第二章:戦後内政編
第二話「嫉妬+後悔=自責、そして動き出す現実」
皇都イクシード内、星天宮の皇城の一室に小さな影がある。
影は窓際の椅子に座り、分厚い、赤茶色の装丁の本を膝に乗せていた。
「――――――――」
一枚、ページを捲る。
「――――――――」
今のこの国には、勝利者と呼ばれる男がいる。
内乱を速やかに鎮め、外敵の侵攻を阻んだ上に返す刃で敵国に楔を打ち込んだ。
その手腕は諸外国に衝撃を与え、これまではその特殊な政治体系に忌避感を持つが故に、この国に対して敵対とは言わないまでも否定的な方針をとっていた国々までもがこぞって大使や公使をこの式典に送り込んできた。
彼らは有形無形の供物を携え、公的には無位無官の自分にさえ遜った態度を見せている。
彼らが何を求めているのか、それを察するのは容易い。
あの電撃的な戦いを演じた男が、その矛先を自分に向けることが無いよう願っているのだ。そして出来るなら、その鋒を自分と敵対する存在に向けて欲しいと思っている。
外務院総裁からそれとなく聞いた話に拠れば、彼の帰還前に既に我が国との安全保障条約の締結を望む国家が相当数現れているということだった。
それが小国であればあるほど、特に彼らの必死さは外務院総裁から見ても悲痛なものであったという。
彼らは自国の安全保障を自国だけでは購えない。大国と接した国境を持つ国は特にそうだ。
彼らを守っているのは、単に手に入れる旨みが少なく攻める理由がないという事実のみ。
歴史を見てみれば、希少な鉱石を始めとした希少資源が国内で産出した小国は、半ば無理やり難癖を付けられてその主権を侵害されてきた。逆に特筆するような産物や産業がない国は、その国を目的とした侵攻に晒されるようなことは稀だ。ただ、その国家の先にさらに本来の目的があるときのみ、彼らは侵略を受けた。
大国の利己主義に翻弄され、絶えず命の危機に晒されてきた彼らが、今回の戦いに時代の潮目を嗅ぎ取ったことは不思議ではない。
特に北と西の国家にとっては、まさに国家の存亡を懸けた一大事だろう。
かの男が奪取し、後の停戦交渉で我が国の国土となった北の都市『ウィルマグス』とその周辺地域はこれまでの国境を北に押し上げ、その国境に隣接することとなった幾つかの小国を我が国寄りに方針転換させた。
連合が引き揚げたあとの西も、建前上は皇国という共通の敵を失った連合参加国が再びお互いを牽制し合う状況に変わり、こちらもまた皇国に擦り寄る国家が現れている。
相手が小国であれば、その国家には申し訳ないが大した手間はない。
これまでと同じように、ほぼ習慣となった遣り取りで諸々の条約を締結してしまえば良い。
しかし、今外務院に持ち込まれている似たような案件の内、二つだけはこれが適用出来ない。
なにせ、それを持ち込んできた国家は、片や皇国の数倍に垂んとする国土と皇国のそれを上回る国力、そして大陸最強の陸軍力を持った大国、片や国力こそ皇国に劣るものの、他国に『栄誉ある孤立』と称される非同盟半鎖国政策を持ち、その上でアルマダ大陸最大規模の海軍を保有してその存在を堅持し続けている海洋大国だった。
彼らはかの男との個人的繋がりを国家間の利益に結び付けようと、外務院の職員たちを不眠不休の超過労働に追い込んできている。
前者とは明確な国交がない故に臨時の外交官を派遣し、後者は相手国に駐在中の大使が交渉の任に当たっているが、共に中々侮れない敵手のようだ。
出来るなら、かの男の帰還までにある程度形にしておきたかったが、本人に色々確認すべきこともある。この国の外交権は、たった一人に握られているのだから。
「――――全く、面白いったら無いわね」
呟き、読んでいた本を閉じると、彼女はふわりと浮かび上がる。
窓から差し込んだ光が、彼女の姿を映し出す。
「どいつもこいつも、てんやわんやで余裕のないこと」
濃い緑の髪と、同じ色の瞳、そして、子どものような小さな体躯と薄紫の特徴的な翅脈を持つ三対六枚の透き通った翅。
――――妖精。
彼女はそう称される一族の者だった。
幼少の頃、彼女の産まれた一族と、それと交友のある人間種の一族との取り決めで“取り替え子”となり、以降ヒトの社会で暮らし続けてきた。
既に二〇〇〇年、この国を見詰め続けている。
昔は気楽な立場であったが、いつの間にか要職に就けられてしまった。それでも暇を潰すには都合がいいということで、今の仕事はかれこれ四五〇年程度続けている。
これまで、かの男の前任者三人に仕え、内一人は早々に見限った。
これで四人目となるが、さて、どうなるだろうかと彼女は思う。
「――――あいつみたいな阿呆、もう二度と現れないのかなぁ……」
人々が初代と呼ぶ男。
彼女がヒトの社会に放り込まれた頃に出会った男。
初めて、自分の番として意識した男。
そして、自分を置いてさっさと逝ってしまった男だ。
「まあ、いいか」
くるりと部屋の中を一周し、彼女は扉に向かう。
扉を開けて振り返ると、そこにはいつか、この部屋で自分を膝の上に乗せて物語を読み聞かせてくれた男の幻が見える。
太陽のような笑顔と、真っ直ぐな気性。
馬鹿だ馬鹿だと仲間に言われ続け、それでもこの国を創り上げた。
多くの男女が彼に惹かれた。
それは友としてであり、想い人としてであり、そして連れ合いとしてであったが、彼女が自分の内にあるもっとも大きなそれがどれであるのか気付いた頃には、もう彼は逝く直前であった。
自分の内の想いに気付き、少し大人になった彼女は、それでも出会った頃のままの少し馬鹿な妖精の振りをして彼を見送った。
彼を最後に笑顔にしたのは、彼女だった。
