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第二章:戦後内政編
第七話「後悔+葛藤=現在」



 レクティファールは黙々と仕事をこなしていた。ごしごしと、壁面にへばり付いた黴を海綿で擦り落とすという仕事を。

 洗剤は出来るだけ使わず、力の入れ具合と適切な角度で黴や汚れを掃討していく。日常生活というのは、“皇剣”の未だ限界の見えない演算能力を使いこなす訓練には調度良かった。最近は惑星の発生から崩壊までを計算しながら、別の意識で日常生活に関する演算を九九種類並列して演算することにしている。

 例えば、お湯が沸騰するまでの時間や、お茶が冷めるまでの時間、書類に文字を書くときの筆圧や紙を切る場合に最適な角度と速度、自分の発した声の反射量と反射角度、窓から入ってくる光の減衰量と日照量などだ。


「――――惑星っていっても色々あるからなぁ……今度は巨大気体惑星ガス・ジャイアントの恒星化でも……いや、彗星の軌道計算というのも中々……」


 そこまで訓練内容を考えて、レクティファールはとあることを思い出す。


(――――――――しかし、あれはやっぱり、誰にも話せないことですよねぇ……)


 日常で“皇剣”の演算機能やその他の機能を使用する訓練を行っていると、時折既存の機能の新しい使い方を見つけ出すことがある。勿論、新しいとはいっても歴代の皇王が知らなかったとは考え難いのだが、レクティファールにとっては新しい使用方法だ。

 今回見付けたその使用方法とは――――


(――――魔法を使わずに人の身体寸法を測れるとは……流石に驚いた。いや、機能的には納得だけれども……)


 温度感知機能や、不可視光線、可視光線、電磁波、音の観測で服の上からでも人の身体の大きさを計測出来るというその機能は、自分を中心とした周辺環境を様々な形で観測するための機能を応用したものだ。

 その機能の恩恵で“皇剣”保有者や闇夜でも周囲を見渡すことが出来るし、閉所でも方向感覚や平衡感覚を失うことはない。こと戦闘に於いては、自分の置かれた状況を正しく把握することこそ勝利への第一条件と言える。そう考えるなら、“皇剣”の観測機能が優れていることに疑問の余地はないのだ。


(歴代の皇王陛下も気付いてる筈だけど、ルキーティさんや他の誰もそんなことが出来るとは言っていなかった。知ってたらそれなりに釘を刺してくるだろうし……やっぱり知らないということなんだろうなぁ……)


 女性皇王ならばともかく、男性皇王がこの機能を下手に使えば大問題だ。


(これまでのみんなの言動を見るに、この国の倫理観はそれなりに発達している。異性に対する犯罪が明確に法に定められているのなら、当然この機能は問題になるだろう。それとも昔は違ったのか?)


 どちらにせよ、歴代の皇王はその機能を隠した。

 そもそも、日常生活では使う必要のない機能だ。封印しておいても問題はないだろう。


(歴代陛下も変な苦労してるんだなぁ……親近感は湧くけど、この機能って絶対一度は誰もが使っているような気がする……!)


 特に男性皇王。


(――――――――まあ、正直、私も使ってみたし……。しかし、あの二人は理解があって助かる……結果的には今度服贈らなきゃいけなくなったけど……)


 誰とは言わないが、協力者を得て観測値と実測値の誤差確認をしてみたレクティファール。

 この機能を使えば、贈る服の寸法を間違える心配はないということが確認出来た。

 装飾品も同じように寸法を間違えることはなくなるだろう。


(というか、寸法なら後宮の人に訊けば教えてくれるか)


 贈り物をするといえば寸法から意匠まで適切な助言を与えてくれるだろう。日頃から婚約者候補たちの世話をしている者たちなら、その好みや最近の個人的流行も把握しているに違い無い。更には宝石言葉や花言葉など、女性の好む話も聞ける。


(しかし、兵器としての機能的には無駄じゃないけど、実生活では無駄の塊ですよねぇ……“皇剣”って……)


 このまま機能の確認を進めていけば、相手の体調や体重、健康状態も観測出来るようになるだろう。

 それをうっかり他人に漏らした日には、もう太陽の下は歩けない気がするレクティファールだった。

 そして、悟る。


(皇王に一番大事なのって、実は自制心なのかもしれないな……)


 そう、諸々の意味で。








 “皇剣”の機能について並列思考の一つで延々と悩みながら、それでも浴室掃除を続けるレクティファール。

 壁面が終わり床に差し掛かった頃、背後にある引き戸の向こうから声を掛けられた。

 この屋敷の主人、ハルベルン家当主アルフォード・ハルベルンだ。


「――――いやぁ、仕事上がりにすまんな、本当なら風呂掃除は俺の仕事なんだが……」


 引き戸を開け、アルフォードは頭を掻きながら謝罪の言葉を口にした。

 今日ここにいるレクティファールは、摂政皇太子“レクティファール・ルイツ=ロルド・エルヴィッヒ”ではなく、ハルベルン家の三男“レクト・ハルベルン”という扱いだ。アルフォードのレクティファールに対する態度もそれに準じたものになっている。

 何処にレクティファールの命を狙う者がいるか分からない以上、レクティファールという名の摂政とレクトという名の士族が同一人物であるという答えが導き出されるような情報は少ない方が良い。

 アルフォードもその辺りは良く心得ていた。彼の今のレクティファールに対する態度は、摂政に対するものとは到底思えない。何も知らない他人が見れば、父親が久し振りに帰省した息子に声を掛けた、としか思えないだろう。


