ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
第三章:諸国鳴動編
第一話「三国鳴動」



 南の〈アルトデステニア皇国〉をどう思うかと尋ねれば、帝国臣民の答えは幾つにも分裂するだろう。

 地域、階級、年齢、性別、あらゆる要素がその質問の答えに異なる姿を与え、帝国という巨大な国が一枚岩ではないことを教えてくれる。

 敗軍の将となった帝国第十三姫グロリエ・デル・アルマダの処遇にしても、これが国境戦以前の帝国であれば軍籍剥奪は当たり前で、帝籍剥奪もあり得た。グロリエを帝位にと願う一派は帝国中枢では少数派で、その内訳も若手の軍人や貴族が多い。それだけに政治的な勢力として見れば『弱小』以外の呼び方は見付からないし、数少ない有力者もグロリエ自身に帝位への野望が感じられないこともあって、これといった動きを見せられずにいた。

 それだけに、グロリエが一つ大きな失敗を犯せばすぐにでも帝族としての立場を追われると考えていた者は多かった。彼女の兄姉はその機会を伺っていたし、その取り巻きたちも手薬煉を引いてグロリエの蹉跌を待ち侘びていた。

 故にグロリエ敗北と聞いたとき、彼らは密かに喝采した。気の早い者は一報を聞くや否やすぐにグロリエを帝王位争いから蹴落とすべく動き始め、これはそのまま大きな流れになるかと思われた。

 だが、そうはならなかった。

 グロリエ敗北の報から一拍遅れて皇国軍越境の報せが届き、動き始めていた者たちは慌ててその動きを止める。

 続いて〈ウィルマグス〉失陥、同地域一帯を占領されるという情報が中枢に届くに至り、彼らは急転直下、天国から地獄へと叩き落とされた。

 この戦い、帝国中枢では『必勝』と見られていた。対要塞戦の切り札ともいえる新兵器と数十万規模の大軍を投入し、名将の誉れ高きグロリエがそれを率いる。その上相手国は内乱で混乱が続いており、これで負けを想定した者は余程の臆病者か、才物とどちらかだろう。

 実際、才物として知られていた三人の帝王候補さえ、この戦いは九分九厘勝てると踏んでいた。その勝利の果実をどうやって掠め取るか、或いは勝利者となったグロリエをどうやって引き摺り下ろすかなど、あとになって考えれば捕ってもいない龍の鱗を数えるようなものである。三人はほぼ同時に自分の愚かさを責め、その内の何割かはグロリエへの憎しみへと変わった。

 ともあれ、必ず勝つと誰もが踏んでいたから〈ウィルマグス〉に投入された資金や人は膨大だった。三人の帝位継承者の取り巻きたちはこの一戦で大きな損失を被り、三人自身も少なくない損害を受けている。

 〈ウィルマグス〉は戦勝後に帝国本土と南方の辺境――言うまでもなく、皇国領のこと――を繋ぐ交易の要地となる筈で、この地に大きな利権を持つことは、そのまま帝国内での地位を引き上げることにも繋がる。商人から貴族まで熱い視線を注ぐ〈ウィルマグス〉は、この国境戦の最終局面までは確かに未曽有の好景気であった。

 軍用ではあったが鉄道が引かれ、本国とこの地を繋ぐ主要街道の整備計画は国家規模の巨大計画だった。大量の投資が行われ、もしも帝国が勝利していたと仮定するなら、帝国建国以来の超好景気となっていたかもしれない。

 ただ、帝国は負けた。それこそ、完膚なきまでに負けた。

 新兵器はその役割半ばで破壊され、〈ウィルマグス〉は占領され、都市民は難民となった。グロリエもその戦歴に拭い難い汚点を刻まれる。グロリエ敗戦を喜んだ者たちはほんの一瞬の至福を味わった後、目を覆いたくなる現実を与えられた。その現実が、グロリエの軍籍と帝籍を守った。

 彼らは、彼らに敗北の味を教えた男を恐れた。その様は、件の男が知れば苦笑するほどに滑稽だったろう。男にしてみれば過分な評価であり、恐れる相手を間違えていると言うかもしれない。

 しかし男は帝国にとっての仇敵であり、帝国の者たちにとっては自分たちの抱いた恐怖こそが真実だった。

 恐怖した彼らは考える。

 あの〈皇剣〉に対抗するには、グロリエを当てるしかない――グロリエの持つ『帝国最強』の名が彼女を救った。

 帝族という肩書きでも、名将という肩書きでもない。彼女個人の『戦闘能力』が彼女を窮地から掬い上げた。

 これは皮肉以外の何ものでもない。彼女を厭う者たちが散々口にした「帝族にあるまじき粗野粗暴の輩」「低劣な血統の偽皇女」「帝族を騙る不義の子」という罵詈雑言の要因、グロリエに流れる〈龍殺し〉の血が帝族としての彼女を助けたのだ。

 自ら軍を取り上げられ、閑職に追い遣られたことは、確かに重い処分であった。それでも軍に残り、兵器としてではあっても必要とされる可能性を残したことは事実。グロリエ本人は気付かなかったが、今回の敗北は逆に彼女の価値を高めたのかもしれない。

 少なくとも、彼女をよく知る二人の男はそう考えていた。



         ◇ ◇ ◇



 帝国鉄道の分岐点の一つであるホフトルフ駅はこの日、軍の督励のために西へと向かう帝王の御用列車を見物しようと集まった群衆で埋め尽くされていた。

 駅舎には国旗が掲げられ、駅前の広場や馬車の停留所近くには出店の姿もある。ある種のお祭りのような騒ぎの中、大通りから一つ奥に入った小路で営業している喫茶店に一人の老人の姿があった。

