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第二章:戦後内政編
第八と半分の話「ハルベルン家の朝」



 朝、というものは本来寝る必要のないレクティファールにとって単なる日照の始まりに過ぎない。夜明けが昼行性の生き物にとっての一日の始まりという認識は持っているが、それも仕事の関係上認識している概念だ。

 それでも周囲の生活に合わせるため、彼は眠るという行為を義務として行っている。勿論、緊急を要する仕事があるならその義務が履行されることはないが、後宮や離宮では相手に合わせて眠ることにしている。そうでもしないと、相手は自分を気遣っていつまでも寝ようとしない。概念兵器である自分と、生き物である相手。どちらに合わせるのが妥当か、考えるまでもなかった。

 他方、“皇剣”はレクティファールの自意識が眠っている間も働き続けている。

 第一に直接的な運動機能に関して、睡眠によって身体機能の大部分が低負荷アイドリング状態に入っていることを利用し、身体機能を維持するために体内組織の摩耗を修復、或いは強化。さらに体内の循環機関を全力稼働させて各部位に溜まった老廃物を除去、分解している。

 第二にそれら身体機能に直接関わる機能とは別に、“皇剣”の存在意義の一つである情報の蓄積を担う部位でも睡眠による低負荷状態は利用されている。最適化と呼ばれる、重要情報の選定と新規情報の整理、利用頻度の低い情報の圧縮と収納だ。

 その最適化に於いて、レクティファールの自意識の一部が使用されていた。自意識と記憶・記録は相互に深く干渉しており、どちらが欠けても情報の最適化が行えないからだ。ただし、情報最適化そのものは眠っていなくても行える。ただ、眠っていた方が少々効率が上がるという程度の違いに過ぎない。

 その情報の最適化の最中、眠っているときのみレクティファールは『夢』に似た幻想の投影を見る。

 ひょっとしたらあるかもしれない未来、在り得たかもしれない過去。“皇剣”の演算の結果、可能性の一つとして処理されたそのどちらもが、情報の最適化の最中に忽然と現れる。

 夢を見る必要のない兵器が何故夢を見るのか、理由はひどく現実的だった。

 通常であれば情報の最適化は“皇剣”所有者の思考系統とは別の形で行われ、それを所有者の思考によって理解することは出来ない。ただ、最適化の途中で断片化された情報だけは所有者の意識でも認識可能になる。

 それが、概念兵器の見る夢の正体だ。完全に“皇剣”と同期してしまえばその処理速度に対応することも出来、夢を見ることもない。処理能力も最大限使用出来る。しかし、彼らが夢を見るということは、未だ彼らが人としての意識を残している証左に他ならない。完全なる兵器と、人としての側面を持った兵器。どちらが“皇剣”という兵器に相応しいかと問われれば、歴代の皇王は揃って後者と答えるだろう。

 “皇剣”は概念兵器という兵器であると同時に概念兵器という人である。そして、人であるが故に夢を見る。

 そしてこの日、当代の概念兵器たる青年は一つの可能性を見た。

 それは、母となり、自らが産んだ子を抱く義姉の姿。

 夢の中の彼女は幸せそうに微笑んでおり、近くに立っていた彼を呼んで子どもを抱かせてくれた。

 剣を置き、侍女服を脱いだ彼女は何処から見ても“母”であり、誰かの“妻”であった。

 彼はそんな義姉の姿を眩しそうに見詰め――――いとも容易く現実へと引き戻された。

 身体機能の正常化と情報最適化が終了し、眠る必要が無くなったのだろう。彼は余韻少なく目を開き、ハルベルン邸に設けられた自室の天井を見上げた。

 身体機能の異常も少なく軽度なものが殆どで、処理すべき情報も少なかったこともあって彼の睡眠時間はほんの二時間程度だった。傍らに誰かがいるならここからさらに何時間か睡眠を取るのだが、時計を見た彼はこのまま起きることにした。壁に掛けられた時計は午前四時三〇分を指していた。


「――――珍しい」


 起き上がりながら、夢の感想を述べるレクティファール。

 珍しい、というよりは余りにも非現実的に思えた。

 “皇剣”の見せた『夢』は、『夢』という名の可能性である以上、それは現実に起こり得る。

 ウィリィアが誰かと共に歩むことを決め、母になる可能性をレクティファールは否定しない。ただ同時に、ウィリィア・ハルベルンという女性が自分の未来を最優先に考えることはひどく考え難い。

