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この空の下で

作者:本塩
※紫乃様主催「ドラマチックキス企画」参加作品
大遅刻組です。大変申し訳ありません。
 翼持つ者
 自由闊達な空の住人――――

 他種族の者は彼らを指してそう口にする。
 背中に生える一対の翼を自在にはばたかせ、眷属の鳥たちと共に空を飛ぶ彼らは、本来争いを好まない穏やかな種族である。一年の、ある特別な日を除いては。

 一族の中で最速の翼を持つ者を決める、年に一度の大空の競争。
 血気盛んな若い雄ならその日のために飛翔能力を磨き、翼を美しく手入れするはずなのだが。



「ラーシュ! もう、また家に閉じこもって!」

「あいかわらずひとりで賑やかだね、イレーネ。散歩は終わったの?」

 大樹の枝に建てられた幼馴染の家に押しかけるなり、イレーネは憤然とした面持ちで翼を広げた。
 外は目が覚めるほどの快晴。今日こそラーシュと一緒に空を飛ぼうと来てみれば、案の定彼は机に向かって読書の真最中である。

「散歩はこれから。本なんか読んでないで外に出ましょうよ。ほらっ」

「僕は遠慮しておくよ。最近ちょっと寝不足なんだ。あ、一緒に昼寝でもする?」

「今日みたいな日に飛ばなくてどうするの! あんたの翼、このままだとかびが生えちゃうわ」

 ぐいぐいと腕を引っ張ってもびくともしない。共に成長するうちにいつの間にか力も体格も追い越されて、イレーネは内心悔しがる。

「外より家の中の方が好きなんだ。知ってるくせに、なんでいつも誘いに来るの?」

 それに性格も素直じゃなくなった。子供時代は、イレーネの言うことならなんでも二つ返事で聞いてくれたのに。最近はそのひねくれた態度にかちんときて、口喧嘩をすることも多くなった。

「……あんたが全然外に出てこないから、また風邪でもこじらせたんじゃないかって」

「それ、余計なお世話」

 うんざりとため息をこぼしたラーシュに、イレーネは言いようのない苛立ちを覚えた。
 外では来たる競争の日のために、若い雄たちが翼を広げて飛び回っている。
 頬杖をついてぺらりと本のページをめくる幼馴染は、同年代の雄に比べて身体が弱く、昔から屋内に引きこもりがちだった。調子がいい時でも外出を億劫がり、人前でその背の翼を広げることはほとんどない。翼持つ者にあるまじき出不精の彼を外に連れ出すのが、もっぱらイレーネの役目だった。
 だがそれも幼い頃の話。齢を重ね、一頃よりは丈夫になった彼の世話をこれまで通り行おうとするイレーネを、仲間はこぞっておせっかいとはやし立てる。

 それでもこうして彼のもとに足を運ぶのは、ひとえにラーシュのことが好きだから。
 不毛な片想いはもう何年も続いている。

 はあと重く息をついて、イレーネは手近の椅子に腰かけた。
 先ほどからずっと見つめ続けている幼馴染は、こちらを一瞥することなく読書に没頭している。

「今年の本命はディックだそうよ。彼の翼、大きいものね。色も漆黒に少しだけ茶色が散って、なんか強そうだし」

 手持ち無沙汰に自分の翼の羽をいじりながら、イレーネは続けた。
 なんだかんだで毎日のように顔を合わせている相手との話題など、今一族をあげて盛り上がっている競争の話しかない。

「でもわたし、ヘンリクもいいところまでいくと思うのよね。この間となりの森まで一緒に飛んだときなんか、全然追いつけなくて。こう、スーッと風を切ってるところとか、すごく綺麗だったわ。あとはイーロやカイも速くて格好いいし……あーあ」

