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第一章:皇国動乱編
閑話ノ壱「女たちの戦場」


 明るい光の中で、彼は優しく微笑んでいた。

 少女の総てを受け容れるように、少女の背負う重荷を受け容れるかのように。

 他の誰にも出来ない、彼だけの笑顔。

 この国で生まれ、この国で育ち、少女を知る者には決して浮かべることが出来ないその表情に、彼女は惹かれた。

 知らぬ故に少女自身を見詰め、理解出来ぬが故に少女自身を理解しようとするその姿に心打たれた。

 役目を果たし、彼の内なる世界で揺蕩う彼女を呼び起こした声。

 久しく聞いていなかった名前。

 姉以外の誰もが口にしなかった彼女の名を、彼は呼んでくれた。

 あの声を聞き、自分は自分なのだと思えた。

 抱き上げられ、自分は此処にいてもいいのだと思えた。

 リリシア、と。あの人に呼んでもらえるのなら、他に何もいらない。

 巫女姫の肩書きさえ、彼の隣に侍る道具に過ぎないのだから――――











 皇都イクシード。

 当代皇王とその支持貴族によって戦火に晒された皇国最大の都市は、新たな皇国の主である一人の青年の出現によって再びその栄華を取り戻そうとしていた。

 都市外へと疎開していた住民たちが我が家へと帰り、鎧戸を固く閉じていた商店は次々と店を開く。学校や公園には子供たちのはしゃぐ声が蘇り、路面電車や乗合馬車、乗合魔動車には明るい表情の住民たちの姿があった。

 住民や商店を相手にする卸業者の隊商もまた皇都へと舞い戻り、市場は多くの人々で賑わっている。呼び込みや値段交渉の声は幾重にも重なり、市場に店を開くとある屋台の商店主は、懐かしささえ感じるその喧騒に目尻を濡らした。

 そんな彼の屋台に、真昼間から酒を楽しむ二人の男がいた。


「皇太子殿下は北に向かわれたそうだのう……」


「んだ。帝国のグロ――何とかとかいうお姫様が軍隊を引き連れて攻めてきたらしい」


「おうおう、おっかねぇなぁ。そういや、うちの婿の実家が確か北の方での、向こうの旦那が今年は雪が早いとか言っておったわ」


「んだら、皇太子さまのお帰りも早いかもしれんな」


「だと良いのう。お城には巫女姫さましかおらんで、さぞ寂しかろう」


「大層めんこい子じゃったに、皇太子さまもさぞかし向こうで心配しとるじゃろ」


「そりゃそうだ」


 呵々と笑い、祝の酒を交わす二人。彼らは今朝方皇都に荷物を届けに来た商会の人間だった。

 大分老いを重ねた彼らにしてみれば、皇太子も巫女姫も孫と言っていい程の年齢だ。皇太子に対する忠誠心も巫女姫に対する崇敬もあるが、まず彼らに対して抱くのは若い雛鳥に向ける愛情。見ていて思わず微笑んでしまうようなそれだ。

 出来るならば、雛たちには健やかに過ごして貰いたいと思う。

 この皇都を襲った未曾有の惨禍に終止符を打ち、今また外からの脅威に立ち向かっている皇太子。

 その皇太子を支える宿命を負い、ただ一人広大な皇城に残された巫女姫。

 人々は、彼ら自身が思っているよりも彼らのことを想っていた。











 幸せな夢だった。

 今は遠く北の大地にいるあの人が、自分の隣にいる夢。

 だからだろう、目が覚めたときに酷く虚しい気持ちになったのは。

 隣に誰もおらず、目を開けてもただ窓掛けが朝日に揺れるばかり。

 清々しいまでの青空さえ、憎く見えた。


「――――起きよう……」


 上半身を起こし、ともすれば沈み込む思考を晴らそうと、少し強く頭を振る。

 さらさらとした薄絹の夜着が肌に擦れた。身体を締め付ける下着は安眠に良くない、と神殿付きの女官に教えられて以来、就寝時には下着を着けなくなった。それから大分経つから、鋭敏な素肌を夜着が擦るのも慣れた感触だ。

 肩からずり落ちた夜着を整えることもせず、彼女は寝台の上に座り込む。

 透けるように白い肌と艶やかな翡翠の髪、そして身に纏う衣は薄い夜着だけという非現実的なまでに扇情的な姿は、間違いなく世の男どもが夢想して已まない理想の女の姿。それが今年十四になったばかりの少女が現実のものとしているとは、彼らとて想像出来ないだろう。

