時間としては半時間程度、娘と自分の過去を語ったアルフォードは、一分の感情さえ見せぬ無表情でレクティファールに一言「風呂に入れ」と告げた。
昔語りそのものに後悔は無い。
ただ、感情を顕にすることがひどく面倒で、辛かったのだ。
感情だけではなく総てを押し殺す方が、自分を保つには楽だった。一々考えず、まとめて心の奥底に閉じ込めてしまえば、それでこと足りるのだから。
「――――……」
溜息を漏らし、しかしレクティファールは大人しくアルフォードの言葉に従った。彼にとってアルフォードとウィリィアの過去とは、ただ聴くものであって論評する類のものではない。求められたのならば別だが、レクティファールという男は頼まれずとも行うという種類の積極性は皆無に等しい。
レクティファールの後宮や離宮に暮らす女性たちがその積極性の乏しさを苦々しく思っているのは、未だ本人には届いていない。
「――――……」
ただ、非積極的な性分の彼をしても、アルフォードの昔語りを聴いて考える処は多くあった。
過去に存在したアロエと云う名の女性が、今現在の彼が守りたいと思っている二人を守り抜いた。その過去があったからこそ、彼はあの二人に出会うことが出来た。
しかし、直接顔を合わせたこともなく、義母と呼ぶには余りに彼女のことを知らない。彼にとって尊敬に値する人物である筈なのに、その敬意を向ける先がない――――彼の思考は延々と円を描き、終着点を見付けられずにいた。
「――――はぁ……」
それが原因と言えば、まさにその通り。
彼は驚異的な演算機能を誇る“皇剣”の所有者でありながら、その演算を可能にする並列思考の比率分配を誤った。演算機能を、自分の現在状況を確認するという作業に振り分けることを忘れてしまったのだ。
勿論、緊急事態に対応する為の演算領域は常に確保されているが、所有者の周囲に脅威度の低い事象しか存在しない場合、その緊急用演算領域が使用されることはない。さらに所有者の身体機能の常時管制を行う演算領域も“皇剣”の内部に存在するが、これらは通常、所有者の無意識化にある領域であり、所有者が意図しない限りはその与えられた仕事以上のことはしない。
つまり、分り易く、平易な表現をするならば――――
「――――……」
彼はぼぅっと呆けていたのだった。
だから脱衣場に入って服を脱いでいる間も、棚に置かれた籠の中に女物の衣服がきちんと畳んで置いてあることに気付かず、浴室の中から水の流れる音がしていることにも気付けなかった。
さらには彼が丁度浴室に続く扉に手を掛けたとき、扉の向こうに薄い肌色が見えたことにも、当然のように気付かなかった。
総てに気付かなかった、気付けなかった彼がこの結果を引き寄せたことは、有り体に言って至極当たり前のこと。それ以外の結果は有り得なかったと言っても良い。
がらりと滑車の音を立てて開かれる引き戸。
「――――え?」
扉を開けた瞬間に、彼の目の前に広がる光景。呆けた声を発したのは果たしてどちらだったのか。
「――――――――」
次に訪れたのは無言と硬直。
色素が薄いせいで傷が目立つ肌はお湯の熱でうっすらと色付き、眼に入る光によって結ばれたその像は全体的に細く、それでいて優美な曲線で描かれている。身体を動かすために最適な量の筋肉を秘めた体躯は、元々はお湯だった筈の水滴だけを纏っており、強いて言えば結い上げた髪から逸れ、ほつれてしまった蒼い髪がほんの少し肌に張り付いていた程度。
誰かが入ってくるとは思っていなかったのだろう、彼女も余りに唐突な招かれざる客の闖入に思考が停止しているらしく、自分の身体を隠そうともしない。
そしてレクティファールが扉を開けてから二秒後。一応、年頃の娘さんならば隠すぐらいしようよ――――彼の頭にそんな無意味な思考が湧き上がったその瞬間、二人の時間は再び動き始めた。
「――ッ!!」
これまで以上に全身を真っ赤に染めたウィリィアが手近にあった風呂桶を両手に引っ掴み、
「――げ」
命の危険を感じ取ったレクティファールが慌てて扉を閉めようとする。
ただ、これまで呆けていたが故に発生した一瞬の思考の遅れが彼の動きを阻害した。
そして、その一瞬が最終的な結果を齎す。
「いい加減にしろ、この破廉恥愚弟がぁあああああああああああああああああああああああああッ!!」