 イレーネは脱力して天を仰いだ。
 普通の雌なら今挙げた彼らのような、大きくて速くて格好いい雄に目を惹かれるものだ。そしてその中から己のつがいに相応しい雄を選り好みする。
 だが自分はどうだろう。イレーネは幼馴染をじっとりとした目で眺めた。
 身体はそれほど大きくないし、翼だって綺麗だとは思うけれどあまりぱっとしない青鈍(あおにび)色だしで、一般的な雌の嗜好からはかけ離れているのではないか。おまけに一緒に空中散歩を楽しんでくれることもなく、仲間内からは付き合いが悪いだのなんだの言われているこの幼馴染をなぜ好きでいるのか、イレーネ自身も説明できなかった。
 それなのに、ラーシュ以外は目に入らなかった。記憶も定かではないほど昔から今にいたるまで、こっそりと目で追い続けたのはこの幼馴染だけ。

「一目惚れ……惚れた弱み?」

「なにブツブツ言ってるの」

「なんでもなーい」

「そう。なら頼むから口は閉じていてくれる? さっきから気が散ってしょうがない」

 ……不愛想だしそっけないし、本当になんでこんなのが好きなんだろう。
 自問しても答えは出ない。

 真剣な表情で文字を追う横顔をぼんやりと眺めながら、それでも彼が好きという感情を持て余す。
 ただの口うるさい幼馴染としか思われておらず、つがい探しになど興味もないと言った風情で家に引きこもるラーシュ。そんな彼とこの先どうにかなって、この恋が晴れて報われる。そんな日はきっと来ないのだろうと、イレーネはすでに半ば諦めている。
 そうでもしないと、心の片隅に巣食う不安に押しつぶされてしまう。その不安を打ち破る勇気を、彼女は持っていなかった。

 拒絶されるくらいならただの幼馴染でいたいと、心の柔らかい部分が弱々しく叫んでいるから。

 自分の殻に閉じこもるように、イレーネは瑠璃色の翼を広げて自分の身体を包み込んだ。

「わたしもつがい、探さないとなぁ」

 投げやりな言葉が口をついて出た。ピタリと、ページをめくるラーシュの手が止まったことに気がつかないまま、イレーネは続ける。

「競争の勝者は、どんな願いもひとつだけ叶えてもらえるでしょ? これまでもつがいを指名する雄はいたけど、わたしは誰にも選ばれないから、自分で探さなきゃ……」

「イレーネ」

 静かな声で名前を呼ばれる。
 翼の間から顔をのぞかせると、本と向かい合っていたときよりも真剣な暗褐色の眼差しと目があった。

「なに? ラーシュ」

「君は……つがいになりたいと思う雄がいるの?」

「え」

 動揺して羽がこすれる。ふぁさりという音が二人きりの部屋にやけに響た。
 頬に血が集まって、熱を帯びていく。聡いラーシュになら気づかれてしまうかもしれない。
 そしてはたと気がつく。これはチャンスなのではないか。
 あたため続けてきた想いを打ち明ける、絶好のチャンス。

 でも。

 待って、やっぱり……と、臆病な自分が二の足を踏んでいるうちに。
 探るような目でイレーネを見据えていたラーシュが、先にふいと顔を逸らした。

「ごめん。もう、今日は帰って」

 先ほど以上にそっけない、冷たささえ感じさせる声で彼はそう言った。

「ラ、ラーシュ、あの」

「いい加減、君の無駄話には付き合っていられない」

 ラーシュは翼を少しだけ動かすと、何か言い募ろうとするイレーネの視線を遮って読書を続けた。それはまさしく、彼女を拒絶するように。


 その日以降、イレーネが彼を訪れても顔をあわせることはなくなった。居留守なのか本当にいないのか、家の周囲を飛ぶ眷属たちも教えてはくれず、分厚い木の扉の前で呆然と立ち尽くすしかなかった。





 そんな日が何日も続き、いつの間にか年に一度の競争の日がやってきた。
 ラーシュに避けられる毎日に鬱々としていたイレーネだったが、友人が息急き切って教えてくれた話に慌てて家を飛び出した。
 目的の場所に向かって飛んでいる間、友人の言葉がぐるぐると頭から離れなかった。