 色素の抜け落ちた金髪に、同じ色の口髭。店内の片隅で新聞を広げる彼は、まるでそこにいるのが当たり前のように店の空気に馴染んでいる。

 老人以外の客の姿はなく、表の騒ぎに客を取られた店主は随分前に店の奥に引っ込んだきりで、「御用の方はこちら」という札の掛けられた呼び鈴が対面机の上に鎮座している。

 暖炉で燃える薪の弾ける小さな音と、年代物の蓄音機が奏でる音楽だけだった店内に新たな音が生まれる。

 入り口の扉鈴が高い音を発し、来客を告げた。


「黒豆茶を」


 のそりと店奥から顔を出した店主に、新たな客は一言望みの品を告げる。店主は無言のまま調理場に入り、黒豆茶を用意し始めた。

 その間に客は店を横切り、これまで唯一の客だった老人の下へと向かう。

 老人が視線を上げれば、そこに居たのは四十前と思しき枯葉色の髪の男。老人は一瞬笑みを浮かべ、男に自分の向いの席を勧めた。


「外は随分と騒がしいものですね」


「都市の上役が帝王に媚を売るために手を回しただけだろうて、今の帝室を心から慕う民がどれだけいるか」


 老人は呆れを多分に含んだ声で答え、男はその言葉に苦笑した。確かにこの店に入るまで、街のそこかしこに帝王を賛美する張り紙と御用列車の到着時間を伝える掲示物があった。街の民の幾らかは、帝王ではなくそれに乗じたお祭り騒ぎが目的なのだろう。


「まあそれは良い、民の無聊を慰められるならそれも帝王の役目」


「確かに」


 男が頷くと、ちょうど店主が黒豆茶を持ってきた。無言で牛乳と砂糖を置き、伝票を置いて去っていく。

 店主の姿が店奥に消えたことを確かめ、男がぐいと身を乗り出した。

「何か、面白いことでも書いてありますか、父上」


「くだらぬ督励旅行の一面記事を除けば、まあそれなりだな」


 くく、と喉を鳴らし、老人は息子に新聞の一部を指し示した。


「皇国の摂政も〈ウィルマグス〉へ視察に来たらしい。伴ったのは前紛争のときに父を失った側妾と、白龍の姫だ」


「それはそれは……こちらに一言声を掛けてくれれば、娘を挨拶に行かせたものを」


 男は面白がるような笑顔で新聞の写真を覗き込み、そこにいる一人の青年に目を向けた。


「あれもそろそろ男に慣れさせなくては」


「まだそんなことを言っているのか、輿入れまであと半年もなかろう」


 老人は息子の言葉に驚き、目を剥いた。礼儀作法などはこれまで十分仕込んできただろうが、男慣れしていない花嫁など実家の恥だ。昨日今日突然決まった婚礼でもない。向こうもこちらも、一年に満たない期間ではあるが準備をする時間はあった筈だ。


