『ウィルマグス』近傍の上空に正体不明の飛行物体が現れたという報告を受けてから、グロリエの機嫌は目に見えて悪くなった。これが皇国側の偵察騎であるという確証はついぞ得られなかったが、彼女は最悪の事態を想定してことを推し進める決断を下した。
“雷霆”の存在はついに皇国の知るところとなった。
当然、その危険性を正当に評価出来るだけの頭脳を皇国が持っていれば、その破壊か奪取に動くだろう。
だが、この段階になっても帝国軍にそれに備えようという意見は極々少数であった。
理由は大きく二つ。
一つ目、皇国側が“雷霆”に対して何らかの軍事的行動を起こすためには、どうしてもパラティオン要塞前面に展開している帝国軍を突破しなくてはならない。要塞の援護を受けられると仮定しても、それだけの打撃力が皇国軍にあるとは考えられなかったのだ。『ウィルマグス』という都市は白狼山脈の山裾近くに建設されており、東の天狼山脈と西の白狼山脈の隙間にある北西から南東に細長いファルベル平原からは、山脈を形成する山が邪魔になって直接その姿を見ることが出来ない。
ファルベル平原にあるパラティオン要塞の要塞砲も射程が足りず、大規模戦略級魔法による直接射撃も山脈があっては狙えない。さらにいえば、大規模戦略級魔法ともなれば“雷霆”の至近にある『ウィルマグス』にも影響が出るだろう。非戦闘員が暮らしている街に向けてそんな魔法を放てば、周辺国が黙っていない。レクティファールが当代皇王の二の舞になることは明白だった。
二つ目、皇国軍の援軍は未だ編成途中。これが実効戦力としてパラティオンに入るのは、早くても一月半掛かる。援軍が得られない以上、寡兵を分割して運用するとは軍略上の常識として考えられなかった。仮に少数部隊を隠密機動させて帝国軍陣地を越えることが出来たとしても、実際に“雷霆”を陥落させるには圧倒的に戦力が足りない。
玉砕覚悟の決死隊であったとしても、『ウィルマグス』には二個旅団五〇〇〇が予備戦力兼都市防衛戦力として残されている。これを撃破して“雷霆”に肉薄出来るほどの戦力が隠密裏に帝国陣地を越えられる筈がないと彼らは判断した。
グロリエも彼らの判断を支持した。
彼女自身、皇国側が有効な対抗手段を持っていないと考えていたからだ。
というよりも、これまで必死に“雷霆”を隠してきたのは、皇国側にその存在を察知されて何らかの対処をされないようにするためだった。“雷霆”の建造開始時期は皇国の内乱の最中であり、帝国としても最大の好機と見ていた。資材部品を運び込み、三ヵ月を掛けて完成間近となった。各試験は本国内で済ませてあるから、試運転を行えばすぐにでも実効戦力として通用する。
この時点で帝国は皇国に対して九分九厘勝利を確信していた。だからこそグロリエを激戦区である西方戦線から引き抜き、皇国に止めを刺す役目を与えたのだ。
今更新たな皇王――正確には次期皇王――が出てきたところで何が出来る。それが帝国軍の総意だったと言っていい。その中には、グロリエさえもが含まれていた。
それでも彼女が『ウィルマグス』駐留の五〇〇〇の防衛部隊に警戒態勢を下令したのは、つい数日前に顔を合わせた一人の青年の姿が脳裏から拭い去ることが出来なかったからだ。
それがどのような結論を彼女の前に差し出すのか――――未だ刻は満ちていない。
パラティオン要塞地下訓練場。
長辺一〇〇メイテル、短辺八〇メイテルの巨大空間は、日頃要塞防衛軍の守備兵が汗を散らして訓練に励む施設だ。しかし今、その訓練場を埋め尽くす声と汗はパラティオン兵のものではない。
訓練に励む者たちの灰色の訓練着に縫い付けられた紋章は盾と交差する剣、そして中央に十字星――――近衛軍の紋章だった。
「――――よし! 次、場内一〇〇周! 身体暖めろ!」
「応ッ!!」
男女の別なく、訓練教官資格を持つ最先任下士官、中年の特務曹長の掛け声に応える近衛軍将兵。
訓練教官と訓練生以外の立場がない訓練である以上階級すら関係なく、時間のある士官も参加して、彼らは来るべき戦いに向けて鈍りきった身体を作り直していた。
これまで近衛軍がしてきた訓練は正規軍のそれと変わらない。だが、実戦に出ても結局は手伝い戦と戦場を嘗めていたことに変わりはない。摂政殿下を守って最前線に立つというここ数百年無かった栄誉に向けて、彼らが取り戻すべき“感覚”は多かった。
そんな近衛軍将兵たちが密かに注目している一角がある。
そこに立つのは二人の男女。
片や、白の髪を一本に束ね、動き易い近衛軍の訓練着を纏った摂政レクティファール。
片や、日頃ボタンひとつ緩めず着用している陸軍の制服を脱ぎ、全体的にほっそりとしたその身体を陸軍の訓練着に包んだ摂政付き大尉参謀リーデ・アーデン。
どちらも細剣を構え、じりじりと相手の隙を窺っている。
「――――――――」
「――――――――」
万全の体温調整が可能な“皇剣”の機能故か、汗一つ浮かんでいないレクティファール。
対してリーデの顔には幾つもの玉の汗が浮かんでいるが、その表情は涼しいままだ。
