ただ謁見の間と呼ばれる広間は、星天宮内に幾つもある。
その中でもとりわけ巨大で、格式ある広間といえば五つだ。
緻密で繊細、それでいて雄大な彫刻に白い柱と壁を彩られ、建国の時代を描いた大絵画が掛けられている“白水晶の間”。
黒曜石と、星見石と呼ばれる夜空を写し取ったかのような黒水晶の中に不純物が混じった石材で作られた“黒曜石の間”。
緑あふれる広大な庭園のただ中に建ち、その庭園と広間が一体となって独特の美しさを人々に見せ付ける“紅玉石の間”。
アルカディス湖の湖畔にあって、四季折々の湖の風景を四面の壁画とした“蒼玉石の間”。
そして、今日この日、人々の前に新たな皇国の主がその座に就く記念すべき大間は、星天宮最大の大広間にして、皇国史上もっとも美しく荘厳な謁見の場と呼ばれる“金剛珠の間”だ。
「――――――――」
壁際に等間隔で交互に配置された斧槍を持つ近衛騎士と剣と盾を持つ近衛騎士。それらの背景を含め、“金剛珠の間”は、ただ皇王の威厳と神聖性を示すためだけに当時のあらゆる分野の英知を結集して建設された。
緻密な計算に基づき、素材の一つ一つまで厳選され、名のある職人が魂を削って彫り上げた壁面と天井の彫刻。
壁や天井、柱に施された金銀装飾、散りばめられた宝玉、瑞々しく美しい花を咲かせた観葉植物と魔法によって清められた空気。
広間の中央を貫く赤絨毯は金糸で刺繍され、それでも一度使われたらもう二度とこの広間に敷かれることはない。廃棄される赤絨毯は貴族が買い求めることもあれば、皇王が下賜して行政庁舎に敷かれることもあった。珍しい例では、他国の資産家が皇王府主催の競売で手に入れ、自らの所有する客船の内装として使ったこともあった。
そして、この謁見の間を一個の舞台装置としている照明。
影の発生角度から照明の色、そして時々刻々と変わる室外の明るさまでも計算した照度。照明そのものも同じものはないという一点物で、天井のシャンデリアは大きなものは二メイテルを超え、そこに使用されている硝子はどれもが精緻な削磨が施されていた。
照明に照らされた天井を見上げれば、そこには皇国の建国史を描いた彫刻と現在の皇国を構成する諸侯たちの紋章旗が懸下されている。
天井から吊下げられた諸侯の紋章旗は三〇一二。
二列に並んだそれらの最前列は、皇国に服属する六つの国家の王家の紋章旗。それに続いて四公爵家の紋章旗と始原貴族八家の紋章旗が続き、以降宮内序列に従って各貴族の紋章旗が並ぶ。さらに謁見の間の中央奥、皇王が座する至尊の座の背後には、一際高いところに皇国国旗たる星龍旗。そして左下に皇王家の紋章旗が掲揚されている。ただこのとき、右下には何も掲げられていない。
未だ、ここに掲揚されるべき旗、エルヴィッヒ家の紋章旗は明確に決まっていないからだ。
皇国紋章院に属する紋章学者と皇王府お抱えの紋章学者が議論を重ねている最中であり、人々はエルヴィッヒ家当主が背負っている栄光に相応しい紋章を心待ちにしていた。
それら諸々の要素が玉座に座るただ一人の偉容を示すために存在している“金剛珠の間”には、摂政により召喚された諸侯と国民議会議員、文武官、そして摂政に招待されはしたが、平時であればこの広間に縁など無い市井の者たちが皆一様に緊張した面持ちで列を成していた。
彼らの緊張も無理はない。
摂政がこの謁見の間の使用を決めたということは、この式典がただの摂政就任の挨拶ではないということだ。挨拶だけであるなら、先日の凱旋式典で諸国の大使や公使、皇国諸侯や国民に披露してある大それたものは必要ない。それこそ、明日に予定されている各国の代表を招いた園遊会で事足りるだろう。間違っても、正妃との婚礼の儀、戴冠式にさえ使用される大広間で行われることではない。
ならば何故、摂政はこの場に諸侯や文武官を集めたのか。皇国で最も格式あるこの大広間を使うとなると、自ずから答えは限られる。
つまり、皇国にとって重要な事柄が摂政によって通達されるということ。
先の戦いに於ける諸侯、議員、文武官に対する論功行賞と、市井の者への褒章授与、皇国を混乱に陥れた者たちへの処罰である。
「――――……」
つい三日前に皇王府からこの式典への招待状が届いた西の地方都市『ハルケン』の学校職員、ポール・ハントは小さく生唾を飲んだ。本当なら思い切り咳でもしたいところだが、場の雰囲気に呑まれてしまってそれどころではなかった。
彼は連合軍侵攻の頃、私財を擲って身寄りをなくした子どもたちを保護していた功績を評価されてこの場に招待された。正確には同じ褒章を受け取る五三名の代表としてここにいるのだが、家で一番高価な礼装を着てきたというのに浮いている気がしてならない。
(は、早く終わってくれ……!)
