一晩銀色の姫君の添い寝――眠っていたので本人は非許可――付きでぐっすりと眠ったレクティファール。それで身体の調子を取り戻したのだから、“皇剣”はやはり高性能だったということだろう。
執務室に戻ってきたレクティファールは、出迎えのリーデに微かな違和感を覚えた。
小さく会釈する態度や所作そのものに変わりはない。だが、レクティファールをじっと見詰めるようなその視線がこれまでとは微かに違っているように思える。
そう、敢えて言葉にするならば、これまでの視線が監視で、今の視線は何かを試すような、摂政としてのレクティファールではなく、レクティファールという個人を見ているかのような視線だった。
だが、その直感ともいえる感覚を口にして説明することは出来ないし、仮に説明出来たとしてそれが問題であるかと問われれば、否である。
リーデ・アーデンというこの要塞の参謀からしてみれば、レクティファールという男は常に監視対象であって考試対象でもあった。当然、レクティファールの一挙手一投足に注目してそれを然るべき相手に報告する必要があるだろう。
それに、昨日執務中に倒れた男を見る目としてはまだ優しげがあるのではないだろうか。
徹底して冷たい視線を向けられるのだろうと思っていたレクティファールとしては、むしろ幸運だったと言って良い。
「――――仕事始めてもいいのか?」
「どうぞ」
しかし、幸運だから何かをするということもない。
ただそれだけの言葉を交わして、レクティファールは執務机に積まれた書類の決裁を始めた。
グロリエは天幕の自分の席に座り、気怠げに頬杖をついていた。そんなグロリエを、背後に立った祖母カリーナがじっと見詰めている。
先程から上がってくる報告は、いずれもパラティオン要塞を形成している堡塁や砲塁のどれどれを陥落させたとか、どの部隊がどの地点まで進出したとか、或いはどの部隊がどこで全滅したなどといった代わり映えのしないものばかりだ。
あの青年が要塞に入ってから要塞側の戦術が変わったということもなく、彼女がここに来てから延々と続けてきた“お決まりの軍事運動”を繰返している。
しかし、それに対して帝国側が有効な対抗手段を講じることが出来たということもまたなく。こちらも兵士たちを決まった数要塞に献上しているような格好だった。
これを無意味だとは彼女とて思っていない。
決まりきった動きは相手の思考を麻痺させ、突発事態に際して取りうる手段の幅を大いに制限するだろう。さらに膨大な鉄と血を支払っているだけあって、要塞の防備を日々薄皮一枚ずつ剥いでいる。その薄皮一枚が戦場で明暗を分けるということを、彼女は祖母から嫌になるほど教え込まれた。
だからこうして退屈そのものの日々に耐えている。
自分が出て行って要塞を切り裂きたいと祖母に言ったこともある。だが、幾ら強大な力を持つ個人であっても、所詮個は群に勝てない。もしも個が群に勝てるとしたら、今頃この世界は大きな力を持つ種族のどれかに支配されていただろう。
グロリエも、確かに龍人族としては優秀だ。しかしその『龍殺し』としての力を除外したとき、彼女が一武人としてどの程度の実力を持っているか、彼女の祖母は良く知っていた。
なまじ大きな力を持ってしまった為、力を除いた戦い方というものが理解できないという弊害がグロリエにはあった。
その精神面には常に驕傲があり、相手を自分の下に見るという痼疾がある。これが今まで彼女の命を脅かさなかったのは、単純にその弱点を本人よりも理解している祖母がいて、グロリエが自分を仕込んだ祖母だけは自分よりも上の存在だと認め、無条件に従っていたからだ。
しかし、カリーナも既に齢六〇を越えようとしている。帝国の人間種の平均寿命まであと一〇年と少し、軍務に耐えられるのはあと五、六年が限度だろう。それまでに何とか、孫娘に“退く”ということを覚えさせたいとカリーナは思っていた。
そんなとき現れた次期皇国皇王――――レクティファール・ルイツ=ロルド・エルヴィッヒ。
帝国の民にとっては伝説や神話の存在に等しい概念兵器の使い手と相対すれば、グロリエも幾らかの遠慮を覚えるのではないかと密かにカリーナは期待していた。
カリーナ自身、二五年前の戦争で皇国相手に『龍殺し』の力を揮った女傑である。
生憎と皇王自身を戦場に引き摺り出すことは叶わなかったが、その権威によって束ねられた皇国軍の精強さは骨身に沁みている。西方戦線ではグロリエの心に良い変化を与えるような敵手には出会えなかったが、東方戦線でなら或いは――――敵に期待するということに可笑しみを覚えながらも、カリーナは孫娘の不機嫌そうな背中を見守り続ける。
伝令が持ってきた報告を聞き終えたグロリエが小さく溜息を吐いたとき、天幕が風で揺れた。
カリーナは肌を刺すような寒気に少しだけ眉を顰める。
「――――吹雪くかもしれませんね」
彼女の予感は当たった。
轟々と耳の側で鳴る風の音は、先程からずっとそこにある。
