白銀の大地と、果て無き蒼穹。
英霊たちが齎した明日は、涙が零れそうなほど美しい空だった。
パラティオン要塞の皇国側城門前。特一種摂政大軍装に身を包んだレクティファールを中心に、黒い喪章を胸元に着けた第一種軍装の軍人たちが二三〇〇〇人並ぶ。レクティファールのすぐ背後にガラハ、そのさらに背後、参謀たちの並ぶ列の中にリーデの姿もあった。
寒々しい風が吹く中、彼らは外套も着用せず嘗ての戦友たちの葬列を見守る。
幌付きの軍用輸送車に積み込まれた棺には、いずれも純白の布が掛けられていた。
死して歴代皇王の下へと参じる死者たちに与えられた、礼装だ。彼らはここから『ヴァーミッテ』へと運ばれ、皇家が仕立てた特別列車で皇都へと帰還する。
何百台と連なる軍用車を前にレクティファールはただ一人、静寂の中で口を開いた。
「――――我が戦友たちよ」
拡声魔法によって葬列の隅々まで、それを見送る軍人たちの端々まで、レクティファールの声は拡がっていく。
だが、軍人たちはレクティファールへと視線を向けない。
ひたすら正面を、葬列を見詰め続ける。
「君たちが命を賭して守り抜いたものは、我らが今ここで受け継ぐ。君たちがその胸に抱き続けた誇りは、我らが今この胸に引き継ぐ。君たちが得た勝利は、この国がこの国である限り天で輝き続ける」
レクティファールは腰に佩いた“皇剣”を鞘ごと引き抜き、それを捧げ持つ。
一度目を閉じ、レクティファールは“皇剣”をゆっくりと引き抜いた。
煌めく刀身に、死者たちの守り抜いた大地と空が映った。
「この“皇剣”に映る全てが、君たちの守り抜いた世界だ。そしてこの“皇剣”に映る全ての先には、さらに多くの世界がある。人々の笑顔、人々の歓声、人々の喜び、君たちが君たちの手で守り抜いた世界だ」
レクティファールはこの戦いで、多くの軍人たちに死を求めた。
その死は、彼が背負うべき罪科、背負うべき栄光の証だ。
だからこそ、彼は一つの後悔もなく告げなくてはならない。
個人としてなら命を絶ちたいと思うような選択であっても、公人としてのレクティファールに後悔は許されない。
一欠片でも後悔してしまえば、その選択によって命を落とした者たちの死に間違いがあったということになってしまう。
「私、アルトデステニア皇国国事国政全権代行職たるレクティファール・ルイツ=ロルド・エルヴィッヒはここに宣言する」
その言葉に、彼の背後に立つ軍人たちが一斉に威儀を正す。
この宣言はレクティファールだけのものではない。彼らもまた、戦友たちに誓うのだ。
「諸君らの死には、一欠片の間違いも、僅かな徒もない。君たちの死は正しくこの皇国の礎であり、そこには貴賎も貧富も存在しない」
レクティファールは勢い良く“皇剣”を鞘に戻した。
凛とした鍔鳴りの音が、空間総てに響き渡る。
「私はここに誓う」
レクティファールは大地を踏み締めると、“皇剣”の石突を地面に突き立て“皇”という絶対の孤独の中で咆哮した。
今のこの瞬間だけは、レクティファールに並び立つ者はいない。
誰がどれだけ望んでも、この孤独だけはレクティファールが皇である限り消えることはないのだ。
「君たちが守り抜いた世界、この身と命を賭して守り抜こう。君たちが守りたかった命、この信念と力を以て守ろう。諸君らは、ただ安寧の内に歴代陛下の下へと向かわれよ。諸君らの背は、我々が守り続ける……!」
その言葉を合図に、道幅一杯、二列に並んだ軍用輸送車が一斉に発動機に火を入れる。低い駆動音が幾重にも重なり、空へと昇っていった。
レクティファールは再び“皇剣”を腰に佩くと、拡声魔法を使わず叫んだ。
如何なる魔法を使っても超えることの出来ない、魂に響く叫び。
「総員、我らが戦友たちに向け――――敬礼ッ!!」
二三〇〇〇の衣擦れの音――――袖が風を打った。
軍楽隊が葬送曲を奏で始めると、葬列はゆっくりと動き始めた。
喇叭の音に背を押されるように、少しずつ、少しずつ、一台ずつ、一台ずつ、除雪された街道を、棺を載せた軍用車が進んでいく。
レクティファールたちは微動だにせず、それを見送る。
戦友を想い涙が溢れても、鼻を啜り、嗚咽を噛み殺して。
歴代皇王の下へと向かう彼らの背を守るため、彼らの背が守ったものを守るため、彼らはここで踏み留まらなくてはならない。戦友たちの死に引き摺られるようなことがあってはならない。
彼らは誓った。戦友の背を守ると、戦友の守ったこの国を守ると、戦友の守りたかった総てを守ると。
故に、彼らは無言で英霊となった戦友たちを見送る。
――――いずれまた、歴代陛下の下で共に戦おうと。
葬送式のあと、レクティファールは細々とした行事に参加した。
要塞主催の昼食会ではその豪奢な大軍装に着られながら、葬送式のためにこの地を訪れた軍高官と意見を交わす。彼らは総じて軍備の再編と拡張をレクティファールに訴えた。彼らは本来、軍人として政に参加することは出来ないが、文官から意見を求められたときならば現場の意見として発言することは許されている。
今次の戦役に於ける戦死者の何割かは、皇国側がパラティオン要塞の堅牢さに驕傲したが故のもの。ここで今一度気を引き締め、軍として国防体制を確固たるものにすることが急務であると彼らは言う。
レクティファールはその言葉に頷き、逆に質問し、或いは反論して彼らの意見を自分の中に取り込んだ。
臣の言葉を鵜呑みにするようでは君として三流以下。それくらいのことは、“皇剣”の中の歴代皇王の記録のごく表層に記されていた。
君の役割は臣の言葉を己の内でしっかりと鍛え直し、自分の意見とすることだ。
臣の言葉のままでは他の臣には届かず、また間違うことも多々ある。
しかし一度自分の中で原型を留めない程に溶かし、再び鍛えることでその言葉は君の言葉となる。
レクティファールは不慣れながらも、それを必死にこなした。
葬送式での誓言はレクティファールのものだ。その誓いを果たすために、彼は命を懸けなくてはならない。
「皆の意見は分かった。されど軍備にのみ注力すれば内政が滞る、それも理解出来るな?」
「は、殿下の仰ること誠にその通り。しかし――――」
「良い、それも含めて理解している。諸君らの想いはしかと受け取った。後は私を信じてはくれまいか」
レクティファールの言葉は表向き問いかけの形であったが、その実、“否”という答えを許すような隙は見られない。
この場にいる軍人たちの代表としてレクティファールに軍備再編と予算拡充を訴えていた陸軍中将は、その瞳に内包された圧倒的な存在感に頷くしかなかった。
ここで抗弁すれば自分の軍での立場が危うくなるという打算もあった。
だが、それよりももっと根源的な恐怖が彼を動かしたのだ。
“強者に従え”という生物としての本能と、逆らっては死ぬという恐怖。レクティファール本人は確かに二度の実戦を経験しただけの未熟者に過ぎないが、その生来の諦めの良さと“皇剣”という不老不死の力を保有することから、己の死というものに鈍感になっているきらいがある。
“死”に対して鈍感である存在は、果たして生物として真っ当なものであるのか。
中将が抱いた恐怖とはそこにある。
“死”を恐れない生き物は、生き物ではない。
つまり、理解出来ない存在。
不可知の次元に座するモノ。
自分とは違う次元にいるモノ。
だから、恐怖する。
自分の存在する場所を超越した場所にいる“モノ”――――絶対的不可知存在として。