いつも通り馬鹿なことを言い、彼を笑顔で逝かせた。
それが、それからの彼女の誇りになった。
やがて、彼と共に戦った人々が一人、また一人と旅立った。
ある者は世界を見に、ある者は故郷に帰り、ある者は死出の旅に。
いつしか、この皇城には彼女以外に彼を直接知る者はいなくなった。
そんな彼女自身も、生まれたばかりの頃のことなど今は大して憶えていない。
ただ、彼の最後の笑顔だけが心に焼き付いて、色褪せずに残っている。
「じゃ、行ってくるよ――――」
口の中だけで彼の名を呼び、彼女は扉を閉めた。
向かう先は星天宮の正門。
星天宮の新たな主を、皇王府総裁として出迎えるために。
色とりどりの紙吹雪が舞い、国家が斉唱される中、レクティファールは白い礼装姿で鎧を纏った軍馬の上にいた。
彼を取り巻く近衛軍の将兵の数名が掲げる国旗と皇王の紋章旗、そして近衛軍の軍旗が、誇らしげに紙吹雪の空に翻っている。
王橋を渡り、皇都外環線の線路を眼下に見ながら、城門を潜って皇都に入った時点で彼の耳は人々の歓声と歌声に支配されており、既に正常な聴覚を維持しているのかすら分からない状況だった。
今レクティファールがいるのは皇都の目抜き通り。正門から皇城へと向かう皇都で一番幅員の広い大通りは、集まった市民によって埋め尽くされている。手作りの小さな国旗を力一杯振り、市民たちは口々にレクティファールの名を呼んだ。
市民の声に応えるようにレクティファールは視線を巡らせ、手を掲げた。
そして市民の間を連鎖する万歳の声。
五〇〇万の市民が彼を讃え、狂ったように叫んでいる。
生き残った。死んでいない。まだ、生きている。
それだけで彼らは喜ぶのだと、レクティファールは身を以て理解した。自分の名を讃えるのは、自らの生を実感する一つの手段に過ぎないのだろう。
死にたくない。だから、生きていることが嬉しい。
生命として当たり前のことだが、人々は死を目の当たりにしないとそれに気付けない。
生きていることが当たり前になってしまったから、死に鈍感になってしまっていた。
そんな彼らに生きることの喜びを教えたのは、二世代の皇王。
今では名前さえ出すことが憚られるようになってしまった今上皇王と、市民に「万歳」と讃えられる次期皇王レクティファールの二人だった。
両者の扱いはまさに天と地。
今上皇王と同じ名前である市民は神殿に乞うて聖名を授けて貰ってそれを名乗るようになり、逆にレクティファールという名はここひと月で産まれた新生児の男子に付けられる名として最も多く、名前総てを頂くなど恐れ多いという理由で一部だけを貰うという親もいる程だ。
国主という同じ立場でありながら、片や名前さえ葬り去られ、片や代理の立場でありながら歴代の皇と同じだけ敬われ、慕われている。
その理由は何か。
簡単なことだ。認められたか、否か。それだけの違いに過ぎない。
才気に溢れ、人々に認められようとした男と、ただ流され、必要なとき必要なだけ必要なことをやっただけの男。
皇という立場に掛ける想いと、この国に対する想いは、間違いなく前者の方が大きかった筈だ。
しかし、認められたのは後者。
認められようとは一度も考えなかった男だった。
「――――それが運だとは、思いたくないけれども……」
万感の想いを込めたその呟きは、人々の歓声の中であっさりと掻き消される。
ほんの少しだけ違った道の先、そこには天国と地獄が広がっていたということなのだろうか。
それ個人の想いではなく、状況こそが人の生き死にを決めるということなのだろうか。
皇都に入る前、ミラ平原を通過している時点で皇都に続く街道は人々に埋め尽くされていた。比較するのも馬鹿らしい戦力差をひっくり返し、帝国領に逆侵攻した英雄を一目見ようと国中から市民が集まっているのだと、ミラ平原に入る前に近衛軍中隊の中隊長がレクティファールに話してくれた。
君主と共に凱旋するということがどれ程軍人にとって名誉なことなのか、彼はレクティファールが困った顔をしていることにも気付かず延々と語り続け、副官に窘められてようやく正気に返った。
自分の行動を振り返って恐縮する中隊長を宥め、レクティファールは馬上の人となったのだ。
そうして馬に揺られて幾時間、彼は大歓声の中をゆっくりと進んでいる。
隣に陸軍の第一種礼装を纏った女性参謀を伴って。
「リーデ、まだ慣れませんか」
「――――は、はい。流石にこうも人の目が多いと……」
彼女は要塞を離れられないガラハの名代として、そしてレクティファールと共に戦った勇気ある側妃候補としてこの式典に参加している。
同じ妃候補であるメリエラが傷に負担をかけないために馬車での移動となったことで、急遽彼女がレクティファールの随伴者となることになったのだった。
予定では式典後に側妃となることを正式に発表する筈だったのだが、既に陸軍の女性参謀が側妃入りするという噂が流れていることもあり、改めて発表する必要もないかもしれない。
時折、「妃殿下万歳」の声も聞こえてくることもあるので、リーデの顔は先程から真っ赤に染まったまま元に戻らない。あっちにふらふら、こっちにふらふらと視線を彷徨わせ、全力で羞恥心を抑え込んで小さく手を振っている。
もう少し大きく振らないと遠くの人には見えないのではなかろうかとレクティファールは思ったが、年上の女性が必死になって羞恥心と戦っている最中に言うことではないだろうと自重した。
それでも微妙に生暖かい視線をくれてしまうのは、まあ、仕方の無いことなのだと思うことにする。
「殿下……その……馬車に入っても……」