浴室から、夜の空と屋敷内に轟くこの家の長女の怒声。
その声を、この屋敷の主夫婦は食堂でお茶を啜りながら聞いた。
「あら、レクト殿ったら積極的ね」
「――――まさかウィリィア、今風呂に入ってたのか……」
妻はほほほ、と上品に笑いながらお茶のお代わりを注ぎ、夫は自分の為出かした過ちに戦慄する。
自分がレクティファールを風呂に向かわせたと知られれば、娘の反抗期は延長戦に突入する。むしろ、今度こそ完璧に嫌われる可能性も否定出来ない。
「ま、拙い……!」
娘に汚物を見るような目で見られることを喜ぶ父親はいない。アルフォードは自分の過ちを棚に上げ、レクティファールが一撃で仕留められて余計なことを言わないように祈った。
「別に姉弟でお風呂に入るくらい普通でしょう」
「あの歳になってから一緒に入ることが、普通か?」
「普通よ、仲が良くて嬉しいわ」
「そう、なのか?」
アルフォードは妻の言葉に懐疑的だ。女心と母心は彼には理解出来ず、従って強く反論することは不可能だが、それでも少しおかしいのではないかと思う。
物が飛翔し、激突し、破壊される音が食堂にまで聞こえてくることもアルフォードが妻の言葉に得心が行かない理由の一つだ。ついでに娘の恥ずかしさが大いに混じった怒声――「待ちなさい! 性犯罪者!」――と、割と本気で逃げ惑っているらしいレクティファールの情けない悲鳴――「事故ですって事故! 痛い痛い! 誰が好き好んでウィリィアさんの裸――って掠った風呂桶で頬が切れた――――ッ!?」――も彼の耳に届いている。
もしかしたら、妻にはあの浴室を駆け回る足音と、浴室が破壊されていく音が聞こえていないのだろうか。アルフォードはにこにこと嬉しそうにお茶を飲むルイーズを見てそう思った。
そんな夫の視線に気付いているのか、いないのか。ルイーズはのんびりと夫に話し掛ける。
「本心のぶつかり合いなんて、若い頃にしか出来ないし、信じてる相手としか出来ないものよ。特にウィリィアみたいに素直じゃない処のある娘は、一生で一人そんな相手に出会えれば良い方じゃないかしら」
「うむむ……そう言われると、そんな気もするが……一応嫁入り前だし、嫁入り姿も見たい訳だし……」
「見たら泣く癖に」
ぐ、と言葉に詰まるアルフォード。
そのまま唸り始めたアルフォードだったが、彼の妻は慌てるという言葉を何処かに置いてきてしまったように、穏やかに浴室の騒ぎを聞いている。
その表情は心の底から楽しそうで、アルフォードは自分の方がおかしいような気がしてきた。
「どっちにしても、二人共大人なんだから自分たちでどうにかするわよ」
「――――いやお前、大人だったらそもそも一緒に風呂に入らないだろう」
「あら? そうでもないわよ」
「え」
だってほら――――妻に促されて耳を澄ませてみれば、いつの間にか騒ぎは収まっていた。
どちらかが浴室から出たような様子もなく、あの馬鹿騒ぎだけが終息している。
「レクト殿があなたとの修練で擦り傷ぐらい作ってるだろうと思って、今夜は薬湯にしておいたの。あの娘も気付いてる筈よ」
「――――ええと、それはつまり……」
「あの娘が自分で怪我させた相手を放っておくなんてことはないわ。優しい娘だもの」
今頃、薬湯を掛けられ、染みる染みると泣き言を言う義弟を情けないと叱り付けていることだろう。
「それに、あの娘がレクト殿を嫌っている筈がないわ」
「どうしてそう言い切れる」
「簡単よ――――」
ルイーズは一口お茶を啜り、微笑んだ。
「女が準備もなく嫌いな男に裸を見られて、あれだけ大騒ぎ出来る訳ないじゃない」
うぎゃあ、と余りにも気の毒な悲鳴を上げながら、レクティファールは青痣の残る背中を擦られていた。
逃げ出した彼の背中に命中した風呂桶や洗剤の容器は合計六発。いずれも一般的な人間種や混血種であれば必殺の威力であった。
「――――何故、治りが遅い……」
「不埒者への罰」
「ぐは」
海綿で背中を力一杯擦るウィリィアからの返答に、レクティファールは呻いた。
散々攻撃され、追い回された挙句這々の体で浴室から出ようとしたところをウィリィアに呼び止められたのだ。
「お、お詫び代わりに背中流してあげる。あなたが入ってきたことに気付かなかったわたしも悪いし……」