軍人としては有能であるが、一武人としては目立ったものの無い中将は自分が蒼褪めた顔をしていることに気付かぬまま、自らの賛同者を促してレクティファールの前から去っていく。
去り際に一礼する程度の精神的余裕は残っていたようだが、それ以上は無理のようだ。途中円卓から水の入った硝子杯を取り、一気にそれを飲み干している。
周囲の軍人たちはレクティファールを窺いながらも、自分たちの頭目の様子に困惑しているらしい。
やがて彼らはレクティファールから逃げるように人ごみの中に紛れ込んでいった。
「――――ふう……」
そそくさと立ち去る軍人たちの背を見送り、大きく息を吐くレクティファール。疲れたような表情を見せる彼は、リーデという副官がその背を見詰めていることに気付きながらも、それに気付かぬ振りを続けている。
未だ問に対する答えが出せないから。彼が彼女を無視する理由は、たったそれだけのことだ。
だが、リーデがそれを斟酌する理由はない。
「よろしいので? 下手な対応は余計な反発を生みますが」
「――――」
レクティファールはリーデの問いに肩を竦め、彼女を誘うように縁台へと出た。
近くのテーブルから持ってきた飲み物をリーデに差し出す。
「酒精は入ってない」
「――――頂きます」
リーデの性格なら、仕事中に酒精を含んだ飲み物は飲まないだろうというレクティファールの考えは正しい。リーデは冷紅茶の入った硝子杯を受け取ると、それを一口含んだ。
甘い。
しかし、この砂糖の甘さではない。そうなると――――
「氷糖ですか」
「良く知らないのだが、そうなのか」
どうやら氷とは別に氷糖が入っているらしい。
レクティファールは適当に酒精の入っていない飲み物を持ってきただけだった。
「甘いものは苦手か」
「いいえ、疲れたときは甘いお茶もお菓子も頂きます」
「そうか」
レクティファールはそう呟き、縁台の手摺に凭れかかった。
昼食会の会場となっている建物は要塞第三長城の屋上にある。寒々しい風が、暖房に温められた二人から体温を奪い始めた。
「それで、先程の質問だが……」
「はい」
「彼らは自分の分を弁えている方だ。あそこで退いたのなら、これ以上反発しようとも思わないだろう」
「――――根拠をお聞かせ願います」
レクティファールは遥か彼方の雪原に目を向けたまま、答えた。
「北方総軍が分を弁えない阿呆を、この場に差し向けるとは思えない。彼らは今回の戦で大きな傷を負ったのだ、それを前面に押し出せば、多少の予算増加は認められるし、『ウィルマグス』がこちらの手に落ちた以上、その要塞化は最早国策だ。今更彼らがどうこう言う必要はない。パラティオンも、今回の戦いではその重要性をさらに強固なものにした。修復も今更だな」
「ならば、彼らは何故殿下にあのようなことを……」
「自分たちの存在を誇示したかったのだろう。今回の戦いではガラハが大いに活躍し、その立場を確固たるものにした。彼らとしては総ての手柄をガラハに持っていかれた形になる。今後の昇進や人事にも影響があると見たんだろう」
的外れな不安だとは言い切れない。
ガラハを昇進させ、北方総軍の総司令官にという声は中央で多い。
レクティファールの摂政就任時に復職した現在の北方総軍総司令官は高齢で、この戦いの結果を以て勇退という選択肢もない訳ではない。帝国軍撃退の功績はガラハの上司である北方総軍総司令官の功績でもあるから、有終の美と言っていいだろう。
何より、次の帝国の攻勢は今回の比ではないだろう。おそらく、西方戦線に十分な抑えを置き、その上でこちらに回せる戦力を全力で投入する筈だ。
当然、皇国側も北の防備を固めなくてはならない。
その責任者として、ガラハは適材だった。
「まあ、ガラハ本人はこの要塞から離れるつもりはないようだが……」
それとなく中央の意向を伝えてみると、彼は――――
「小官は暑がりでして、これ以上南に下がることは辛いものがありますな」
と言って笑っていた。
ただ、その言葉を別の視点で解釈すると、北に上がるという選択肢は残っていることになる。
「『ウィルマグス』。そちらに一軍を編成する予定がある」
「――――では、中将はそちらに」
「帝国との最前線が北に押し上がっただけという見方は大凡間違いない。しかも、『ウィルマグス』は純粋な軍事要塞ではない、都市だ。その扱いは難しい」
万を超える民間人を抱えたまま、数十万の軍勢と戦えるのか。
仮にそれが可能だとしても、それを実行する軍司令官は間違いなく一流以上の実力を持つ人物でなくてはならないだろう。
さらには、その軍司令官を従える皇王の名代――――総督も並の人物では務まらない。
「さて、中央に戻れば乱れた国内も纏めなくてはならない。休む間もないとはまさにこのことだな」
「――――……」
辛い辛いと言いながらも、レクティファールの表情は穏やかだ。
リーデはレクティファールの背負う重責を思い、何故そんな表情が出来るのかと不思議に思った。
「――――――――何故、そのような顔を……」
「ん?」
「――――いえ……」
思わず口に出てしまった言葉は、どうやらレクティファールには良く聞き取れなかったらしい。
リーデは慌てて口を噤むと、持っていた紅茶を一気に飲み干した。
同時に風が吹き、彼女はぶるりと身体を震わせる。
それに気付いたレクティファールは、苦笑しつつ彼女を室内へと促した。
「すまない、気遣いが足りなかった」
「――――いえ、申し訳ありません」
リーデは自分の醜態に顔を伏せながら、レクティファールに招かれるように再び会場へと戻る。
暖かい室内に落ち着き、ほっと息を吐く。
「暖かいものを貰ってこよう。紅茶でいいか?」
「あ、いえ、そんなことまで……」
「いいんだ、部下の面倒をみるのは上司の給料の内だからな。――――いや待て、そういえば、私に給料なんて無いな」
無賃労働か――――レクティファールはぼやきながら給仕役の兵士の元へと向かう。
話しかけられた兵士がびくびくしているのを見て、リーデはレクティファールの立場を考えない行動に頭を抱えた。
下々まで気を遣い、立場を超えた付き合いをすることは別段止めようとは思わない。
だが、ああして余計な混乱を招くことは今後避けて貰わなければならないだろう。
「――――?」
そこまで考えて、彼女はふと気付く。
今後などあるのか。
ただ一刻、彼の下で働くことになっただけの自分に。
「――――――――ふ、わたしもまだまだね……」
この刹那が、まだ続くものだと錯覚してしまった。
あの摂政と道が交わることなど、今後ある筈も無いというのに。
リーデは再び溜息を吐くと、盆に載せた硝子杯からお茶が零れないよう、慎重にじりじりと歩くレクティファールを苦笑しながら見詰める。
あの白龍姫が、レクティファールを弟のように扱う理由が少しだけ分かった気がした。
出来るなら――――もう少し早くそれに気付けば良かった。
レクティファールの仕事は、結局その日の夜まで続いた。
中央との通信会議で午後はまるごと潰れ、さらに後宮にいるリリシアとの通信で三時間費やした。
リリシアの様子が少し暗いことが気になったが、彼女が自分で大丈夫だと言ったこともあり、レクティファールはそれを信じることに決めた。どちらにせよ、リリシアと話すのは皇都に戻ってからでも遅くない。この北への出征が終われば、レクティファールの戦場は皇都の政治の場へと移るのだから。
