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第一章:皇国動乱編
章末話「所謂ひとつのエピローグ」



 今次戦役に於けるアルトデステニア皇国陸軍の損害報告書より、人員損失報告。

 負傷者四一九八三人――――内、負傷、精神疾患による除隊、退役、予備役編入は五五八三名。

 戦死者――――三九〇四名。








 レクティファールは嘗て『ウィルマグス』総督府と呼ばれていた、巨大な煉瓦造りの建物で一冊の報告書を読んでいた。

 ひと月前に一応の終結を見た、対帝国国境紛争の損害報告書だ。


「――――多いのか少ないのか、正直判断しかねますね……」


 勲章と賞詞の授与者選定の際、戦死者に贈られる皇国勲二等紫色大十字章と負傷者に贈られる戦傷章受賞者の数に暗澹たる気持ちになった彼だが、こうして明確な数として目の前に示されると、再び黒々とした何かが心中に湧き上がってくる。

 これだけの犠牲を払って得た勝利。しかし、これを犠牲の数に相応しい勝利とすることが出来るかどうかは、現在両国の間で行われている休戦交渉次第といったところだろう。既に交渉の前段階として両国国境は非武装地帯に指定されているが、それも所詮砂上の楼閣。

 レムリアの海に展開した両国海軍も同海域から引き上げたが、どちらにせよ、交渉の結果次第では再び剣槍を持って対峙することになるだろう。現に両艦隊は母港に戻らず、互いの姿が見えない海域に待機している。

 しかしそんな中でも、出来るならこのまま終戦まで持ち込みたいというのがレクティファールと皇国政府の本音だ。

 帝国が帝国として存続することに皇国側は問題を感じていない。問題は帝国側が皇国と敵対し続けることであり、武力衝突に至ることだ。戦争とは浪費以外の何物でもなく、何十年何百年も継続して行うには少し無駄が多すぎる。

 帝国建国以来――――いや、旧帝国崩壊以来、皇国は延々と北からの侵略者と戦い続けていた。

 あるときには少数部族の共同体、またあるときに複数国家の連合軍、さらには単一国家の国軍と段々規模を増し、現在では大陸の三分の一強を支配し、さらに複数の冊封国を内包、多くの従属国を従える大国の正規軍である。

 皇国側の領土が建国以来殆ど拡がっていないのに対し、帝国の領土は皇国が地図を作るたび拡がっている。

 五年ごと更新された地図を較べて見れば、その国土の拡がり具合は一目瞭然だ。

 膨張主義の結果と言ってしまえばそれまでだが、周辺国にしてみれば迷惑なことこの上ない。


「膨らみ過ぎれば破裂するだけだっていうのに……――――さてさて、どうしたものかな」


 限定的であるなら帝国資本の国内流入を認めることは出来る。しかし、限定的という便利で安易な言葉に帝国が納得することはないだろう。彼らの望む未来とは、自分たちの繁栄と幸福以外にない。そして彼らの幸福が他者にとっての不幸であることはこれまでの歴史が暗示していた。

 帝国が何故他国との協調を嫌うのか、レクティファールには理解し難い。

 独り勝ち以外勝利ではないという彼らの考えは、いずれ彼ら自身を滅ぼすだろう。

 それが正しいこと、国家の繁栄に最も適した策だとしても、だ。正しいことだけで世界が回るなら、今この世界に知恵ある者共は存在していない。


「まあ、彼らの相手は専門家にお任せしますか」


 考えても仕方が無いことは後回し。これも諦めの一種だろう。だが、幾ら考えてもレクティファールが今回の帝国との交渉に参加出来る筈も無く、さらには外交感覚に乏しい彼が横から口を出しても直接折衝に当たっている外交官に余計な枷を掛けるだけだ。

 一度信任したからには、彼らを信じ抜くしかない。


「――――ふう」


 レクティファールは嘆息し、報告書を机の上に置くと別の書類の決裁を始める。

 そこでレクティファールはこの都市に到着したばかりの頃を思い出す。

 帝国の『ウィルマグス』総督が使用していたという執務室に通され、執務机とその周辺を埋め尽くす書類の山脈を見たときの衝撃。そこかしこに彫金が施され、すごい人が作ったらしい家具が配置され、高価なのであろう絵画が掛けられた執務室に物申す前に、人間としての色々なものをへし折られたレクティファールは、さめざめと泣きながら書類を片付けたものだ。

 片付けても片付けても書類が減らないという地獄を味わったレクティファール。文官たちには優しくしようと少しだけ思った。


「しかし、本当に死ぬかと思った。すごいな、“皇剣”って……」


 心の底からそう思った。

 『ウィルマグス』行政の殆どが帝国から派遣された行政官で成り立っていたことも予想外だったが、自分が官僚数十人分の仕事をこなせたことが驚きだった。都市から脱出した大多数の行政官の代わりを確保するまでの八日間、レクティファールは寝る間も惜しんで仕事に明け暮れた。それこそ仮眠以上の睡眠を取れないくらいに。

 義務感からか、都市を逃げ出すことを良しとしなかった行政官たちが僅かながら残っていたことも幸運だった。但し、彼らの大半は決裁権の無い下級役人であり、都市全体の行政を司るほどの官吏は残っていなかったのだが。

 軍による占領統治は基本的な都市機能の維持以上のことは考えられていない。軍は政治に関わらないという大前提があるからだ。それでも必要最低限の都市機能は維持出来るが、いつまでもそんな統治では住民たちの不満は高まるばかり。

 レクティファールはすぐにでも本土から行政官を派遣しようとしたのだが、北方の行政官は今次の帝国侵攻で超過労働気味。他方面の行政官も常に人手不足というのが皇国の現状だ。