飛行眼鏡に次々とぶつかる雪も、先程からずっと変わらない。
そして、目的地を見失ったという事実も相変わらずだった。
「ちっ、方位が分かっても現在地が分からなきゃ意味ないか」
竜騎兵バルクノインは首から下げた方位磁針で方位を測り、それを同じく首から下げていた地図と照らし合わせる。しかし、吹雪で周囲が全く見えなくなってしまった現状に於いて、その行為は通常の数分の一程度の意味しかなかった。
進んでいる方向さえも、風で流されているため正確に判別出来ない。
相方の鼻先は間違いなく北に向いている。だが、山のせいで乱れた風に流されてはそれに逆らい、逆に追い遣られては方向を戻すということを繰り返しており、すでに北に向いているということにどれだけの意味があるというのか。
「しかし寒いな」
魔法障壁を張る技能は竜騎兵に必須の技能だ。彼も当然使えるが、その障壁の出力はやはり経験に左右される。温度を遮断する術式と物理的に風を遮断する術式のバランスを上手くとれるかどうか、竜騎兵の技量を計る一種の基準だった。
その技量を審査基準にしてみれば、彼は未だ半人前にもなっていない。
障壁の密度が低く、風も温度も遮断しきれていない。さらには効果範囲の設定が甘く、必要のない場所でまで障壁で覆っていて効率が悪い。これが一人前以上の竜騎兵になると自分の身体と相棒である飛竜の身体だけを障壁で守るようになり、使用する魔力も術式が占める意識内容量も最低限になる。
「頑張れ相棒、あと少しだ」
バルクノインの言葉に、カルテンが甲高い鳴き声を返す。
飛竜としては若い部類に入るカルテンにとって、吹雪の中を飛ぶことは恐ろしく体力を消耗する難事だ。それでも主人にして相棒であるバルクノインの意志に従い、彼は翼を打ち続ける。
雲の上を飛べればこれ程苦労することはないだろう。しかし、騎兵騎竜揃って未熟者の彼らにそんな技量はない。
偵察騎と言えば高高度を飛行し敵情をつぶさに観察することが仕事だが、実際にそこまでの技量に到達するのに早くても一〇年掛かる。訓練を除いた飛行時間が二〇〇時間足らずのバルクノインには、まだまだ先の話だ。
「雲の上、どんな世界なんだろうな……」
彼は灰色の天を見上げて呟く。映像としてなら見たことがあるが、部隊の先任に聞けば映像などで推し量れるような世界ではないという。空を往く者たちを隔てる一つの大きな壁、それが雲だった。
ほぅ、と溜息にも似た吐息を漏らすバルクノイン。
だが、すぐに風に煽られたカルテンを御する為に全身を駆使する羽目になった。上下さえも曖昧になりそうな運動を繰り返し、何とか安定を取り戻す。
再び吐息を漏らした。今度は安堵の息だが。
「頼むぜ、本当に」
バルクノインはやや肩を落としてカルテンを撫でる。
バランスを崩して墜落、となれば自動的に遭難である。装具の中には緊急事態用の装備――サバイバルキット――も当然含まれているが、流石に雪山で何日も生き延びることが出来るほど多くの装備がある訳でもない。それに、天狼山脈も白狼山脈も皇国と協定を結んだ二つの氷狼族がそれぞれ支配している。不可抗力とはいえ、協定に準じた入山許可を得ていないバルクノインがどのような扱いを受けるか甚だ不透明だ。
ひょっとしたら助けてもらえるのかもしれないが、逆に殺される可能性もある。
皇国側は両部族の実質的自治領である両山脈に対して許可された者以外の人物を山に入れず、両部族から協力を求められたときはそれを可能な限り受け入れる。逆に両部族は許可された者以外の入山者――主に帝国側からの入山者――を敵として排除し、両山脈を通過させない。
こと雪山に関する限り、両部族に優る戦闘能力を有する種族はほんの一握りに過ぎない。彼らが部族を挙げて全力で戦えば、たとえ数十万の軍勢でもその力を発揮出来ず万年雪の下でミイラとなる筈だ。元々雪山は、その環境に適応した種以外ではとても戦闘など出来たものではないのだ。
協定の中には遭難者の人命を守るという条文もあるが、それも許可されて入山した者の話。バルクノインには当て嵌らない。
「――――本当に頼むぜ相棒」
凍死であればまだ綺麗な死体になれる。だが、氷狼族に食い散らかされてバラバラになるのは御免だ。知恵ある者共の一である氷狼族が人を食らうとは思えないが、身体機能的に食えないことはないだろう。
まあ、それを言えば自分だって人肉を食べられないことはないのだが。
(――――やべぇな、生き残っても査問会行きコースじゃ……)
自分の未来に暗澹とした雲が湧き上がってきたのを感じ、バルクノインは手綱を持つ手が震えた。
この震えが寒さによるものであると自分に言い聞かせ、彼は前を見る。その先に明るい未来があると信じて。
「――――お?」
本当に明るい未来があった。
いや、正確には吹雪の中でも煌々と輝く光が見えた。
幾筋もの光が天に向かって伸び、蠢いている。
(探照灯か……?)