「閨で無作法を晒せば、恥を掻くのはあの子ぞ」


「然り、しかしリールが中々納得しないのです。まだ遊びたい盛りだというのに、後宮に押し込められるのは可哀想だと」


「イズモの姫と同時に輿入れするという予定は、変えられん。早ければ出し抜いたと見られるし、遅ければ軽んじられる」


 辺境と侮る国にそこまで気を遣わなくてはならないことが、この国の末期症状を表していると老人は思う。

 今はまだことを構える時期ではない、と周囲を納得させているが、果たして時間は自分たちの味方なのだろうか。

 五年十年と時間が経てば、今自分たちが持っている優位も崩されるのではないか。そう考えることもあった。


「たった三〇〇年でここまで腐るとは、先人たちは考えもしなかったろう。『アルマダ』という名に振り回され、分不相応の野望を抱いたことが間違いであったか」


 或いは、人に与えられた野望などを掲げたことがそもそもの間違いであったか。

 彼の人はきっと、帝国が北の地の人間たちの拠り所となることを望んでいた。大陸を支配するようなことは望んでいなかった。


「――ここで言っても詮無きことか」


「父上」


 男は黒豆茶を一口含むと、その香りを楽しむように嚥下する。

 そして磁碗を受け皿に戻すと、改まって老人に向き直った。


「珍しく父上から書を頂いた故、大層大切な話があると思っていたのですが、もしや愚痴の相手が欲しかったのですか」


「まさか」


 老人は答え、もう一度「まさか」と言って新聞に目を落とした。


「お前に一度、訊いておきたかった」


 男は眉を潜め「何を」と問う。

 老人は世間話でもするように、少しも気負ったところのない声で言った。


「我が孫の伴侶となる男、お前はどう見ている」


 老人は一瞬の鋭い視線を息子に向け、すぐに新聞に目を戻した。がさりと新聞を捲り、外交関係の記事に目を通す。

 中枢の外交官が属国でその国の貴族の妻を拉致同然に奪い、結果その女に閨で刺されたという記事があった。老人は「自業自得だ」と鼻を鳴らし、その外交官の名を覚える。

 その間息子は思案するように腕を組み、やがて口を開いた。


「運の良い男だと」


「ほう」


 老人は息子の答えに興味を引かれたのか、楽しそうに目を細めて新聞を閉じた。

 卓の上に新聞を置き、蒸留酒入りの紅茶を啜った。


「運か、得難いな」


「はい。文武の才は努力で幾らも補えますが、運だけは天が独占して手放しません」


 老人はその文武の才を天から与えられた息子を見遣り、苦笑した。

 天より二物も三物も与えられた息子であるが、運といえば人より多少まし、という程度であった。

 その息子が「天命を持っている」という隣国の皇太子に、ひどく興味をそそられた。


「何故そう思う」


「グロリエと戦い、勝ちました」


 老人はそれだけではないだろうと言い、息子は頷いた。


「さらに言うならば、その勝利に至るまで幾つもの幸運を得ています」


 唯一皇王家から離反していなかった白龍公に拾われたこと。その伝手で四龍公と繋がりを得、その軍を用いることが出来たこと。連合軍が組織だった反撃を行なえず、両軍ともに最小限の被害で済んだこと。そのため、連合国に背後を襲われることなく帝国と相対することが出来た。〈パラティオン〉要塞では良将ガラハを配下とし、皇国軍随一の精兵を手足とする幸運も得られた。白狼越えという奇策も完全に嵌り、〈雷霆〉の砲撃も当初の帝国側の予想を裏切ってたった数発しか要塞に命中しなかった。

 あとから考えれば必然の連なりであるそれらだが、あの状況下でこれだけの必然を揃えられたことそのものが幸運であったという他ない。


「父上もご存知のはず。この世で最も得難い才能が何であるか」


 息子の言葉に、老人は低く喉を鳴らした。

 確かに、必要なときに必要なだけの幸運の連なりを得られる者ほど手強い者はいない。こちらがどれだけ地道に必然を積み上げても、天運はそれを容易くひっくり返してしまう。

 彼自身、若い頃は随分と幸運だった。幸運だったから今の地位に辿り着けたのだ。


「なるほど、運のない者に君主たる資格はないか」


「はい。他は臣下が補うことができるでしょうが、運は完全に個人のもの。民も思うでしょう、少しでも運の良い主君に統治されたいと」


 馬鹿馬鹿しいと多くの者たちは笑うだろう。運だの天命だの声高に叫ぶ者は、所詮己の力に自信がないからだ、実力が無いからだと。

 だが、その実力を得た者たちは揃って知る。『運』ほど得難いものはない。

 こう言い切ってもいい――『運』に勝る実力など存在しない、と。


「かの男は気付いていないかもしれませんが、あの一戦で帝国の生命はだいぶ縮まりました。――いえ、後々を思えばこちらの方が良かったのやもしれません」


 息子の紡ぐ未来像は、老人の立場からすれば到底容認できるようなものではない。ただ、老人もその未来像が現実になると考え、認めていた。

 この国が傾き始めていることに、老人は気付いていた。気付いていて何もしなかった。何をしても無駄なのだと、気付いていた。


「時代が変わるか」


「変えるのです、父上」


 父の呟きに、息子はこれまでで一番強い語調で答える。老人は息子の様子に目を細め、小さく笑った。


「では、帝都に戻るか? すぐにでも手配してやるぞ」


「いいえ、父上」


 息子は首を振り、幾度目かの同じ遣り取りを続けた。


「今私が戻れば、この国は最悪の結末を迎えてしまう。この国がもっとも穏やかに終焉を迎えられる方法は、私たちの手の中にはありません」


 彼らの血は帝国の宿業に汚染されていた。それは今更雪ごうと思っても雪げず、彼らの身体中にこびり付いている。

 あと少し、あと少しだけでも旧帝国の残した悪しき慣習を改善しようとしていれば、旧帝国と同じ結末を迎えることもなかっただろうに――男は大陸統一帝国という光の部分だけに目が眩み、影の部分から目を逸らし続けた先人たちを罵倒した。

 一度やり直す機会を得たはずの自分たちは、また同じ過ちを繰り返してしまったのだ。


「我らは三〇〇年前に知るべきだったのです。支配と統治は似て非なるものなのだと」


 そのたった一つの思い違いが、今の帝国を作った。

 身体ばかり巨大で、内部に大量の害虫を飼っている木偶のような国を。


「これは、帝国の本来の栄光を取り戻す最後の機会なのかもしれません」


 弱き者たちの生きる国を――力を持たない人間種が肩を寄せ合って生きていた遠き過去。たったそれだけを願って人間たちは国を作った。

 大陸に棲む魔獣や幻想の獣たちから身を守るため、隣にいる者と手を携えて生きようと決めた。

 知恵を絞り、汗を流し、涙に塗れ、友人の血を啜って、ようやく〈アルマダ帝国〉は完成した。


「皮肉だと思いませぬか、父上。同じ願いで作られた皇国が二〇〇〇年経っても衰えないというのに、その願いの原因となった国の後継は、たった三〇〇年で老い衰えた」


 理由は同じことだったのに、違う結末を見ることになった。

 それは種族の寿命や思考体系の違いだけが原因ではないだろう。


「父上、最後の機会、無為に捨てることなきように」


 頷き、老人は息子を見た。

 若い頃はあれほど野望に満ちていた息子が、今では自分よりも君主の器に見えた。

 心底惜しい、そう思った。


「――今のお前が皇太子であったなら、余もすぐに帝位を譲ることが出来ただろうに」


「あのまま皇太子であったなら、今の私はありませぬ」


 あの日弟に妻となる女を奪われそうになったとき、彼は生まれて初めて自分の血を意識した。

 誰かを虐げるのが当然だと考えてしまう帝族たち。それを知り、ふと自分の過去を振り返ってみれば、そこには弟たちと大して変わらぬ行いをしてきた自分がいた。

 奪われそうになって初めて、奪われる恐怖を知った。

 皇太子の座を降りてからでさえ、幾度も妻に差し向けられる刺客。一度など妻の実家から贈られた菓子に毒を盛られ、妻の身体は今でもその毒に蝕まれたままだ。妻の小さい頃からの好物だからと、義母が心を込めて作った菓子に、毒見などという無粋な真似はしたくないと甘い決断を下した結果だった。

