第二章:戦後内政編
第四話「馬鹿(恋+愛+嫉妬)=惚気+痴情の縺れ」
龍の逆鱗と云えば、古来よりそれに触れれば龍種を激怒させるとして非常に有名だ。
ただ、これが実際に龍種の身体にある鱗の一つかと問われれば、彼らは揃って「否」と答えることだろう。
龍種の逆鱗とは、他の種族に対して比較的――あくまで他の力ある種族と較べて、だが――温厚で、餌や生存するための障害としての敵以外に興味を示さない彼らを容易く怒り狂わせる要素を指している。これは物であったり、人であったり、或いは形のない何かであったりするが、それは大凡にして個体ごと、時期ごとに異なり、何かを特定して“これ”が龍種の逆鱗であると呼べるものは存在しない。
だから、古来より力無き種族は龍種の逆鱗に触れないように静かに暮らし、逆に高度な理性文明を持った龍種も自らの逆鱗に触れられて怒り狂うことを恥と考えるようになり、これを一層巧妙に隠そうとした。
しかしどうしても、いつの間にか本人も気付かぬ内に相手の逆鱗に触れてしまう者がいる。
中には怒りで理性を失う龍種もおり、そんな彼らは多くの国や共同体を滅ぼして同種に粛清されたり、彼らを殺すに足る力を持った別種族に滅ぼされたりした。
直接的な破壊力という一点に於いて、龍種に勝る種族はいない。
龍種と並び称される神族でさえ世界に干渉することで破壊という現象を引き起こすに過ぎず、一生命体として直接行使できる破壊力では、おそらく龍種を超える種は今日まで存在しなかったに違いない。
故に人々は龍種を畏れ、そして憧れるのかもしれない。
知恵ある者どもは、程度の差こそあれ常に破壊願望を抱えているのだから。
皇都の白龍公の屋敷と後宮で療養するようになったメリエラだが、その怪我が思うように治癒しないことに最初に気付いたのはやはりというか、主治医の一人であるファリエルだった。
彼女は調べる度に悪化する数値を疑問に思い、本来なら簡単に治癒する傷でさえ中々治らないメリエラの身体を徹底的に検査した。グロリエという“龍殺し”が、これまでの“龍殺し”とは違う特殊な能力を持っている可能性も否定しきれなかったから、その検査は丸一日というこの時期の検査としては長い時間を掛けて、徹底的に行われた。
その間のメリエラといえば、思わしくない体調に気持ちまで萎えたのか、常に消沈した様子を見せていた。
ファリエルとしては妹分のそんな姿は見たくない。何としても原因を突き止めようと躍起になるファリエルだが、彼女の知識を以てしても原因は分からない。唸りながら頭を抱えるファリエルだが、彼女の助手を務めていた女性医官が一つの仮説を思い付いた。
彼女は内乱発生直前に結婚し、ここ最近ようやく新婚らしい生活に戻れた人物で、その境遇故にメリエラの不調の原因に辿り着けたのかもしれない。
彼女は自分の経験に今のメリエラの状況を照合し、十分仮説としては成り立つと結論付けた。
そして、彼女は上司である紅の龍姫に意見する。
「メリエラ様は、摂政殿下に蔑ろにされていると思い込んでしまったのではないでしょうか」
その言葉を聞いた上司はしばし目を瞬かせ、思考が回復するとすぐに件の摂政を罵倒した。
ファリエルも龍族の女であり、そして未婚で恋だの愛だのに多少の幻想を抱く年齢であった。男と女では恋愛観も結婚観も異なると彼女は知っているが、こうも身近でその悪い例を見せ付けられれば腹が立つ。
彼女はすぐに姉に連絡を取ると自分の立場を利用して後宮へと上がり、そこで巫女姫リリシアと面会してメリエラの置かれている状況を説明した。現在の後宮の名目上の責任者は主である摂政を除けば第一妃候補のリリシアであり、彼女を差し置いてファリエルがことを進めることは不可能だった。
実際のところ、好いていない男の婚約者として振舞うなど嫌悪感で気が狂いそうになったが、患者のためと思うことで何とか堪えた。
そんなファリエルの葛藤が報われたのか、リリシアは彼女の言葉を真摯に受け止め、その立場の総てを賭してメリエラを救うことに協力すると約束した。同じ男を伴侶とする彼女も何か思うところがあったのだろうか、所詮仮説であるとファリエルの言葉を笑うこともせず、むしろ納得したように何度も頷いてみせた。
