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第一章:皇国動乱編
第二六話「龍虎戦役 後編」



 夕刻のファルベル平原に、剣戟の音、砲弾が炸裂する爆音、魔法が放たれる風切り音、そして兵士たちの喊声が響く。

 会戦の開始から既に三時間が経過し、双方共に無視出来ない損害を負っていた。


「第四三七魔導中隊整列! 使用魔法『破砕弾ブレイクブレット』! 一点射三連! 構え!」


「使用魔法『破砕弾ブレイクブレット』! 一点射三連! 了解!」


 中隊長の号令一下、レクティファールのいる本陣前の砲撃陣地に魔導師たちが整列。半数が膝立ち、残りが立ったまま前方に右手を翳す。左手で右手の手首を掴み、腕のぶれを防ぐ皇国軍魔法部隊の標準型射撃姿勢だ。

 ずらりと並んだその右手の先に魔法陣が展開し、光弾が収束した。

 バシバシと魔力が空気を叩く音が聞こえる。


「目標前方敵歩兵隊! 狙えぃ!」


「目標前方敵歩兵! 了解!」


 魔導師たちが狙う先、帝国軍の歩兵部隊はこちらの意図を知ってか知らずか愚直なまでの直進をやめようとはしない。摂政という最上級の餌を前にして、当然と言えば当然の行動だった。

 これまでの要塞戦とは違い、この会戦ではこれ以上ない程明確に目標が設定されている。設定したのが味方の指揮官ではなく敵方の指揮官であることが問題ではあるが、兵士たちにとってみればそんなことは関係ない。

 富と栄誉が目の前に転がっている。取るべき行動は一つだった。


「帝国万歳」


「獣共に死を」


「グロリエ殿下に栄光あれ」


 口々にそう叫び、軍靴で地面を揺らし、要塞砲や砲塁からの砲撃を散々食らいながら、真っ直ぐにレクティファールの首を狙ってくる。

 帝国の民は皇国の民を野獣と呼ぶ。だが、この光景を見ても同じことが言えるのだろうか。

 そもそも互いの命を求め合い、奪い合う姿に差などあるのか。

 殺すことに正義や不義があるのか。


「ッ!!」


 震える声を極限の意思で捩じ伏せ、中隊長は目の中に入り込んだ汗に痛みを覚えながら、敵を殺す命令を下す。

 殺すか殺されるか、彼は選んだのだ。

 言うまでもなく、殺す方を。


「――――テェッ!!」


 一個中隊一二〇名の魔導師が一斉に放つ橙色の光弾。

 それらは術者の意志に従い敵集団に突入、一定範囲の物体を例外なく、悉く吹き飛ばした。

 連続する爆発。その度に巻き上がる砂利と礫、そして人間とその破片。

 至極真っ当な破壊生成装置と魔導師を評する者がいる。

 なるほど、確かにその通りだと思う。

 身一つで幾つもの兵器を持っていることと同格の破壊活動をこなせる魔導師は、ある種の戦術兵器だ。

 国家が総力を挙げて魔導師の教育を行うのは、兵器開発と同列にそれを考えている証左。自国の安全保障上欠かすことの出来ない要素だからだろう。魔導師の数を確保出来ない帝国が、魔法に拠らない兵器開発に多大な労力と予算を注ぎ込むのも妥当な判断だ。


「続いて使用魔法『集束拡散弾クラスターショット』! 曲射三連! 構え!」


「『集束拡散弾クラスターショット』! 曲射三連! 了解!」


 復唱と共に、中隊魔導師が一斉に意識内の術式を入れ替える。

 彼らは一個の兵器として、実に命令に忠実だった。

 自分たちの放つ魔法が容易に他人の人生を狂わせることを知り、しかし。それを命令によって糊塗出来る彼らは幸せなのかもしれない。少なくとも、覚えた罪悪感の内何割かは他人の責任とすることが出来る。言うまでもなく、彼らの仰ぐ主君の責任に、だ。