 ラーシュが。
 あの引きこもりの幼馴染が、競争に出るなんて。



 そして会場となる空にたどり着いたイレーネは、他の雄に紛れて翼をはためかせていたラーシュを問答無用で連れ出したのだった。

「やっぱり来てたんだ。つがい探しに熱心なくせに姿が見えないから、どうしたのかと思った」

 久しぶりに会った幼馴染は、こんな時でも憎まれ口を叩くことを忘れない。

「わたしはなんであんたがここにいるのか聞きたいんだけど。競争に出るって嘘よね?」

「いや、嘘じゃないし、もうすぐ始まるんだけど」

「ちょっと待ってよ。どういう風の吹き回し? 去年までなら我関せずで家に引きこもってたじゃない。なんなのよいきなり」

「なんなのって聞かれても。ちょっと思い立ったから出てみようってだけ」

「ば、バカじゃないの? 普段ろくに飛びもしないあんたが勝てるわけないじゃない! 優勝候補のヘンリクたちがどれだけ前から準備してきたか知らないわけじゃないでしょ?」

「うん。でも僕だって出るからには優勝するつもりでいるよ」

「なっ……」

 引きこもりすぎて思考回路がおかしくなってしまったのか。いつも頭にくるほど整然とした論を並べたてるラーシュの口からは、突拍子もない言葉ばかりが紡がれる。
 根拠のない自信に満ちた彼の姿に、イレーネは言い知れぬ不安を覚えた。脳裏に蘇るのは、頻繁に寝込んでいた幼い日のラーシュ。

「……あんたには、無理よ」

 ぽつりと呟いた言葉に、ラーシュは無言で顔をしかめた。

「優勝なんて……ほんとにどうしちゃったの。昔からちょっと飛んだだけで息切らして、苦しそうにしてたあんたが」

「子供の頃の話だよ」

「今だって変わらないわ。それに競争はただ飛ぶだけじゃない。他の雄と接触して堕ちちゃったら、怪我じゃ済まないかもしれないのに」

 不安が堰を切って溢れ出す。強さを示すために、わざとぶつかって競争相手を墜落させようとする雄は毎年いる。激しい競争の中で、目の前の幼馴染が無事でいられる姿を思い描くことなどできない。

「今日は風も安定してないし、煽られたりしたら……」

「心配してくれるの?」

「ちがっ」

 俯いていた顔をばっと上げる。だが穏やかな眼差しの彼と目があい、何も言えなくなった。
 自分より一回り大きな掌が頭に乗せられる。そのまま宥めるように撫でられて、イレーネはわけもなく泣きたくなった。

「心配性は昔から変わらないよね」

「あんたのせいでしょ……」

「うん、ごめん。ありがとう」

「そう言うなら、危ないことはしないで」

「それも……ごめん。もう行かないと。僕にとって今日の競争は、避けて通れない壁みたいなものだから」

「わけわかんない……」

「いいんだよ。君は、それで」

 それに、と、彼はそこで言葉を切り、空を見上げた。
 大きな雲が流されて、その間から陽の光が差しこんでいる。

「勝って、叶えたい願いがあるんだ」

「ラーシュ?」

「心配ついでに、応援してくれると嬉しいな。僕が優勝できるように」

「え、ちょっと……!」

 返答を待たずに、ラーシュは翼を広げて飛び立った。一度だけ振り返り、立ち尽くすイレーネに微笑みを投げかけて。
 その表情は子供の頃に戻ったようなあどけなさと、今まで感じたことのない熱を乗せていた。







 スタート地点の空を埋め尽くしていた大勢の雄が、合図と共に翼を広げ、風を切った。
 離れたところで見ているイレーネたちにも空気の揺れが伝わってくる。
 色は様々でも、競争に出た雄たちの翼は一様に大きい。イレーネは見慣れた青鈍色の翼を見つけようと躍起になったが、他の雄に隠れてできなかった。
 早い者はすでに最初の森に差し掛かろうとしている。

 競争経路は比較的短い。往路は最初の森以外の障害はなく、平地を駆ってその向こうの峠を折り返す。復路は終始長い森が続き、そこを抜けると最初のスタート地点に戻ってくる。勝敗が決まるまで時間はかからない。