「駄目でしょうね。ガラハ中将の名代でもありますし」
「あうぅ……」
実のところ、先の紛争の英雄ガリアン・アーデンの娘が皇太子の寵を受けたことも市民の熱狂の一因となっていた。
英雄を父に持ってはいるものの一介の士族であり、立場としては平民とさほど変わらないリーデ。そんな彼女が新たな英雄であるレクティファールと想いを交わし、こうして側妃として星天宮に上がることはごく普通の市井の女性にとって舞台で演じられる物語のようにも思えるらしい。従って彼女たちがリーデに憧憬と嫉妬の入り交じった視線を向けることは、ある意味では仕方の無いことだった。
ヒトとは夢を見る生き物だ。
いつかきっとと高い所を見上げ、そこに立つ自分を空想する。
皇太子や姫君という立場は容易く手に入れることは出来ないが、リーデのように一介の士族から皇太子の妃に登ることは不可能ではない。そう、不可能ではないのだ。
彼女たちはそれに気付いたからこそ、リーデに憧れと妬みを向ける。
自分はそこに立つことが出来ないと思っているのなら、妬みなどという感情が湧くことはない。自分にも可能性があるからこそ、彼女たちは嫉妬するのだろう。
「――――殿下、すごく見られている気がします……」
「見られていますねぇ……間違いなく」
「で、殿下は平気そうですね。緊張しないコツでもあるのですか?」
リーデとて軍人だ。それも参謀という職にある。故に、人の前に立つことには多少慣れているつもりだった。
だが、そんな自負などちっぽけなものだったらしい。
一〇〇万単位の市民を前にして堂々としていられる度胸など、彼女には無かった。
それに対してレクティファールと言えば、いつもと変わらない表情と態度で市民の声に応えている。まるで緊張など感じていないかのようなその姿に、リーデは密かに感嘆していた。出来るならその秘訣を教えて貰いたい。
だがまあ、返ってきた言葉はある意味予想通りで、全くの役立たずだった。
「――――いえ、どうせ逃げられないだろうからってすっぱり諦めました」
「――――――――はぁ……」
深い溜息。
会話によってとりあえず気は紛れたが、精神的な疲労感はどっと増した。
彼女は知らないが、レクティファールという男は基本的に人前で緊張感を抱くような細い神経の持ち主ではない。いや、神経そのものは細いのかもしれないが、細いだけで弱い神経ではない。その諦めの良さで、緊張感を覚える前にいつもの落ち着きを取り戻してしまうのだ。勿論例外もあり、それは異性関係に関することなのだが、とりあえず今のリーデには何の参考にもならないし、今後も参考になることはないだろう。
「ほらリーデさん、あそこで子どもたちが手を振ってますよ」
「あ、はい」
レクティファールの声に視線を動かしてみれば、確かに彼の視線の先で子どもたちが手を振っている。衛視隊によって張られた規制線のすぐ後ろに立ち、近くに引率らしい大人の姿があることから、どうやら学校の授業の一環としてこの凱旋式典を見にきたらしい。
子どもたちは行進の何処に誰がいるかなど分かっていないだろう。引率の教師が説明しようとしても、この喧騒ではおそらく聞こえない。
そのため、子どもたちは誰彼構わず手を振り、この盛大なお祭り騒ぎを楽しんでいるようだった。
手に手に手旗を持ち、力一杯振っている。
「あ、お姫様だっ!」
そんな子どもたちの一人、ぴんと耳の尖った女子がリーデを見て声を上げる。
白い服を着た人が皇太子、つまり皇子様だということを覚えていた彼女は、その隣にいるリーデをお姫様と呼んだのだ。何より軍服姿のお姫様は、皇国では別段珍しくない。
彼女の声に釣られたらしい子どもたちが、一斉にリーデに視線を向ける。
「お姫様――――!」
「キレ~~!」
「きゃあ~~!」
「わたしも眼鏡かけようかなぁ……」
そこまでは何とかリーデの耳にも聞き取れたのだが、さらに発生源が増えてしまうともう何を言いたいのかさっぱり分からない。女性というのは、幼くとも姦しいらしい。
それに対し、男子はリーデの隣にいるレクティファールに注目していた。
彼らにとっては初めて目の当たりにする本物の英雄ということになるのだが――――
「え、あいつが皇子様? 冴えねぇやつ~~!」
「こら! 皇子様になんてこと言うんだ!」
「だって、弱そうだぜ? 父ちゃんより背小さいし」
「だからって……」
こっちは中々に厳しい意見だった。
女子とは違い、はっきりとした口調の子供の声ということもあって、レクティファールの耳にはそれらの意見が何故か良く聞こえた。思わぬ意見に内心肩を落とすレクティファール。
自分が威風堂々という言葉から程遠い容姿をしていることは自覚していたが、子どもたちの正直な感想は流石に堪えたらしい。本音としては、出来ればもう少し優しい言葉で表現して欲しかったというところだ。
「――――殿下、笑顔が引き攣っています……」
「――――君こそ」
二人はお互いの顔を見詰め、苦笑いを浮かべる。
双方共に、こういった催し物の主役になることは考えていなかった。
人生とは思わぬことが起こるものだが、リーデはレクティファールと初めて顔を合わせたときには自分がこんな立場になるとは少しも考えていなかった。ただ、与えられた役割を果たそうと思っていたに過ぎない。
間違っても、あの頃の彼女は誰かに心を許すようなことはなかった。しかし、ただ自分を保とうとしているうちに、いつの間にか深い関係になってしまっていた。
リーデにはそれが信じられなくもあり、恥ずかしくもある。