「――ッテェッ!!」


 中隊長の命によって術者の軛から解き放たれた光弾は、血のような鮮やかな赤。

 その赤い光は帝国軍の兵士たちの頭上に侵入すると、一瞬停滞し、兵士たちが怪訝な表情でそれを見上げた瞬間、幾つもの子弾をばらまいた。

 先程よりも広範囲で連続する爆発。

 子弾一個あたりの破壊力は決して高くない。

 しかし、兵士たちの四肢を引きちぎり、戦闘行為を不可能にさせることは出来る。当たり所が悪ければ死ぬこともあるだろう。

 レクティファール目指して突っ込んできた帝国軍兵士がばたばたと倒れ、すぐに後続の同僚に踏み潰される。助けを求める声は富と栄誉を求める喊声に掻き消され、それでも自分の役目を全うしようとした衛生兵はそんな彼らの波に飲まれて職務を果たせない。

 皇立軍事魔導研究所で開発された効率の良い軍事魔法は、確実に研究者たちの企図した通りの戦果を皇国に齎したといえるだろう。

 だがそれでも、皇国側だけが敵方の死者を量産している訳ではない。











 帝国軍第三軍集団所属の第〇八六重砲兵連隊は、パラティオン要塞前の皇国軍陣地のうち前線に近い一部を射程内に治めると、機械のように無感動な砲撃を開始した。

 皇国側の展開した防御障壁を突破した何割かの砲弾が皇国軍陣地に爆炎の花を咲かせると、それを見ていた歩兵と騎兵がその陣地に向けて一斉に突撃する。

 一個旅団一二〇〇名が守る皇国軍陣地に対し、このとき攻め掛かったのは約一〇倍の一一〇〇〇。砲兵の援護を受けながら皇国軍陣地に肉薄した工兵が柵や有刺鉄線、感知式地雷を取り払うと、その攻撃はさらに激しさを増した。

 さらには重々しい足音と共に自動人形が進撃を開始すると陣地内の統制はいよいよ乱れ、命令の届く範囲が分隊単位以下の乱戦となった。

 身体能力に優れる種族の兵士に対しては部隊単位で当たり、対して人間種と能力差が無い兵士に対しては近接距離の個人戦闘を仕掛ける帝国軍兵士。

 兵士一人一人の装備では皇国側が上回っているが、それでも一〇倍の敵を相手にして戦える程性能が隔絶している訳ではない。腕に覚えのある猛者はそれこそ一〇倍の相手を前に一歩も退かないが、混血種のように寿命以外人間種と変わらない兵士たちは次々と討たれた。

 やがて旅団司令部だった堡塁にも帝国兵は侵入し、凄惨な屋内戦が展開される。

 圧倒的な物量に押し流される司令部要員。

 司令室という施設の最奥まで追い詰められた状態でもなお抵抗を続けるのは、人間種以外を人と認めていない帝国軍に投降することが死よりも辛いことだと知っているからだろう。幾らレクティファールとグロリエの間で捕虜に関する取り決めが為されていたとしても、最前線の兵士がそれを守ることは難しい。

 彼らは思う。知られなければ良い、殺してしまえば良い、相手は人間ではないのだから、と。

 自分たちを殺しに来る彼らを殺して何が悪い、と。

 管制官として旅団司令部に配置されていた数名の女性士官が獣と化した帝国兵に組み敷かれ、それを防ごうとした別の皇国兵が殴り倒される。負傷し、それでも帝国兵と近接戦を演じていた獣人族の旅団長は、自分の部下である女性兵の悲鳴を聞いた瞬間決断した。

 彼はすぐさま傍にいた通信兵を呼び寄せると、部下たちに陣地を放棄するように下令し、さらに上級司令部に送る通信文を伝える。


「『第九八陣地ハ失陥ノ危機ノアリ。カクナル上ハ、敵兵諸共当陣地ヲ砲撃サレタシ。我ラ命ヲ賭シテ皇国ノ礎トナラントス』」


 要塞砲の砲弾には分厚い混凝土さえも貫く魔導徹甲榴弾がある。

 旅団長はレクティファールのいる本営に対し、これまでは味方の損害を恐れて使用できなかったそれを自らのいるこの場所に撃ち込めと送ったのだ。

 彼は窺うように未だ若い通信兵を見た。

 通信兵は青白い顔で、小さく頷いた。


「――――『皇国万歳。摂政殿下ニ栄光アレ。――――以上、通信終ワリ』」


 それだけ告げ、旅団長は自分に挑み掛かって来た帝国兵に拳を叩き込んだ。同時に施設の別の場所で戦っていた皇国兵が司令部要員の救出のため司令室に突入、帝国兵を殺戮し始める。