「いえ、これくらいどうということもありませんし、腰を痛めてるならこの仕事は辛いでしょう」


 腰膝を曲げ、汚れが落ちるまで延々と同じ動作を繰り返す浴室掃除。仕事で無理をして腰を痛めたというアルフォードには辛いだろう。

 何よりこの屋敷の浴室は当主自慢の広々とした――五、六人でも窮屈な思いをせずに入れるほど――もので、掃除は重労働だ。ならば、下級貴族とも呼ばれる士族らしく使用人に任せれば良いという意見もあるのだろうが、泊り込みではなく通いの使用人しか居ないこの屋敷では、屋敷の住人が夕食の準備や浴室掃除をすることが当たり前になっていた。

 それ故に、この家の三男坊という扱いになっているレクティファールが風呂掃除をすることに、何の問題もない筈だ。


「こんな腰痛、昔ならすぐに治ったんだがなぁ……流石に帝国の十三姫と同等の回復力とはいかんか」


「彼女は現在生存している『龍殺し』の中で一、二を争う能力の持ち主ですから、較べても仕方がないのではないですか?」


 アルフォードは現在、新たな近衛軍にて訓練教官を務めている。元々白龍公の直臣として公爵軍にも籍を置いていた彼だが、その主君直々の頼みで近衛軍に軍属として出向することになった。

 何故、彼が近衛軍に出向することになったのか、その理由は至極簡単で、先の戦いで帝国の『龍殺し』が摂政レクティファールに肉薄し、結果一太刀刃を交えたという事実が近衛軍にある種の強迫観念を与えたからだった。

 曰く――――強大な一個体は状況如何では一個軍にも容易く勝る。

 それに対処するためには、強力な個体を相手に戦える群体を鍛え上げるしか無い。


「その為に『龍殺し』を初めとした力持つ種族の武人を集めることは納得出来るんだが、俺はいい加減年寄りだ。息子のどちらかでいいんじゃないかと思うんだがね……」


 ウィリィアの兄二人は一人は陸軍に、もう一人は海軍陸戦師団に所属している。共に武人である父の背を追って今の仕事に就いたという、アルフォードにとっては自慢の息子たちだ。

 『龍殺し』としての実力も、間違いなく妹以上。それならば、彼らを近衛にとアルフォードが思うのも何ら不思議なことではない。ただ。近衛軍や皇王府、政府の考えはアルフォードのそれとは大分異なる。


「ご子息、つまりは私の義兄たちということになりますが、彼らの力は確かに若く、強い。しかし、こと自分の『龍殺し』としての力を使った戦い方となると、アルフォードさんに敵うものではありません。自分の力がどの程度のもので、どのように使うことが一番効率のいい戦い方か、或いはそれを相手に教えるにはどうしたらいいか、これらの経験無くして理解出来るものではないでしょう」


「年寄りなりの戦い方、ね」


 アルフォードは脱衣所の椅子に座り、腕を組んだ。

 それなりに納得したらしく、何度も頷いている。


「まあ、ここまで生き残らせてもらったんだ。若い連中が生き残る手伝いをすることに文句はないさ。だけどな、レクト……」


 苦笑しつつ、彼は新しく家族になった青年を見る。

 青年は衣服が濡れないよう、裾を折り、袖を捲った姿でアルフォードを見上げていた。

 そういえば、自分も昔はこんな姿で狭い風呂場掃除していたな――――アルフォードはふとそんなことを思い出した。

 まだ結婚したばかり、家督である兄が存命だったこともあり、アルフォード自身はハルベルンの本家とは距離を置いていた頃の話だ。

 同時に、若くして得た養うべき家族の重さに喘いでいた時期でもある。


「――――お前はもう、うちのガキだよ。俺のことは『アルフォード』じゃ無くて、親父と呼べ」


 そして、父の偉大さと母の強さを知り得たのもその頃だった。













「お、今日は豪勢だな。芋の衣揚げに鶏の炭火焼か」


「全部ウィリィアの好物よ。あ、レクト殿の好物は今度来たときに作ってあげるから、あとで何が好きか教えて頂戴ね?」


「はい」


 浴室掃除を終えて食堂に入ったアルフォードとレクティファールを出迎えたのは、山と積まれた夕食の品々だった。

 台所からウィリィアの「大人しく皿に乗りなさい!」という声と騒がしい足音が聞こえてくることから察するに、まだまだ品数は増えるようだ。

 それというのも、『龍殺し』という、人間を元に作られた身体に分不相応な力を内包した種族にとって、食事はその能力を維持するために必要不可欠ものだからだ。帝国の第十三姫のように高い能力を持つ『龍殺し』であれば少ない栄養分から効率的に熱量を取り込めるのだが、アルフォードやウィリィア、彼らと同程度の能力しか持たない『龍殺し』たちはひたすら数を取り込むしかない。

 今となっては、アルフォードもその力を振るうことが少なくなって世間一般の家庭とそう変わらない食事の量になったのだが、今日は朝から『龍殺し』の力を全力で発揮した長女がいる。そのため、食卓に並べられる品々は量、種類共に自然と多くなった。


「レクト殿は余り食べないのよね」


 アルフォードが引いた椅子に腰掛けたルイーズが、食卓の斜向かいに座ったレクティファールに問うた。

 妻を座らせたあと、上座の自分の席に着いたアルフォードも興味深げにレクティファールの答えを待っている。概念兵器という人形種を超える戦闘種が、どれほど優れた熱量消費率を持っているのか興味があるのだろう。

 レクティファールは自分の食事と、そこから引き出せるエネルギーを脳裏に浮かべながら答える。


「ごく普通の、混血種の成人男性と同じ程度の食物摂取で最大二時間全力稼働出来ます。その気になれば空気だけでも質量さえあればエネルギーに変換出来るらしいのですが、それも味気ないですし」