今まで誰にも見せなかった部分を曝け出してしまったのだから恥ずかしがる必要もない筈なのに、こうして人々に自分の新しい立場を祝福して貰うと、やはり恥ずかしさというものは湧き上がってくるものだ。
嘗ての彼女であれば、こんな風に熱狂する人々を冷めた視線で眺めていただけだろう。自分は彼らとは違う、彼らはどこかおかしいのだと決めつけて。
しかし、今なら彼らの気持ちの一片くらいは理解出来る。
(ああ……あの人たちは嬉しいんだ……)
だから笑顔を浮かべ、こうして自分に手を振ってくれる。
嬉しいから笑い、嬉しいから歌い、嬉しいから踊る。
普通なのは、彼らの方だった。
いや、どちらも普通で、おかしいなんて何処にもなかった。
彼らは自分ではないし、自分は彼らではない。違うのが当たり前で、違うことが普通だった。
(――――お父さん……お父さんが守りたかったのは、わたしがあんな笑顔を浮かべられる世界だったの?)
自分を『お姫様』と呼んだ子どもたち。
遠きあの日に命を落とした父は、自分があの子どもたちのように笑顔で生きることを望んだのだろうか。
笑顔で出会い、泣きながら別れ、再び笑顔で出会う当たり前の人生。
父は、そんな当たり前が尊いものだとあの戦場で気付いたのかもしれない。
(お父さん――――)
ああ、そうだったのか、と彼女は思う。
自分が何故、父に似たレクティファールを恨み、そして惹かれたのか。
それは、単に自分がそう望んだだけのことだった。
恨みたいと思ったから恨んだ。惹かれたいと思ったから惹かれた。
原因は相手にあったのではなく、自分の心の中にあったのだと彼女は知る。
「――――リーデさん、どうかしましたか?」
自分を見詰め、首を傾げるこの青年の往く先は平坦ではないだろう。
血に塗れ、泥に汚れ、怨嗟でぬかるんだ道を彼は進む。
白の龍姫も、神殿の巫女姫も、そしてあの紅の双子龍も、自分さえも無傷ではいられないと、総てを知った上でレクティファールという男の傍らに侍ろうというのだ。
それに対し、自分はどうだろうか。
軍人として多くの血を見てきた自分はどうだろうか。
参謀の悪癖、現実を客観的に見詰め過ぎて現実を現実と認識出来なくなってはいないか。
自分は自分の意思で、ここにいるのか。
(――――愚問、よね……お父さん)
父が躊躇い無く散ったとは思わない。
心残りも、後悔もあっただろうと今なら思う。
その中には、きっと自分や母のことも含まれていた筈だ。
だから、今ここで父に誓う。
父が守った、愛しき男が守った人々の歓喜の中で誓う。
「わたしは、自分の意思でここにいます」
子として父の背中を追うことも無く、ただ愛しき男の背を見送るだけの女に成り下がるつもりも無い。
自分の意志で、自分の道を、自分の手で切り拓く。
「――? リーデさん?」
「殿下、ほら前を向いてください。みんなが殿下を見ているんですから、わたしばかり見ていては駄目です」
「あ、はい……」
レクティファールの銀色の瞳が、自分から逸れていく。
安堵と寂しさを感じながら、リーデは背筋を伸ばしてレクティファールと同じ世界を見る。
(お父さん、わたしはあの人と同じものを見て生きていきます)
彼と共に戦うだけの力もなく、疲れた彼を支えるだけの優しさもなく、皇王として政を行う彼の隣に立つことも出来ない自分に出来ること。
それは、同じ世界を見詰め続けること。
参謀として、ただのリーデとして、目を逸らさずに生き続ける。
最後の最後、自分の命か、彼の命が潰える時まで。
集団の中で、レクティファールたちから少し離れた地点を静かに進む馬車がある。
軍馬に牽かれたその馬車は、傷病人を乗せるよう乗り心地を最優先に作られたものだった。
その御陰か、まったくと言っていいほど揺れを感じない馬車の中で、白龍の姫君は沈痛な表情を浮かべていた。
「――――ふぅ……」
外見だけならば既に傷は癒えた。
龍人族であるウィリィアとは違い、生粋の龍族であるメリエラにとってこれまでの療養期間は、外傷を癒すには十分過ぎるものだった。
だが、外見は癒えても身体の内側はそう簡単に癒せない。
特に対龍族に特化した龍人族に与えられた傷は、その龍人族が発する対龍族魔力妨害波によって治癒が遅くなりがちだ。
力のある龍族ほどその傾向はより顕著で、それは彼らが龍族特有の波形を持つ魔力を身体の維持に費やしていることに起因する。
龍族特有の魔力は龍族が用いやすいよう魔力の周波数、波形を変化させたもので、彼らがその魔力を用いて体内で術式を展開することで、詠唱を破棄した状態でも高威力の魔法を放つことを可能にした。龍族が口腔内から放つ高威力の魔法やブレスの正体はこれだ。
しかし、特有であるが故に旧帝国の創り上げた龍人族には対処されてそれが通用せず、妨害波によって魔力の運動が抑制されることとなった。
外傷が内傷に較べて早く癒えるのは、古の頃、龍族が未だ戦いに明け暮れていた頃の名残なのだろう。完治していなくとも、外見だけでも完全な状態であると敵に思わせればそれだけ生き残る可能性は高くなる。
龍族を相手とする数々の敵とて、完全な状態にある龍族とは出来るだけ戦いたくないのだ。
しかしだからこそ、身体内部の傷というのは厄介だ。魔力の流れこそ通常の状態に戻っているが、傷を負ってからしばらくの間自己治癒力が落ちていたため、傷の治りが遅いという事態に慣れていなかった身体が不調を訴えていた。
なまじ治癒力が高いせいで、その治癒力が損なわれたという状況に身体がついていけないらしい。
それでも他の種族に較べて治りが早いのだから、完全な状態の龍族とはまさに化物ということだろう。