彼はじわじわと室内を侵食する夜の闇の中で執務を続けた。
やがて従兵が照明を灯し、彼の元を訪ねる人々も少なくなった。
要塞の修復工事の音も聞こえなくなり、執務室には静寂の帳が落ちた。
「――――ふむ、やはり帝国も一枚岩とはいかないらしい」
レクティファールは外務院から齎された報告書を片手に持ち、残った片手を顎に当てて唸る。
その報告書は、帝国国内の動きを物資の流通量、金の流れから推察したものだ。
主だった大商会が今回の軍事的大敗――東と西、両戦線の敗北――の煽りを受けて大打撃を蒙り、さらには兵力を提供した貴族たちも大いに動揺しているらしい。弱小貴族などでは取り潰しの憂き目を見た家もある。帝国中央は兎も角、辺境や属国などでは帝国からの独立運動が高まりを見せ、外務院に接触を図ってきているという。
外務院としては未だ規模の小さい独立運動を積極的に支援する考えはないようだが、帝国の国力を削ぐ手段としてそれらを利用するべきという意見が外務院総裁の意見として添えられており、その支援に必要な予算の見積も記されている。
但し、この運動の支援に投じる予算は当院に無いとも付け加えられていたが。
「――――これはあれですか、金寄越せという遠回しな要求ですか。どこもどなたもお金お金と、全く困ったもので」
さりとて、先立つものが無いと身動き一つ取れないのは何処の国の国家機関も同じ。
金が無いのに動く機関は信用出来ないから別にそれは良いのだが、それでもこの報告書に添付された予算額は人を馬鹿にしているとしか思えないものだった。
どう考えても、内務院財務庁長官が発狂する。
ただ一度だけ、先の王都奪還戦のあとに顔を合わせることがあった気難しそうな中年の男の顔が、レクティファールの脳裏に浮かんだ。
細かい計算や計画は人間種のお家芸とされているが、彼はその中でも一等細かい性格をしていた。
北へ向かうレクティファールに目通りを請い、現在歳出しうる予算を提示して政府の困窮ぶりを訴えた。まかり間違っても帝国との全面戦争になるようなことだけは避けてくれとも言われた。
「――――まあ、すでにパラティオン要塞がこんなことになっているんだから……」
きっと、既に額に青筋浮かべて算盤を弾いていることだろう。内務院の敷地内に置かれた財務庁庁舎では連日徹夜で職員が働いているとも聞いている。
中央に戻れば、まず最初に顔を合わせる閣僚は彼だろうと思う。
「あとは、海軍と空軍か」
陸軍は今回の帝国との戦で攻伐があるからまだいい。軍備の再編は国民の納得を得られるだろう。
しかし、海軍と空軍はそう簡単にいかない。
海軍はレムリア海で帝国艦隊と睨み合っただけ、空軍に至っては通常の防空体制を維持していただけに過ぎない。
双方共レクティファールの立場で考えれば十分以上に働いていると分かるのだが、国民の目にはただ座して帝国軍が引き揚げるのを待っていたと映っているだろう。
これは非常に不味い。
レクティファールとしては、今後の国防は三軍のどれが欠けても果たせないと考えている。
帝国軍が試験飛行を成功させたという飛行機械――――今は発動機の出力不足から大した武装を積むことは不可能と考えられているが、旧帝国時代にはイズモの『天照』を仮想敵に据えた高機動・高火力の飛行機械が存在していたという。
まさか僅か数年間でそんなものを作り出せるとは思えないが、用心に越したことはない。
まず空軍の主力である飛龍や飛竜に統一した装備を与え、その能力の底上げを図る必要があった。たとえば、航空管制騎が搭載している汎空間測位機構を小型化し、それを装備させるだけで空軍騎の戦闘能力は大きく向上するだろう。防御魔法を展開する魔道具も改良する必要がある。さらに航空騎兵学校の規模を拡張し、数の少ない航空騎兵の定数も増やさなくてはならない。
先の皇都奪還戦を見て、各国も航空戦力の重要性を認識した筈だ。今後の戦争では護衛のために地上に張り付くような航空戦力ではなく、それ自体が高い攻撃力を持った航空戦力が現れるだろう。
三軍では最も歴史が浅く、規模の小さい空軍。
その規模拡大と質の向上は急務だった。
「――――しかし、海軍がなぁ……」
アルマダ大陸の海岸線の一割四分強を国土として領有している皇国にとって、海軍は欠かせない存在だ。帝国との戦いでは確かに主戦力にはなり得ないが、イズモと南方諸国の存在を考えれば軍備縮小など冗談にもならない。
だが、海軍とはある種の技能者集団だ。
士官ならば決められた教育課程で一応形になるが、その士官の手足となる水兵や下士官は促成栽培出来ない。兵学校で学べることは所詮初歩の初歩、それから十年以上の経験を積んでようやく一人前と言える。縁の下の力持ち、汗を掻いて働く彼らこそが海軍を支えている。
しかし、予算削減となったとき、真っ先に切り捨てられるのは彼らだ。
現にレクティファールの下に届けられた財務庁の予算計画を見てみれば、海軍など士官と一定数の下士官さえ確保していれば問題ないと考える財務官僚の何と多いことか、レクティファールは頭を抱えた。
海軍総司令部――――“大提督”から送られた別の報告書を見てみれば、レムリア海に於ける帝国軍艦隊発見から捕捉、そして数日間の睨み合い亘る経過報告が詳細に記載されている。この報告書は皇国海軍将兵の日々の努力によって海軍そのものが形成されていることを幾度も強調しており、予算削減をすればこの熟成された海軍が壊死してしまうと言っている。
「――――皆さん、私にどうせよと仰っているのか……」
復興予算を確保するために役立たずの軍の予算を削れと言う官僚と、今回の帝国との戦いを勝利で終えることが出来たのは今現在の三軍の力の証拠であると主張する皇国三軍。
そして、前者の意見は国民の意見とも言え、後者は議員たち政治家の意見と言える。
国民は自分たちが知り得た情報からこの意見を練り上げたのだろうし、政治家たちは軍が縮小されれば今後の国防に齟齬をきたすと理解している。無論、総ての国民が軍を突き上げるような意見ではないだろうし、総ての政治家が軍を擁護しているということもあるまい。
そして、この皇国は皇王に主権がある。
どちらの意見を容れるか、その権利と責任は皇王の代理であるレクティファールにあるのだ。
「――――――――胃が……胃が……」
机に突っ伏し、うんうん唸るレクティファール。
復興は確かに重要だが、軍部再編は予算があったところですぐに実行できるものではない。優先順位は確かに復興が上だが、軍の再編が遅れればそれだけ後に響く。軍の再編が終わる前に再度の侵攻があれば、そのときこそ皇国は大打撃を被るだろう。さらには、貴族軍を形成していた民兵たちの扱いも慎重を要する。
もっと突き詰めれば、この二つだけが今の問題ではなく、他にも反乱貴族の処遇や、反旗を翻した従属国の扱いもある。
もう頭が痛いでは済まない。
出来れば優秀な相談役が欲しいところだが、そもそも閣僚の顔さえ覚えていないレクティファールにそんな存在がいる筈もなく。総て自分ひとりで片付けなくてはならない。
皇都に戻れば皇王府と三院からの補佐官がいるのだが、今はまだ無いものねだりだ。
「――――そして、リーデさんの問いもある、ときた」
実は、これが一番の難題だった。