お互いに細剣を構えた腕は少しも乱れず、鋒の揺れも相手を誘う手段に過ぎない。呼吸に合わせて揺れる鋒、時折相手の呼吸を乱そうと揺れの拍子を変えてくるが、両者ともそれに乗るような性格では無かった。
自分の呼吸を相手のそれに同調させ、さながら一個の生命のようにそこ立つ二人。
近衛軍の将兵は訓練場を周回しながら、二人の闘いに注目せざるを得なかった。
別段二人の実力が高いということではない。腕に覚えのある現役の兵士や騎士であれば、二人に勝ことはそう難しいことではないだろう。ならば何故二人が注目を浴びているのか――――
「おい、あの二人どれくらいあの状態だ」
「もう一時間半。見てるこっちが窒息しそうだよ」
答えは至極単純なものだ。
二人は一度も剣を交えることなく、ひたすら互いに剣を突き付けている。言葉にすればそれだけのことだった。
「何の訓練なんだ、あれ」
「知らん、騎士学校出の参謀様の考えることがオレたち兵隊に分かるかよぅ」
「まぁな」
さらに半時間が経過した頃、リーデの首に掛けてあった時計が時報を鳴らした。
一対一の徒手格闘訓練の最中であったにも関わらず、その音に振り返る近衛軍将兵。当然のように特務曹長の怒号が轟き、罰として場内三〇〇周とさらに腕立て三〇回、腹筋三〇回、屈伸三〇回合計一〇セット命じられる。
悲鳴を上げながら走り始める近衛軍将兵――連帯責任で士官を含む全員――の中心で、リーデはゆっくりと細剣を下ろした。呼吸を整える彼女の前で、レクティファールも同じように深呼吸と浅呼吸を繰り返している。
息を整えたリーデが顔を上げると、レクティファールが手拭を差し出していた。
「――――ありがとうございます」
「いや、訓練に付き合って貰ったのはこちらの方だ、当然だろう」
さらに飲み物も手渡す。柑橘系の果汁を絞ったものに砂糖と塩を少量溶かしたものだ。
レクティファールの許しを得て壁際に座り込み、ストローで飲み物を啜りながら、リーデは訓練中汗一つ掻かなかった主君の顔を見上げる。近衛軍の訓練を眺めているその表情に、緊張から来る硬さは見られなかった。
場合によってはあの帝国の戦狂いと真正面から戦うことになるかもしれないというのに、この落ち着きはどこから来るのだろうか。今回の訓練も、実際に剣で打ち合うことを目的としたものではなかった。
レクティファール曰く、戦場で緊張感と集中力を途切れさせないための訓練だという。
常に張り詰めたままの緊張感は、個人差はあれどそうそう長く持続出来るものではない。それまで優勢であったにも関わらず、集中力が途切れただけで一気に形勢をひっくり返されることもある。
特に盤上遊戯などではこの傾向が強いと、レクティファールは経験で知っている。
戦争は遊戯ではないが、戦争から遊戯的要素が完全に排除されることはありえない。遊戯的要素と賭博的要素、この二つは戦争に欠かせないものだろう。
そして、この二つを如何にして制するかが勝敗を分けると言っていい。
だからレクティファールは、リーデを相手に先程のような訓練を行っていたのだ。メリエラやウィリィアという候補もいたのだが、彼女たちは地下訓練場ではなく要塞の南にある平原で訓練を行うという。
龍族と龍人族が真正面から全力で訓練するには、地下訓練場では狭いらしい。
(――――それを聞いてしまえば、訓練の相手頼まなくて良かったって思いますよねぇ……)
訓練で全く出てこなかった汗が一筋、額を滑り落ちた。
そもそも、参謀であるリーデを相手にしているという点が彼のひ弱さ加減を如実に表している。参謀とはいえ、リーデも『将は兵の規範たるべし』をモットーとしている騎士学校の出であるから、そこらの新米兵士よりはよほど体力的技能的に優れている。
幹部が最良の兵士であってこそ兵士たちの信頼を得られるという考えの下、騎士学校の歩兵科では三昼夜ぶち抜きの登山行軍訓練が毎年夏に、同じく三昼夜ぶっ通しの孤島遭難訓練が毎年冬に行われているという。勿論専攻している科ごとに催される訓練は違うが、陸軍総合大演習と呼ばれる騎士学校全科と歩兵学校、騎兵学校、砲兵学校など各科兵学校合同の大演習の際は、もはや戦争と呼んでも過言ではない戦いが繰り広げられるらしい。
ともあれ、リーデ自身も騎士学校参謀科卒業とはいえ間違いなくレクティファールより強い。
強さの種類にも色々あるので、この場合は個人戦闘技能ということだが、他の技能でもレクティファールは殆ど負けているだろう。これが専門教育を受けた者とそうでない者の差ということだ。
(――――色々なものが一段落したら、何処かの学校に裏口……もとい、潜り込ませてもらおうかな……)
ある種一般常識から最も遠い戦場という場所に出突っ張りの今だからこそ、日常生活に支障が出ていないのだろう。このまま摂政や皇王として皇都で暮らすと、多分二度とこの世界の常識を知ることは出来ないかもしれない。
(それは流石に遠慮したい)
常識のない君主など、道化というより害悪だ。そんな存在にはなりたくなかった。
そんなことになれば守りたい人も守れない。
「殿下」