 おそらく彼女は主君たるメリエラを第一に考え、これからも生きていくことだろう。

 メリエラの幸せこそ自らの幸福。メリエラの喜びこそ自らの歓喜。メリエラの願いこそ自らの願望。

 あの日、レクティファールの知らぬあの過去の日に彼女は死に逝く人に誓ったのだろう。

 その女性が護りたかったものを、代わりに護り抜いてみせると。

 されども、レクティファールから見てそれは只の逃避にも思え、意図せず口から言葉が漏れた。


「――――果たして、それは贖罪なのか……」


 本人の前で、同じことを口にするつもりはない。そんな勇気も、意志もない。

 他人の過去に口を出すことは、果たしてどれだけの意味があることだろうか。

 変えようもない過去に対し、本当の意味で過去を知らぬ者が何をほざく。自己満足にも充たない、只の我が儘ではないか。


「もしも口を出すのなら、それなりの覚悟が要るでしょうね」


 それこそ、相手の今の総てを否定するに等しい所業。その代価は、己の総てが妥当だろう。

 殺されたとしても、文句は言えない。


「――――だけど、まあ、私にはそんな覚悟はありませんがね……」


 ごろり、と寝返りを打つ。

 寝台横の窓から、白み始めた空が見えた。


「夜明けも遅くなったものです。――――ということは、この世界は地軸の傾いた惑星ということなのでしょうかね。四季もあるし」


 普通に生活する分には大して意味のないことを呟きつつ、レクティファールはのそりと起き上がる。

 長男のお下がりだという寝間着を脱ぎ、今度はアルフォードのお下がりだという普段着に着替える。

 白の上着に褐色の細袴。両方共さして上等な布ではないが、丈夫で肌触りの良いものだった。物の価値が値段ではないことを、この家の財布を預かる者は知っているらしい。


「うん、私は良い養母に恵まれた」


 ウィリィアを見ていれば、子育てにも長けた女性だと分かる。

 夫のアルフォードも騎士としては中々の人物で、白龍公カールがこの夫婦を自分の養父母として推した理由が分かった気がした。


「健全な環境無くして健全な精神無し」


 そして、健全な精神無くして健全な為政無しということか。

 レクティファールは小さく微笑み、姿見でそんな自分の姿を確認して今度は苦笑した。


「――――さて、義母上の手伝いをしないと」


 職員たちが登城する頃には皇城に戻らないと拙い。

 まず宰相が無言で怒り狂い、次に皇王府総裁が笑顔で怒り狂う。それも、部下たちに気付かれぬよう心の奥底で。

 唯一人、己が主君にのみその怒りが届くように怒る。


「まあ、仕方のないことだけど……」


 自分を中心とした現体制は未だ立ち上がったばかりの仔馬のようなもの。不安定で、いつ転ぶとも知れず、さらに傷付き易い。それを支えるために、老練な彼らを柱石として体制を纏めているのだ。

 ただ声望があるだけでは組織は纏まらない。どれだけ組織を支える柱が太く頑丈でも、その柱を支える土台が脆弱ならば組織は容易く崩れ落ちるものだ。

 その点、レクティファールは大いに恵まれている。

 国家を割ってしまうほど――つまりは諸刃の剣と言って良い程の愛国心を持つ者たちと、この国の歴史をその目で見詰め続けてきた妖精の長老がすぐ近くにいる。彼らは自らの欲を制御する術を心得ていたし、何よりも主君を諫めることを躊躇わない。

 レクティファールの国主としての技量が稚拙なことは確かだが、臣下たちの存在はそれを補って余りある。


「国とは民、国とは臣、国とは君」


 国主としての学問を学べば、一番初めに教えられるのはそんな言葉。

 国を成り立たせる要素として、君主は民と臣に劣るという意味だ。

 君主あっての国家と思っていれば、いつか足元を掬われる。それを戒める言葉なのだろうとレクティファールは考えていた。


「どちらにせよ、私は一人じゃ生きていけない訳で……」


 困ったことに、こちらの世界の自分は只まんじりと生きていれば良いというものではない。

 しかし、自分ひとりでは大したことは出来ない。

 元首とは国家の束ね、多くの国民を束ね、国家としての形を作り上げることをその役割としている。元首単独で何が出来るかと問えば、多くの者は言葉に詰まり、それ以外の極小数は殆ど何も出来ないと返すだろう。元首とてただの人、役割が特別なだけであり、出来ることが人より特別多いということではないのだ。