斯くして、レクティファールの知らないところで包囲網は形作られ、やがて彼の伴侶となるべく皇都に集まった女性たちによってそれは完成を迎えるのであった。
ひょっとしたら、その事実こそがレクティファールという青年の問題点を最も的確に証明しているのかもしれない。
すなわち、女性に対してありとあらゆる意味で積極性が無いという問題点である。
呼び出されたにも関わらず、レクティファールという男は自分のどの点に問題があったのか正確に察することが出来なかった。彼にとって自分とはどこまで行っても欠陥ばかりが目立つ存在で、何処が悪いと一つに原因を絞り込むことは難しかったのだ。
さて、どれが原因だろうと考えながら後宮に入ったレクティファール。後宮に足を踏み入れた途端、後宮護衛部隊である『機甲乙女騎士団』の女性騎士に取り囲まれたときは思わず「何がやらかしたか」と顔を引き攣らせたが、彼女たちが必要最低限の礼を示すだけで、それ以上の干渉をしてこなかったこともありレクティファールはほっと安堵した。
今後宮には彼しか男がいない。
何処か空気までも違うように感じられ、彼は家主でありながら自分の家で疎外感と味わうという妙な状況に陥っていた。
護衛たちに話しかけようにも切っ掛けがなく、仕方なく乙女騎士団の騎士たちに気付かれぬ程度に周囲を観察するレクティファール。
後宮とは言っても、建築様式そのものは皇城と何ら変わりない。ただ、こちらは生活空間として設計されているらしく、皇城よりは柔らかい印象を受けた。
調度品は皇城のそれよりも温かみを感じる意匠のものが多く、内装も暖色系で纏められている。各皇妃の居住区画ともなれば彼女たちの好みに応じて内装や調度品が変更されることが多いが、今レクティファールが歩いている廊下などは共同空間ということもあってこれといった特色は見られなかった。
「――――――――」
次にレクティファールが視線を向けたのは、護衛の女性騎士たちだった。
女性らしい丸みを帯びた身体を各々個人に支給された軍装と軽鎧で包んだ彼女らは、他国の王侯貴族や高官と顔を合わせる機会の多い皇族の護衛という役目柄、純粋な戦闘技能の高さだけではなく優れた容姿も選抜基準になっているだけあって非常に華やかな印象を受ける。
実際には華やかさだけではなく皇国随一の武技の腕も持ち、近衛軍の中で武道大会を開けば並み居る男共を薙ぎ倒して優勝することも少なくない。それが原因か、市井の男たちは彼女たちに憧れにも似た感情を持っているが、近衛軍や正規軍の男たちは彼女らだけは絶対に妻にしたくないと思っているらしい。
そんな世の男共の戦乙女評を知らないレクティファールは、ただ綺麗な人たちだなぁと思うだけだったが。
侵入者対策に入り組んだ廊下を五分ほど歩き、やがてレクティファールは一つの扉の前に案内された。
「ここは?」
「本来はお妃様方が集まる談話室です。姫様方はこちらで殿下をお待ちになっています」
「――――ほう」
そう言われると、何故か磨き上げられた高級木材の扉が地獄への門に見えてくるという不思議を味わうレクティファール。まるで問題を起こして職員室に呼び出された学生のような気分だった。
出来るならこのまま自室に引き篭もりたいのだが、ここで逃げるとあとが怖すぎる。ウィリィアは療養中だったが、彼女を上回る戦闘能力を有する人々がこの扉の向こうにいる筈だ。
「仕方がない、か」
諸々の覚悟を決め、レクティファールは一歩踏み出した。
その仕草を見て女性騎士の一人が軽く扉を叩くと、レクティファールにちらりと目配せした。
「開けてくれ」
レクティファールの言葉を受け、女性騎士が重い扉を押し開ける。
蝋燭の薄明かりに照らされた広い談話室の中央に、七つの影が見えた。
「――――何故ここにミレイディアさんまでおられるのか」
「いや、だって乙女の敵をボコり倒すって聞いたから」
「――――――――」
そういうあなたはいい年して乙女でしたね、とは流石に口に出さない。
まあ、口に出さなくともミレイディアはレクティファールの失礼な思考に気付いたらしく、額に青筋浮かべて拳を震わせていたが。