 何故、何故と考えるたびに自分の血が憎かった。

 皇太子の地位などもう要らないと叫んでも、帝位を望まぬと誓っても、彼の血が平穏を許さない。


「ただ、こうも思うのです」


 自分と同じ時代に、あの男が現れたこと。それは自分に齎された幸運なのではないかと。


「だから、可愛い娘を嫁がせるのか」


 父の口調は、どこか面白がっている風であった。彼が娘を深く愛していることを、父は知っている。


「そこらの凡夫にくれてやるくらいならば、優れた敵に預ける方が心安らかでいられます。それに私とて父親、娘を寡婦などにしたくはありません。あの男は――」


 彼は父の目をじっと見詰め、少し躊躇ったあとに口を開いた。


「私が心の底から戦いたくないと思った、二人目の相手。実力も経験も負けるつもりはありませぬが、あの男を前にして勝利を確信することができない」


 奇しくも、同じ時代、同じ大陸に生きることになった二人の男は、相手を同じように評価していた。

 皇国の摂政レクティファールは帝国の元皇太子の存在を知るや、彼とは戦いたくないと近しい者に漏らしていたのである。

 それは義父になる相手だからなどの明確な理由のある拒絶ではなかった。ただ、その本能が戦うことを拒否していたという。


「グロリエは随分あの男と戦いたがっているようだが」


「あれは私よりも運に恵まれている。今回の敗北さえ、見方を変えれば幸運でした」


 良き相手に負けたと思う。

 負けて自暴自棄になるでもなく、あっさりと納得するでもなく、超えたいと思った。それは武人として幸運なことだ。


「弟たちは、あの男を侮っているでしょう」


「ああ、それが虚勢であるか本心なのかは別にして、な」


 背凭れに身体を預け、老人は天井を見上げる。最近とみに調子の悪くなった目には、天井の模様が歪んで見えた。

 それが自分たちの未来を暗示しているようで、彼はすぐに眼を閉じてしまった。十年前の自分であれば、今の自分を見て惰弱と嘲弄するだろうと思う。


「あれたちにとっては、帝王の椅子が最後の目標に見えているのかもしれんな。本当の地獄は、玉座に座ったときから始まるというに」


 あれほど渇望した玉座が、実際座ってみると酷い座り心地だった。この上ない座り心地なのだろうと勝手に思っていた若い自分を、彼は殴りつけてやりたかった。


「まあよい、あれたちの中からお前の後継が出ることを戦神に祈るとしよう。そのための併せ馬として、皇国の若造は中々良さそうだ」


「父上のことです、いつの間にか併せの方を気に入ってしまうのでは?」


 息子は父が優秀な敵手を愛する性癖の持ち主であると知っていた。愛するあまりに殺してしまうこともあれば、味方に引き入れようとあらゆる手段を用いることもある。

 父の寵愛する臣下たちの何割かは、そうして手に入れた者たちだ。皇国の摂政がそうならないとは限らない。


「そうだな、あの四人を下したなら、それも良いかもしれん。そうしたら孫だけではなく、娘もくれてやろうか」


 老人は冗談交じりに答え、笑った。いっそそれくらいのことをしなくては、この国は近い将来自滅してしまう。


「あのたった一度の戦いで、四人が四人とも煮え湯を飲まされた。それでも侮っているのは、ある種の才能だとは思わんか?」


 それが血というものかと老人は内心で嘲笑った。兄弟姉妹が揃って自分の若い頃と良く似ている。


「父上がそう思うのなら、そうなのでしょう」


 息子の言葉は父を容認するようで、何処か面白がっている部分もあった。


「お前もそうであったな」


「昔のことです、父上」


 男はそう言って、椅子から立ち上がった。伝票を持ち、父に背を向ける。

 その背に向けて、父の声が飛んだ。


「皇国から観艦式への招待状が届いておろう。お前はどうする」


 皇国から諸外国に対し、皇国・近衛両海軍合同の観艦式への招待状が送り届けられたのは、つい先日のことだった。

 保護国と親皇国国家は即座に出席の返答を皇国外務院に送付し、〈アルストロメリア民主連邦〉や〈シェルミア共和国〉なども元首の訪問日程の調整を行っているという。南洋諸島の国々も参加を表明しており、この観艦式は大陸の雄としての皇国の復活を周辺国に印象付ける式典になるはずだ。

 当然、帝国にも招待状は届いた。だが、帝国はこれについて特別な対応を行っていない。皇国の招待はあくまでも同等の独立国家としてのそれであり、皇国を独立した国家と認めてない帝国がこれに応えることはありえないのだ。常であればその招待そのものに難癖をつけることもあるが、今回は「無視」という対応をとることになっている。

