良い伝え方があったんじゃないか。そうやって過去を何度も反芻して探っていく度に落ち込んでいく。
僕の、いつもの悪い癖だ。
「信用してくれるのかい?」
彼女のフォローは簡潔で、自信にあふれていて、分かり易い。
「ええ、と言うより仮に貴女が碌でもない人物だったとして、元々どうでも良かったというか……」
そう。たとえば彼女の正体が善良な相談役などではなく、巷に無数に溢れている危険で奇怪な集団の勧誘員だったとして、だ。
まともな武器を持つことも出来ず、常にひたすら身を屈めて自衛を図っていたような僕の、もう一つの、投げ遣りな諦観を持つ一面が顔を出し始める。
ここで勧誘を断り続けても、家の住所が団体に漏れたりすれば、こんな子供を抱えた憐れな両親にだって必ず迷惑が掛かる。祖父母やその他の血縁者にまで影響が広がるかもしれない。
到底自分一人ではケアし切れない被害が出るかも知れない、けど。
それがどうしたと言うのだろう。
それを防いだからと言って、僕のこれからに何か変化があるのだろうか。
それを防がなかったからと言って、僕に何か不都合があるのだろうか。
生活が不自由になろうと、どこの誰から恨まれようと、そんなもの──。
──全部、承知の上じゃないか。
「それは話の運びとしてはとても都合が良いけど、キミの人生にとっては結構な障害になる価値観じゃないのかな」
僕の態度の変化から何を読み取ったのか、彼女はいきなりそんなことを言い出した。
雰囲気が一変する。氷のような表情にユーモアを含ませていた口調が、神妙なものになる。
「どうしてそう思うんですか?」
僕は言う。あなたに何が判るのだと思う。
「だって、そうじゃないですか。誰かに迷惑が掛かるから駄目だとか、一人前の人間としてどうあるべきだとか、それを守らなかったからってどうなるんですか? 守ったらどうだっていうんですか? そんなことに固執する人間に好かれるか、嫌われるかっていうだけの問題でしょう? 僕はそんな人にどう思われようと、どうでもいいんです。そう考えたら、今まで真面目にやっていたことが全部馬鹿馬鹿しくなったんです。そう考えたら……」
息が荒れる。顔面が茹蛸みたいに紅潮しているのを自覚する。
「人生自体が意味の無いような、下らないことしか無いようなものに思えて、とても悲しいんです」
言い続けている間、僕はずっと彼女から目を反らしていた。誰かの目を見て話すことなんて出来ない──彼女の瞳は、射竦められそうで、尚更だった。
肝心の内容も支離滅裂だ。感情が勝手に溢れたようで纏まりがない。自己を表現することに慣れていない。本当に、恰好悪いことこの上ない。
でも、僕のこの考え自体は間違ってない。負け惜しみみたいだけど、確信がある。
倫理、道徳、常識なんてものは──人間としての尊厳を保つための模範と言うよりも、それを逸脱した者を叩くため、他人を傷付けるという背徳の快感を肯定的に得るための免罪符としての働きしかない。
その統率機能自体のミスには誰も関心がない。仮に気付いても見なかったことにする、何故なら──。
人はそれほど器用ではないし、清潔でもないからだ。
人という存在で居るためには、人は欠陥だらけだ。
下らない。
本当に下らない。
嫌なことを思い出す。
ああ。
大学に入って、社会人になって、その先に一体何があるというのだろう?
「人生というものそれ自体に、意味は無いよ」
咄嗟に顔を上げる。
彼女の口調が最初の時のようなものに戻っていた。
僕は、その言葉の意味を汲み取ることが、直ぐには出来なかった。
「え……?」
「生きてれば良いことがあるだとか、人生は本来素晴らしいものだとか、そういう戯言はあちこちで囁かれているけどね。そんなものに耳を貸す必要なんて無いのさ。ああいうのは能天気が能天気宛に発信する自己満足だからね。人生をただ一つの事象として見た時に、その属性をつけるのは自分しかいないんだよ」
庇ってくれているのだろうか。
氷のような表情が柔和になって、どこか自嘲するような笑みを浮かべていた。
「つまり、意味の無いものに自分で意味を『持たせる』のが人生だ。いいんだよそんなものは好きにして。良いものにするのも悪いものにするのも自分の勝手。だけど、その意味を誰かに強制するような態度は頂けないよね」
そして──その中で解決の検討もつかないまま傷付いているのもね、と言いながら。
手元の手帳が、音を立てて閉じる。
「うん。じっくり探りを入れていこうと思っていたんだけど、殊の外早急に話が進んだね。いや助かるよ。それでは早速」
彼女の言葉は、声質は冷たいが配慮に満ちていて、話し方がいかにも人間的に語りかけるようで、とても聞き取りやすい。
けれど、その時。
僕は決して逃れらない魔力を──彼女の口から紡ぎ出される言霊の羅列に感じていた。
「解決策を、考えてみようか」
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