「麗しのお義姉さまに向かってなんか失礼なこと考えてないかい?」
「滅相もない」
最近表情の隠し方を覚えたレクティファール。
しれっと答えてミレイディアの影にいる者たちに近付いた。
彼女たちは談話室の中央にある長椅子の周囲に集まり、レクティファールを待っていた。
「リーデさんとアリアさんまで呼ばれていたとは、正直驚きました」
「わたしも驚きました。――――後宮に来るのは始めてですし……」
士族出身で、上流階級独特の教育を受けてこなかったリーデにとって、後宮とは余りにも場違いに感じられる場所らしい。対してアリアはリリシアに招かれたこともあり、落ち着いた様子でレクティファールに笑い掛けてきた。
「こうして同世代と話すというのは、やはり楽しいものですよ。殿下のお許しがいただけるなら、これからもここに集まりたいくらいです」
「私は構いません。ただ、後宮のことはリリシアさんが取り仕切っているので……」
「わたくしも構いません。レクト様を支えることに身分は関係ありませんし。――――ああ、レクト様、こうやって温もりを感じるのは久し振りです~~……ごろごろ……」
いち早くレクティファールに抱き着いたリリシアが弛んだ表情で答える。
その頭を撫でるレクティファール。その表情は婚約者というより妹を見る兄のそれで、リリシアが正気であったらむくれてしまうかもしれない。ただ、今のリリシアは木天蓼を目の前にした猫のように喉を鳴らすだけで、とてもそこまで頭が回る状態ではなかった。
当代の巫女姫は猫系の獣人ではなかった筈なのだが、その姿はどう見ても猫だった。
「――――本当、どこでも女引っ掛けるのね。本当は何処かの貴族の放蕩息子なんじゃない?」
「ははは、私は何処にでもいる善良な摂政です。多分、両親も平凡な小市民だったと思いますよ」
ファリエルの冷たい視線も笑って済ませてしまうレクティファール。慣れた対応だった。
親に対する情など、この世界に来た段階で放棄してしまった。本能的にもう帰れないと思ってしまったのか、それとも単に諦めてしまったのか、或いは両親に対する執着心など最初からその程度のものであったのか。
少なくとも、両親と今目の前にいる女性たちのどちらかを選べと言われたら、たとえ両親を選べば元世界に帰れるとしても、今このとき自分の手が届く範囲にいる彼女たちを選ぶだろう。
レクティファールは諦めの良い男だが、諦める必要がなければ別にその選択肢を選んだりしない。彼にとって、彼女たちは血の繋がった両親よりは大切な存在だった。
だが、彼はそれを彼女たちに伝えたりはしない。
彼女たちを選ぶことはあくまでも自分の問題だと割り切り、自分の中で総てを結論づけてしまう。
それがときとして、自分の大切な存在を脅かすことになると気付くには、彼はまだ幼すぎた。
「さて、そろそろ本題に入ろうか、レクト」
不機嫌な妹を宥めるようにその肩に手を置き、フェリエルが示したのは談話室の長椅子に浅く腰掛けたメリエラ。メリエラは俯いたままでレクティファールの顔を見ようともせず、硝子碗の中で揺れる琥珀色の飲み物を見詰めているだけだ。
その態度に、レクティファールの眉がぴくりと動いた。
初めて見る光景だった。
「はっきり言おう、皇都帰還よりこっちどうもメリエラの容態が思わしくない。日常生活には支障がないが、このままの精神状態だと、メリエラの女としての、母としての将来に影響するかもしれない。我々龍族の身体は、そういう風に出来ている」
「――――――――」
女、母としての将来というのが何を意味しているのか、そちら方面の単語には疎いレクティファールにも大凡察することは出来た。
出生率の低い龍族の女性にとって、それは己の存在を否定されることに等しいだろう。
だが、フェリエルの言っていることは、これまでの龍族の歴史から導かれた厳然たる事実だった。
知恵ある者どもの中でも特殊な生態を持つ龍種は、その生命体としての基盤を精神に置いている。精神が健康であれば身体もそれに引っ張られるが、精神が病んだ状態ではやはり身体もそれに引き摺られてしまう。