何やらもごもごもにょもにょと更に言い訳を追加するウィリィアだが、レクティファールが聞き取れたのは半分程度。それでもウィリィアが自分を気遣ってくれているということは理解出来た。
だから彼は木で出来た小さな椅子に座り、腰に手拭いを巻いた状態で大人しく義姉の言うことを聞いている。
「ほら、動かないの」
海綿で背中を擦るウィリィアは脱衣場から持ってきた一枚の大判手拭いで身体を隠していたが、その顔は羞恥に染まったままだ。軍に居れば裸同然の姿を異性に見せることもあるが、流石に自宅の浴室となると恥ずかしさも一入だった。
そんな恥ずかしさでくらくらする頭を何とか支え、彼女は想像していたよりも広く筋肉質だった義弟の背中を擦る。
その背中には、創傷や擦過傷など彼女が知らない傷がそこかしこにあった。
「――――結構、傷があるのね」
「男娼でも無ければ傷ぐらいどうということもないでしょう。身体機能に影響が無ければそれで問題ありません」
レクティファールが自衛のためと、“皇剣”機能の把握のために近衛軍の訓練に参加することは珍しくない。
実戦形式とまでは言えないがそれなりに厳しい訓練で、これまで訓練中の事故で軍を去らなくてはならなくなった者もいる。レクティファールの背中の傷は、その殆どが一対多の格闘訓練で負ったものだった。一対多数の訓練の場合、多数側は相手の隙を狙って背後から襲ってくることも多い。特にレクティファールは“皇剣”に頼って防御を疎かにしがちで、訓練教官たちは密かに頭を悩ませていた。
通常なら死ぬような怪我でも短時間で治癒してしまう“皇剣”は確かに素晴らしいものだ。ただ、その性能に頼った戦い方は余りにも非効率的で、最終的には味方の損害を増やしてしまう可能性がある。
レクティファールの返答に、ウィリィアも訓練教官たちと同じ懸念を抱いた。
「負傷するということはそれだけ動きの効率が悪いということよ。無駄があるから相手にそれを突かれる」
「同じ場所を同じ方法で攻撃されたことはありませんよ。同じ間違いを二度は犯しません」
「――――――――もう……そういうことじゃないのに……」
ぼやきながら、ウィリィアはレクティファールの背中をお湯で流した。
先程の大立ち回りで負った傷が染みるのか、お湯を掛けた瞬間に背中が震えた。
「染みる?」
「ええ、我慢出来そうで出来ない類の嫌な痛みです」
深手ならば痛覚遮断を実行するが、軽傷であるなら痛みを残しておいた方が身体の損害を知るには都合が良い。
「――――一応、乙女の裸を見たのよ、只で。まだ足りないくらいじゃなくて?」
「只より高いものはない、と。そういうことですね」
いや、勉強になりました、と苦笑し、レクティファールは椅子から立ち上がる。
そのままウィリィアを視界に入れないよう移動し、浴槽に足を入れる。
「――ッ」
ゆっくりと薬草の入った薄緑色の湯に浸かれば、やはり傷口が染みた。
温度が高めのお湯は傷口から突き刺すような痛みを脳に送り、レクティファールは微かに顔を顰めてそれに耐える。
痛みは治癒の証だと理解しているが、痛みを悦んで受け容れるような趣味を彼は持ち合わせていなかった。
「――わたしも、失礼するわ」
彼が全身を沈めて一息つくと、すぐにウィリィアが入ってきた。
慌ててレクティファールはくるりと身体を回転させ、ウィリィアに背を向ける。何故ならば、彼女は浴室での伝統を順守し、身体を隠す手拭いを取り払っていたからだ。
どうしてこういう処まで無駄に真面目なんだろうか、と思うレクティファール。それでも義姉に倣い、自分の手拭いも取って頭に乗せた。
「ふう」
熱の篭った吐息を漏らし、ウィリィアはレクティファールの背中に寄り掛かる。
すると二人は浴槽の真ん中で、背中合わせに座り込む形になった。
「――あぁ……っと、義姉上さま? 何故に私の背中?」
「壁は硬いのよ」
「――――左様で」
まあ、別に減るもんではないしいいけれども――――レクティファールは愚痴を零しながら、背中に掛かる重みに目を細める。
軽いとも、重いとも言えない重さだ。
実際の体重云々ではなく、彼女の命の重さ。
彼女自身が自分の命を軽く考えていたとしても、彼女以外の者にとっては重い。特にこの家の者たちにとっては、掛け替えの無い生命の筈で――――
「――――メリアの母上のこと、聞きました」
「――――…………そう……」