彼の周囲には同じように褒章授与の為に招待された人々が並んでいるのだが、彼らの顔といえば総じて蒼白く、緊張の余り額に脂汗を浮かべている者も少なくない。
彼らは褒章を授与されたのち、すぐにこの場を去る段取りになっている。
控え室で他の参加者の話を盗み聞いたところによると、褒賞授与のあとには諸侯や文武官に対する論功行賞と皇王自ら下す裁定が待っているという。
正直、何故同じ日に同じ場所で賞と罰を行うのか疑問に思った。
これは市民への褒章を優先し、さらにそれを格式高い謁見の間で行い、諸侯や文武官を後回しにすることで、先の戦いに対する憤りを抱く民衆を少しでも宥めようという政府と皇王府の提案が摂政に受け入れられたものだったが、今謁見の間にいる民たちにとってはありがた迷惑そのものだ。
通常、こういった市井の者への褒章授与は黒色殿と呼ばれる星天宮内の宮殿の一つで行われる。ここに招待されたとき、そちらで式典が行われると思っていた者も多かっただろう。
しかし現実は、明らかに招待客を戸惑わせる謁見の間での褒章授与。
これが新たな皇国の主たる青年の茶目っ気であるなら、或いはポールは子どもたちにあの摂政のような大人になってはいけません、と教えなくてはならないかもしれない。
出来るなら、そんなことはしたくなかった。
「――――んんっ」
結局耐えきれず、軽く咳払い。
近くにいた出席者の何人かが肩を震わせたが、今の彼にそれらに気を配る余裕はなかった。
ポールが居住まいを正し、大きく息を吐いたそのとき、謁見の間に皇王府所属の式部官の声が響いた。
「――――摂政殿下ぁ、御入来っ!」
これまで正面の星龍旗を仰いでいた貴族と議員、文武官、そして市民が中央の赤絨毯に身体を向けて一斉に頭を垂れる。
各々の役職に定められた最敬礼を行い、深々と頭を下げた彼らの耳に赤絨毯を踏み締める音だけが届いた。
これが皇王の主催する式典であったのなら、主役たる皇王が赤絨毯を通ることはない。玉座横の入り口から謁見の間に入り、玉座に着くだけだ。
だが、摂政はあくまでも摂政であり、皇王の代行職に過ぎないのだ。間違っても皇王と同じ作法で入室することは出来ない。
摂政は頭を下げたままの出席者が耳を澄ませる中、カチンカチンと小さな金属音を規則的に奏でて赤絨毯を進む。そして空の玉座と星龍旗に一礼し、玉座前の階段を昇り始めた。
本来なら玉座へと昇る前に皇王の許可を得るのだが、現在、皇王は不在である。
摂政は無言のまま玉座の傍らに立つと、出席者を振り返った。
「――――皆の者、此度の参集大儀である。面を上げよ」
放たれる声は、舞台装置としての謁見の間により拡声されて出席者に届く。
市民の中には一瞬遅れる者もいたが、それでもすぐに全員が顔を上げて正面に向き直った。
「――――――――」
白を基調として銀糸で装飾された大軍装を纏い、腰に“皇剣”を佩いた摂政の姿に出席者の何割かが息を呑む。
銀の瞳は明確な大望を抱いているように見え、次期皇王の証とも言える白の髪は灯りに照らされ輝いている。
謁見の間という舞台装置を得て、玉座の傍らに立つ摂政の姿はその場にいる総ての者に対して威を放っていた。それが人工の、見せかけの威であると否定することが出来ないのは、あの青年がこれまでに成してきた諸々の事柄故か。
確かに最強種と名高い龍種でさえも、兵器としての“皇剣”に及ぶものではない。
“皇剣”とは元来そのために造られたものであり、それ自体には何ら疑問はない。だが、今の摂政が“皇剣”を満足に使いこなせないことは、ある程度の立場にある者ならば摂政が皇都に帰還する以前より承知している。
それでも、あの摂政の身から発せられる“何か”に気圧されるのは、彼らの目の前にいる青年が、彼らの知るどのような生き物より異質で、異常な存在だからなのかもしれない。
“皇剣”を継承した者は、その時点でヒトではなくなる。
彼らは自らをヒトとは考えず、認めもしない。
ただ、ヒトの姿と能力を残した兵器であると自認するだけ。
「――――では、摂政殿下より褒章の授与を……」
式典を進める式部官の声。
先程まであれほど堂々と聞こえていたその声が、たった一人の青年が加わっただけで空虚なものに変わった。
玉座に座している訳でもない。ただ、その隣に立っているだけの青年がこの大間にどれだけの存在感を示しているのか、その場にいる誰もが身を以て理解した。
なるほど、これが君主だ、と。
褒章授与は、大きな問題も無く終了した。
二度、摂政を目の当たりにする緊張感からか足を縺れさせる者が現れたが、それ以外に問題は起こらず、授与式は三時間という予定通りに幕を閉じる。
しかし、一度挟んだ小休止の後、市民たちを除いた諸侯と文武官のみが再び“金剛珠の間”に列したときには、先程までとは違う緊張感が謁見の間に満ちていた。
先程の緊張は未知のモノに対する興味と不安が元となった緊張感であったが、今大広間に揺蕩うそれは明らかに恐怖をその根底に持つ緊張だ。
諸侯にも文武官にも、摂政たる若者に対して恐怖を抱かざるを得ない理由がある。
内乱での不手際はたとえ明確な逆徒とならずとも彼らの失点となるし、皇都を占領されても何ら有効な手を打つことが出来なかった議員や文武官も、結果的に叛逆者に利する行動を取ったと責められても不思議ではない。
諸侯たちの中には壁際の近衛たちは自分たちを討つために配置されているのではないかという荒唐無稽なことさえ考える者まで存在した。
内乱が必要最低限の犠牲で終結したことは、現時点では推測でしかない。確かに皇国は致命的な傷を負う前に摂政の手で正常な機能を取り戻したし、その後の対帝国戦役も多大な犠牲を払って辛勝した。
