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第二章:戦後内政編
第二三話「戻れぬ道+戻らぬ時間=終末への道程」


 港湾都市〈エーベ〉と言えば、皇国の商人のみならず、大陸中の交易商にとって馴染み深い西域の都市だ。

 古くから商業都市として大陸内外の国家と商業協定を結び、幾度か名前と属する勢力を変えつつも、西域を代表する交易都市としての地位を保ち続けてきた。

 港の一角で隣り合わせに立つ帝国商人と皇国商人の商館も、ここが国家としての利害を超えた商業都市であることの証明なのだろうか。

 その皇国の商館から這々の体で抜け出してきたのは、この商館の持ち主である〈レヴィアタン貿易商会〉、その〈エーベ〉支店支店長の姪であるフェリスと、そのお供を務めるレクティファールだった。


「はー、ボク疲れたよ……」


「まあ、叔父上もフェリスを心配してのことですし」


 何故二人がここに居るかといえば、その理由は〈エーベ〉近郊の別の港に到着したフェリスを〈レヴィアタン貿易商会〉の支店長直々に迎えに来たことから始まる。

 彼は蒼龍公マリアの妹婿である支店長は義姉マリアからの手紙でフェリスの到着日時を知ったらしく、軍の都合も無視して姪の出迎えに現れたのだ。支店長からすれば明日のレヴィアタン公爵家を担う総領娘を迎えるのは、自分の立場を保つためにも当たり前のことであったらしい。支店長はフェリスが職務中であると何度言っても聞かず、彼女に土産物を持たせようとしたり、街の外れにある自分の屋敷に招待しようとした。相手が叔父ということで強く出られないフェリスに代わってレクティファールがその場を収めたのだが、支店長は二人の間に割って入ったレクティファールを見て「従者は黙っていろ」と言い捨て、それに怒ったフェリスが怒声を発揮しようとした直前、支店長の元に秘書が急報を持ってきた。

 支店長がその対応のために席を外した隙に、二人は止める商館の社員を振り切って逃げ出してきたのだった。

 元々、大陸の海を庭としていた蒼龍公の一族は建国後皇国南海岸の一部を所領として与えられており、そのせいか伝統的に交易の術に長けていた。その資産は四公爵家の中で最も多かったが、それは公爵家一族が経営する複数の大商会が多くの資金を公爵家に齎していることが一番の理由だと言える。

 その大商会の一角、〈レヴィアタン貿易商会〉は、ここ〈エーベ〉に設けた支社を拠点にして大陸西域からさらに西方の〈トラン大陸〉まで商売の手を伸ばしている。支社の入った商館近くの港には商会の旗を掲げた大型船が並び、この商会が〈エーベ〉でも有数の商会であることを窺わせた。


「心配かぁ……違うと思うな」


「ほう?」


 フェリスは怒涛の接待攻撃を思い出しながら、虚ろな半眼で呟いた。

 自分の息子を婿にどうかと勧めてくる貴族は珍しくないが、孫やまだ十にも満たないひ孫まで纏めて紹介しようとする者は珍しかった。


「叔父上は、お義母さまにあまり好かれていないから……代わりにボクに取り入ろうとしたんだと思うよ」


 フェリスの言うことには、支店長は元々は実直で真面目な青年商人だったらしい。商売相手として何度か支店長と顔を合わせたマリアがその誠実な人柄を気に入り、歳の離れた妹の娘との婚儀を進めたのだった。

 しかし、歳を経るごとに支店長は利益を第一に考えるようになり、それまでの清廉な商売からは考えられない非合法すれすれの手段まで使うようになってしまった。マリアは幾度も支店長を窘めたが、結局支店長が自分の考えを曲げることはなく、この〈エーベ〉に左遷されてしまったのだという。


「左遷とは言っても、ここはうちの商圏の一角を担う大事な場所だから、お義母さまが叔父上を本気で疎んでいる訳じゃないだろうけどね」


 しばらく本国を離れて頭を冷やせということなのだろうが、先ほどのフェリスに対する接待を見る限り、彼が心を入れ替えた様子はなかった。


「あとでお義母さまに手紙書かないといけないかな、流石に軍にも謝らなきゃ不味いし……でも勝手に謝れないし……はぁ……」


 大きく溜息を吐き、やれやれと頭を振るフェリス。

 レクティファールは慰めるようにフェリスの頭を撫でた。


「大丈夫ですよ、叔父上も馬鹿ではないですし、ある程度軍の方も誤魔化してあると思います」


 軍務中とはいえ、この日のこれからの予定といえば西域派遣部隊の駐屯地に向かい、駐屯部隊の責任者と打ち合わせをして本国から届いた荷物の整理をするぐらいだ。もしかしたら支店長は、フェリスのこれからの予定も考えに入れて行動していたのかもしれない。レクティファールの見た限り、支店長は軍――――ひいては皇国政府に喧嘩を売るような真似をする男には見えなかった。