 だが、少女自身がそうあろうとしている訳ではない。

 彼女は、彼女が心の底から想うたった一人の男のためにこの姿を手に入れた。彼女にとって最も大切なことはその男であり、自身の容姿など所詮副次的なものだった。

 美しく在りたいという気持ちはある。

 しかしその願いは人から『美しくあるべき』と教えられたからこそで、当然、彼女が自ら見付けた願望ではなかった。

 彼女が本当の意味で自分の容姿に気を配るようになったのは、やはりあの青年に心惹かれるようになってからだろう。

 雪のような素肌に布の痕がつかないようにと夜着を選び、それこそ件の青年以外の異性に見せることはないであろう身体の隅々にまで目を配る日々。神殿にいた頃から付いてくれている女官など、少女のそんな姿に「あらあら」と笑みを浮かべたほどだ。

 元々の資質もあったのだろうが、今の少女は絵画に残しても誰一人異論を唱えることが出来ないほど美しくなった。

 未成熟であるが故に滲み出る艶。

 熟れきった者にも、成熟の途上にある者にもない独特の艶気は、密かに後宮の職員たちの間で噂になっていた。


「あんなにも可憐な巫女姫様を娶られる摂政殿下は大陸一の果報者」


 そう後宮の者たちが評するのも無理はない。

 少なくとも今の少女は、皇都近くの離宮にいるもう一人の女性――――美しく在ることこそが存在意義の『蕾の姫』に匹敵するだけの麗姿を持っているのだから。


「レクティファール様は、今何をしていらっしゃるのでしょう」


 そんな彼女だが、浮かぶ表情は憂いを多分に秘めたものだった。

 コンコンと部屋に響いた軽いノックの音に振り返る最中も、その憂いが消えることはない。

 そして、どうぞ、とノックの主を招き入れるその声もまた、何処と無く沈んでいた。


「失礼します、猊下」


 音も立てずに扉を開け、一つお辞儀をした女官。重厚そうな扉だが、閉める音もなかった。


「メチェリ、おはよう」


「おはようございます、お目覚めでしたか」


 メチェリと呼ばれた女官は、隙のない所作で少女――――リリシアの座る寝台へと歩み寄る。

 深い紫の髪を頭頂部で一纏めにし、端正な顔立ちの彼女であるが、何よりも一番人の目を引くのはその鋭い眼だろう。まるで抜き身の刃のようと評されるその眼は、今は主人であるリリシアをじっと見詰めていた。


「いい夢を見ていたのだけど、やっぱり夢は夢だった。起きたら少し寂しくなってしまったの」


「良い夢ほど現実との落差に虚しさを覚えるものです。――――おそらく、これから幾度も同じ経験をなさるでしょう」


「ええ、きっとそうでしょうね」


 リリシアはうっすらと笑んだ。

 空虚と言う他ないその顔は、メチェリの眉をぴくりと跳ね上げた。


「猊下……」


 呼んではみたものの、続ける言葉が無いメチェリ。

 彼女は後宮を守る皇族最後の盾――――『機甲乙女騎士団』の一員として多くの妃を見てきたが、これほど若い第一妃候補は初めてだった。それどころか、未だ皇太子と正式に婚儀を行っていない妃“候補”を迎えたことも初めての経験で、リリシアとどのように接するべきか悩む部分も未だ多い。

 メチェリの懊悩を悟ったか、リリシアは小さく微笑んで言った。


「沐浴の準備をお願い」


「――――は」


 両手を揃え、頭を垂れるメチェリ。

 近衛軍大尉としてリリシア付き侍女頭を任されて以来、彼女はずっと悩み続けていた。

 この少女の笑顔が、どうしても泣き顔に見えたから。











 沐浴を済ませたリリシアは、朝食までの時間を中庭にある大聖堂で過ごしていた。

 後宮の中心にある中庭は広く、そこに点在する庭園では多くの樹木草花が皇妃たちの目を楽しませてくれる。

 石造りの遺跡庭園もあれば、イズモ様式の枯山水もあり、さらには南国の気候を再現した温室もある。中庭の中央近くの湖には多くの野鳥が訪れ、さらには庭園で放し飼いにされている鳥たちも季節折々の姿を見せてくれた。

 しかし、そんな優美な印象とは裏腹に、後宮とはただ皇王とその妃が暮らす施設ではない。皇王と皇族を守る最後の砦だ。その証拠に、この後宮で働く二〇〇〇人の侍女女官は総て、近衛軍の軍人、『機甲乙女騎士団』の団員だった。