近衛軍の訓練風景を見ながら並列思考で別のことを考えていたレクティファール。リーデの声で我に返った。
リーデは壁際に座り込んだまま、レクティファールをじっと見詰めている。
「何だ」
摂政としての口調で答えると、並列に存在する思考の一つがその役割に沿った情報を走らせ始めた。
「随分と落ち着いていらっしゃるのですね。流石、皇都奪還戦を演出したお方です」
褒め言葉にしては淡々とした調子のリーデ。彼女らしいと言えばその通りかもしれない。
「――――演出、演出か……確かにその程度のことしか出来なかったな」
レクティファールはリーデの隣の壁に寄り掛かると、腕を組み、苦笑いと共にそう自嘲した。
リーデはその回答が不満だったのか、微かに眉を顰めた。
「謙遜も過ぎれば侮辱です。立太子の数日後にあれだけの戦いを演じて、あの程度と仰られては……」
参謀としての職責ではないのかもしれないが、君主の過ちを正すも臣下の役目。リーデは顰めた眉をそのままにレクティファールを諫める。
だが、レクティファールは困ったように笑うだけだ。気弱にさえ見えるその表情に、リーデは内心怒りさえ覚えた。
「謙遜じゃない。本当に、私のしたことはあの場にいて、メリエラの背に乗っていただけ。戦ったのは将兵、死んだのも将兵だ。そして、巻き込まれたのは民たち」
死ぬ筈ではなかった人々が死んだ。
あの戦いはそんな一側面を持っていた。
今上皇王が少しでも分別のある者であったなら、皇王の傍に侍っていた者共が真の臣下であったなら、あの戦はなかった。あの戦で命を落とした皇国、連合の将兵も死なずに済んだ。そして、あの戦によって生じる損害を補填するために国庫が払底するようなこともなかっただろう。
さらに言うなら、戦いと直接関係なかった無辜の市民が死ぬこともなかった。経済的にも人的にも、あの内乱は無用の争いだった。強いて意味を持たせるのなら、レクティファールという存在を無理やりこの世界に認めさせることだけ。
しかしあれだけ死んだあと、馬鹿げた戦いを止めて傑物扱いされることはレクティファールにとって決して喜ばしいことではなかった。むしろ自分の無力さ、無能さを突き付けられたようなものだ。
「正直、あのとき君みたいな参謀がいたらと思うよ。あのときの作戦は、私の方針を貴族軍の幕僚たちが形にしてくれた。その方針の段階で、君みたいな専門家が意見を出してくれたら、もっとましな結果になったかもしれない」
「――――それは、参謀という者と買い被り過ぎています」
リーデはストローから口を離し、俯いた。
「参謀とは所詮考えるだけの生き物です。自分に権限がないから好き勝手に考えるだけ考え、司令官に決断と責任を丸投げする。小官も、小官の父もそうです」
「――――お父上も参謀だったのか」
レクティファールは僅かに驚いたような声を発した。
騎士学校での成績や思考の癖などは参謀として貸し出された際に聞かされていたが、流石に個人的な情報までは知らなかった。聞けば答えてもらえたのだろうが、必要のないことだから説明しないのだろうと今まで何も聞かずにいた。
「ええ、すでに皇国に殉じましたが。この要塞から少し北に行った場所、今では軍事境界線の非武装地帯になっている場所で」
淡々と、自分の親のことではないかのように話すリーデ。
レクティファールからはその表情を見ることは出来なかったが、それでも彼の目に困惑が見え隠れした。彼自身親という存在に特別な思い入れがある訳ではない。
この世界にこうして存在している以上、元世界の諸々はきっぱりと諦めた。
何より、この世界に親よりも大切な人たちが出来てしまった。実の親と彼女たち、どちらを選ぶかと問われれば――――悩むことさえ今の彼にはあり得ない。
(――――なるほど、私も彼女も同じ種類の人間か)
血の繋がった実の親よりも大切なものを見付けてしまった。二人ともそういう種類の人間なのだ。レクティファールはそう思った。
「軍人になったのは父上の影響か」
「――――――――ええ、きっと」
確かな逡巡の後、リーデは頷いた。
その躊躇いの中にどんな気持ちの葛藤があったのか、レクティファールは気付かなかった。
たとえ気付いていたとして、彼に何が出来たということでもないのだが。
ガラハが元々の要塞防衛軍と援軍から部隊を選抜して短期の慣熟訓練に入った頃、白狼山脈に皇国軍人の一団がいた。
彼らはいずれも厚い防寒着を身に纏い、入山許可の証である紋章を首から下げている。その姿は個性に乏しく、遠目には男女の区別さえつかない。
しかし、彼らを遠望する者たちにとって個人の区別などどうでもいい。
一団を高みより観察する者たち――――それは蒼銀色の毛皮を持つ巨狼、人々に白狼山脈の先住と呼ばれる者たちだった。
彼らは一頭の氷狼を先頭に、音もなく山を下り始める。
身軽に、深い新雪に足を取られることさえなく、まるで飛ぶように山肌を駆け下りる彼ら。それはこの山脈で食物連鎖の頂点に立つ王者としての風格さえ滲む動きだった。
戦いの場が雪山である限り、彼らは最強と言っていい。