 やがて司令室に雪崩込んできた帝国兵を一掃すると、旅団長は部下たちの中から撤退指揮官を指名。さらに撤退の時間を稼ぐ為の決死隊を編成、自身はその指揮官となった。

 幕僚たちの反対を押し切り、ここが皇国軍人としての死に場所だと言い切った彼に賛同する十数名が、帝国の目を釘付けにする囮として反撃に打って出た。彼らは施設内に入り込んだ帝国兵と熾烈な戦いを演じ、地下の非常用連絡路から脱出する部下たちの盾となる。

 獅子奮迅の働きを見せた彼らだが、帝国の物量の前に一人、また一人と討ち減らされていく。やがて一発の砲弾が彼らの頭上を突き抜けて着弾したとき、嘗て兵士たちと共に戦場を駆け巡った一人の獣人の人生は、この混凝土の密室で終わることとなった。











 第九八陣地のような事実上の自爆要請は珍しくない。

 同じように砲撃を要請してきた陣地は片手の指では足りなくなり、備蓄していた爆発物や陣地に施された自裁術式による自爆も既に八箇所。これはレクティファールのいる本営まで上がってきた要請の数であり、本営以下の司令部が許可を出した要請もあっただろうし、許可を得ることなく現場の判断で自決した部隊もあるので、実際にはもっと多くの部隊が帝国兵を道連れに玉砕しているということになる。

 許可を求められたレクティファールはその都度、自分の言葉で自裁の許可を出した。

 これだけは誰かに代行させるわけにはいかないと、唯一我侭を言った。子供じみた自己犠牲の発露ではないかと自分でも思う。それでも、メリエラとウィリィア、そしてリーデの前で虚勢を張った。

 難しい理屈は兎も角、彼らに報いるためにこうするべきだと考えたのだ。

 死んでくれと命じることから、逃げたくはなかった。


「一進一退と言ったところか……」


「は、我が軍の敷いた陣の中に侵入して来た帝国軍を優先的に叩いていますので、辛うじて」


 リーデの言葉には隠しきれない焦燥があった。

 顔色こそこれまでと変わらないが、これまでと違って全身を敵前に晒していることに緊張を覚えているのだろう。まさか初陣ということはないだろうが、参謀という職業柄前線視察以外にこういったことを経験する機会はなかったのかもしれない。

 むしろ、幕舎の入口近くに立っているメリエラとウィリィアの方が落ち着いて見える。軍歴は二人の方が浅い筈なのだが、これが種族的な感覚の差なのだろうかとレクティファールは思った。


「グロリエ皇女は動いたか」


「は、近衛重装騎兵団と共にいることは確実なのですが、未だ動きはありません。我らとしては右翼か、左翼のどちらかに攻撃を仕掛けると予想していたのですが……」


 凹の字の両翼には正面から帝国軍が寄せているという報告がない。

 帝国軍部隊の殆どが凹の字の奥にあるレクティファール本営に向けて突撃を仕掛けているというのだ。

 これを皇国側の油断を誘う策であると見る参謀もいたが、両翼の外側は荒地で大規模な運動をすることはまず不可能。歩兵部隊ならば時間を掛けて踏破出来る程度の荒地だが、大規模部隊で進軍するには向いていない。騎兵ならなおのことだ。

 この効果を狙って意図的に荒地を造成していた皇国側だが、帝国軍の動きは一見愚直なだけにも見えて、それでいて不気味だった。

 両翼どちらかに近衛重装騎兵団が現れれば、むしろそれは帝国軍の最強部隊を釘付けにする絶好の機会となる。総予備として置いている二個魔導連隊と歩兵二個旅団を用いて、それ以上の運動を掣肘する手筈を整えていたのだ。

