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第二章:戦後内政編
第五話「輿入れ×輿入れ=三国の胎動」



 敗軍の将となったグロリエにとって、敗戦の責を問われ、結果自分の育てた第三軍集団を取り上げられることは予想の範囲内の出来事だった。それが納得出来るかは別にして、ではあるが。

 帝都方面に撤退するまでもなく、彼女の第三軍集団は皇国と国境を接する封冊国の一、『アクィタニア王国』の王都近郊に於いて、今期の西方と東方の戦い――もう一言付け加えて負け戦と称することも出来るが――によって各所が寸断された帝国国境防衛線の補修材にされ、その実戦力の大半を喪失する。

 非積極的はあっても消極的ではない、良将の名に相応しく実に理性的で効率的な皇国の追撃を振り切り、財産の大半を残してきたが故に都市奪還を強く求める『ウィルマグス』の旧支配層を宥めながら自国の勢力圏に帰還したグロリエとその軍団は、命を捧げてきた筈の祖国に裏切られた形となった。

 大半の兵士はその処遇に渋々納得したものの、一部のグロリエ恩顧の将兵は帝国政府、ひいてはグロリエの父でもある新生アルマダ帝国帝王に対して憎しみに近い感情さえ抱いた。彼らにとってグロリエとは、自ら望んで兵士たちと泥の河を渡り、新兵と鍋を囲んで雑草を食し、一兵士の結婚式にさえ祝いの品を贈るほどに自分たちを愛してくれる雲の上の帝王などより余程絶対的な君主であった。それが一介の兵士から軍歴を歩み始めた祖母の教育の産物だったとしても、帝都や自分の領地に引っ込んでは享楽に耽り、ときに子どもが新しい玩具を欲しがるように人を攫い、自分たちの贅沢のための税ばかり課してくる有象無象の帝族とは違う。少なくとも将兵たちはそう思っていた。

 そしてそう思っていたからこそ、第三軍集団は大陸軍国、新生アルマダの中でも最強の軍団と恐れられるようになったのだ。

 将兵が将の将たるグロリエを信じ、グロリエもまた自分の愛する軍団を信じて用いた。その信頼関係こそが彼らの強さだった。

 こと将兵と君主との間に形成される信頼関係に限ってしまえば、グロリエは勝軍の将であるアルトデステニア皇国摂政レクティファールに何ら劣るものではない。むしろ、その信頼関係の醸成に多くの時間を費やしてきた分、優っていると言える。

 今回のグロリエの敗北は、彼女と彼女の軍団の敗北ではなく、もっと大きな――――皇国と帝国の戦いに向ける意識の違いから導かれた結果に過ぎない。

 皇国は内乱を僅かな時間で治めた摂政レクティファールの下で勢いに乗り、祖国を護り抜くという気持ちで望んだ。これまでの内乱では抑え込まれていた軍部の鬱憤を帝国軍へと向けたレクティファールの采配が当たったというべきだろうか。

 対して帝国は、皇国の内乱に乗じて攻め入り、本来の指揮系統を変更してまで西方の諸国を相手に戦っていたグロリエを東方戦線に送った。そして、大陸を横断するに等しい距離を長駆した第三軍集団に疲れがなかったとは思えない。

 帝国が戦力で上回り、皇国が地の利を得、将の厚みも大きな差がない両国の勝敗は実はそういった直接的な武力衝突以外の面で決定付けられたのかもしれない。


「――――君の敗北を聞いて驚きはしたが、それを恨むようなことはしない、グロリエ」


「お言葉、痛み入ります。ディトリア兄上」


 植えられた木々が様々に色付き、雪に閉ざされる前の最後のときを楽しむことが出来るアクィタニア王城の庭園に建てられた四阿は、おそらく一〇名程度であれば雨風を気にすること無く過ごせる広さを持っていた。

 その中央辺りで、駒を配した赤黒の遊技盤と円卓を挟んで向き合う二つの影、先程の言葉を発したのはそれらだった。

 『アクィタニア』国王と、帝国第一三姫。

 グロリエという女性を知る者なら、その謙虚な言葉遣いに驚いたことだろう。しかし彼女とて、自分の責任に於いて他者に迷惑を掛ければ、それを『悪』と判断してそれ相応の態度を取る。特に自身が尊敬する相手がその対象であれば、態度はより分り易いものになる。

 アクィタニアを統べる国王、帝国の封冊国であるが故に『陛下』とは呼ばれないが、その体に纏う威厳だけはグロリエの父――――現新生アルマダ帝国帝王、クセルクセス一〇世と較べてもそう劣るものではない。

 しかし、ディトリアは単に覇気と威厳があるというだけではない。

 彼には、努力や教育では届かない次元の“華”というものがあった。

 朽葉色の柔らかな髪と鼻筋の通った美しくも優しげな面立ちは男としては異常なほどの美貌で、それ故に皇子や皇太子と呼ばれていた頃は数多の貴族令嬢や有力商家の娘たちと浮名を流し、気に入り落籍させた娼妓の数は三桁に届くという。そんな彼だが、今の妻を娶って以来それらの噂は完全に途絶えた。

 それらの愛人の中には彼の子を身篭ったという者もいたが、彼はそんな彼女たちを含めて女性関係を総て清算してしまった。愛人やその子どもらは、彼らの望んだ場所で、女は新たな伴侶を得て、子どもは本当の父の顔も名も知らずに過ごしている筈だ。

 当時から帝国帝王家の次期総領としての才能を開花させつつあったディトリアが気に入っただけあって、愛人たちは自分たちの立場を良く弁えていたのだった。

 他方、多くの女性と関係を持った彼をして『生涯唯一の恋』と言わしめた現アクィタニア王妃リールとの大恋愛は、密かに幼いグロリエにも影響を与えた。

 皇太子という立場や輝かしい未来を捨ててまで自分の意志を貫くというその姿勢は、間違いなくグロリエの中で息衝いている。それが彼女特有の、傲慢さにも似た強烈な自信に繋がっているのだ。

 しかし、突然その自信を突き崩す存在が現れた。今のグロリエのしおらしさは、そんな事実も一つの原因だろう。


「『ウィルマグス』から逃れた民たちは、私が責任を持って預かろう。元々あそこは我が国の一部、帝室直轄領になったからといって彼らを他国の民とは思わない」


「はい」


 『ウィルマグス』から脱出した都市の旧支配層は、ある程度状況が落ち着くとグロリエや帝国に対して財産の補償を求めた。『ウィルマグス』失陥は帝国軍、ひいては帝国政府の失策であると声高に叫ぶ彼らに対し、グロリエは私産を削って当面の生活費を支給した。

