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第一章:皇国動乱編
第一章ダイジェスト:第十八話~第二一話 前編
 皇国歴二〇〇九年の内乱において発生した死者の数は、およそ五万と言われている。
 この数字は死亡認定された行方不明者を含んでおり、実際はもう少し減るかもしれない。
 だが多少減ったとしても、その数字は一地方都市の半数にも届くもので、以後十数年間、皇国に様々な影響を与え続けた。
 後年になり、この戦乱の真実を記したと言われる外交文書が幾つも公開され、当時の連合軍の無法が明らかになった。
 しかし、それの賠償を求める相手も既になく、単に過去の出来ごとの真実が一つ明らかになったというだけであった。
 時間の流れは人の傷を癒し、同時にその傷さえ覆い隠してしまったのかもしれない。

         ◇ ◇ ◇
 
 しばらく平原を歩き続けたレクティファールだが、宿営地に向かう途中で横合いから大声が飛んできた。
「あ、そこの男ッ!」
「――?」
 そちらに目を向けるレクティファール。
 医官らしい白衣を着た紅色の髪の女が、自分に向けて突進してきた。
「今ヒマ? ヒマね! ヒマに決まってる! じゃあヒマなら手伝いなさい!」
「お」
 その勢いをレクティファールの直前で殺しきった女は、一つに纏められて頭の上で揺れている髪を振り回して彼に迫った。
 そして返答する暇も与えず、拉致同然にレクティファールを連れ去る。
 レクティファールが抵抗する間もなく、女は平原を突き進んだ。
 上空の飛龍が慌てている気がしたので、レクティファールは背後の空を見て手を振る。
 女から敵意は感じないし、何より〈皇剣〉を持ったレクティファールを害せる者はそうそういるものではない。
 飛龍はレクティファールの合図に気付くと、これまでと同じように上空を旋回し始めた。それを確認し、レクティファールは女に訊ねる。
「何処へ行くのですか?」
「病院!」
 女はそれだけ言ってさらにレクティファールを引き摺った。
 引き摺られなくてもちゃんと自分で歩くと何度も言ったが、女は聞き入れなかった。というよりも、無視された。それこそ清々しいまでに。
「――うん、まあ、仕方がない」
 とりあえず諦めることにしたレクティファール。
 こういった物ごとに関する諦めの良さは相変わらずだった。最近女性関係で色々諦めることが多かったから、余計にその傾向が強くなっている。
 そのまま女に引き摺られ、レクティファールの宿営地から丘一つ離れた場所に設営された天幕へと辿り着いた。天幕には、蔦の絡みついた十字星の紋章があった。陸軍の医務衛生科の紋章だ。
 女は天幕の中に飛び込むと、いきなり叫ぶ。
「姉さん! 人手拾ってきたッ! フォスさんまだ暴れてる!?」
海星ヒトデ?」
 レクティファールの惚けた台詞にも突っ込みは無かった。
 それもそのはずで、天幕内は叫び声とうめき声を上げる多くの負傷者と、鬼気迫る表情でその間を飛び回る従軍看護師と医官で地獄の様相だった。忙しく動き回る人々の中には、作業衣の衛生兵も混じっている。
 そんな地獄の中で、女の声に応えた者がいた。
「こっちだ!」
 大きく手を振って二人を迎えたのは、ここまでレクティファールを連れてきた女に瓜二つで、ただし大きな眼鏡を掛けた女だった。
「よくやったファリエル! そいつにそこの白衣着せてこっち連れてこい!」
「了解フェリエル姉さん! さ、とっと脱げぇッ!」
「おおッ!?」
 剣帯と大外套を剥ぎ取られ、軍装の上着も奪われたレクティファールは、何故か近くに掛けられていた白衣を着せられた。
 無菌樹脂製らしい薄手の手袋を渡され、言われるがままにそれを着けた。
 その姿を確認すると、ファリエルと呼ばれた女はレクティファールを見上げて目を細める。
 そこで、レクティファールは女の身長が自分より小さいことに気付いた。メリエラと同じか、少し高いくらいか。
 そんな小さな身体でレクティファールを引き摺ってきたということは、それなりに力のある種族なのかもしれない。
 女は細めていた目を更に鋭く細め、睨み付けるようにレクティファールを見た。
「あんたその軍服見る限り、どっかの貴族軍の士官でしょう? 応急処置のやり方ぐらい分かってるわよね?」
「いや、私は……」
「ファリエルっ!」
「はいはい! 今行く!」
 ファリエルはレクティファールの返事を聞かずにその手を取って歩き始めた。
 何人もの患者たちの隙間を歩いた。薬と消毒液、そして糞尿と汗の匂いが混じり合っている。
 そんな空気の中で、血まみれの包帯で頭を包んだ一人の兵士がレクティファールに向けて、何か懇願するように口を開いていた。だが、ファリエルはそれを無視して突き進んだ。
「一人元気の良い重症患者が居てね。アタシたちだけじゃ抑えきれないと思って男手探してたの」
「はあ……」
 確かに、男性兵士の力は目の前の女性よりも遙かに強いだろう。
 ここまでレクティファールを引き摺ってきた腕力は大したものだが、火事場の莫迦力に近いものなのかもしれない。
「ここよ」
 やがて、天幕の奥に連れて行かれた。
 一人の茶髪の男が大きな声で喚いていた。
「ふざけんな! 利き手取られたらこれからどうやって生きていけってんだ!」
「ふざけてるのはそっちだ莫迦者っ! もう右手の壊死が始まっている、さっさと切断しないと命も無いぞ!」
 先ほどの女、フェリエルと呼ばれていた女医が男と言い合っていた。
 話を聞く限り、どうやら男は右手に重傷を負い、その右手が壊死を始めているらしい。
「こちとらこの右手で自分の女食わせていこうって決めたばっかなんだよ! それを切れだぁ!? 再生魔法とかあるだろう!」
「再生魔法はもっと綺麗な傷にしか使えない! こんなぐちゃぐちゃな腕再生したって無意味だ!」
 治癒魔法には大きく分けて三種類ある。
 一つはその対象の自己再生能力を増進して傷を治す再生治癒魔法。
 一つはその対象を傷を負う前の状態に復元する遡行治癒魔法。
 そして最後に毒物などの異物を除去する透析治癒魔法だ。
 再生治癒魔法はそれこそ何種類もあって、その効果は切り傷を治す程度から骨や筋肉を繋ぐ程度までと幅広い。
 しかしその再生治癒魔法は対象の治癒力を増進させるだけで、その対象の治癒力を上回る傷には意味がないのだ。
 腐り落ちた手を自然状態で治癒させるなど、大きな力を持つ一部の種族にしかできない。
「さあ、その大事な女に生きて会いたければ大人しくしろ!」
「だからふざけんなこのアマッ!」
「ほら、あんたも抑えるッ!」
 レクティファールは一緒に来たファリエルに促され、男の左手と身体を押さえに掛かった。
 思ったよりも男は元気そうで、レクティファールの身体を押し返そうと大いに暴れた。
「てめッ! 同じ男なら分かるだろうオレの気持ち! こいつら止めろ!」
「いや、確かに気持ちは少しぐらい分かるんだけれども……」
「じゃあ止めろよ!」
 男はレクティファールの顔面に唾を飛ばしながら吼えた。切羽詰まった、必死の形相。たしかに、腕一つを失えば今後の生き方も大きく制限されるだろう。いつか、死んでおけば良かったと思うかもしれない。
 レクティファールはそれを拭うこともせず、男をじっと見た。
「でも今ここで治療を止めて、あなたが死んだら、その大切な人は誰かのものになりますよ」
「――んだとッ!」
 男は今度こそレクティファールを跳ね飛ばす勢いで暴れ始めた。
 それを必死に押さえ込み、レクティファールは続ける。相手は怪我人だ。力を入れすぎないよう、細心の注意を払う。
「その人がどれだけあなたを想っていても、死んだあなたはもう過去にしかなれない。未来のその人をどうこうすることは許されないことでしょう」
 そうだ、死者が生者に干渉することはあってはならない。生者は死者を乗り越えることはできても、死者に引き摺られるようなことは許されない。
「だ、だからって、腕なけりゃ畑だって耕せない! あいつにおぶさって生きて行けってのか!」
 男は最早涙目に近かった。
 だが、その言葉は先ほどまでの勇ましさとは反対に、酷く女々しいものだった。
 それが、何故かレクティファールの癇に障った。あの平原で見た骸が、男の顔に重なって見えた。
 更に、いつかの自分にも重なって見えた。メリエラを泣かせてしまった、あの頃の自分だ。
 それに気付けば、レクティファールの腹の底に煮え滾る感情が現れた。この男は自分と同じ過ちを繰り返そうとしている。
「――だったら、おぶさる前に、その左手で彼女を守り抜けよこの莫迦野郎!」
 レクティファールは、この世界に来て初めて怒鳴り声を上げた。
 あの聖都での会談でさえ、ここまでの怒りは感じなかった。
「右手だけだ! 全身腐ってないだろう! 外を見てみなさい! 全身腐って骨晒して、あの中の何人かはきっとお前と同じ気持ちだったはずだ! きっと大事な人が居た! 全身全霊で守りたい人が居たはずだ! それをあなたは右手一本無くしただけで子どもみたいに! それでも文句があるなら私の右腕持って行きなさい! それで手術を受けるなら、今ここで私は右手斬り落とします」
「お、お前……」
 なんて莫迦な奴なんだ。
 男はぽかんとレクティファールを見上げた。
 周りを見れば、二人の女医が自分と同じような表情で男を見ていた。
「さあ! どうしますか!」
 レクティファールはいつの間にか〈皇剣〉をその手に握っていた。いつそれを握ったのか、憶えていない。だが、レクティファールはそれを自分の右肩に当てており、彼が頷けば一瞬でそれを振り下ろすだろう。
 二人の女性が固唾を飲んで見守る中で、男はレクティファールと睨み合った。
 自分の腕には、この莫迦な青年の右手と同じだけの価値があるだろうか。
 自分は腐りかけたこの腕に、どういった意味を与えられるのだろうか。
「――――」
 彼は、震える瞼で目を閉じた。
「いいよ、そこまでやらなくても……」
 ああ、畜生。莫迦に諭されて右手おじゃんだ。
 でも、左手一本あれば、あいつを抱き締められるよな。
「やってくれ、先生」
 左手あれば、あいつの涙ぐらい拭えるよな。
 フォスはたった一本残った左手に、これからの残りの生涯総てを賭ける覚悟を決めた。
 もう逃げ道はない。そう自分に言い聞かせて。