 洗濯物を洗う侍女、後宮内を掃除する女官、庭師たちでさえも『機甲乙女騎士団』の一員。

 彼女たちはいずれも男を知らず、騎士団のその名の通り“乙女”としてこの後宮で働き続けている。

 近衛軍部隊で最も平均年齢が低い所以、それは男を知り、その名を“乙女”から“女”へと変えた女性はこの騎士団から別部隊へと異動になるからだ。

 近衛軍は個人の恋愛に口を出さないが、結婚せずとも“女”となれば『機甲乙女騎士団』に所属することは出来なくなる。それは後宮にいるべき男が皇王と、女皇の配偶者のみで、彼らの手が付いた場合を考慮してのことだった。

 女皇の配偶者の手が付いた場合、それは問題にはならない。生まれてくる子供には皇族としての資格は当然無く、ただの私生児に過ぎない。

 だが、皇王の手が付いた場合はどうなるか。

 これは言うまでもなく、皇族名簿に記載される立場となる。無論、母親の意向によっては名簿に記載されること無く生涯を閉じることになるだろう、だが、母親である団員が皇妃となれば子供は準皇族となり、有力な貴族に養子として出される場合も考えられる。

 そんなとき、父親が皇王でないと発覚したらどうなるか。

 これまでも皇王の手が付き皇妃や側妃となった団員は存在した。それらの産んだ子供たちは貴族や有力な名家の養子となっており、万が一父親が別に存在するとなれば、間違いなく皇王家の権威は大きく傷付くことになる。

 いや、実はこれまでの歴史でそのような事例が一度だけ存在した。

 当時は『機甲乙女騎士団』が存在せず、近衛軍の女性のみの部隊が後宮の警護役だった。

 ときの皇王はその中の一人を見初め、召し上げた。

 皇王の手が付いた時点では、確かにその団員は男を知らず、近衛軍を統括する皇王府もまた、皇王の意向に沿って彼女の皇妃入りを認めたのだ。

 彼女はやがて皇王の子供を身篭り、出産。

 しかし、その後の検査にてとんでもない事態が発生した。

 皇妃の産んだ子が、皇王の子ではないと発覚。

 皇国の象徴たるべき皇妃の一人が、あろうことか他の男と姦通していた――――皇王府も政府も、他の皇族も大いに揺れた。

 議会は荒れ、流れた噂によって国民も動揺した。

 何よりも、皇王自身が心に多大な衝撃を受け、床に伏せてしまった。

 皇妃は後宮から離宮へと移され、蟄居。

 皇妃の元上司である近衛軍総司令官は責任を取って辞任し、その数日後、自宅で自刃。皇妃の実家も夜逃げ同然に国を出奔し、この事件は皇国史上最悪のスキャンダルとなってしまった。

 皇王府と近衛軍の捜査によって明かされた真実は、大して珍しくも無いことだった。

 皇妃となった女性には、幼馴染の許嫁がいたのだ。

 幼少の頃に結婚の約束を交わしており、それは両家も承知の上。

 ある家具職人の弟子になっていた男が社会的に自立したら、正式に夫婦となる予定であった。

 しかし、近衛軍に属していた女は皇王に見初められ、流されるままその愛を受けてしまった。

 それだけであればただ手が付いただけ、女が身を引けば大きな問題にはならなかった筈だ。だが、女の実家が欲を出してしまった。皇王から娘の皇妃入りを求められた際、それを受けてしまったのだ。

 女は悲しみを押し殺し、家のため後宮へと上った。

 だが、悲しみは癒えることなく、彼女は独り立ちし、一人前の家具職人となっていた幼馴染に家具を頼みたいと言い。当時は皇王の許可さえあれば一部の部外者も立ち入ることが出来た後宮内へと彼を招き入れた。

 元近衛軍の女には、後宮内の警備の穴を突くことなど難しいことではなかった。

 彼女は幼馴染と、後宮内で密通した。

 幾度も、幾度も、新しい家具を作りたいと、少し家具に手を入れたいと言い。男を招いた。

 おそらく、彼女と幼馴染の密通に気付いていた近衛軍の軍人もいただろう。

 だが、彼女の境遇に同情した元同僚たちは、その密通を上司に報告することも、止めることもしなかった。

 そして、あの後宮史上最悪の事件が起きた。

 事件後、すぐに近衛軍は『機甲乙女騎士団』を設立。所属団員の厳正な選抜と厳格な服務規程を定め、このような事件が二度と発生しないよう現在の後宮の形へと制度を切り替えた。