 質量をエネルギーに変換する――――これは“皇剣”の圧倒的な能力を支える最高の魔導術式だ。

 単に取り込んだ周囲の魔力を様々な力に変換するだけではなく、その魔力を使って質量をエネルギーに変換する。それ位しなくては全力稼働中の“皇剣”の機能は保てない。

 もっとも、本来ならば今のレクティファールに質量消滅によるエネルギー生成は必要ない。魔導術式による魔力変換のエネルギー生成で十分に必要な量を賄うことが出来た。

 そのような意味合いの“皇剣”の基本情報を比較的平易な表現で語るレクティファールだが、やはりというか魔導師や魔道技師のような専門家以外には難しい話らしい。ハルベルン夫妻は仲良く揃って疑問符を浮かべていた。


「し、質量……?」


「あなた、どういうことかしら? わたくし魔法には詳しくなくて」


「俺に分かるかっ! どっかの研究者でも連れて来い!」


 困ったような曖昧な笑みを浮かべるルイーズと、顔面の筋肉をぴくぴくと痙攣させて怒鳴るアルフォード。

 門外漢の二人にとっては、基本的な“皇剣”の情報さえ理解し難いものらしい。


(まあ正直、私も“理解した”というよりは、いつの間にか“理解していた”という方が幾らか正しい表現なのですがね……)


 誰にもその詳しい扱い方を教授されないまま継承した“皇剣”とて、流石に最低限必要だと思われる情報は問答無用で頭に叩き込まれる。旧帝国帝都の悲劇を再現する訳にもいかないからだ。

 先程の質量消滅によるエネルギー生成も、手のひらに乗る程度の物質を消滅させるだけで皇都を丸ごと吹き飛ばせるエネルギーを得ることが出来る。神々や龍種、幻想種その他の力ある者共を人間が凌駕する為に、その為だけに生み出された兵器としては正しい在り方だ。


(そう、亡びたくないという正しい願望。正しい狂気)


 この狂いきった兵器を正気のまま扱うために、古の人々は多くの制御機構を組み込んだのだろう。知らない機能は使えない、知り得た機能はその使用を自制させる。

 使えば亡びる。亡ぼされる。

 全機能を使用し、その総てが白日の下に晒されれば、“皇剣”はその瞬間から世界の敵になるだろう。

 嘗て都市一つを消滅させたことなどまだ生温い。神々が持つ世界への干渉能力さえ凌駕する概念兵器は、その機能を十全に発揮しなくとも海を干上がらせ、大陸を沈め、月を砕けるのだから。


(――――知恵ある者が世界を亡ぼすなんて、何処の世界でも同じか)


 レクティファールの前世界とて、知恵ある者どもは自分たちの文明を葬るだけの力を手に入れていた。使い方を考えれば、自分たちの母星を微生物しか住めないような星にすることも可能な代物を生み出した。


(亡ぼしたくて生み出す訳ではない)


 されど、結果として自分たち亡ぼす力を得てしまう。


(だが、それも当然のことなのかもしれない)


 自分たちを救える力を生み出せるなら、自分たちを亡ぼせる力を生み出せるということ。世の総ては正負同等、正の事象には同等の負の事象が付属する。

 人を救えるならば、人を殺せる。

 人を殺せるなら、人を救える。

 それは結局、本人の選択次第。

 レクティファールが自分の大切な存在を守ろうと思うのは、自分がその大切な存在に向けている想いを守りたいから。人を守りたいと思う心は、最終的には自分を守りたいという心に繋がる。

 人を守れずに傷付く自分を許容出来ないから、人を守る。無償の愛なんて存在しないし、存在する筈がない。愛とは自分にしか向けられないもの、人に向かう愛は、自分に向けた愛情が反射しただけのものだ。

 人は他人の想いを理解出来ない。

 魔法で心を読めても、そこに込められた想いは読めない。

 それ故にすれ違い、傷付けられ、傷付けられたくないから力を求め、結局その力で相手を傷付けてしまう。“不理解”こそが知恵と呼ばれる“理解”の負の事象。知恵ある者どもは、その知恵によって傷付くのだ。