飛竜乗りがあの光を知らない訳がない。
帝国の領空侵入と空襲に備えてヴァーミッテ空軍基地にも、『ヴァーミッテ』そのものにも設置されている設備だからだ。
夜間無視界飛行訓練では、あの光を目標に飛んだこともある。
だから、あれが何処かの軍事施設から照射されている探照灯であると気付いた。
そして、国境近辺であれだけの探照灯を一所に設置している施設は一つ。
「やった! パラティオンだ!」
迷人がようやく安住の地を見付けたかのように光に向かって突き進むバルクノイン。カルテンも探照灯の光を認めていたらしく、主人の手綱に従ってぐんと加速した。
しかし、彼は一つ大きな見落としをしていた。
皇国と帝国の国境線に存在する大規模な軍事施設は一つではなく、二つであるということを。
彼は喜び勇んで吹雪の中を飛んで、探照灯の照射元を視界に捉えてそれに思い至る。
「――――違う……!?」
円を描くように造られた城壁とその中に内包された都市。
彼の知るパラティオンはあのような形状ではない。そもそもパラティオンは純軍事要塞であり、要塞都市ではない。街に匹敵するような生活施設はあるものの、都市そのものを内包している訳ではない筈だ。
では『ヴァーミッテ』に戻ってきたのか。
『ヴァーミッテ』は帝国との戦いに於いて北の守りを司る要衝。パラティオンは純軍事要塞であるが故にそれを支える後方の都市が必要不可欠だった。その為に地理的に好条件であった『ヴァーミッテ』は要塞都市化され、パラティオンと並んで皇国の北を守護する防人となっている。
『ヴァーミッテ』は都市部を円形の城壁で覆っている都市だ。だからバルクノインは眼下に広がる都市を自分の飛び立った『ヴァーミッテ』であると考えた。
しかし、その考えもすぐに否定される。
『ヴァーミッテ』と彼が考えた都市の横に、巨大な建造物が存在したからだ。彼が出発するとき、そんなものはなかった。
南に向いて傾斜した塔。
そうとしか表現出来ないそれは、都市と比較してみれば確かに小さい。だが、上空から見ても判別出来るほど巨大な建造物が僅か数時間で都市の横に現れるはずがなかった。だから彼はその要塞都市を『ヴァーミッテ』ではないと判断したのだ。
しかし、ならばこの目の前の都市は何だ。
「――――!!」
あった。
たった一箇所。今まで自分が飛んでいた時間で到達出来る大規模要塞都市が。
「――――『ウィルマグス』!!」
帝国の対皇国戦線の要。皇国に突き付けられた鋒。
幾らでも言い方はあるが、間違いなく敵の支配する都市。
「くそっ」
バルクノインは下げていた高度を一気に引き上げた。
帝国の対空探測儀の性能が劣悪であるということは知っている。しかもこの吹雪では、探測波が多少妨害されているとも考えて良いだろう。大気中にも魔力は含まれるから、探測波は大気状態に左右される。その“ゆらぎ”ともいえる探測波の穴を埋める技術は元々魔法技術で他国に劣る帝国にはなかった。
その代わりに正面兵器開発では他国の追随を許さないほど次々と新技術を編み出しているのが帝国だ。おそらく、『ウィルマグス』にあるあの巨大建造物もその一つ。
バルクノインは偵察騎としての役目を全うするため、装具の中から写真機を取り出した。
雪が次々とレンズを汚し、それを拭いながら彼は巨大建造物をファインダーに収めた。ピントを合わせ、ぼやける視界を整えると一気にシャッターを切った。
そのまま何度もシャッターボタンを押し、カルテンを駆って様々な角度で構造物を捉える。
敵に察知されるかもしれないという恐怖は常に彼の頭の中にあった。だが、青年軍人にありがちな『自分が国家を守っている』という英雄意識がそれを麻痺させた。
自分の写しているものが重要なものではないという冷めた意識はある。しかし、これが皇国に対して帝国が持ち出した切り札であるかもしれないという意識もあった。
だが、バルクノインは初志を貫いた。
何度も写真機のフィルムを巻き、シャッターを切る。敵が来る、敵が来るという恐怖を“英雄”という麻薬で抑え込んで、彼はひたすら自分の仕事を果たした。
やがて、フィルムを一本使い切ったところで彼は写真機を仕舞い込み、その空域からの離脱を図る。