「まあ、今更独りに戻ろうとは思いませんが、ね」


 そう嘯き、レクティファールは再び笑んだ。

 彼の目の前に立つ鏡の住人たる青年は何処か頼りなく、同時に何処か楽しげに笑っていた。











 一家の食を預かる厨房に顔を出してみれば、そこには既にルイーズの姿があった。

 飾り気の無い前掛け姿で、鍋の灰汁を少し、また少しと掬っている。


「おはようございます」


「あらレクト殿、おはよう。早いのね」


「ええ、いつもならもう一眠りするのかも知れませんが、家に戻ってまでそれもどうかと思いまして」


「寝ててもいいのに、いつもお仕事大変なんでしょう? ここに居るときぐらいのんびり過ごせばいいのに」


「いつもは全部他人任せですからね。たまには自分でやらないと」


「そう、じゃあ――――」


 ルイーズは生真面目な息子を苦笑を浮かべながら、食堂に行って食器を並べてくれるよう頼んだ。

 レクティファールは頷き、隅に置いてあった食器入りの台車を押して厨房を出る。


「――――ああ、あと、表の郵便受けから新聞も取ってきてくれるかしら~~?」


「はい」


 何とも、穏やかな朝だ。

 レクティファールは食堂へと続く廊下で、朝日を見ながらそう思った。

 つい数カ月前まで血煙舞う戦場に居た筈なのに、今はこうしてあの命の遣り取りを性質たちの悪い夢だったのではないかとさえ思える生活を送っている。

 城に戻ればそこには新たな家族が居て、新たな仕事場がある。しかし、そんな日常はあの戦場では考えもしなかったし、考えられなかった。だからレクティファールはこう考えもする。あの戦場で、こんな穏やかな日常を永遠に失った同胞はらからが存在したことは覆しようも無い事実で、今のこの日常こそが彼らが自分に遺した呪いなのではないかと。

 微温ぬるく、甘い日常を教え込み、それを奪う。

 散った戦友たちの死に責任を負うレクティファールには、似合いの復讐だ。


「あると分かっている罠でも、逃げられないからなぁ」


 今の日常を捨てられない以上、レクティファールは分かっていて罠に掛かりに行くしかない。

 その上で、罠を喰い破る。


「私って、こんなにも能動的じゃない筈なんですけどね」


 それでもやらねば、望む望まないに関わらずこの腕の中に収まってしまった大切な者たちを失う。

 一度腕の中に入れたものを失うというのは、諦めの良いレクティファールといえども納得し難いことだった。


「――――ということで、ウィリィアさんは守りますとも」


 いつの間にか辿り着いた食堂の扉に手を掛けつつ、彼は誰にともなく呟いた。

 応える声は――――彼の背後から。


「おう、そりゃ良かった」


 レクティファールが振り返った先、アルフォードは鉄芯を仕込んだ大振りの木剣を肩に乗せ、口の端を小さく引き上げる笑みを浮かべている。


「おはようございます。――――修練ですか?」


「ああ、仕事が詰まってると朝と夜ぐらいしか自分の修練の時間が取れなくてな」


「なるほど」


 近衛軍の訓練教官として忙しい日々を送っているアルフォード。自身の訓練も怠る訳にはいかないから、自然と仕事前、仕事後に訓練を行うようになったのだろう。もしかしたら、近衛軍に出向する前からの日課なのかも知れないが。


「お前もやるか?」


 とんとん、と木剣で肩を叩くアルフォード。

 その申し出に、レクティファールは頭を振った。


「義母上に頼まれた仕事があるので、また次の機会にお願いします」


「そうか……じゃあしょうがないな」


 朝の爽やかな空気の中で義息と剣を振れると思っていたアルフォードは、残念そうに眉を寄せた。しかし、先約があるというならばそれは仕方がない。


「じゃあ、俺は庭にいる。朝飯が出来たら呼んでくれ」


「はい」


 アルフォードは木剣を担ぎ、レクティファールの肩を叩いて去っていった。

 それを見送ったレクティファールは気を取り直し、食堂の扉を開けるのだった。








 ハルベルン家の朝食は、皇国貴族筆頭のリンドヴルム公爵家に属する騎士家としては質素なものだった。

 そのため朝食を作るための手間はさして多くもなく、ルイーズは実質一人で朝食を作り上げてしまった。レクティファールに出来た手伝いといえば葉野菜をちぎり、高い位置に置いてあった皿を下ろした程度。居ても居なくてもさして違いはなかっただろう。