皇国建国以来、北からの侵入者を狩り続けた実績がそれを示している。彼らは協定によってそれを役目としているが、彼らがそれを行うのは協定だけが原因ではない。彼らは、自分たちの領域に侵入する異分子を徹底して排除することを本能に従って行っている。
それは皇国を構成するあらゆる種族が持つ本能だが、氷狼族が白狼山脈と天狼山脈を始めとした自治区以外で暮らさない理由はその本能にある。彼らの排他的ともいえるその本能は、他種族に比して大きく強い。とても他種族を自治区に住まわせることが出来ないほどに、だ。
それが種族を表す特徴となるほど、彼らの異分子に対する敵愾心は強い。パラティオン要塞の歴代司令官が就任後、真っ先にすることが彼らへの挨拶であるというのは、その特徴を念頭に置いてのことなのかもしれない。
やがて、山を駆け下りた氷狼たちは軍の集団をすぐ眼下に見下ろす崖の上に到着した。
それに合わせた訳ではないだろうが、軍人の一人が懐から銀色に輝く小さな笛を取り出し、それを思い切り吹き鳴らす。しかし、その笛から放たれた音は人間種や大多数の混血種には聞こえない音。
しかし、氷狼族にとっては山ひとつ越えても聞き取れる音だ。
単なる笛であればそれほど広い範囲に音は拡がらないが、この笛は内部に術式を刻んだ魔道具。皇王家が氷狼族と接触を図りたいときに限り使用されるものだった。
つまり、この笛を鳴らした者は皇王家が認めた使者ということになる。
氷狼族たちは、その音に答えるように崖を飛び降りた。
摂政レクティファールより白狼山脈に住まう先住たちへの使いを仰せつかったその軍人たちは、音もなく、十数歩先の純白の世界に現れた若い男に目を奪われた。十数頭の氷狼を従え、軍人たちを睥睨している。
蒼銀色の毛皮の厚掛け、同じく蒼銀色の髪、白皙の端正な顔立ち、そして、切れ長の碧眼。
纏う雰囲気は王者のそれで、他者から隔絶した気配が自然と頭を下げさせる。
「小官は皇国摂政レクティファール殿下より使者の任を仰せつかりました、皇国陸軍参謀少佐、ハンスリー・ビドウィックと申します。白狼山脈の先住の長、氷狼アロンズ様とお見受けいたします」
「――――ああ、確かにワシがアロンズだ。皇国の使者よ」
喋るだけで空気が凍り付く、そんな声だった。
人間的な温もりを一切持たないその声音、なるほど氷狼族の一部族を率いる族長に相応しい。
「我が主、摂政レクティファール殿下より、アロンズ殿に書がございます」
「うむ」
ビドウィックは集団から一歩進み出る。彼は懐から一通の封書を取り出すと、それを差し出した。
それを見て頷いたアロンズが軽く手を振る。
すると、封書がひとりでに浮き上がり、ゆるりと宙を走ってアロンズの手に収まった。
無言で封書の封印を切るアロンズ。こうして封書という形で皇国の代表から何らかの接触があるのは、久しぶりのことだった。
「――――――――ほう」
ざっと書状を眺めたアロンズは、微かに声を零した。
摂政という珍しい相手からの書状には、酷く珍しい文面が記されていた。
一つ、白狼山脈を軍が通過することを容認して欲しい。
一つ、二〇〇〇〇人の兵が行軍可能な最短経路を教えて欲しい。
一つ、軍の先導をして欲しい。
そして、この三つの条件を果たすのならば、戦後然るべき対価を用意する。
逆に果たされない場合も、然るべき対価を用意する。
「――――然るべき対価、か」
アロンズは無表情のままビドウィックを見据える。
氷狼族族長の厳寒の視線に晒された憐れな使者は、その視線に捕らえられたかのように身動きひとつ出来ない。元々氷狼族は幻想種の一種だが、彼らと同格の幻想種など片手の指で足りる程しか存在しない。
そのどれもが、強大な力を持つ種族として恐れられていた。少なくとも、ビドウィックのような極一般的な混血種が一対一で相対して平然としていられるような相手ではない。
だからだろう、次の瞬間放たれた言葉にビドウィックは凍り付いた。
「摂政殿は我らを脅そうというのか、使者殿」
まさか、と思った。
あの摂政はこの状況で氷狼族に喧嘩を売るような馬鹿な真似をするような人物ではない。付き合いなどなく、人物評も直接顔を合わせたことのある同僚からの又聞きだが、仮にそのような人物であれば皇都は救われず、とうの昔に灰燼と化していた筈だ。
皇国軍の将兵は、大なり小なりビドウィックと同じような印象をレクティファールに対して抱いている。次期皇王という存在に都合のいい幻想を抱いていると言ってもいいだろう。
だが、アロンズは違う。
摂政とは皇国の代表であり象徴であるという認識しかない。
皇国と氷狼族の間には協定がある。だが逆に言えば、皇国がそれに記された条項に反していないからこそ彼らもまた協定に反しないだけの関係だった。消極的不干渉とでもいうべきその関係は、一方が迂闊に歩み寄るだけで簡単に崩れ去るほど脆いものだ。
そもそも、氷狼族は皇国がどうなろうと知ったことではない。彼らにとってのあらゆるコミュニティは閉鎖された部族内でほぼ完結しているのだから、国家というものに対しての帰属意識が芽生えるはずもないのだ。