 帝王の一存であった。


「余としては、マティリエをアクィタニアの国王名代として参加させようと思っておるのだが……」


「――あれには、荷が重かろうと思いますが」


 男は背を向けたまま、父に答えた。声は平坦で、父の出方を窺っているようだった。


「慣れていない男の下に嫁がせるのも可哀想とは思わぬのか? イズモ辺りも同じようなことを考えているやもしれんぞ?」


「父上……」


 男は振り返り、父を呆れたように見遣る。溜息を吐かないのが不思議な表情だった。

 しかし男は、父の瞳の奥に決して濁らぬ光があることに気付いた。自然、身が強張る。


「最近、どら息子どもが新しい遊びを覚えたようでな。危なっかしい遊びらしく、ちと子どもには早いと思うておる」


 娘が狙われている――男は父の言葉に意味を正確に理解した。彼に流れる帝国の血が、新たな災厄を呼び込んだのだ。

 拳を震わせる息子を見据え、老人は小さな声で吐露した。


「――余はな、誰がこの国を継ごうとどうこう言うつもりはない。どんな手を使おうと、どれだけの犠牲を払おうと、玉座に手が届いたものに帝位を譲ろう。その座を守りきれれば王の器であったということ、守れなければ王の器ではなかったということ、それだけのことよ」


 帝位など、血みどろになってまで欲するものではないと、老人は登り切ったその瞬間に知った。

 背後には親兄弟の骸。前方には問題だらけの国。横には美しいだけの女ども。

 彼はそのときになって自分の求めていたものがどこにあるのか慌てて探し回り、絶望した。

 玉座を欲して最初に捨てたものが、彼のもっとも望んでいたものであった。


「どうということもない。たった一人だけでも、自分が求め、自分を求める者がいるだけで総てはこと足りたのだ。少なくとも余は、そうであった」


「――ええ、良く分かります」


 生を実感するには、ほんの一欠片の幸福だけで良かった。もっと多くの幸福がどこかにあるのではないか、そう思ったことが間違いだったと今でも思う。


「余は愚かであった」


 老人の言葉には、数十年分の後悔があった。

 幾度も国を立て直す機会はあった。二五年前の皇国との戦で大敗を喫したとき、国内の膿を徹底的に出しきっていれば良かった。

 あれが、老人の得た最大の好機だったのかもしれない。

 しかし、彼はそれを逃した。

 以来、彼はそれを後悔し続けている。老人はその言葉を最後にしばし沈黙し、そして再度口を開いたときには後悔の影を微塵も感じさせない口調に戻っていた。


「――マティリエひとりでは不安というお前の気持ちも分かる。故に、グロリエを同行させようと思うておる」


「横槍は入りませんか?」


 男は父の言葉に驚きを隠せないようだった。

 閑職に追い遣られたとはいえ、グロリエは帝国有数の傑物。敵地に送り込むにも色々根回しが必要だろう。


「息子どもは諸手を上げて賛成したがな。敵の内情をつぶさに観察することも必要だと言っておったが、内心では摂政と刺し違えて欲しいと思っているだろう」


「あれは勇敢ではありますが、短慮ではありませぬ。弟どもの思惑通りに動くことはまずないでしょうに」


「余もそう思うておる。だが、敵を知ることに損はなかろう」


「確かに」


 グロリエはあの青年に勝ちたいと思っている。その方策を決めるにあたって、件の人物を知っているのと知らないのとでは雲泥の差があるだろう。

 ここで戦とは直接関わりのない場所で顔を合わせておくというのも、そう悪いことではないかもしれない。


「本人は」


「許しがあれば是非にも、だそうだ。あれほど目を輝かせたグロリエは十数年振りだ」


 敵地に赴くというのに、それを心から喜ぶことができるというのは才能だろう。

 男は「それでは、そのように」と答え、さらに言った。


「もうすぐ列車が出ますが?」


「影がおるよ。余はその次の列車の二等客室じゃ」


 老人は会心の笑みを浮かべ、呵呵と笑う。「民たちに紛れて旅行するのは楽しいぞ」という父の言葉を背に、息子は苦笑を浮かべて会計を済ませた。



         ◇ ◇ ◇



 遺跡戦艦〈天照〉。

 その内部には、〈帝〉が執務を行う区画があった。そのためにこの空中戦艦は『天空御所』という別名を持っており、ここに彼の人がいる限りは絶対に沈むことはない難攻不落の要塞として民はもとより、帝室に近しい諸侯から真逆の諸侯まで共通して認識されている。

 八洲の帝室がこれまで永きに亘ってこの国を纏めてこられたのは、この世界にとっての異物が大きな役割を果たしているのは疑いようもない事実だ。〈天照〉が定期的に八洲の上を周回し、諸侯をこの上なくわかりやすい形で牽制しているのである。
 
 どれほどの軍事力を諸侯が手に入れようとも、〈天照〉以上の力は世界にさえ幾つも存在しない。同時に世界最強水準の海軍を帝室派が一手に握っていることも、八洲の体制を維持する一因と考えられていた。

 だが、どれだけ磐石な体制であろうとも、常に磐石で在り続けているわけではない。


「陛下。このたびの姫さまのお輿入れについて、公議所からこのような申し出が」


 第三九代〈帝〉正周帝の股肱の臣と名高い玖条くじょう束根たばねは、この日も〈天照〉で政務を行う正周帝の側にいた。

 文机で幾つかの書簡に花押を書き入れる主君に、恭しく封書を差し出す。この執務の間に立ち入ることができるのは、彼とその他数名の侍従だけであった。

 正周帝は「ご苦労」と束根を労い、差し出された封書を手にとって中を改める。公議所議長の名で閉じられた書には、数カ月後に迫った帝妹、内親王真子の輿入れに関する提案が書き綴られていた。