 それでもルイーズはレクティファールに礼を言い、労った。その上で、彼女はレクティファールに一つ頼みごとをした。


「じゃあ、最後にもう一つ頼んでもいいかしら」


「はい、何でしょう」


 彼はこのとき気軽に答えたことを、後々まで後悔することになる。


「ウィリィアを起こしてきてくれないかしら。あの娘ったら家にいるときは寝坊助さんなのよ」


 しかしながら、この時点で彼はこのあと自分に降りかかる苦難を知らなかったし、知る術も持っていなかった。

 そして、「お願いね」と自分を見送るルイーズが、何かを期待するような眼差しを自分に向けていたことにも気付けなかった。


「ああそうだ、ノックして返事がないようだったら部屋に入ってもいいわよ~~」


「はい、分かりました」


 背後から聞こえるルイーズの声に答え、彼は義姉の部屋へと向かう。

 昨夜思いっきり筆立てをぶつけられたこともあり、義姉の部屋の位置は覚えている。彼は屋敷の中を迷うこと無く進み、ウィリィアの部屋の前に到着した。

 扉の向こうに、眠っているせいか希薄になったウィリィアの気配がある。

 彼はその気配を確認し、扉を叩いた。


義姉ねえさん、朝です。朝食の準備が出来ますよ」


 無言。

 寝返りを打つ気配はあったが、起きる様子はない。


「――――義姉さん、起きないと部屋に入ってしまいますよ。どうせ怒るんでしょう。だったら早く起きてくださいよ」


 部屋に入れば、例えルイーズの許しを得ていてもウィリィアは不機嫌になるだろう。不機嫌になるということは、八つ当たりの被害は主にレクティファールに向けられるということ。少なくとも、城に戻らない限りレクティファールはウィリィアの義弟に過ぎないのだ。

 レクティファールは義姉の理不尽な折檻を予防するべく、必死に扉を叩いた。


「義姉さん、本当に入りますよ」


 何度呼んでも、無言。

 たまに呻き声とも喘ぎ声ともつかない声は聞こえるのだが、やはり起きる様子はない。


「――――――――」


 彼は、覚悟を決めた。

 義母の命に従い、決死の任務に赴くのだ。


「――――怒っても、謝りませんからね」


 謝るべきは部屋に入った自分ではなく、起きなかった義姉である。

 でもやっぱり、怒られたら謝ってしまうんだろうなぁ、と肩を落としつつ、彼は義姉の部屋の扉を開けた。


「――――――――おはよう、ございます」


 妙にいい匂いのする部屋に入った途端、何故か囁き声になるレクティファール。さらに言えば、別に足音と気配を殺す必要もないのだが、義姉に怒られるという恐怖が、彼をイズモの忍者にした。足音、呼吸を殺し、気配を消す。“皇剣”の機能を全域に亘って使用した、無駄に優秀な隠密の誕生である。