 哀しいことだ、とは思えない。

 何故なら――――


「――――はぁ、やっと盛り付け終わった……」


「不器用ねぇウィリィアは。そんなことじゃ自分の子どものお弁当作れないわよ」


「だなぁ、いい年して料理の一つも満足に盛り付けられんとは……」


「お父さんは黙ってて! わたしの不器用はお父さんのせいなんだから!」


「――――おぅ……分かった……」


 理解と幸せは等価ではない。

 理解出来ないから不幸などという等式は成立しない。

 幸せは自らの内から溢れるもの、理解は自分以外の何かを受け入れること。理解は過程であり、幸せは結果だ。

 理解の果てに幸せがあることもあるだろう、だが、不理解の先にも幸せはある。理解せずとも感じられる幸せも存在するのだから。


「――? 何笑っているのレクト、ああ、お父さんの情けない姿がそんなに面白い? ならもっと哂っていいわよ」


「ちょっと待て我が愛娘! 今何か別の意味合いで『わらう』って……」


「さあ! 準備も出来たことだし夕食にしましょう! ウィリィア、席に座りなさいな」


「うん」


 家族に軽んじられ、食卓に突っ伏して嗚咽するアルフォードを横目にウィリィアはルイーズの正面、レクティファールの隣に座った。


「食べ方が分からなかったら遠慮無く訊いて」


「了解、姉上」


 微笑み、頷くレクティファール。

 こんな家族の団欒は、久し振りだった。


「――――味は、出来るだけ気にしない方向で……特にあの一角」


 ウィリィアはそう言って、微妙に盛り付けの崩れている一角を示す。

 そこにある揚げ物や焼き魚の餡掛けは、よく見れば焦げたり形が崩れたりしている。


「――――――――姉さん作ということですか」


「うるさいわね、お茶菓子や軽食とは勝手が違うのよ」


「いえいえいえ、形と味は別物ですから」


「暗に形は駄目って言ってるわね」


「はっはっは」


「笑うな!」


 怒鳴り、食卓に並べられたナイフを握るウィリィア。

 しかし、彼女の動きは偉大なる母によって制された。


「では皆さん、いただきましょう」


 言って指を組み、小さな声で食前の祈りを諳んじるルイーズ。

 アルフォードは無言で妻の食前の祈りが終わるのを待ち、ウィリィアは慌てて居住まいを正した。

 ハルベルン家では、ルイーズのみが食前の祈りを捧げるようだ。


「――――――――よし、と。ごめんなさいねレクト殿、昔の習慣なんだけど、こればかりは抜けなくて」


「こいつは精霊信仰の村出身でな、その信仰によると食物には精霊の命の欠片が宿っているらしい。その欠片を食って、自分たちは生きているってな」


「ほうほう」


 食物に命が宿るというのは珍しい考えではない。

 しかし、一つの家族の中でも信仰が分かれるという点に、レクティファールは皇国の宗教事情の一端を見たような気がした。

 信仰の結果が神霊魔法などの目に見える形で現れるこの世界では、他者に合わせて信仰を変えるということは少ないのだろう。自発的な信仰以外に、良い結果は伴わない。


「さあ、腹も減ったし今度こそ食べよう」


 言うが早いか、アルフォードが目の前に鎮座する鶏の照り焼きをフォークで一刺し、そのまま口に運ぶ。そのまま子どものような笑顔を浮かべ、次々と料理を平らげていく。


「さ、レクト殿も」


「あ、はい」


 ルイーズに促され、レクティファールも料理を取り皿に移すべく動き出す。狙うはただ一つだ。


「――――っ、なんでいきなりわたしの料理に手を出すか愚弟っ!」


「ええ、だって食べないなんて失礼なこと出来ないでしょう」


「もっと後! お母さんの料理の後! どうしてあんたはいきなり高難易度に挑戦するのよ!?」


「そこに山があるから」


「意味が分からないわよ!」


 ぎゃいのぎゃいのと顔を真っ赤にして吠える義姉を横目に、レクティファールは平気な顔で少し衣の取れた揚げ物を取り皿に移す。

 ルイーズが苦笑しながら渡してくれた木の実のソースを掛けると、いつの間にやら静かになっていたウィリィアの注目を浴びつつそれを口の中に放り込んだ。


「――――――――」


 四人揃って無言。

 アルフォードは面白そうに、ルイーズは微笑みながら、レクティファールは神妙に咀嚼し、ウィリィアは判決を待つ被告人のような表情で。

 そんな時間が十秒ほど続き、レクティファールはぽつりと呟いた。


「――――普通」


「……っ!? でりゃあっ!!」


 神妙な顔のまま、まさにどうにもならない感想を述べたレクティファールの後頭部に義姉の鋭い蹴りが飛来した。











 食後の腹ごなしというには尖すぎる動きで、レクティファールは木剣を振るう。

 ハルベルン邸の庭に、虚空を切り裂く擦過音が連続する。

 排熱が追いついていないのか、珍しくその身体からは汗が飛び散り、肩の出た黒い肌衣姿のレクティファールの全身からは湯気にも似た残留魔力が立ち上っている。

 “皇剣”を構成する超微細生体機械群は基本的に魔力や身体に取り込まれた熱量をエネルギーに変換している。他の生物と同様、その稼働には発熱が伴い、排熱の必要が生じる。

 身体を動かす筋組織となっている超微細生体機械群は元々発熱が多いが、今回は意図的にレクティファールがその稼働率を引き上げていた。最近はこうして少しずつ身体の扱い方を覚えている。

 摂政として表に立つ機会が増え、それに伴って“皇剣”の緊急防御機構だけでは安全を確保出来ない事態も想定されるが故だった。


「次、刺突三十四式」


「はい……!」


 上段からの斬りの動作を皇国陸軍教練書に記載された三十四種類済ませ、レクティファールはアルフォードに言われた通り刺突の動作に入る。

 中空に的を思い浮かべ、レクティファールはそこに向けて木剣の鋒を突き込む。何度も、何度も。


「……ふっ、……はっ、……ッ!」


 基本的な三十四種類の動きをひたすら繰り返すことは、肉体的な修練と同時に精神的な鍛錬を兼ねていた。

 同じ動きでも少しずつ誤差は生まれる。その誤差を極力減らすためには、やはり同じ動きを繰り返して発生する誤差の傾向を“皇剣”に学習させる必要があった。

 この世界で使用する限りは最強の完全兵器である“皇剣”と言えど、肉体という装置を介して結果を反映させる以上、武術の鍛錬からは逃れることは出来ない。


「せぃッ!」


 木剣の動きによって発生した気圧差は風となり、レクティファールの背後にいるアルフォードには音として認識された。『龍殺し』の中でも経験豊富な彼は、その音だけで幾つかの指摘事項を頭に思い浮かべることが出来る。

 動きが大きい。

 戻しが雑。

 呼吸が動きに対して不規則的。


「はい」


 指摘された箇所を修正しながら、更に動き続ける。

 一つ一つの動作の精度を上げることで、最終的な結果をより良いものに。

 何千何万と同じ動作を繰り返し、小さな無駄、小さな誤差を修正していく。それが“皇剣”の使い手の修練。

 そして、一時間の後。アルフォードはレクティファールの動きの精度が頂点に達したときを見計らって声を発した。


「――――そこまで」


 ぴたり、と足元から振り上げられた木剣が動きを止める。

 レクティファールの呼吸が、身体の動きを最優先したものから排熱を最大効率で行うものに変化した。筋細胞から吐き出された残留魔力と熱が、皮膚の表面から排出される。傍目には、身体から湯気が立ち上っているようにしか見えないのだが。