だが、人とはもっと良い結末があったのではないかと考えずにはいられない。
特に、身内を失った者たちは貴賎を問わずそう思うだろう。
誰かがあと少し、あと少しだけ早く行動していれば、あと少しだけ自分の良心に従っていれば、あと少しだけ“利”よりも“義”を重く受け止めていたら、自分の大切な人は死なずに済んだかもしれない。
それがどれだけ難しいことだとしても、不可能ではないなら望んでしまう。そして望んだが故に、実現させることが出来なかった者を憎み、恨む。
大した実績もないレクティファールという青年がたった数日で戦局を変えてしまったことも、それに拍車をかけていた。
「摂政になって日の浅い殿下に出来たことが、何故何百年と貴族の地位にいる者たちに出来なかったのか」
人々のそんな考えは、形を変えて諸侯と文武官たちに重く伸し掛る。
余りにも劇的な摂政レクティファールの勝利により、彼らと民衆の間には隠しきれない亀裂が生じてしまった。
そしてこの謁見の間に並ぶ諸侯の中には、その亀裂の責任を摂政に求める者もいる。
彼らは彼らの出来る限りのことをした。それこそ貴族として、自分たちの身を守った上で出来うる限りのことを。
確かに、始原貴族軍として支持貴族と相対しなかった者も多い。中立を保ち、ひたすらに自領の治安維持に努めた貴族もいる。特に西方・北方と他国と直接国境を接する領地を持つ者は、みだりに兵力を動かせなかった。
武官たち正規軍とて、他国の軍勢が首都に迫っている段になっても動けず、唯一北方国境のパラティオン要塞守備軍のみがその役割を果たすに留まった。
そして文官たち。皇王に大権を与えている皇国の官僚が、その皇王不在時に出来たことは現状維持のみで、荒れていく国土と傷付いていく国民を守ることは出来なかった。
恨まれて当然、憎まれて当たり前のことをしてきたと、諸侯と文武官には自覚があった。
これまで怨嗟を向ける対象として民衆の前に存在した今上皇王と支持貴族は、前者は皇城で謎の死を遂げ、後者は“英雄”たる摂政の手で裁かれた。
ならば次は誰だ。今の自分達の境遇に対し、責任を負っているものは誰だ。
民衆は考える。無意識の内に自分たちの救世主をその候補から外し、そしてついに見つけ出した。
それが、今謁見の間に居並ぶ者たちだ。
「――――摂政殿下、総大主教猊下、御成りにございます」
「――!!」
予想していなかった総大主教の登場に、出席者たちに動揺が広がる。
一部の者たちは予想していたのか大した動揺を見せることはなかったが、それでも大多数の者は隠しきれない驚きをその表情に浮かべていた。
神殿は政に関わらない。
その大原則を知らない者はこの場に一人もいなかった。
「――――――――」
玉座横の大扉が開かれると、諸侯と文武官が一斉に最敬礼する。
先程とは違い、玉座の横にある扉から入室したレクティファールはそのまま国旗と玉座に礼をすると、ゆったりとした足取りで壇上へと昇っていく。
さらに、先程の式典では姿を見せなかった四界神殿総大主教ミレイディアが宝冠を被り、権杖を持ち、祭服を完装した姿でその後に続いて壇上へと昇る。彼女の持つ権杖が、床に突き立てられるたびに硬質な音をたてた。
レクティファールが玉座の左横に立ち、ミレイディアが玉座の右横、一段低い位置で立ち止まる。
彼らは壇上で一度視線を交わすと、レクティファールが出席者に向けて口を開く。
「面を上げよ」
許しを得た出席者が顔を上げ、並び立つ摂政と総大主教を視界に収める。
一部の例外を除いた総ての者が、二人の持つ威圧感に圧倒された。
共に皇国の“まつりごと”を、“政”と“祭事”を司る最高権力者である、その存在感は龍族にさえ劣らない。
「まず、今上陛下について総大主教ミレイディア殿よりお言葉がある。心して聞くように」
重々しい口調で、ゆっくりと言葉を紡ぐレクティファール。
これまでレクティファールに対して少なからぬ反感を抱いていた諸侯も、総大主教まで敵に回すようなことは出来ない。静かに、その言葉を聞くしか無かった。
ミレイディアが一歩、前に出た。
彼女の声に、出席者が意識を集中させる。
「――――四界神殿は、此度の今上陛下の民たちに対する行いを皇王としてのそれとは認めません。よって、今上陛下を皇国の主、皇王として認めることは出来ません」
「――――!!」
それは、余りにも予想の埒外にある言葉だった。
四界神殿が、皇王を生む存在である神殿が皇王を認めない。
つまり、親が子を認知しないことと同じ。
「ですが、皇王の権能を持たざる者が国家を主導したという事実を四界神殿は認めません。これは皆様方も同意するところと思います」
出席者は無言でその言葉を肯定した。
正統な皇王ではない者が、皇国を動かした。
たとえそれが事実であったとしても、これを認めることは皇国の政体を否定することに等しい。
行政、立法、司法、軍事、外交、あらゆる権限を持つ皇王が存在を否定されるということはあってはならない。そんなことになれば、国が保てなくなる。
「故に、摂政殿下は今上陛下の皇籍を剥奪。その名をあらゆる記録より永久に廃することを神殿に提案なされました。そして神殿は、この要請を受け入れることを決定いたしました」
どよめきが大広間に広がる。
神殿は皇王を生むという役割上、その生涯を記録として残している。
これまでの皇王の生涯は神殿によって記録され、編纂され、人々に公開されていた。
神殿がその名を永久に廃するということは、皇国の一切の記録から皇王の名を削除しなくてはならないということだ。公文書はもとより、民間の記録からもその名は消される。