“皇剣”によって分化された並列思考の一つは延々とこの問い掛けの答えを模索しているのだが、さっぱり答えが見えない。
国家か個人かと問われれば、当然レクティファールの立場での答えは決まっている。
しかし、決まっている答えだけが総てではない。
少し視点を変えるだけで、答えは容易に変わってしまう。
個人を守り切ることが出来れば最終的に国家を守れるという考え方もあるし、国家を守りきればそこに住む個人も守れるという考えもある。
個人を見捨てているのに国家を守ったことになるのかという疑問もあれば、国家と個人がそもそも比較対象になるのかという疑問もある。
まさに千差万別、その時々の気分でさえ答えが変わってしまう。
「今日中と言っていましたよねぇ……」
いつまでと具体的な時間まで決められてはいなかったが、おそらくそれはレクティファールが多忙であることを良く知っているリーデの気遣いだったのだろう。暇があれば聞きに行くつもりでいたに違いない。
結果としてこんな夜遅くになってしまったのだが、自分付きの参謀でなければとても若い娘を部屋に入れられるような時間ではなかった。一応、機密文書を扱うということで部屋の外での護衛に切り替えてもらった近衛軍の兵士には来客の予定を伝えてあるのだが、この時間に訪ねてくるとなれば余計な勘繰りをされるかもしれない。
「――――嫁入り前ですしねぇ」
変な誤解を避けるためにもう一度、釘を刺しておこうか。至急必要な資料を集めてもらっているということにしておけば言い分は立つだろう――――レクティファールは立ち上がり、椅子に掛けてあった上着を肩に引っ掛ける。
経費削減というよりも、ただレクティファールが貧乏性であるが故に暖房は必要最低限になっている。扉を開ければその最低限の暖気も抜けていってしまうだろう。風邪でもひいて執務に支障が出るのは申し訳ない。
さて、と呟き、レクティファールが一歩踏み出した瞬間――――
「――――殿下、アーデンです」
ノックと共に、来て欲しくなかった待ち人の声が聞こえた。
レクティファールの執務室に現れたときリーデは両手に資料を抱え、まさに仕事に来ましたといった姿だった。
扉の外にいた近衛兵もリーデの来訪に疑問を抱いた様子はなく、ただ荷物を持ちましょうかと問うだけだった。
リーデはそれを断り、扉だけ開けてくれるように頼んだ。
近衛兵がノックすると、彼女は扉の向こうにいるであろうレクティファールに入室の許可を求めた。
「殿下、アーデンです」
一拍、無音の間があった。
しかしすぐに、扉の向こうからいつもと変わらないレクティファールの声が聞こえた。
「――――入れ」
その声に、リーデは安心したようにほぅっと息を吐いた。
近衛兵は気付かなかったようだが、ひょっとしたら入室さえも拒まれるのではないかと考えていたのだ。
彼女の知る限りのレクティファールの性格ではあり得ないと思われる可能性だが、そう簡単に人の総てを理解することは出来ない。だからこそ、彼女はその可能性を棄てきれずにいたのだった。
そう考えるだけ、あの雪原で見せた醜態はリーデ自身にとっても衝撃的だった。
「大尉、どうぞ」
「ありがとう」
近衛兵が扉を開け、リーデを促した。
礼の言葉を一言添えると、近衛兵は黙礼とともに「ごゆっくり」と言って扉を閉じた。
「――?」
その言葉に少し違和感を覚えたリーデだが、レクティファールが目の前にいるという状況では、それ以上の思考は流石に無理だった。彼女は持ってきた資料を執務室の片隅に置かれた作業台の上に置くと、一つ一つ表紙を確認して分類し始める。
レクティファールはその背をしばらく見詰めていたようだが、すぐに自分の仕事に戻った。
どうやらリーデがすぐに答えを求めるつもりはないと分かり、残った仕事を片付ける方を優先したらしい。
(生真面目というか、融通が効かないというか……)
リーデはそんなレクティファールに苦笑する。
彼女とて答えは欲しい。
しかし、余計な詮索を避けるために仕事を持ってきてしまった以上、それを放っておくことが出来なかっただけだ。
そういう点では、この二人は良く似ていた。
「殿下、こちらの資料はどちらに置けばよろしいですか」
「ああ、すぐ使うからそこに置いておけばいい」
「はい」
レクティファールは別段仕事が出来るという訳ではない。
ただ、一度覚えれば忘れないというだけのことだ。
資料の見方、資料の使い方、文法、仕様と一度覚えたことはすぐに自分の技術として扱える。
リーデも色々なことを教えたが、同じことを二度聞かれた記憶はなかった。
(――――今更、こんなことに気付くなんてね)
これまで見えてこなかったレクティファールの姿が見えるようになったのは、きっと今の関係に終わりが見えたからだろう。
以前までは、父を奪った国の領袖、或いは王都奪還戦で頭角を現した“英雄”としか見えなかった。
先の会戦での戦いぶりが国内で評価されれば、やはり“英雄”なのだと敵視もした。
しかし、近くにいると別の面も見えてくる。
“英雄”を憎む自分に、敢えて父を“英雄”であると断言する無謀さ。
それは何処か子供じみた頑固さに見え、意地っ張りという印象を彼女に抱かせた。
「――――殿下」
「何だ」
「――――――――いいえ、失礼いたしました」
「――――気にするな」
こうして話しかけてみれば、びくりと肩を震わせる姿も見ることが出来る。
それは学校で教師に指名されることを嫌がる子供のようで、逆に微笑ましいとさえ思った。
本当に、今になって気付くとは思わなかった。
立場や肩書が、その人物を決定付ける要素にはなり得ないことに。
もっと早く気付いていれば、この若い摂政とももう少し良好な関係を築けたかもしれない。
こんな喧嘩別れにも似た別れ方をせずに済んだかもしれない。
(――――――――本当、今更……)
リーデは気付く、既に自分の中で答えが出ていることに。
そして、その答えに対して自分が少しの反発も感じていないことに。
(――――――――ありがとうございました…………)
もっと前に、自分の総てを吐き出していれば良かったと思う。
父の散ったあの場所で、リーデは自分という存在をレクティファールという青年に見せることが出来た。
取り繕った自分ではなく、ただの自分を。
何故今まで出来なかったことが、あの場所では出来たのかと考えれば、答えは簡単だ。
あの場所で、目の前にいるのが彼であったから――――目の前に彼以外の誰もいない、父の最期の地。だから、取り繕う必要がなかった。青年はいずれリーデの前から消え、おそらく二度と道は交わらない。一介の参謀にとって、摂政や皇王は雲上人だ。今こうして副官の真似事をしていることも、多くの偶然が重なった結果に過ぎない。摂政が直々に出征したこと、年齢の近いリーデが無任参謀であったこと、さらにはレクティファールが軍事に対して素人であることを自認し、リーデを若さや性別で軽視しない性格であったこと、リーデ自身がレクティファールという素人に対して優越感を持たなかったこと。
もう二度と、こんな偶然は起きない。
二人は嫌い合うことがない程度に相性が良く、好き合うことがない程度には相性が良くなかった。
そんな性格上の不一致も、あの雪原での遣り取りに影響を与えているだろう。
おそらく、二人の立場が少しでも違えばこの出会いは有り得なかった。
リーデはこの偶然に感謝しつつも、黙々と自分の仕事を片付ける。