だが、そんな治癒力の高さはこの女性にとって自分を惨めにする要因の一つにしかならない。
情けない。
彼女はただ一人だけの馬車の中で、唇を噛み締めた。
そして前方の車窓を遮る窓掛けを少しだけ開け、御者の背中越しに見える外の光景に目を細める。
「――――リーデ・アーデン……ガリアン・アーデンの娘か……」
小さく、それでも龍族の視力では問題にならない程度の距離に白い青年と、陸軍の礼服を着た女性の姿が見える。
何か言葉を交わしているらしい二人の姿に、彼女の心は波立った。
「くっ……!」
本来なら、リーデのいる場所は彼女がいる筈の場所だった。
騎龍として、未来の皇妃の一人として、あの場所にいる筈だった。
身体中を掻き毟りたくなるほどの怒りさえ、容易に込み上げてくる。
リーデを恨むことは筋違いで、レクティファールを恨むことなど有り得なくて、そして残ったものは自分。
弱かった自分。
龍族としての力に慢心し、天敵である『龍殺し』に圧倒された自分。
未だ復帰の目処すら立たないほどの重症を負ってまで自分に千載一遇の機会を与えてくれた従者に対して、何も報いることが出来なかった自分。
そして結果的にリーデに立場を奪われ、レクティファールの騎龍としての役割を果たせなかった自分。
総て自分が原因だった。
あと少しだけ、父までとは言わないまでもそれに準ずる程度の力さえ持っていれば、あの『龍殺し』にあそこまで一方的に叩かれることは無かった。
聞けば、レクティファールとあの『龍殺し』は一太刀しか刃を交わさなかったという。
つまり、あと少しだけ時間を稼いでいればレクティファールに剣を抜かせることは無かった。
「――――――――」
『ウィルマグス』の病室でレクティファールに啖呵を切ったというのに、未だに自分はあのことを悔やみ続けている。
龍族としての矜持などではない、ましてや皇妃候補の一人として誇りなどあり得ない。
ただ、同じ女としての憎しみだ。
あの戦場の中で、あのとき自分と『龍殺し』は同じ場所に立っていた。
従者が倒れたことで一対一。
お互いに自分以外の要素で勝負が決することのない戦場だった。
しかし、自分は人が言う勇戦奮闘などという言葉が侮蔑に聞こえるほど惨めな敗北を喫した。
他人は、天敵である『龍殺し』に対して敢然と立ち向かい、そしてレクティファールの命を救ったと言う。
それこそ、悪い冗談だった。
自分はただ敗北し、敗者として隠れるように皇都に帰還した。それが事実ではないか。
勝者たるレクティファールの隣には自分以外の女性の姿がある、それこそが今の自分の立場を明確に示していた。
敗者は敗者でしかない。
自分の中の別の自分がそう囁く。
そしてそれに対して頷いてしまう自分もまた、彼女の中に存在した。
「――――レクト……っ」
名を呼ぶたび、身を引き裂かれそうな痛みを覚える。
手が届かないから、声が聞こえないから、辛い。
あの白龍宮での日々のように、目の前に彼がいて、すぐ近くにウィリィアがいてくれたらこの痛みなんて気にならないのに。
「レクト……レクト……レクト……」
先程の光景が、脳裏にこびりついて離れない。
自分以外の女性に、自分に向けたような笑顔を向けるレクティファール。
それを止めることさえ出来ず、何故自分はこんな暗い馬車の中で一人泣いているのか。
「――――ごめんなさい……ごめんなさい……」
分かっている、自分が弱いからだ。
誰かが悪いのではない、自分が悪いのだ。
だから苦しい、だから辛い。
自分を苦しめることで気が晴れることもなく、ただ辛さが増すばかり。
「レクト……!」
ああ、今この瞬間、あなたが目の前にいて笑いかけてくれればそれでいいのに。
それだけで、二度とあのような惨めな戦いは演じないと誓えるのに。
でも――――
「何故、あなたはここにいないの……」
彼がいるのは、紙吹雪と人々の歓声の中。
あの病室のように、自分の前にはいない。
「――――こんなにも苦しいのに……」
いつの間に、自分はこんなにも女々しくなってしまったのか。
嘗ての自分は貴族としての矜持と、軍人としての使命を第一に考えていた筈なのに。
それはたった三月前のことだというのに、今の自分はまるで別人のよう。
「――――わたしは、弱くなったの……?」
メリエラは小さく呟き、顔を伏せる。
雌龍としての自分の本能に翻弄され、身体を震わせて嗚咽する彼女の声は、喜びに満ちた喧騒の中でただ消えていくだけだった。
皇城までの道程は、レクティファールにとっては新たな発見の連続だった。
建物の建築様式からその雑多な種族の容貌まで、ひいては彼らの唄う歌や掛け声までもが目新しい。
彼はそんな中を進み、星天宮の正門までやってきた。
満々と水を湛えた堀と、その上に架けられた橋。その橋の右端には有力貴族たちが縦列を組んで居並び、左端には議員を始めとした文武官が列を作っている。
主君の姿を見て一斉に頭を垂れた彼らの間を、凱旋の集団から抜けた一群が通過していく。
言うまでもなく、レクティファールと彼の供回りたちだ。
ゆっくりと進む一群の先に、数名の男女が待っていた。
「――――お帰りなさいませ、摂政殿下」
四龍公と皇国両議会の議長、そして三軍から派遣された代表者と近衛軍総司令官。彼らの中央、下馬したレクティファールの腰辺りの高さから子どものような声が発せられた。
レクティファールは少し驚いた表情を見せながらも、その発生源となった小さな女性に歩み寄る。
服装こそ文官然とした薄灰色の長衣であったが、その背にある翅が彼女をただの人間種や混血種とは一線を画した種族であると物語っている。
(――――妖精……?)