『ウィルマグス』にいた頃よりメリエラの容態が良くならないというのは、あの頃よりもメリエラの精神状態がよくないということ。そしてメリエラの母としての将来に影響するような事柄に深く関わっているのは、間違いなくレクティファールだった。
「――――理由をご説明願えますか」
レクティファールは自分に抱き着いたままのリリシアを引き剥がすと、自分を見上げるその視線から逃れるように彼女をメリエラの斜向かいに降ろし、自分はその隣に座った。
真正面に座るメリエラが、びくりと肩を震わせるのが見えた。
「本来ならこのような場で、メリエラを晒し者にするようなことはしなくないんだが……」
フェリエルとファリエル、そしてリーデとアリアが残った長椅子に座ると、口の字に顔を合わせる形になった。上座に座るレクティファールとリリシアの右手に、フェリエルたちがいる。
その位置のせいで、レクティファールから見えるフェリエルの表情はよく判らなかった。
怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。
「ここにいるのは、おそらくレクトが今後同じことをしたときにそれを止められる面子だ。だから、敢えて集まってもらった」
「――――やはり、私が原因ですか」
「原因というのは少し違う。正確には、切っ掛けというべきだろうな」
原因を挙げるとするなら、それはレクティファールとメリエラの双方に、そして今の二人の立場にあった。
メリエラの肩を抱くように、ミレイディアがその隣に腰を下ろす。
そして妹の隣に座る男を睨んだ。
「あんたは別に悪いことをした訳じゃない。ただ、無知過ぎたんだ」
「無知、とは」
「あんたにとって自分が取るに足らない存在だっていうのは、あんたの問題だから口出ししない。けどね、そんなあんたが必要な奴もいるということをあんたは知ろうとしなかった。多分、知る意味を見出していなかったんだろうけどね」
自分に価値がないと思っているから、自分に価値を見出している人の想いに気付けなかった。
レクティファールという青年が抱える致命的な精神的欠陥は、自分に価値を見出せないこと、同時に自分に向けられる想いもまた、理解出来ないことだった。
「メリエラはあんたの騎龍だ。身も心も、全部あんたに預けている。だけどあんたは、メリエラを縛ることが出来なかった」
「確かにその通りです。ですが、私は所詮人とは違う、いつ耐用限界を迎えるかも分からない“兵器”ですよ」
“皇剣”に適合した皇太子や皇王とて、永遠に“皇剣”を制御しきれる訳ではない。いつかその身体は“皇剣”を制御するための機能を劣化によって失い、“皇剣”によって滅びる。それは、どうやったところで避けようがない。
特にレクティファールの場合は無理やり、短時間で“皇剣”を継承した経緯がある。耐用限界を迎えるまでの時間が他の皇王より短い可能性も否定し切れない。
だからレクティファールは、必要以上に他人に近付くことをしなかった。
いつ消えるかも分からない自分が、他人に不必要なまでに接触することを避けたのだった。
「それも理解している。わたしもファリエルもそれは納得しているんだ。多分、他の者もな」
フェリエルの言葉に、メリエラ以外の女たちが頷いた。
彼女らにとっては、それは受け入れた上で折り合いを付けなくてはならない事柄だった。
たとえ彼女たちがレクティファールをどれだけ必要としても、また彼女たちがレクティファールに必要とされても、そんな遠慮に似た距離が彼らには必要だった。
「だが、メリエラは違う」
「――――――――」
何となく、レクティファールには理解出来た。
いや、出来てしまったと言うべきか。
メリエラという女性を知る彼には、その理由が判る。
「――――メリエラにとって、君は皇太子や摂政以前に男だったんだ。手の掛かる弟、心配ばかり掛ける息子、そして手綱を手放したらどこかに飛んでいってしまう異性。メリエラとわたしたちの間には、恐ろしく深い理解の溝がある」
ただの使命感で済ませるには、二人の距離は近すぎた。
だからメリエラは婚約よりも先に『騎従の契約』を結ぶことを決意し、レクティファールもまたメリエラを一番近くに置いていた。互いを守るために。