今上皇王は確かに存在しながら、同時に存在しなかった皇王として記録に残る。
これらの裁定の結果、後の世に“無名皇”と呼ばれることとなった今上皇王に、出席者は同情の念を抱いた。
皇国が続く限り、今上皇王は名を知られることはない。
悪名だけが残り、本当の名を抹消された主君に対し、彼らは悲しみさえ感じた。
どれだけ暗愚であっても、近しい者に踊らされた結果だとしても、この処分は余りにも重い。
しかし、国家の土台である民衆の怒りを思えば、それを声に出すことは憚られる。自分たちも同じ立場にならないとも限らないのだから。
「此度の沙汰、神殿はこれを全面的に支持いたします。皆々様はそれを良くご理解ください」
ミレイディアの言う此度の沙汰というものが、これから自分たちに下されるものも含んでいることに彼らは気付いた。
神殿は彼らに下される論功行賞に関して何ら干渉することは出来ない。
しかし、久しき時間の間に積み重ねられた神殿の、空虚であるが重厚な権威が新参者であることを否定し切れない摂政の、鋭く強大ではあるが何処か薄い権威を補強していることは間違いない。
だが逆に言えば、それだけの権威を必要とする言葉が摂政の口から発せられるということだ。
「――――異論はあるか」
問われ、それに気付いた出席者は一斉に「御意のままに」と、それ以外の道を閉ざされた状態で答えた。
彼らの内に自分への逆心があることに気付かぬ振りをして、レクティファールは鷹揚に頷いた。
元々主君とは、臣下に全面的に認められるようなものではない。必要なときに必要なだけ、必要な忠誠心を得られれば彼らの関係は回り続けるだろう。それ以外では恐れられているぐらいが丁度良い。
「では、次にミッドガルド、エイメルシア、アストリアの三侯とそれに従った者たちに沙汰を申し渡す」
「はっ」
名の挙がった三名と、彼らの主導する始原貴族軍に属した貴族たちが赤絨毯の中央まで進み出る。
三侯を前に、その背後に貴族たちが横一列に並んだ。彼らは揃って膝を突き、胸に左手を当てて頭を下げた。
如何なる罰も受けるというその潔い態度に、出席者から感嘆の吐息が漏れる。
レクティファールも満足げに頷き、先程よりやや明るい口調で彼らに言葉を掛けた。
「――――うむ。まずは先の戦の後、平原の死者を弔い、戦火に追われた民たちを慰撫したこと、よくやった」
「はっ、これも殿下の差配あってのこと。それに我らの功など、民の苦労に較べれば余りにも小さきことでございます」
アストリア侯が跪いたまま、レクティファールに答えた。
彼女の口調には謙遜するような響きはない、自分の言葉こそが事実であると考えているのだろう。
「良い。民たちの苦労には我が皇王家も報いねばならん。そなたらだけに総てを背負わせるような真似は歴代皇王の業績にも汚点を残すことになる」
だが、と前置きをして、レクティファールは一度言葉を区切った。
「功は認めるが、罪を雪ぐは罰しか無い。分かっているな?」
「――――は」
問い掛けに頷く彼らに、最早これ以上罪から顔を背けて生きようという意思はない。
彼らは皇王の許し無く領地の治安維持という諸侯軍の分を超えた軍事行動を起こしている。エイメルシア侯などは無名となった今上皇王を止めるためという大義名分はあるにせよ、他国の軍勢を引き入れた罪もある。
いずれも、貴族の地位を逐われるには十分過ぎる罪だった。
「うむ、では沙汰を申し渡す」
レクティファールはカツンと一歩踏み出し、跪いたままの始原貴族軍諸侯に向けて言い放った。
「ミッドガルド侯アルブレヒト。現爵位を没収、資産の一割を戦後復興基金に上納。現在のエルベンハイト辺境伯領を召し上げ、皇室直轄領である『ウィルマグス』郡を除いた旧帝国領の三郡を新たに与える。以後、この領地をノールトヴェンツェル辺境伯領とする」
下された裁定に、これまで閑寂が支配していた謁見の間にどよめきが満ちる。
旧帝国領三郡は現在のミッドガルド侯の領地であるエルベンハイト辺境伯領よりも遥かに広大で、戦役後に行われた地質調査では地下資源も豊富だという。
これでは処罰というよりも、むしろ褒賞に近い。
「先の勝利により、帝国との戦いはより熾烈さを増すだろう。侯には帝国に睨みを利かせ、さらに新たに皇国の民となった領民の鎮撫を命じる。尚、この地位にある限り、新設の北方国境守備軍軍の指揮権を貸し与える」
「はっ!」
ミッドガルド侯は空気が震えるような、低い声で答えた。
帝国と国境を接する大領の領主ともなれば、これは国主の信頼無くして封じられる場所ではない。
彼はこの裁定の内に込められたレクティファールの意思を感じ取り、深々と頭を垂れた。
これは褒美であると同時に、罰でもある。
皇国を守りたいという望みを叶えると同時に、決して退けない戦場に放り込まれるということだ。
帝国ばかりに気を取られれば民衆が不満を募らせ、逆に民の慰撫にばかり力を入れては帝国侵攻時にまともな迎撃体制をとることは出来ない。さらに、新たに『ウィルマグス』に本拠を置く国境守備軍総司令官となる予定の陸軍中将ガラハ・ド・ラグダナを部下として扱える者は皇国でもそう多くはないだろう。
ミッドガルド侯はその点、元軍人で軍令軍政に明るく、何よりガラハ個人が上司と仰いで不足ない人物と公言してやまない。
政・軍一体となって復興と来るべき新たな戦いに備えなくてはならない『ウィルマグス』周辺地域にとって、この人事は至極真っ当なものだった。
「アストリア侯タチアナ。資産の一割を戦後復興基金に上納。領地の徴税権、土地所有権を向こう三年間皇王府派遣の代官に委譲。皇国情報院特別顧問に任ずる。尚、任期は無期限とする」