「最後の森を一番に抜けるやつは、誰かねえ」
「ディックだろ。誰もあいつには追いつけない」
「そのまま優勝もかっさらっちまうかな」
「そうだろうよ。森を制したやつが一位なのは毎年同じさ」

 翼をばたつかせて騒ぐ周囲をよそに、イレーネは胸の前で祈るように両手を組んだ。
 翼が小さければ小回りはきく。だが木々が生い茂る間を縫って、なおかつ速さを落とさず飛ぶにはそれなりの技術が必要だ。
 細い枝を見落として怪我をしていないか。木に紛れて誰かから妨害されていないか。
 薄暗い森の中を飛んでいるだろう幼馴染に、嫌な想像ばかりがかきたてられる。

 しばらくのち、突如としてピィッと甲高い音が遠くの方からこだました。
 黒茶色の魔法弾が空に打ち上げられている。一位の雄が峠を折り返したのだ。
 少し遅れてまた別の弾が空に色を残す。雄たちの翼の色を模したその弾は、どの雄が何位なのかを遠くの観衆たちに教える役目も果たしていて――――

「うそ……!」

 驚愕に口元を覆ったイレーネの周りで、他の者たちもざわりとどよめいた。

 今年の若い雄は有望株が多かった。優勝候補のディックをはじめ、頂点を狙える雄は片手で数え切れないほどだったのに。

「三、いや四位か? 今の色誰だ?」

「ラーシュよ! あの青はラーシュの色よ!」

 首を傾げた見知らぬ観衆の肩を掴んで揺さぶってやりたいほど、イレーネは興奮していた。
 あの病弱だったラーシュが、優勝候補たちと並んで上位に入りこんでいる。

『僕が優勝できるように』

 去り際に囁かれた言葉が耳の奥で再生された。
 無茶はしてほしくない。勝敗なんてどうでもいいから、無事な姿で戻ってきてくれるだけでいいと。
 それでも。

「がんばって、ラーシュ……!」

 飛び進む彼を力づけるように、イレーネも翼を広げて大きくはばたいた。





 風の表情が変わってきた。
 時折吹きつける大きなうねりは、小さな翼の者たちが煽られて体勢を崩してしまうほど強い。
 観衆たちがまだかまだかと目を向ける森の木々も、ざわりと不穏に揺れ動く。
 そして一瞬風が止み、空気が静寂を取り戻したとき。

「来たっ」

 誰かが叫んだ。
 そびえたつ木の影から姿を現したのは、優勝候補筆頭のディック。
 勇ましい黒茶の翼で風を切り、まっすぐゴールへと向かってくる。

「やっぱり一位は変わらずかぁ」
「結構差はついたのかな?」

 勝者を迎える歓声に、イレーネの心は埋もれそうになる。口からもれた細い息に乗って高まった熱が逃げていくのを感じながら、イレーネはディックから森の出口へと視線を移した。
 興奮で紛れていた不安が再び顔をのぞかせる。二番手はまだ姿を見せない。

「ラーシュ……」

 もう何位でもいい。中間四位も十分誇れるほどの速さだ。優勝はできなくても、最初から無理だと決めつけた自分をイレーネは恥じていた。息を切らして戻ってくる彼に、頑張ったねと言いたかった。
 彼は叶えたい願いがあると言って競争に出た。戻ってきた彼にその願いが何なのか聞いてみよう。
 頼りないと思っていた彼の雄姿に精一杯報いたい。彼の願いを自分が叶えられればと、イレーネはおこがましさを覚えつつ考えた。

「きゃっ」

 びゅうと強い横風が吹き、はばたきが乱れる。
 顔にかかった髪をどけると、一位のディックが四苦八苦しながら風をたぐっている姿が見えた。

「向かい風だ。ディックも運が悪いな」
「あれ、でもおかしいぞ」

 風の気まぐれと疲れからか、彼が得意とするはずの水平飛行は若干精彩を欠いている。だがおかしいのはそこではない。
 一位を独走する彼の表情が、遠目から見ても緊張して強張っているのだ。
 そこに勝者の余裕はなく、心なしか翼も切迫したように忙しなく羽ばたいている。