 彼は窓掛けが引かれたままの薄暗い部屋の中に鎮座する寝台に向かって、無音で近付く。

 そこには、掛け布団に包まって非常に安らかな寝息を立てる義姉上様がおられた。寒いのか、身体を丸めてレクティファールに背を向けている。枕も既に意味を成していない。


「むにょむにょ……」


 意味のない声がウィリィアの口から漏れた。

 その気持よさそうな声に、一瞬、レクティファールの眉間に青筋が浮かぶ。

 彼は義姉の肩を掴み、揺らした。


「――――――――義姉さん、朝です。朝ごはんです。義姉さんは休みですが、私は仕事なんです」


 余りにも気持良さそうに寝ているウィリィアの姿に、罪悪感を覚えないといえば嘘になる。

 だが、起きてもらわなければ困る。


「義姉さん、義姉上、ウィリィア」


 様々な呼び名で呼び掛け、肩を揺する。

 掛け布団がずれてウィリィアの肩があらわになったが、レクティファールは冷静に乱れた寝間着を直すのみ。

 ついでに外れていた胸元のボタンも閉め直す。


「起きてください、というか、さっさと起きなさい」


 段々と強い口調に変化し始めたレクティファール。

 肩に触れる手にも、力が篭ってきた。


「ウィリィア、いい加減にしないと……」


「もにゃ……」


 若干怒りの色が増したレクティファールの声に反応したのか、或いは偶然なのか、ウィリィアはごろんと寝返りを打って仰向けになる。

 掛け布団は彼女の身体の下に巻き込まれ、危うくレクティファールの手も巻き添えを食うところだった。


「義姉さん、起きたんですか?」


「く――――……」


 返答は、寝息である。


「――――――――…………」


 どうしてくれようかこの義姉。

 日頃あれだけ自分のことを厳しく躾ているというのに、自分は朝に弱いのか。

 いや、実家に戻っているという安堵故に気が緩んでいるのだろう。それは勘案するべきだ。

 よく考えろ、この女性はいつも気を張って心身を追い詰めているではないか、家に居るときぐらい穏やかな日常というものを満喫させるべきではないか。

 それこそが義弟としての優しさではないか。


「むにゃ……」


 見下ろしてみれば、肌蹴た寝間着の裾からへそが覗いている。

 その下には白い下着が見えているし、とても家族以外に見せられる姿ではない。


「――――――――」


 つまり、それだけこの女性が安心しているということ。ならば義弟たる自分がすべきは――――


「――――いや待て待て、どちらにしろ起こさなきゃならんじゃないか」


 朝食抜きは健康にも良くないだろう。

 さらにはルイーズから義姉を起こしてくれと頼まれている訳であるし、その職務を放棄する訳にもいかない。

 起こすことに罪悪感はあるが、君主たるものやらなければならないことはどれだけの怨みを買ってでもやらねばならないのだ。

 彼は決意すると、行動に移った。


「義姉さん! 起きてください!」


 先程よりも強い力で義姉の身体を起こし、両肩を掴んで揺さぶる。

 ついでにウィリィアの耳元に口を寄せ、そこで声を発した。


「義姉さん!」


 ウィリィアの顔が、不快そうに歪む。

 どうやら少しずつ意識が覚醒し始めているらしい。


「朝です! 朝食の準備が出来ています!」


「むぅ~~……」


 唸り、身を捩るウィリィア。レクティファールの腕を解こうとしているらしい。

 しかし、そうはさせまいとレクティファールがさらに力を込める。


「義姉さん! 起きなさい!」


「むむぅ~~……!」


 そして耳元でもう一声。

 そこで、ようやくウィリィアの目が開いた。