「良い動きになったな。本来なら感覚を身体に覚え込ませるものだが、“皇剣”使いの場合は“皇剣”に覚えさせるのか」


「動作の最適化は演算領域内の計算だけでは上手くいきませんからね。実際に身体を動かして計算との誤差を……」


「分かった分かった、俺には理解出来ないことが分かった」


「――――義父上」


 呆れたようなレクティファールの表情に、アルフォードは慌てたように言い訳を吐き出す。


「ば、馬鹿にするなよ、俺みたいな年寄りは身体に動きが染み付いているから若いもんの感覚が分からないって言ってるだけだからな」


「ええ、分かってますとも……」


 頭ではなく身体で理解したからこそ、理屈では理解出来ない。しかし、それは決して悪いことではないのだ。

 考えるより先に身体が動くというのは、それだけ動きの無駄が少ないということにもなる。


「――――けッ、いいさいいさ、どうせ俺は脳みそまで筋肉で出来た猪騎士だから」


「脳が筋肉で出来ているとなると、脳の機能は何処で補うんでしょうね」


「ん? ――――股間じゃないのか? 俺も昔は『下半身で龍を殺すアルフォード』と呼ばれ恐れられたもんだ」


「――――――――」


 息子との会話で下の話全開。

 冗談だと言うことは分かるが、レクティファールにはついて行けない。


「黙るなよ、俺が道化みたいじゃねえか」


「大体その通りかと」


「――――――――だよな」


 レクティファールに手拭いと陶製の容器に入った水を放り投げて庭に座り込むアルフォード。

 どうせ俺は、とぶつぶつ愚痴を垂れているその隣に、レクティファールは腰を下ろした。

 ちらりと隣の新たな息子を見たアルフォードは、独語するように呟いた。


「俺が道化っつーのは間違っちゃいない」


「――――…………」


 レクティファールは水を口に含み、額の汗を拭ってアルフォードの言葉に無言で耳を傾ける。


「娘が怪我したって訊いても、『ああ、やっぱりな』としか思わなかったんだ。娘が望んだ結果がこれなんだろうなって納得した」


 悔悟。

 自嘲。

 その二つの感情がアルフォードの表情を支配する。


「別にお前を責めようってつもりはない。娘が自分で戦って、自分で負けた。相手も強かった。お前を責める要素は何一つ無い。きっとお館様も同じ気持だろうさ」


 しかし、もしもあの戦いのあと、クティファールが無理やり彼女たちを戦場から遠ざけるような真似をしていたら、彼らは怒り狂っただろう。女としての矜持は理解出来ない彼らだが、武人軍人としての意地ならば理解出来る。

 敵への敗北は、武人が戦場を去る理由にはなり得ない。

 目標の不達成は、軍人がその職を放棄する理由にはならない。


「だが、お前は俺と同じ男だ。同じ馬鹿だとも言える。いつか絶対に間違えちゃいけない選択を間違える」


 ――――俺と、同じように。

 アルフォードは冷えた空気を肺いっぱいに取り込み、意識を研ぎ澄ました。

 自分の想いを伝えるべき相手が、隣にいる。ならば――――


「――――独り言、聞いてくか」


「――――よろしければ」


「馬鹿野郎、独り言に良いも悪いもあるか」


「それもそうですね」


 武人が戦場を去るのは、戦場に懸けるべき命がなくなったから。

 軍人が職を失うのは、ただそれが軍人として正しい行いだから。


「――――昔な、ウィリィアが姫様のお側付きになったばっかりの頃の話だ」











 ハルベルン家は、白龍公の臣下としてはそれなりに高い地位にいる。

 『龍殺し』としての能力は元より、その実直で裏表のない気性が公に好まれたからだった。

 アルフォード・ハルベルンも急死した兄の代わりに家督を継いだ割にはその気性を色濃く持っており、やはり白龍公に信頼された。一度信じると決めた相手は絶対に裏切らない、そんな家風のある家だった。


「ウィリィア! 今日は近くの森に行こう! 今日辺り珍しい花が咲くんだって薬学の先生が言ってた!」


「でも姫様、森に行くにはお館様か奥様に許可を貰わないと……」


 ちょっと散歩に行くというだけでも、護衛を手配し、メリエラが着くまでに森の中に潜む危険要素を排除しておく必要がある。しかし、未だ四歳と幼いメリエラにはそれらの下準備が時間の浪費に思えたのだろう。

 彼女は幼馴染であり、同時に親友と呼んで差し支えのないウィリィアだけを伴って水精湖の畔にある森に向かってしまった。白龍宮の姿が見えなくなるほど遠くということもない、だからウィリィアも渋々幼い主君の命令に従ったのだ。

 念のためにと主君の部屋に置き手紙を残し、修練を始めたばかりの剣を持って。


「――――姫様、花は何処ですかぁ……」


「んーと、何処だろう」


「そ、そんなぁ……」


 幼いメリエラが覚えていられたのは、単に「珍しい花が咲く」という部分だけで、詳しい場所などは覚えていなかった。ひょっとしたら、講師の方もメリエラが幼子特有の好奇心を発揮して花を見に行かないよう、意図的に詳しい場所を教えなかったのかもしれない。