 一見俗物に見えても、実際には俗物であることを演じている、そんな印象だった。

 おそらく軍では、今回のフェリスとレクティファールの行動は、西域経済市場の視察とでも扱われるのだろう。


「だといいけど……」


「マリア公には簡単な手紙を送っておけば良いと思います。叔父上に歓待されたとでも書いておけば、あとは向こうで事情を読み取ってくれるでしょう」


 言って、撫でる力を少しだけ強めるレクティファール。


「むふ――……」


 フェリスは満足そうに吐息を漏らし、やがてレクティファールの手のひらに頭頂部を擦りつけ始めた。

 あの決闘以降、二人だけのときには妙に甘えるような仕草を見せるようになった上司に、レクティファールは小さく微笑んだ。


「街に出て土産の一つも持って帰らなければ、文句を言われるかもしれません。少し見ていきましょう」


「いいのかなぁ、そんなことで」


「いえなに、何ごとも臨機応変に、そして気負わずに、そのくらいが丁度良いと思います。通信が入らないことを考えれば、駐屯地の方も状況を分かっているのでしょう」


 正確に言えば、駐屯地には陸軍総司令部から『決してレクト・ハルベルン中尉の行動を妨げることのないように、しかし彼から協力を求められたら、持てる総ての力でそれに応えよ』と命令が下っているだけなのだが、敢えて真実をフェリスに知らせる必要はないだろう。そもそも、フェリスにはそれを知る権限がないのだ。

 しかし、駐屯部隊の長はそれなりに裏の事情に通じている人物であるから、もしかしたら『レクト・ハルベルン』の正体にも気付いているかもしれない。軍務だけでなく政治にも通じた人物――――今回の派遣に当たって陸軍はそういった人物を選んだのだから、当然ではあるのだが。


「では、行きましょうか」


「あ、待ってよレクトー!」


 撫でていた手をどかし、さっさと歩き始めるレクティファール。

 フェリスは慌ててそのあとを追い、


「ああっ!?」


 石畳の段差に躓いてすてーんと転んだ。

 慌てて駆け寄るレクティファールと、痛みを堪えるフェリスの姿は、とても軍人には見えなかった。



         ◇ ◇ ◇



 夜半、駐屯地の営庭の片隅。

 防犯のために燈された申し訳程度の灯りの中で、一つの光が同じ運動を繰り返している。

 その運動は風を切る音を伴っていて、その音は小さな話し声を隠していた。


「――軍事政権側との交渉は順調です。代表であるカールス上級大将も正統政府側が自分たちの提案を受け入れるようであれば、パトゥーリア王子の政府に帰順する用意があると」


「ふむ、帰順とは言え、実際のところは、政治は自分たちに任せて王族は宮殿に引っ込んでいろということだからな。正統政府側は受け入れる筈もないか」


「御意」


 光を反射する片刃の剣を一定の速度で振り続ける男と、その傍らの影の中に膝を突く黒衣の人物。

 男――――レクティファールは汗ひとつ掻かないまま、しかし、常に一定の軌道に刃を乗せ続ける。その軌道の誤差は髪の毛ほどの隙間もなく、名のある武芸者がその光景を目にすれば、まず自分の目が鈍ったのだと思うに違いない。彼は外務院から派遣された男とも女とも分からない密偵の言葉に耳を傾けながら、無感情にその驚くべき運動を続けた。


「殿下のご命令通り、正統政府側にも軍事政権への協力者を何名か用意しました。どの程度使えるかは分かりませんが、正統政府が連邦の操り人形になることだけは防げると思われます」


「連邦は何を求めている」


 レクティファールは刃の向きを変え、しかし同じく一定軌道を通過する運動を繰り返す。

 〈皇剣〉と身体の同調をより最適な形にするためには、どんな運動であっても無駄にはならない。細胞ひとつひとつの動きまで運動計算に含めても、〈皇剣〉の演算機能はまだまだ余裕があるのだ。