 男の手術はほんの二時間程度で終わった。
 レクティファールは魔法を駆使した手術というものは初めて見たが、彼が僅かに記憶している手術の方法よりも確実な方法かもしれないと考えた。
 ただし、手術中のレクティファールは専門用語の嵐に〈皇剣〉という裏技で対応するのが精一杯で、手術の詳しい方法についてはあまり理解できなかった。
 手術が終わって眠ったままの男を手術室外の寝台まで運ぶと、レクティファールはフェリエルとファリエルにもういいから出て行けと言われ――現在、天幕の外で大絶賛自己嫌悪中だった。
「おお……」
 頭を抱え、地面に置かれた木箱に座って呻く男。
 はっきり言って場所的にあまりよろしくない。
 布一枚挟んだ向こう側でお世話にならないといけない人のように見える。
「うおおお……」
 レクティファールは大いに自己嫌悪中だったが、その理由はそれなりに真っ当なものだった。
 あの男対して言った言葉は、そのままレクティファール自身にも言えることだからだ。
 大切な人を放り出して、一人で勝手に悩んでいた。まず、彼女にこの気持ちを伝えるべきだった。あの心優しき龍の娘は、きっとレクティファールが頼れば喜んでそれに応えてくれただろう。
 一人で勝手に悩むということが、騎龍という生涯の伴侶であるメリエラに対しての裏切りだと、レクティファールはようやく気付いた。
「ああ、メリエラとリリシアとアリアとウィリィアさんの顔、見れないかもしれない……」
 彼が守らなくてはならない女はいつの間にか倍の数になっていたが、今回の戦場であの骸を見たときにはもう、彼女たちの存在は頭の片隅に追いやられていた。
 あの戦場独特の空気に当てられていたのかもしれないが、レクティファール自身にとって守るべきものと、摂政として守るべきもが混ざり合っていたのは確かだ。
〈皇剣〉から流れ込んでくる皇としての責務とやらに精神が圧迫され、同じ戦場で自分を守って戦ってくれたメリエラを放置してしまった。
 さらにはあの男への言葉の稚拙さ。
 まるで子どもの道理ではないか。
 あれだけカールに守りたい人だと言い切ったメリエラたちのことを忘れ、真剣に誰かを守りたいと思っていた男を罵った。
「おぉう……」
 横に積んであった木箱にがんがんと頭をぶつける程度に、レクティファールは自己嫌悪に陥った。
 これでは先が思いやられる。
 彼は真剣に自分の態度を恥じていた。
「あああ……」
 レクティファールはしばらく頭をぶつけ続けた。
「お疲れぇ、お茶飲む……って何やってんのあんた!?」
「莫迦じゃないのか! 野戦病院来て怪我する奴がどこにいる!?」
 フェリエルとファリエルが磁碗を持ってやって来たが、しかし二人はレクティファールの奇行に目を剥いて驚くと、すぐにその身体を羽交い締めにした。
「うあぁ……私は莫迦だぁ……」
「莫迦なのは確かだけど!」
「それを理由に怪我するな大莫迦者!」
 二人に連行され、レクティファールは再び天幕内に引き摺り込まれた。

◇ ◇ ◇

 黒龍公というと、人々はその力強い龍の姿を想像する。
 過去には人間種の軍をたった一頭で殲滅したこともある。皇都の北方に領地を持っていることから、北から攻め寄せる他国軍を相手にすることが多かったのだ。
 それだけに北の人間種が黒龍の一族を恐れる風潮も強く、彼らのつくる物語の敵役として登場することも多い。
 しかし、皇国内から見れば、黒龍公の一族というのはあまり馴染みのある一族ではない。彼らは城に引き篭もり、あまり外に出てこなかったからだ。
 数少ない例外といえば黒龍姫として皇王の妃となった者たちだが、彼女たちの中で黒龍公の直系だったのは初代皇王の妃となった一人だけだ。初代黒龍公の妹で、黒い髪を持つ美しい女性だったという。
 時代が移り、第十代皇王レクティファールの妃として再び黒龍公直系の女性が人々の前に姿を見せた。黒い髪と白い肌。浮世離れした静謐な表情と相まって、人々は彼女を「黒い髪の人形妃」と呼んだ。
 ただ、レクティファールと初めて出会った黒龍公の直系は、言うまでもなく当時の黒龍公だ。
 黒龍公アナスターシャ。
 娘とよく似た容姿を持つその女性は、皇都奪還戦にて当時摂政位に就いたレクティファールに協力し、後も様々な形で彼に力を貸した。
 その関係について、最近になって興味深い情報が発見された。
 当時黒龍宮の近くで麦麺の屋台を開いていた男性の日記が新聞社に持ち込まれ、そこに登場する兄妹が若き日の皇王レクティファールとアナスターシャではないかと言われているのだ。
 兄妹は「蒼い髪を持つ青年」と「黒い髪の少女」であり、男性はその正体をすでに知っており、日記の中で「またあの二人が店に来た。大方甘いものの好きな妹君が兄君を引っ張り出したのだろう。本当に困ったものだ。あの二人が来たことが分かると、城から色々小言を言われる。もう少し上手く抜け出してくれないものか」と綴っている。
 この日記の日付からすると、妹の方が皇王レクティファールの妃である皇妃オリガである可能性はほぼない。彼女は親善大使として他国へと赴いており、国内にいなかった。そして、皇王レクティファールがニーズヘッグの皇立企業工場の視察に訪れていた日付と日記の日付は一致しており、その正体について推測することはそう難しいものではない。
 なにより、黒龍公アナスターシャともっとも近い男性と言えば、その娘婿であるレクティファールを挙げるのが自然であろう。
 この二人の関係を、皇王レクティファールと蒼龍公マリアのものと同じだとする説も多いのだ。それが事実であるかどうかは別にしても、二人の関係が良好であったことは間違いない。
 同じ人物の別の日記には、「今日は三人で店に来た。店の前の長椅子で、彼の両隣に座ってうちの麦麺を頬張るその姿は、まるで双子だ。彼が片方の頬についた屑を取ってやれば、もう片方が彼に自分の頬を差し出し、それを見たもう片方が彼に麦麺を差し出して一口それを与えれば、もう片方が同じことをする。あの三人は目立ちすぎる。今度城に言って、三人が来るときは事前に知らせてもらおう。長椅子を店の裏に移せば、人の目は多少減らせるだろう」とあった。
 英雄と讃えられる人物の、日常の一幕。それは浩瀚(こうかん)なる皇国史のいかなる頁にも存在しない、行と行の間を埋める挿話だったのだろう。