 例外なく、一切の部外者の立ち入りを禁止。

 皇妃たちには専属の護衛隊を付け、いかなる状況下であっても傍を離れることがない警備体制を作り上げた。これは皇妃自身が望んでも覆らない。

 実際、リリシアが就寝している隣の部屋には、常時一個分隊の護衛が待機しており、彼女の行動を監視し続けていた。

 このとき、リリシアが礼拝を行っている最中も、護衛隊は大聖堂の中に散らばり己の職務を果たしていたのだ。


「――――侍女大尉殿、本日の予定のことなのですが……」


 礼拝堂の入口近くに立ち、礼拝の為祭壇の前で跪くリリシアの姿を視界の端に捉えていたメチェリの下に一人の部下が駆け寄ってきた。メチェリと同じく侍女服姿だが、襟元の階級章は准尉のものだった。


「どうした、何か変更か?」


「は、実は――――」


 メチェリの耳に口を寄せ、囁く准尉。

 その言葉を聞いたメチェリの目は大きく見開かれ、表情は強張った。


「まさか、パールフェル妃殿下が……」


「どうなさいますか? 司令部からは猊下の意向を是とせよとの命令が届いておりますが……」


 准尉の問いに、メチェリは疲れたように頭を振った。


「ならば、猊下に直接伺うしかあるまい。――――今上陛下の第一妃、パールフェル殿下がお会いしたいと仰っていると」











 リリシアの答えは是だった。

 今上皇王は公的に未だ皇王である。

 ならばその妃は後宮を退いても皇王第一妃であり、未だ正式な皇妃ではないリリシアにその誘いを断ることは出来ない。

 ただ、パールフェルの誘いよりも前に決められていた予定に関しては、これを優先することにした。

 予定とは今回の騒乱で傷付いた国民の慰撫であり、都市外に建設された難民避難施設の慰問を行ったり、神殿の運営する病院などに足を運んで入院患者を見舞うことだった。

 これをパールフェル側に打診すると、これを承諾するとの返事が返ってきた。

 すでに国民からの敬意を受けるには汚れ過ぎているパールフェルだが、国民の象徴である皇妃としての役割は未だ果たす積もりでいるらしい。

 パールフェル自身は今回の騒動で何らかの罪を犯してはいないが、実家グリマルディ侯爵家が事実上の取り潰しとなった現在、皇妃としての実権など何一つ持ってはいないのだ。

 それでも皇妃としての毅然とした振る舞いを忘れないパールフェルに、リリシアは密かに憧憬の念を抱いた。

 自分があのように振る舞える日はいつになるだろうか。そんなことを考えた。

 難民の避難施設に着いたリリシアはまず、一緒に運んできた支援物資の配布から始めた。

 これは皇王府が用意したものだったが、リリシアが運び、そして配布することで、国民の意識に「リリシア“皇妃”は自分たちの味方」という印象を植え付けるための策だった。

 民を騙すようだとリリシアは思ったが、それで幸せを得る民が過半を占めるならやるべきだとも思った。

 総てを救うほどの力はない。

 なら、救えるだけの人々は救うべきだ。リリシアはそう決断した。

 そういう意味では、レクティファールよりもリリシアの方が余程政治的判断を行えるのかもしれない。

 政治は民のためにある。

 リリシアの趣味嗜好や矜持のためにあるのではないのだ。


「おお……お妃様……」


「皇太子様といい、此度の皇族様方は慈悲深い方ばかりじゃ……」


 今朝焼いたばかりのパンを配り歩くリリシアの手を握り締め、涙さえ流す老夫婦。

 夫は車椅子に乗ったまま幾度もえずき、妻は歩くための杖を地面に放り出してリリシアの前に膝を付いていた。


「お二人とも、これまで大きな苦労を掛けました。以後、皆様の安寧はわたしと、摂政殿下が保証いたします」


「リリシア様……ありがとうございます……!」


「皇太子様の御武運、この老骨たちにも祈らせて下さい……」


「ありがとうございます。殿下はきっと、皆様のお心を剣鎧として勝ちましょう」


 優しく微笑むリリシア。

 老夫婦だけではない、周囲の人々さえ彼女の言葉に声を詰まらせた。

 今上皇王によって大きな傷を受けた人々。

 彼らは皇王家に対して不信感を抱きながらも、同時に皇王家を信じたいという願望を抱いていた。

 二〇〇〇年の間に人々の間に芽生えた皇王家への崇敬の念は、一度の裏切りで消えるものではない。

 裏切られても、それでも信じたいと願う人々の心を、リリシアは感じた。


「皆様――――」


 だから、彼女はもう一度自分たちを信じて欲しいと言うつもりだった。

 しかし、その言葉は突然の怒声に掻き消された。


「この裏切り者……!」


 一人の若い女性が、真っ赤に血走った目でリリシアを睨みながら叫び、人垣を割って現れた。

 リリシアの周囲にいた人々は口々に女性の不敬を詰ったが、当のリリシアがそれを制した。


「――――…………」


「反論しないの? やっぱり裏切り者なのね! あんたたちは!」


 女性はぱさついた赤茶色の髪を振り乱し、リリシアの襟元を掴んだ。

 護衛のメチェリ以下数名が侍女服の中に隠し持っていた短剣を抜こうとしたが、リリシアの咎めるような眼差しによって動きを止める。


「遅すぎるのよ! あんたたちがあと三日早ければ、あの子は死なずに済んだのに! あの人は殺されずに済んだのに!」


「――――…………」


 唾を飛ばし、今にもリリシアの喉笛に喰らいつきそうなほど、女性の眼は狂気と悲しみに満ちていた。

 リリシアは反論もせず、黙って罵声を受け止める。


「知ってる!? あの子は優しくて賢くて、いつも私の作るご飯を美味しいって食べてくれたのよ! あの人はぶっきらぼうだけど真面目で、他の兵士さんたちにも頼りにされていたのよ!」


 女性は、皇都守備を担当していた皇国軍兵士の妻だった。

 彼女の夫は支持貴族軍が皇都を占拠したあとも傭兵たちの無法を許さずに取り締まり、住人たちの信頼篤い実直な兵士だった。いつか助けが来ると信じ、同僚たちと街を守り続けていた。