 ともかく二人は薄暗い森の中で、辛うじて人が歩けるよう整備された細道を進む羽目になった。

 進んでいけばそのうち見付かるだろう、その程度の考えだった。

 このあとに起こる悲劇を考えるなら、二人のこのときの決断はそれほど多くの罪を持ち得ない。

 彼女たちの身に降り掛かった悲劇は、彼女たちの決断よりもほんの少しの運命の悪意が優先された結果だった。

 森の中に二人の童女が足を踏み入れた丁度その頃、その運命の悪意は白龍宮に伝えられていた。













「奥様!」


 背後から自分を呼ぶ侍女の声に、白龍公妃アロエはゆっくりと振り返った。

 子どもを産んでも陰りを見せない大陸一とも謳われる白皙の美貌と、そこに輝く翠玉石の瞳には疑問が浮かんでいる。その艶やかな黒髪が彼女の動きに従って波打っていた。


「何かあったのですか?」


 嘗ては白龍公カールの背に跨る騎兵として空軍に在籍していた彼女だが、出産を機に軍から身を退いた。軍人としての役割を軽んじるつもりは無かったが、夫である白龍公が現役を退いた以上彼女が軍に残る強い理由はなかった。

 何より、娘との時間は軍人として国に捧げた時間よりも大切に思えた。それが母になることなのだと、彼女は思う。

 息を荒げる侍女を落ち着かせ、アロエはその報せを聞いた。


「はい、先程空軍から連絡がありまして、この付近に帝国の飛竜が迷い込んだと」


「――――え」


 聞いた途端、ぞわり、と全身の毛が逆立った。

 彼女の中の皇国航空騎兵の部分が、警鐘を掻き鳴らす。


「領空侵犯した帝国の飛竜を撃退した際に騎兵を失った一騎が迷い込んだようです。この時期は野良飛竜の移動もありますから、直接その飛竜を見た一般市民からの通報で今回の一件が発覚したと……」


 鞍を背負っていたのか、或いは識別用の数字でも翼に描かれていたのか、通報を受けて皇国の騎竜が一騎もその空域に存在しないことを確認した空軍は慌ててこの地の領主である白龍公にそれを伝え、周囲の村や街に警戒を呼び掛けたのだった。

 白龍公の領地は皇国本土の奥深く、まさかこんな所まで帝国の騎竜が入り込むとは思っていなかった軍の怠慢と取ることも出来る、事実このときの“大総統”と防空責任者は厳罰に処せられた。

 しかれども、アロエにとっては軍の責任などよりもっと大切なことがあった。


「――――子どもたちは、今何処」


「え……姫様とウィリィア様でしたら、お庭で遊んでいると……」


「すぐに城の中に入れなさい! 龍種も『龍殺し』も飛竜を引き寄せるわ! あと警備兵に対空戦闘の準備を!」


「は、はい!」


 足を縺れさせながら走り去る侍女を見送ると、アロエは衣裳の裾を掴んで走り始めた。

 この城には白龍公の眷属が多く居る。飛竜がその生存本能に従って同族を求めているのなら、向かう先はこの白龍宮の可能性が高い。

 しかし、『龍殺し』という天敵が居るならそちらに意識が向く可能性もある。『龍殺し』の発する対龍、対竜に特化した魔力波動は、大した知恵のない亜竜にとっても敵と認識するに十分な要素だ。