         ◇ ◇ ◇

 黒龍宮(オブシディアン・パレス)。言うまでもなく、黒龍公ニーズヘッグ公爵の居城である。
 岩山を造成して造られた土台の上に金属の光沢で覆われた城が屹立している光景は、他国からも見物客が訪れるほど珍しいものだ。
 土台となっている岩山から発掘された建造物をそのまま城にしたというこの城の歴史は、この城に至る上り道に立ててあった観光客のための立て看板に記してあった。確かに黒龍宮は皇国のどの建築様式にも当て嵌まらず、まるで別世界の建築物のように見える。
 唯一、隣国イズモ神州連合の空中戦艦〈天照〉の情報領域に似たような構造物の記録が残っていたが、それは「軌道塔」と呼ばれる天に浮かぶ城であり、地面の上にあるものではないという。
 そんな城を見ながら魔動車に揺られ、事前の連絡通りに黒龍宮へと赴いた四人は、そこでニーズヘッグ公爵家の家臣団に出迎えられた。
「ようこそいらっしゃいました」
 そう口を揃えて一糸乱れぬ動きで一礼する家臣団に、レクティファールは鷹揚に礼を述べる。
 こういった者たちに対しては、むしろそれ相応の態度で臨むのが礼儀であると、前もってメリエラに注意されていたのだった。
「ご苦労。この度の招き、痛み入る」
「はは」
 家臣団の中央に立ち、レクティファールと言葉を交わしている人物が、ニーズヘッグ公爵家の家宰であるリヴェイラー伯爵。岩窟小人らしい短躯に枯茶色の深く硬い髭。眉毛も長く、その瞳を伺うことはできない。どの程度の能力を持っているのかは、その姿からはまるで分からなかった。
 しかしその実、このリヴェイラー伯爵こそが実質的に黒龍公の領地を切り回しているのだとレクティファールは知っていた。
 領地経営にあまり興味を示さなかった歴代黒龍公。それでも与えられた以上、領地は発展させなくてはならない。
 そのために一族が選んだ方法が、皇国随一の官僚家臣団を作り上げることだった。
 黒龍公の一族は城下に学校を建て、各地から優秀な人材を集めた。ときには他国からも人を招き、その知識や知恵を後進に継承させていった。
 リヴェイラー伯爵も、もとは鉱山で働く鉱夫の息子であった。
 鉱夫として生きることの苦労を知っていた彼の父親は、公立の中等学校を卒業した息子を黒龍公が運営する私学校に入れた。そこで官僚になるための知識や技能を仕込まれ、それなりに優秀な成績を修めたリヴェイラー伯爵は晴れて黒龍公の家臣団の末席に加えられることになる。
 それから既に二〇〇年。リヴェイラー伯爵はニーズヘッグ公爵領の発展に大きく寄与し、その功績でもって伯爵の爵位を与えられていた。ただし、本人の申し出によって領地は与えられていない。ニーズヘッグ公爵家から膨大な俸給を得て、それによって家を維持している。
 とどのつまり、ニーズヘッグ公爵家とリヴェイラー伯爵家は運命共同体であった。公爵領が栄えれば伯爵家も栄え、公爵領が貧困に喘ぐことになれば、伯爵家も青息吐息となる。
「アナスターシャは」
「はい、お館さまは……」
 リヴェイラー伯爵は、その深い髭に埋まった口をもごもごと動かし、意味のない音を連ねた。
 その音を一つ一つ繋いでいけば、どうやらアナスターシャはレクティファール出迎えを放棄して何処かで読書をしているらしい。
 家のことは総てリヴェイラー伯爵に任せているとはいえ、客人の出迎えまで任せきりだとは、流石のレクティファールも予想だにしなかった。
 ただ、ニーズヘッグ公爵家が未だ皇王家から独立した状態にあること、この訪問が非公式のものであることを鑑みれば、アナスターシャの行動をレクティファールが責めることは難しい。
 レクティファールとリヴェイラー伯爵は何とも言い難い沈黙に陥った。それを打破したのは、殊更明るい声でレクティファールの名を呼んだメリエラだった。
「レクト、お庭を見せていただいたら?」
 この城にしかない草花もあるし――メリエラの提案は、単にこの場を切り抜けるためだけのものではなかった。
 レクティファールが庭を散策している間にリヴェイラー伯爵たちが歓待の準備を整え、アナスターシャが戻ってくればそれで万事丸く収まる。ある種の時間稼ぎを、メリエラは提案してきたのだ。
「――そうさせてもらっても?」
 レクティファールの問いに、リヴェイラー伯爵たちが否と答えられるはずもなかった。