「やはり、港と〈マルドゥク〉での経済的優位ではないかと我々は考えています。連邦も皇国に近い国々は我が国の復興特需の恩恵を受けていますが、逆に中原諸国側はそれに取り残される形になっています。両地域の経済格差は、今のところはそう大きなものではありませんが、いずれ表面化して問題になりましょう」


 嘗て連邦の皇国側諸国と、中原諸国側の国々は逆の立場にあった。皇国の動乱に巻き込まれるように経済活動が鈍化した皇国側諸国に対し、中諸国側の国々は帝国との戦いを続ける連邦内外の各国相手に商売を続け、好景気に沸いていた。

 それが、帝国の攻勢が止んだ途端に逆転した。


「市場主義を掲げればそうなるのは当たり前だ。我が国とて、例外ではないがな」


 自嘲するように笑い、しかし彼は動きを止めない。

 駐屯地の営舎から見れば、ただ彼が一人で自主鍛錬をしているだけに見えるだろう。


「連邦だけではない、どこも自分たちに利益があれば警戒しつつも食い付く。食い付かねば餓死するのだから当たり前だが、それをどうやって制御するか、か……」


 そう漏らすレクティファールに、密偵は自らの上司からの言伝を口にした。


「総裁はキャベンディッシュ卿の伝手を使おうとお考えです」


「なるほど、卿は連邦や中原の商会とも付き合いがあったな。つまり、マルファスは連邦内部だけでは制御しきれないと考えているか」


「は、帝国系の商会が連邦に働き掛けを行っていることも既に分かっております。彼らが今回の政変に何らかの関わりを持っていることも」


「正面から戦うばかりが戦争ではない、か。誰が陣頭指揮を執っているか分からないが、数だのみの帝国も、数がいる分優秀な人材も豊富のようだ」


 全くもって忌々しい限り、と口腔内で小さく付け足したレクティファール。

 戦う相手は弱い方がいいと思うのは、騎士や武道家ではない彼にとっては当たり前のことだ。

 相手が自分よりも劣るなら、お互いの被害は制御することが出来る。それが出来ないのは、相手と自分の力が拮抗し、容易にそれを制御することが不可能だから。

 本当の戦巧者とは、相手と自分の損害を制御出来る者を指す。将として勝つだけなら三流、勝って自分の損害を制御出来るなら二流、勝ち負けや互いの損害を制御出来ればそこでようやく一流だ。

 自分がどのような分野でも三流に届かないと思っているレクティファールにとって、強敵との出会いは決して心踊るようなものではない。他国の要人が彼を評価しているほどには、彼は自分を評価していなかった。

 出来るなら、優秀な敵とは戦いたくはないのだ。


「困ったものだ」


「――――」


「報告はこれで終わりか」


「は」


 剣を収め、〈皇剣〉の演算を学習から分析に切り替えたレクティファールは密偵に問う。

 密偵が頷くと、彼は営舎の方へと身体を翻した。


「グリニッドに居る我が国の特使に伝えよ。『勝ちは最後の手段、場を動かすのは勝利であってはならない』と」


「はっ」


 影に滲み消える密偵。

 おそらくこのまま、レクティファールの言葉を伝えるために〈神聖グリニッド王国〉へと向かうのだろう。

 レクティファールは密偵の気配が消えたのを確認してから立ち止まり、ふと夜空を見上げてみた。


「随分、遠くに来たものですね」


 言ってからやれやれと頭を振り、彼は宿舎として宛てがわれた建物へと向かう。

 おそらく明日には明日の問題が発生するだろうが、今日のところはこれでおしまいにしよう。やれなければならないことは山積しているが、急いで仕損じることは避けるべきだった。彼の立場とは、失敗さえも制御しなくてはならないのだから。



         ◇ ◇ ◇



「皇国軍は女が多いって話だが、この光景をみると納得出来るよなぁ」


 軍の兵員輸送車で前線へと向かう途中。第〇〇八班の一人がそう呟いた。

 南洋諸島出身の候補生で、日に焼けた肌と縮れた髪が特徴的な男だ。名をエクパという。


「二班合わせて九人、内四人が女だ。うちの国じゃ考えられねぇ……」


「エクパ、それは我が国の軍制に対する批判なのかしら?」


 彼の呟きを聞き咎めたウェルチにじろりと睨め付けられ、エクパは恐縮したように両手と首を振った。


「いえ、とんでもない。人口比から考えれば、こっちの方がいっそ健全なのかと思った次第で、へえ」


 下男のように謙った態度を見せてはいるが、その表情にはウェルチの反応を面白がっている節も見える。海賊貴族の次男として皇国に留学しているこの男は、飄々とした態度でウェルチの視線を躱した。