 だが、皇国の思惑とは裏腹にグロリエは近衛重装騎兵団を動かさない。

 機動してこその騎兵部隊だというのに、手元に置いているだけだ。

 参謀たちが何名かが腕を組み、唸りながら机上の地図を見下ろした。帝国軍の動きが余りにも単調で、逆に彼らの不安を煽っている。

 しかし、一人だけ帝国軍の――――グロリエの意図を正確に察している者がいた。


「――――殿下を狙っているのでしょう」


「アーデン大尉?」


 リーデは微かに震えの残る声でそう言った。レクティファールは首を傾げ、自分の隣で地図を見下ろすリーデを見る。

 驚いたように自分を見る先輩参謀たちに気圧されながら、彼女は言った。


「帝国側も戦機を窺っているのでないでしょうか。我々が『ウィルマグス』に部隊を送り込んでいることを知らないと仮定して、“ムジョルニア”によって我が軍の疲弊を強い、機を見て一気に攻め寄せる。帝国側とて無駄な損害は出したくないでしょうから」


「しかし、中央に攻めて来ている帝国軍はどうなる。このままでは両翼の陣からも、要塞からも攻撃を受け続けることになるぞ」


 元々皇国側はそれを目的にこの陣を敷いた。

 レクティファールを囮に、帝国軍の侵攻路を限定して砲撃の効果を高める。つまり砲を目標に向けるのではなく、目標を砲の着弾地点に誘き寄せるための陣形だった。

 目標を設定し、その諸元に従って砲の調整を行うというだけでもそれなりの時間を要する。逆に照準するという手順を省くか簡略化出来るなら、それだけで砲一基の時間当たりの砲撃回数は増える。砲撃回数が増えるということは、結果的に砲の門数が増加することと同じだ。

 只でさえも“ムジョルニア”の砲撃を受けて使用可能な要塞砲が激減した皇国軍。それを補うために砲術参謀がレクティファールに具申した策がこれだった。

 レクティファールも要塞砲の減少は痛手だと認識していた。

 帝国軍の物量を抑える要がパラティオンの持つ圧倒的な砲戦能力にあることは、皇国軍内の常識と言っていい。それが著しく減衰した今、小手先の策で以てそれを補うしか方法はなかった。

 レクティファールという囮はこれまで期待通りに作用し、帝国軍の動きを制限することが出来た。しかし、パラティオンが手負いであり、皇国軍が劣勢であることに変化はなかった。

 この戦場でどれだけ戦果を上げても、皇国は勝てない。


「“ムジョルニア”への攻撃予定時刻まであとどれくらいだ」


「あと、四時間三九分です」


 リーデが懐中時計を確認してレクティファールに答える。

 攻撃が予定通りなら持ち堪えることは可能だ。だが、万が一にもグードルデン第一軍団が攻撃を断念するようなことになれば、パラティオンは絶望的な戦いを強いられるだろう。

 そうなれば、レクティファールも満足に扱えない“皇剣”の力を振るうしかない。

 扱い切れない力が味方を焼くことはほぼ確実で、彼は国土と圧倒的多数の国民を守るためにパラティオン要塞防衛軍という少数を犠牲にすることになる。

 果たして、味方殺しの皇に国民は付いてくるだろうか。

 答えは言うまでもない。

 レクティファールは勝利と引き換えに国民の信頼を失い、それを回復する前に帝国の再侵攻を受ける筈だ。そしてそのときこそ皇国は終わる。

 どれだけの大義名分があろうとも、戦略兵器としての“皇剣”を使うことは避けなくてはならない。せいぜい対個人、対少数部隊用の戦術兵器として用いるぐらいだ。

 史上最強にして最凶の概念兵器。

 世界の在り様さえも書き換える絶対的な力。

 しかし、使えない兵器は欠陥品に過ぎない。

 この場合、欠陥品とは“皇剣”を指すのか、レクティファールを指すのか。或いは両方なのか。

 レクティファールは半ば流されて受け継いだ力を持て余していた。だからこそ、そんな自分に執着するグロリエが理解出来なかった。勇者と戦いたいなら、それこそ彼の麾下に数多くいる。強者つわものと戦いたいというのなら、これこそ皇国の誇る強者だという人物を挙げてもいい。