「君はメリエラを守るため、メリエラを遠ざけようとした。帝国の姫に傷付けられたメリエラの姿を知り、メリエラを失う可能性に気付いてしまった」
「――――――――」
「あのとき、あの熾烈な要塞防衛戦でメリエラを直接救わなかったことは正しい判断だよ。あのとき君がメリエラを救っていたら、メリエラは一生自分を責め続ける人生を送っていた。摂政の騎龍であるのに、摂政としての君の邪魔をしたとな」
助けなかったのではない、助けられなかったのだ。
あのとき、グロリエに翻弄されるメリエラの姿を捉えていたとしても、レクティファールにはそれを救う術がなかった。
摂政として、あの場の最高責任者として、個人的な感情で動くことは許されない。動けば、自分にとってのメリエラと同じ、誰かにとって掛け替えのない誰かを徒に殺すことになる。自分のためにも、メリエラのためにも、動くことは出来なかった。
「君は臆病だ。だから、メリエラが戦うことを嫌う。本人の意思を無視してまでな」
そして、レクティファールはその我侭を通すだけの力がある。方々に手を回してメリエラを戦場から遠ざけることは、レクティファールにとって難しいことではない。
レクティファールは疲れたように大きく溜息を吐き、そして俯いた。
人を理解しようとしなかったツケが回ってきた、そう思った。
「――――それが、原因ですか」
「一因だ。それだけが総てではない」
フェリエルにとってみれば、メリエラは余りにも若すぎて、一途すぎた。本人の性格もあったのだろう、龍族の女の典型のように、ただ一人を過分なほど強く想うようになってしまった。
だから、その男に否定されたと思い込んだ途端、身体に変調をきたした。
女として必要とされていないと考えれば、その生殖能力を低下させ、騎龍として必要とされていないと考えれば、怪我の治りが遅くなった。
「――――そこにいるリーデと君が情を交わしたこと、それもメリエラにとって納得し難いことだったのだろうな」
「――――――――!」
リーデとメリエラが、フェリエルの言葉に身体を戦慄かせた。
「龍族の女は嫉妬深いが、皇妃としてそれでは不味い。だから、メリエラは無理やりにでも自分を納得させたのだろうな、結局、納得し切る前に身体が変調をわたしたちに伝えてきたんだが」
「では、わたしが殿下のお側に上がったことが、メリエラ様にご心痛を強いたと……」
「馬鹿な、それが事実でもメリエラの件はリーデのせいではない。そこにいる馬鹿摂政が、捕らえた獲物に止めを刺すことも治療することもしなかったせいだ。傷なんて勝手に治ると思い込んでな」
フェリエルの言葉には、レクティファールの立場に対する理解は確かにあった。
だが、レクティファール個人に対する怒りもまた確かに存在した。
項垂れたまま、床の絨毯を見詰めるレクティファール。
そんな彼を労るように、静かに語りかける者がいた。
「殿下、殿下はわたしを必要としてくださいましたね」
「アリア……」
顔を上げ、微笑を見せるアリアに向き直るレクティファール。
そこでようやくレクティファールは気付いた。その笑顔が、嘗てのような作り物じみたそれではなくなっていることに。
「殿下はわたしに、自分だけの花になれと仰りましたね。自分だけの庭に咲く花になれと、わたしは、それが嬉しかった。ただ一人のためだけの花というものが、あれほど甘美な未来像であるとはわたしも知りませんでした」
それは分り易い人生ではある。
ただ一人を想い、ただ一人に尽し、総てを受け入れ、総てを相手の願い通りにすれば良いのだから。
しかし、それも所詮、他人から見た姿に過ぎない。
「わたしは何があろうとも、殿下の花で在り続けましょう。世話をする者がいなくなれば枯れ、共に逝く花でありましょう。誰がなんと言おうと、わたしはそれで満足です」
「――――――――君の人生はどうする? 君だけの願いは何処にある?」
「殿下がわたしを“アリア”という名の花として愛し続けてくださるのなら、それはわたしの生きた証、生きる理由には十分です。いつか殿下の子を生み、育てられるのなら、それもまたわたしの生きた意味になるでしょう。それに、殿下に一番初めに必要とされた女だと、自負出来ます」