上手くいった、敵が自分に気付いた様子はない、無事に帰れると彼は思った。
だが、その期待はあっさり裏切られる。
「――――空襲警報!」
バルクノインにとって心底耳障りな警報が眼下の要塞都市中に響き渡る。
地上を照らしていた探照灯までもが一気に上空へと向けられ、バルクノインを追い掛けてきた。
高度を下げることは出来ない、ならば――――
「皇国航空騎兵嘗めんなよっ!!」
意識内に魔法術式を展開。
そこに魔力を流し込み、彼は撃発呪文を唱えて魔法を顕在化させる。
「“アクセラレイト”ッ!」
自分の周囲に現れた魔法陣が、彼とその騎竜の身体を加速させる。
前方に次々と現れる魔法陣を潜り抜け、軋む身体と意識をねじ伏せてバルクノインは雪空を翔ける。
カルテン自慢の健翼と加速魔法、そして今まで自分が培ってきた航空騎兵としての技量。
それらを駆使して『ウィルマグス』から上がってきた邀撃騎との生死を掛けた追撃戦が始まった。
『ウィルマグス』上空に侵入した正体不明の飛行物体を失探したとグロリエに報告が齎されるのは、それから二時間後。
それはパラティオン要塞に重傷を負った騎兵と騎竜が降り立ち、その騎兵が持っていた写真機の写真が現像されて要塞司令部に提出されたのとほぼ同時だった。
奇しくも、皇国と帝国は数分と時を違えずに“決戦近し”ということを認識した。
偵察騎が持ち帰った写真は要塞司令部で分析を受け、すぐにその正体が発覚した。
数名の幕僚を伴い、提出された報告書を手に、ガラハは戦闘指揮で疲れきった身体を引き摺ってレクティファールの執務室へと向かう。
衛兵の誰何を受け、身分証を提示して執務室のある区画へと入る。
余計な口出しをされては困るという幕僚の意見を容れて司令施設とは少し離れた場所に摂政の執務室を作ったのだが、あの摂政の態度を見る限り意思の疎通を不便にしたという負の結果しか感じられない。
さらに言うなら、この疲れているときに階段を何回も昇ることは彼の怒りを駆り立てる原因にしかならなかった。次に摂政が要塞に居座ることになったら、今度はもう少し近くに執務室を作ってやると決意し、彼はようやく辿り着いた摂政執務室の扉を叩いた。
僅かの間。
しかし、すぐに彼のよく知る若い女の声が入室を許可した。
扉を開け、数歩部屋に入ったところで背後の幕僚が扉を閉めた。
「夜分遅く失礼いたします、摂政殿下」
敬礼を送り、答礼を待つ。
「ご苦労」
答礼を受け、ガラハはレクティファールの下へと進む。
レクティファールはガラハの背後に立つ参謀たちの姿を認めると、「ついて来い」と一言告げて執務室の一角にある会議用の大机に移動した。
上座に座ったレクティファールとその背後に立つリーデ。
対面に回ったガラハは参謀の一人にパラティオンから帝国領『ウィルマグス』まで記した地図を大机に広げるよう指示した。
彼自身は頭を垂れながら、先の偵察騎の齎した報告書をレクティファールに差し出す。
それをリーデが受け取り、封筒から取り出すとレクティファールに手渡した。
「――――列車砲……攻城砲か」
レクティファールはその報告書に添付された写真を一瞥すると、すぐにそう呟いた。
ガラハは内心驚く。軍事的には一般人より少々優る程度の知識しかないと聞いていた摂政が、その正体を一瞬で看破したことにだ。
皇太子となる前の経歴は不明だが、もしかすると同業者だったのではないかとさえ思った。人伝に聞いた評価などあてにならないものはないとも実感した。
「ご賢察の通りにございます殿下」
「ならば前置きはよい。これはどの程度の脅威だ」
ガラハは自分がこの執務室に直接訪れた理由を、レクティファールがほぼ正確に推察していると感じた。
話が早くて助かる――――内心笑みを浮かべ、ガラハは机上の地図の一点を軍司令官に与えられている指揮杖で指し示す。
「この攻城砲が確認された地点はここ――――帝国の要塞都市『ウィルマグス』の近郊。この写真を撮った者の報告を信じるのならば、砲身はこの要塞に向けて固定されています。おそらく旋回砲塔とするには巨大過ぎたのでしょう。写真を分析する限り、この砲に回転台はありません」
「――――予想される威力は如何程だ」
ガラハは報告書の一枚をレクティファールに示した。そこには要塞防衛軍の砲術士官数名と砲戦参謀がまとめた分析結果が記されている。