 黒龍宮の庭と一口に言っても、それは城の中央構造物から四方に伸びる空中回廊で区切られた四つの庭を、一纏めに呼称しているに過ぎない。
 それぞれ別の庭師が手掛けたという庭は、四季それぞれにもっとも美しく彩られるよう造られているという。
 今もっとも美しいのは南西の庭だとリヴェイラー伯爵に勧められたレクティファールだが、彼はその南西の庭をあっさりと通り過ぎ、その隣の北西の庭に足を踏み入れた。
 既に過ぎ去った夏に一際輝くとされる北西の庭は、レクティファールにはほんの少しだけ夏の匂いを残しているように見えた。
「ひとりで見て回りたいのだが」
 と、リヴェイラー伯爵が付けた執事に告げれば、執事は「かしこまりました」と一言告げてその場に留まった。
 おそらく荒事専門の使用人が周辺に隠れているのだろうな、と思いながら、レクティファールは散策を始める。
「秋も深まり冬が近くなれば、そりゃ夏の草花は眠りますよねぇ」
 ほとんどの庭木は赤や茶に染まり、葉が既に落ちているものも多い。
 中には小動物や鳥に果実を提供している木もあったが、全体的に見ればそういった樹木は少ないように見えた。すでに庭師が手を入れ、冬の準備を進めているのかもしれない。
 もしかしたら仕事の邪魔をしたのかな、と独り言ち、レクティファールは遊歩道を進む。
 周囲を囲む黒龍宮の壁は、どれも鈍い金属に似た光沢を放っている。屋根には太陽光を反射するための巨大な鏡がいくつも屹立し、この壁に囲まれた庭にも草木の生育に必要な分の陽の光が差し込むようになっているようだ。
 黒龍公が居を構えたあとも、この城には遺構としての黒龍宮を研究する者たちが残っていたらしい。それらの研究者が残したものが、この城にはいくつもある。
 屋根の上の鏡や現行のものとは別基軸の通信用送受枝。城の地下の都市魔導炉から街中に張り巡らされた伝送路も、他の都市のものとは別の設計思想で造られたものだ。
 研究者はこれらの品を、総て「黒龍宮の遺産」と呼んでいた。
 この城を調べていくうちに明らかになった技術を用いたもので、本来はこの世界で広く普及している魔法技術を前提に運用するものではないという。
 まるで別世界の遺物だという品々は、今では目新しいものではなくなった。二千年の間に機能が解明され、各方面に転用され尽くしたのである。
 ただ、遠い将来、これらの品々が再び意味を持つことは、研究者たちのある種の確信であった。
 研究者たちの言葉を受けた歴代の黒龍公は、この城とこの城の持つ価値が失われるまで、それを守り続けることを家訓とした。
 レクティファールは〈皇剣〉から次々と飛び出してくるそれらの情報を眺めながら、庭の中をふらふらと漂う。
 壁に「Caution」という“模様”を見付けては首を傾げ、壁に埋め込まれた、明らかに人が通るには大きすぎる扉らしき枠を見て感嘆の声を上げた。
 二千年間一度も補修作業を受けたことがないという鈍色の壁を見上げ、それらの下に屯する草木を眺めながら、レクティファールの散策は続く。
 そうして半時間ほど庭を回っただろうか、レクティファールはそろそろ次の庭に移ろうかと考え始めた。きっと先ほどの執事は、そのまま別れた場所で待っているだろう。
 レクティファールはその場で身を翻し、一歩踏み出した。
 そのときだ。
「――だめ」
 ひとつ植え込みを越えた向こうから、聞いたことがある声が聞こえた。
 静かな、抑揚のない、しかし澄んだ声。
「アナスターシャ?」
 行方不明と言われていたニーズヘッグ公爵家現当主の声だった。

 レクティファールは植え込みの向こうに何もないことを確認すると、軽い挙動でそれを飛び越えた。
 上着の裾がひらりと舞い上がり、編み上げの軍靴が色褪せた芝にめり込む。
 身体の姿勢制御機構に問題がないことを確認し、レクティファールはゆっくりと立ち上がった。
「――いらっしゃい」
 顔を上げれば、そこには予想通りアナスターシャの無表情。
 美しい面立ちであるからこそ、どこか人形じみた印象を受ける白皙があった。
「お邪魔しています。アナスターシャ」
「ううん、迎え……」
 一応、出迎えをしなかったことは気にしているらしい。
 おそらく、約束の時間になったことに気付かなかったのだろう。
「いえ、リヴェイラー伯爵が出迎えてくれたので」
「そう……」
 アナスターシャはそう呟くと、レクティファールから視線を外した。
 人によっては無愛想な態度と怒りを覚えるかもしれない態度だが、レクティファールにしてみれば見慣れたものでしかない。
 付き合いは決して長くないが、アナスターシャが誰に対しても同じ態度であることは既に理解していた。
「アナスターシャはここで何を?」
「――ターシャ」
 レクティファールの問いに、少しむっとしたような声で答えるアナスターシャ。
 どうやら愛称で呼ばないことに不満があるらしい。
 レクティファールはアナスターシャの様子に苦笑いを浮かべ、もう一度同じ質問をすることにした。
「ターシャはここで何を?」
「この子と、遊んでいた」
 アナスターシャはそういって、膝に乗せていた小さな生き物を抱え上げた。
 真っ黒い毛むくじゃらの生き物は、その黄色い瞳をレクティファールに向け、にゃあと鳴いた。
「――猫?」
「ううん、雪豹。子どもだから、まだ冬毛にならない」
 アナスターシャは雪豹の子どもを膝の上に下ろすと、その顎の下を撫で回す。
 子豹はにゃあにゃあとその指にじゃれついていたが、アナスターシャは無表情で楽しいのかどうかさっぱり分からない。
 アナスターシャの服装は、太腿の内側が露になった会談のときと似た衣裳だ。黒い合成皮革の薄穿きは、その細い太腿を強調するばかりで、あまり防寒性はないように思えた。実際は、大貴族の衣裳に相応しい防寒機能に優れた合成皮革なのだろうが。
「楽しいですか?」
「――普通」
 あまりにも無表情だったので、レクティファールは思わずそう訪ねてしまった。
 答えは素っ気ないものだったが、ずっと続けていることから察するに、それなりに楽しんでいるようだ。
「何故、ターシャがこの子を?」
「拾った」
 即答だ。
 レクティファールは雪豹について〈皇剣〉の情報域を走査し、表層に近いところにあった情報を引っ張り出した。
 どうやら雪豹は、ニーズヘッグ公爵領の中にある山で暮らしているらしい。その山は公爵家の私有地になっていて、部外者は立ち入ることができないという。
 何故そのようなことになったのかといえば、直接の原因は雪豹の毛皮が一時期非常に高値で取引され、乱獲が進んだことだろう。
 雪豹は体内に魔力を取り込んで全く別の波長を持つ魔力――微細な小精霊が好む波長の魔力――に変換し、発散する性質を持っており、生態系を維持する一端を担っていた。
 雪豹が肉食の小動物を捕食し、その数を維持することで他の動植物の生育を守っていたのである。
 しかし雪豹が減ったことで肉食小動物の数が増え、山の生態系が崩れ始めた。その山にはそこにしか生育しない薬草もあり、ニーズヘッグ公爵家はその売買で利益を得ていた。なにより、その薬草は国内で流通する複数の薬品の原料として重要なもので、それが減少することは市場への影響が無視できないほどに大きかった。
 ニーズヘッグ公爵家はその地を自らの管理地とし、それを維持する道を選んだ。それによって密猟者は減ったが、雪豹の数はそう簡単には増えなかった。
 今でも公爵家は雪豹の保護を行なっており、何らかの事情で親豹が育児を放棄した子豹を人工的に保育しているという。
 おそらく、アナスターシャが構っている子豹も、そのうちの一頭なのだろう。なぜ当主が直々に相手をしているかは不明だが。
「可愛いですか?」
 レクティファールは腹を見せてはしゃぐ子豹を覗き込みながら、訊いた。突然視界に割り込んできたレクティファールに、子豹は興味を唆られたらしい。動きを止め、じっとその面上を見据えている。
 縦に裂けた瞳は、どこか龍眼にも似ていた。
「うん」
 一言だけ答え、アナスターシャは子豹の腹を撫でる。
 にあ、と子豹が鳴き、細い細い爪をアナスターシャの肌に突き立てた。
 柔らかい爪は、龍族の皮膚を傷付けることはできない。アナスターシャは爪を立てる子豹にも表情を変えず、子豹のしたいようにさせている。それはまるで姿形の違う姉弟か姉妹が戯れているようで、レクティファールの笑みを誘った。
 アナスターシャと黒い髪と、子豹の黒い毛皮は同じ光沢を持っていた。
 艶やかで、撫でるととても気持ちがよさそうだ。
「撫でてもいいですか?」
 だから、レクティファールの口からはそんな言葉が出てきた。
 特に意識したわけでもなく、無意識に発せられた言葉だった。
「――?」
 アナスターシャはレクティファールの言葉に小さく首を傾げ、「猫好き?」と訊く。レクティファールは曖昧な笑みを浮かべ、「可愛らしいものは好きです」と答えた。彼にとっては、会心の答えだった。
「――そう」
 アナスターシャは子豹の両脇を抱えると、それをレクティファールに差し出した。
「ん」
 ぐい、と押し出される子豹。きょとんとした顔でレクティファールを見上げ、一つ、にゃあと鳴いた。
 レクティファールは「じゃあ、失礼して」と一言断り、腕を伸ばす。
 子豹は目の前に広げられたレクティファールの手のひらをじっと見詰め、その動きを追った。
 正面から斜め上前方、そして頭上に。子豹が追えたのは、そこまでだった。
「――何?」
 なにせ、レクティファールの手のひらは子豹の頭上をさらに通過し、アナスターシャの頭に着地したのである。着地の瞬間にアナスターシャの跳ね毛がぴくりと反応したように見えたが、髪房が勝手に動くはずはない。
 アナスターシャは自分の頭を撫でるレクティファールを真っ直ぐじいっと見詰め、その理由と意図を質問してきた。
「いえ、可愛いものは撫でたくなるのが人情ですし、許可は取りましたし」
 あまりにも慣れない――その立場を考えれば当然だが――感触に、アナスターシャは目を細める。
 慣れてはいないが、不快ではない。
「――ん」
 むしろ、懐かしく心地の良い感触だと思えた。
 アナスターシャは子豹を胸に抱きかかえると、目を瞑ってレクティファールの手のひらの感触を確かめる。
 まだ子どもだった頃、父母にそうしてもらった記憶はある。
 ただ、それは龍族の長い生涯から見れば、ほんの僅かな時間でしかない。アナスターシャの母はこういった遣り取りにはあまり興味を示さず、父はアナスターシャが自分と同じように知的興味を優先するようになると、彼女に触れることをやめてしまった。
 知的興味の赴くままに自分の世界を作り上げ、そこに篭ってしまったアナスターシャにも責任はあるのだろう。彼女の娘も、同じように育っているのだから、黒龍公の一族にはそういう血の宿命があるのかもしれない。
 そのまま両親との距離が開いたまま、数十年が過ぎた。
 両親はいつの間にか一人減り、母だけになっていた。
 その頃にはもう、アナスターシャは誰かに甘えるということを忘れていた。そしてそのまま旅に出て、娘を授かった。
「――まだ撫でる?」
 そう考えれば、頭を撫でられるのは何百年ぶりのことだろう。
 少なくとも、すぐに思い出せるほど近い過去ではなかった。
「どうしましょうね」
 そう言っている間も、レクティファールの手は止まらない。
 アナスターシャの髪を梳いたかと思うと、耳を摩り、額を撫でる。
 レクティファールの体温を感じ、アナスターシャは密かに困惑した。
 どういう風に対処すればいいのか、まったく分からなかった。
「――そろそろ夕食」
 辛うじてそう言ったものの、強く拒否することはしない。
 レクティファールはアナスターシャの言葉に一瞬考える素振りを見せたものの、すぐに手の動きを再開した。
「まだ大丈夫でしょう。用意が済めば、誰かが呼びに来る」
 アナスターシャはともかく、レクティファールの所在ははっきりしている。用意が済めば、誰かしら声を掛けてくるだろう。
「でも……」
 彼女にしては珍しく、少し困ったように眉を歪めてアナスターシャは言う。
「あまり長く席を空けると、メリエラが怒る」
 レクティファールの動きが、今度こそ停止する。そしてかたかたと震え始め、嫌な汗が額を伝う。
「どうしたの?」
 アナスターシャが小首を傾げれば、レクティファールの代わりに別の声がそれに答えた。
「――レクト。アナスターシャ様のような女性が好みだった?」
 レクティファールの背後、庭木の影から現れる白龍の姫君。
 その額にはそれと分かる青筋が浮かび上がり、浮かべた笑顔は引き攣っていた。
「いえ、けっしてそういう訳では……」
 レクティファールは辛うじてそうとだけ答えた。
 しかし、その言葉に反応したのはメリエラではなく、アナスターシャだ。
「――嫌い、なの?」
 無表情でありながら、しかし哀しそうな瞳。
 気のせいだと思い、それでもレクティファールには頷くことができなかった。
「いえ、そんなまさか……」
 何とか笑顔を浮かべて、レクティファールはアナスターシャの頭を撫でる。
 おかしい、何故こんな状況になっているのだと彼の中の〈皇剣〉が凄まじい勢いで演算を開始した。
 その答えが出るまでに、彼の背にしなだれかかる柔らかい身体。
「レクト」
 首筋に掛かる吐息は何とも婀娜(あだ)っぽく、身体に回された腕は熱を帯びているように思えた。
「愛でるなら、まず誰から愛でるべきかしら?」
 レクティファールに、答えを選択する余地などあろうはずもなかった。