 だが、そんな兵士は当然傭兵たちに恨まれる。

 職務中幾度も暴行を受け、怪我をしない日はなかった。

 それでも彼は心配する妻に大丈夫だと告げ、毎日の仕事に向かった。

 そして、レクティファールによる皇都奪還の三日前。

 彼は自宅へと帰路、傭兵たちに尾行された。

 家族を人質に取って彼に立場を知らしめてやろうという傭兵たちの、唾棄すべき策だった。

 彼が自宅に辿り着いたとき、扉が開いたことを確認した傭兵たちは一斉に彼の家に踏み込んだ。

 多勢に無勢。そう言う他ない。

 彼は何人もの傭兵たちに取り押さえられ、家族を人質に取られた。

 抵抗は、そこで止んだ。

 彼は家族の安全を求めたが、傭兵たちがそれを飲む筈はない。

 このとき皇都を支配していたのは彼ら支持貴族軍であり、近衛さえ彼らには手出し出来なかった。

 傭兵たちは下卑た笑い声を上げながら、彼の前で妻を陵辱した。

 やめてくれと叫ぶ彼の言葉にも、やめてという妻の悲鳴にも、泣き叫ぶ子供の声にも耳を貸さず、傭兵たちは幾度も妻の身を穢した。

 自分たちこそが支配者であると示すため、都市外を包囲する始原貴族軍の威圧から一時的にせよ逃れるため、彼らは己の欲望だけを晴らした。

 そんな悲劇が二時間ほど続いただろうか。

 子供を押さえ付けていた傭兵が油断した隙に、子供が拘束から抜け出した。

 子供は助けを呼ぼうと家の外に飛び出し――――


「私の目の前で、傭兵に斬り殺されたわ!」


 事態の発覚を恐れたのか、それとも急変した事態に動揺しただけなのか。

 傭兵たちは子供を斬り殺し、それに怒りの声を上げた父親の首を落とした。


「あの人の首は、床に押さえ付けられていた私の目の前まで転がってきたわ! そして彼の首は私の目を見て、動かなくなった!」


 それから三日間、彼女は延々傭兵たちの慰み者にされた。

 家族の思い出の詰まった家に監禁され、そこで昼夜を問わず嬲られた。

 心が何度も砕けそうになった。

 そのたび、傭兵たちへの怒りで持ち堪えた。

 いつか復讐してやると思い、必死で耐えた。


「あんたたちが来たのは、あの人の首が腐り始めた頃……!」


 突如騒がしくなった皇都。

 傭兵たちはこの三日間一度も衣服を身に付けることが出来なかった彼女を放り出し、逃げるように家を飛び出した。

 その直後、傭兵たちの悲鳴が聞こえた。

 命乞いの声も聞こえた。

 しかし、彼女の心は晴れない。

 この手で殺してやると思い、陵辱された姿のまま夫の剣を持ち出した。

 そして玄関の扉を開けた彼女は、これまで散々自分を穢した傭兵たちの死体と対面した。

 一人だけ生き残った傭兵は既に拘束されており、彼女の夫とは違う軍装の兵士たちに連行されるところだった。

 彼女は奇声を上げ、その傭兵に斬りかかった。


「でも、殺せなかった!」


 彼女はすぐに一人の女性兵士に取り押さえられ、剣を取り上げられた。

 殺す、殺すと叫び続ける彼女に対して傭兵たちを屠った兵士たちは沈痛な表情を浮かべ、魔法によって彼女の意識を刈り取った。

 次に目覚めたとき、彼女は皇都の病院だった。

 家族を失った悲しみと、復讐を果たせなかった虚しさ以外、何も残っていなかった。


「だから私はずっとあんたたちを追い続けた!」


 慰問の予定は、慰問先以外に知らされていない。