レクティファールは、“皇剣”の中の情報でしか彼女の種族を知らなかった。
これまで彼の周りにいた人々の中に、彼女のような、レクティファールが妖精と聞いてすぐに思い浮かべるような姿を持つ者はいなかった。
そして他方、彼女から見てレクティファールほど摂政として未成熟な者もいなかったのだが。
お互い、それを察するには付き合いが浅すぎた。
「出迎え大義だった。――――して、君は……」
ここに居るということは皇国の中で、或いは皇王個人として欠くべからざる者ということになる。
しかし、彼の中の“皇剣”は、彼女の正体について何も明かさない。
それは“皇剣”にとって彼女の役割が取るに足らぬものであるからなのか、若しくは知っていて当たり前のことなのか。
「申し遅れました。わたしは殿下の下で皇王府を取り仕切らせて頂く、ルキーティ・フェル・フェアリオスと申します」
「――――――――つまり……」
レクティファールは自分の背丈の半分程度しかないルキーティの顔をじっと見詰める。
彼女の言っていることが事実であれば、彼女の肩書きとはこれまでレクティファールが一度も面識を持たずに、それでも信頼していた人物のものということになる。
レクティファールは表情を固く引き締めたまま、内心で大いに動揺していた。
彼の中でこれまで形作られてきた一つの人物像に罅が入ったが故に。
果たして、ルキーティは長衣の裾を軽く持ち上げ、一つ会釈をした。
「二代前の皇王陛下の御代より、皇王の直臣たる皇王府、その総裁を任されております」
先入観というのは実に危険なものだと、レクティファールはまた一つ学習した。
皇王府総裁とは、文字通り皇王府を束ねる実務者の最高位である。
皇国の公的機関である三院とは違って皇王府は皇王の私有機関という位置付けになっており、予算の九分九厘は皇王の個人資産から拠出されていた。残りの一部を皇国政府が負担することで、辛うじてその政治的中立を保っているに過ぎない。
これは皇王を一人の貴族として考えた場合、皇王府はその貴族が召抱えている家臣団、近衛軍は貴族軍という見方をすることも可能だ。
だが、その規模は他の皇国貴族と較べるのも馬鹿らしい。たとえ貴族筆頭の四龍公だとしても、その規模は段違いだ。
「――――とは言うものの、今の皇王府は昔ほど大きな組織ではなくなってしまいました」
療養のために白龍公の皇都屋敷に戻ることになったメリエラと別れ、実に四半日も掛けて凱旋式典を終えたレクティファールは、ルキーティの案内で星天宮の各施設を回りながら、彼女の率いる皇王府について説明を受けていた。
そういえば、メリエラの様子がおかしかった気がする――――レクティファールの中に存在する並列意識の一つがそんなことを考えたが、レクティファールという総体にその思考が伝播することはなかった。
彼にとって、最優先しなくてはならない事柄とはこれから自分がやらなくてはならない諸々の仕事のことだ。メリエラのことが気になっていても、それを優先するだけの能力が今の彼にはない。
(――――近いうちに、もう一度お見舞いに行くべきかな……)
並列思考はそう考える。
本当ならウィリィアも含めて自分の手元で治療したいのだが、今のような中途半端な立場では守れるものも守れない。
今の仕事を一通り終わらせて、真正面から会いに行こう。
レクティファールの並列思考はそう結論付けた。
ルキーティの言葉は続いている。
「さて、その原因ですが……」
ふわふわと浮かんでレクティファールを先導するルキーティ。どうやら彼女は、他の種族とは歩幅が違い過ぎて地面を歩くことを諦めたらしい。
実際、彼女のようにあまりにも他の種族と身体的な差が大きい種族の場合、空を飛んだりすることは失礼には当たらないということだった。
「言うまでもなく、今上皇王の暴政に嫌気が差した職員の離職辞職が原因です。今は以前の職員がだいぶ戻ってきてくれましたが、やはり大々的に新規職員を募集するべきでしょうね。殿下がいれば、三院から人を引き抜くことも可能でしょうし」
ふっふっふ、と邪悪な笑い声を上げるルキーティ。
皇王府の職員は税金を予算として使っている建前上、公務員としての籍を持ち皇国の職員ということになっているが、実質皇王の直臣ということになる。
彼らには、皇国の公僕であると同時に、いや皇国の公僕である以前に皇王の直臣であるという自負があった。
それらを示す例として、一つ挙げる。
星天宮で働く者たち、つまり政府官庁としての皇城を除いた施設で働く職員は総て皇王府の職員ということになっているが、親や兄に連れられて星天宮に訪れた貴族の子弟や、仕事で星天宮を訪れた商人などが、星天宮の職員を自分の使用人のように扱うことがあった。
酷い場合だと、星天宮内で働く侍女に不埒な行為を強要しようとしたという例もある。
だが、そんな彼らは皇王府という組織に関して無知だったとしか言いようがない。
確かに皇王府は皇国の税によって動く機関の一つではあるが、行政機関ではない。