◇ ◇ ◇

『龍虎戦役』
 言うまでもなく、皇王レクティファールと戦狂姫グロリエが初めて刃を交えた戦いである。
 投入された戦力は最終的に両軍合わせて五〇万ほどと言われ、当時の戦役としては頭一つ抜きん出た数字だ。
 要害〈パラティオン〉を攻略するために西方戦線より移動してきたグロリエと、内乱を集結させて急遽北上したレクティファール。
 その二人を描いた物語は多く、その中でもっとも人々に愛されているのは、当時帝国軍に従軍していた記者が戦後に記した「輝ける姫君」であろう。
 グロリエの誕生から軍での栄達。運命の一戦となる龍虎戦役。そしてその後の彼女の人生を事細かに書き綴ったその物語は、幾度も映像化されて人々を魅了した。
 最近では、グロリエの子孫である女性が女優としてその役を務めたことで話題になった。
 すでに市井の一市民であった彼女であるが、家に遺されていたグロリエの手記などを熟読し、その役になりきったらしい。
 彼女は会見の席上で、グロリエについて問われた際、こう答えている。

「グロリエは、あの時代あの場所で生まれたことに運命を感じていました。だからこそ、彼女は今も人々の心に生き続けられるほどに輝いていたのだと思います」

         ◇ ◇ ◇


「――南の頭目が要塞に入ったか」
「は、空軍の偵察騎が確認しました」
 皇国〈パラティオン要塞〉を望む帝国軍陣地、その中央付近にその天幕はあった。
 彼らの言葉をそのまま使うなら――〈大アルマダ帝国〉東部辺境領鎮定軍総司令官、帝国第十三皇女グロリエ・デル・アルマダの座する大本営である。
 その大本営の主、帝国の戦狂姫は部下の報告を聞くと居並ぶ鎮定軍諸将の前で嫣然と笑った。
 豪奢な朱金色の長髪を掻き上げ、金糸で飾られた紅色の軍服の筒袴から伸びる長い足を組み直す。
 その女としての自らを晒す行為を指して、彼女を知る男たちは言う。意識して行なっているならば、稀代の悪女。無意識に行なっているのであれば、最悪の童女、と。
「ふん、面白くなってきたな」
 グロリエは心底嬉しそうに頬杖をつき、笑う。侍従に葡萄酒を用意させ、それを一口嚥下した。
 唇に残った酒を舐め取ると、彼女は諸将の顔を見渡して口を開いた。
「新たに摂政となった男、連合を鎧袖一触蹴散らしたと聞いている。しかも、しかもだ。概念兵器の力を一切使わず、自ら手を下さず、だ。貴様らの中で同じことができる者は、一体何人いるか」
 グロリエは言葉こそ痛烈であったが、その表情は酷く楽しげだ。
 自分よりも遙かに年上の軍人たちを前にして、遠慮というものが一切無い。
 グロリエ自身は帝国元帥の階級を持っているから、それも当然と言えるのかもしれないが、しかし年齢という追い越しようがない要素はどこの組織でも見えざる壁になっているのが常だ。特に単一種族国家と言って過言ではない帝国では、年功序列という官僚的思考が帝国軍を始めとした多くの組織に根付いている。
 そんな中でグロリエが帝国元帥というたった八つしかない席の一つを占めることができた理由。
 どうということはない、帝族で、戦功に恵まれたからだ。
 皇国とは別方面――西方戦線で有翼人、獣人などの亜人種国家を相手に連戦連勝し、帝国の版図を大きく広げた立役者が彼女だった。
 帝族である故に、というよりも彼女の持つ特性故にそれだけの戦功を得ることができたのだが、結果が総てだ。元々の生まれが特殊なだけに彼女の存在を疎んでいる大貴族や有力な官僚は多いのだが、父である帝王が何よりもグロリエを気に入っていた。
 帝王は娘の望むまま、欲しがっていた玩具を与えるように精兵を与え、手習いの師を付けるように有能な軍人を侍らせた。
 彼女はそんな父に対し、子供が学校の試験の満点の答案を見せるように、自らが築いた夥しい死山血河を示した。
「ふふ……ああ……心躍るじゃないか、西の亜人どもとの戦を取り上げられて腹が立っていたが、あの“オモチャ”といい南の摂政といい、東も捨てたものじゃないな」
 ぺろりと舌なめずりする皇女の艶に、将たちの何人かが居心地悪げに身動ぎした。
 意識の中で穢すにはあまりにも鮮烈で、強過ぎた。
 現帝王の子のうち、帝位継承権を持つ者は三七名。
 グロリエは帝位継承権二四位。しかし、軍に於いてもっとも栄達している帝族の一人だった。
 もう一人、帝位継承権第四位、第四皇子バレストローラ・フェルド・アルマダが帝国元帥の座にあるが、軍としてはその二人どちらかに帝位を継承して貰いたいと考えていた。
 皇国に比して良くも悪くも官僚的である帝国軍は、専制者――帝王に擦り寄ることで自らの持つ力を守ろうとする。帝王の傍に侍る侍従武官は両手の指ではとても足りない数だし、何より帝国軍で栄達できるのは大貴族の一族出身者か帝王の寵臣かの二通りしかない。現帝王は優れた才覚を持つ者を愛し、厚遇する男だった。
 自然、何処の軍部隊でも軍に属する帝族は小さな帝王として最上の扱いを受けることになるのだ。
 特にグロリエは現帝王の大のお気に入り。今年二十歳になった娘の伴侶となる者を未だ探す気配すら見せないのは、それだけ現帝王のグロリエに対する愛情が深い証拠だった。
 軍としては、そんなグロリエの機嫌を取ることはしても、わざわざ勘気に触れるような真似はしたくない。
 その軍の意向に忠実な諸将は、誰もグロリエに反抗しようとはしなかった。
「さて、“オモチャ”の方はどうだ?」
 グロリエは楽しそうな表情を変えないまま、将たちに問い掛ける。
 今日の姫君は機嫌が良い――ほとんどの将がそれに気付き、自分という存在をグロリエに印象付けようと動き始めた。
「遅れていた装填装置の部品が到着致しましたので、あと一週間もあれば完成いたします。数日程度試運転を行うとしても、一〇日後には殿下お望みの結果を出してくれましょう」
 グロリエのすぐ下座に座っていた男が愛想笑いを浮かべながら請け負う。東進してきたグロリエの指揮下に入るまでは〈パラティオン要塞〉攻略部隊の指揮官を務めていた帝国陸軍大将だ。
 凡愚ではないが、これといって傑出した能力があるわけでもない秀才型貴族軍人の典型と言える。ただし帝国軍人の特徴の一つとして、彼らは決して軍事的無能ではなかった。間違いなくその職分を果たせるだけの能力は持ち合わせているのだ。逆に言えば、それ以上の能力はないとも言えるのだが。
「〈雷霆〉の発射まで、叛徒どもにこちらの動きを気取らせないよう徹底的に要塞に攻撃を加える必要があります。引き続き第三軍、第四軍に要塞を攻めさせる予定です」
 第三軍、第四軍は元々彼の指揮下にあった軍だ。
 総数十二万程度の実力部隊だった彼らは、グロリエが現れる頃には一〇万にまでその数を減らしていた。
 通常であれば援軍が到着した時点で後方へ移動、再編成を行うものだが、彼は自分の持ち駒を最大限グロリエの歓心を得るために投資した。そしてその投資は、これまでのところ成功している。
 彼ら一〇万の将兵は要塞の北に配された各堡塁、砲塁に対してその身を砲弾として突撃を繰り返し、間違いなくその力を奪いつつあった。その当然の帰結として、両軍の兵力は実に八〇〇〇〇程度にまで減っているのだが、大将はここで攻撃の手を緩めればパラティオン要塞側に堡塁群の補修と兵力再編の機会を与えるだけだと判断し、必要なだけの増援と補給を送りながら引き続き鉄血の消費を両軍に強いていた。