「――――は」
領地の徴税権を皇王府の代官に譲るということは、その税で賄われているハルゼ子爵家の財政は実質皇王家に握られることになる。しかし、ハルゼ子爵家の家格は決して高くないが、それでも始原貴族に列せられている家柄だ。抱えている家臣の数も多く、彼女としてはそれらの家臣が路頭に迷わないだけこの処分は良心的だと思った。
さらに土地所有権が代官にあるということは、彼女は代官の許し――つまり皇王家の許可――無く公共事業を行うことも、土地の売買も出来ない。この二つを代官に押さえられたハルゼ子爵家は、実質皇王家に家の総てを取り仕切られる立場になったと言って良いだろう。
ただ、ハルゼ子爵家は元々皇王家から代官を招くことが多い家だった。
皇国に於いて代官を招くことは別段恥ではないし、代官の不手際による損失は皇王家が保障してくれるから、自分たちで領地を経営するよりも余程旨みがある。無論、代官を受け入れるということは領地の総てを皇王家に丸投げするようなものだ。特に自分たちの手で領地を経営し、栄えさせることを家の誇りであり役目と考えている貴族も多く、代官制度そのものは当主が国家の要職に就いている場合であるとか、或いはその任に耐えられない事情――当主が幼い、逆に高齢、心身に障害があるなど――がある場合で、領地の経営を任せられる家臣もいない家が利用することが多かった。
ハルゼ子爵家は代々有能な軍人を輩出する家系であるためか、当主に領地経営に関する才覚が乏しく、それを理由に代官を受け入れている。自分たちの力不足で領民に負担を掛けられないというこの姿勢も、子爵家が皇王家に信頼される理由の一つだ。
アストリア侯に続き、始原貴族軍諸侯に次々と処分が下っていく。
いずれも戦後復興基金に資産を納めることと、徴税権や土地所有権を皇王家に委ねることが課せられたが、家によっては領地替えもあった。これらの転封には共通点があり、そのどれもが今後数年以内に戦場になる可能性のある土地に移されている。処分を受けた諸侯も当然それに気付いていたが、むしろこれを皇王家からの信頼、信用の証であると考えた。
少なくともレクティファールは、彼らが必要とあれば裏切り者となっても国家を守ろうとする者たちであると知っている。ただ皇王家に誠忠を尽くすだけの貴族では国境は任せられない。皇王家の藩屏ではなく、皇国の防人として相応しい人物として彼らを見てみれば、これほど優れた人材はいないだろう。
だからレクティファールは、彼らを敢えて許した。
許されたことで彼らの中に皇王家への忠誠心が蘇るなら良し。たとえ皇王家に対して不信感を残したままでも、目の前に敵国がいるような状況ではその不信感が暴露するような事態にはなりにくい。
何よりも、どこの国民もこの類の人情味溢れる話を好む。レクティファールは彼らを許すことで優秀な護人を手に入れ、同時に国民の歓心も得ることが出来るのだった。
ただ、皇王家は彼ら始原貴族軍諸侯を優遇した訳ではなかった。
最後の一家に対する処分だけは一切の温情の見えない、厳しいものとなったのである。
「――――エイメルシア侯ハイデル。爵位剥奪、公職からの追放、領地召し上げ、資産の国庫への上納……」
処分がレクティファールの口から告げられるたび、ミッドガルド侯とアストリア侯を始めとした始原貴族諸侯の顔から血の気が失せていく。唯一、処分を言い渡されているエイメルシア侯だけが、瞑目したままそれを聞いている。
公職や領地、爵位など惜しくはなかった。
いや――――
「現当主ハイデルを極刑に処し……」
そう自分の死を宣告されても、彼の心には小さな波紋さえ起きなかった。
彼には皇国が命ながらえた今、自分の命さえもその供物として捧げる覚悟がある。
誰かが生贄にならなければならない。
始原貴族軍の誰かが、支持貴族軍と争い国を混乱に陥れた責任を取らなくてはならない。
支持貴族軍の貴族がその命で以て罪を贖ったのなら、その相手である支持貴族軍も血を流さなくてはならないのだ。
喧嘩両成敗。勝利者たる皇王家がどちらかの陣営に肩入れしては、それは国民に対する裏切りになってしまう。
国民は支持貴族軍や程度こそ違うが連合軍に対しても悪感情を抱いており、それらと戦った始原貴族軍や摂政軍に対しては好意的な感情を持っている。しかし、始原貴族軍とて官軍である摂政軍にとっては賊軍であり、一つの結果として限りなく勝利者に近い立場を占めることが出来ただけだ。
だからこそ、摂政レクティファールは始原貴族軍諸侯に温情を見せ、国民が納得し易い形で処分を決めた。
だが、エイメルシア侯が犯した外国軍の誘引という罪は温情でどうにかなるものではない。これは連合軍がミラ平原の国民に強いた数々の屈辱の原因であり、この内乱の長期化の原因でもあるのだから。
エイメルシア侯は、それが理解出来たからこそ黙って罪を受け入れた。
自分ひとりの命であの愛国の同志が助かるのなら安いものだと。彼らがいれば、将来必ず起こる戦乱でもこの国は生き残れると。
しかし、最後の処分を聞いた瞬間、彼の表情が変わった。
「五親等までの一族郎党の極刑に処す。尚、ここ一年で一族から除かれた者もこの沙汰の対象とする」
「――――っ!!」
エイメルシア侯が目を見開き、遥か頭上にあるレクティファールの顔を見上げる。
そこでエイメルシア侯が見たものは、ただ冷厳と、峻烈に摂政の任を全うしようとする青年の表情。
何も無い、ただの無表情であった。
「――――…………っ」
身体が震えた。
納得も、理解も出来る。
自分の犯した罪を、あの摂政はこの国を滅ぼしかけた最低最悪の罪と断じた。