明日にはこの仕事も終わり、彼女はまたこの要塞の一参謀に戻る。最後までしっかりと、手を抜かずに締め括りたかった。
最後に纏めた資料を机の上で揃え、それを綴じる。
外観を確認し、彼女は一つ嘆息した。
気のせいだろうが――――寂しいと思えた。
「殿下、こちらは終わりました」
「ああ、私もこれで最後だ」
レクティファールは最後の一枚に、承認の花押を記しているところだった。
彼はそれを書き切ると、決裁済みの書類箱にそれを放り込んだ。
「――――さて、どうするか」
レクティファールは虚空を見上げつつ呟いた。
それが問い掛けであったのか、或いは独り言であったのか、リーデには判断出来なかった。
だが、銀の視線がちらりと自分に向けられたとき、彼女の口は自然と開き、言葉を発していた。
――――酒宴の支度をいたしましょう、と。
酒宴とは言っても、参加するのはただ二人のみ。
宴というには些か静かで、晩酌というには少し趣が違う。
片やこの国の主、片や一介の無任参謀という点でも、後世の史家がこの酒宴の意味を見出すことは難しいだろう。
だがそれでも、この一夜が双方にとって人生の一転換点であったことは確かである。
「ふむ、美味いですね」
「意外そうですね、そんなにわたしが料理するというのは可笑しいですか?」
「いやいや、まさか」
酒の席ということで、レクティファールは摂政としての面を外すことにした。
こうしておけばこの席でどんなことがあってもそれは個人同士の問題となり、リーデの立場を危うくするようなことはない。
リーデもそれが分かっているのか、いつも一つに纏めていた髪を下ろし、風に遊ばせている。その表情は穏やかで、レクティファールは内心驚いていた。
そもそも、今二人がいる場所はレクティファールが普段起臥している執務室隣の寝室だ。
その寝室は軍事要塞の中でありながらまるで一等高級な旅館の一室のようで、この部屋で寝起きを始めた当初はレクティファールも随分苦労した。
落ち着いて寝ることが出来なかったのだ。
無論、今でこそ勝手知ったる要塞の一室ということで毎日快眠しているが。
「士官学校や騎士学校は全寮制で、週一回同窓たちと開く酒宴では持ち回りで料理を作ったものです。仕送りをしてくれた中将も、週一回の酒宴は人間関係形成の一助になると言って、その分の食費を上乗せしてくれたんですよ」
「ふむ、伝統のようなものですか」
「恐らく、士官学校が出来た頃から延々続いていると先輩も言っていましたし」
「そうか……楽しそうですね」
「楽しかったですよ、気の合う仲間と延々騒いで、朝になると皆青い顔で……」
リーデはレクティファールの用意した酒を少しずつ減らしながら、楽しそうに思い出話を続ける。
レクティファールはその話を面白そうに聞きながら、リーデの笑顔の裏に隠された泣き顔を見ていた。
「わたしは余り友人が多くなかったので、いつも同じ仲間とばかり飲んでいました。皆色んな場所から来て、色んな歳で、色んな過去があって、それでも仲間で……」
「――――――――」
「あの娘たちは、わたしがガリアン・アーデンの娘だからって特別視したりはしなかった。士官学校でも騎士学校でも、教官たちはわたしをガリアンの娘としか見ませんでした。二五年前の紛争の話が出る講義は、唯一わたしが嫌いだった講義です」
だが、そんな仲間たちにもリーデは本心を晒せなかった。
怖かった。
自分を、自分だけを見てくれる仲間だったから。
近しい友だったから――――憎悪に塗れた、醜い自分を見せることが出来なかった。
「近しいから、見せられない姿があるのだとあの頃知りました。ですが殿下は、明日になれば遠くに行って、もう二度とこんな近くで会うことはない。だから――――」
摂政という立場は、国を恨む気持ちを向けるには十分で、若き英雄という肩書は、“英雄”を憎む気持ちを向けるにはこれ以上無いほどの適役だった。
故に、ぶつけた。
二十余年の間に溜まった澱を、吐き出せなかった想いを、他の誰にも受け止めることが出来ない心を。
「ご迷惑をお掛けしているという自覚はあります。殿下が一言告げれば不敬の罪で裁かれるであろうことも。ですが、それを承知でお聞きしたかった。わたしたちは、一体何のために父を失ったのかを」
問う相手も、問い掛けそのものが間違っていることはとうの昔に理解している。
しかし、問わなければ進めない。
今を逃せば、目の前にいる、自分の問いに答えを出せるただ一人の人物との繋がりは消えてしまう。
摂政として、皇王として、こんな小さな問題に関わり合っている暇はなくなる。
こうして膝を突き合わせる機会など、もう二度と得られない。
「――――…………」
リーデは背筋を伸ばし、レクティファールの目を真っ直ぐに見詰めた。
銀色の瞳は月明かりさえも反射して、彼女には眩しかった。
その銀色の瞳が一度瞼に隠され――――
「――――分かりました。私なりの答えを返します」
再び開かれたとき、その瞳に迷いは無かった。
リーデはじっと自分を見詰め返すその瞳に息を呑み、膝の上に乗せた両手を強く握り締める。
一秒程度、無音の間があった。
冷たい風が二人の間を吹き抜け、互いの匂いを相手に届けた。
「――――……」
レクティファールはすっと息を吸うと、両手をテーブルの上に置き――――
「すみません、分かりません」
頭を下げた。
白の髪が、さらりとテーブルの上に落ちた。
「はっ?」
リーデの目が丸くなる。
素っ頓狂な声は、恐らく自覚していないものだったのだろう。
彼女の意識は、夜空のかなり高いところまで吹き飛ばされていた。
「考えました、必死に。でも、答えなんて出なかった」
レクティファールは頭を下げたまま、リーデの表情に気付かないまま続ける。
「私はあなたの父上が何を思ってあの雪原に散ったのか、殆ど理解出来ません。ですが、少しだけ理解出来たことがあります」
「――――――――」
リーデは呆けたように開いていた口を引結び、右手の拳を左手で握った。
手が、震えていた。
「あなたの父上は、多分この国家のために死のうと思ったんじゃありません。少なくとも私なら、死の直前に国家のためとか、軍人としての役目なんて考えない。最後の最後に浮かぶ想いなんて、自分が、自分の手で守りたい存在のことだけに決まっています」
しかし、戦場の狂気に染まり切っていたというのなら、その前提はあっさり崩れるだろう。
だが、ガラハの話を聞く限り、ガリアンは最後まで理性を失わずに戦い抜いた。戦い抜いたからこそ、あの丘で帝国軍を足止めし切ることが出来た。狂気に任せた戦いでは、あの結果はあり得ない。
「最後まで、ガリアン殿は自分が守りたい存在のために戦い抜いた。自分が一秒でも長く帝国軍を足止めすることが、自分の守りたいものを守る手段だと知っていたから」
そして、そんなガリアンの本心を知っていたからこそ、ガラハはレクティファールという一人の青年に大切な大切な、親友の忘れ形見を託した。
「あなたの父上、ガリアン・アーデン殿は、最後まであなたとあなたの母上を想っておられました。自分の心を埋め尽くす死の恐怖を抑え、狂気に堕ちそうになる自分をその一念で支えきった。だからこそ、あの二五年前の戦いは我が国の勝利で幕を閉じることが出来たし、今回の戦いで勝利することも出来た。ですが、それはあなたの父上が皇国の言う“英雄”だったからではないと思います。あなたの父上は、あなたとあなたの母上を守る“英雄”であられた。だからこそ――――」