皇王が私的に雇い、私的に運用する事実上の独立機関なのである。皇国から皇王府に与えられている予算など、その独立機関を繋ぎ止めておくための方便に過ぎないのだ。皇王府は皇国からの予算が止まっても、その機能にほんの一欠片の障害も起こさないだろう。
そんな皇王府の職員に手を出すということは、その雇用主である皇王の面子に泥を塗るということと同義。
無知な行いをした彼らは、高い授業料を支払って自分の浅慮を学ぶこととなる。貴族であれば実家から勘当されたり、嫡子であれば廃嫡されたりすることもあるし、商人の場合はどれだけ大きな商会であろうと出入り禁止を通告され、刑事事件として訴えられることとなる。
これらは別に皇王府を相手にした場合に限らないが、相手が国家元首であったとなれば当然世間の目は厳しくなる。
彼らに与えられる本当の罰とは、世間的な信用の失墜なのかもしれない。
「殿下の認識としては、皇王府は自分個人の家臣。皇国の職員は国家元首としての家臣だとおもっていただければ良いかと。まあ、担当する範囲の差ですかね」
「――――つまり君は、私の個人的な使用人ということか」
「はい。わたしからすると国家に雇われた公務員ではなく、皇王家や皇王府に雇われた会社員みたいな感覚ですね。実際には公務員みたいなものですが」
「ふむ、なるほど」
レクティファールは廊下を歩きながらしみじみと頷く。
今二人がいるのは皇王府の庁舎であるが、確かに三院の庁舎と比較して見劣りするものではない。むしろ、纏っているその風格などは勝っていると言って間違いないだろう。
「次に案内するのは星天宮が誇る大庭園“白”です。他に“紅”“蒼”“黒”がありますが、これは四公爵家が皇王家に献上した庭だからその名が付けられました。四公爵家の所領にある自然の風景を模した庭は、一般の客も立ち入れる数少ない施設の一つです。今日は殿下をご案内するということで“白”のみ公開を中止いたしました」
「観光客には悪いことをしてしまったな」
「部外者がいては護衛がやりにくいでしょう。無論、殿下がそう仰るのであればすぐにでも一般公開を再開しますが」
「――――いや、そのままで結構」
ルキーティとしては、別にどちらでも良かったのだろう。
近衛としても、摂政の護衛という晴れ舞台が多少面倒になったところで文句は出まい。
ただ、一般人には受けが良くないだろうと推察される。
自分たちが静かに庭を見て回っているときに騒がしい集団が――レクティファールやルキーティではなく、周囲の人々――現れたら、いい気分ではいられない。だったら最初から公開中止にして別の日か、別の場所を見てもらった方が良いだろう。
うんうんと自分を納得させるように何度も頷くレクティファールを横目に、ルキーティは自分たちの周りに護衛以外の存在がないことを確認した。
「――――…………。――――明日は此度の戦の論功行賞、そして反逆罪となった諸侯への皇王家としての判決があります。既に罪状はお報せしてあると思いますが……」
「ああ。今日中に判決の内容を伝える」
下手な部屋で話せば、何処に耳があるか分からない。
ならば、こうして何気ない会話の最中に重要な案件を忍ばせるという手もある。
「ならば良いのです。こちらも根回しが必要なもので」
「理解している。明日の判決に呼応して不審な動きを見せている諸侯もいるだろうからな」
「はい、所領で兵を集めている者、この皇都に配下の者を忍び込ませた者もおります。――――いずれも今上陛下によって今の地位に就けられた者であるのは、ある意味では幸いでした」
何代も続く名門貴族の反逆となれば、それは現体制の不備を物語るものだ。完璧な体制など無いが、人々に限りなく完璧であると見せ掛ける必要はある。
その点、ぽっと出の成り上がり貴族であれば処分は容易い。既に汚泥に塗れた名誉しか持たない今上皇王の責任とすることが可能だからだ。
レクティファール個人としては死者に鞭打つような真似は出来ればしたくなかったが、これも皇王の権力を行使した代償だと思う。
「――――此度の戦、最大限利用しなければ。この戦いで落命した総ての人々に報いるためにも」
「御意」
レクティファールはただ呟き。
ルキーティはただ頷く。
今の両者の間にはそれだけで十分だった。
摂政を後宮内の自室に送り届けると、彼女は部屋に戻り、本の続きを読み始める。
昔は普通の文字すら読めなかったというのに、今では古代語まで簡単に読めるようになってしまった。
全く、時間の流れとは偉大なものだと思う。
「――――それにしても、あの猊下が乙女になってるとはね……流石に笑い転げそうになったわ」
くくくっ、と低い笑い声を漏らすルキーティ。
後宮で待ち受けていたリリシアは、レクティファールの首っ玉に齧り付いたまましばらく離れようとはしなかった。
全身でレクティファールを堪能したあと、手作りの夕食を共にするということで喜色満面のまま彼を攫っていった。
一応、レクティファールには手を出さないよう言い含めておいたが、あれでは行動が子どもに過ぎて手を出す気にはならないだろうとも思った。