「あ、起きましたか」


「――――――――」


 レクティファールはウィリィアを支えたまま、問い掛けた。

 寝台の上に座り込む形になったウィリィアは、惚けた顔で義弟を見上げる。


「――――れくと……?」


「ええ、そうです」


 頷くレクティファール。

 良かった、起きた、と思った。

 しかし、彼の試練は終わらない。

 喜色を浮かべるレクティファールに、ウィリィアは両手を伸ばす。


「――――だっこ」


「はっ?」


 素っ頓狂な声を発するレクティファール。

 義姉が何を言っているのか、理解出来なかった。

 無言のまま自分を見下ろしている義弟に、ウィリィアは焦れたようにもう一度両手を差し出す。


「――――ん!」


 早く抱き上げろ愚弟。

 そんな声が聞こえてきそうな態度である。

 レクティファールも思わず手を伸ばしてしまう程度に、その声は不機嫌だった。


「――――むふぅ……」


 ひょいと横抱きに抱えられたウィリィアは、満足そうな声を漏らして義弟の首に両手を回し、首元に顔を埋める。

 対してレクティファールは、自分が無意識に義姉を持ち上げたことに驚いていた。


「あれ? なんで私……」


 どうにもすっかり強気な姉に振り回される弟としての習慣が染み付いているらしい。

 その事実に落ち込みながら、自分の腕の中で上機嫌に身体を揺らす義姉を困ったように見詰めるレクティファールであった。










「あらまあ、随分ご機嫌ねぇこの娘は」


 レクティファールに抱えられたウィリィアを見たルイーズの第一声は、それだった。

 彼女の言う通りウィリィアの機嫌はすこぶる良く、安眠を妨げられたとは思えないほどだ。

 今もレクティファールの首っ玉に齧り付いたまま、鼻歌を歌っている。


「そうだレクト殿、折角だからこのままお風呂に連れて行って上げて頂戴な」


「何とっ!?」


「いつもはわたくしが寝惚けているこの娘の手を引いて連れて行くんだけど……」


「だったら下ろしますよ」


 そう言って腰を落とすレクティファール。

 だが、自分が下ろされようとしていると気付いた姫様は至極不機嫌であらせられた。


「――――ぃや!」


「こ、この義姉……!」


 力尽くで引き剥がそうとすると、いやいやと頭を振ってレクティファールを離さないウィリィア。寝惚けている割には、力が弱いということもない。

 ルイーズは面白そうに義姉弟の遣り取りを見ていたが、しばらくしてレクティファールが諦めると彼女は再び言った。


「ね、この娘のたまのお願い、聞いてあげて」


「――――……」


 そう言われると、反論出来ないレクティファール。

 ウィリィアが日頃どれだけ苦労しているか知っているからこそ、渋々頷いた。


「――――分かりました、では脱衣場まで」


「それでいいわ、そこから先は自分で出来るから」


「はい……」


 敗北感を背負い、去っていくその肩に上機嫌な娘の顔。

 ルイーズは思わず吹き出しそうになり、慌てて口を隠した。

 それでも隠し切れない笑みが、朝食の匂いを嗅ぎ付けて現れた夫の目に止まる。

 アルフォードは妻の表情に首を傾げながら、食前のお茶を求めた。


「どうした、随分楽しそうだな」


「楽しいわよ、良い息子が出来たんだもの」


「――――まぁな、だが、余り構うなよ」


 年頃の異性の子どもは難しい。

 最近、ウィリィアという年頃の娘と満足に会話も出来ないアルフォードは妻に釘を刺した。特に、レクティファールは特殊な立場にいる。下手に母親面をすれば、レクティファールではなくその周囲の者が良い顔をするまい。