レクティファールは、顔を上げた。
そして立ち上がり、二歩踏み出すと、目の前で震えているリーデの肩を掴む。
「――――あなたは、ここで私の目の前にいる。あなたの父上が、あなたを守りきったからこそ、私はこうしてあなたという“本物の英雄”の娘に会うことが出来た。国家の象徴ではない、人の願いが生んだ“英雄”の子と、こうして言葉を交わすことが出来たんです」
リーデは目を瞑ったまま、顔を伏せていた。身体の震えは止まらず、掴んだ肩からその震えが伝わってきた。
レクティファールは一瞬、躊躇した。
自分がどれ程馬鹿な行いをしているか自覚していたからこそ、躊躇した。
彼女の父と面識もなく、ただ一度花を手向けただけのレクティファールにその死を論じる資格はない。
同時に、こうしてリーデの心に土足で立ち入るような資格もない。
今までリーデが背負ってきた憎悪や怨恨を、こんな軽い言葉で断じる資格などある筈も無い。
しかし、資格があろうとなかろうと、どれだけ罪深いことであろうと退けないときがある。
罪の意識に負けて引き返すことを諦め、罪を負わずに生きることを諦める。
そして、目の前の女性に恨まれないという人生も今、諦めた。
「私は、あなたの父上の生き方を肯定します。遺される人々の気持ちも考えず、ただの自己満足に過ぎないと分かっていても、あなたには言わなくちゃならない」
そこで、リーデは顔を上げた。
真っ赤に染まった目が、レクティファールの心を抉り貫く。
胸が、軋んだ。
「あなたの父上、ガリアン・アーデンは、あなたとあなたの母上の“英雄”です。他の誰の“英雄”でもない。あなたたち二人だけの“英雄”です。他の誰が認めなくても、私はそう認める。あなたが、それを認めなくても、です」
「――――――――」
ガリアンの本心は、レクティファールには分からない。
だが、もし自分が同じような立場に置かれたら――――自分はきっと自分の守りたいもののために命を懸けるだろう。
立場や肩書は、そんなとき付録程度の役目しか果たせない。
ガリアンが皇国を守ったのは、それが自分の大切なものを守る手段になり得ると判断したから。
あの戦いは、目的ではなく手段だったのだとレクティファールは思う。
「皇国を恨む気持ちは至極尤もです。あなたたちの“英雄”であった父上を奪い、国家の“英雄”にしてしまったことは拭いようのない罪です。あなたが私を恨むことは、私自身が正当であると認めましょう。恨んで下さい。存分に、その涙の責任は私が請け負うべきものです。幾らでも恨まれます、憎まれます。それであなたの気が少しでも軽くなるのなら。それは私が私として背負うべき責任です」
「――――――――ほん、とうに……」
リーデは、えづきながら問う。
赤い目でレクティファールを見上げ、小さな声で。
「――――本当に……恨まれてくれますか……?」
「はい」
「重いんです。べたべたして――――どろどろして、心の中に張り付いて…………ふとした瞬間に顔を出すんです」
「はい」
「――――だったら、もう一度あの質問、してもいいですか?」
「――――はい」
リーデは涙を拭い、肩の上に置かれたレクティファールの手に自分のそれを重ねた。
逃げることは許さないと、そう言っているようだった。
「わたしとこの国、選んで下さい。あなたが死ねと命じれば、わたしは軍人として死んでみせます。生きろと命じれば、それがどれだけ犠牲を生むことだとしても生きます。――――どちらを、守りますか」
リーデの表情にこれまでのような狂気はない。
どちらを選んでも、リーデはレクティファールを責めるようなことはしないだろう。
だが、これは彼女が“英雄”という呪縛から抜け出すための第一歩だ。
レクティファールという今の“英雄”によって、“英雄”という呪いにも似た連鎖を断ち切るための。
答えなくてはならない。
「――――私は……」
答えることに、躊躇いはなかった。
「――――分かりません」
「――――本当に?」
リーデの表情に失望はない。
だが、その真意を探ろうとするように、その瞳がレクティファールを見据えていた。
その瞳を前にしても、答えは変わらなかった。
「はい」
「何故ですか? 殿下はこの国の摂政です、いずれ皇王になられるお方です。軍人を見捨てられなくては、国は守れません」
リーデは静かに、諭すように、レクティファールの目を見たまま言葉を紡ぐ。
同じように、レクティファールもその目をじっと見詰めたまま答えた。
「いずれそのようなことが起きたら、私は躊躇いなく決断を下します、誓ってもいい。しかし、今ここでそれを肯定しては、まるで言い訳ではないですか。あなたを見捨てますと言っておけば、後で後悔することはない。今の内に言い訳をしておくようなものではないでしょうか」
「それが罪にはならない立場です、あなたのいるその立場は」
「いいえ、罪にはなります。ただ、罰が与えられないだけで、罪だけが残るのです」
罰せられないからこそ許されない罪として、永遠に自分の中に残る。
その罪を軽くするために、最初から見捨てることを肯定することは、レクティファールには出来ない。
「そのときに負うべき罪は、そのときに負います。今から自分の中で、『仕方がない』とか、『役目だから』なんで言い訳は作りたくない。今回喪われた命の対価は、私が負うべきものです。言い訳は、その対価を軽くすることにしかならない」
そして、対価が軽くなるということは――――
「対価が軽くなれば、その分喪われた命の重さが軽くなります。彼らが最期の瞬間に抱いた想いも、願いも、軽くなってしまうんです。――――私は、それが耐えられない」
弱いのだろう。
立場を弁えず、子供じみた意地を押し通そうとしているだけなのだろう。
しかし、それが自分なのだ。
摂政であり、同時にレクティファールである青年の。
「あなたの質問に対する答えとしては、あまり相応しいものではないでしょう。逃げたと思ってもらっても構いません。ですが――――」
「――――……いいえ」
レクティファールの唇を、リーデの指が押さえた。
そして、微笑みを浮かべたまま、彼女はレクティファールの首に両の腕を回した。
ぐいと、引き寄せられた。
「十分な答えです、殿下」
耳元で紡がれる、微かに甘い声音。
喜びに満ちたその声に、レクティファールは身体が震えた。
「もしわたしが死んでも、殿下はそうやって逃げることなく受け止めてくださるのでしょう。――――良かった、後悔が一つ減りました」
「――――私は、多分後悔します。あなたを死なせたと」
「それも、わたしにとっては嬉しいことです。わたしの死を悲しんでくれるひとが確実にいる、それは嬉しいことですよ。それが後悔であっても、思い出してもらえるならわたしは嬉しい」
「ならば、私が死んだらあなたは悲しんでくれますか?」
ちょっとした意趣返しのつもりだった。
ここで悲しまないと答えられても、それは十分納得出来る。
悲しいと答えて貰えたら、死ぬ理由が一つ増える。
それだけだ。
「――――悲しみますよ、きっと」
「それは――――」
国の主を喪うからですか――――そう問おうとしたレクティファールの唇は、再び塞がれた。
「分かりません」