 だが、間違ってもレクティファール自身は勇者でも強者でもない。

 皇である限り、その二者には決してなれないのだから。


「――――グロリエ皇女が動くことを前提に防御を固める」


 防御を固めると言っても、実際に働くのは部下たち。レクティファールは此処でこうして相変わらず戦況図を睨みつけているだけ、グロリエのように戦場に立ち、兵を率いて先駆けとして戦うなど不可能だ。

 理解不能。そうとしか言えない。

 グロリエほどの傑物が何故“皇剣”と立場以外に特別な要素のない自分に固執するのか、最強最悪と謳われた“皇剣”という概念兵器と戦いたいからなのだろうか。


「グロリエ皇女は必ず動く、気を緩めるな」


 レクティファールは言葉を最後に、このときの会議は幕を閉じた。

 彼は天幕の片隅に置かれた椅子に座り込むと、目を閉じて大きく息を吐いた。











 グロリエは苛立っていた。

 六時間以上砲撃を続けた“雷霆”が出した命中弾はたった二発。

 要塞側も当然応急補修を行う為、目立って皇国の防衛機能が損なわれた印象はなかった。

 レクティファールという明確な餌と“雷霆”の目立つ援護射撃もあって将兵の士気は高く保っているが、グロリエの求めるような要塞機能の喪失などあとどれくらいの砲撃を撃ち込めば達成出来るのか分かったものではない。

 いや、彼女の苛立ちの理由はそれだけではない。

 彼女の配下の将軍たちの動きだ。


「――――あの愚物どもめッ! レクティファールが出てきた途端に前に出よって!!」


 これだからろくに戦場を知らぬ貴族将軍は嫌いなんだ――――グロリエはその場にいる将たちが顔を顰めるほど苛烈に、そして口汚く件の将軍たちを罵る。

 ついこの間まで自ら要塞砲の射程内に入ることを怖がっていた将軍たちが、一斉に自らの軍を率いて前に出てしまった。そのせいで帝国の指令系統は混乱し、遊兵と化した部隊さえ存在する。

 しかし、それでも帝国軍が崩れないのは、前に出た将軍たちが無能ではないからだ。

 彼らは確かに功を焦って前に出たが、そこで失策を仕出かすような無能者は一人もいなかった。彼らは自分たちの指揮下にある部隊を鼓舞し、見事にレクティファールという最上の餌に喰い付かせた。

 その甲斐あって皇国軍の防衛線は散々に引き裂かれ、各所で孤立した部隊が虚しい抵抗を続けている。グロリエは降伏した者には礼を以て当たれと訓示しているが、それが最前線の兵士たちに守られるとは到底思えない。

 特に徴兵されたばかりの新兵や、経験の浅い兵士たちは自分たちの欲望に非常に忠実だ。強者となった自分たちに酔い、相手を容易く虐げてしまう。それがいつか自分たちに跳ね返ってくると知らないからだ。

 皇国軍の兵士たちが帝国兵を不当に虐げたという話を滅多に聞かないのは、彼らの持つ倫理観というよりそれを許さないという軍そのものの気風があるのだろう。稀に現れるそのような皇国兵は、総じて処刑されるかそれに準ずる重い刑罰を課せられる。

 皇国は何より、軍人の倫理観の低下を恐れていた。

 志願制で能力の違う各種族の集合組織という皇国軍の性質上、軍としての規律はそのまま軍としての体制を維持する大黒柱だ。規律が緩めば種族の差から容易に分裂が始まり、やがてそれは皇国軍そのものの質の低下を招く。

 先代までの皇王はそれを恐れ、軍人に対して非情ともいえる厳しい規律を課した。その代償として他の国家職員とは一線を画す報酬を与え、万が一殉職した際は家族に対する厚い保障を約しているのだ。

 義務と権利は表裏一体。

 厳しい義務を課すならば、多くの権利を与える。この当たり前の考えが、第五代皇王ナギ=イチモンジの時代から続く皇国軍の理念だ。この理念によって皇国軍は、兵の数こそ決して多くないが精強をもってなる第一線の軍隊となった。それまでは貴族たちの保有する兵力を戦時にのみ纏め、運用する封建制軍隊が皇国軍としての地位を保持していたが、このときの改革によって国家と皇王に属する皇国国軍という組織が形作られたのだった。