摂政はそうすることで、二度と同じことをする者が現れないように、もしも同じことが起こるとしても、それだけの罪を背負う覚悟を持っている人物が行うように仕向けた。
他国の介入がどれほど国に深い傷を負わせるのか、ここにいる諸侯総てが理解できるように、敢えてエイメルシア侯とその一族を生贄にする決断を下した。
これは君主としての判断。
エイメルシア侯を慕う者たちから悪鬼と罵られ、詳しい事情を知らぬ者からは悪魔と蔑まれることを承知の上で、勝利者以外に下すことが出来ない処分だ。
それでも――――
「恐れながら……っ!」
エイメルシア侯は最後の最後で、反抗することを決めた。
「我が一門には未だ言葉さえ話せぬ幼子もおりまする! せめてその子等と、我が一族より放逐された者にはお慈悲を……!」
彼は賊軍となることを決めたとき、子や孫の配偶者を離縁させ、彼らに罪が及ばないよう手を打った。
実家に戻り、その一門となれば族滅の対象とはならないからだ。当然、幼い子どもたちは彼らに託してある。
皇国貴族として、エイメルシアの当主として、彼は一族を守る長だった。
「ならん」
だが、レクティファールの表情に慈悲などという言葉はない。
余りにも厳しい処分に謁見の間が騒然となり、エイメルシア侯の隣に跪くミッドガルド侯などは小さく罵りの言葉を吐いているようだった。ただ、その対象はおそらく摂政ではなく自分だろう。今の彼に、エイメルシア侯を救うだけの力はない。
アストリア侯も、黙って顔を赤絨毯に向けることしか出来ない。彼女にとって、エイメルシア侯の失脚と処刑は予想の範囲を超えるものではなかった。予想外だったのは、エイメルシア侯の罪が一族にまで波及したことだ。
皇国では、一市民であれば本人の罪が他者に及ぶことはない。子どもや配偶者にまで罰を求めるような法制度ではないからだった。
だが、皇王自らが下す裁定に於いてはこういった例外も起こり得る。
司法権は皇王の持つ権限の一つであり、皇国司法院はそれを貸し与えられているだけに過ぎない。皇王自らが国民を裁くことは、持っている権能を行使しているだけだった。
「殿下……!」
それでもエイメルシア侯が退けないのは、彼の肩に多くの命が懸かっているからだろうか。
脳裏に子や孫の顔が浮かんでは消え、そのたびに彼はただ退けぬという気持ちになった。
「――――――――」
レクティファールは、エイメルシア侯の請願を黙ったまま見詰める。
彼自身、自分が極刑に処すると宣言したエイメルシア侯の一族の氏素性は承知している。
中には、つい先頃生まれたばかりの幼子まで含まれていることも。
それでもやはり、彼にも退けない理由があった。
どんな戦いでも、もっとも良い退け時というものは存在するのだから。
「――――ハイデル、貴様の言いたいことは理解しよう。されど、今貴様が吐いた言葉、おそらくこの戦いで多くの者が叫んだ言葉だったろうな」
金品を強奪されるだけではなく、家を焼かれ、家族を奪われ、最後には己の命さえ閉ざされた者をレクティファールは知っている。
彼の下に届けられた報告書に添えられた鮮明な写真は、過酷な現実に命奪われた者たちの最後の叫びをほんの少し写し取っていた。
性別も判然としない人の形をした炭。ばらばらに切断され、井戸に投げ込まれた幼い少女。ミラ平原に住む魔獣が柔らかい内蔵を好んだのか、腹の空洞を晒した妊婦と周囲に散らばった嘗て胎児だったモノの欠片。互いの存在に縋るように手を繋ぎ、ただ男どもの欲望をその身に刻まれたまま息絶えた姉妹の怨嗟の表情。
忘れるという機能を持たないレクティファールの記憶には、それらの写真が少しも色褪せずに飾られている。
憎むな、とレクティファールは自分に言い聞かせる。
憎む心は“私”に過ぎない。“公”である摂政として、その憎しみは誰にも悟られてはいけない。
「それは……!」
「良い。如何な言葉であろうとも、彼らに謝罪すること叶わぬ今口にすることはただの裏切りに過ぎない」
レクティファールの口調は淡々として、その感情を読み取らせるような情報は殆ど無かった。
ただ、日頃の彼を知る者が見たのなら、様々な感情を押し殺したような声音に眉を顰めたかもしれない。
この謁見の間にそれほど彼と関わりのある人物がいなかったのは、睥睨する者と膝を屈する者、どちらにとっても幸いだった。
「ハイデル」
「――――は……」
レクティファールに名を呼ばれ、何か言おうと開いた口から小さく一言だけ言葉を返すエイメルシア侯。
彼自身、自分の罪が自分ひとりの命で贖えるとは思っていなかった。皇王でもない自分がこの皇国を亡国の縁に追い遣った罪は、一族の命で償うのが妥当なのかもしれないとも考えた。
(――――すまぬな、皆)
思えば、自分が立ったのは今上皇王に対する怒りが原因だった。
この愛する国を滅ぼそうとする、自分の愛する家族を危険に晒すあの男が許せなかったから、起った。
その結果、別の誰かの家族に死を強要したというのなら、それは今上皇王と変わらない。
ならばせめて、あの男とは違い潔くこの命を捧げようではないか。
唯一の心残りは、一族を巻き込んでしまったこと。
可愛い盛りの孫や曾孫の顔を思い浮かべながら、彼は摂政の言葉を受け容れるべく額を絨毯に押し付けた。
しかし投げ掛けられた言葉は、彼が考えるほど甘いものではなかった。
「なれば、貴様がもっとも嫌う罰を代わりに与えよう」
慌てて顔を挙げるエイメルシア侯。
その目の前で、レクティファールは謁見の間に朗々と響く声で告げた。
「その罪、私が預かる」
「な……!」
その叫びは、果たして誰のものであったのか。
誰もが叫び、誰もが驚愕した。