 アルフォードは妻が権力の類を求めるような女ではないと知っているが、それも近しい間柄だからこそだ。貴族筆頭であるカールはルイーズを良く知っているが、それ以外の者は彼女の性格など知りはしない。


「分かってるわよ、レクト殿はわたくしの息子だけれど、レクティファール殿下は雲上人。それくらいは弁えています」


「だったら……」


「でもね、あなた――――」


 ルイーズは夫を振り返り、先程の笑みとは違う、ひどく寂しげな微笑で言った。


「どちらもあの子なのよ。笑って怒って困って、わたくしたちと同じ心あるヒト」


「――――ヒトではない、この国を護り、亡ぼせる兵器だ」


 アルフォードの、事実を事実として突き付ける冷たい声音にも、ルイーズは小さく首を振る。


「いいえ。この国を護り、亡ぼせる兵器だけれど、やっぱりヒトなのよあの子は」


「――――――――」


 皇王は兵器かヒトか、それを議論する場は既に皇国に存在しない。

 それは皇王自身が自らを兵器として認めているからであり、今更それを議論しようという者もいないからだ。

 兵器であるかヒトであるかではなく、彼らは皇王という兵器であり、ヒトである――――国民は自らの主君をそう定義付けている。

 だからこそ、アルフォードは妻の言葉に何の反論も出来なかった。

 皇王がヒトでないという定義は、何処にも存在しないが故に。


「――――好きにしろ、程々にな」


「ええ、好きにします」


 答えるルイーズの顔には、明るい笑みが戻っていた。











 脱衣所に辿り着くまで、レクティファールは異性に感じるような独特の柔らかさと温かさを持つウィリィアの身体を持て余していた。

 悪いことをしている訳でもないのに酷い罪悪感があり、その罪悪感は彼の眉間に深い皺を刻み込んでいる。

 道中ウィリィアが上機嫌だったのは果たして幸運だったのか不幸だったのか、彼は答えを得られぬまま脱衣場に到着した。


「着きましたよ、義姉さん」


「うん」


 ウィリィアは素直に頷く。

 レクティファールは脱衣場の鏡の前に置かれた椅子に、思ったよりも軽かった義姉の身体を下ろした。

 今度は素直にレクティファールを解放するウィリィア。

 しかし、やはりというか彼女はさらにレクティファールの精神を削りに掛かる。


「じゃあ、私はこれで……」


「んん!」


 ウィリィアの不機嫌そうな声と同時に、がし、と掴まれる裾。

 連動し、レクティファールの首が絞まった。


「ぐえ――――って何をしますかこの義姉は!」


「ぬぐ」


「は?」


 じっとレクティファールの顔を見上げるウィリィア。

 その表情にいつものような凛々しさは微塵もなく、無垢な瞳が彼を見詰めていた。


「脱ぐ、とは?」


「ん」


 レクティファールの問いに答え、両手を天高く伸ばすウィリィア。

 その体勢のまま、レクティファールに何かを期待している。


「――――脱がせと、私に」


「うん」


「――――――――…………」


 床に崩れ落ちるレクティファール。

 女性の服を脱がせることは初めてではない。初めてではないが、何故にこんな朝から脱がさなければならないのか。しかも、年上の義姉の服を。


「ん~~」


 しかしながら、両手を上げたまま苦しげな声を発する義姉を放り出す訳にもいかない。

 レクティファールは人生の不条理を噛み締めつつ、両目を閉じてウィリィアの寝間着に手を掛けた。


「――――はーい、上げますよー」


「ん」


 寝惚けているという段階レベルの話ではない。

 既に別人格ではないかと思えるほど、今のウィリィアは小さな子どもの様だ。

 普段の彼女であればレクティファールに抱き着くようなこともないし、脱衣場に一緒に入るようなことは許さない。ましてや自分の服を脱がせるなどという暴挙はあり得ない。

 しかしながら、今のウィリィアは非常に素直にレクティファールの言うことを聞き、ぽんぽんと寝間着を脱いでいく。


「下は、どうすれば――――ってもう脱いでるしっ!」


「ん」


 目は見えずとも“皇剣”の空間認識機能で動きは分かる。

 レクティファールは下穿きまで脱ぎ始めたウィリィアに慌てた。

 ちなみにウィリィアは寝るときに上半身の下着は着けないらしい。


「はいる」


「あーはいはい、ごゆっくりどうぞ」


 若干やさぐれたままの義弟を残し、着ていたもの総てを脱ぎ捨てたウィリィアは意気揚々と浴室へと消えていった。

 レクティファールは扉の閉まる音を確認すると、手早く義姉の衣服を畳んで棚の籠に放り込み脱衣場を後にするのだった。













「ん~~……」


 満足気な声を漏らしながら、ウィリィアは湯船で揺られていた。

 湯船に辿り着くまでに二度ほど転んだが、寝惚けていたので気にしなかった。


「きもちいい……」


 心地よい眠りから起こされたときは腹が立ったが、こうして風呂まで連れて来てくれたことには素直に感謝している。

 中々落ち着く匂いの持ち主で、父親とは違う人物だと寝惚けた頭でも理解出来た。


「むぅ……」


 むいむい、とお湯で顔を洗い。彼女は覚醒する意識に快感を覚える。

 次第にいつもの思考回路が回復し、これまでの状況を正確に認識し始めた。

 その過程で、幾つかの疑問が浮かんだ。

 朝、誰かが起こしに来て――――誰が来た。

 自分はその人物に抱き上げるよう求め――――誰に求めた。

 さらにそのまま食堂に連れていかれ――――誰の腕で。

 この浴室まで連れて来てもらい――――誰の温もりの中で。

 さらに服を脱がせてもらった――――誰に脱がせてもらった。


「――――んん?」


 疑問が生まれ、それに答えを出すために思考が回る。

 回転を始めた思考は、次々と答えを弾き出した。


「――――――――」


 誰が来た――――レクティファールが。

 誰に求めた――――レクティファールに。

 誰の腕で――――レクティファールの腕で。

 誰の温もりの中で――――レクティファールの温もりに抱かれ。

 誰に脱がせてもらった――――言うまでもなく、レクティファール。

 以上。


「――――っ!!」


 思考が完全に回復して答えが出ても、このときのウィリィアには悲鳴さえ上げる余裕はなかった。











「じゃあ、飛龍が迎えに来るのか」


「はい、ちょっと先の平原に」


「この辺は牛も居ないからな、まあ、大丈夫だろう」


 ウィリィアを待っていてはレクティファールが仕事に遅れるということで、三人は一足早く朝食を摂ることにした。

 焼いた豚の燻製肉をナイフで切り分け、レクティファールはそれを口に入れた。


「すみません、忙しくて。でも義姉さんは休みですから、ゆっくりさせてあげてください」


「ええ、もちろんよ。何なら今日の夕食もこっちで食べる? 好きなもの作ってあげるわよ」


「いえ、今日は城で……」


 流石に二日連続で後宮を空けるのは不味い。

 主にリリシアが不機嫌になり、次いでメリエラが険しい顔になる。そうなるとリーデやアリアが二人に遠慮し始め、フェリエルとファリエルが自分を冷たい目で見るようになるのだ。