 いや、行政官も単純な数で言うなら充足している。

 しかし占領直後の都市を鎮撫するような難しい仕事に対応出来る官僚、行政官というとやはり不足気味だ。

 優秀な行政官は貴族たちが囲う。それは皇国の常識のようなものだった。

 皇王家が自分たちの働きを監視している中、優秀な行政官はどれだけいても多すぎるということはない。特に自分たちの領地で生まれ、金をかけて育てた官吏は中々手放そうとしない。

 皇王家の直轄領、つまり天領にも能吏は多いが、そもそも天領そのものが広大――法的には皇国国土の貴族領と自治領以外は総て天領――だ。面積当たりの人数としては他の貴族領の半分ほどになるだろう。

 そんな中でも皇王府や皇国政府、各貴族に協力を求めて何とか必要な行政官を確保したのだが、そこまで五日も掛かった。さらに行政官をこの『ウィルマグス』まで輸送するのに三日。合計八日間である。


「まあ、『ウィルマグス』を皇室直轄領に組み込んだのは正解だったな」


 貴族領ならば貴族と皇国政府が。

 自治領ならば自治政府と皇国政府が。

 そして天領ならば皇王家と皇国政府がそれぞれ予算を負担する。

 『ウィルマグス』は天領に組み込まれたから、その復興予算は皇王家が負担することになった。

 これは度重なる戦乱で予算が尽きかけている皇国政府からの切実な願いを叶えた結果だが、確かにレクティファールの意向一つで莫大な予算を投じることが出来る天領という選択肢は正解だった。

 こういうときは拙速こそが肝要。

 時間を掛ければ掛けるほど統治は難しくなっていく。特に『ウィルマグス』は住民たちが自分たちの手で勝ち取った都市、皇国軍が手助けしたのは間違いないが、少なくとも住民はそう思っているだろう。


『力があれば勝ち取れる』


 この都市の住民たちはそれを知ってしまった。

 気に入らないことがあれば、破壊して一からやり直す。変えるのではなく、壊す。

 破壊とは確かに単純で効果的な手段ではあるが、そんなことを繰り返せば治安は乱れ、物流は滞り、投資も激減し、金は回らなくなり、最終的に都市は滅ぶ。

 レクティファールはそれを避けるため、住民たちの牙を気付かれない内に丸く矯めることを決めた。

 たとえ不満を持つ者が現れても、現状に満足している者が大多数であれば良い。行動を起こして得られるものが現状よりも少ないなら人は動かないものだ。

 ここ最近では頻発していた犯罪の類も大分落ち着き、都市機能も以前の水準まで戻った。

 住民たちが帝国に奪われていた土地、資産も判明している限り元の持ち主に返還し、住民たちの生活水準は帝国統治下の頃のそれとは比べものにならないほどに向上している。

 さらに皇王家が投下した資本によって都市経済は息を吹き返し、緩やかにではあるが資本の循環も始まっている。この資本が巡り巡ってレクティファールの手元に戻るのはまだ先だろうが、その頃にはこの都市も活気を取り戻していることだろう。


「民が豊かになり、そして統治者が豊かになる、か」


 民が富まない限り、統治者が富むことはない。

 統治者が富を求めるのなら、まずは民を富ませなければならないのだ。

 ここで投資を惜しんでは結局自分が損をする。レクティファールは相続しただけで自分が稼いだ訳ではないと皇王府が許す限り資本を投下した。やり過ぎては問題があるが、それも皇府――皇王府総裁の別称――をはじめとする皇王府の専門家たちが助言してくれた。


「――――しかし、皇王府の総裁って一度も会ったことが無いんですが……」


 これだけ金をせびっておいて顔を見たことも無いというのは余りにも失礼な話だが、仕方がないといえば仕方がない。先の皇都奪還戦のあとは互いに多忙で、部下同士を行き来させて連絡を取り合った。

 通信でなら顔を見ることもできる筈だが、そこまでする理由がない。

 お互い実利を求める性格なのか、向こうも必要以上にレクティファールに関わろうとはしなかった。


「まあ、いいけれども」


 レクティファールの場合、害のない、或いは少ないことは軽視しがちだ。

 これは為政者としての彼の短所であり、同時に長所でもあった。おそらく、自覚して矯正しようとするまでは直らないだろう。

 レクティファールはうんうん唸りながら書類を捌いていたが、やがて執務室の扉がノックされると書類から顔を上げた。

 扉の前に待機していた近衛軍の武官が腰の剣に手を掛けつつ誰何する。先の戦いでレクティファールが直接剣を抜いて戦ったという事実は近衛軍に対して衝撃を与えたらしく、彼らの勤務態度は行き過ぎな程に熱心だった。


「陸軍中央総軍所属第〇八野戦医療連隊連隊長、フェリエル・ララ・スヴァローグ軍医大佐。着任の報告に罷り越した」


 そういえば、新たにこの都市に着任した医療部隊の元締めが挨拶に来ると文官の一人が言っていた。これまでは占領部隊付きの医療部隊がその任に当たっていたが、やはり人手が足りない。本来なら市民の健康維持など都市にある医療施設が担うべきなのだが、やはりというか医者のような社会的地位の高い職業は帝国国民が担うのが当たり前らしく、一部の町医者を除けば、殆どの医師は先の戦いで逃げ出してしまっている。

 その医師不足を解消するために陸軍の医務衛生本部に打診したのが、単一で野戦病院を運営出来る規模の部隊、つまり医療連隊の派遣だった。

 誰が着任したかまでは確認しなかったが、何処かで聞いた声だとレクティファールは思った。


「入れ」


 レクティファールの許可を得て入室する軍医大佐。

 軍支給の白衣を纏ったその姿を見て、レクティファールは無意識の内に立ち上がった。

 さらに相手も大きく目を見開き、レクティファールを指差している。


「ああ!」


 そんな声を上げたのは、果たしてレクティファールであったのか相手方であったのか。

 どちらにせよ、近衛軍武官が困惑したように二人の間で視線を彷徨わせたのは確かなことだった。













「――――失礼致しました。殿下の御尊顔を拝する栄誉に浴したというのに……」


 祐筆を務める文官が淹れたお茶を飲みながら、二人は思わぬ再会に笑みを浮かべていた。


「構わない……というよりも、出来るだけこの間のように接して欲しい。あのときの印象が強くてね、こうして畏まった会話というのは疲れる」


「公務ならば致し方ないかと。――――まあ、わたしと殿下の間柄は他人というには些か近い。そのような間柄の接し方であれば意思の疎通を円滑にするという名目も立ちましょう」