 それだけの損害を出しながら彼が無能者扱いされない理由は、帝国軍の企図する本格攻勢は未だ実行されていないという点にある。
 グロリエ率いる帝国軍第三軍集団はその数二十六万の大軍勢だが、西方戦線から移動してきた彼らの本来の目的はパラティオン要塞を攻めることではない。彼らの目的は、南方辺境領と彼らが呼ぶ皇国本土を蹂躙することだ。
 皇王――概念兵器という帝国にとって最大の恐怖の不在という、まさに千載一遇の好機に、帝国はその最強戦力と言える第三軍集団を西方戦線より引き抜き、東方戦線と呼ばれる対皇国戦線に投入した。
 その際に対パラティオン要塞攻略の切り札として用意されたのが、通称〈雷霆〉と呼ばれる秘匿兵器だった。
 〈雷霆〉は帝王からグロリエに預けられた。今は要塞を攻める帝国軍の後方で人員と物資を集積する拠点となっている要塞都市〈ウィルマグス〉近傍にあり、その力を発揮する機会を待ち続けているという。
 その〈雷霆〉の揺り篭となっている〈ウィルマグス〉は、〈パラティオン要塞〉に対抗するために帝国が建設した要塞都市だ。
 元々は獣人たちの街であった旧〈ウィルマグス〉は、帝国が興り、近郊に皇国との紛争地帯ができ上がることでその価値を高めた街だった。亜人種が住民の大半を占め元々皇国寄りだった旧〈ウィルマグス〉は帝国の手によって混凝土城壁、砲台、連絡壕などが次々と建設され、それらを要塞として機能させるために人間種が移り住んできた。
 元から住んでいた住民たちはどんどん都市の外側に追い遣られていき、今では街の外に集落を作って暮らしている。遊び半分で帝国兵に虐げられる亜人たちも多く、〈ウィルマグス〉は皇国にとって数ある未来の一つの姿としてそこに存在していた。
 二十五年前の紛争時、国境から三〇キロメイテルしか離れていない〈ウィルマグス〉を占領すべきと言う声もあった。
 虐げられる亜人種を救い、国境に新たな楔を打ち込むべきだというその声は、先代皇王の外交政策には合致せず、最終的には流れた。
 それから二十五年後、〈ウィルマグス〉は皇国を滅ぼす牙の巣と化している。
「元帥殿下におかれましては、要塞攻めは我らにお任せいただき、来るべき南進に備えていただきたいと考えております」
 大将はそう締めくくった。
 暗に「まだ手を出すな」と言われたに等しいが、グロリエが機嫌を損ねた様子はない。
「うむ、余としてはあの摂政と戦う機会さえあれば諸兄らの作戦に口を挟むような真似はしない」
 笑って、鷹揚に頷くだけだった。彼女とて大将の意図は理解している。しかし、部下の手柄を取り上げるような真似は望むところではなかった。臣下の功績を横取りするような者を、彼女は一等嫌っている。
 だが、そんな彼女の背後から、一人の女性の声が響いた。低くも高くもない、よく通る声だ。
「――お言葉ですが、殿下」
 諸将の視線が一人の女将に集中した。
 彼らの視線を受け止めたのは色素の抜けきった青灰色の髪を束ねた、人間種でいえば六〇前後の老女将だった。
 准将の階級章を付けた彼女は、自分に向けられる諸々の視線を一切歯牙に掛けることなくグロリエの横に立った。
「大将閣下の作戦では第三軍、第四軍双方の将兵に無駄な犠牲を強いるばかりです。時間を稼ぐならば別の方法もありましょう」
「その時間で叛徒共は要塞を修復し、堡塁を修理し、壕に溢れる兵士の死体を片付ける。あれらはひたすらに攻撃を重ねること以外に動きを拘束する術など無い!」
 大将の言葉は、確かに真実だ。
 パラティオン要塞はすぐ後背に自国国土があるという最終防衛戦。当然、要塞守備兵たちの士気は高く、粒揃いの精兵たちばかり。しかも要塞の守将はこれまで幾度も帝国の攻撃を凌ぎきってきた良将ガラハ・ド・ラグダナ。帝国側には、常に攻撃を行い相手の動きを制限するという行為を行っていなければ、湧き上がる恐怖に精神を侵されてしまうという現実もあった。
 帝国将兵にとっての皇国将兵というのは、人間種が他の種族に持つ劣等感をそのまま顕在化させたような存在だった。
 野戦に持ち込んでも、一人の皇国兵を殺す間に帝国兵は五人も六人も殺される。完全装備の帝国兵が手負いの皇国兵一人に一個小隊を献上した話など、皇国兵の恐ろしさを新兵に伝える話はこと欠かない。
 それは明確な数字としても表れ、帝国軍首脳部に拭いがたい恐怖として浸透していた。
「ですが、こちらも一度休戦を行う必要はあるでしょう。進軍用の壕は兵士たちの骸で埋まり用をなしていません。負傷兵が前線の壕で介抱されていれば、それだけ健康な兵士たちの隠れる場所が減るのです。大将閣下とてお分かりでしょう、時間を稼ぐには戦いも必要、されど休息も必要なのです」
 第三軍、第四軍とて無駄に負傷兵を抱えていれば動きも鈍る。ここで一度休戦を申し入れ、兵士たちを入れ替えなくては後々になって大きな代償を支払うことになるやもしれない。女将はそう言っているのだ。
 グロリエは女将の言葉に苦笑し、拗ねた子供のように唇を尖らせた。
「お婆さま、これは余の軍の軍議だぞ? お婆さまが奴らを説き伏せては余の立つ瀬がないではないか。我々の目的は大元帥陛下のご威光をあまねく大陸にもたらすこと、ここにいる諸将は皆分かっているさ」
「これは失礼を、殿下」
『お婆さま』というグロリエの言葉は、そのままの事実を示している。
 女将の名はカリーナ・ヴォル。グロリエの母、イレーヌ・デル・アルマダの実の母だった。
 カリーナは帝国軍にその人ありと言われた猛将で、〈龍殺し〉の血を受け継いでいる。その力で多くの龍族、竜種を血祭りに上げ、人間として認められない種族でありながら将軍にまで成り上がった女傑。帝国軍では非主流派に属する彼女だが、帝王に娘が輿入れしたことで一定の立場は保証され、小さいながらも自らの派閥も持っている。
 その娘こそ〈龍殺し〉の力はそれ程でもなかったが、孫娘は先祖返りと恐れられるほどの強大な力を持って生まれてきた。そのことも彼女の立場を補強することに繋がった。大きな力を持つ〈龍殺し〉は、それに対抗できるだけの力を持つ〈龍殺し〉にしか育てられないという覆しようのない事実が、カリーナをグロリエの傍へと置いている。
 だが、カリーナとしては孫娘が心配だという祖母としての気持ちもあった。
 〈龍殺し〉の力は龍種、竜種に対しては絶大だが、それ以外の上位――個体能力的に――種族に対しては前述の二種族に対するほどの優位は持っていない。
 元々が人間種を基にしているだけあって、〈龍殺し〉は絶対的な強者とはなれなかったのだ。
 カリーナはグロリエが自分の限界を知ってくれることを望んでいた。限界を知れば自然と退くことを憶え、次に繋げるという発想が生まれる。そうすれば無駄に命を浪費するような真似はしなくなるだろう。それは自分自身の生命だけではなく、自らの下に集う将兵たちの生命も含まれる。
 今のグロリエは戦場の最前線で剣を振るうことを楽しみにしている。
 自分の力が他者より優越しているという事実が、孫娘を増長させている――それが若さと相俟ってカリーナには危うく見えた。
「まあ良い。お婆さまの言葉もまた事実であろう。そしてここはディトリア兄上の王国、騒がしいのは申し訳ない――うん、だからこうしよう」
 その孫娘は、祖母の憂いなど少しも気付かぬままに笑顔で言った。
 子どものように、純粋に。
「休戦交渉と同時進行で一度、向こうの摂政と会おう。いつの間にか世界最強の力を“持たされた”男がどれ程の男か、この目で確かめてみたい」