同部族という名の身内とそれ以外という異分子。彼らはそれだけで十分生きていけるし、これまで皇国もそれを認めてきた。
皇国としては白狼山脈が天然の要害であり続ければ良い――――これまではそうだった。
「我らは皇国がどうなろうと構わない。帝国に滅ぼされようが自ら滅びようが、この山々が我らのものである限りはな」
アロンズもそのつもりだった。
氷狼族は皇国に干渉しない。協定に協力を求める権利を保証されていても、これまでそれを行使したことはなかった。
不干渉を貫き、必要なときだけ必要な分の繋がりを持っていればそれでいい。
「――――北の蛮人共とて、わざわざこのような雪山に攻め入ろうとは思うまい。彼らが求めるような富も栄誉も、この山では手に入らないのだから」
痛手しか得るもののない戦いを望むものがいるとは、アロンズには、氷狼族には到底思えなかった。
しかし、彼らはそれが自分たちの常識であることに気付いていない。
人には、富や栄誉がある“かもしれない”というだけで十分だと気付かない。
種族の性格上不必要な富を求めず、自給自足が完全に確立された氷狼族の社会で過ごしてきたからこその、ある種の弊害。彼らは彼ら自身が人間種にとっての富と栄誉そのものであることを知らなかった。
氷狼族の肝は万病に効き、その毛皮は寒さを完全に遮断する上にいつまでも美しい光沢を保ち続ける。牙や骨は帝国にとって喉から手が出るほど欲しい最上級の魔法材料で、彼らの身体はその毛一本に至るまで値打ちがあった。
だが、本人たちはそれに決して気付かないし気付けない。
二五年前の紛争で皇国軍の龍族が犠牲になったとき、その遺骸を争うように奪い合った帝国兵らがいたことも彼らは知らない。遺品を剥ぎ取るだけではなく、その骸そのものまで奪い去る帝国兵。余りにも凄惨なその光景を、皇国の兵士たちは戦慄と共に記憶している。
ビドウィックもまた、その一人だった。
「アロンズ殿は帝国を甘く見ておられる……! 彼らは確かに我々と同じように国と国家を愛していましょう。ですが、彼らの愛情はときとして恐ろしいほどに狂い、敵を容易に蹂躙いたします。アロンズ殿は白狼山脈氷狼族の族長、一族を守るためにどうか……!」
ここでアロンズに断られるようなことになれば、皇国軍は絶望的な敵中突破を実行しなくてはならない。
皇国の興廃の懸かった戦いともなれば摂政レクティファール自身も最前線に立つことになるだろう。それが最も兵士の士気を高め、最も作戦の成功率を高めるからだ。
しかし、そうなれば皇国は二重の意味で存亡の危機に立たされる。
たとえ戦いに勝っても摂政を喪えば遠からず皇国は内外からの侵食で滅びる。逆に摂政が生き残っても戦いに負けてしまえば帝国は皇国本土を蹂躙し、大いに皇国の寿命を縮めるだろう。
この戦い、どうあっても負けられないのだ。
しかし、アロンズはこれで話は終わりだと言わんばかりに、ビドウィックに背を向けた。
「――――我らの縄張りを通過することは認めよう。それ以上はせぬ」
「アロンズ殿!」
二〇〇〇〇万の兵士が道案内もなく、大して土地勘の無い雪山に踏み入って無事でいられる訳がない。
何よりも時間こそが最も重視される現状、軍が道に迷うようなことになればそれこそ本末転倒。摂政率いる囮の要塞部隊は二〇〇〇〇の兵を欠いた状態で帝国軍から正面衝突するか、敵攻城砲の発射を手を拱いて見ているしかない。どちらにせよ、勝利は絶望的だ。
ビドウィックは自分に与えられた役目を全うするため、その場を立ち去ろうとするアロンズに手を伸ばす。
しかし、アロンズの歩を止めたのはビドウィックではなかった。
「――――グードルデンか」
グードルデンと呼ばれた一頭の氷狼が、アロンズの前に立ち塞がったのだ。
氷狼は狼の姿のまま、流暢に言葉を発した。若い男の声だった。
「――――族長、私とて先の戦いで父母を喪った身、帝国の残忍さと執念深さはよく知っています」
アロンズはグードルデンを睨むようなことはしなかった。しかし、感情のない極寒の視線が貫くように差し向けられる。
「確かにお前の両親は、あの戦でこの山を越えようとした帝国軍と戦い見事散った。たった二頭で帝国軍の侵攻を断念させた勇者よ。ワシとて彼らを尊敬し、一族を守る英霊として崇めている。お前を一族の子として育てたのも、彼らの心意気に応えるためだ。だが、此度の戦、帝国軍は我らが縄張りに手を出してはいない。我らには戦う理由がない」
「いいえ、あります、族長」
アロンズの言葉を即座に否定するグードルデン。他の氷狼たちが微かに身体を震わせて驚きを示した。
二五を越えたばかりと氷狼族の中では未だ若いグードルデンが、既に一〇〇〇年近く生きているアロンズにこれほどまでに食い下がるとは予想だにしていなかった。
「私とて子の親、我が子が老いて死ねる世界を作る義務がございます。義務を果たせるかどうかは別にしても、義務を怠ることは決して許容出来ません」
グードルデンは一族の里に妻子がいる。
ここで帝国が勝ことになれば、自分たち一族がそう遠くない未来に滅びることは彼にはよく分かっていた。