「……っ」

 今度は目を開けていられないほどの強風が吹きあれた。ディックだけを注視していた観客たちは、こぞって体勢を整えようと翼をはためかせる。

「あ――――!」

 ただ一人、風に煽られながらも森から目を逸らさなかったイレーネが、真っ先にその存在に気がついた。
 しなる枝の隙間から、弾丸のように飛び出した黒い影。
 大きな空気のうねりにのってそのまま急上昇するその影は、否、青鈍色の翼を背負った一人の青年だった。

「ラーシュ!!」

 周りの観客が呆けたように口を開いて見上げる中で、イレーネはたまらずその名を呼んだ。
 その間もラーシュは天高く昇っていく。ゴールまでの距離はむしろ開いていくのに、風を切るピンととがった翼に迷いはない。

 そしてその速度は宙のある一点で収束した。
 激しい上昇が嘘のようにぴたりと静止する。
 深い青の翼を雄々しく広げるラーシュ。彼の羽、彼の髪すらも風が揺らすことはなかった。
 はるか上空の一帯に、ラーシュが支配する静かな世界が広がっていた。
 まるで風が、彼に畏れをなしたように。

 滞空は一瞬。
 大地を見下ろしたラーシュがぐるりと身体をひねった。

「堕ち……っ」

「ちがうわ!」

 ざわめく周囲にイレーネは叫んだ。
 そして彼女は思い出した。

 あれは墜落なんかじゃない。
 子供の頃に一度だけ目にした、彼の本気の飛翔。

『つばさが大きくなくても、はやく飛べるはずなんだ。理論的には、ね』

 イレーネには理解できない難しい図面に曲線を描いて、ぱたぱたと翼を揺らしていた幼馴染。

『降下なら、きっとだれにも負けないよ』

 そう言って悪戯っぽく微笑んだ彼に、初めて恋心を抱いたことも。





 目にもとまらぬ速さで空を滑る。
 中空の乱れた気流に入っても勢いは失われない。それどころかさらに加速して、先を行くディックとの差を詰めていく。
 翼はほとんどたたまれている。不安定な風を全身で操る彼は青い雷光のようだった。
 対するディックもひと際大きく翼を伸ばした。
 肉薄するラーシュを巻き込まんばかりの勢いで、長い風切羽が周囲の空気を持ちあげる。
 それに動ずることなく、ラーシュも風をたぐって味方につけた。

 二人のどちらがこの競争を制するのか。
 怒号のような声援と熱気が空を覆う。

 ゴールまであと百、八十、六十――――距離五十を切る前に、ラーシュがディックに並んだ。
 あと少し。ほんの少しだけ。

「ラーシュ!!」

 彼の名を呼ぶ自分の声もまともに拾えない。それなのに。
 あの青鈍色の翼が風を切り裂いた音を、イレーネは確かに聞いた。



 ごおっと唸り声を上げたのは風ではなかった。
 その場を滞空していた一族の者全員が、興奮に任せて飛び交いながら何かを叫び散らしている。
 勝利をうたう眷属たちのはばたき。手を叩いて彼を称える人々。

 すべてが遠くの出来事のように感じて、目を閉じたイレーネはひとり嗚咽を噛み殺した。
 こみあげる歓喜で胸が締め付けられる。感動がすべての言葉を奪い去った。

 早く、ラーシュのそばに。
 そう思って俯いた顔を上げたとき、周囲にいた雌達の悲鳴が耳に刺さった。

「誰か来てくれ!」

 ディックの叫び声を辿り、硬直する。
 ばたつく彼の翼の下で、だらりと垂れ下がっているのは青鈍色の翼。
 ゴールの勢いを殺しきれなかった二人が接触したらしい。ディックがラーシュを支えているが、激争を飛び抜いた彼も限界に近い。
 再び荒れだした風に煽られ、朦朧としたラーシュの身体がずり落ちる。