アリアの笑顔に翳りはない。
造られた庭でしか生きられない花の人生さえ、それは捉え方一つで大きな幸せに変わるのだと彼女の笑顔は語っている。
「リーデ様も、同じではないですか?」
「――――確かに、アリア様の仰る通りです」
アリアの言葉に、リーデは深く頷いた。
彼女にとっては、レクティファールという男が進む道を共に進むことが何よりの幸せだ。
父の遺志、母の父への想いを理解した彼女にとって、レクティファールが必要としたときに必要とする役目を負うことは自分を満足させる手段の一つだった。
それが参謀としてなのか、女としてなのかは問題ではない。必要とされるということが、ある種の自己満足への第一歩なのだ。
「――――――――あんた、本当に面白い女の趣味してるわ。あたしもその一人なのかと思うと、ちょっとヤだけど」
ミレイディアはアリアとリーデの側妃候補二人の言葉を聞き、レクティファールを珍獣でも見るような顔で眺めた。
そんな視線を受けて、レクティファールは苦笑する。
「――――大丈夫、ミレイディアさんは多分含まれていませんから」
「そいつは重畳。じゃあ、後はあんた次第だよ、メリエラ」
そう言って、ミレイディアはぽんと隣りに座るメリエラの肩を叩いた。
これまで黙っていたメリエラが、恐る恐るといった風に顔を上げた。
「レクト、あのね……」
何故だろうか、ここでメリエラの言葉を聞いてはいけないとレクティファールは思った。
言わせてはならない、言わせる前に自分から言わなくてはならないと強く思った。
だから、彼はメリエラの言葉を遮った。
本人も自覚していない、男としての小さな矜持に従って。
「メリア、この間言った通り、私には君が必要だ。これは誰かが代わりになることは出来ないし、君が誰かの代わりになることもない」
「でも、わたしは弱いわ。父の十分の一も力を持たない、弱い龍よ。“皇剣”使いの騎龍として、それは致命的なことじゃない」
メリエラの口調は、どこか投げ遣りだった。
彼女にとって、龍族であり、力ある種族であるというのはレクティファールの傍にいるための免状のようなものだ。それ以外には、何も無いと思っているから。
それでも『ウィルマグス』で自分を必要だと言ってくれたレクティファールがいたから、彼女はこうして皇都に戻ってきた。だが、そこで彼女はリーデという側妃を初めて目の当たりにする。
力のない種族である筈のリーデは、力があるメリエラが渇望して已まない場所にあっさりと居座ってしまった。
レクティファールの隣という特等席に。
それは、メリエラにとって自身の存在意義を脅かされることで、存在を否定されることと同義だった。
しかし、それはレクティファールにとっては毫ほどの意味もないこと。どうでもいいことだ。
「なるほど、ならばそんな騎龍は私はいらない」
「――――っ、ならわたしは白龍宮に……」
レクティファールの言葉に衝撃を受け、涙を浮かべたメリエラは長椅子から立ち上がった。
しかし、レクティファールはその手を強く握り締め、引き寄せた。
「――――だから……」
すとん、とメリエラの身体がレクティファールの腕の中に収まった。
驚いたメリエラの顔が、すぐ近くにある。
「君は単なるメリエラとして私の傍にいろ。ここにいろ。私が帰る、この場所にいろ」
「レクト……っ、でもわたしは……」
「弱いなんて私には関係ない。でも君が弱いことを嫌うなら、強くなればいい。私はそれを待つぐらいどうとも思わない」
レクティファールにとって、メリエラが弱いか強いかはどうでもいいことだ。
強かろうと弱かろうと、レクティファールがメリエラを守ることに変わりはないし、レクティファールがメリエラに抱く感情が変わることもない。
「どうせ、今上皇王の喪が明けるまでは正式に婚礼の儀を挙げることは出来ないんだ。それまで悩んで、それでもここにいたくないというなら、私が責任を持ってカールに君を返す。君の経歴に傷も付けないし、必要なら嫁入り先を探そう」
「――――何でそこまで……そこまでしてくれるならいっそ……」