「エイメルシア侯ハイデル。エイメルシア号を剥奪、爵位と領地没収、全資産の八割を国庫へ納入、そして今このときを以て、皇国宰相に任ずる」
「殿下っ! それでは……っ!」
国民が納得しない。
そう声を上げたのは当のエイメルシア侯――――否、皇国宰相ハイデルだった。
それもその筈で、皇国宰相は法的には文官の頂点に位置し、行政の権限総てを皇王より預かっている。但し、この役職は常設ではなく皇王や摂政が必要に応じて任命するものであり、事実ここ三〇〇年は存在していなかった。
確かに、経験の浅い摂政だけでは国政の総てを統べることは難しく、一部の議員や貴族は、摂政の信頼篤い白龍公カールがその役に就くのはないかとも考えていた。
だが、レクティファールはその予想を大きく裏切る決定を下した。
間違いなく国家の大罪人と呼ばれる男を、その地位に据えたのだ。
国民は大いに反発する、誰もがそう考えた。
しかし――――
「ふむ、よろしいのではないですか」
一人、そう呟いて拍手を始める男がいた。
「きゃ、キャベンディッシュ卿……」
隣に並ぶ議員が慌てたように彼の肩を叩く。
この議員はキャベンディッシュの派閥の幹部の一人だった。
自分たちの閥の領袖が取った行動が信じられないらしく、顔面は蒼白だった。
「いやなに、確かに国民はこの決定に反発するかもしれません。ですが、それも誘導することが出来る怒りです。幸い……と言っては失礼ですが、今上皇王が明確に除名された今現在、怒りの矛先は容易に変えられます」
摂政が身を呈して庇った男なら、とこの戦いで直接大きな被害を受けなかった多くの国民は考えるだろう。
そして直接被害を受けた一部の国民も、英雄としてのレクティファールの威光の前に黙り込むしかない。その不満は確かに危険だが、それもハイデルが結果を示せば収まる筈だ。
原因は今上皇王にあると誰もが知っている今ならば、この半ば無茶な人事も押し通せる。ハイデルを忠臣の鑑とまつり上げ、彼の行いが国家の為であったと喧伝することで、だ。
だが、謁見の間にいる者の中でも、国民を騙すような真似に反感を抱いた者は少なくなかった。
これまで抱いていた信頼を損なうような振る舞いを見せる摂政に対して、露骨な不信感を抱く者さえ現れ始める。
しかし、キャベンディッシュは続ける。囁くような声ではあったが、妙に響いた。
「リッテンハイム卿の忠義は本物。ここで宰相の任を辞退するようなことになれば、温情を見せた摂政殿下の顔に泥を塗ることになり、宰相となって結果を残せなければ、これもやはり摂政殿下の評判を落とすことになるでしょう。果たして、卿はこの屈辱に耐えられるでしょうか」
忠義故に罪人となった男に、忠義を示せと求める。
ハイデルはこのとき、選択肢など持っていなかったのだろう。
彼が選べる道など、ただ一つしか無い。
多くの命を奪う大罪の片棒を担ぎ、今また自分に手を差し伸べた若き主君を裏切るような真似は、ハイデルには出来なかった。彼に出来ることは、ただ国民が納得するような結果を残すこと。
レクティファールが自分を宰相に任じたことが間違いではなかったと天下万民に遍く示すことだけだ。
「――――…………」
キャベンディッシュの言葉の正しさを証明するように、ハイデルは無言のままに跪き、レクティファールに臣下の礼を取る。
ハイデルの年齢では、恐らくそう長い期間宰相の地位を占めることは出来ない。五年程度、皇国政府が帝国との戦いが再燃すると予想している時期まで保つかどうか、と言ったところだろう。
たった五年。彼に与えられた時間はそれしかない。
宰相として、摂政に担わせるには躊躇いがある後ろ暗い案件を処理し、必要とあれば同輩の恨みを受け止める。ハイデルは、行政の頭としての役割とは別に、自分の宰相就任の意味をそう見出した。
おそらくだが、レクティファールやそれに近い者たちはそれを望んでいる。
使い捨てという言葉がハイデルの脳裏に浮かんだが、彼はそれも良いと思った。
一族の助命が叶い、再び身を粉にして働ける場所まで与えられた。
ただ、今の自分の双肩には、自分の名誉だけではなく摂政レクティファールの名誉も掛かっている。
国家の裏切り者となった自分に、国家の重責の一部を委ねる。なるほど、白龍公が放っておけない訳だ。あの青年は躊躇うより早く決断の下す拙速のきらいがある。今はまだ英雄としての名声がそれを覆い隠しているから良いが、いずれその拙速さが政治的致命傷を負わせる原因にもなりかねない。
(――――それがしが生きている内に、殿下を為政者として独り立ちさせねばならん)
それが、一族と自分を救ってもらったせめてもの恩返し。
たとえ摂政本人に疎まれるようなことになろうとも、自分の残りの人生はあの青年に総て懸ける。
(これはこれで、死ぬよりは悪くない人生になりそうだ)
いつの間にか、拍手は謁見の間中に広がっていた。
ミッドガルド侯は何度も頷きながら大きく手を叩き、アストリア侯は玉座の傍らに立つレクティファールを細めた目で眺めながら拍手する。
若い摂政は謁見の間に満ち満ちる音の嵐の前でも泰然として、前を見ているだけだった。
アストリア侯は思う。
これはある種の賭けであると。
確かにレクティファールの政治基盤は未だ不安定で、ハイデルの持つ豊富な人脈とその政治手腕は彼にとって大きな力となるだろう。
されど、ハイデルは一度罪人として国民に認識された男。これを簡単に許すようでは、諸侯が摂政を侮り国家の秩序が乱れることもあり得る。
この動きを掣肘するためには、急ぎ摂政と宰相の力を示す必要がある。果たして、策はあるのか。
(それとも、今は策より力押しか……?)