 ソファに座ったフェリエルの眼鏡の奥の金瞳が、悪戯を思い付いた子供のような光を宿している。

 対面に座るレクティファールはそれを苦笑しながら見つめ返し、頷いた。


「そうしてくれると助かります。ここに来て以来、公務ばかりで気が休まらない」


「ふふ……わたしとは二度目の対面だったと記憶しているが、そんなに気楽な態度でいいのか?」


「あなたか妹殿か、どちらかは私の隣に立って貰うしかありません。となれば、私たちの関係は決して遠くないものになる。今から気を張っていては保たないでしょうし、正直遠慮したい」


 レクティファールは本心を吐露した。

 どちらの関係になるかどうかは分からないが、長々と気を遣うには近すぎる間柄だ。ならば最初からある程度気楽な関係を構築するべきだとレクティファールは判断した。

 それに、レクティファールにとってフェリエルは信頼に足る人物だ。あの野戦病院での姿を見て、そう結論した。


「あなたなどと他人行儀な呼び方はやめてくれ、フェリエルで良い」


「ならば私は――――」


 フェリエルが身を乗り出し、レクティファールの口に人差し指を押し付けた。


「レクト、でいいだろう。メリエラから聞いている」


 やはり面白そうに揺れる金瞳。

 レクティファールは戸惑ったように口を開いた。


「もう会われたのか。彼女に」


「会ったとも。少し離れているとはいえ彼女とは親戚だし、何より龍族の治療は龍族の医師が担当するのが一番良い」


 龍族の身体構造は微妙に人間種や大多数の混血種とは異なる。

 日頃暮らしている分には気にならない差異だが、こと医療分野では無視出来ない。医療教育現場で各種族の特徴を学ぶ期間が設けられている程だ。


「見舞いがてら顔を出したんだが、驚いていたよ。まさかここに派遣されてくるとは思っていなかったとね」


「こちらは陸軍に要請しただけで部隊までは指定しなかったから、偶然といえば偶然でしょうね」


「確かにな。だがまあ、偶然も起きてしまえば必然だったということさ。メリエラもそう言っていたよ」


 レクティファールは優雅にお茶を飲むフェリエルの顔を見ることが出来なくなった。

 後ろ暗いというか、申し訳ないという感情が首を擡げてきたからだ。


「一度も見舞いに来ていないそうだな」


「――――――――ええ、色々ありまして」


 病院の面会時間は総て仕事で埋まっている。

 休日もなく、まさか深夜の病院に見舞いに行くなどという非常識を皇太子が実行する訳にもいかないだろう。

 見舞い状こそ何度か送っているが、返事が返ってきたことはなかった。


「いや、向こうも怒ってはいないんだ。むしろ来てもらった方が困ると言っていた」


「は、はあ……」


 何を言われているのか分からないといった風のレクティファール。

 フェリエルは困ったように曖昧な笑みを浮かべた。


「好いた男には見せられない姿ということだよ。詳しく口にするのは憚れるが、まあ、若い女の見栄とか意地とかだと思って欲しい。いい男はそういうものを笑って受け入れるものだぞ」


「受け入れるのは構いませんが、ならば私は当分見舞いに行かない方が良い、と」


「そうだな、向こうが来て欲しいと言うまで行かない方が良いだろう。多分、あとひと月は掛かるな」


「そんなに……」


 来て欲しくないと言うのだから行くつもりはないが、彼女の怪我の何割かはレクティファールの責任である。責任の果たし方に見舞いは含まれないのかもしれないが、それでも気遣い無用と言われて納得出来るほどレクティファールは今の立場に慣れていない。


「あ、従者の方も見舞いはやめておけよ」


「ウィリィアさんもですか……」


 がっくりと肩を落とすレクティファール。

 自分の守りたいと思った人が入院しているというのにこの自分の状況である、彼でなくても肩を落として当たり前だ。

 彼女たちが怪我を負ったことについて、“守れなかった”とは思わない。

 彼女たちの怪我は彼女たちの望んだ結果であり、レクティファールの願いとは全く別次元の問題だ。レクティファールも彼女たちの願いを押し退けてまで自分の願いを成就させようとは思っていないし、何よりそれは“守る”ことではない。自分が守りやすいように彼女たちを縛っただけだ。

 それが分かる程度にレクティファールは大人だが、同時に理解と納得が別物であると知っている大人でもある。


「従者の方は面会謝絶と言うべきだな、意識はあるが身体中無事な部分を探すことの方が難しい。龍人族でなければ死んでいただろうさ」


「龍人族……――――グロリエ姫と同じ種であると聞いています」


 レクティファールとしては、ウィリィアが一方的に叩かれたということがまず信じ難い。

 直接戦っている姿は見ていないが、ウィリィアが一騎当千の強者であるということは彼女の父から聞かされている。さらに近衛軍からも、その能力を高く評価する報告が上がっていた筈だ。

 本人はメリエラの従者として振舞っているが、望めば軍で栄達することも出来るだろう。力だけの猛者ではない、自身の力を生かすだけの知識も持っているのがウィリィアという女性だった。


「種族的には確かに同じだ。但し、個体としての能力はやはり大分違う。グロリエ姫は我が先祖――――初代紅龍公の父君を殺した生産性度外視、限界まで高性能を追い求めた上位龍人族の末裔。対してウィリィアは下位龍種に対抗するために数を揃えた後期簡易量産型の子孫だ。こう言っては何だが、個体性能が違い過ぎる」