「――――ふん、よく山を下りて人里に出入していたやんちゃ坊主故の言葉か、人間種のことはよく知っていると見える」
父母を殺し、自分たちの数を大きく減らしながらもその仇敵の死体さえ持ち去った人間種がどんな存在か、グードルデンは実際に自分の目で確かめたことがある。
『ウィルマグス』に人の姿をとって潜り込んだグードルデン。そのとき彼が見た人間種は、自分たちと同じように家族を持ち、一族を持ち、社会を持つ知恵ある者共以外の何ものでも無かった。
だから理解した。
彼らも譲れない何かがある、故に戦うのだと。
そして戦うからこそ、狂ってしまうのだと。
「族長、仮に一族が此度の摂政の求めに応じないというのであれば、私が個人として彼らの求めに応じます」
「一族の決定に逆らうと言うか」
アロンズはやはり表情を変えずにグードルデンを見下ろす、その光景を離れた場所から見ることになったビドウィックは、両者の間に横たわる高密度の殺気に気付き、震えた。
幻想種有数の力を持つ氷狼族。その力の一端を見せつけられた。
しばしの沈黙が続き、次に口を開いたのはアロンズだった。
「――――よかろう。此度の一件、貴様にすべて委ねる。貴様に万が一のことあらば、妻と子は一族が面倒見よう」
彼はほんの少しだけ微笑み、ぴくりとも動かないグードルデンの背を叩いてその場を立ち去った。すぐに氷狼の姿を取り戻し、山を登っていく。
グードルデン以外の氷狼たちもアロンズに続いて姿を消し、やがてその場に残ったのはグードルデンと使者の一団のみ。
彼らはここで、ようやく互いに目を合わせた。
呆然としたままの使者たちを見て、グードルデンが鋭い牙を見せて笑う。
「――――そういうことだ。さっさと戻って軍を連れてきてもらおう。俺の子供の未来が掛かっているからな」
しかし、ビドウィックはグードルデンに問わずにはいられなかった。
「何故、そこまで……我らのために……」
「短期的にはお前らのために見えるが、俺が欲しい結果はお前らのためじゃない」
グードルデンはビドウィックに歩み寄り、その顔を見上げた。
「帝国が勝てば俺の妻や子供は毛の一本まで奴らに毟り取られる。――――仮にお前の子供が同じような目に合うとしたら、お前はそれを許せるのか」
「――――私に子供はいない。妻はいるが……子供は授からなかった」
「そうか……ならお前の細君でもいい。お前の帰りを待っている細君が帝国に殺され、髪の毛一つ残さず奪い尽くされるのを許せるか」
グードルデンは帝国の人々の行動そのものを非難しても、彼ら自身を否定するつもりはなかった。
彼の両親の血肉は、きっと帝国の誰かの家族を養ったのだろう。
ひょっとしたら、死ぬはずだった誰かが、今も生きているのかもしれない。
「我が一族に墓は無いが、死んだ者の牙はその家族を守護する大切な品として扱われている。だが、俺の両親は一欠片として俺の手元に残っていない。思い出さえもな」
両親が死に、誰かが生き延びた。
それは良い、今更仇を討とうは思わない。
しかし、新たに妻子が奪われるかもしれないという避けようの無い現実。それを甘んじて受けるかどうかは全く別の問題だ。
「摂政殿には勝ってもらわなくてはならない。少なくとも、俺と俺の家族のためにはそうして貰う」
グードルデンはそう言い、ビドウィックに背を向ける。
ビドウィックはその背に声を掛けた。
「――――今の妻なら、私が帰っても大して喜ばないだろう。だが……」
子供が出来なかったことで、今の夫婦仲はあまり良いとは言えない。
妻にはビドウィック家の跡取りを産めなかったという引け目があり、ビドウィック自身には軍務に追われてそんな妻を支えられなかった引け目がある。
しかし、これまでの妻との思い出は彼にとってどんなものにも代え難い。
「一緒にいられたなら、いつかあの日のように戻れると信じている」
あの、気恥ずかしくも暖かい日々に。
氷狼族の協力が得られたという報告は、すぐさまガラハとレクティファールの下に届いた。
その報告を受け、レクティファールは今回の一連の軍事行動を先導を務める氷狼族の名を取り『グードルデン作戦』と名付けた。ガラハに作戦名を授けるように要請されたレクティファールが、殆ど思い付きで名付けた名前だが、関係者には意外と好評だった。
“グードルデン”という言葉が、古代語で“守護する者”を意味する言葉が変化したものであったからだ。
作戦名も決まり、ガラハは率いることになる皇国第一軍団――皇国軍に於いて軍団は臨時編成のみの単位、平時編成では師団の上に軍が位置する――の訓練の仕上げに入り、レクティファールは少しでも“皇剣”の力を引き出すべく寝る間も惜しんで修練に励む。
最前線に立つとはいえレクティファール自身が戦うことは流石にないと思われたが、このとき彼は妙な予感を覚えていた。
あの獰猛な帝国の虎姫が、自分という獲物を前にして足踏みするだろうか、と。
このときの彼が“皇剣”を使用して使える魔法は多くない。
グロリエとの会談の際、暴漢から身を守るために使用した指向力量操作・粒子運動操作複合型攻撃魔法とそれの応用魔法。さらに初歩的な対物理、対魔力防御魔法と治癒魔法が幾つか。