「他の国じゃ、皇国は戦乙女の国って呼ぶこともあるくらいで……なあゲオルグ、ハンス」


 そういって彼は同僚二人に水を向けるも、返って来た反応は冷たいものだった。


「男だの女だの、戦場では関係ないだろう。敵なら討ち、味方なら支えるだけだ」


「そもそも戦場が男のものだというのは、男性の方が膂力があり、戦いに向いていたからこそ出来た価値観です。皇国などの能力の雌雄差が少ない国なら、軍の男女比が他国と違っても不思議なことではありませんし、逆に性別的性格から女性の方が向いている軍務というのもあります」


 ゲオルグは窓の外から視線を外さずに言い捨て、ハンスと呼ばれた書生風の男は持論を垂れてエクパの意見などあっさり押し流してしまった。

 ハンスの講釈が垂々と続き、エクパは顔を大いに引き攣らせた。仕方がないとばかりに第〇八九班へと目を向ければ、そこには幼馴染の膝枕で大鼾の砲術士官と二人の龍姫の間に挟まれて政治議論を続ける皇国騎士が居るだけだ。


「――大陸第二の軍事大国って、こんなんばっかりかよ」


 エクパはがくりと肩を落とし、だが、次の瞬間にはルフェイルやレクティファールに羨望の眼差しを向ける。

 海賊貴族と呼ばれる彼の実家は、あの海賊女王の一族に古くから使えてきた船大工の家系だ。旧帝国が崩壊してから千年以上も海を駆け巡り、大陸の国々の商船を襲っては生計を立てるという生活を送ってきた。それが変化したのは、おそらく皇国の交易皇が南洋諸島の国々と交易を始めた頃だろう。

 皇国の軍艦や私掠船に散々打ちのめされた結果、彼らは陸に上がって国を興すこととなった。

 今では南洋諸国の中で盟主のような立場になっているが、それまでは海戦に次ぐ海戦で国も民も疲れ切っていた。それでも国が瓦解しなかったのは、海賊女王の一族が大陸のどの大国の君主にも劣らない王器の持ち主だったからだろう。

 あの一族は小さな小さな家族だけの海賊から始まり、何度も敗北と勝利を繰り返し、ときに敵の虜囚となりながらも自らに賛同し恭順する者たちを束ねて大海賊団を創り上げた。そんな海賊女王の一族に心服する者は多く、エクパも個人的に海賊女王を崇敬していた。

 皇国が女性の軍人が多いと聞いたときは、果たして女王陛下と較べてどの程度のものかと密かに楽しみにしていたほどだ。


「こんなのばかりと思っていれば、そこであなたは終わり。敵を侮った瞬間、自分自身の成長も止まってしまうものよ」


「は、ご教授痛み入ります」


 エクパは少し崩した敬礼でウェルチに答え。ウェルチはそれに頷いて見せた。

 そして二人は同時に、向かいに座る三人の男女に目を向ける。


「フェリス様、グレン大公との会談はどのような結果になりましたか」


「あ、領主との会談の結果ということだよね」


「はい」


 ウェルチに声を掛けられた瞬間、フェリスの肩が滑稽なほど跳ね上がったことをエクパは見逃さなかった。

 同時に思う、「こんなごく普通の女性でも士官として生きていける皇国は、何とも余裕のある国だ」と。

 それは多分に侮蔑の混じった同情だった。しかし、彼のその表情はすぐに感嘆へと変わる。


「――――蒼龍公の公子として纏められる範囲ではあるけれど、幾つか交易に関する協定を進めてきたよ。港湾施設の優先使用権と税関手続きの簡略化、あとはこっちではあまり流通していない皇国産の香草茶の宣伝とか」


「それは重畳……もしかして、そちらの中尉殿がお手伝いを?」


 ウェルチはそう言ってレクティファールを見据える。

 その瞳に宿る興味と敵意に、レクティファールは苦笑するしか無かった。


「部下の使いどころを考えるのが上司の役目ですし、身贔屓と言われるかもしれませんが、うちの班長は良い仕事をしたと思いますよ。事前に打ち合わせはしましたが、実際に大公閣下とお話ししたのは彼女です。私は一切、会談に嘴を挟んでおりません」