 四龍公の一角を占める紅龍公の一族。龍族の中でも間違いなく最上位に位置する強種だ。

 それを殺せるだけの性能を持たせた個体の子孫ともなれば、たとえ先祖の持っていた力より劣っていても、あの結果は当たり前ということ。勝とうと思う方が烏滸がましい。


「メリエラなどは非常に悔しがっていたよ。龍種が『龍殺し』に勝つなど、彼我の能力がよほど隔絶しているときか、一生分の運を使い果たしたときだけだというのにな」


「そこまでですか、彼女たちの力は」


 フェリエルも龍族だ。当然、『龍殺し』を前にしての対処方法は教え込まれている。

 その対処方法とは――――己が出しうる全力の一撃当ててから尻尾を巻いて逃げろというもの。その一撃で倒せる相手ならそれで良し、受けても生きているような相手なら、それは勝てないということなのだ。

 だが、総ての龍族がそれを鵜呑みにしている訳ではない。

 メリエラのように龍族以外の種族が編み出した技術で対抗することも出来るし、そもそも戦わないという選択肢を選び続けることも不可能ではないのだ。

 何より、龍人族はその数が少ない。

 これは人形種総てに言えることだが、彼らは人に生み出され、産み落とされたあとも大なり小なり調整を受け続けることを前提にした種だ。本来は整備調整不要の完全兵器として設計されたのだが、特に強大な力を持つ個体ほどその傾向が顕著で、グロリエ程の力を持つ個体が極稀にしか発生しないこともそれに由来する。

 ウィリィアと同程度の性能の量産型であれば調整も不要だが、そのような個体は他種族の脅威としては些か弱い。だからこそ、人形種は他の種族に受け入れられたのだろう。他の種族とて、自分たちを脅かす擬物の命を放置する程馬鹿ではないのだから。


「グロリエ姫とて、調整を受けられない以上先祖のような力を発揮することは出来んだろう。だが、我らの世代の四龍姫の中で最も戦闘能力が高いメリエラを一蹴する程度のことは出来る。まあ、父たち四龍公を相手にしても一対一なら負けはしないだろうな」


「――――むぅ」


 一軍に匹敵する四龍公相手に負けない個体。レクティファールは唸った。

 しかし、龍種にさえ勝てる龍人族とて、軍という“群”相手であればまず勝てない。どれだけ龍人族が強大な力を持っていても、それはあくまで龍や竜に対してのみ効果を発揮するものであり、グロリエが他の種族にさえ脅威を与えているのは、彼女が持つ『神殺しの神剣』が、その使用対象を龍や竜に限定された兵装ではないからだ。


「しかし、グロリエ姫は本国に召還されたのだろう? 帝国軍も甚大な被害を被った。例え帝国軍総兵力の百分の一程度のものであったとしても、だ。――――君がどの程度まで手を広げていたのかは知らないが、“君が意図した通り”、我が皇国は帝国の侵攻の意志を完全にへし折ったということだ」


 フェリエルはレクティファールの顔を覗き込んだ。まるでその意図をその金色の瞳で読み取ろうとしているかのように。

 レクティファールはその視線に僅かにたじろぎ、それでもじっと見詰め返した。


「――――ふふ……」


 フェリエルが落ちてきた眼鏡を押し上げると、その不思議なにらめっこは自然と幕を閉じた。

 帝国側の死傷者は皇国が把握しているだけで八〇〇〇〇を越える。

 その内の何割が永久損失として計上されるのかは分からないが、少なくとも帝国軍の皇国侵攻を数年間躊躇わせることは間違いない。

 否、むしろ、今の帝国にそんな余裕はないと言って良い。

 嘗てグロリエが指揮を執っていた西方戦線が、西方諸国の猛反撃によって押し戻されたのだ。

 帝国が皇国に敗北したという一報が大陸全土を席巻したのと、全くときを同じくして始まった西方諸国の大反攻。これまで散々に打ち負かされていた西方諸国軍が、国境線を開戦当初の線にまで押し戻したという。帝国側は先ごろまでの指揮官であったグロリエ敗北の報に動揺し、屈辱的な敗走を繰り返した。

 これを皇国側の工作ではないと疑わない者は、大陸のどの国家の政治家にもいなかった。


「――――私がしたことなどそう大したことではないでしょう。単に西方の主力を担っていた帝国陸軍第三軍集団とグロリエ姫を引き付け、それを追い払っただけ。西方諸国が反撃に必要な戦力を残し、その機会を逃さなかった、彼らこそが勝利者です」


「そうだな、勝利者は彼らだ。つまらないことを言った、許してくれ」


 フェリエルはレクティファールの言葉を鵜呑みにした訳ではない。

 だが、彼女は自分がこれ以上足を踏み入れても、どちらにも不利益しか齎さないと悟ったのだ。

 レクティファールが西方諸国との細い外交経路を最大限活用していたということは、父――――紅龍公フレデリックからの情報で知っている。ただ、それが実を結んだことは多分に運の要素が強く、こんな外交は公にしてもまず褒められることではない。

 何より、レクティファールがそれを公にしてしまえば不利益の方が大きくなるだろう。

 西方諸国とはあくまでも利用し、利用される関係が望ましいのだから。

 国家間の関係には、決して踏み入れてはいけない一線というものがある。その一線は相手によって常に変動するが、それを見極められない国家は滅びるという点では一致している。

 ここで皇国が西方諸国に近付けば、彼らは皇国の持つその力を利用しようと様々な外交を仕掛けてくるだろう。

 共に帝国と戦う同志として笑顔で近付き、自分たちが帝国から受けるであろう被害の何割かを皇国に押し付けるに違いない。


(いや、今考えることではないか……)