「メリア……! ウィリィアちゃん!」


 庭に居るなら大丈夫、そう、大丈夫な筈。

 なのに何故だろうか、彼女の胸には苦しくなるほどの焦燥があった。

 自室に飛び込んで軍装を引っ張り出し、それに着替えた彼女に、その焦燥の答えが齎される。


「姫様たちが城内の何処にもいません!」


「――!!」


 泣きそうな侍女から報せを聞いたアロエの脳裏には、食い散らかされた娘とその友人の姿がありありと浮かんだ。

 それは、彼女が軍人時代に見た現実の光景。帝国との戦いの最中、国境近辺の村を帝国の騎竜が襲ったときの情景だった。


「くッ」


 壁に掛けておいた細剣を取り、部屋を飛び出すアロエ。

 あの地獄のような光景の中に自分の娘が存在するなど、到底受け入れられなかった。


「わたしの馬を回せ!」


 廊下を全力で駆け抜けながら、彼女は自分の予感が外れることだけを祈った。











 ウィリィアがそれに気付いたのは、何の気無しに空を見上げたときだった。

 木々の隙間から見える狭い空に、小さな黒点が見えた。


「――――何だろう?」


 彼女の近くではメリエラが泥だらけになりながら花を探している。

 最初は服が汚れることに抵抗を感じたウィリィアだが、主君が率先して地面に張り付くようになったこともあり。既に服のことは諦めた。自分が叱られれば済む話だと。


「どうしたの、ウィリィア」


「あ、姫様、何か空に居るんですけど……」


「え?」


 ウィリィアの示す先をじっと目を細めて観察していたメリエラだが、その目にある種見慣れたものが映ったことですぐに興味を失ってしまった。


「ただの野良飛竜だよ。渡りの季節だからね」


 どうということもないと、すぐに花探しを再開したメリエラだが、ウィリィアだけはぐんぐんと近付いてくる飛竜から目を離せなかった。

 よく見れば、翼に何か描いてあるような気がした。


「――――……渡り? 一頭で、ですか?」


「え、だって……」


 震えるウィリィアの声を聞き、再び空を見上げたメリエラも龍種としての本能で気付いた。

 あれは、皇国の竜じゃない、と。


「皇国の野良飛竜は、背中に鞍を載せて、帝国の文字を翼に描いているのですか……!」


 件の飛竜は、その背中の鞍も翼に描かれた帝国の数字も識別できる程に近付いて来ている。

 そしてそのまま、一直線に、彼女たちに向かっていた。


「――ひッ!」


「姫様!」


 逃げよう。

 ウィリィアは怯えたように空を見上げるメリエラの手を引き、走り出した。

 だが、『龍殺し』としての自分が心の奥底で冷静に告げていた。

 自分たちの足では逃げ切れ無い、と。











 アロエと彼女の率いる兵たちは、城の近くの森に飛竜が降下していくのを見た。

 あそこに二人がいると、全員が悟った。

 好奇心旺盛な姫を、その侍従が抑え切れないことなどこれまで何度もあった。きっと今回も、同じことが起きたのだろう。


「城の飛竜隊を森に向かわせて! 急いで!」


「はッ」


 引き連れてきた城の警備兵の一人が答える。

 城に通信を送っても、間に合うかどうかは分からなかった。

 何よりも緑深い森に降りた飛竜を探すことは容易いことではない。

 飛竜は空を飛ぶものだが、陸上でも子どもの足よりかは速い。


「――――――――ッ」


 飛竜が森に降りたばかりの今ならまだ二人は無事だろう。

 そして幸いなことに、自分たちは森の入口まで数分の場所にいる。

 彼女は数秒の逡巡の後、決断した。


「――――森に突入します」


「奥様!?」


 彼女の率いている部隊には、力のある『龍殺し』が一名含まれていた。

 名を、アルフォード・ハルベルン。白龍公の忠臣。

 公爵軍の仕事で城に詰めていた彼は、娘と主君の姫が危険と知り、自ら馬を駆ってアロエに追従してきたのだ。


「危険です! 私が参ります故、奥様はここでお待ちを!」


「あの森の中では子どもたち捜すだけで一苦労です。人手は多い方が良い」


「ですが……!」


 アルフォードとて、娘が心配だ。

 龍種のメリエラはひょっとしたら飛竜が見逃すかもしれない。竜が同属の仲間を喰らうなど、余程空腹のとき以外に考えられないからだ。しかし、天敵である『龍殺し』は間違いなく殺される、メリエラという同属の仲間を救おうと、飛竜が近くにいるウィリィアを敵と認識して襲いかかることも十分考えられた。

 本当なら、形振り構わず森に入って娘と姫君を救いたい。

 だが、主君の大切な令室を守ることも騎士の勤めだ。

 彼は馬をアロエの前に進ませた。ここから先に進ませる訳にはいかないという意思表示だった。


「奥様、このアルフォードを信頼してくださいませ」


「あなたのことは夫と同じくらい信頼しています。ですが、わたしはあの娘の母なのです。力のない種の、いずれ短い命を終えるわたしがこの世界に残せる数少ない証の一つなのです」


 アロエは意地でも押し通るつもりだった。

 皇国の飛竜ならともかく、帝国の飛竜相手に出来ることなど自分には何も無いと分かっている。

 それでも、進まなくてはならなかった。


「アルフォード、わたしに命令させないでください」


 アロエの言葉を聞き、アルフォードの顔色が変わった。

 『命令』――――その言葉が彼の顔から血の色を奪っていく。


「――――――――奥様、後生です。この生命に代えても姫様をお救いいたします。誓います。ですからその先は……」


「アルフォード!」


「奥様! お願いいたします!」


 馬を降り、アルフォードは膝を屈した。

 主筋に忠義を示すその所作が――――彼の生涯の後悔になった。


「――ッ、許してくださいアルフォード!」


「お、奥様ッ!?」


 アルフォードが、大切な家臣が頭を下げているというのにそれを棄てて行く、正当な理由もなくそれを行うという、主君としては恥ずべき所業にアロエは許しを乞うた。

 奥様がまさかそんな無体な真似はするまいと思っていたアルフォードは、完全に意表を突かれアロエを通してしまう。

 慌てた彼が同僚を伴い、森に入ったのはアロエから遅れること一〇秒程度後。

 その一〇秒が、運命を分けてしまった。

 自分に背を向けて走り去るその姿が、アルフォードの見たアロエの最後の姿だった。











 飛竜から逃げる二人は、幾度も転び、傷を作った。

 膝だけではなく、手のひらや顔にも擦り傷を作り、そこから流れる血の匂いが飛竜に二人の居場所を教えてしまう。

 何度隠れても飛竜は二人を見つけ出し、追い立てた。


「姫様、頑張って下さい!」


「う、うん……」


 息を荒げ、妹のような主君を引っ張るウィリィア。

 もしかしたら、彼女だけで逃げた方が助かる可能性は高いかもしれない。

 飛竜が同属の仲間を喰らわないという前提なら、ウィリィアだけが逃げて囮になった方が生存確率は上がる。森の中に救援の部隊が到着していると彼女が知っていたら、主君を隠し、自分を囮にして救援部隊と合流しただろう。