「そう……我が主君を助けてもらって、感謝するわ。でも――」


 ウェルチは無表情のまま零下の視線を差し向け、レクティファールは捉えどころのない茫洋とした眼差しでそれを受け止める。

 現役士官同士の無言の駆け引きに車内はいつしか静まり返り、鼾を掻いていたルフェイルも何ごとかと身を起こす。


「下があまり優秀では、上が育たないと思わない? 失敗は人を成長させるものよ」


「失敗ばかりが成長を促すということもないでしょう。成功からしか学べないこともあります」


 ねっとりと質量を持ったかのような空気の中で、九名は凍り付いたように動かない。

 特に事態の中心に居るフェリスは何とも居心地が悪そうで、何度もレクティファールの袖を引いては彼の意識を自分に向けようとしていた。ウェルチの言葉は間違っていないし、レクティファールの言葉もまた正しい。

 どちらかが間違っているということでないなら、そもそも争う必要がないのではないかと彼女は考えていた。

 それが、彼女の限界なのかもしれない。


「以前から訊きたかったの」


「なんでしょうか」


「何故、あなたは騎士学校にいるのかしら?」


「軍からの命令です。あなたも同じではないですか?」


 軍からの命令と、それが自分から働き掛けた結果という点で、二人の騎士学校編入への流れは似ている。

 そしてその気質も、二人は面白いほどに似ていた。


「あなたほどの実力があれば、騎士学校出などという箔付けも必要ないでしょう」


「箔付けならば、確かに必要ありませんね。ですが私は、物ごとを知る機会とは人生のうちにそう多くあるものではないと思っているのですよ。ただ漫然と知識を蓄えるだけなら軍でも出来ます、現役の経験豊富な将兵が周りにいるのですから」


「では、何故?」


 問われれば、レクティファールは笑って答えた。

 ウェルチの眉間に、浅く皺が刻まれるのをエクパは見た。


「知識とは現場だけで得られるものではありません、分析され、分類され、系統立てられた知識もまた、現場で得られる知識に劣るものではないと思います」


 士官学校を出たばかりの頃、現場の荒くれ兵士たちに散々煮え湯を飲まされたウェルチ。研修で各地の部隊に赴くたび、軽んじられ、疎まれ、無視された。だが、彼らは彼女を侮っていたのではない、彼女が自分の知識に溺れていたことに気付いていたから、そんな彼女の心根を侮ったのだ。

 彼らは常に自分たちの生命を預けるに足る士官を求めていた。自分たちの元に現れた士官がその条件に満たないなら、彼らはあらゆる手段で条件に足る士官を得ようとする。部隊に配属されたばかりの新米士官が古参の下士官兵の洗礼を受けるというのは、彼らなりの士官教育と言っても間違いではなかった。

 ウェルチも一年以上、異動するたびにそんなことを繰り返した。

 その中で一つ一つ、自分の中の知識と下士官兵の言動を結び付けていき、ある程度自分の中で知識と現実が結びついたとき、ようやく彼女は兵たちに侮られない士官になっていた。

 知識はそれだけでは意味が無い。しかし、知識がなければ意味が無いことにも気付けない。

 どこでどんな知識を得ようとも、それを活用するのは各個人の気持ち次第――――ウェルチはレクティファールもまた自分と同じ答えを得た士官なのだと、ここでようやく気付いた。そして、自分がこの男を余り好かない理由も。