こうして自分の言葉に大きく震えたその身体は、やはり自分にとっては重く、替えの効かないものだった。
少なくとも、昔語りにあったような悲劇を繰り返したくはないと思う程度には。
「――――メリアの母上のこと、聞きました」
弟になった青年の一言に、彼女は目の前が真っ白になった。思わず立ち上がりそうになり、しかしそれ以上力が入らず身体を震わせるに留まる。
「――――…………そう……」
彼女はやっとの思いで、その一言だけを発した。だがそれだけで、心臓が軋み、胸が苦しくなる。
いつか誰かが明かしたであろうメリエラと自分の過去。しかし、出来ることならそれはこの青年に知られたくなかった。理由は――――判らない。ただ、知られるのが怖かった。
「お父さんが……?」
「ええ、辛そうな顔を隠して話してくれました」
「――――そう、だと思うわ」
声の震えには気付かれてないだろうか。
身体が震えていることには気付いていないだろうか。
彼は何も言わない。
――――それとも、気付いていて気を遣っているだけなのだろうか。
「お父さんにとっても、奥方様の死は辛いものだもの。皇都から戻ったお館様の前で這い蹲り、涙と鼻水だらけの顔で謝罪する父の姿を、今でも昨日のことのように覚えているわ」
本当なら、自分が父の代わりに謝らなくてはならなかった。
だが、あのときの自分は幼い子どもで、カールは自分の娘とそう違わない歳の小娘に罪を背負わせることは出来なかった。いや、元々ウィリィアに罪があるなどとは考えもしなかっただろう。カールは、あの事故で誰かに罰を求めるようなことは一つも行わなかったのだ。
空軍の“大総統”が白龍宮に謝罪に訪れたときも、再発防止を訴えるだけでそれ以上を求めることはしなかった。
唯一カールが罪を認め、罰を課したのは彼自身のみ。皇都にあって連れ合いの命も守れず、娘の心に深い闇を植え付けた自分だけを大いに怨み、憎んだ。
「帝国側も、あの事故は予想外だったのでしょうね。その美貌に惹かれた帝国貴族は元より、敵方にあって強力な白龍を操り、自分たちを多いに苦しめた奥方様に憧れを抱いていた帝国軍人も多かった。奥方様の葬儀には、そんな帝国人も非公式に参列したわ」
彼らは大陸の美しき宝玉が砕け散ったことを嘆き、偉大なる敵手を失ったことを悔やんだ。
そんな彼らがいたからこそ、もしかしたら帝国と皇国の間に偽りの平穏が訪れたのかもしれない。
「奥方様のご友人だった先代陛下や他の三龍公、主だった政府高官や官僚。軍人たちや領民も、皆悲しんでいた」
その悲しみの責任の一端を負っているのが、自分。
あの日、外に行きたいというメリエラを止めていれば、或いはメリエラを逃がせる程度に強ければ、いや、今の半分でも実力があれば、あの飛竜に後れを取るようなことは無かった。あの飛竜は決して強い種ではなかった、父であれば鎧袖一触薙ぎ払えたであろうし、兄たちでも十分に勝機があった。
――――つまりアロエを殺したのは、自分の心と身体の弱さだ。
「ねえ、レクト」
そして今でも、自分はこれ程に弱い。
背中に感じる重みが無ければ、泣き出してしまいそうなくらいに。
「姫様の大切な人として、奥方様の最期、聞いてくれる?」
こうして誰かに過去を語らなくては、心が潰れてしまうくらいに。
爆風に吹き飛ばされたウィリィアは、気を失ったまま地面に転がっていた。
頬に小石が与える小さな痛みを感じ、彼女は目を覚ました。
「――――うう……」
朦朧とする意識の中、彼女は気絶するまでの状況を必死に思い出そうとする。
森に来て、飛竜に襲われ、アロエに間一髪の処を救われた。
そして――――
「奥様……! 姫様は!」
アロエが、自分とメリエラを逃がしてくれた。
たった一人で、『龍殺し』でもないのに。
「姫様……ッ」
それも総て、自分の娘を守るため。
彼女が命を賭して守ろうとした姫君を、ウィリィアは必死に探した。
幸い、メリエラは彼女のすぐ近くにいた。
ウィリィアは慌ててメリエラに這い寄り、その傷を確認する。
「――――良かった……」
傷は浅く、致命的なものはない。
ただ気絶しているだけで、呼吸も安定していた。
ウィリィアは安堵の溜息を漏らし、しかしすぐに自分たちの置かれた状況が安心出来るようなものではないことを思い出す。
すぐ近くに飛竜がいることは確実で、しかしその鳴き声も羽撃きの音も聞こえないことに彼女は訝しげな表情を浮かべた。