 グロリエに続いて帝国政府も彼らに対する損害の補償を決め、彼らの財産の内、現金や土地など政府に保管された資料に記載されているものは七割が補填されることになった。

 ただ、彼らが非公式に蓄財していた表に出せない資産――――脱税した所得や賄賂などの不正に手に入れた物や金――――は当然補償の対象外となった。

 さらに奴隷や家畜といった時間の経過と共に評価額が変わるものについては、直近の政府評価額に基づいて補償されることになる。

 グロリエは、彼らに対し誠意を以て当たった。

 これまでの傲岸不遜な態度を軟化させ、自分に出来る精一杯の補償を彼らに与えた。

 だが結論から言えば、旧支配層はグロリエや政府の与えた補償に満足することはなかった。

 彼らの資産の過半が『ウィルマグス』という都市によって築かれたものだからだ。

 都市の支配層であるからこそ得られた物は、都市を失った彼らの手から次々と零れ落ちていってしまう。例えば『ウィルマグス』で展開していた為、都市失陥と同時に倒産した企業の証券などに政府は価値を見出さないし、支配層という立場があったからからこそ得られていた金になる情報ももう手に入らない。

 商人は店を失い、職人は工房を失い、教師は教え導く子と学び舎を失い、官僚は運営するべき都市を失った。

 彼らが『ウィルマグス』という都市で今まで作り上げてきたあらゆるものが、都市の喪失によって失われたのだ。

 単純な損害の補償で、それらは埋められない。

 しかし、彼らが築き上げてきた諸々は、明確な形を持たないが故に補償することは不可能。一方、旧支配層からしてみれば不可能という一言で納得出来るものではない。

 そして最大の問題は、自分の敗北が、帝国の国内に新たな騒乱の火種を点したとグロリエが気付かなかったことにある。

 彼女はどうしても帝族であり、また無意識に他者の上に立つ種類の人間であった。


「――――しかし、件の摂政も侮れないな。その上、『ウィルマグス』とその周辺の帝室直轄領が根刮ぎ皇国に落ちた今、我が王国は皇国との争いの最前線となったということか……」


 『アクィタニア』単独では、当然皇国に対抗することは出来ない。しかし皇国はその勝利によって帝国国内を大いに聳動させ、国内の独立派を活発化させることで戦力の再編成を困難なものにしてしまった。

 グロリエの第三軍集団が解体されて各戦線に送られたのも、独立派と対することも考慮した結果と言える。兵士の帝国への忠誠を期待することが出来、その上である程度の練度を持った部隊が必要とされたからだった。

 兵力、号して一〇〇〇万。

 後備、予備を含めた数ではあるが、世界中を見ても、それ程の陸軍力を持つ国は珍しい。

 しかしその大兵力も、大半が徴兵によって集められた平民に過ぎない。平民たちの間で密かに広がる帝国政府への反発と、その政府からの独立を目指す動き、ディトリアはたった一度の敗北で動揺する祖国を見、心の内で大いに嘆息した。

 帝国はいつの頃からか、国家としての老いが表面化するようになってきた。民衆の間では現政府に対する不満が蓄積され、特に執政側の横暴が夥しいと言われる辺境地域では武力による民衆蜂起も珍しくない。

 これまで帝国は、民衆の不満という内側からの圧力を外に向けること――つまりは周辺国に対する外征で発散させてきた。この方法は一番手っ取り早く、結果が誰にも分り易く、そして政府が比較的容易に制御出来る不満の解消方法であった。

 武功を挙げれば上に行ける。楽な暮らしが出来る。誰かを虐げることで自分が虐げられることが無くなる。

 そんなことを思う若者たちが帝国軍という巨大な軍事力を形成し、それは諸外国への軍事的圧力だけではなく国内の叛乱勢力に対する有力な圧力として機能することにもなった。そしてそれは、帝国政府が望んだこと。

 しかれども、その帝国政府の政策は建国から三〇〇年の今破綻しかけていた。

 国土が広がり、国力は増強された。しかし、それは帝国の場合国民生活の向上に直結しない。一部の有力者、富裕層は確かにその恩恵を受けて大いに財を増やしたが、大半の国民は度重なる外征とその外征を行う体制を維持するために必要な金や物資、人の消費に喘いでいる。

 そこに、これまでにない大敗。

 戦役総てで見た場合、軍の物的な損失は決して多くない――それでも、レクティファールとグロリエの直接対決となった最終局面での被害は、一度の武力衝突で被った被害としては異例――が、それでも常勝姫将軍たるグロリエが敗北し、封冊国の一部とはいえ国土を失ったことは帝国に衝撃を与えた。

 そして、静かに破綻が始まった。

 いつか訪れることが分かり切っていた『敗北』。

 どんな存在でも勝利し続けることは不可能なのだ。それ故、君主や指揮官は常に敗北の可能性を忘れてはならないのに――――


(我が国は、勝利に慣れ過ぎていた)


 勝利と敗北は常に背中合わせ。勝利の裏には必ず敗北があり、逆もまた然り。

 だが帝国はその強大な軍事力によって齎された勝利に慣れ切り、多くの将兵が、いや帝国の国民さえもが勝利こそが当たり前であると思い、国そのものが勝利を前提に歯車を回すようになってしまっていた。

 だから、たった一度の敗北が大きく響く。

 相手が建国以来の仇敵であり、また敗軍の将がグロリエという帝国きっての勇将だったことを考慮しても、帝国政府、国民の動揺ぶりは滑稽を通り越して哀れみさえ抱くほどのものだった。

 ただ、ディトリアの統べる『アクィタニア』では対皇国戦の最前線になったというのに国民の動揺は驚くほど少ない。

 これは王国の国民がディトリアという国王を信頼していることと、国民の三割近くが亜人で占められているからだった。

 皇国が亜人を始めとした知恵ある者どもの殆どを国民として扱っていることは有名であったし、嘗ての帝国で虐げられる側にいた彼らにしてみれば、皇国という国家を憎む理由がない。

 そしてそんな亜人たちと暮らすことに慣れた『アクィタニア』の人間種にとっては、皇国が帝国政府の言う『屍肉を貪る獣』や『女子どもの区別なく蹂躙する悪鬼』の集まりでないことは明白だった。

 無論、『アクィタニア』総ての国民がディトリアを信じ、皇国に敵意を持っていない訳ではない。帝国本土からの移民者は皇国の侵攻を恐れていたし、『ウィルマグス』の旧支配層のように他種族を虐げることが当たり前の人間たちは皇国の民を獣同然の蛮族と看做していた。