「砲身長、口径を周辺物との比較で計算、さらに構造から使用炸薬量を推量しました。結果を述べるのならば、我が要塞の持つ対物障壁を貫き、要塞そのものに打撃を与えることが可能かと思われます」
レクティファールは背凭れに大きく背中を預け、仰け反るように天井を見た。
リーデがちらりとレクティファールを見たが、その瞳はじっと観察する以上の色を見せていない。
「伊達に何百年もパラティオンに血を支払っていないということか……」
レクティファールは天井を見上げたまま独りごちた。
パラティオン要塞の持つ対物理防御能力を正確に把握している帝国だからこそ、あれ程馬鹿げた兵器を実用化したのだろう。通用すると確信出来ないままに建造出来るほど小さいものではない。
さて、どうするべきか――――レクティファールは思考を巡らせる。
「――――殿下」
「ん、済まない」
思考に沈み込んだレクティファールを引き上げたのはリーデの声だった。
僅かな時間とはいえ、自分の世界に没頭してしまったことを謝るレクティファール。
ガラハたちを正面に見据え、威儀を正す。
「策は?」
レクティファールは問う。
ガラハは背後の参謀の一人に目配せする。その参謀が地図に一本の線を書き込んだ。
天嶮白狼山脈を越える一本の線を。
「――――なるほど」
記された線を認め、レクティファールは頷く。
その一本の線で総てを察したらしいレクティファールの仕草に、ガラハは微笑んだ。本当に話が早い、油断するとこちらの思考総てを読まれてしまうような錯覚さえある。
「殿下は軍人としてもやっていけますな。まるで驚かれることを知らぬようです」
「何、故郷の偉人が何人か同じような策を過去に行っているだけだ。目新しければ驚く」
「ほう、是非その将の名を伺いたいものですな。小官の記憶にはない」
その言葉にレクティファールは少しだけ目を伏せた。その態度を見たガラハが訝しげに目を細めると、すぐに不敵な笑みを見せた。
一瞬だけ浮かんだ表情を糊塗するかのような笑顔だった。
「――――名前は忘れたよ、すまないな」
その言葉に答えようと口を開いたガラハだが、結局言葉にならない音が漏れただけだった。
レクティファールの瞳が、微かに龍の瞳に見えた。その瞳がガラハの舌を凍り付かせたのだ。
いや、ガラハの心の何処かがそう見せかけただけなのかもしれない。ここから先に踏み込むべきではないと。
「――――――――――いえ、小官も忘れているだけかもしれません」
ガラハは退いた。
別段恐怖が勝ったという訳ではない。ただ、ここで論じるべきことではないと思い直しただけだ。
「ですが、この策には大きな問題が一つございます。殿下にこうして御目通りを願ったのはその解決のため……」
レクティファールは再び首肯した。
ガラハの存念は理解している。
静かに、感情を感じさせない声でレクティファールは言う。
「白狼山脈を越える。それすなわち、我が皇国が帝国領へと侵攻するということ――――帝国建国以来、一度足りとも帝国を侵さなかった我が国が初めて帝国に直接刃を叩き付ける」
帝国は皇国を侮り切っている。
建国以来一度も領土を侵されなかったから、紛争の結果として領土の割譲を求められなかったから。
しかし、その油断をレクティファールは突く。
「良い、むしろ先代皇王陛下が我々に残してくれた千載一遇の好機と私は考える」
帝国の国民は皇国が自分たちの国土を侵すなど考えてもいないだろう。
その危険性が十分以上にあるにも関わらず、生まれたときから一度も侵されてないというだけで。
しかし、寿命の短い人間種の国家では、皇国にとってほんの少しだけ昔という数百年の時間は歴史という名に変わる。
皇国が我が帝国に侵攻しないのは歴史が証明している、と彼らは思っているだろう。
実に、拙い国防政策だ。というよりも、攻撃に偏重し過ぎていると言うべきか。
「彼らは我らを甘く見過ぎた。いや、嘗ての帝国を夢想し始めた時点で彼らの目は曇ったということだろう」
広大な国土、強大な軍事力、それらが帝国を支えてきた。そして、成長させてきた。
それを否定することはレクティファールにも出来ない。