 この男は、自分に似過ぎている。鏡とまでは言わないまでも、似ている部分を挙げろと言われれば、軽く百は挙げられる。

 そして、鏡は自分の好きな面だけを見せてくれるのではない、嫌な面も、目を逸らしたいと思う部分も、差別すること無く見せ付けてくる。

 だから、好きになれない。


「――――なるほど、確かに」


 ウェルチは呟き、椅子に深く腰を沈めた。

 兵員輸送車の固い椅子は御世辞にも良い座り心地とは思えなかったが、ウェルチにとっては座り慣れた感触だ。大きく吐息を漏らし、腕を組んだ。


「あなたがうちの班に来たら、仲良くなれたかしら」


「同じ班でなくとも、あなたが望めばいつでも」


 ウェルチの言葉にぎょっとしたフェリスだが、続いたレクティファールの言葉に、今度は涙目になる。

 何か言いたげにあわあわと唇を震わせるが、丁度そのとき輸送車が道に落ちていた石に乗り上げた。

 がたん、という大きな音と共に輸送車が跳ね、後部乗員室に居た者たちの尻が一瞬浮かび上がる。


「ひゃあっ」


「わあっ」


 パトリシアが一際大きな悲鳴を上げ、フェリスがそれに続く。第〇〇八班は全員漏れそうになる声を押し殺したようで、車内に反響した声はその二つだけだった。

 だが、揺れが治まったあとに、追加で悲鳴を上げた者がいた。


「れ、レクトっ!?」


 腰を抱き寄せられた、フェリスと、


「――……っ」


 肩を抱き寄せられ、声にならない悲鳴を上げたオリガだ。

 フェリスはその場から逃げだそうとじたばたともがき、オリガは僅かに染めた頬を隠すように俯いた。


「おや?」


 ただ、その事態を引き起こした当人はといえば、自分の行動をこのときになってようやく理解したらしい。

 無意識に動いたのか、或いは〈皇剣〉が自動制御で二人を抱き寄せたのか。

 本人も少し驚いているようだった。


「――――ふむ、固定帯付けたほうがいいですかね」


「そっち!? この暴挙は素通りなの!?」


「暴挙……? 一応、二人の安全を確保しようとしたのですが」


 意識はしてなかったけれども、とレクティファールは心の中で付け加える。

 口に出せば碌なことにならないことは、今までの経験から理解していた。


「……わたしは、別にこれでもいい」


「オリガっ!?」


 どうせ、自分の身長では固定帯も満足に機能しない、そう言ってじりじりとレクティファールに擦り寄るオリガ。

 先ほどまで覗き込んでいた資料に目を落とし、次、と呟いた。


「――皇国軍人は、化物ぞろいか……」


 万感の想いを込めてそう呟く留学生も居なかった訳ではないが、フェリス以外の車内の面々はオリガの言動にも驚いた様子はない。

 むしろ、いつものことだと言わんばかりの態度だ。


「今の石といい、こちらの道路は皇国の整備された幹線道路とは違いますねぇ」


「うちは数が少ないからな、少ない兵力を上手く使うには軍用道路の整備は不可欠なんだろうよ」


 レクティファールの独り言に答えたのは、再びパトリシアの太ももを堪能し始めたルフェイルだった。瞑目し、レクティファールと軍用道路の運用法について幾つか意見を交わす。

 整備の頻度、幅員や強度、打設方法から工事期間、予算、使用される重機や混凝土の種類、それを扱っている商会とその特徴など、様々な意見が二人の口から出てくる。

 その間もレクティファールはオリガの求めに応じて資料を捲っていたし、ルフェイルもパトリシアの玩具になったままだ。何とも緊張感に欠ける連中である。


「それに、幹線道路があれば流通も活性化する。この間の内乱のときみたく、物資があるのに流通させられないなんてこともあるがな」


「その辺は、政府の仕事だと思いますけどね」


「――――って、ボクは無視っ!?」


 相変わらず腰を押さえられたままのフェリスがレクティファールに抗議するも、その拘束が揺らぐことはない。


「危ないですし」


「危ないと思うよぅ?」


「ドジだからな」


「――もう少し、くっついた方が安全」


 ついでに、班の結束も揺るがなかった。


「うっ」


 助けを求めるように第〇〇八班の面々に目を向けてみれば、やれやれやってられるか畜生、と言った感じで窓の外を見る者や、隣同士で西域各国の軍備について意見を交わす者たち、そして呆れを多分に含んだ視線をフェリスに向ける者が居るだけで、彼女を助けようという意思がある者は居なかった。


「うう……なんでこんな辱め……」


 と、フェリスが声を震わせた途端、再度石に乗り上げる輸送車。

 先ほどよりも大きな石があったらしく、揺れはさらに強かった。


「ひゃあっ! って、どこ触ってるのレクトっ」


「え? どこって……」


「い、言わないでいい、言わないでいいからっ!」


 わーわーと騒ぐフェリスの甲高い声を聞きながら、レクティファールは自分の中の並列思考の大半が自分を醒めた目で見ていることに気付いた。

 並列思考たちは言う、いつまでも逃げていてどうするのか、と。

 彼女の両親に対する作戦は、もう、間近に迫っていた。






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