「だが、負けたものは仕方がない。――――帝都に戻るのだろう?」


「はい、第三軍集団がなくなった今、余は元帥としての任を全うできません。父上の言葉に従い、帝都の陸軍本営に……」


 陸軍本営――――大本営の内にあり、帝国陸軍を司る陸軍参謀本部のことだ。グロリエは父の言葉に従い、その参謀本部の特別軍令顧問として赴任することが決まっている。

 大仰な役職名ではあるが、実際には元帥としての実権を振るうことが出来ない、グロリエを帝都に縛り付けるためだけに作られたただの名誉職だった。

 第三軍集団司令官という肩書きは残され、軍令顧問と兼任という形になっているが、指揮する部隊のいない彼女には何の意味もないことだった。


「――――近いうちに帝都へ向かうことになりましょう。その前に、こうして兄上と話す時間が持てて良かった……」


 グロリエは心の底から安堵していた。

 彼女にとって兄は、間違いなく帝王の器を持つ傑物だった。未だに継承権を放棄したことが信じられない程に。

 そんな兄があの皇国の龍に負けるなど考えたくもないが、あの戦場を経験して自分の裡の“絶対”を信じられるほど、彼女は純粋でも幼稚でもなかった。

 兄が万事物事を上手く進めても、兄の目と手の届かない場所で最悪の事態が起こることもある。そしてそのたった一つの最悪が、兄の作り上げた“必勝”を一瞬で破壊してしまうのだ。

 グロリエ自身、もう一度皇国摂政レクティファールと相対して勝利を収められるとは断言出来ない。彼女の知る中で最も優れた将であるディトリアと、自分を敗軍の将という立場に追い遣ったレクティファール。どちらが勝ち、負けても彼女は納得するだろう。

 グロリエにとって両者とは、それ程に拮抗した存在だった。

 しかし、グロリエ個人にとって両者の価値は等しくない。

 彼女にとって兄はあの好敵手よりも重んじるべき存在であった。


「兄上、あの男を侮ってはなりません。あれと刃を交えるまで『所詮、何処の産まれとも知れぬ成り上がり』と、余の部下も毎日飽きもせず囀っておりましたが、ここへ逃げ戻る道中でそれを口にする者はおりませんでした。彼らは同じ口で『皇国摂政は帝国の敵手として不足なし』と呟き、しかし余に見えぬところで震えていたのです」


 彼女は二〇〇〇〇の兵による都市奇襲という奇策を最後まで読めなかった。

 あれ程絶望的な戦力差の中、篭っている要塞を破壊するに足る兵器をこちらが保有していると判断した瞬間、あの男は躊躇いもせず自分の手の内にある最強の札――良将ガラハ――を切り、要塞の守りを薄くしてまでその切り札に持たせられるだけの戦力を持たせた。

 少数精鋭の奇襲ならばグロリエも予想していた。

 それに対処出来るだけの兵力も指揮官も残した。

 だが、レクティファールはその戦いの一点に於いて確実にグロリエの上を行った。

 最大の戦力を相手の最も弱い所に叩き付ける――――戦術にも戦略にも最上手として存在するそれを、レクティファールはグロリエ相手にやってのけた。グロリエは完全に、「相手の手は読みきった」という驕りを突かれる形となった。

 レクティファールはその直後、自陣をグロリエに強襲されて同じことをやり返されたのだが、それで彼の成し遂げた戦術的戦略的勝利が揺らぐことはあり得ない。

 むしろ、重装近衛騎兵の精強さを頼りにして相手を脅かしただけのグロリエと比べれば、それは一つ高い場所の勝利にも見える。少なくとも、グロリエはそのような感想を抱いた。


「兄上はあの男といずれ刃を交わすことになるでしょう。余は兄上が敗北するなどと――――信じたくはありません、ありませんが……」


「――――――――ああ、分かっている、我が妹」


 ディトリアは思う。

 皇国との戦いに赴く前の妹姫であるならば、兄の勝利を疑うことはなかっただろう。しかし、たった一度の戦いで愛しい妹はその価値観を一変させた。

 いいや、一変させることが出来たというべきだろう。

 グロリエは敗北を、それこそ自身が認めるほどの敗北を経験するべきだったのだ。そしてそれは、隣国の次期元首の手によって成された。

 ディトリアはあったこともない隣国の摂政に無言の感謝を捧げた。

 これで妹はまた一つ昇るべき階を見付けることが出来た。成長する余地を手に入れた。


「――――だが、お前の心配はしばらくあとのことになりそうだ」


「は……?」


 グロリエは兄の言葉を理解出来ず、しばし呆然とした。

 そして、そんな彼女は自分の背後に迫る影にも気付かなかった。

 影は少しの間グロリエの背後でその様子を伺っていたが、自分の目的の人物が自分に気付いていないと察すると少しの躊躇いもなく動き始めた。

 一息の準備。大きく息を吸い、身体を屈めて目標を定める。


「――――ッ」


 だが、影が意を決して一歩を踏み出したときには、彼の目標は彼の接近に気付いてしまった。

 帝国の戦姫は正しく戦いに生きる姫君であり、影のような小さく弱き者が出し抜こうと思って簡単に出し抜けるものではなかったのだ。

 グロリエは一挙動で振り返ると、自分に向けて背後から飛び掛ってきた影を認め、両手を広げてそれを迎えた。


「叔母上ッ!」


「おお、マイセル。叔母上だぞ!」


 影――――アクィタニア第一王子にして王国王世子たるマイセル・ファス・アルマダは幼い頃の父親によく似た愛くるしい顔を笑顔で彩り、グロリエの胸に飛び込んだ。

 叔母の豊かな胸に顔を押し付け、ぐりぐりと動かす。マイセルの頭にある狼のそれに似た三角の耳を半ばまで隠す柔らかな蜂蜜色の巻き毛が、グロリエの頬を擽った。

 グロリエは先程まで浮かべていた暗い表情を一変させて満面の笑みを浮かべ、甥御の頭をくしゃくしゃと少し乱暴に撫でる。


「マイセル、いい動きをするようになったな! 義姉上そっくりだ!」


「うん! もう父上と追いかけっこしても捕まらなくなったんだ!」


「そうか、そうか! じゃあもう少ししたら余が捕まえなくてはならなくなるな!」


 『龍殺し』たるグロリエならば、野山を縦横に駆け巡る狼の獣人の血を引くマイセルの動きにも付いて行けるだろう。人間種であるディトリアは既に一年も前に逃げる息子に追い付くことが出来なくなっている。ましてや捕まえることなど出来はしない。今ではディトリアの妻と、その妻の一族から召抱えた使用人がマイセルの遊び相手として必要な条件を満たしている。

 グロリエはマイセルを抱き抱えたまま、ぐるぐると回り始める。マイセルが嬉しそうに笑い声を上げると、その回転は勢いを増した。

 人間種であればすぐに目を回してしまいそうな勢いで回る二人は、傍目には少し歳の離れた姉弟のように見える。そしてグロリエは、事実この甥御を弟のように見、可愛がっていた。