だが、一度レクティファールの治める皇国に血を払わせた時点で帝国は――――
「敵」
レクティファールという男は基本的に敵以外の存在に対して甘い。
味方であれば、そして守るべき対象であれば自分の総てを懸けて守る覚悟がある。
「吾はアルトデステニア皇国摂政レクティファール。吾が宿命はこの国家を守ること、この国の民を安寧の内に看取ること、子らが成長し、男が田畑を耕し、女が子を育て、老いし者が笑顔で死ねる国をこの世に造るが役割」
国家を守る。それくらいしなくては、守りたいあの女性たちは笑顔を見せてくれないだろう。
小さな男だと笑われてもいい、手軽な喜びだと笑うなら笑え、だが、守ることとはそういうことだろう。
彼女たちが笑っている光景を思うだけで、この世界に屍山血河を創ることさえ容易い。
「私はもう諦めている。この身は個に非ず、国であると。なれば諸君らも諦めよ、その身は個ではなく、この皇国の盾であり剣であると」
血で贖う平和は虚しいと人は言う。
ならば、血で贖わない平和とは何だ。
レクティファールは血を代価に作られた平和しか知らない。
平和の礎は、常に血ではないか。
それ以外の何かがあるというのなら、それを教えてくれ。
「私は自分のために自分の守りたいものを守るぞ。帝国が自分たちのために戦っているように、私も自分のために戦う。それを厭うならば、即刻ここで職を辞せ。私が直接辞表を受け取ってやる」
レクティファールはそう言ってガラハとその幕僚たちを睥睨した。
これがレクティファールの本来の性格といえるのか、定かではない。だが、この男の一側面であることは確かだ。
彼は元世界で味方を作らなかった、作れなかった。
だから、この世界で自分の傍らに立ってくれた彼女たちを無条件に愛している。
その愛が一方的なものであると理解して尚、その愛が狂気よりも狂っていると理解して尚、守りたいものを守り抜きたいと願う故に。
「私は私の守るべきものを侵すあらゆるものを許さん」
これだけは、決して諦められない最後の一線。
他をどれだけ諦めても、諦めることを諦めても、これだけは諦める訳にはいかない。諦めることが出来なくなった。
あの温かい女性たちを守るため、そして、あの女性たちが守りたいと願うものを守るため。
レクティファールにとって、国家さえもが総て手段。
国家を守ることもあの女性たちを守る手段、あの女性たちを守ることも自分の意地を満たすための手段、目的とはただ一つ。
あの女性たちを守りたいと思う自分の欲望を満たすこと。
レクティファールはあの骸夥しいミラ平原でそう思い始めた。
あの蛆虫で嘲笑を浮かべた骸を見て、そしてここに来る途中の街で、メリエラとウィリィアの笑顔を見て確信した。
「帝国の増長、この辺りで叩き折る。私の命が必要ならば命を下そう」
レクティファールは大机の前に座るガラハと、その背後に整列する幕僚たちに向けて言い放った。
「帝国軍を討て」
――――『帝国軍討つべし』――――
そんな摂政令が要塞防衛軍を、ひいては皇国軍全体に響き渡った。
先代皇王の温和な対外政策とは一転して苛烈な命令。
戸惑う者も確かにいた。
だが、皇国中枢に向かうにつれその数は減った。
皇国の中枢を担う者たちは摂政の選択に確かな理があると感じ、それを受け容れた。
皇国は弱体化している。ここで少しでも退く素振りを見せれば、帝国はこれ幸いと皇国への攻勢を強めるだろう。
一度や二度なら皇国はそれを退けることも出来る。だが、三度四度と繰り返されるだろうその攻勢を弱った皇国が受け止めきれるか、考えるまでもない、間違いなく不可能だ。
今皇国に必要なのは傷を癒す時間、その時間を手に入れるには、血の代価を支払う必要があった。
摂政レクティファールが下した決断は、その血の代価を支払うこと。
帝国と皇国の民をその決断で殺し、その血で以て時間を買うこと。
そして皇国軍は、自らが主として戴いた青年の決断を現実のものとするべく動き始めた。
次々と舞い込んでくる書類を決裁し、レクティファールは一日を過ごすようになった。
皇国は他国への侵攻を放棄している訳ではなかった。だが、先代皇王が慈愛と融和で他国との共存を目指したこともあり、ここ四〇〇年ほどは他国の領土を侵していない。