「奥様……?」
もしかしたら、アロエが飛竜を撃退したのかもしれない。
ウィリィアは気を失ったままのメリエラを近くの樹の根元に寝かせ、先程アロエが飛竜と戦っていた場所へと戻った。
焼け焦げた木々が白い煙を棚引かせ、炭化した木の枝がウィリィアの足の下で乾いた音を奏でた。
地面は黒く焼け焦げ、この場で使用されたのが高温を発生させる類の魔法であったことを物語っている。
「奥様、何処ですか……?」
森の中に広がる空隙、爆発の中心に辿り着いたウィリィアはアロエを呼ぶ。
時折咳き込みながら、煙に染みる涙目を凝らした。
そして、やっと煙の向こうに倒れる細い影を見付けた。
その影が小さく身動ぎするのを確認し、ウィリィアは走った。
「奥様!」
煙を抜け、影に駆け寄る。
しかし、彼女が見たものは、彼女の想像したものではなかった。
「――――ひッ!?」
「――――――――……」
そこに転がっていたのは、下半身を炭化させ、左の脇腹を爪でごっそりと抉られた肉塊。
その顔だけは辛うじて血と泥に汚れているだけだが、もはや治療などという言葉を吐くことは躊躇われる姿だった。
「お、おくさま……」
抉られた脇腹からは血が止め処無く溢れ、“それ”が生き物であるのか、嘗て生き物であったものであるのかすら判別出来ない。
怖かった。人がこんな姿になるなどと知らなかった彼女にとって、その物体は生物としての根源的な恐怖を呼び起こすものだった。
しかし、もう一度逃げ出すことは許されなかった。
ウィリィアは幼心に勇気を奮い立たせ、一歩一歩その物体に近付いていく。
あと一メイテルまで近付いたとき、その物体が再び小さく動いた。
「――!」
生きている。
そう確信したウィリィアは今度こそアロエに駆け寄る。
自分の着ている服の裾を破り、出来るだけ綺麗な部分を探して傷口を押さえた。
生きているなら、まだ助かるかもしれない。
軍の高等医療魔導師ならば、死の直前に居る患者でさえ救えると彼女は聞いたことがあった。
だから、諦めなかった。
「奥様、姫様はご無事です! だからもう少し辛抱なさって下さい!」
必死にアロエを励まし、傷を押さえた。
あの爆発なら救援に来た父たちがすぐに駆け付けるだろう、そうしたら城の龍にアロエを病院に運んで貰える。
ウィリィアはこのとき、アロエが助かる未来しか想像しなかった。
どうということもない日常に戻れる、あの笑顔の溢れる日々に戻れると信じて疑わなかった。
信じる者にしか望む未来は訪れない、それは正しく世界の真理であり、ウィリィアが望むことだった。
「――――――――ぅ……」
だから、ほんの少しだけ世界は奇蹟を少女に与えた。
アロエの目が細く開き、その瞳がウィリィアを映し出した。
「奥様ッ」
ウィリィアは喜びの声を上げる。
良かった、これで助かると思った。
「奥様、姫様は無事で――――」
しかし、奇蹟はここまで。
「――――――――……」
アロエは力無く笑みを見せると無事だった右手を伸ばし、ウィリィアの頬を撫でる。
「あの、奥様?」
そして戸惑うウィリィアに、掠れた声で小さく囁いた。
「――――――――」
無事で良かった、私の可愛い娘――――と。
「おくさま……?」
言葉が尽きると同時に、アロエの腕は力無く地面に落ちた。
そして、その身体から魂と呼ばれる生命情報が乖離した。
今度は奇蹟など起こらず、ただ粛々と。
「お、くさま……?」
呆然とするウィリィアを遺し、アロエと呼ばれた魂は冥界へと送られる。
ただ世界の理に従い、事務的に、一切の斟酌無く。
彼女の抱く身体は、真に嘗て生命を宿していた肉塊に成り果てた。
「おくさま……おくさまぁ……」
ウィリィアは涙するしか無い。
彼女に死者を呼び戻す術はなく、また涙を零す以外に死者を見送る方法を知らなかった。
だから、ひたすら泣いた。
自分の背後で大きな影が蠢き、立ち上がることに気付かないまま。
「おくさまぁ……おくさまぁ……めをあけてください……ひめさまがまってますからぁ……――――」
鼻水を垂らし、何度もえずきながらアロエを呼ぶメリエラ。
そんな彼女に影は忍び寄り、ついにその牙の届く範囲に収めた。
「おくさまぁ……おねがいです……おくさま……」
泣いたままのウィリィアは、影に気付かない。