そして、グロリエの『神殺しの神剣』に対抗するために急遽“皇剣”の情報を基に組み上げた魔法である。
レクティファールはグロリエとの戦いを決意してから、彼女の持つ『神殺しの神剣』の能力を徹底して調査した。
皇国側の持つ資料と“皇剣”の情報を合わせ、ようやくその概要を掴んだのは調査開始から僅か一日後。“皇剣”の膨大な記録の中にレクティファールの求めていた情報があったのだ。
グロリエとの会談の際、彼女が『神殺しの神剣』を使用していたこともその情報を補強した。
『神殺しの神剣』の持つ“断裂”の能力とは、“無”を司る冥界の力を術式に拠ってこの世界に顕し、物質間――存在と存在の間といってもいい――の因果を断ち切ること。存在と存在の間に“無”――――つまり“何もない”空間を発現させ、その存在の因果を断裂させることだ。
当然、物理的にも魔法的にもこれを防御することは出来ない。
魔法とてこの世界に存在する以上、存在そのものを“無”で断ち切ることは出来る。
さらに、“何もない”空間はあらゆるものを通さない為、能力的には防御手段としても非常に優秀だった。
その汎断裂兵装の弱点といえば、“何もない”空間が“存在する”という矛盾を世界が即座に修復してしまうため、効果は修復までのほぼ一瞬に留まるということ。術式の複雑さと使用する魔力の多さ故に発動装置そのものが巨大化してしまうこと、そしてその巨大化した装置でも、術式の使用には稼働時間や出力に多くの制限があること。
その情報を基に、レクティファールは対策を立てる。 “皇剣”の持つ四界の力を使用することで“何もない”空間を作り出すことが可能であると結論付け、それを自分の意思で発動出来る段階にまで持っていった。
“何もない”空間によって断ち切られるなら、同じく“何もない”空間をぶつける。
そこに“何もない”以上切り裂く因果は存在しないということだ。
当たり前だが、その発動を専門にしている『神殺しの神剣』と初心者の使う“皇剣”では発動出来る魔法の出力に差が出る。『神殺しの神剣』の発動範囲が限りなく二次元に近い“面”であるのに対し、“皇剣”のそれは小さな“点”に過ぎない。
その一点を見定める為には膨大な計算が必要になる。その為レクティファールは“皇剣”の持つ演算機能を如何にして効率良く運用するか大いに悩むことになった。
使えはする、だが、使いこなせはしない。
未だ“皇剣”初心者のレクティファールにとり、グロリエとの戦いは非常に厳しいものと言わざるをえなかった。
まさに命懸け、お互いに生死を賭けることになりそうだ。
「――――で、レクトはわたしに何の用事があるのかしら」
ガラハのグードルデン第一軍団の出陣式を翌日に控えたこの夜、レクティファールは珍しくメリエラを夜の散歩に誘った。
当然、パラティオンの夜は冷える。寒さに強い二人でも、流石に分厚い厚掛けで身体を覆っていた。
彼らは二人並んでパラティオンの第一長城の最上部に立ち、澄み切った夜空に浮かぶ月を見上げていた。
今日見える月は、五つだ。
「何って……――――何だろう?」
首を傾げるレクティファール。ふと思い立って誘ってはみたが、それ以上考えていなかった。
「もう……わたしとしては散歩に誘ってくれただけでも嬉しいけど、やっぱりもうちょっと気を使うこと覚えて欲しいわ」
「今度からは気を付けるよ」
白い息が、微笑んだレクティファールの口から漏れ出た。同じように笑ったメリエラの口からも白い息。厳しい寒さというにはまだ少し早いが、十分に寒い。二人は少しだけ身を寄せた。
「こういうときは戦いに怯える恋人……ううん、婚約者に気を使ってキスの一つもするものだと思う」
「まだ早いと私は思う。そういうことはもうちょっと雰囲気の良い場所と時期にやるものだと……」
「普通の恋人たちはね。わたしたち、明日明後日にはあの先にいる怖いお姫様と殺し合いするのよ。生きて迎える最後の夜かもしれないっていうのに、ここで男を見せなくてどうするの」
わたし怒ってますと言わんばかりにぶんむくれる御年二三歳のメリエラ。そんな怖いお姫様を前に、レクティファールは苦笑した。
「私が生きているのなら君は死んでいないよ。そして君が生きているなら私も死んでいない。そうだろう」
「でも、それなら二人一緒に死ぬ可能性はあるじゃない」
「ああそうか、そういえばそうだ」
やはり笑ったままのレクティファール。
メリエラはむくれている自分の顔をちょっと恥ずかしく思いながらも、怒っているという態度を崩さない。
「わたしはあなたを守り切る。でも、いざとなったらあなたわたしを見捨てなければいけないのよ」
皇だから、自分の為に臣下を見捨てることも必要だとメリエラは言う。
それに対するレクティファールの答えは非常に明確だった。
彼は少し緊張しながらもそれを隠し、メリエラの冷たくなった頬を撫でながら言った。これが彼の精一杯の見栄だった。
「皇なら臣下を見捨てるよ。でも、男なら大事な女性は見捨てないだろう? 多分」