 レクティファールは難しい顔で眉間を揉み解す。

 フェリエルが目の前にいるというのに、考えることはこれからの皇国のことばかり、申し訳ないと思う余裕もない。


「外交とは得てして難しいものだが、何、皇都には専門家がいる。君がそう難しい顔をして目の下に隈を作る必要はないと思うぞ」


「むぅ……」


 苦笑し、手の掛かる弟を見るような――――以前のウィリィアやメリエラと同じような表情でレクティファールを見るフェリエル。

 実際に妹のいる彼女なら、なるほどこのような表情が板に付いていることも納得出来る。


「――――実は、挨拶ついでに君が無理をしていないか見てきてくれとメリエラに頼まれたんだ。副官のようなことをしてくれていたパラティオンの参謀ももういないのだろう?」


 レクティファール付き参謀としてその任を全うしたリーデは、その役割を終えたということで三週間前にパラティオン要塞へと戻った。去り際に彼女が見せた戸惑いを多分に含んだ表情が気にはなっていたが、レクティファールはその労をねぎらう言葉を掛けるだけで慰留はしなかった。

 確かにリーデは得難い参謀だった。若いがその分既成概念に囚われておらず、レクティファールの詐術紛いの策ですら冷静に分析することが出来た。経験さえ積めば、そう遠くない未来に英雄である父を越えることが出来るだろうと他の参謀も認めている。

 近衛軍からも「殿下が望むのであれば陸軍からの転属も可能」と言われていたのだが、彼女の後見人であるガラハがそれに待ったをかけた。


「あの娘は殿下の傍に侍るには未熟。あのように未熟なまま殿下のお傍に寄ることとなれば、いつかその地位に呑まれましょう。あの娘の己の中の信念というものは未だ、細く、脆いもの。軍人として誰かに従う内はよろしいでしょう。ですが、誰かの上に立ち、その責任を総て負うにはこの上なく未熟であります」


 ガラハはレクティファールの前に跪いて続けた。


「もしも、もしも殿下があの娘に軍人以外の役割を望まれるというのであれば――――小官は何も申しませぬ。あの娘の意志次第、あの娘の決断を支持いたします。必要であれば、このまま小官が後見に立ち、あの娘の身を保証いたしましょう」


 『ウィルマグス』入城のその日、日が暮れて暗くなった執務室に現れたガラハはそう言ってレクティファールのリーデ引き抜きを拒んだ。

 本来であればこのような直訴は罪にさえなるのだが、レクティファールはガラハのその真摯な態度に深い意図を感じ、彼を罪に問うこともリーデを引き抜くことも実行しなかった。

 当然、ガラハの言うような『軍人以外の役目』も選択することは無かった。

 ガラハはああ言っていたが、実際にレクティファールがその選択肢を望めばリーデのような一介の士族に選択の自由はなく、彼女は本心を隠したままレクティファールの下に上がることとなっただろう。

 それは、レクティファールによるリーデへの裏切り以外の何物でも無い。


「彼女は本来の役目に戻っただけです。ここでの仕事は彼女の職分ではないでしょうから」


「それで何週間も休みなく働いていると? ――――あれか、君は医者に喧嘩を売っているのか」


 フェリエルの眼鏡がきらりと光を反射する。

 レクティファールはびくりと肩を震わせたが、何とか逃げ腰になることだけは免れた。


「いいかね、医者とは怪我や病気を治す仕事だと思っているようだがそれは間違いだ。確かにそのような側面はあるが、医者の本分とは人々が健やかに暮らせる状況を作り出すことにある。病気や怪我を治すというのはその手段であって目的ではない。さらに医者とは病気や怪我を予防することも仕事なんだ」


「はあ」


 目を瞑って滔々と語るフェリエル。答えるレクティファールは気のない返事だ。


「はあ、ではない!」


「おおうッ!?」


 くわっと目を見開くフェリエル。

 今度こそレクティファールは一歩退いた。男として負けてはいけない戦いに負けた気分だった。


「いいかね、君が倒れたらどうなる? 国民には動揺が走り、他国は必要がないのに無駄な動きを見せるだろう。その無駄な動きによって損害を被るのは無辜の民だぞ? それが元首の行いかと問われて、君は胸を張って是と答えられるのか」


「む……それは……」


「ちなみに出来ると言ったら殴る」


「聞いておいて選択肢ないじゃないですか!」


 レクティファールの前で拳を握り締めるフェリエル。

 医者とは体力仕事である、彼女をそこらの女性と一緒にしたら間違いなく痛い目を見るだろう。


「それ以前に、医者なのに患者殴るのはいいんですか!?」


「何を言う、まだ殴ってないから患者じゃない」


「何という暴論……!」


「仮に患者になったとしても、何、痴情の縺れと言えば誰もが納得するだろう。元々龍族の娘が皇王に嫁ぐのは、万が一のときに夫をぶん殴ってでも止めるためだからな」


「知りたく無かった……そんな事実……」


 得意げに笑うフェリエルとテーブルに突っ伏して泣くレクティファール。

 確かに彼女たちに勝てるなんて思ったことはない。

 そもそも、その意見を無視することの危険性は嫌というほど理解しているのだ。


「まあ、ファリエルの方は多少手加減してくれるだろうな。あの子はああ見えて身内には優しいから」


「――――――――」


 ああ見えてって、何気に酷いこと言うなこの姉。直球ど真ん中じゃなかろうか――――レクティファールはそう思ったが、賢明なことに口に出したりはしなかった。

 最近、怒られないことに関してはその他のどんな技能よりも上達が早いレクティファール。人とは、自分に必要と思われる諸々の技能の習得には並々ならぬ才能を発揮するらしい。


「そういえば、ファリエル――――妹君は?」


「ん? ああ、うちの部隊に居るが、君に会いたくないと言ってついてこなかった」


「――――――――」


 どうやら嫌われているようだ。

 以前に会ったときも親の決めた結婚に納得していない様子だったから、まあ、仕方がないと言えば仕方がない。

 むしろ今回の結婚を全く気にしていないフェリエルの方がおかしいのだろう。幾ら以前から決まっていた習慣とはいえ、少しくらい悩んでもいいものだが、フェリエルのレクティファールに対する態度は終始一貫して変わらない。