 そんな二人に、四阿の外から声が飛んだ。


「マイセル、わたしの坊や、父上と叔母上のお話の邪魔をしてはいけません」


 良く通る女性の声。

 「義姉上」と、その声を聞いたグロリエが回転を緩めていく。やがて完全に回転は止まり、グロリエはマイセルを抱えなおして声の主である義姉に向き直り、一礼した。


「――――お久し振りです、義姉上」


「ええ、本当に久し振りね。グロリエ、皇国との戦いのことは国王殿下から聞いているわ。良い負け戦だったわね」


 濃い銀毛を特徴とする月狼の獣人である王妃は、その特徴通りの三角耳と尻尾の毛並みを綺麗に整えた姿だった。彼女は笑顔でグロリエに応え、先の戦いをそう評する。彼女自身元軍人であるから、その立場で感じたことなのだろう。彼女は別段兵士たちの命を軽んじている訳ではないし、グロリエはそれを知っていた。

 グロリエは物事を真っ直ぐに見詰め、評価する義姉のそんなところが非常に好みだった。彼女自身は気付いていないが、その彼女が好む義姉の美点は、彼女自身にも似たような面がある。

 ディトリアは妹と妻がまるで血の繋がりを持つ姉妹のようにも見え、さらに苦笑を深めた。


「はい、良い教訓を得ました。次はもっと上手く戦えます」


「ならば犠牲になった兵たちも報われましょう。彼らの命、あなたの糧になったのよ」


「はい」


 義姉の教え諭す言葉に、グロリエは神妙に頷く。

 傲岸不遜という言葉が良く似合うこの帝国の第十三姫はしかし、こうして人から何かを教えられることに関しては従順だった。無論、教えを授ける相手とその内容によるが。

 リールはグロリエの真っ直ぐな眼差しに満足すると、ほんの少しの躊躇いの後、自らの背後に声を掛けた。頭の上に生えた銀色の三角耳が、困ったように震えた。


「マティリエ、叔母上にご挨拶なさい」


 小さい、息を呑む音。

 四阿の柱の影から覗いているのは、リールと同じ濃銀の尻尾だ。

 その尻尾は持ち主の気持ちを示すように力なく揺れており、グロリエは思わず苦笑してしまった。

 どうやら愛しい姪御は相も変わらず人見知りが激しいようだ。彼女は膝を折り、その場に屈んだ。


「マティリエ、そこでは顔が見えない。余に可愛い顔を見せてくれ」


 両腕を広げて敵意の無いことを示す、まるで警戒心の強い動物でも誘うようなその姿に、今度はリールとディトリアが笑いを堪える。肩を震わせる両親を、マイセルが不思議そうな顔で見上げた。


「――――お、叔母上……その……」


 声と同じ拍子で尻尾が揺れる。


「もう九つになったのだろう。誕生日に戻ってこれなくて済まなかった」


「いいえ……! 叔母上様は、その、戦いに赴いておられると父上にお聞きしておりましたから……」


 言葉とは裏腹に、その尻尾は気落ちしたように垂れ下がってしまった。

 尻尾で感情を示す獣人にとっては、言葉よりも尻尾のほうが余程正直だ。グロリエは仕方なく自分から近付くことにした。


「――――マティリエ、次の誕生日はきちんと祝いに来る。だから許してはくれないか?」


「叔母上様……」


 グロリエが回りこむと、柱の影に隠れていた濃銀の狼姫がその灰色の瞳で彼女を見上げてきた。

 怯えとは違う瞳の揺れは、おそらく期待。

 人一倍臆病な狼は、それ故に人一倍寂しがり屋だった。

 それを母性とも言うべき本能で理解したグロリエは、マティリエをそっと抱き締める。飾り布の多い衣裳に包まれた小さな身体がビクリと震えた。


「大丈夫だ、余はお前を嫌いになったりしない。お前の前から去った連中と一緒にするな」


 グロリエは優しく、それこそレクティファールが知れば別人ではないかと思うような声で姪御をあやす。

 帝国の姫でありながら獣人という、帝国と獣人族のどちらにも受け入れられない存在であるマティリエ。彼女は数年前、友人――と彼女が思っていた――者たちに一方的に排斥されるという経験をしていた。

 それまではマイセルと同じように明るく活発だったマティリエだが、ただ獣人であるという彼女本人には如何ともし難い理由で拒絶されて以来、今のように人を怖がり、人との別れを怖がるようになった。


「余もお婆さまがいなければ単なる戦奴隷にでもなっていただろう。単に力を振るうためだけの、動物だ」


「そんな、叔母上様は……」


 ――――こんなにも人々に愛されている。マティリエの言葉は音にならなかった。


「良い、所詮仮定だ。今の余には兄上がいて、義姉上がいて、マティリエやマイセルがいる。余を将と認めてくれる兵もいる。余が戦うに十分な理由だろう」


「――――――――」


 グロリエの上での中で、マティリエは頷いた。


「お前にもいずれ分かる。余は知らんが、母上曰く――――女は妻となれば夫を守りたくなり、母となれば子を守らずにはいられないらしい」


「――――――――あの、わたくしには……」


「うむ、分かっている。婚約もまだのマティリエにはよく分からないだろうな。正直、余にもさっぱりだ」


 グロリエは姪と顔を合わせると、小さく舌を出して笑う。

 マティリエが、それに釣られるように小さく笑った。


「グロリエ、マティリエ、お茶が入りましたよ」


 二人の背後でリールが呼ぶ。

 二人はもう一度笑い合うと、どちらともなく手を繋いで四阿の真ん中までのほんの少しの距離を歩いた。











 五人でお茶を飲んだあと、ディトリアは再びグロリエと二人だけで話す場を設けた。

 彼らのいる四阿から見える庭には、グロリエの持ってきたお土産の模型飛行機械を飛ばして遊んでいるマイセルと、それに引っ張り回されているマティリエ。我が子を微笑みと共に見守るリールの姿があった。

 ディトリアは自らの家族に視線を向けたまま、口を開いた。


「グロリエ、一つ聞きたいことがある」


「何でしょう、兄上」


「レクティファールという男は、どんな男だ」


 グロリエはその問いに微かな戸惑いを見せた。

 あまりにも漠然とした問い掛け。答えに窮した。


「それは、どのような意味でしょう」


「――――――――」


 だから、敢えて問い返した。

 しかし、しばらく待ってもディトリアはその質問に答えることはせず、ただ別の言葉を口にした。

 そのときのディトリアの表情には、付き合いの深いグロリエを以てしても何も見て取ることは出来なかった。


「――――マティリエに、縁組の話が来ている。良縁と、まあ言えなくもない」


「なんと……!」


 純粋に、ただ驚くグロリエ。

 いずれはあの姪も誰かに嫁ぐのだろうと思っていたが、まさか自分よりも早く嫁ぐとは思わなかったのだ。

 しかも、帝国が大きく揺れているこの時期に出てくる話ともなれば、その輿入れの目的は帝国内の連携の強化にある筈だった。特にディトリアは未だに帝国中央に隠然たる影響力を持っているのだから、その令嬢との婚約は多分に政治の領分だろう。