 救援部隊と合流出来れば、飛竜を撃退することも可能な筈だった。

 しかし、ウィリィアは救援が来ていることなど知らない。自分だけがメリエラを守れると思い込んでしまった。

 だから、その手を引いて必死に逃げた。

 剣を持って戦うなんてことは考えられなかった。

 未だ幼いウィリィアの『龍殺し』の本能など、圧倒的な恐怖の前には何の役にも立たない。みっともなく逃げるしか無かった。


「きゃッ!」


「姫様!」


 逃げること十数分、二人にとっては何時間も経ったように感じられたそのとき、メリエラが木の根に躓いて転んだ。

 ウィリィアが慌てて助け起こすが、立ち上がったメリエラの表情が苦痛に歪む。


「い、いたい……!」


 軽い捻挫だったのだろう。

 平時であれば少し冷やし、安静にしていれば一晩で治まる程度の。

 だが、このときの二人にはそんな余裕はない。

 ウィリィアは近くの茂みに主君を引っ張り込み、自分も蹲った。


「ウィリィア……」


 メリエラの表情が不安気に揺れる。

 見捨てられるかもしれない、そう思ったのだろうか。

 追いかけてくる飛竜が自分を守ろうとしているという可能性など、この頃のメリエラには想像も出来ないことだった。

 だから、姉のような侍従に見捨てられるのが怖かった。


「大丈夫です、姫様」


 そして、侍従の答えも決まっていた。

 妹のように育った主君を見捨てるなど、思考の隅にも上らなかった。


「さあ、わたしの背中に掴まって」


「うん!」


 背を向け、そこに主君の重さを感じると彼女はすぐに立ち上がる。

 先程まで背後で聞こえていた飛竜の足音は聞こえない、何処か見当違いの場所にいるのか、自分たちを探して足を止めているのか、どちらにせよ行くなら今しかないと思った。


「姫様、しっかり掴まっていて下さい!」


「分かった!」


 茂みを飛び出した二人。

 あと少しで森を出られる筈だった。

 確たる理由もなく、森から出られたら助かるような気がしていた。

 しかし、白龍宮から応援の飛竜が森の入口付近に到着していたこのとき、彼女たちの曖昧な希望は十分に叶えられる下地が出来ていたのだ。

 唯一の誤算は――――


「――!」


 飛び出した先にあった小さな広場に、自分たちを追い掛けていた飛竜がいたこと。

 上空に現れていた白龍宮の飛竜の姿を見付け、追い掛けていた獲物のことを一時的に忘れていた飛竜が、飛び出してきた二人を見てその存在を思い出したこと。

 そして最後の一つ、


「メリア、ウィリィアちゃん! 退がって!」


 自分たちと飛竜の間に、アロエが飛び出してきたことだった。


「母上!」


「奥様!」


 嬉しそうに顔を綻ばせる二人。

 されども、アロエには二人に笑いかける余裕はなかった。


「『火焔弾フレイ・バレット』!!」


 手のひらに浮かんだ魔法陣から六つの火炎弾を発射したアロエは、すぐさま二人を抱えて後方に飛び退る。

 火炎弾は狙い違わず総て飛竜の身体に吸い込まれ、炸裂した。


「――――!」


 皮膚を焼かれた飛竜の甲高い悲鳴に続き、爆風が三人に襲いかかる。

 二人を抱えたアロエは爆風を背に受けたまま走り、広場から少し離れた木の陰に隠れた。

 爆風が巻き起こした粉塵が風で流されれば、飛竜はすぐに三人の匂いを嗅ぎ取るだろう。

 爆発音を聞いた救援がこの場に現れるまでおそらく五分と掛からない、しかし、それを座して待つことが出来るほど飛竜という生き物は弱くはなかった。


「二人共、無事?」


「は、ははうえぇ~~」


「おくさまぁ……」


 緊張が解けたのか、顔を歪めて泣き始めた二人の頭を優しく撫でると、アロエはほんの一瞬だけ母親の顔で微笑んだ。

 しかし、背後では飛竜が唸り声を上げて自らが未だ健在であることを誇示している。

 時間は、残されていなかった。


「――――二人共、聞いて」


「母上?」


 自分の母が浮かべる軍人としての顔、それに怯えたようにメリエラは目を潤ませた。


「二人で森の城側の入り口まで逃げなさい。アルフォードたちが来ているから、すぐに助けてもらえるわ」


「お父さんが!?」


 ウィリィアの顔がぱっと輝く。

 家では母の尻に敷かれている父だが、その強さは彼女の憧れだった。


「じゃあ、母上も一緒に……」


 メリエラは怯えを含んだ瞳のまま、母の袖を掴む。

 母と離れてはならない、そう思った。


「――――いいえ、わたしは行けない」


「母上! なんで!」


 だから、頭を振る母の腕にしがみついた。

 自分を抱き締めてくれた優しい腕、自分を包んでくれた優しい匂い、自分を守ってくれた優しい声。

 それらが、自分の手から零れ落ちていく。そんな錯覚を抱いた。


「わたしはもう少し時間を稼いでから行くわ。メリア、あなたは怪我をして走れないでしょう」


「でも……!」


「大丈夫、母上はすぐにあとから追いかけるから」


 腕を掴んだままのメリエラを宥め、その手を引き剥がす。

 手を離す最後の一瞬、メリエラの手を握るアロエの手に力が込められた。

 本当に、一瞬だけ。

 惜別さえ、時間の無駄だと思うしか無かったのだ。


「ウィリィアちゃん」


 もう一人の娘、『龍殺し』の眷属にして白龍の友であるハルベルンの姫の肩に、アロエは手を置いた。

 その手が震えていることに、ウィリィアだけが気付いた。


「この子を、メリエラをお願い」


 アロエの目に、涙が溜まっていた。

 母上、母上とアロエを呼ぶメリエラは、おそらく自分の流す涙でそれに気付けない。

 ウィリィアだけが、アロエの涙を見た。


「この子を守って、いつか、この子が誰かを守りたいと思うその日まで――――この子が一緒に幸せになりたいと思う人が見付かるまで」


「奥様……」


「――――――――」


 ウィリィアの呼び掛けに答えず、アロエは立ち上がった。

 最後の最後、二人を見下ろすその相貌には、気高い戦女神としての表情だけがあった。

 自分の守りたいものの為に命を懸ける、美しき戦女神の姿。

 ウィリィアは、それを目に焼き付ける。

 彼女の女神は森の出口の方向を指し示し、冷厳に告げた。自分の中の様々な感情を押し隠した声だった。


「――――おいきなさい」


「――ッ! はい!」


 逆らうことの許されぬ言葉に従い、ウィリィアはメリエラを背負って駆け出す。

 母を呼ぶ幼き主君の涙声を聞きながら、彼女は走った。

 十三秒後、背後から襲ってきた衝撃波に吹き飛ばされて意識を刈り取られるまで、彼女は流れる涙を堪えることも出来ず、獣のように叫びながら走った。

 彼女は、弱さは罪になるのだと、このとき知った。














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