 諸々の結果生まれた皇国軍という軍隊は、今日では諸外国でも知られるほど厳格な規律を持った軍隊となった。多種族を良く纏めた組織として他の多種族国家の軍隊にもその仕組みが導入されたほど。

 グロリエも機会があれば皇国の軍隊組織について詳しく調べたいと思っていたが、こうして実際に戦ってみるとその質の差は驚くべきものだった。


「皇国の兵は西方の亜人どもとは違う。奴らはそれが判らんのか!」


 西方の戦いでは帝国の物量に圧し潰される小国家が殆どだった。

 一部の例外を別にすれば、君主が戦場に出てきた時点で帝国の勝ちは決まったようなものなのだ。

 だからこそグロリエ配下の将軍たちはこの戦いの勝利を既に決定事項のように扱い。それまでに少しでも手柄を立てようと軍を前に出した。

 その判断が間違いだとはグロリエも思わないし、帝国軍がそういった功名心を利用して士気を維持していることも理解している。だが、判断に至るまでの前提条件が間違っていれば結果も当然、誤りとなる。


「くそっ! 余が出る前に皇国に下手に動かれでもしたら戦線が崩れるぞ」


 グロリエは皇国を侮っていない。

 あの男が指揮官を努め、良将と名高いガラハがそれを補佐しているのだから手強くない筈はない。

 ここで勝っても損害が大きければあとの戦いに影響が出る。この戦いはあくまでも前哨戦であって、皇国を屈服させる最後の決戦ではないのだ。


「馬を走らせ、伝令を飛ばせ! 決して皇国軍を侮るなとな!」


 グロリエの命令に従兵が走り去る。

 そんな彼女の後姿を見詰め、カリーナは微かに微笑んだ。

 あの猪突猛進を地で行く孫娘が敵の手を恐れている。それは成長に他ならない。

 自分を上回る力を持つ相手に対して執着し、それ故に相手を知ろうとする。その姿勢が慎重を生み、いずれ孫娘に老獪さを与えてくれるだろう。


「――――あの摂政には感謝しなくてはなりませんね」


 グロリエ以上の力を持つ存在など限られている。

 無論単純な数としてなら相当数存在しているだろうが、そのような存在はこんな争いに興味を示さないのが常だ。

 運良く敵手として現れてくれたことに彼女は本気で感謝していた。











 この日の夜、『ウィルマグス』に残された五〇〇〇の兵は平時と変わらない勤務を行っていた。

 彼ら帝国軍人にとっての最前線とは帝国領ではなく他国領であり、『ウィルマグス』が帝国領である以上、彼らの心に緊張感などあってないようなものだった。

 街に出掛けては酒と女を楽しみ、仕事中でもそれらのことを考えて笑みを漏らす、そんな生活を送っていた。パラティオン要塞で皇国と死闘を繰り広げている同胞たちとはまるで違う世界に住んでいるかのような、気楽な生活だった。

 グロリエから下された『皇国軍の侵入に警戒せよ』という命令も、五〇〇〇という自分たちの数以上の敵が現れるとは思っていないために半ば無視されている。無論指揮官格の将校ともなればそれなりの危機感を抱いて仕事をしているが、兵士たちにまでその緊張感を持てというのは難しいだろう。

 彼らの常識とは、常に自分たちは攻撃者であるというもの。攻め入り、勝ち、そして得る。これこそが当たり前であり、攻められ、負け、奪われることは常識の埒外にある。

 勝敗とは常に均等であり、何処にも不平等はない。彼らはそれを知るべきだった。

 勝ち続けていれば何処かで必ず負けるのだ。








 夕闇に染まる『ウィルマグス』。

 街や軍組織には明かりが灯り、街の外に建造された“雷霆”の周辺では、煌々と灯された照明の下で動き回る帝国兵の姿が見えた。

 夜間に入り、気温が下がったことで“雷霆”の発射間隔は広がった。蒸発した水分が各所で凍り付き、機器の動きを阻害していたのだ。

 作業員は凍り付いた氷柱や氷塊を手作業で落とし、それが終わる頃には別の場所でまた凍り付く。延々と同じ作業を続け、作業員たちは疲れた表情を隠しきれなくなっていた。

 そんなときだ。

 “雷霆”を含めた『ウィルマグス』一帯の明かりが一斉に消えたのは。


「――――!?」


 “雷霆”は『ウィルマグス』の動力施設から引いている動力源とは別に自前の動力施設を持っている。非常時のみ作動するそれが運転を開始するまでの数分間、帝国の城塞都市一帯は闇に包まれた。