 グロリアはそう考えた。


「相手は何処の誰ですか? 皇国に対する共同戦線を張るならば、やはり隣国の『ヴァルテア』か、『ラルス』のどちらか――――」


 グロリエの挙げた二国は、『アクィタニア』と同じ帝国構成国家だ。共に『アクィタニア』と国境を接し、それなりの国力を持っている。皇国に対するならば、遅かれ早かれその連携を強化しなくてはならない相手だ。

 だが、ディトリアは頷かなかった。

 ちらりとグロリエを見、一息の間を空けて告げた。


「グロリエ、君が一番良く知る国、良く知る男だ」


「余が……知っている……?」


 グロリエは確かに多くの貴族や帝族を知っている。

 しかし、いずれもがディトリアや他の兄姉より詳しいということはない。

 強いて言えば軍内部の有力者ということが考えられるが、グロリエに近い者たちにはマティリエの相手になるような年頃の息子はいない筈だ。

 何よりも、ディトリアは『国』と言った。

 グロリエが誰よりも一番良く知っている国、そして男――――そこまで考えて、グロリエの脳裏に一人の男の姿が浮かび上がった。

 白の髪を持つ、皇国の星龍の姿だった。


「――――まさかッ!」


 グロリエは円卓を叩いて立ち上がった。

 それなりに大きな音が出たが、ディトリアは少しも動揺しなかった。

 静かに、肯定の言葉を発しただけだ。


「父上よりの勅命だ。我が娘マティリエを南方辺境領摂政レクティファール殿の下へ輿入れさせ、息子マイセルを皇国皇立学究院に留学させよ、とな」


「そんな、それではまるで……」


 人質。

 グロリエはその言葉を既のところで飲み込んだ。

 帝王が発した勅命に対して異を唱えるには、グロリエは未だに力が足りていない。

 ここで不用意なことは言えなかった。


「――――父上のお考えもあるのだろうが、おそらく弟や妹が裏で動いたのだろう。愚弟も愚妹も多少はものを覚えたと見える」


 ディトリアの後継たる二人の子を、実質的な敵国に差し出す。

 それはディトリアの持つ影響力を削ぎ落とす手段として確かに有効だった。

 なかんずく、中央の次期帝王候補者たちにとっては将来的に自分たちの競争相手に、それも強力な競合相手になるかも知れない二人を取り除く効果的な手段だ。現帝王の命数が尽き、自分たちが帝王になるまで皇国に留め置かれるならそれは望むところ。もしもそれ以前に皇国との争いが再び勃発するなら、二人の命は皇国で尽きることになるだろう。

 そして何よりも、彼らの命を開戦の大義名分にすることも出来る。


「父上は、一体何を考えておられるのか……! 孫たちを皇国に売るつもりなのか」


 憤然として腰を下ろすグロリエ。その拳は卓の上で震え、彼女の若い怒りを良く表していた。

 そんな妹を見て、ディトリアは羨ましそうに目を細める。この妹の真っ直ぐな気性は、彼の好むところだった。


「父上はこの国と帝王家の明日をお考えなのだろう。弟たちが如何様に父を誑かそうとも、あの父はそう簡単に操れるものではない」


 ディトリアを厭う者たちが動いたことは間違いない。

 しかし、帝王自身もまた今回の勅命を発するに十分な理由を持っている筈だ。


「今の帝国の状況を思えば、皇国との間に必要以上に高い緊張を維持することはあまり歓迎出来ることではない。今回の敗北で勢い付く逆徒どもを鎮圧するには一朝一夕では済むまい。内憂に気を取られている間に背後から襲い掛かられては、如何な将とて敗北しようもの」


 時間稼ぎといえばそれまで。

 今回のマティリエの輿入れは、その為の最良の手段だったのだろう。

 帝孫であり、嘗ての皇太子を父にもつマティリエは帝位継承順位こそ低いもののその血統は帝国内でも有数。獣人であることも帝国内ならいざ知らず、皇国相手ならば負の要素に成り得ない。

 それにレクティファールの寵を受け、その心に深く根差せば帝国にとってこれ程都合のいい工作員はいない。そのときが来れば、褥で寝首を掻くことも出来るだろう。

 何よりも、帝国にとっては例え喪われたとて惜しくない命だ。

 個人の感情を除けば、帝国にとってマティリエは卑しい獣人の血を引く汚点。少しでも国の為に役立つなら、ここが使いどきということなのだろう。


「――――マティリエの輿入れは、確かに理解できる面も多々あります。しかし兄上の後継者であるマイセルまで皇国にくれてやる必要は何処にも……」


「あるさ、弟たちも確かにマイセルの留学を画策したが、これはむしろ私がそう望んだのだ。父上もマイセルを留学させることまでは消極的だったからな」


「な、なんと……」


 ディトリアは驚く妹を一瞥し、口の端を持ち上げる泥臭い笑みを見せた。

 この表情だけが、一〇年前の彼と変わらない。

 他者を貶め、蹴落とすことに何の躊躇いも抱かない“帝王”としての顔。


「グロリエ、君の話を聞いて確信した。皇国摂政は利用価値がある者を一時の感情で殺すような真似はしない。例え帝国と兵戈を交えることになっても、彼はマティリエとマイセルを害するようなことはしない筈だ」


 帝国の内政に干渉する道具として、マティリエとマイセルは非常に便利な存在だった。

 帝国側が二人を帝籍から除こうとも、その血が入れ替わるわけではない。その帝籍剥奪さえも、皇国が帝国内部に干渉する切っ掛けとしては十分過ぎるだろう。

 そして、両国が砲火を交わした結果どちらかが滅びようとも、アクィタニア王家の血は生き残れる。


「我が子等は我が帝国と皇国を繋ぐ細くも堅固な糸となろう。これによって両国は互いを無視することは出来なくなる」


 お互いが相手国の内部に干渉することが可能になれば、両国はこれまでより多くの労力を外交に傾けなくてはならなくなる。人や物資の行き来も多くなるだろう。そしてそれは、民間段階での両国の接近を意味する。

 多くの人や物が皇国から帝国に流れ込むだろう。それはディトリアの望むところだった。


「帝国が今のまま発展することはあり得ない。何らかの形で新たな風を招き入れ、腐った部分を取り除かなくてはならない」


 それは、ディトリアが皇太子の地位から身を退いたもう一つの理由。

 彼はその政治的動物としての本能で、いずれ自分の統べるこの国が決して長くないことを嗅ぎ取った。今のままの政治体制、今のままの国体では早晩瓦解すると理解した。だから、彼にとって他の代わりになる者がいない家族を連れて辺境に下った。

 御国を守るにしろ、家族を守るにしろ、帝王という立場はそれに適していない。帝王は強大な権力を有しているが、その周囲を固める官僚や貴族たちは旧態の権化と言って良い者たち、これでは亡びは止められない。