人間種であれば歴史の彼方となるような時間だが、皇国の長命種族にとっては久しぶりという程度でしかない。軍はすぐに摂政の命令に対応し、パラティオンへ増援部隊を向ける準備を整えつつあった。
だが、偵察騎が齎した情報から、帝国の巨大攻城砲が発射間近であるということは分かっている。
増援部隊の編成を待っている余裕はない。
念のために増援部隊の派遣は中止しないが、しかし今回の作戦にはすでにパラティオンにいる軍のみを使うことが決定された。この決定は皇国軍上層部というよりも、実際の作戦指揮を摂政より託されたガラハの意思によるものだった。
彼はこれまでの経験から時間こそがこの作戦の最大の敵であると感じており、摂政に許可を仰いだ上で敢えて帝国軍に比べて圧倒的寡兵である要塞防衛軍のみを使うと決断した。
摂政令からガラハの決断まで僅か二日だった。
「ガラハ、何か私に願うことがあるのではないか」
レクティファールは打ち合わせのために自らの公室に訪れたガラハに対し、そう切り出した。
今日は白龍の姫君とその従者が近衛として部屋におり、ガラハはその部屋の中で話を切り出されたことに若干の怒りを感じた。
ガラハの願いは、彼女たちにとってとてもじゃないが愉快なことではない。ここで口に出せば、間違いなく彼女たちの機嫌は損なわれ、ガラハに視線の刃を突き付けるだろう。
しかし、レクティファールから話題を与えられた以上、無視することは出来なかった。
ガラハは姫君たちの不機嫌が摂政自身に向かうことを願いつつ、重い口を開く。
「はい、帝国巨大攻城砲破壊作戦の際、私は白狼越えの軍の指揮を執りたいと考えております。しかし、それではパラティオンが手薄になり、帝国側に我が軍の動きを察知されることにもなりかねません」
白狼山脈を越えるために山脈内を無数に走る渓谷を進むことになるのだが、その分時間は掛かる。山脈に住む先住たちの助けを借りられたとしても丸二日は掛かるだろう。
その間、要塞にガラハがいないと帝国側に感付かれることは避けたい。
帝国軍が良将ガラハを恐れているからこそ、帝国軍の攻撃があの程度で済んでいるという面もある。帝国軍は摂政レクティアファールの持つ“皇剣”は恐れていても、レクティアファール自身はそれ程脅威とは思っていないだろう。
だが、帝国側がガラハたち白狼越えの軍に気付くことはどうしても避けたい。
同時にレクティファールの命令で二〇〇〇〇もの兵力がそちらに回されることになったが、それでは要塞の守備に穴が出来る。その穴に気付かれてしまえば、パラティオンは大打撃を被るだろう。
それを避けるためには、一つ策を講じなくてはならない。
「殿下に要塞前に陣を敷いてもらい。そこに帝国軍を引き付けて頂きとうございます」
摂政を囮にして、攻撃を引き付ける。
その策にレクティファールは笑い、メリエラたちは気色ばんだ。
「閣下! それは摂政殿下をいたずらに死地に追い込む策です! 閣下のお言葉は臣下としてのものではありません!」
メリエラが吼える。
瞳を龍眼へと変じさせながらの怒声は、空気を震わせ人の肺腑に良く響いた。
レクティファールでさえも、僅かに腰が引けた程だ。
「しかし、他に策はない。援軍を待てば要塞は敵攻城砲の威力の前に瓦礫と化すだろう。あの威力に耐えうる術式に切り替えるには少なくとも四半年は掛かる。現状最も効果的かつ即効性のある策は、これしかない」
ガラハが要塞に残るという作戦も立てられたが、それでは帝国の要塞都市『ウィルマグス』を陥とすことは難しいのではないかと考えられた。これはガラハの戦術家としての能力を評価してのことであるが、現実的に考えればそれはそれで納得できることだ。
要塞の守りを考えれば、白狼越えは二〇〇〇〇程度の兵しか回せない。
しかし、並の将ではたった二〇〇〇〇の兵で要塞都市を陥落させるなど出来る訳がない。
この作戦に参加出来る将の中でもっとも優れた能力を持つ者を作戦担当者に充てる、作戦成功率を引き上げるためにも至極当たり前のことだ。
「良い、中将の好きにせよ。戦の差配は任せたのだ、その中で必要だというのなら、私が帝国軍を引き付ける囮になろう」
「レクト!!」
あまりにも自分の身を軽く見過ぎているレクティファールにメリエラが怒鳴る。