 警備上の問題だが、それは女性にとって不都合以外の何物でも無かった。

 リリシアが現れたと聞いてその場に向かっても、既にリリシアの姿はなく。そんなことを何度も繰り返した。

 そして今日、ようやくリリシアの慰問の情報を掴み、想いを遂げるためここに現れた。


「これは、あんたたち皇族が招いたこと! 自分たちさえ律することが出来なかったあんたたちが人を支配しようとしたからこんなことになった!」


 女性が懐から短剣を取り出す。

 きらりと輝く白刃に、リリシアの蒼褪めた顔が映った。


「猊下をお守りせよ!」


 メチェリたちが慌ててリリシアから女性を引き剥がそうとする。

 しかし、女性の動きの方が僅かに早い。


「報いなのよ! これはッ!!」


 女性は短剣を逆手に構える。

 そこに至り、リリシアは女性の真意に気付いた。

 彼女は――――


「――ッ! だめぇええええええええええええええッ!!」


「民の血に塗れ、地獄に堕ちろッ!!」


 自分の喉に、短剣を突き刺した。


「ああ……あああ……」


「――――ごぶっ……」


 吹き出す鮮血。

 女性は血の泡を吐きながら、リリシアの目を睨み続ける。

 崩れ落ちそうになる女性の身体をリリシアが支えようとするが、彼女の力では支えきれない。共に地面に倒れ込んだ。

 リリシアはメチェリたちが治癒魔法の術式を編んでいることに気付いたが、もう間に合わないと悟る。

 既に、女性の目から生気は抜け落ちていた。

 ただ、その唇だけが震えるように音を紡いでいる。

 リリシアは意を決し、女性の口元に耳を寄せた。


「――――――――ちの……あかが…………あんたら……には…………おにあい……」


「――!」


 リリシアの頬を伝った血が、口に入り、錆の味を感じさせる。

 他の誰にも聞こえなかったその言葉が、女性の遺言だった。











 予定を取りやめようというメチェリたちの言葉に、返り血を浴びたままのリリシアは力無く首を横に振った。

 ここで退いては、きっとあの彼女の言う通りになってしまう。そう感じたのだ。

 リリシアは急ぎ後宮に戻って着替え、次の予定へと向かう。

 その足取りは重く、メチェリたちは護衛以外にも心を砕かねばならなかった。

 それでも何とか予定を消化し、ついにパールフェルとの面会に漕ぎ着けた。

 だが、その頃にはもう、リリシアの目にあの女性と会うまで確かにあった眩しい輝きはない。

 まるで生きる屍のような空虚な瞳で、パールフェルの待つ離宮へと向かうこととなった。











 リリシアがパールフェルに抱いた最初の印象は、『儚い』。

 パールフェルがリリシアに抱いた最初の印象は、『脆い』。

 お互いに疲れ切った表情で、二人は離宮の庭園にて対面した。


「こうして顔を合わせるのは二度目ですね、猊下」


「はい、先日は碌にお話する時間もありませんでしたから……」


 パールフェルは喪服である黒衣を纏い、ベールの向こうからリリシアを見詰めてきた。

 その瞳に在るのは、ただ諦念と疲労のみ。

 他の多くの皇妃が実家へと帰参する中、ただ一人帰る場所もなくレクティファールが用意した離宮へと下がることしか出来なかった彼女にとって、これまでの総てがただ疲れるだけことだったのだろう。