 ならば、敢えて国の外縁から国を変えるべきではないだろうか。

 ディトリア・ファス・アルマダという男は、そう考えるほどに帝国史上もっとも現実を理解することに長けた帝族であった。


「この縁組は大なり小なり御国に変化を齎すだろう。弟どもがそれを理解し、使いこなせるようならば帝国の未来は拓ける」


「では、理解することさえ出来なんだら……」


 ディトリアは、グロリエが自身を女と感じるくらい男の香る笑みを見せた。


「帝国は、再び人々の記憶に還る、それだけだ」











 アルマダ大陸よりレムリア海を超えた先にある弓状列島、そこはこう呼ばれていた。

 イズモ神州連合。

 だがそれは対外的に彼らが自称する国号であり、国内では専ら『八洲国やしまのくに』と呼ばれていた。

 八つの大洲から成る国土を示したその言葉の根底には、八洲民族の裡に潜む選民意識がある。

 即ち、自らは嘗て世界に君臨した神々の末裔であると――――








「――――――――難しい顔をしておられるのぅ。兄上」


 みやこの中央に数千年の昔から厳然と座り込む内裏の自室で、現“帝”である正周帝まさちかていはその声を聞いた。この日は気分が優れず、どの后の下へも渡っていなかった。

 天子が声の方へと眼を向けると、庭に面した障子に、月明かりに照らされてほっそりとした影が写り込んでいた。


「――――真子もこか」


 黒髪黒瞳の天子が、小さくもはっきりとした声で妹の名を呼んだ。


「半分正解、半分外れじゃな」


 影が答えると、障子が一人でに開き、客人を招き入れる。

 行灯の光に照らされ、金に近い薄茶色の髪を棚引かせた女性が天子の前に立っていた。その頭には、ぴんと立った獣の耳がある。

 天子の顔が歪んだ。


「――――貴様か、堕神」


「そうじゃ、兄上の大事な妹君の魂に巣食った悪逆なる穢神けがれがみよ」


 堕神と呼ばれた女性は、正周の言葉に艶然と笑った。とても楽しそうに、広げた扇子で口を隠して。

 そして彼女の言葉と同時に、ぶわりと、彼女の背後に“八本”の金色の尾が広がった。

 それに対し、正周は不機嫌そうに眉を顰めるだけだ。


「何処から入った。皇国からの返答が来るまでは離宮より出るなと申し渡しておいただろう」


「輿入れ前にどこぞの男と通じられても困るからのぅ。だが心配ないわ、真子は妾と違って貞淑故な」


「貴様がこうして出歩いていれば同じこと。さっさと戻れ」


 正周は虫でも追い払うように手を振った。彼は、この堕神を心の底から嫌っていた。出来るならば、顔も見たくない程に。


「良いのか、そのようなことを言うて。妾が皇国で何か仕出かせば、兄上とて困ろう……」


「貴様に兄と呼ばれる筋合いは無い! 化け狐が!」


「ほ、嫌われたものよな。妾は真子と同じくらい兄上――――ぬしを気に入っておるというのに」


 妹の身体を不当に占拠している狐に対し、正周は憎悪でさえ温く感じるような激情を抱いていた。

 嘗て神々と呼ばれていた祖先の中で最も若い、彼らがこの世界に肉体を残していた頃、最後にその名で呼ばれることになった獣神は、この八洲の歴史上もっとも悪名高い神であった。

 彼女は他の神々がこの八洲国で肉体を棄てて行く最中、今の“帝”家の初代当主の妻となった。それだけであれば、彼女は栄光ある“帝”家の最初の后として名を残したことだろう。

 彼女はその美貌も含め、知に富み、理に篤く、情に深い民に慕われる女であったからだ。

 だが、彼女は突如変貌した。

 子も生まれ、“帝”家が“天照”の管理者として権勢を振るうようになった時分、夫の弟たちと通じたのだ。

 夫の目を盗み、皇族の男どもを誑かして人々が目を伏せたくなるような一晩の大淫劇を演じ、結果として皇后としての地位を追われた。彼女は未だ肉体を持っていた同族たちにさえ嫌われ、その神としての力ごと御所の中にある祠に封印された。

 その封印を解いたのが、正周の異母妹、内親王緋ノひのみや真子の母だった。

 封印の開放そのものは事故に近いものだったが、既に肉体を失っていた堕神は彼女の胎内にいた真子と同化し、その生命を永らえた。そうでもしなくては、堕神はその時点で滅んでいただろう。

 その事実を知った先代の“帝”は娘である内親王を離宮の奥深くに隠し、幾重にも堕神に対する封印を掛けた。その封印の結果、堕神の力の一つである“浄天眼”の力を制限された真子の目は光を失ったのだ。

 それ故に、正周はこの堕神を憎んでいた。

 妹から光を奪い、今こうして自分の前で好き勝手に口を開いていることが許せなかった。

 堕神の姿でいるときのみ、正周の妹は世界を見ることが出来る。真子が五体満足でいられるのは、この堕神が表に出ているときだけ。妹が得るはずだった光を不当に奪った穢神は何の罪悪感も抱かずこうして世界を堪能している。正周に、それを許すことは出来ない。

 叶うなら、妹の身体から堕神を引き剥がしたかった。

 だが、神族の血を引いている真子は魂に存在の重心を置いている。正周も同じだ。

 その魂と完全に融合しきった堕神を引き剥がすということは、真子の魂の一部を切り取るということ。完全に肉体を失った神族ならばともかく、肉体を持った現人神の一族たる“帝”家の者に耐えられることではなかった。肉体と魂の比重が崩れれば、そこには死しかない。


「貴様になど気に入られたくはない。皇国への輿入れまでの間、せいぜい大人しくしていることだ」


「ほほほ、大事な妹を他国にくれてやるなんてどんな心境の変化かのぅ。妾だけなら厄介払いとでも受け取れるが、真子は違うであろう?」


「真子とていつまでもここにはいられん。周囲の目、というよりも、本人が一番気に病んでいる」


 正周は嘗て祖先に愛された美貌を睨み付けた。


「貴様がいなければ、朕が見付けた良き男の下に嫁げたであろうよ。しかし、今の真子を真子として受け入れてくれる男がこの国にいるか、力持つどの家も――――瀬川を含めて真子を皇族や朕の妹としてしか見ておらぬ連中ばかり、貴様をそんな奴らの下に送り込めば、今度こそ国が滅ぶ」


 何より、今は皇国と実質的な同盟を組む必要がある。

 国土の東に広がる大冥洋の先、世界有数の宗教超大国でもある単一大陸国家『北ウォーリム教国』と『南ウォーリム教国』がお互いの教義を巡って争っているのは八洲でも知られているが、万が一両国がアルマダ大陸にその矛先を向けるなら、間違いなく八洲は戦場になる。そして何よりも、国内が荒れに荒れているこの八洲で、皇族はその権威に相応しい戦力を手に入れる必要があった。この国を亡国としないために亡国の縁から舞い戻った皇国と手を組もうというのは、お互いの国益を思えば妥当な線だ。