◇ ◇ ◇

 リーデ・アーデン。しかし当時彼女を呼ぶときには、本人の名より、ガリアン・アーデンの娘と言った方が人々には通りが良かった。
 もっとも、それは本人にとって不本意なことだったらしい。
 当時の同僚の話では、父の話題を頑なまでに避けており、誰かがその名前を出すだけで不機嫌になったという。
 英雄の娘という立場に思う所があったのか、彼女はその評価を振り切るように士官学校と騎士学校を優秀な成績で卒業し、龍虎戦役当時は参謀大尉という階級だった。
 皇王レクティファールと出会ったのも、丁度その頃だ。
 要塞の参謀たちの中からレクティファール付きの参謀を一人選ぶことになったのだが、当時手の空いている参謀はリーデだけであった。単なる消去法――要塞司令官ガラハ・ド・ラグダナ中将の意向があったとの説もある――で選ばれたリーデであるが、その仕事ぶりについては高評価だった。
 そのまま参謀の道を歩んでいれば、おそらくどこかの総軍司令部で参謀長の任を負うまでになっただろう。それ以上については、些か柔軟性に欠けるという評価もあり、難しかったかもしれない。
 ただ確実に言えることは、リーデは参謀の道を途中で逸れたということだ。
 それでも退役時の階級は少将。役職は、皇国軍務院教育局相談役だった。
 後進の育成に力を注ぎ、彼女の名はそのまま、優れた軍教育者へと贈られる勲章の一つとして残っている。