 この国で彼女の味方は殆どいない。

 いや、総てが敵と言っても過言ではない筈だ。

 此度の騒乱の原因は、間違いなく彼女の夫にあるのだから。


「――――今日は、猊下にお伝えしたいことがあってお招きいたしました。ご多忙の中、御足労頂き感謝いたします」


 深々と頭を下げるパールフェル。

 イズモの血を色濃く受け継いでいるらしい黒髪が、ベールの向こうに見えた。


「こちらこそ、ご挨拶に伺おうと思っていながら、此度の遅参、お許し下さい」


 リリシアも謝罪の言葉と共に頭を下げる。

 立場としてはリリシアの方が上であるが、パールフェルは皇妃であり、リリシアにとって義母のようなものだ。礼を失する態度は取れない。

 パールフェルはリリシアの言葉に苦笑し、テーブルの上に置かれたお茶を勧めた。


「亡き陛下がよくわたくしに送ってくださった茶葉です。向こう見ずなところもあった陛下ですが、わたしくしたち妃にはお優しい方でした」


「――――頂きます」


 そっとお茶を口に運ぶリリシア。

 香りも良く、口に含んだお茶から広がる味わいも深く、芳醇。

 恐らくリリシアが知らない種類の茶葉だが、一口で彼女の心を掴んだ。


「イズモ産の落葉茶と申します。お気に召されましたか?」


「はい……とても……」


 パールフェルはリリシアの答えに微笑み、自分も一口お茶を含んだ。

 しばし懐かしげにカップの中を見詰め、庭園へと目を移した。


「お話したいこととは、陛下のことです」


「――――はい」


 リリシアは居住まいを正した。

 いつか来ると思っていた話題だが、やはり感情が波立つ。

 先程の女性の姿が、幾度も心にちらついた。


「世では陛下は裏切り者、愚皇と呼ばれているようですね」


「はい……」


 答えながら、俯くリリシア。

 民にとって全く正当な評だが、目の前の女性にとってはまた別だ。


「お気になさらず、猊下が気に病む必要はありません」


 パールフェルは諦めきった表情で俯いたリリシアを慰める。しかし、その目に映る悲しみは隠しきれていない。


「陛下の為したことを思えば、わたくしたちが犯した罪を思えば、確かに正しい言葉です。民たちに何と言って詫びればいいのか、正直考えつきません」


 パールフェルが表に立てば、民たちの怒りは再燃する。

 レクティファールはそれを恐れ、騒動の罪をグリマルディ侯と当代皇王に被せることで事態の沈静化を図った。

 だからこそ、パールフェルは民に石もて追われること無く、この離宮で静かに暮らしていられる。


「ですが、摂政殿下にだけは陛下のお心を知って頂きたいのです。されど、わたくしが殿下の下に参じれば、下手な勘繰りをする者も現れましょう。殿下の評判に傷を付けることにもなりかねません」


「――――だから、殿下が北にいる間に、わたしをお呼びに……?」


「ええ」


 パールフェルはレクティファールが北に向かっている間に、総ての決着を付けるつもりだった。

 これからの皇国の舵取りを少しでも容易にするため、そして、亡き夫の願いを叶えるために。


「陛下は――――あの方はこの国を心から愛しておられました」


 リリシアは黙り込み、パールフェルの言葉をひたすら受け止める。


「北の帝国、西の連合国、どちらも我が国にとって大いなる脅威。東のイズモとて、『天照』を擁し油断ならない相手です」


 パールフェルは静かに続けた。


「ですが、先代陛下はそれらの国々と友誼を結ぶことに執心され、我が夫はそんな父親の姿勢を批判し続けていました。そんな弱腰では相手に付け入られると」


 それは、確かに先代皇王の外交姿勢の一側面だった。

 事実、帝国は先代皇王の外交姿勢で勢い付き、こうして大規模な軍を差し向けてきたのだ。


「だから、あの方は自分がこの国を守るのだと」


 父が頼りないのなら、自分がこの国を守る。今上皇王はそう決意した。

 現れたはずの“白”を害したという噂も、そこに原因があるのだろう。

 皇太子たる“白”の教育は当代の皇王が担当する。

 ならば、当然当代皇王の政治姿勢が“白”に色濃く継承されることになるだろう。

 つまり、父の薫陶を受けた“白”が皇王となれば、この国はこれまでと変わらず他国に対して弱腰で居続ける。

 だから彼は、“白”を廃して自らが立った。それが事実では無いとしても、人々はそう思った。


「今から思えば、先代陛下のお考えも理解出来ます。ですが、当時の夫にも、わたくしにもそれは理解出来なかった。先代陛下は国を滅ぼしてしまう、本気でそう思っておりました」