完全にお互いの立場を忘れたその怒声に、密かにガラハは笑みを零した。何とも愛されている青年だと。
「レクト……もとい殿下に何かあったら要塞どころの話ではありません! 危険に身を晒すことは皇王の義務ではなく、貴族の義務です!」
「それは、まあ、その通りなんだが……」
レクティファールはしどろもどろになって言い訳する。
これまでの態度を脱ぎ捨てた腰の低さだ。辛うじて口調は維持しているが、目が泳ぎまくっている。
「良いですか!? 殿下はそもそも摂政としての自覚が足りないのです! ここに軍を率いてきたことは良しとしましょう。しかし帝国の姫と一対一で会談し、今度は帝国軍に対する囮になる? 殿下は殿下の下にいる国民をどうお考えなのですか!? いえそれだけではありません! 殿下は遠からず皇王となってこの国家を背負うことになるのですよ! 軍を率いて戦うなど将の職分、皇の職分ではありません! 皇とは将を信じて用いることが役目、皇が将の真似事をして良い結果になったとして、それを後世に教訓として遺すお積もりですか!? もしもそうだというのなら甚だしい勘違いです! 負の遺産です! 皇として臆病であれとは言いませんが、蛮勇と勇猛を履き違えたような行動は謹んで下さい! そもそも殿下の役目は国家を守ることであって一個の要塞を守ることではないでしょう!? 確かにパラティオンが抜かれれば皇国本土に帝国軍が押し寄せることは必定、避けなくてはなりません。しかし殿下ご自身が前線に立つ必要はありません。いいですか、摂政とは――――」
怒涛の勢いだった。
反論する暇さえ与えられず、帝国で開発された機関砲のように連続で発射される言葉の弾丸。レクティファールは何とか反論の緒を見付けようとしたが、元来持っているメリエラへの苦手意識に阻害されてどうしても見付けられない。
いつの間にかメリエラの顔がどんどん近付いてきて、すでに接吻を交わすことさえ可能な距離になっている。
このままでは不味いと考え、誰かに助けてもらおうと部屋を見渡すレクティファール。
しかし、別の誰かと言っても、ウィリィアはメリエラの言葉にいちいち頷きながらそろそろとその背後に移動しており、まるで説教の順番待ちといった感がある。いや、多分、絶対その通りなのだろう。その目は出来の悪い弟を叱る姉の目だった。
ではリーデに、と背後を振り返るが既に誰もいない。
何処へ行ったと探してみると、公室の応接区画でソファに座ったガラハにお茶とお茶請けを出していた。
ガラハはメリエラに対する説得をレクティファールに丸投げする腹積もりのようで、こちらにちらりと目を向けるとにやりと笑った。笑いやがった。
畜生てめぇ逃げやがったな、とガラハを睨むレクティファール。温和な彼でも流石にこの裏切りは許せなかったらしい。
しかし、そのガラハにお茶を出していたリーデが彼に一礼し、そろりそろりとウィリィアの後ろに立つのを認めるとレクティファールは瞠目した。
お説教要員が増えた。
何故、どうしてと思うレクティファール。
「殿下! 聞いてますか!?」
しかし、そんなレクティファールをメリエラは逃がさない。
リーデと言えば涼しい顔でレクティファールを見ており、諫言するのは参謀として当たり前のことですと言わんばかりの態度だ。
ああ、味方はいないのかと部屋を見渡すレクティファール。
しかし、現実は非常に厳しい。
彼は逃げることも出来ず、嵐のような説教に耐えるしかなかった。
結論から言おう。
レクティファールは深夜まで及んだお説教に耐え抜き、根負けした三名から前線に立つ権利をもぎ取った。
しかしその条件として三名を自らの陣に置くことを認めさせられた。
敢えて勝ちか負けかで言えば、限りなく勝利に近い引き分けと言えるだろう。
この結果が次なる戦いでどのような結果を齎すか、今の彼らに知る術はない。
こういう戦いの準備の回って、好きな人と嫌いな人が別れると思う。
まあ、こういう下準備がないと次の話を書けない人もいるということで一つご容赦願いたいです。
しかし、短いな今回の話……
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