 八洲は現政権を維持して新たな千年を安寧と共に過ごす、皇国はその八洲と連携を深めてアルマダ大陸東方の貿易網を維持する。他国との貿易を国の要にしている皇国にとって、八洲との連携はそれらを保つために必要不可欠な要素だ。


「皇国ならば良いと? かの摂政を妾が唆すやもしれんぞ」


「“皇剣”は神族の力に対して絶対的な抵抗力を持っている。元々が神族や龍種を相手にするための兵器だからな。貴様の稚拙な術など効くまい」


「術など必要ない、妾がこの声と身体があればの」


 堕神の言葉に、初めて正周が笑った。

 誰かを罠に嵌めたときに人が見せる、嫌な笑い方だった。


「皇国の後宮は貴様や朕の天敵である龍たちの巣だ。貴様が好き勝手に動けるほど甘い場所ではない」


「――――――――なるほどの、我が親愛なる天子陛下は妾を滅ぼせる者たちの下へ妹を向かわせるつもりであったか」


 堕神の動きを掣肘する為には、彼女が動こうにも動けない状況を作り上げるしかない。それはこの国では難しい。

 ならば、国益も兼ねて他国へ――――神さえ殺せる者たちの巣窟へ向かわせることも有効な手段だ。


「何よりも、真子は一文字家の那岐姫の話が好きだからな。朕は、家を失い家族さえ離れ離れになっても、遠い異国の地で新たな家族を得た一文字家の姫に肖ってもらいたいと思っている」


 権力争いに敗れて異国に流れた姫君は、その地で皇となり家族を得た。

 妹も、今は光を失い身体を奪われていても、いつか新たな光を得られると正周は考えている。

 その切っ掛けの一つとして、この縁組は悪いものではない。

 大陸に放った忍びたちの報告で、件の摂政がこちらが心配になるくらい女に甘いことは分かっている。真子のことも、おそらく大切に扱うだろう。

 その結果二人の間に想いが通じれば最良だが、妥協すべきところは正周も弁えている。


「――――ほ、ま、今日のところは兄上の真子に対する愛情に免じて帰るとしよう。あとで真子の迷惑になっても困るからな、男にも手を出さぬようにしようか」


「当たり前だ、その身体は妹のもの。貴様の好きにされて堪るものか」


「そうだのぅ、その通りじゃ。では、また会おうぞ、正周殿」


「――――ふん」


 自分から視線を外した正周を苦笑と共に見詰めながら、堕神は足音も立てずに部屋を出る。

 障子を閉めると、月明かりだけが彼女を照らした。

 彼女の背後で、尻尾の影がゆらゆらと揺れている。

 八本の影は、まるで魔人の腕のように彼女の影を包んでいた。


「――――――――のう、真子」


 彼女は少し歩くと、自分の裡にいるもう一人の自分に語り掛けた。

 自分のような穢れた神にさえ愛情を向けてくれる愛らしい、愛されるべき娘だった。


(どうかしたの、瑠子るこ。陛下に言われたことなら気にしなくても……)


 今となっては彼女の本当の名を知る唯一の存在でもあるその姫君は、光と人生を半身に奪われてもなお優しかった。

 だから、堕神――――瑠子は真子を愛している。


「ぬしは良いのか、敵国ではないとはいえ皇国は嘗てこの国と争った大国。その頃のことを覚えておる者も少なくなかろう。それらの憎しみは、妾はともかく、ぬしにとっては辛いだけやもしれぬ。そうでなくとも、他国からの輿入れは反発が大きいというに」


(瑠子がいれば大丈夫)


「――――…………」


 言葉を返そうとして、出来なかった。

 自分がいてくれれば大丈夫だと断言する真子の笑顔が、容易く想像出来た。

 自らから多くを奪った穢神に何故こうも優しく出来るのか、瑠子には不思議でならない。


「ぬしも、大概甘いのぅ。顔も知らぬ男の下に嫁ごうというに、妾なんぞを頼りにするとは……」


(瑠子は初代陛下のお后様だったんだもの、真子の先輩でしょう)


「――――うぅむ、そうとも言えるのかのぅ。だがの、相手の男次第で女というものは変わっていくもの、妾の言葉がどれ程の意味があるかは、正直向こうの男次第だの」


(レクティファール殿、だったっけ)


「うむ」


 瑠子は腕を組み、ゆっくりと夜空へと浮かび上がる。

 ここから離宮まで、飛べばすぐの距離だ。この無知な姫君に男女の何たるかを教授するには短い。

 彼女は少し京の空を散歩することにした。

 この光景を見ることが出来ない半身に代わって、故郷の姿を少しでも多く心に留めたいと思った。


「戦人というは昔から女心に疎いと決まっておる。しかし、そういう意味では操りやすい」


(操るの……?)


「女は男を操ってこそよ。まあ、この世は女が操っているのだから、当たり前だがの」


(――――ふーん、そうなんだ……)


 真子に瑠子の言葉を疑う気配はない。

 彼女にとって、この半身は信頼出来る姉のようなものだった。


「輿入れまで時間はある。ゆっくり男の操り方を教えよう、ついでに閨の作法もの」


(うっ……)


 呻き声と共に小さくなる真子の気配。

 瑠子は初心な半身に苦笑しながら、京の夜空を楽しんだ。











 アルトデステニアの後宮で怒号が轟く。

 とある人物が職務に復帰してから、ほぼ毎日だ。


「レクトっ! この愚弟! 待ちなさい!」


「待ったら早朝解体ショーの始まりでしょうが! ――――ってこっち来ないでください!」


「待てこの変態!」


 綺麗に整えられた庭をひた走るこの国の主を、唸りを上げる大剣を振り翳して侍女が追う。

 後宮護衛を司る乙女騎士たちは、最初の二、三日は戸惑いを見せていたものの、既にこの騒ぎを日常の一つとして捉え始めていた。とある侍女のお仕着せを着た騎士は、自分の横を疾風の勢いで駆け抜けて行った摂政に対して礼儀正しく頭を下げた。