         ◇ ◇ ◇

 レクティファールが要塞内を視察したいと言い出したのは、限定休戦の直前、あの会談が終わって要塞に戻ったときだ。
 ガラハたち幕僚はその希望に一瞬虚を突かれたようだが、すぐにその思惑を悟り、検討に入る。
 リーデは当初、レクティファールの要塞内の視察に反対していた。
 降って湧いた休息の間に兵士たちをできるだけ休めたいと考える彼女にしてみれば、レクティファールの行いは兵士たちに余計な心労を強いるだけのように見えたのだろう。
 しかし、〈パラティオン要塞〉は皇国軍の施設である。当然、その所有権はレクティファールにあり、彼が視察を希望するならリーデが反対したところでその決定を覆すことはできない。
 それに、視察の際に摂政が兵士を労うことでその士気を維持することもできる。相手がただの軍高官ではなく君主ともなれば、兵士たちも単なる面倒ごとと思うより、栄誉に浴する機会と捉えるだろう。
 レクティファールが皇都奪還戦で見せた軍司令官としての才覚、そして初陣を大勝利で飾ったという幸運。兵士たちは少しでも運のいい司令官の下で戦いたいと思っているのだ。レクティファールの幸運にあやかるという意味でも、視察は損ではない。
 ガラハは幕僚たちと相談し、レクティファールの視察を一日間だけ行うことを決めた。
「くれぐれも、余計なことをなさらないように」
 レクティファールに視察の予定を告げたリーデは、レクティファールの目には本職の教師に見えたという。
 そして視察本番、レクティファールはリーデとメリエラだけを伴って要塞内を回った。ぞろぞろと大勢で見て回れば、兵士たちも余計な疲れを溜め込んでしまうだろうというレクティファールとガラハの判断だ。
 ガラハは日頃から要塞の各部署に顔を出してその状況を把握しているし、自分がいてはレクティファールという本命の価値が下がってしまう。
 それならば少人数の信頼できる者だけを連れて視察に赴いてもらった方が、兵士たちとの距離も適度に近くなろうというものだ。
 要塞全体の案内はリーデが行うが、レクティファールが赴いた先それぞれの部署から人を出してもらえば、説明に不足はない。むしろ、参謀という夾雑物がない方が、現場の意見と空気を知るには良いという判断もあった。
 そうして実行されたレクティファールの視察は、リーデが思うほど兵士たちに疎まれることはなく、ガラハが思うよりも兵士たちの士気に良い影響を与えた。
 レクティファールは彼らと同じように作業衣を身に付けていたが、そのままでは他の兵士と見分けが付かないほどに馴染みきっていた。ある演算室では彼に背を向けて作業する兵士の背後に忍び寄り、他の兵士たちがお互いの口を抑えて笑いを噛み殺す中、その背中を撫で上げて兵士に絶叫を上げさせた。
 何をするのか怒鳴り声を上げて振り返った兵士。しかし振り返って目の前にいるのは摂政という訳のわからない状況に置かれて目を白黒させる兵士の手を握り、レクティファールは無理をし過ぎない程度に無理をしてくれと頼んだ。
 手を握られた兵士はぽかんと呆けていたが、続いてメリエラに同じように手を握られ、労いの言葉をかけられると、途端顔を真っ赤に染めて気絶した。
 他の部署でも同じように兵士たちに混じって騒ぎ、レクティファールの視察は視察というよりも見学に近かった。
 要塞地下の魔導炉室では主任技師の巨人族と腕相撲をし、要塞内を貫く輸送鉄道の貨物積卸場では獣人の士官と障害物徒競走。兵員食堂で量の異常に多い兵士用の昼食を用いて周囲を巻き込んだ早食い競争を行い、要塞砲台の管制室では機人族の女性士官に不用意に近付いてメリエラに尻を抓り上げられた。
 雲上人と思っていた摂政が自分たちと同じように笑う存在だと知り、兵士たちはレクティファールに親近感を抱く。
 それは初代皇王が独立戦争の頃に行っていた行動だと知っているのは、このときは誰もいなかった。
「いいなぁ殿下、メリエラ様美人で」
「あっはっは、羨ましいでしょう。皇都には他にも……」
「――うわぁ、羨ましい通り越して引っぱたきてぇ」
 屋上では照明灯を磨いていた若い兵士と雑談を交わし、共に照明灯の硝子を輝くまでに磨き上げる。
「殿下、それはこちらです」
「ううむ、なかなか難しいですね」
「ウン万人も兵士がいれば、郵便の量も半端じゃありません。でも、兵士たちにとっては大切な大切な家族や友人との繋がりです。少しでも早く届けてやりたいじゃないですか」
「そうですね」
 郵便集配所では要塞守備軍の兵士に送られてきた手紙の選別をし、その枚数に度肝を抜かれた。しかし、その一枚一枚が兵士たちにとって掛け替えのないものであると知り、神妙な顔で手紙を分けていた。
「殿下、結構上手いですね。摂政やめてうちで働きませんか? そこの新米よりかは役に立ちます」
「ちょ、主任! 俺だって真剣に……」
「塩と砂糖を間違える奴が実在してるとは思わなかったよアタシは、首にしなかっただけありがたいと思いな!」
「あざーっす!」
「――仲いいですねぇ」
「はは! どんな莫迦でグズでノロマでも、アタシにとっては弟と妹です。こいつらだけは絶対に死なせません」
 第八厨房では調理着に着替えて夕食作りを手伝った。
 直接前線に出ない部署でも、そこで働く者たちの中には死に対する明確な認識がある。それが、この要塞の強さなのだとレクティファールは理解した。
「いや、助かりました殿下」
「いえいえ、しかし荷揚げ車が故障するなんてついてないですね」
「ですなぁ、お陰でリーデ参謀には睨まれるし。きっと始末書もんです」
「それも仕事ということで」
「その通り、士官の仕事の半分は書類との戦いですよ。まあ、私が扱うのは国民みんなから私たちに送られてきた大切な贈り物です。苦労なんて思っちゃいません」
 物資保管庫では、輸送用魔動車に鉄箱を積む荷揚車が故障し、レクティファールが重力制御を使って荷を積んだ。
 その保管庫に積まれた大量の物資が、皇国の民たちから預かった税金で賄われているのだと、担当者はよく知っていた。
「殿下! ちょっと寄って行きませんか?」
「寄っていくって……昼間から酒場はちょっと……」
「いいじゃないですか、本官頑張って接待します!」
「――飲んでますね」
「とりあえず瓶一本頂きました~~!」
 要塞内に幾つもある酒場では、早番明けの将兵が酒を飲んで騒いでいた。
 メリエラとリーデを酌婦と間違えて絡んだ酔っぱらいもいたが、レクティファールが間違いを優しく正してやった。
「レクト、なんならお酌でもしましょうか?」
「それはまたの機会にとっておきます」
「そう、じゃあウィリィアに聞いて練習しておこうかしら」
 それだけはやめてくれと心の中で叫んだレクティファール。メリエラに酌婦の真似ごとをさせてウィリィアが黙っているなど、ありえない。
 できるなら他の人にと言うレクティファールに首を傾げたメリエラだが、ウィリィアがこういった場所での接待の方法を知っているとも考え難い。代わりにアリアに習いに行くと言うと、レクティファールは安心したように胸をなで下ろした。
 そうして、レクティファールの視察は終わった。
 もちろん、参謀たちが駆けまわる司令部ではごくごく真面目に視察を行い。司令部要員の労をねぎらった。
 佐官以上の士官を相手にするときも、同じように摂政としてどこに出しても恥ずかしくない所作を見せ、リーデの方が逆に驚いてしまったほどだ。
 後世の資料から察するに、レクティファールは、グロリエと同じように士官と兵士を同列に扱わない指揮官だった。
 士官には責任と権利があり、兵士には服従の義務とその代価としての自由がある。
 士官と兵士は同じ組織に属していながら、全く別の仕事をしていると言っても過言ではない。同じように扱うことの方がおかしいのだと、レクティファールは無意識のうちに理解し、それを行動として見せていた。
 兵士たちに人気のある皇国の歴代君主というと、やはり初代皇王と第三代皇王の名が挙がる。しかしレクティファールの在位が片手の指に達する頃には、その二人と並んでレクティファールの名前も見られるようになる。
 間違いなく、レクティファールは兵士に好かれた君主だった。それは当時の兵士たちが書いた遺書にあった一文が示している。
「あの方のために死んでも、国に殉じたのではない。戦友の盾になったのだ。だから自分が帰れなくても、あの方を恨むことだけはやめて欲しい。俺は戦友のために散った自分を、きっと誇っている」
 兵士に戦友と呼ばれた君主。
 だが、リーデはレクティファールのそんな姿を見て自分の中に苛立ちが募るのが分かった。
 彼女にとっては、レクティファールの行動は兵士たちを死地に赴かせるための打算的行動にしか見えない。
 ガラハはレクティファールの行動を「主君としては及第点」と評したが、その評価がガラハにしては高評価であるとリーデは知っている。
 何故、と彼女は思った。
 どれだけ優れた人物でも間違いは起こす。その間違いで死ぬ者もいる。それなのに、何故兵士たちは自分たちを死に追いやる男を笑顔で迎えられるのか。
 そんな悩みを抱えたまま、リーデはレクティファールの参謀として日々を過ごす。
 そして、五日が経過した。

 グロリエは律儀にも、休戦が明けたその瞬間に一発目の砲弾を皇国側陣地に撃ち込んだ。


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