影は、悦んでその顎門を開いた。
「――えッ!?」
牙同士が擦れて発生した音に、ウィリィアは振り返る。
そこにあったのは、全身を己の血で染めた飛竜の姿。
自分を飲み込もうと迫る真っ赤な口腔だった。
「――ッ!」
ウィリィアは咄嗟にアロエの骸を抱え込む。
これ以上、アロエを傷付けさせはしないという彼女なりの意地だった。
それが他人から見て無意味な行為であったとしても、彼女だけは意味を見出している。
ただ、それだけで十分だった。
「ウィリィアぁッ!!」
――――奇蹟ではない、人の想いが現実になる瞬間を迎える為には。
「俺の娘から離れろッ! この蜥蜴野郎がぁああああああああああッ!!」
煙の向こうから現れたアルフォードの腕で咆哮する『岩窟龍断ち』と呼ばれる大剣。
大剣は並んだ小さな刃を高速で回転させ、空気を震わせた。
「冥界へと昇れぃ!」
裂帛の気合と、刃の奏でる多重奏。
それらは的確に飛竜の首に食い込み、両断した。
「――――――――!」
断末魔の悲鳴さえ許されず、飛竜は苦しげに大口を開けて斃れる。
その首は少し遠くに転がり、広場の隅に咲いていた花を押し潰した。
潰された小さな白いその花は、メリエラが探していた花だった。
「最期の瞬間、奥様はわたしと姫様を間違えた。結果として姫様は無事だったから奥様を騙したことにはならないけど、あのときの笑顔を送られるべき相手はわたしじゃない」
最期に娘に向けた筈の愛情を横取りしてしまったという事実は、ウィリィアが罪悪感を覚えるには十分過ぎた。
「奥様には色んなことを教わって、たくさん遊んでもらって、お母さんと同じくらい好きだった」
手作りの焼き菓子をメリエラと一緒に頬張る姿を、アロエは幸せそうに微笑みながら見ていた。
軍人として命の消える現場に立ち続けた彼女が、ようやく見付けた平穏だったのだろう。
二人が成長する姿は、彼女にとってどんな英雄譚よりも心踊る物語だったに違いない。
だが――――
「――――わたしが、殺してしまった」
ほんの少し、あとほんの少しだけ自分に思慮があれば、力があれば助けられた。死なせずに済んだ。
ウィリィアはレクティファールの背に自分のそれを押し付け、膝を抱き寄せた。
湯に浸かっている筈なのに、ひどく寒かった。
背中に感じる情けなく小さな温もりだけが、彼女を支えている。
「怖いよ。姫様が同じように死ぬんじゃないかって、あの帝国のグロリエ皇女との戦いから、何度もそんな光景を夢に見る」
グロリエの目的がレクティファールで無ければ、あと少しグロリエに時間があれば、メリエラは殺されていた。
メリエラ自身が望んだ死だとしても、ウィリィアはそれを受け入れられなかっただろう。今度こそ、心が殺されていた筈だ。
「――――レクトが強いことは認める。でも神殿で姫様と同じ寝台で寝ているのを見たとき、わたしは姫様を取られると思った。奥様から預かった大切な姫様が、何処の誰かもわからないあなたに連れ去られると思った」
神殿の夜。ウィリィアは同じことを言って泣いていた。
アロエの最期をメリエラから奪い、罪悪感を常に抱えていた彼女にはそれが耐えられなかった。
「本当は、神殿の人たちだって怒ってたんでしょう? ようやく現れた皇太子を剣を振り回して追い回す侍女なんて、認められる訳がないもの。あなたが神殿の人たちに『身内の喧嘩』だって言ってくれたから、わたしは少し注意されるくらいで済んだ。――――違う?」
「――――違わない、でしょうね」
レクティファールにとって、あの朝の出来事はある意味仕方のないことだ。
ウィリィアのメリエラに対する愛情を何となしに理解していた彼にとって、彼女が自分に向ける怒りは正しく真っ当で、文句を言えるようなものでなかった。
だから、庇った。
正しい怒りで、それがレクティファールの手のひらに治まる程度の騒ぎだったから。
「君がメリアのことを譲れなかったように、私もウィリィアのことを譲れなかった」
彼女を自分から遠ざける要素は総て許せなかった。
子どもじみた、稚拙な独占欲だ。
だが、そんなみっともない独占欲でも彼女の過去と戦う原動力には不足ない。
「――――――――ウィリィア」
どうしても、譲れない一線は誰にでもある。
ウィリィアにとってのメリエラのように、レクティファールにも絶対に退けない一線が存在する。