 守りたい。

 そう願い、今上皇王は権力を求めた。

 誰にも虐げられることのない、絶対的な権力を。


「――――陛下はその想いを、貴族たちに利用されたのかも知れません」


 先代皇王の御代、非主流派であった今上皇王の支持貴族。

 彼らは自らが権力を手に入れるため、今上皇王を誑かした。


「貴族たちは言葉巧みに陛下を陥れました。言っても信じては貰えないでしょうが、多くの忠臣を遠ざけたのは陛下の意志ではなく、彼らの思惑だったのです。彼らの忠誠心は見事なれど、今は陛下の想いの妨げになる、と」


 今上皇王は彼ら忠臣を疎みはした。

 だが、その皇国への愛情に疑いなど持たなかった。

 だから、いつか分かり合えると思い続けていた。


「結果として、陛下は多くの忠臣を遠ざけ、自分の成すべきことに協力的な者たちを権力の座に就けました」


 この処遇は、一時的なものとなるはずだった。

 今上皇王の願いを忠臣たちが理解することが出来れば、すぐにでも中央に呼び戻すつもりだった。


「ですが、事態は最悪な方向へと動き始めました」


 それは、連合の侵攻と、始原貴族の皇王に対する裏切り。


「陛下は、このとき壊れてしまわれたのかもしれません」


 疎み、それでも信じていた始原貴族の裏切り。

 だが、その始原貴族もまた、今上皇王に裏切られたと思っていた。

 彼らの行き違いは、致命的な齟齬となって皇国を未曾有の惨禍に叩き込む。


「陛下は何としても連合の侵攻を阻止しようと軍を集めました。しかし、その策も失敗だったのでしょう。このとき陛下が胸襟を開いて始原貴族たちと話し合っていれば事態は好転していたかもしれません。ですが、始原貴族を信じられなくなっていた陛下は自らを支持する貴族たちに軍を集めさせ、それを連合にぶつけた」


 結果は、惨敗。

 さらに今上皇王の思惑を越え、始原貴族たちも軍を発する動きを見せ始めた。


「始原貴族たちの裏切り、陛下はそれを嘆いておられました。そして幾度も敗退を重ねる自らの軍、既に陛下のお心は限界でした」


 やがて連合が皇都を包囲したとき、今上皇王は命を落とした。

 それから始まったのは、まさに悲劇とした言いようの無い出来事だった。


「陛下がお隠れあそばされたとき、わたくしは『やはり』と思っておりました。ですが、陛下がどのように命を落としたのか、未だ真実は分かりません。自ら命を絶ったのか、貴族の謀反によって弑されたのか、或いはそれ以外の何かが起きたのか」


 パールフェルはリリシアに向き直り、再び頭を垂れた。


「陛下の罪は消えません。ですが、陛下の願いだけは殿下にお伝え頂きたいのです。あの方は間違いなくこの国を愛し、守りたかった。その想いだけは、殿下に受け継いで頂きたいのです」


 皇太子たる“白”の教育は当代皇王の役目。

 ならば、レクティファールに想いを繋げるのは今上皇王であるべきだとパールフェルは思った。


「どうか、殿下にお伝え下さい。この国の皇王は、ただ一人の例外もなく皇国を愛していたと」


「――――――――」


 リリシアは瞑目する。

 頷くことは出来る。

 だが、それは民の想いを踏み躙ることにはならないだろうか。

 今上皇王の想いを肯定することは、民たちの苦しみを肯定することにはならないだろうか。


「どうか、お願いします」


 パールフェルは震える声で懇願する。

 彼女にとって、これが妻として夫に出来る最後のことだった。

 それは、リリシアにも理解出来た。


「――――分かりました」


「あ、ありがとうございます……!」


 そして、ここで自分に出来ることは、ここで頷いた罪を背負うこと。

 あの女性の血を纏い、生き続けること。


「我が名に誓って、陛下の想い、殿下にお伝えいたします」


 あの方の為、罪を背負い続けること。


「きっと、あの方も理解してくださるでしょう」


 民たちの怨嗟を受けながら、微笑み続けること。















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