「――真子が皇国まで座乗する〈龍泉〉と随伴艦六隻を、そのまま皇国に譲渡する、か」


 三代目〈月黄泉〉級軽戦艦の七番艦である〈龍泉〉は、艦齢八〇年の老嬢だった。既に後継型の四代目〈月黄泉〉級が就役して久しく、皇族御召艦として改装された〈龍泉〉、〈龍陽〉以外は全艦退役している。

 残った二隻も近いうちに退役することが公議所で協議されており、正周帝もそのつもりでいた。そこに、この提案である。

 彼は眉を顰め、束根に視線で意見を許した。


「――臣が思いますに、このたびの姫さまのお輿入れを機に皇国との軍事同盟締結を目指す三笠派と、海軍の戦力を削ぎたいと考える瀬川派の意見が一致したものと」


 現公議所議長・三笠玄嶺の三笠家を筆頭とする三笠派は古くからの皇室支持派であったが、ここ十年ほどは〈ウォーリム教国〉の侵攻を警戒して周辺国との軍事同盟を目指すべきという姿勢を取っている。正周帝もそれに近い考えを持っており、この点でいえば今回の提案はそうそう悪いものではない。

 〈龍泉〉は退役間近の老艦で、随伴艦の六隻もこれといって重要な艦船ではない。おそらく来年中に退役する予定の艦を数隻含ませてあるのだろう。この国では旧型でも、他国では現役で通用する――それは世界最強の三海軍の一つである八洲海軍と、その他の海軍の技術力の差を如実に表していた。

 八洲海軍を仮想的として二〇〇〇年も技術技能を磨き続けてきた皇国海軍も決して弱小ということはないが、それでも艦の性能差はゆうに一世代違う。〈龍泉〉以下六隻も十分に現役艦として働く場を得られるだろう。

 正周帝としては、馴染みのある〈龍泉〉が新たな働き場を得られるというのは、政治云々を除いた個人的感情で測ってもそう悪いものではない。非公式に皇国側に打診したところ、そのまま皇国近衛海軍で皇族御召艦として使用するという案が出されたらしい。もともと〈龍泉〉の御召艦としての拵えは上々であった。さらに艦首の八弁桜花紋章を取り外し、二重十字星紋章を取り付ける――本来皇国には皇王御座船・総旗艦以外に艦首に紋章を付ける習慣はない――という提案は、皇国側の八洲に対する最大限の配慮と言えるかもしれない。

 ただ、これだけでは瀬川派の方が余程損をしていることになる。皇国と軍事同盟を結ぶことになれば、皇室は皇国の陸軍戦力をあてにするだろう。八洲の陸上戦力といえば、その大半は各国の諸侯が保有している私設軍を指し、全体から見ればごく僅かな数が海軍の陸戦部隊として皇室の指揮下にある程度。元来〈天照〉という圧倒的武力を背景に海上貿易を牛耳ることでこの国を支配してきた皇室にとって、陸の上の争いは度が過ぎなければ放置して然るべきものだった。争いがあるから物流が活性化するという側面もあるし、迂闊にどちらかに肩入れして恨みを買う必要もない。

 求められて調停役を引き受けることは珍しくなかったが、民が認識する皇室とは、基本的に象徴として君臨するだけの存在であり、その軍事力を以てこの国を外敵から守護する一族であったし、これまではそれで十分だった。

 諸侯家も程度の差こそあれ皇室を敬っていたし、そもそも〈帝〉と戦おうという意志がなかった。何千年も掛けて浸透した皇室崇拝の念は、それほどまでに人々に浸透していたのだ。

 しかし、近年力を付けた瀬川家は、明らかに皇室を廃して自分がその地位に座ろうと考えている。

 何故か、答えは簡単だ。今の皇室では今後の戦乱の世界で生き残れないと考えているからだろう。

 南北の〈ウォーリム教国〉が八洲やその先に領土的野心を抱いていることは明白で、瀬川は攻められる前に積極的にこちらから打って出るべきという考えを常々口にしている。積極的な攻勢は強力な防御にもなるというのはある種の常識であるが、この国に〈ウォーリム教国〉と正面から戦える国力はない。瀬川もそれは認識しており、開戦劈頭に一撃で相手の主力艦隊を破り、八洲に対する侵攻の意図を挫く必要があると考えていた。

 そのまま講和に持ち込めれば良し、ただ、そのためには〈ウォーリム〉以外の敵に背後を脅かされるのは避けたい。

 皇国と八洲は決して友好的な歴史を歩んできたわけではない。皇国が八洲に大して領土的野心を持っていなかったということもあるが、ここ数百年両国がこれといった諍いを起こしていなかったのは、単に双方ともそちらに力を注ぐだけの余裕がなかっただけだ。皇国は常に大陸の勢力と戦い続けていたし、八洲も内乱や東からの脅威に対応するだけで精一杯だった。

 しかし、時代は移り変わり、八洲は東洋や南洋にも植民地を持つに至り、世界を相手にして貿易をするようになった。世界最強と名高い海軍を擁し、世界の何処へでも一日と掛からず移動できる〈天照〉の存在が八洲をして海洋の守り人たらしめている。そんな中、大陸を統一するような勢力が現れ始めた。いつか世界中の国々が覇権を争うような時代が来る。世界各地に交易路を持つ八洲がそんな結論を抱くようになるまで、それほどの時間は掛からなかった。