 レクティファールには正直理解し難い。

 悩むレクティファールの内心に気付く由もないフェリエルは、お茶を一口飲むとレクティファールの前に一枚の小さな紙片を差し出した。


「我が連隊の第二大隊大隊長兼第二救命班班長、軍医少佐ファリエル・ララ・スヴァローグ。宿舎はここに書いてある。君から会いに行くことは止めないから、これ以上の自己紹介は本人に頼んでくれ」


「――――行ったら罵声に加えてメスでも飛んできそうですね……」


 紙片を取り上げ、眉根を寄せるレクティファール。

 フェリエルはにやりと笑った。


「何だ、よく知ってるな。妹のメス投げの腕前は飛ぶ鳥落とすほどだぞ。まあ、昇進が遅れる程度には罵声も飛ばすが」


「――――…………」


 対空メスということですか――――げんなりと肩を落とすレクティファール。

 皇国の軍医たちは皆この技術を会得しているのだろうかと本気で気になった。


「気にするな。さっきも言ったが、一度身内と認めれば妹ほど情の深い女もいない。龍族の女ということを差し引いても、良い妻、良い母になると思うぞ」


「ちなみにあなたは……?」


 思わず問うレクティファール。


「それなりだ。だがまあ……――――」


 フェリエルは立ち上がると、自分を訝しげに見上げるレクティファールへと歩み寄る。

 懐に手を入れた彼女の動きは自然で、出入口の左右に控える近衛兵もその動きをただ見送ることしか出来なかった。何より、まさか紅龍公の姫君が摂政を害するなどとは夢にも思うまい。

 されど、その手に切物が煌めくことは、夢でも幻でも無かった。


「――――わたしは身内ほど手加減出来ない性質たちでね。父にも手加減を覚えろと言われているんだが、中々難しい。だから、言わせて貰うぞ……!」


 ウィリィアが普段持っている細剣とは違う、片刃の短刀。

 スヴァローグ公爵家の紋章が刻まれたそれをレクティファールの眼前に突き付け、フェリエルは弾劾する。


「甘ったれるな小僧。貴様の命は貴様だけのモノではない。好き勝手に仕事をするのは構わんが、身も心も傷付いた婚約者に無用の心配を掛けることが摂政や大の男がすることか!」


「――――――――」


 近衛兵が剣を抜こうとすると、レクティファールはそれを手で制した。

 これは公爵家令嬢による摂政への傷害ではなく、ただの喧嘩だ。軍人が関わるべきものではない。


「――――そこまで、彼女は気に病んでいるのか」


 レクティファールの口調はこれまでの気安いそれではない。

 纏う雰囲気さえも、嘗てファルベル平原で帝国の虎姫と相対したときと較べて少しの遜色もなかった。


「病むとも、自分が不甲斐ないばかりに君に直接敵の手が届いた。守るべき者を守れない、それは我ら龍族の女にとっては自分の身が汚されるよりも辛いことだぞ」


「――――――――」


 フェリエルの怒りの対象は、そんな友人の心の中をこの男が全く理解していないことなのだろう。

 見舞いに行かなかったことは別に責めるべきことではない。

 ただ一つ、自分を守れなかったことを“責めないこと”が問題だったのだ。


「『騎従の契約』を結んだ以上、貴様はあれの主人だ。騎龍の不手際を責めず、ただ放置するは主人の行いに非ず、外道の行い」


「あれだけ傷付いた彼女を責めろと? 自分の身が危険に晒されたから」


 レクティファールは地の底から響くような低い声で問う。

 すでにこの男はただの弱者に非ず、帝国の誇る姫騎士と斬り結んだ皇だ。

 近衛兵がレクティファールの発する怒気にあてられ、蒼褪めた顔で二人を見る。


「そうだ」


 フェリエルの言葉を聞き取った瞬間、レクティファールの頭の中で、何かが切れた。


「――――ッ!」


 刹那の間さえ無かった。

 あの帝国第十三姫の一撃に較べれば鈍いことこの上ないが、レクティファールはその衣裳の裾を翻したかと思うと、一瞬で“皇剣”を引き抜き、フェリエルの首筋にそれを突き付けていた。白刃に、フェリエルの端正な顔が映り込んだ。