「――――余り空けるとその、精神的に、ちょっと辛いものが……」


「ああ、そうよねぇ、浮気は良くないわよねぇ、でも実家に帰ることは浮気じゃないわよ?」


「――――……」


 いや、別に浮気をしているつもりはないんだけれども――――レクティファールはそう言おうとしてやめた。

 この奥様は言っても笑って取り合うまい。浮気は男の甲斐性、男の浮気を制御することが女の甲斐性とでも言いそうだ。


「仕事もあるんだ、余り我が儘を言うものじゃない」


「あなたはいいわよ、仕事先がお城に近いもの。会いに行こうと思えば仕事帰りに行けるでしょう?」


「いやお前、城に行くって……」


 どんな顔して会いに行けというのだ。

 城のレクティファールは摂政殿下、対する自分は単なる士族。手順を踏めば面会は出来るだろうが、それはとても気楽に会いに行くというようなものではない。


「そうだ、お昼ご飯お弁当にして届けてあげましょうか。わたくしもお城に行ってみたいし、丁度良いわ」


「いやいやいや……!」


 さも名案を思い付いたというルイーズに対し、父と息子は同時にそれを否定する。


「ほら、あれです義母上。今日の昼食は仕事上の会食を兼ねていまして、お弁当はちょっと……」


「あらそう? じゃあ三時のお茶にお菓子でも……」


「いやいやいや……!」


 父と息子、再び。


「ほら、あれです義母上。今日は昼食後に視察に出なくてはいけなくて、お茶の時間なんてとても……」


「あらぁ、残念ねぇ、美味しい焼き菓子作ってあげようと思ったのに……」


「そ、それはまた今度でいいじゃないか……」


「ああ! そうだったわ!」


 夫の言葉に、ぱんと手を叩くルイーズ。

 何だ、今度は何だと父と息子が身構えた。


「今度の帰省はいつかしら? ご飯の用意とか、お部屋の掃除とかの都合もあるし」


「あ、ええと……」


「れ、レクトも忙しいんだ。今すぐには答えられないだろう。帰れるときは連絡を貰えば……」


「それじゃあ困るのよ、手の込んだ料理は一週間ぐらい掛かるんですもの」


「じゃ、じゃあそれくらい前に連絡しますから、ね、義母上」


「そう? じゃあそうして頂戴ね、レクト殿」


「はい……」


 内面はぐったりと、しかし外面上は笑顔を崩さぬままレクティファールは頷いた。

 そして思う、ああ、この母親からあの娘は生まれたのだと。

 さらに言えば、この親子は自分の精神に多大なる負荷を与える血統なのだと。


「じゃあ――――」


 ルイーズが次の話題を、と口を開いたその刹那。

 アルフォードとレクティファールは同時に顔を上げ、廊下に通じる扉に向き直る。

 扉の向こうから、連続する、削岩機のような轟音が近付いてきていた。

 とある人物が、床を踏み抜く勢いで走ってきているらしい。


「――――義父殿」


「――――ああ、ウィリィアだ」


 目覚めてしまったのだ、眠れる獅子が。

 レクティファールは近付いてくる足音に腰を浮かせた。


「――――義父殿、義母上、ちょっと早いですが仕事に行きます」


「うむ、気をつけてな」


「あら、もうそんな時間だったかしら?」


 事情を総て理解し、冷や汗を垂らしながら頷くアルフォードと、首を傾げて時計を確認するルイーズ。


「義母殿、また近い内に帰りますので」


「ええ、お待ちしています。怪我などないようにね」


「はい」


 レクティファールは答えると、転送魔法で自分の私物を部屋から呼び寄せる。ついでに服も着替えた。

 呼び寄せたものは上着とちょっとした小物だけだが、それを身に付けると彼は食堂の窓を開けた。

 終末の足音は、もう近い。


「では、行って参ります」


「おう、行って来い」


「行ってらっしゃい、でも、そこは窓よ?」


「窓から出勤したい気分なのです、義母殿」


「そう……変な子ねぇ」


「ははは……ではっ!」


 素早い身のこなしで窓枠を飛び越え、庭に降りるレクティファール。

 すぐに身体中の筋組織に第一戦闘段階コンバットレベル・ファーストでの稼働を命じ、水蒸気の残滓を残す速度で走り始めた。

 きゅおん、と彼の居た場所に空気が落ち込み、音を立てる。


「忙しい子ね、大丈夫かしら?」


「大丈夫だろう、むしろ心配なのは……」


 アルフォードが戦々恐々と扉を見ると同時、食堂の扉は破壊寸前の衝撃を受けて開かれた。


「れぇえええええええええええええくとぉおぉおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」


 そこに居たのは、薄い湯着だけを纏った怒れる獅子。

 いや、怒れるというよりは――――


「何ウィリィア、そんなに顔を真っ赤にして、体重でも増えた?」


「お母さんっ! 今日起こしに来たのお母さんよね!? ね!?」


「何言ってるのよぅ、レクト殿にあんなに甘えてたのに」


「ぃいやあああああああああああああああああっ!!」


 照れているというか、羞恥心に殺されかけていると言うべきか。

 床にぺたりと座り込んだウィリィアを見て、アルフォードは涙を流して何度も頷いた。


「――――うんうん、立派に育って……お父さんは嬉しいぞぅ……」


「見るなっ!」


 きゅご、という音を曳いて放たれる熊の置き物。

 ウィリィアの手近にあったそれは、不幸にもこの家の当主の眉間に直撃するのだった。


「ぐ――――」


 悲鳴さえ残さず椅子ごと倒れるアルフォード。

 ルイーズは夫の無残な姿にも笑みを失わず、息子が飛び出していった窓に歩み寄る。


「いってらっしゃい、レクト殿」


 空を見上げてみれば、今日も、良い天気になりそうだった。














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