ただの騎龍として扱ってくれた方が楽なのに、強くなれと命令してくれたほうが楽なのに。メリエラはそんな言葉を視線に込めた。
レクティファールはそれを性格に読み取り、答える。
「私が傍にいて欲しいのはメリエラという女性だ。龍族であっても無くても、軍人でなくとも、貴族でなくとも関係ない」
もっと早くこう言うべきだった。
レクティファールはここでようやくそれに気付いた。
他人と積極的に関わってこなかったから、人に何かを伝えるということを怠るようになってしまった。
これは改善すべきことだな――――レクティファールは自嘲気味に小さく笑った。
「――――どうする、メリア」
拒まれることも当然考えた。
この腕の中の愛し人を失うことも考えた。
だが、愛しいと想うなら手放すことも怖くないと思えた。
こんな泣き顔から彼女を開放できるなら、自分は――――
「――――――――分かったわ、レクト」
「ああ」
――――神さえ殺す。
「あのとき言った通り、わたしはあなたを支える」
「助かる」
そして、この笑顔を得るためなら――――
「だから、わたしを見ていて、どちらかが死ぬまで」
「望むところだ」
――――神を殺す自分さえ殺してみせよう。
「ずっる~~い! ですっ! わたくしも……」
ぽーんとレクティファールの背中に飛び乗ったリリシアがぶんむくれた顔で抗議の声を上げた。
それに続くように、談話室の面々が次々と声を発する。
「まあ、君の趣味は理解した。ちょっと弱った女性が好みなんだな、分かった、精一杯努力しよう」
「姉さん、こいつは女を弱らせてものにする外道よ。策に嵌っちゃ駄目」
「うーん、初代といいあんたといい、皇王ってのは女にだらしないってのが選考基準なのかねぇ……」
「わたしとしては、ちゃんと花に水をやってくださればそれだけで結構ですわ。だけど、水をくれないとこちらから出向くかもしれません」
「――――れ、れくと……って、わたしにはやっぱり言えないっ! でも言えないと不味いって参謀としての勘が叫んでる……!」
何とも姦しい女性陣に、レクティファールは苦笑するしかない。
彼の腕の中のメリエラも同じように笑っており、二人は顔を見合わせてさらに笑みを深めた。
自分の周りで好き勝手に喋る彼女らを前にして、レクティファールは“皇剣”の力を望んだ。
少しでも、ほんの少しでも多くの力を、と。
「あ」
だが突然、レクティファールの脳裏に昼間持ち込まれた案件の一つが急浮上してきた。
それはおそらく、その案件が彼女たちに無関係ではないからだろう。
彼は忘れないうちに、それを伝えることにした。
「あの、皆さんに一つ報告が……」
「何? どうしたのレクト」
腕の中から問い掛ける声。
レクティファールは何故か噴き出る冷や汗を背中に感じながら、彼女らの視線の先で口を開いた。
「――――実は帝国とイズモから、正妃を迎えることに……」
「ふんっ!!」
言葉の途中で小さな裂帛と共に、ごりっ、と鳩尾に重い一撃が入った。
「――っ!?」
痛みで声も出ないレクティファール。
その一撃を決めたメリエラはぴょんとその腕の中から飛び出すと、今さっき自分に愛の告白をした男を睨んだ。
「空気の読めない男って、痛い目を見るの。覚えておいてねレクト」
「~~~~~~~~っ!」
何度も頷くレクティファール。頷かないと追撃は必至だ。
「とりあえず、お詫びを込めて今晩は徹夜で愛を囁く方向でよろしくね」
「――――明日、仕事、あるんですが……」
途切れ途切れに反論するレクティファール。“皇剣”があって良かった、無ければ、きっと今頃自分の鳩尾は風通しが良くなっている。
だが、そんなレクティファールに対するメリエラたちの反応は冷たいものだった。
「妻に愛を伝えることは、夫の仕事よ。恋人に愛を囁くこともね」
「――――――――仰る通りです……」
反論したら第二撃だと本能で察し、さめざめと涙を流すレクティファール。
とりあえず明日のために精力剤でも貰おうかと思った。
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