 訓練以外で敵でない者に刃を突き付けたのは、これが初めてだった。

 その証拠に、“皇剣”を突き付けられたフェリエルよりも、突き付けた本人の方が内心動揺していた。

 自分の行いが信じられないかと言うように、その顔から血の気が引いた。


「――――良いんだ。君の怒りは正しい。ここでわたしを斬り捨てても、父上は君を責めない」


 フェリエルはこれまでの怒りを掻き消し、レクティファールを優しげに見詰める。

 その表情は慈母のそれで、レクティファールは尚も混乱した。


「な、ぜ……」


「何故? 君の怒りは、君の大切な何かをわたしが傷付けたからだろう。他人の大切なものを傷付けたら、怒られるのが当たり前だ」


「――――ならば、君の怒りも正当だろう」


 レクティファールは大きく息を吐くと、“皇剣”をフェリエルの首筋から引く。

 そのまま一振りすると、“皇剣”は光の粒となって霧散した。


「君の怒りは大切な友人を蔑ろにされたから。それだって十分正しい、少なくとも私はそう認識する」


「――――――――」


 フェリエルはぽかんとレクティファールを見上げる。

 大した差ではないが、レクティファールの方が背が高かった。


「ええと、つまりどういうことだろうか」


「今回はお互い様ということでしょう。だけど、まあ……――――」


 痴情の縺れで刃傷沙汰は気分が良くないし、何より外聞が悪い。もうこれっきりにしよう――――レクティファールはそう言って短刀を持つフェリエルの右手を押さえる。

 フェリエルの手は医者らしく少しかさついたものだったが、レクティファールはそれを握り締めて笑った。


「君は医者でしょう。刃物を人に向けるときは、その人を救いたいからじゃないのですか」


「――――む……!」


 フェリエルがばっとレクティファールから離れる。

 わたわたと短刀を懐に仕舞い、乱れた白衣を整える。ついでに呼吸も整えていたようだが、レクティファールは何も言わなかった。人は学習するのだ。

 フェリエルはこほんと小さく咳払いすると、少し俯いたまま、上目遣いでレクティファールを睨んだ。


「き、君は、意外とあれだな。節操がないな……」


「――――非道いな、その評価は」


 本当にそう思った。

 節操なしと言われるようなことはしていないと胸を張って言える。


「いや、節操なしなのは別に構わないんだが……」


「じゃあ、さっきの評価はなんですか」


 どうにもフェリエルとの会話がちぐはぐだ。

 レクティファールは、これが世に言う価値観の相違かと思った。

 フェリエルはしばし唸ったあと、一つ頷いた。


「――――うん、よく分からん。なので出直す」


「は?」


 フェリエルはそのまま逃げるように執務室を飛び出す。

 レクティファールは呆けたようにその後ろ姿を見送り、やがて机の上に一綴の報告書があることに気付いた。

 内容は今後の野戦病院の運営計画。どうやらフェリエルが去り際に置いていったものらしい。

 あの一瞬でどうやって、と思ったが、やはりその疑問はレクティファールの心の中だけで適切に処理された。













「あ――……」


 そう呻きながらフェリエルが部屋に入ってきたとき、その部屋の主はリハビリを兼ねた簡単な裁縫をしている最中だった。

 ノックもなく部屋に入ってきたフェリエルに対して嫌味の一つも言ってやろうと口を開いた主だが、どうやら本当フェリエルが悩んでいるらしいと気付き、嫌味を言うのを止めた。


「どうしたの、フェリエル。難しい顔をして」


「ああ、メリア……ちょっと殿下に目通りしたんだが……」


「レクトに?」


 はて、レクティファールとはフェリエルがそんなにも悩むような種類の男だっただろうか。


「は!? まさかレクトが……――――!」


 摂政の立場を利用して変なことをしたのではないだろうか。

 意識的にそんなことをするような男ではないが、無意識ならあり得る。


「ど、どうしたのフェリエル? 辛いことなら訊かないけど、わたしに出来ることなら……」


「いや、いやいや、そんなことしてもらわなくてもいい」


 フェリエルは寝台横の椅子に腰を下ろすと、メリエラの頬に掛かっていた銀髪を払ってやった。

 そしてメリエラの姿をざっと確認する。医者としては患者の観察は欠かせない。


「――――――――」


 フェリエルはメリエラに気付かれないよう、内心で嘆息した。

 こう言ってはなんだが、レクティファールを遠ざけたのは正しかった。

 それ程、今のメリエラの姿は嘗ての彼女からかけ離れている。


「殿下も心配していたよ。早く治して安心させてやれ」


「そう……」


 レクティファールの名前を聞いた瞬間、フェリエルはメリエラの表情から生気が失せたのを見た。

 患者用の飾り気のない院内服。

 病的な白さを見せるかさついた肌。

 水気を失い、バラバラと散る髪。

 嘗ての瑞々しさを失い、割れた唇。

 隠しきれない汗の匂いと、塗り薬の匂い。

 そして――――包帯に包まれた右腕。

 美姫と名高いメリエラの姿は、そこには無かった。

 大きく息を吐き、メリエラは口を開いた。


「――――やっぱり怒ってないんでしょうね、あの人のことだから」


「ああ、怒ってない。心配しているだけだった」


 そう言ってフェリエルは寝台横の小机に置かれた数通の封書を見遣る。

 どれもレクティファールからメリエラに送られた見舞いの手紙だ。

 多忙で見舞いに行けないことを詫びる内容と、そしてメリエラの身体と心を心配する内容で占められている。

 何処にもメリエラを責めるような言葉は、無かった。


「一度文句を言ったんだが、駄目だな。あれは君の望むような叱責をする類の男ではない」


「そう、フェリエルが言うならそうなんでしょうね……」


 フェリエルは医者という職業上、メリエラよりも人を観察することが上手い。

 嘘を嘘として見抜くことも医者に必要な技術だ。


「正直、メリアもあれに甘え過ぎだと思うぞ。あれはどうやったところでお前を責めたり出来ない。――――自分は大いに責めているようだったがな」


「――ッ」


 フェリエルの最後の一言に肩を震わせるメリエラ。

 もう一ヶ月も顔を合わせていないが、その表情が容易に想像出来た。


「あれはその内心か身体の何処かが壊れるぞ。“皇剣”があるから致命的なことにはならないだろうが、医者としては“皇剣”なんて兵器に頼るのは御免だ。出来るなら人の手で何とかしたい」


「――――方法があるの?」


 メリエラの声には懇願の響きが多い。

 フェリエルとしては今回の事態をメリエラとレクティファール双方の未熟が招いたことだと思っていたが、それは正しかったのかも知れない。

 二人は、互いを想うには幼すぎたのだ。

 どちらかがもう少し大人になればいいだけなのに、どちらもまるで初恋をした子供のように相手を気遣うばかり。

 メリエラがレクティファールに見せた我侭な態度など、子供が相手の愛情を推し量るためにする悪戯と大差ない。

 フェリエルとて経験が豊富ということもないが、少なくともメリエラの十倍以上は生きている。


「簡単で効果的な解決方法はある。ただし、これはメリエラの許可を得たい」


「どんなこと!?」


 メリエラがフェリエルに詰め寄る。

 その気迫に気圧されながらも、フェリエルは年上の威厳を保ったまま告げた。


「簡単なことさ。レクティファールをさっさと大人の男にする」


「――――は?」


「ついでにレクトが我侭を言って、甘えられる相手を作る。メリエラにとってのウィリィアのように、わたしにとってのファリエルのように、自分の弱さを見せられる相手というのは人にとって必要不可欠なんだ」