 考えるより先に身体が動いた。
 空気のうねりを縫って二人に飛び寄る。

「ラーシュ! しっかりして!」

 脇から抱えるようにぐったりとした彼を支える。
 ひゅうひゅうと浅い呼吸を繰り返し、苦しそうにすがめた瞳にイレーネを映した。

「ああ、イレーネ……ねえ、一位は僕だった? 僕が一番速かった?」

「うん、うんっ、すごかったわ、おめでとうラーシュ……!」

「そっか、よかった」

 心底安心したようなその声に油断して、イレーネは吹きつけた強風に翼を取られた。

「う、あっ」

「イレーネ……ッ」

 がむしゃらに翼を動かしても風の端を掴めない。
 二度三度と煽られるうちに、いつの間にかディックの支えまで失って、二人はまっさかさまに堕ちていった。






 土と草の匂いがする。

「……ゴールが低空でよかった。怪我はない?」

 耳慣れた声が頭上から聞こえた。肩や背中にふわりとした感触も伝わって、ここが大地の上で、そして彼の翼に守られたことを知る。

「ごめんなさい! 今――――」

「いいよ、このままで。僕の方こそごめん。本当ならゴールしてすぐ、君のところへ飛んでいくはずだったのに」

「なに、言ってるの」

 脈絡のないことを言いだす彼に困惑する。不安と焦燥でイレーネの血の気が引いていくのにも構わず、ラーシュは苦笑して目を細めた。

「どうせなら、君が大好きな空の中がよかったなって」

「もういいから! 翼動かしちゃだめ! 羽が……っ」

 ぶるりと震えた翼は変な方向を向いて地面に投げ出され、あたりにはおびただしい量の羽が散らばっている。飛翔時にはすっと伸びていた風切羽もひしゃげて、見る影もない。
 自身の翼の惨状を首をひねって目の当たりにしたラーシュは、力の入らない息を吐いて弱々しく笑った。

「ほんとだ、ボロボロだ。ああ、かっこわる……でも」

 ねえ、イレーネ。

 こんな状況なのに、掠れた声で呼ばれた名前は今までで一番、優しく響いた。
 涙が一粒こぼれた瞬間、腕にぐっと力がこめられ、抱き寄せられる。その拘束の力強さで空を駆る凛々しい飛翔姿を思い起こし、また熱い雫が溢れた。
 片方の腕が持ちあげられ、イレーネの頬を撫でる。輪郭をなぞるように下った手が顔を優しく上向かせ、彼の暗褐色の瞳と視線が絡まった。
 ぼやけた視界に映るそれは切なく眇められ、イレーネと同じように潤んで、揺らめいている。

「地味でぱっとしなくて……格好いいところも決められない、僕だけど」

 震えながら耳を傾ける幼馴染を、どこまでもまっすぐな瞳が射抜いた。

「僕のつがいになって」

 目を見開いたイレーネに、彼はおかしそうにふっと息を漏らした。そして痛みを思い出したのか、眉をひそめて腕の中の存在をさらにかたく抱きしめる。

「君と他の雄が一緒にいるところなんて、見るのも聞くのも、もう嫌だ」

「ラーシュ……」

 再び開かれた瞳に、己の唯一を求める熱だけを宿して。

「君が好きだよ。ただの幼馴染なんかじゃ、満足できないくらいに」

 僕の願い、叶えてくれる?


 ひくっとしゃくりあげ、彼の首に腕を回す。
 触れ合うところから熱が伝染して、眩暈すら覚える。
 自分が踏み出せなかった一歩を、不器用に、けれど一息に飛び越えてしまった彼が眩しくて、そしてこんなにも愛おしかった。

「わたし、も、大好き」

 歌をうたうときの綺麗な声を、どうしてこの大切な瞬間に紡げないのだろう。
 それでも彼は、涙で揺れたその言葉に花が咲いたような笑みを浮かべて、そして。

「ありがとう。……愛してる」

 吐息まじりの囁きとともに、唇が重なった。




「勝者はラーシュ! ラーシュ・フォルコニール! 最速の栄光は()の者にあり!!」

 族長の一声と、沸き立つ歓声。
 眷属たちが祝福をさえずりながら飛び交う空の下。


 このキスを、わたしは一生忘れない。


 柔らかなぬくもりを受け止めて、イレーネは愛するつがいと微笑みあった。



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