「瀬川は何を企んでいるか、お前に分かるか?」


 主君の問いに、束根は微かにためらった様子を見せ、しかし小さくもはっきりとした声で答えた。


「――皇国と、通じるつもりかと」


 なるほど、それは確かに瀬川が八洲を支配するための方策として悪いものではない。

 此度の婚儀に瀬川が積極的に反対意見を述べなかったのも、そういった理由であれば納得できる。正周帝の妹は〈天照〉を操る血筋であり、それを皇国に渡すことで自分たちの手札にしようと考えているのだ。

 皇国との軍事同盟に積極的というのも、皇国と通じるにはそちらの方が都合がいいからと考えられる。

 特に今の皇国摂政は若く、これまで他国への侵略を是としなかった歴代皇王とは違い、躊躇うことなく帝国への逆侵攻を行った。瀬川としては、このまま国内で勢力を伸ばすよりも他国と通じ、皇室の打倒を図った方が余程八洲統一という目算が立つと考えたのかもしれない。

 正周帝にしてみても、皇国の若き摂政を信用している訳ではない。

 以前に妹の体に宿った古き神に言った通り、妹を守るには国内に置いておくよりも他国へと嫁がせた方が良いと判断しただけだ。皇国はそれこそ人間から神まで、皇王という君主の下に平等の扱いを受ける。確かに平民、士族、貴族などといった身分階級は存在するが、皇王から見ればそれは彼らの負っている責任の差にすぎない。決して貴族だからと甘い汁を啜ることができるということもなく、平民だからと生き方が限定されるということもない。

 あの国は、いっそ分り易いくらいに皇王だけを支配者・統治者と位置付けている。それ以下の国民は等しく皇王の赤子であり、皇王から見た彼らに身分の上下などありはしない。


「あの摂政がそう簡単に瀬川の小倅の思い通りになると思うか」


「なりますまい」


 束根の返答は即答と言って良かった。

 彼には、それだけの確信がある。


「我が手のものを彼の国に遣りましたが、なるほど中々の才物のようです。国内統治は臣下の意見に耳を傾け、彼らに大仕事を任せる度量もある。そもそも国内に敵国の軍を引き入れた男を宰相として傍らに置くという、この上ない懐の深さを持っています。わずか数ヶ月で荒れていた国を立て直したというのは、誇張などではないかと」


 束根の元に非常に興味深い情報が届いたのは、つい先日のことだ。それから数日、ことの真偽を確かめるべく情報を整理したが、どうやらその情報に間違いはないらしい。


「これまで皇王家からの独立を宣言し、ある程度皇王家から離れて独自の行動を取っていた三公爵家ですが、先日、再度の服属を皇王家に申し出、受け入れられたそうです。既に三家の姫が摂政に輿入れすることは各方面に発表され、これで皇国の体制は磐石なものとなりました」


「そうか、三家が膝を屈するに足るものがあの摂政にあるということだな」


 それは、幸運なことだろうか。正周帝はそう考えた。

 妹にとって、嫁ぐ相手が凡夫でないというのは幸福なのか、不幸なのか。彼には分からなかった。


「――姫さまの件、このまま進めてもよろしいでしょうか」


 束根は正周帝の顔色を窺うように問う。

 彼は、この主君があの薄幸の妹をもっとも深く愛していることを知っている。

 愛しているが故に、海の向こうの国へと嫁がせようとしていることも。

 これまで手に入れた情報を分析し、推測した摂政の人物像を主君に伝えたことはある。

 束根の配下の者の中には件の摂政と直に顔を合わせた者もいるが、総じて件の摂政を「訳の分からない男」と評していた。冷静で的確な分析を旨とする彼らにしてみれば、最大限の恐怖を言葉にしたと判断してもいい。いつ敵になっても可笑しくない、しかし最後まで信頼できる味方でいても可笑しくない、そんな男だと。


「良い、そのまま進めよ」


「――は」


 しかし、束根の主君はそんな評価を知っても、妹姫の輿入れを撤回する考えはないようだった。

 無理もない。あの男は敵とも味方とも分からないが、己の腕に中に抱え込んだ者に対しては常に真っ当な庇護者であり続けている。正面から相対するには骨の折れる相手だが、玉を預けるならばこれほど頼もしい相手はそういない。

 こちらが内親王殿下を使って余計な口を挟まなければ、向こうは向こうなりにもっとも危険が少なく実入りの大きい道を選ぶだろう。それは主君の妹姫が安穏を得ることと同義だ。

 ときとしては不干渉こそが相手との繋がりを強くすることもあるか――束根は主君に深々と頭を垂れながら、そう心中で漏らした。


「では、招待のあった観艦式へは」


「お前が真子と共に赴け」


 なるほど、顔合わせとしては悪くない。二人だけで顔を合わせて余計な噂を立てられるより、こうした大々的な場で面通しをする方がいいだろう。

 妹姫は余り人の多いところに慣れていないが、これも本番に備えた予行と見れば損はない。即位と婚礼が同時に行われるのだ、これまでに例のない大きな式典になることは間違いない。今のうちに立場に則した立ち居振る舞いを覚えてもらうべきだった。