彼女が見詰める先で、レクティファールは小さく笑みを浮かべているようだった。
「――――では、ハイデル」
レクティファールはハイデルに段を昇るよう促した。
ハイデルは立ち上がって階段を昇ると、玉座よりも二段下で立ち止まって振り返った。
玉座に向かって左、臣下が臣下として立つことを許されたもっとも高い場所だ。
「もう一つ、この場で皆に申し渡す」
レクティファールの言葉に出席者が拍手をやめ、居住まいを正す。
「先の戦いを鑑み、貴族の私設軍保有を禁ずる」
貴族たちの列から、うめき声が上がった。
いつか来るだろうと彼らも思っていた貴族軍解体の摂政令が、ついに現実のものとなった。
先の内乱で諸侯軍が挙げた功績といえば、四公爵軍が摂政軍として連合を粉砕した程度。ただ、これは諸侯軍としての功ではなく、摂政レクティファールの武功と考える方が自然だろう。諸侯も国民も、そう認識しているのだから。
「但し、領内の治安維持に必要な最低限の武力保有は、これを認める用意がある。無論、その保有上限数や兵種は領内の治安状況や領地の広狭を勘案し、こちらから指示する」
レクティファールは続ける。
解体される貴族軍に所属する者の中で特に希望する者はしっかりとした入軍試験と入営後の訓練を受けた上で正規軍や、今後創設される予定の正規軍の下部組織、“州軍”に移籍することが許される。
さらに――――
「近衛軍を拡充し、陸海空の三軍編成とする」
近衛海軍は諸侯軍随一の海軍戦力を保有していた蒼龍公軍、近衛陸軍は諸侯軍最大最強と恐れられる黒龍公軍、そして近衛空軍は紅龍公軍と白龍公軍を現在の近衛軍を嚮導部隊として再編成される。
三軍を指揮下に置く総司令官は正規軍元帥と同格の扱いとなり、引き続き元帥府の一席を占めることとなった。
レクティファールはそこまで告げると、諸侯の列の最前に立つ四人の龍に向かって口を開いた。
「四公には様々な苦労を強いるが、公らの軍が新たな近衛の主戦力と言っても過言ではない。先の戦いで見せた精強振り、近衛でも見せてくれると信じている」
「――――は。我らが鍛えた精兵、きっと殿下のお役に立ちましょう。存分にお使いください」
同時に膝を突く四公を代表して、最年長の蒼龍公マリアが答えた。
この返答によって、嘗て今上皇王の所業に怒り、皇王家から独立した三公爵家も再び皇王家の臣下としてその列に復帰することになる。独立を維持するには精強な軍備が欠かせない。それを差し出すということは、再び臣として礼を尽くすということだからだ。
四公爵以外の諸侯はこの式典が始まる前から三公爵家の皇王家への臣従が決まっていたことを悟り、この諸侯軍解体に異を唱えることが出来る勢力が消え去ったことを知った。
ただ、それはまだ明確にはされていない。実質的に皇王家に従属したとしても、独立宣言を撤回した訳ではないのだ。おそらく、互いに妥協した結果だろう。
これからの摂政の行いを見て、いずれ独立宣言を撤回するに違いない。
しかし、これで皇国建国以来、皇国の軍備の一翼を担った諸侯軍は確実に消滅する。
建国初期の頃、領地の治安維持を任務としていた頃に戻るだけと考えることも出来るが、それでも自分たちを守る鎧が一部欠けてしまったような不安感はそう簡単に拭えるものではなかった。
「諸侯らの軍が抜けた穴は、正規軍と近衛軍、そして各州軍で埋める」
そう言ってこの軍備再編を主導する存在がレクティファールであるからこそ、諸侯らは黙って従うしかない。
実質的に四公爵と議会を従えた摂政は、多少不満がある程度ではとても逆らえる相手ではない。そもそも、不満程度では逆らうほどの理由にはなり得なかった。
先の内乱のときの支持貴族のように、惨めな最期を迎えるようなことにはなりたくない。この摂政は必要とあれば一族を皆殺しにすることさえやりかねないのだ。
「皆には今後もこの国のために身を粉にして働いてもらう。そして、私はそれに報いることを約束しよう」
一斉に跪く諸侯と議員。
文武官は各々の形で最敬礼した。
「では、諸君らの献身に期待する」
式典後、レクティファールの退出と共に三々五々散っていく出席者。
明るい表情を浮かべる者もいれば、不安を隠しきれない者もいた。
そんな彼らに共通することは一つ。
彼らは心の中の大部分を、たった一人の青年によって占められているということ。
そして唯一の違いは、その青年に抱く感情が正であるか負であるかということだった。
皇国歴二〇〇九年黒の第四月、一人の青年が政治の表舞台に躍り出た。
皇城の執務室で夜半まで仕事と戦い、ようやく一段落したということで居住区である後宮に戻ることになったレクティファールは、明日の園遊会で行われる婚約発表について頭を悩ませていた。
理由は、紅龍公姫の二人が出席を見合わせ、白龍公姫メリエラの出席も主治医の権限で禁止すると通知してきたから。
その理由を訪ねるレクティファールに紅龍姫の使いはただ一言、
「自分で聞きに来い」
という伝言を一言一句そのまま伝えるだけだった。
さて、今度はどんな理由で怒られるのか、心当たりが多すぎて悩むレクティファール。
悩んでいてもどうにもならないので、重い足取りで後宮へと向かうのだった。
「――――はあ……」
非常に大きな溜息を零しながら。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。