「――何?」
それは、恐ろしく小さくて、拙い愛情。
ただ一人、この世界で初めて見付けた光に向けるもの。
「わたしが初めてここで見付けた光は、メリエラではなく君だ。目が覚めて、自分さえ不確かな世界で、君は確かに存在していた。――――君がいなければ、私はここを自分の居場所だと認識出来なかった」
「れ、レクト? 姫様はあなたの――――」
「婚約者だ。だがそれが、“私の”抱く“君への”想いにどのような関係があると言うのです?」
レクティファールは目を瞑り、くるりと身体を捻った。
「え!? ちょっとレクト……! わぁ!」
背中合わせに座るメリエラの細い腰を捕らえると、レクティファールはそれを持ち上げて身体を元の位置に戻す。
先程まで背中合わせだった細い身体は、今レクティファールの腕の中にあった。
見えはしないが、その感触はきちんと認識出来る。
「こ、この性犯罪者め……」
「姉弟の団欒と言って欲しいですが」
「こんな不健全な団欒がある訳ないでしょう? 放しなさい」
「放してもいいですが、もう二度とアロエ殿のことで泣かないと誓ってください」
「――――――――」
懊悩による沈黙。
一方的なレクティファールの要求を受け容れる必要などウィリィアにはないのだが、状況が彼女の思考を鈍らせているらしい。
レクティファールは失礼しますと一言断ると、ウィリィアの肩に顎を乗せた。
くすぐったがるようにウィリィアが身体を捩らせる。
「――――本当に、訴えるわよ」
「大丈夫、私が法です」
それは正しい。
この皇国では、皇王が法だ。その代わりに皇王は法に守られないのだが。
「最低」
「最低、大いに結構。これ以上下がらないなら怖いものなどない」
「――――本当に、最っ低」
「誠、結構なことです」
例えば、レクティファールに彼女の武人としての誇りは守れない。
しかしそれ以外の部分で、自分の手のひらに収まる部分だけは誰にも譲らない。
彼女自身が誰かを選び、その誰かに守られることを望むまでは。
「多分、アロエ殿は気付いていたと思いますよ」
「――――――――」
自分なら、最期の瞬間だからこそ絶対に間違えない。
守りたいものがあるなら、それこそだ。
「アロエ殿は分かっていたのでしょう。君が無事ならメリアも無事だと。そしてメリアが無事だからこそ、もう一人の娘である君の無事を心から喜んだ」
「でも、わたしがもう少し強ければ、あの方は今でも姫様と一緒にいられた!」
「それは、所詮今となってはあり得ない現実です。アロエ殿は既に身罷られているのですから」
「くっ」
気付いていた。どれだけ自分が後悔しても、戻ってくるものなど一つもないと。
だが、後悔以外にアロエの死を悼む方法が無かった。
「――――じゃあ、どうしろっていうの? あなたに奥様の気持ちが理解出来るとでも?」
「勿論、無理です。アロエ殿が何を思っていたかなど、アロエ殿本人にしか分からない」
「ちょっと……!」
じたばたと暴れるウィリィアを、レクティファールは押さえ込んだ。
まだ話は終わっていない。
積極性の乏しい彼にしては頑張っている方だが、そう長い時間こんな真似は出来ない。急ぐ必要があった。
「分からない、理解出来ない、だから、勝手に許可無く想像しました。間違っていたら、いつか何処かで怒られる覚悟で」
「え……?」
愛する娘とは、メリエラとウィリィア二人のことなのだと思う。
大切な者が、自分の目の前で笑っていた愛すべき者たちが無事ならば、きっと笑って逝ける。
「君がどう考えようと、アロエ殿はきっと何も言わないでしょう。ただ、君が最期に笑って逝けることだけを望んでいる」
本人の幸せとは、本人にしか分からない。
親兄弟であっても理解することは難しく、結局は想像するしか無いのだ。
「メリアが幸せであることが君の望みなら、私は全力でメリアが幸せだと思えるような未来を作る努力をします。但し――――」
「但し?」
レクティファールは少し躊躇い、しかしなけなしの男気を振り絞って腕に力を込めた。
このとき諦めたのは、適当な距離でウィリィアと接すること。
互いに傷付け合ったとき、傷が深手にならない距離を彼は諦めた。
「君の幸せは私にはよく分からない。メリアの幸せも。だから、教えて欲しい」
「――――レクト……」
無知であることは罪。