 その数分間こそが、帝国にとって運命の転換点だった。


「て、敵襲っ!!」


 誰が叫んだのだろうか、警報と共に齎された凶報に“雷霆”周辺の作業員たちに動揺が広がる。

 しかし、彼らの動揺など『ウィルマグス』に駐留していた帝国軍部隊に比べればまだ軽いものだった。











 帝国兵たちは突然の暗闇に狼狽えた。

 特に城門の警備に当たっていた帝国兵の動揺は夥しく、各所で悲鳴と怒号が飛び交った。

 そんな喧騒の中、協力者の手引きによって都市部地下から都市外に通じる導水渠から侵入した皇国部隊が、都市南側城門の管理を司る城壁上の小屋に突入。そこに詰めていた帝国兵を一瞬で無力化した。

 悲鳴を上げることさえ許されずに無力化された帝国兵。彼らの死体を無感動な目で一瞥すると、皇国部隊の指揮官は部下たちに命じて門を開けさせる。

 城門上に設置された巻き上げ機が作動し、轟音を立てて鎖が下ろされていく。堀の上へとゆっくりと下りていく跳ね橋。指揮官はそれを確認して頷くと、小屋の維持に数名を残して城壁の上を移動し始めた。

 街の中、城門前の監視小屋にいた帝国兵は城壁上の管理小屋が制圧されたことなど知らず、従って突然城門となっている跳ね橋が下ろされたことに驚いていた。

 二人一組の内、一人が状況の確認のため市街地にある軍司令部に走る。残された一人は銃を抱え、ゆっくりと下りていく橋を恐々として見詰めていた。

 やがて橋は下りきり、帝国兵は一面の雪景色が広がっている筈のそこに死神を見た。


「ひっ!」


 彼らは全身を白い服で包み、顔まで白い布で覆った兵団。帝国兵は恐怖の余り銃を構えることも忘れ、その集団と対峙する。

 たった一人の帝国兵の前に居並んだ白い集団は、少なく見積もっても数千。その気配の濃密さから、もっと多くがその背後にいるのだろう。

 帝国兵はがたがたと震える身体を抑えつけようと必死になったが、無理だった。

 白の集団の中央に立つ、一人の男。

 周辺の兵士たちと同じ姿格好だというのに、その身から溢れる鬼気の濃密さは何の冗談だろうとさえ思った。まるで存在の格が違う。自分とは明らかに別の場所に立っている。そんな気がした。


「――――――――」


 男がゆっくりと手を翳す。

 その動きに合わせて白の兵団が一斉に得物を構えた。

 剣、槍、打棒、弩弓。

 そのどれもが自分に向いているような錯覚を覚え、帝国兵はみっともなく失禁した。

 軍袴を滴る液体の冷たさだけが、彼に現実感を与えてくれる。

 だが、その現実感は彼の意識を恐怖に逃れさせてはくれなかった。


「――――――――」


 男が手を振り下ろす。

 帝国兵が最後に見た光景は、自分に向かって押し寄せる白の集団の姿だった。











 ガラハ率いるグードルデン第一軍団は『ウィルマグス』と“雷霆”に同時攻撃を仕掛けた。

 都市内部に存在する動力施設を破壊、非常用動力源が照明を灯すまでの数分間で大勢は決した。

 協力者である亜人たちの扇動によって都市の支配層以下の住人たち、特に亜人を中心とした下層住人たちが決起。帝国からの移民が多くを占める中層区以上の階層に向けて動き始めた。

 彼らは城壁で隔てられた中層区に突入すると、そこにあった商店や民家を襲い始める。彼らにとって帝国からの移民が持つものは自分たちが嘗て奪われたものであり、それを取り戻すことに罪悪感など覚える筈が無い。