リーデはそう言って、レクティファールの肩に顎を乗せた。
ほうっと息を吐き、レクティファールを抱き直す。
「ですが、少しだけなら分かります」
リーデの表情は見えない。
だが、その全身から伝わる温かさが、総てを雄弁に物語っている。
「もしも殿下が薨去されたら、わたしはきっと、今日この夜のことを思い出して涙します。こうして殿下の温もりを感じていたことを思い出し、泣きます」
「――――――――」
レクティファールは、ただ無言でリーデの細い身体を抱き締めた。
ウィリィアとは違う、匂いと温もりを感じた。
「殿下は、今日のことなどお忘れになるのでしょう。――――いいえ、忘れるべきです」
「はい」
「わたしは所詮、一介の軍人です。こうして殿下の腕に抱かれていること自体がおかしいんです」
「はい」
「――――ですが、わたしは……」
ぐすりと、鼻をすする音が聞こえた。
「わたしの記憶している限り、こうして母以外にひとに抱かれるのは、初めてのことです。その初めてが殿下であったことが、嬉しいと思っています」
「はい」
ぎゅっと、先程よりも強くリーデの身体を抱く。
すると、リーデも同じように抱き返してくれた。
「――――もう二度と、こんな日は来ないのですか?」
「分かりません。ですが――――」
あなたが望むのなら、未来は如何様にも変わります。
偶然の交わりが、必然の交差に変わることもあります。
レクティファールの囁きがリーデの耳朶を嬲る。
リーデは背筋に走る心地よい痺れに、深く吐息を漏らした。
「――――望んでも、良いのでしょうか」
「――――――――」
レクティファールはゆっくりと腕を解き、リーデの身体を自分の正面に置いた。
自分を見上げるその瞳に、きらきらと光る星の欠片が見えた。レクティファールはその輝きを指で拭った。
「人が望むことを止められる存在などいません。少なくとも個人としての私は、あなたの望みが私に叶えられることであるなら、それを叶えたいと思います」
公であれば、レクティファールは国家の為にしかその力を使えない。
しかし、私であれば、その手の届く限り人々の願いを叶えられる。
「――――なら……望んでもよろしいでしょうか」
「何を――――」
レクティファールの問い掛けに、リーデは小さく囁いた。
小さな小さな、それでも彼女にとって大切な願いが紡がれたとき、レクティファールは目の前の女性を再び引き寄せた。
「――――――――…………」
ガラハは大きく溜息を吐き、脳裏に展開していた映像を閉じた。
その映像は、軍用魔法の一種によって彼の脳裏に投影された中継映像だった。
投影されていた映像の中心には二人の男女。
どちらも彼より遥かに若く、危ういほどに純粋な者たちだった。
しかし、ときに人を傷付けるであろう純粋さは、同時に人と人を強く結び付けることも出来る。
ガラハはその実例を見せ付けられた。
「――――ガリアン。これで約束は果たしたぞ」
亡き友は、遺される家族を何よりも案じていた。
特に幼い娘の将来に関しては、自分の命よりも遥かに重く考えていた。
故に、自分の死が避けられなくなったとき、彼は親友に総てを託した。
娘が、自分の手で幸せを手に入れる手助けをしてやって欲しい、と。
「少なくとも、今のリーデは幸せだろう。ここから先は、あの娘次第だ」
硝子杯に満たされた琥珀酒を呷り、ガラハは酒肴の置かれたテーブルに用意されたもう一つの硝子杯を見る。
自分の飲んでいるものと同じ琥珀色の酒は、友人の好んだ銘柄だった。
「――――子供は、あっと言う間に大人になる。お前が毎日毎日俺に見せていた写真の赤ん坊が、こうしてお前以外の男の腕に抱かれているのだからな」
もし生きていたら、お前はどんな顔をしているだろう。
怒っているのだろうか。
それとも喜んでいるのだろうか。
ひょっとしたら、泣いているかもしれない。
「全く、余計な仕事を残してくれたものだ」
近衛軍の兵士にそれとなく今宵の逢瀬を匂わせて人払いをし、リーデが普段起臥している士官居住区の監督官には高い酒を贈った。リーデと仲の良い士官たちには虚実織り混ぜた噂を流し、あの娘が変な気を回さずに済むよう手を回した。
「くそっ、俺がそっちに行ったら一杯奢れよ」
がつんとテーブル上の硝子杯に自分の硝子杯をぶつけ、ガラハは琥珀酒を一気に飲み干した。
そして、寝台横の小机に置いてある一枚の写真を見る。
「――――本当に、余計な仕事だ」
赤ん坊を慣れない手付きであやすガラハと、それを見守る若い夫婦。
二六年前の、あの忘れえぬ日々の記憶がそこにあった。
「――――――――お前が守ったこの国は、やっとお前以外の誰かが守る国になった。此処から先は、あの若い連中の時代だ」
時代という長い長い道を歩く自分の横を、今あの青年が駆け抜けていった。
これまで自分の手を握っていたリーデという前時代の父母が守った宝物を自分の手から拐い、明日という新たな時代へと。
「生きた、生きたさ俺も。お前が死んだあとも、お前の守りたかったものが壊れるのを見たくなくて」
だが、その願いは受け継がれた。
一つの言葉もなく、ただ無言で受け継がれた。
「――――明日からは、あの若い奴の背中を押す日々だ」
溜息に似たその吐息は酒臭く、何処か寂しげであった。
「――――レクティファール、ひとつだけ忠告させて下さい」
「何か」
お互いの吐息が頬に掛かる距離で、二人は囁き合うように言葉を交わす。
気恥ずかしさを覚えたのは最初だけで、慣れてしまえばこの距離は心地よいものだった。
「レクティファールは公人として、摂政殿下であり続けます。いずれ皇王陛下と呼ばれることになるでしょうが、それでも公人であることに変わりはありません」
「その通り」
「今はただのレクティファールとしてわたしの目の前にいてくださいますが、それ以外の場所では何処までも摂政殿下であり、皇王陛下です。いずれわたしの問いのように、理不尽で答えの無いような問題に直面することもあるでしょう。しかし――――」
リーデの眼鏡に隠されていない素のままの瞳は、どこまでも優しげにレクティファールを見詰めている。
その中に多くの悲しみを抱いていたとしても、その優しさは少しも曇らない。
「次の問いに、『分からない』という答えは無いとお考え下さい。人は一度味をしめると、次も同じように振舞おうとする。ですが、殿下の直面する問題に、一つとして同じ解答はありません。同じように見えて全く別の答えであることが当たり前なのです」
「―――――」
リーデはレクティファールの頬に手を添え、悲しげに顔を歪めた。
「そのような場面で、わたしのような者は何も出来ません。殿下は常にお一人、お一人であるが故にこの国を統べることが出来るのです」
リーデの言葉は、一臣民としての言葉ではない。
レクティファールという青年を知る者としての言葉だ。
「ですから、摂政や皇王としてではなく、レクティファールとして存在しているときぐらいは甘えることを覚えて下さい。わたしのような者では支えきれないときでも、きっと巫女姫様やメリエラ公女ならば……」
彼女は自分の立場を弁えている。
こうして目の前にレクティファールがいることそのものが、夢のようなものだと。
「私人として、上手に甘えることを覚えて下さい。公人としてのレクティファールを支えられない姫様たちは、きっと私人としてのレクティファールを支えたいと思っている」