「――――…………ッ、お、お馬鹿様ね、本当に」
「あっはっは、だから馬鹿に様付けても尊敬語にはならないと……」
さらにむくれるメリエラ。
本当にひどい顔で、先程よりも頬が赤かった。
でも、目だけは少しだけ嬉しそうに潤んでいた。
「本音を言うなら、明日は皇としての役割だけで済めばいいと思っている。だけど、そう簡単にはいかないだろうな。あの姫様は中々に手強い気がする」
「そりゃそうでしょう。西方戦線の戦狂姫って言ったら有名よ」
「――――怖い怖い、ああ、本当に怖い」
「怖いならわたしが退治してあげるわよ」
メリエラが挑戦的な笑みでレクティファールを見上げる。
『龍殺し』が相手ではあるが、レクティファールが倒せというなら出来る気がした。
だが、レクティファールは頭を振る。
「賭け事は少ない方がいい。戦い自体が賭博みたいなものだから、これ以上の賭けは御免だ」
「そう、まあ、どちらにしろ必要になったら出るけど」
「なるべくそうならないよう祈りたいものだね、祈る相手いないけど」
歴代皇王に祈っても、この世界出身者ではないレクティファールの願いを叶えてくれるかどうかは疑問だ。
もっと願いの幅が広く皇国を勝たせて下さいという祈りなら聞いてくれるかもしれないが。
「祈るのはリリシアの仕事よ。あなたは祈るより頭と身体と“皇剣”使いなさい」
「了解、我が姫様」
レクティファールは少し崩した敬礼でメリエラに答える。
メリエラはそれを見て可笑しそうに笑った。
「わたし、その内お妃様になるんだから」
だから、勝とう。
勝って未来を夢見よう。
未だ夢想の域を出ないこの願いを叶えよう。
「皇都に帰ったら婚礼の儀の衣装選び始めるからね、ちゃんと時間取ってよ」
「――――頑張ります」
「ちょっと、今微妙に目を逸らしたわね。こっち向きなさい」
「だってほら、戦後処理って忙しいし」
しどろもどろになるレクティファール。
「大丈夫、わたしが色んな衣装来て公室に行ってあげるから」
それに対し、自信満々に胸を張るメリエラ。
婚約者の本気を感じ取ったレクティファールは真剣な表情で拝み倒しの体勢に入った。
「やめて下さい。本当に」
そんなことになったら元世界で言う『バカップル』ではないか。
仕事中に花嫁衣裳で乗り込んでくる新婦など、後世に笑いの種を残すだけだ。
「えぇ~~……」
「お願いします。本当に」
嫌そうなメリエラと拝み倒し実行中のレクティファール。
二人の遣り取りは、結局深夜まで続くことになる。
まあ、その後殆ど勢いだけでメリエラがレクティファールの部屋に居座って翌朝を向かえ、怒り狂ったウィリィアが再び押し掛けてくるのはどうでも良い話である。
ソファで寝たレクティファールが微妙に寝違えたことも。
朝日が差す中行われたグードルデン第一軍団の出陣式。
帝国の偵察を誤魔化すために軍団の殆どは昨夜の内に出陣してしまっていたから、実際に式典と呼べるようなことはしなかった。最後に残ったガラハ以下一個大隊が要塞前に整列し、レクティファールからの言葉を受ける。
一段高い場所に立ったレクティファールは兵士たちを見渡し、大きく頷いた。
「皆、皇国を背負うに相応しい戦士たちだ。若輩の私にさえも諸君らの気迫が伝わってくる」
本当ならば、こんなことを言う資格もないのだろう。
レクティファールは彼らに異国の地で死ねと命じているに等しいのだ。
だが、資格なきことも平然と口にしなくてならないのが彼の仕事だ。
「諸君らは長駆白狼山脈を越え、帝国領『ウィルマグス』を攻める。ここ三〇〇年一度たりとも我が皇国の軍が足を踏み入れたことのない場所だ。諸君らが皇国の先導者となることは疑いようがない」
壮行の言葉を述べるレクティファールの背後にはリーデもいた。
彼女はガラハをじっと見詰め、その姿を目に焼き付ける。
赤ん坊の頃父を喪った彼女にとって、ガラハは一番父に近い存在だった。
「しかし、恐れることは許されない。諸君らの背後にはもう皇国本土しか残っていないのだから」
目標だと言ってもいい。
いずれ超えるべき相手。それまでは目の前に立ち塞がっていてもらわなくてはならない。
「諸君らに私が命じることはただ一つ――――」
レクティファールが一つ呼吸する一瞬、ガラハがリーデを見た。
その瞳はこれまでになく静かで、細波一つない湖面のよう。リーデはそれを見て、総毛立った。
死地さえもただの戦場と看做す戦人の姿が、そこにあった。
「進撃し、敵を討て」
レクティファールに応える兵士たちの無言の歓声の中で、リーデだけが蒼褪めた顔で立っていた。
彼女から視線を外したガラハもまたレクティファールを見上げ、兵士たちと同じように静寂の気迫で以て君主の命を受ける。
彼の心に去来するのは亡き親友への友情か、それとも戦いへの恐怖か、或いは――――
「――――死への、渇望……」
リーデの呟きは、呟きとして音になったのだろうか。
風に消えてしまった声を聞いた者は、その場に一人としていなかった。
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