知るべきと思ったことを知らぬままで放棄することは、レクティファールにとって大罪だった。
「恥ずかしながら、私はこんなことをしてしまう程度に女性心が理解出来ません。そのせいでリーデやアリアには毎晩のように怒られ、呆れられている次第で……」
「――――そうね、理解していないわね」
自分を抱きしめながら、メリエラはともかく別の女性の名を出すことは余り良いことではない。
較べられていることは、良い気分ではないのだ。特に、自分より優越していると思っている女性と較べられることは。
これが自分の方が優っていると言われているなら、逆に良い気分なのだが。
「とりあえず、ウィリィアが一番頼りになるような気がするので、色々ご教授願いたいのですが」
あの、白龍宮での日々のように。
言葉にならないレクティファールの声は、確かにウィリィアの耳に届いた。
「――――ん」
故に、彼女は頷いた。
笑み、同時に密かに涙を溢れさせた顔で頷いた。
「姫様の幸せ、ちゃんと理解出来るように授業してあげる」
あの、平穏な日々のように。
彼が何も知らず、何も背負っていなかった頃のように。
ほんの少しだけ、過去を懐かしんで。
ウィリィアが着替えを済ませて脱衣場を出たのを確認し、レクティファールはようやく風呂から上がった。
湯中り寸前の身体は無駄に熱を発しており、“皇剣”は排熱機能をかなり高い水準に引き上げていた。
「――――あぁ……恥ずかしかった」
庭で排熱を待つレクティファールは、ぼけっと立ったまま夜空を見上げていた。
うっかり顔を下げると、鼻血が出てしまいそうだった。
「くそう、“皇剣”に記録消去機能はないのか。あっても私には何処にあるのか分からないけれども」
浴室での一件は、出来るなら忘れてしまいたいことだった。
勿論、総て忘れるようなことは出来ないから、ごく一部だけ、主にウィリィアの裸身に関して。
「――――――――」
記録を見れば、かなり細かい処まで鮮明に見える。
写真と較べても遜色はないだろう。
だから、逆に辛い。
「――――別に義姉ならいいのか? いや、どうなんだ?」
もしウィリィアに好き合う相手が出来たとき、自分のこの記録は消去出来るのか。
自分に置き換えてみれば理解出来た、他人が自分の連れ合いの生まれたままの姿を知っているのは余り嬉しいことではない。
いや、はっきり言って面白くない。
「ああもう、記録消去はどうやるんだ? ええい、このフォルダか!? ってこれは二代陛下の畑の記録ぅ――――っ!?」
場の空気を読まない“皇剣”に文句を垂れながら、レクティファールは出てきた記録を閉じて元あった処に戻した。
とりあえず家庭菜園をやるつもりはない。
「早く消去方法見付けなければ――――と、これは……印刷機械への記録出力方法って、私は何処の変態だっ!!」
地団駄。
焦れば焦るほど場の空気を読めない“皇剣”は変な記録を出してくる。
というよりも、戦闘能力以外に“皇剣”の機能が多過ぎるということなのだろう。
それなりに有用な機能ならば、片端から搭載されているに違い無い。
「――――――――“皇剣”って、やっぱり私にとっては永遠の敵ですよ……」
ぐったりと肩を落とすレクティファール。
使いこなせない道具は自分の身を傷付ける。出来るなら、使いたくない代物だった。
「でも、使わないと生きていけない訳で……」
しばし沈黙。
使いたくないのに使わなければならない葛藤。そして自分には扱いきれない道具への苛立ち。
それらが先程の一件で増大した羞恥心と混ざり合い、彼を叫ばせた。
「――――畜生、畜生め、“皇剣”のばかやろぉおおおおおおおおおおっ!!」
月まで届けこの想い。
でも誰かに知られるのはちょっと困るレクティファール。
彼のそんな叫びに応えたのは、月ではなく自室の窓を開けて怒りの形相を見せた義姉だった。
「うっさい愚弟っ!」
「あいたっ!」
見事な動きで投擲される筆立て。
レクティファールの後頭部に直撃したそれは、かこぉんと甲高い音を立て、空に向けて跳ね返った。
角が当たったせいで痛みに唸るレクティファールと、それを見て慌てて部屋を飛び出すウィリィアの姿を、筆立ては地面に落ちるまで見詰め続けていた。
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