 その手段として、レクティファールに適当な愛人を作る。

 後腐れなく、それこそレクティファールの立場を承知した上で影に徹してくれる女を探し出し、それをあてがうことで心の均衡を保とうということだ。


「別に男女の仲になる必要はないが、女であることは外せない。まあ、レクトが男色家であれば別だが……」


「レクトは普通よ!」


 吼えるメリエラ。

 フェリエルは肩を竦めた。


「普通ならば、まあ女をあてがうべきだな。心当たりはないのか?」


「あ、あなた……!」


 フェリエルはメリエラにこう言っているのだ。「お前の婚約者にあてがう愛人に心当たりはないか」と。

 流石のメリエラも米神に青筋を浮かべた。

 フェリエルは彼女にとって姉のようなものだが、こればかりは許せることではないらしい。

 こふぅこふぅと荒い息を吐くメリエラの肩を叩き、フェリエルは諭すように言う。


「簡単で確実な方法といっただろう。時間があれば幾らでも他に方法があるんだが、時間が無いなら手っ取り早く欲望を充たして心も充たす方法が適している。まあ、レクトみたいな立場の人間にしか通用しない手ではあるがな」


 流石に治療の一環で愛人をあてがうような真似は出来ない。

 これはあくまでも君主の心の平穏を保つ臣下としての策であって、医者としての治療法とはまた違う。


「男は幾つになっても甘える相手が必要なんだ。そして女には幾つになっても甘えてくれる相手が必要だ。まあ、逆も確かにあるが」


「だ、からって……レクトに……!」


「わたしたちが相手をする訳にはいかないだろう。今上陛下の喪が明けるまで戴冠の儀も婚礼の儀も出来ん。一応わたしたちは婚礼の儀を済ませるまで生娘でいなくてはならないのだから……」


 それは四界神殿の教義だとか、道徳的な問題という訳ではない。

 もっと単純に、万が一子どもが出来たときにその養子縁組で揉めるのを避けるためだ。

 婚礼の儀を済ませていない以上、その子供は法的には私生児ということになる。

 だが、血統上は間違いなく皇王と四龍姫の子。

 これは大いに揉める。

 皇子や皇女を養子に出して国内の結束を高める皇国では、間違いなく無用の争いを招くだろう。

 それを避けるため、皇王と皇妃候補の間に子供がいては困るのだ。

 これが皇太子であっても、正式に婚姻していない限りは同じこと。

 さらに、姫君が生娘であるということには他の男と肉体関係を持たないという意味もある。皇妃と皇王以外の別の男との間に子供がいれば、これもまた火種になってしまう。

 皇王の座は世襲ではないが、その系譜は間違いなく皇国の屋台骨と言えるのだから。


「――――分かるだろうメリア。将来的にわたしたちにレクティファールを支えることは出来るかも知れないが、今彼を受け止め、受け入れることはわたしたちには出来ない。不甲斐ないことではあるがな」


「――――――――」


 メリエラも分かっているのだろう。

 だから悔しそうに唇を噛み、まだ満足に動かせない右手を左手で握りしめているのだ。

 フェリエルは嘆息し、メリエラの右手を触診しながら静かに言う。


「――――すぐにやるべき策でも無い。一応、心の準備だけはしておいてくれ。必要ならわたしから父や他の三公に提案させてもらうから」


「――――分かったわ……」


 四龍公ならば適当な女を探し出すだろう。

 いや、離宮に入ったアリアを呼び寄せるかもしれない。

 アリアなら、フェリエルの言った条件を総て満たしている筈だ。


「く……」


 悔しかった。

 自分とウィリィアが傷付いたとき、レクティファールも同じように悔しかったのだと今なら痛いほどに理解出来る。自惚れではない、レクティファールを想うから、想われていることが理解できるのだ。

 大切なものがこの手から零れ落ちていくような感覚は、叶うなら経験したくない。


「フェリエル……」


「何だ」


 自分の服を脱がせようと脇腹の紐を外していくフェリエルに、メリエラは漏らした。


「――――レクトとは、お互い普通の立場で出会いたかったな……」


 摂政として、白龍の姫としてではなく。

 一市民として、ただの男と女として出会いたかった。

 そうすれば、こんなにも苦しまずに済んだのに。


「無理だな。普通の立場では君たちは出会えなかった」


 しかし、フェリエルの言葉は冷たい。


「君たちは君たちだから出会えたんだ。今以上の“もしも”なんて存在しない」


「フェリエル……」


「医者をやっているとな、常にそう思う。今以上の“もしも”なんて考えている間は医者として半人前、今を“最高”にすることが出来て初めて一人前なんだって」


 戦場で医者をしている以上、助けられない命はそれこそ星の数ほど。

 もしかしたら彼らを救う未来があったのではないかと考えるのではなく、これから自分の元に来る患者を救う方法を考えるべきなのだ。過去は後悔するためにあるのではない、未来に進むためにあるのだ。

 少なくとも、フェリエルはそう思って日々を生きている。


「後悔出来るのは幸運なんだ、人はその幸運に溺れてはいつか後悔すら出来なくなる。大切な人も、二度と届かない場所に行ってしまう」


 フェリエルの経験がそう言わせているのか、メリエラには分からない。

 だが、姉のような人の寂しそうな表情を見て、彼女は心に小さな棘が刺さったような気がした。

 自分もいつか、レクティファールを失って同じ表情をするのではないかと――――


「あ、結構胸大きくなったな」


「フェリエルぅううううううううううううううッ!!」


 叫びながら、心の何処かでそう思った。













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