「――――さあ、それはどうでしょうか」
レクティファールは自嘲するように笑う。
自身が彼女たちに支えられるほど何かを為したとは思えない。
ただ流されて、諦めて、諦めた果てに戦って、傷付けた。
「彼女たちの気持ちは彼女たちにしか分かりません。少なくとも私には……」
理解出来ない。
理解しようとも考えない。
人の心を理解できる程、自分を理解しているとは思えないから。
「私は彼女たちを縛っている。だからこそ、その贖罪のために足掻いているだけかもしれませんよ」
自分に自信など持ちようも無い。
諦めばかりの自分にある価値など、他人に与えられたものだけ。
その価値でさえも、実のところ“白”であるからこそなのかもしれない。
レクティファールのそんな内心を察したか、リーデは小さく頭を振った。
「レクティファールは、レクティファールが思うほど小さい存在じゃない。摂政という立場に押し潰されないだけでも、わたしは尊敬する。わたしは、押し潰されたから……」
「――――潰されてなんて……」
「いいえ、あなたの目の前で、わたしは確かに押し潰されていた。でもそのおかげで、こうして憎しみの泥濘から抜け出すことが出来たのだから、全部が全部悪いことだとは言い切れないわ。それは、きっとあなたも同じ」
リーデはレクティファールの頭を自分の胸元に抱き寄せる。
「いい? 人を理解しようなんて思ったら駄目。そう思ったら最後、きっと理解なんて出来ない。理解は結果よ、相手のことを知り、自分の相手に対する想いを知って初めてその相手を理解出来るの。わたしは、それを知らずに相手を理解したつもりになっていた」
父と、父の守りたかったものを理解したつもりになっていた。
だが、それは理解ではなかった。ただの思い込みだった。
「思い込みほど自分を貶めるものはないわ。だから、あなたもまずは相手を知ろうとして、相手に知って貰うの。そうすれば、きっといつか姫様たちを理解出来る。理解出来たら、もっと近くなれる筈だから」
「――――ならば、リーデとは近くなれないのでしょうか」
「これ以上近くなったら、きっと姫様たちは怒ると思う。何事にも順番と段取りはあるもの」
リーデは苦笑した。
自分としては、恐らくこれ以上ない程レクティファールに近付いている。
しかし、依存することは出来ない。
だから、今はまだここから先に進むことは出来ないのだ。
「いつか、あなたの隣で胸を張って笑えるように、わたしは自分の仕事をしっかりと果たしたい」
「――――リーデらしい言葉です」
「そう、だったら嬉しいわ」
心の底からそう思う。
少しではあるけれど、レクティファールが自分のことを理解してくれているという証拠だから。
摂政が『ウィルマグス』に帰還するとなれば、やはりそれなりの見送りは欠かせない。
先の出迎えは葬送式の直前であったからあのような形になったのであって、その葬送式が終われば少々規模を拡大した式典が執り行われることが当たり前と言える。
それ故に、嘗てこの要塞に訪れたときと同じように城門前に勢揃いした要塞主要人員の見送りを受け、レクティファールは北へと向かおうとしていた。
「次に会うときは、おそらく殿下が皇都に凱旋されるときでしょうか」
「恐らくな」
ガラハの質問に頷くレクティファール。
その答えを受け、ガラハはにやりとお世辞にも行儀の良いとはいえない笑みを浮かべた。
「――――ならば、そのときまでにあの娘の支度を整えねばなりませんな」
「――――何?」
ガラハの言葉の意味が分からないレクティファール。
見送る側の列の中にも、約一名同じような表情を浮かべている者がいた。
「出来るなら、もうしばらく手元に置いておきたいのですが……」
「――――中将、貴官は何を言っている」
当惑気味にレクティファールの表情が揺れる。僅かながら、声も震えていた。
ちなみに先程の約一名は、隣にいる同僚に脇をつつかれて困惑している。
「近い内に、技能継承のため、近衛軍に何名か実戦経験のある人員を転属させることになっております」
「ああ、それは知っている」
レクティファールが近衛軍に働きかけた結果だ、知らない筈が無い。
「先ごろは未熟故、近衛に引き抜くことはお許し願いたいと申し上げましたが――――」
「――――ああ、彼女のことだな」
レクティファールがガラハの背後に並ぶ幕僚たちの列をちらりと見遣る。
その視線の先にいた人物は、やはり複数の同僚に肩を叩かれて目を白黒させている。
ガラハはそんな様子を横目で確認しながら、他の誰にも聞こえないような声で言った。
「昨夜の一件であれも一回り以上成長いたしました。あれの成長を妨げていたのは、ひとえにあれ自身。殿下にはあれの被っていた殻を粉微塵に砕いて頂き、感謝の言葉もありません」
「――――――――知っていたのか」
「小官はこの要塞の責任者にございます。そして、あれは私があれの父より託された大切な預かり者、知らぬ道理はありません。無論、知っていてもそれを相手に悟らせない程度には歳をとっておりますが」
「――――――――」
黙り込んだレクティファールに、ガラハは朗らかな笑みで畳み掛けた。
胡散臭いと心底思った。
「何、あれもいい大人です。自分のことは自分で決められましょう。しかし、ただの女子として送るにはまだまだ足りぬ部分も多いかと思います。ですから、近衛軍参謀として多くの研鑽を積み、殿下のお役に立てるようにとの、まあ、親心のようなものです」
「――――――――責任を、取れと?」
「殿下にそのように聞こえましたら、それもよろしいかと」
レクティファールの顔が引き攣る。
責任を問われるようなことをした自覚はある。
だが、翌朝、しかもこのような場所でそれを求められるとは思ってもいなかった。
しかし、ガラハを軍人として、これらの遣り取りを軍事行動として見れば、この神速の進軍は納得出来る。
敵として相対したとき、ガラハという男ほど恐ろしい相手はそうそういるものではないのだとレクティファールは学習した。
「殿下としては、『ウィルマグス』に残した部下たちのことも心配でしょう。早くお戻りになり、今も苦労を重ねている部下たちを労ってやっては如何か?」
「――――――――そうだな」
部下たち、ガラハのその言葉が指す人物はそう多くあるまい。
恐らく、三名ほど。
将来的にレクティファールの傍らに立つ可能性のある人物たちのことだ。
彼女たちは独占欲の強さで大陸中に知られている種族。日常的にそれを抑えるだけの理性は持っているが、常に理性が本能に勝てるとは限らないのだ。
何よりリーデを想うガラハにとってみれば、将来の不安は出来うる限り取り除いておきたいということだろう。
「――――――――」
ガラハは暗にこう言っているのだ。
こっちはこっちで準備を進めるから、そっちはそっちで頭を下げる相手に頭を下げろ、と。
レクティファールの背中に嫌な汗が浮かんだ。
「では、殿下。今後のご活躍をお祈りしております」
「――――ああ……」
レクティファールには見たことも無いようなガラハの満面の笑顔が、地獄の悪魔の笑顔に見えた。
幕僚の中の一人が、いつの間にか真っ赤に染まった顔で同僚たちを睨んでいたのが、妙にレクティファールの印象に残った。
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