星天宮内にある小さな離宮に入ったあの陸軍参謀であれば、手を出しても特に問題はない。後宮の侍女たちには夕食後その離宮に案内するよう通達してあるが、あの巫女姫がそれを許すかどうかは別問題だ。
とりあえず、レクティファールがリリシア相手に本気にならなければそれはそれで構わない。
「あの白龍公の姫もだいぶ女らしくなってきたし、面白くなりそうね」
摂政と別れるときに見せた、あの子供のようでいて、その実、狂おしいまでの情愛を秘めた表情。
これまでの四龍姫も同じように、愛すべき男がしかし、実は自分を愛するという義務は負っていないのだと気付いたときには同じような表情を浮かべていたものだ。
「若いよねぇ、本当」
自分の気持ちに折り合いがつけられない。
自分の感情を自分で制御し切れない。
そういう意味では、あの摂政は実に見事に自分の感情を御している。
「まあ、自分という認識が薄ければ自然と抱く感情も淡白になるんだけど……」
淡白というよりも、あの男の本質はもっと別にあるのではないか。
たとえば――――
「――――もう全部決めてある、とか」
自分の中で決まったことなら、それに関する他のことは視界にも入らない。
その決断方法がどのようなものであったにしても、人は一度決めた物事にある種の信仰を抱くものだ。
そしてその信仰が、それからの道を決定する大きな一因となる。
「あんなのが国主になるんだから、面白い国よね、本当に」
そもそも最初の皇からして、彼女から見れば面白い以外の何ものでもなかった。
本来なら一個に纏まる筈も無かった諸種族を一個の国家に纏め上げる。
大した力もない人間種と、神さえ殺せる龍種が同じ国に、同じ街に、同じ家に暮らす国。
いいや、天敵とさえ言える人間種と龍種が、エルフとダークエルフが、魔族と天族が、嘗て殺し合った種族でさえ愛し合い子どもを成せる国だ。
これを面白いと言わずに何と言う。
「『みんな仲良く笑顔で』――――か、そりゃあんたはそれを見て楽しいでしょうが、それを維持するのは大変だよ」
初代皇王の究極の我侭。それが、血を見るより笑顔を見たいというものだ。
彼は自分の国を作り、それを成し遂げようとした。
結果として、書き割りではあるが彼の望んだ国は完成した。
そして、歴代の皇王は少しずつ、既成事実という糊で書き割りの隙間を埋めた。
様々な種族が一緒に暮らすことが当たり前の国へと、二〇〇〇年掛けて育て上げた。
「――――――――そして、今になって妙な“白”が現れた、と。さて、四界の主たちは何を考えているのかな」
嘗て初代皇王に協力し、“皇剣”を創り上げた四界の主たち。
彼らの協力がなければ、アルマダ大陸は今の平穏を得ることは出来なかっただろう。
その平穏が勢力の均衡によって作られたものだとしても、だ。
「普通に考えるなら、二〇〇〇年前のように四界の主が直接何らかの動きを見せなくてはならないような事態が近付いている。或いは、もう事態は動き始めているということだけど」
ルキーティは窓の外、空に浮かぶ灰色の一等大きな月を見上げる。
大気に含まれる魔力などの不純物の割合で季節ごと色の変わる月たちだが、今の灰色の月というのはときに不吉な物事の前触れとして見られることがある。
逆に吉兆と見ることもあるから一概に悪いものだとは思えないが――――
「さて、今のお月様はどっちかな」
ルキーティは本を閉じ、それを本棚に戻す。
その背表紙には『興國記』とあった。
古の大帝国を創り上げた、人間たちの戦いが記されている。
「人々の願いは容易に世界を動かす。ただ、あの場所に行きたいという小さな願いでもね」
彼女は背表紙を撫ぜ、薄く笑みを浮かべて独語する。
「――――あ、そうだ、初代の龍公たちにも手紙を書こうかな。面白いヤツが来たって」
彼らなら、喜んで冷やかしに来るだろう。
それこそ今の皇国軍の総てを相手にしても戦争が出来るだけの力を持った連中だ。あの二〇〇〇年前の戦いの再現が起こるなら、どうしてもその力が必要になる。
「嫌な想像ばっかり、当たるんだものなぁ」
それこそ、大陸の力ある者たちが死力を尽くして戦った大戦。
その再現は、正直今の皇国には荷が勝つ。
今の皇国は国として纏まり過ぎ、あの頃のように皇王の率いる一集団とは言えない。
あの頃と同じような事態になるなら、ひょっとしたら対処しきれないかもしれない。
「――――ま、予感なんて外れることの方が多いけどさ」
むしろ、外れて欲しい。
今、彼の夢見た皇国で生きている人々がこれ以上傷付くのは、彼女には到底認められない。
それは彼の最期の笑顔を汚すことだから。
「――――――――」
ルキーティは窓に両手をつくと、その緑の瞳で月を見上げる。
「――――せっかく月の人なんて名前なんだから、不吉な兆しも幸運の兆しに変えて欲しいな」
それが、それだけが、彼女が今レクティファールに願うただ一つの個人的な願いだった。
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