「御意のままに」


 束根は再度顔を伏せ、皇国へと向かうにあたっての随伴人員を選び始める。かの摂政は大層な女好きと聞いているから、そちら方面から攻めるというのも悪くないかもしれない。

 〈帝〉の腹心は、そんなことを考えながら主君の前を辞した。



         ◇ ◇ ◇



 人は、間違いを犯す生き物であるという。

 ならば人以外は間違いを犯さないのか、否、ここにいる概念兵器は毎朝のように間違いを犯している。


「ねえ、愚弟」


「何でしょうか、麗しの姉上様」


 じりじりと間合いを測る一組の男女の間には、弓弦のように張り詰めた緊張感が漂っている。

 女は右手に大剣、左手に投擲用短剣を構え、目の前の男にどうやってそれを叩き付けてやろうかと獰猛な笑みを浮かべて考えている。

 男は女の得物を視界に収めつつ、この場から逃走するべく幾つもの逃走経路を想定、演算していた。


「わたしは、ね。確かにレクトからすれば取るに足らない女で、あなたが本気でわたしを求めるなら拒むことはできないでしょう」


「いえいえいえいえ、そんなことしませんよ。いや確かに、ウィリィアさんはきれーでかっこよーくてかわいーい人ですけれども――って危なッ! いつの間に投げたんですか!」


「無挙動投擲術って、最近ちょっと研究し始めたの」


「うわあい、私ってそんなに恨まれてるんですね、初めて知りました」


 ウィリィアの全身から発せられる魔力波動に、後宮の中庭に植えられた樹々が揺れる。遠くで二人の様子を見守る庭師役の乙女騎士たちが、今にも倒れそうな顔色で同僚に支えられていた。ウィリィアとの毎朝の騒動で一番被害を受けているのは、間違いなく彼女たちだ。最近はレクティファールが色々細工を弄して庭を守るようになったが、何故自分がそんなことをしているのだろうと思うことはある。

 しかし、乙女騎士たちが精魂傾けて作り上げた庭を壊してしまうのは事実で、レクティファールはあとで城下の人気菓子店の焼き菓子を携えて謝りに行こうと決めた。そのために乙女騎士たちの顔を憶えておこうとじっと視線を向けたのだが、それに気付いたウィリィアがこめかみに青筋を一つ浮かべる。


「あらレクト、姫さま放り出してわたしの同僚に手を出すつもり?」


「え――と、ウィリィアさんもしかして焼きもちと……か……ごめんなさい、ちょっと場を和ませようとした冗談ですから、謝るので〈岩窟龍断ち〉下ろしてください」


 がしゃん、と重々しい音を立てて突き付けられた大剣は、ついこの間改良を受けて更に威力が増したという。いずれは〈神殺しの神剣〉と同格のものを作り上げるというのが、〈岩窟龍断ち〉の制作者たちの野望らしい。レクティファールにとってみれば、あまりにも迷惑な話だが。


「押し倒された挙句、む、胸を揉まれ……更に嫉妬? 自意識過剰も大概にしなさい!」


「分かってますから、姉さん私のことわりと嫌いじゃない――ってあー」


 爆音が轟き、〈岩窟龍断ち〉がその凶悪な牙を剥き出す。

 空気を切り裂く轟音に、今度こそ庭師役の乙女騎士が卒倒した。近衛最精鋭の彼女らにしてみれば、痴話喧嘩で後宮の庭を破壊するという行為の方が衝撃的なのかもしれない。


「――もう黙りなさい。わたしはあなたのことなんてどうとも……」」


「えー、私ウィリィアさんのこと大切な人だって思ってるのに……」


「ッ!」


 今度こそ、〈岩窟龍断ち〉が大上段から振り下ろされた。間合いは一瞬で詰められ、その動きはレクティファールを以てしても「速い」と感じられるものだった。

 レクティファールは冷静に、これまでのウィリィアとの訓練を思い出しながら半身を反らし、更にウィリィアの左太腿の剣帯に納められている投擲用短剣を一本拝借すると、顔のすぐ横を通過する〈岩窟龍断ち〉の駆動部に素早くそれを突き込んだ。

 ウィリィアが驚愕の表情を浮かべていたが、心なしか頬が紅い。

 金属同士のぶつかり合う嫌な音が連続し、地面を削った〈岩窟龍断ち〉は火花を散らし、白煙と共に停止した。轟音が止み、中庭に静寂が戻る。


「――――」


 二人とも身動きひとつせず、五秒ちょうどの時間が経過した。


「――触った?」


「はい。大変、瑞々しく素晴らしい太腿でありました」


 レクティファールは姉の質問に、これ以上ない明確な感想を述べる。

 偶然ではあったが、嘘を言ってもどうせすぐにばれてしまう。レクティファールはそんな理由であっさりとウィリィアの言葉を認めた。ついでに、フェリエルから「女性は褒めて伸ばせ」という助言を受けていたので、忠実にそれを実行した。本音でもあったので、特に問題もなく滑らかに言葉にすることができ、レクティファールは満足そうに頷く。


「――レクト」


「はい」


 ウィリィアの震える声に、レクティファールは満足気な顔のまま答える。

 美人で強くて可愛らしい姉は、彼にとって自慢の姉だった。


「――この、莫迦ぁぁああああああああッ!!」


 この、暴力的な面が少しでも落ち着けば、もっと自慢なんだけどなぁ。あ、リリシアたち起きてきた――レクティファールは自分の顔に迫るウィリィアの平手を観察しながら、そんなことを思った。

 ぱぁん、という軽快な音と共に、鳥たちが慌てて飛び立つ。今日も星天宮は平和である。



+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。