 ご苦労様、という声だけが遠くから聞こえてきた。

 溜息を吐き、騎士は仕事場である厨房へと向かう。

 ここは本当に、由緒ある後宮なのだろうかと首を傾げながら。










「――――で、今日は何をやらかしたんだレクトは」


 庭に面した縁台で、いつの間にか当たり前のようにここで朝食を摂るようになったフェリエルが言う。

 彼女の眼前にある庭では、国主が悲鳴を上げながら逃げ惑っていた。庭師の役割を負った乙女騎士たちが、青い顔で二人を追っている。


「ウィリィアの着替えを覗いたとか。――――どうも出されていた課題の為に借りていた本を返しに行ったらしいの」


「ノックくらいしないの?」


 メリエラの口から語られた余りにも馬鹿らしい理由に、やはり当たり前のように座っているファリエルが呆れたように問う。

 嫁入り前の娘の部屋にノックも無しに立ち入る馬鹿が婚約者だとは思いたくないらしい。


「したのよ、でも浴室にいたから気付かなかったみたい。レクトも随分前に借りたものだし、早く返すように言われていたから誰もいないと思って扉を開けたのね」


「――――なるほど、なんてレクティファール様らしい……」


 リリシアが頭を抱えた。

 後宮内の部屋には、扉横の晶盤に触れることで鍵を開ける魔導式の鍵が使われている。個人の自室ともなれば普通は本人とその直属の上司だけが開けることが出来るのだが、レクティファールはその鍵の管理者権限を有しており、その関係上後宮の総ての部屋に自由に入れる。

 まあ、今回はそのせいで悲劇のような喜劇が起きてしまったのだが。


「ウィリィアも急いでたから、何も着ないで浴室の扉を開けて――――こうなった訳ね」


「不用意、とも言えないな。自室でどんな格好をしていても、それは個人の自由だ。その先は自己責任だが」


「恐ろしいのはあの馬鹿の運の良さ……悪さかしら。どちらにしろそれね」


 紅龍公の姉妹はほぼ同時に大きな溜息を吐く。

 毎朝のように同じような騒ぎを起こしていればわざとやっているのではないかと考えるものだが、レクティファールに関しては完全に無実だ。

 何せ、本人の意志とは関係の無い場面ですら同じようなことが起きている。

 例えば、たまたまメリエラに部屋に呼ばれてそこに向かう途中、風で飛ばされたウィリィアの下着を拾うとか。


「相手がウィリィアに限定されているのは、ある意味安心だけど。面白くはないわ」


「侍女の方がよっぽど恋人らしいじゃれあいをしているからな」


 パンを口に放り込みながら、フェリエルが呟く。

 そう、二人の追跡劇は傍目には痴話喧嘩にしか見えない。ウィリィアが実際にレクティファールを傷付けたことがないことも、その印象を補強した。


「そうなのよ! ウィリィアのご両親も最近乗り気で、「殿下を我が家の夕食に招待したい」とかわたしに言ってくるの!」


「――――ご両親、ウィリィアが何時まで経っても結婚しないから焦っているのね」


 ファリエルが哀れむような視線をメリエラに向けた。

 メリエラとてレクティファールと一緒の時間をそれなりに過ごしている。しかし、その様は未だ御飯事の域を出ていなかった。対して、侍女は最近夫婦喧嘩にも見えるようになってきたじゃれあいを毎日のように繰り返している。

 哀れだった。


「最初の印象があるのか知らないけど、ウィリィアもレクトには遠慮がないから……」


 後宮内であれば、そこの主であるレクティファールが許せば大事も大事にならない。特にウィリィアはレクティファールの義姉としての立場も持っているから、その喧嘩は単なるお遊びとして処理されている。

 姉弟喧嘩、痴話喧嘩、夫婦喧嘩などの民事に行政は関わらない。

 特に、ウィリィアの持つ『岩窟龍断ち』はレクティファールを殺せないのだからその傾向は余計に強かった。


「あの動きから逃れるレクトもすごいが、ウィリィアの動きも大分良くなったな。グロリエ姫との戦いが効いたのか」


「みたいね。毎日遅くまで訓練してるわ、たまにレクトが付き合ってるみたいだし。何か、ウィリィアの動きが一番、帝国の『龍殺し』の動きに似ているとか言っていたわ」


 面白くなさそうにスープを飲むメリエラ。硬いパンを齧り、じとっとした目で庭の二人を見た。レクティファールが間合いを詰め、ウィリィアがそれを上段回し蹴りで迎撃していた。

 絶対、下着見えてるよね――――メリエラは思った。


「も、もしかして昨日わたくしの所に来るのが遅かったのは……」


「――――――――ご明察」


「がーんっ!」


 よよよ、と泣き崩れるリリシア。

 嘘泣きだと分かっている三人は、それを完全に無視した。

 女は、意中の男の前以外ではなかなか泣かないものだ。


「まあ、諸々の不満はレクトに今夜ぶつけるとして、いい加減どうにかしないとあの二人はもっと過激な事故を起こしそうね」


「どうにか出来る範囲のものならば、こんな騒ぎにはなっていないだろう。いっそくっつけてしまえ、大人しくなるから」


「そ、それは駄目!」


「駄目です!」


 フェリエルの提案を即刻否定する白龍姫と巫女姫。

 何故だろうか、その結末は余りに敗北感が大きい。


「――――なら、しばらくやらせておくしか無いだろう。その内騒動の種も尽きる」


「恐ろしく消極的ね、姉さん」


「消極的にもなるさ、他人の色恋など必要以上に積極的になるもんじゃない」


 総ての皿を片付け、フェリエルは硝子杯の水を飲み干した。

 立ち上がると、庭に向かって大声を発する。


「レクト! そろそろ時間だぞ!」


 なんですって、という声が聞こえた。

 気が逸れたのか、同時にその頭にウィリィアの踵が食い込む。

 ぐあ、という呻き声を残してレクティファールがよろめいた。“皇剣”も命の危険は無いと判断したらしく、自己修復機能が働く気配はない。力の無駄遣いをさせるな、という“皇剣”の声が聞こえてきそうだった。

 良い位置に良い角度で決まった踵を見て一番焦ったのは、踵を落とした当の本人のようだ。

 意識が遠のいているらしいレクティファールの肩をがくがくと揺さぶっている。

 寝るな、仕事に遅れる、と叫んでいた。


「――――目が覚めたら、さっさと皇城に向かうよう伝えてくれ……わたしは付き合いきれん」


「アタシも」


 呆れたように縁台を出て行くフェリエルとファリエル。

 医者がそれでいいのか、と突っ込みをいれる勇者はこの場にはいなかった。


「メリエラ、わたくしたちはどうしましょう……?」


「そうね、とりあえずわたしはレクトに持たせる朝食でも作ろうかしら。サラダサンドでも作れば良いでしょ」


「あ、わたくしも手伝います」


「そう、じゃあよろしく」


 そう言い、連れ立って席を立つ二人。

 それをお辞儀と共に見送って食卓を片付け始めた侍女たちは、庭で騒ぎ続けている同僚を白けた目で見た。庭師たちが破壊されてしまった庭を、滝のような涙を流しながら片付けているのが見える。


「――――あの子、まさか姉弟ってあんなもんだとか思うとるんやないやろな」


「知らないわよ。ま、わたしはあんなべたべたした姉弟知らないけど」


 彼女たちが目を逸らした先には、ウィリィアの膝枕で唸っているレクティファールの姿があった。














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