 住民たちは南門から決起の動きが広まっていると噂で聞き、北へと向かって逃げ出したあとだった。この情報は皇国軍部隊が意図的に漏らしたもので、ガラハの指示だった。

 五〇〇〇の帝国軍は“雷霆”と都市部に分散して配置されていたが、都市部に配された部隊はこの住民の避難を警備するために多数が割かれてしまった。帝国からの移民の中にはこの都市の運営を司る官僚も含まれ、帝国軍に顔の利く者も多い。彼らは自分たちを守らせるために軍の部隊を手配させたのだ。ガラハは寡兵である帝国軍の動きをさらに制限するために情報を漏らしたのだろう。

 高層区、中層区の住民が北へと逃げ出し、その結果ぽっかりと空いた街を埋めるように下層区以下の住人たちが押し寄せる。彼らは皇国軍に誘導され、結果として帝国からの移民とは衝突しなかった。住人同士の争いに関わっていられるほどの余裕は皇国軍にもない、ガラハは意図的に帝国からの移民を逃がして無用の争いを避けた。

 逃がされた市民は家財道具を動力車に載せ、動力車を持たない市民は荷車に大荷物を載せて『ウィルマグス』を脱出した。

 駐留の部隊は都市に突入した皇国軍と戦い敗走。城壁に守られた籠城戦なら兎も角、一度都市に侵入された以上勝ち目はない。各部隊の指揮官は次々と撤退を決め、やがて都市防衛司令部も撤退を決めた。このとき攻撃開始から僅か一時間一五分後。ガラハはこれまで皇国を苦しめ続けた城塞都市をたったこれだけの時間で落としてしまった。

 都市部への攻撃と同時に行われた“雷霆”への攻撃は、こちらも事前の準備の甲斐あって予想よりも順調に進んだ。

 魔導師中心で組まれた“雷霆”攻撃部隊の攻撃能力は凄まじく、目立つ“雷霆”は皇国魔導師たちの遠距離砲撃に晒され、次々と爆発を起こした。魔導師たちからしてみれば、動かない目標など砲撃演習の的でしか無い。事前の打ち合わせで“雷霆”の弱点と成り得る箇所を徹底して叩き込まれた魔導師たちは、次々と目標を破壊。制御施設に突入した部隊の活躍もあっておよそ一時間程度の戦いで“雷霆”を無力化した。

 爆薬を仕掛けられ、架台を破壊された“雷霆”は自重に耐えられずに折れ、その巨体を支えていた基部も魔導師たちの執拗な攻撃の前に崩れ去る。

 無傷で確保するべきだという意見もあったが、ガラハはそれを却下した。

 欲をかいて大魚を逃すよりも、目的である小魚を得るべきだと判断したのだ。


「制圧を急げ」


 都市部の制圧を行うべく、ガラハは帝国が『ウィルマグス』総督府としていた行政施設に臨時司令部を置いた。

 レクティファールと彼の考える戦後処理に『ウィルマグス』は欠かせない。さらにここを占領することこそがこの戦いの趨勢を決すると言ってもいい。

 帝国軍の補給線を一手に担う要衝。

 ここを抑えられている以上、帝国軍は長期の作戦を展開出来ない。

 さらに彼らの切り札である“ムジョルニア”はすでに破壊され、残骸を晒すのみ。

 勝てる――――そう思った。

 だが、彼はまだ知らない。

 グロリエ・デル・アルマダという傑物の恐ろしさを。











 グロリエの下に『ウィルマグス』陥落の報が届くと同時、レクティファールにも同じ情報を得た。

 これで“ムジョルニア”の砲撃はない。

 それだけで皇国側に明るさが戻る。

 しかし、レクティファールは沸き立つ天幕の外に出ると、厳しい表情を崩さず帝国側の陣地を睨んだ。

 これで済む筈が無い。

 あの姫君はこの程度のことで敗北に塗れるほど生易しい女でない。


「来るか、帝国の虎」


 果たして、彼の予感は的中した。














「――――元帥殿下、『ウィルマグス』が落ちました」


 祖母のその言葉に、グロリエは天幕の中心に置かれた大机を拳で叩き砕いた。

 木片が飛び散り、幕僚たちの顔から血の気が引いていく。

 グロリエは俯いたまま肩を震わせ、呪詛のように何かを呟くのみ。

 幕僚たちはお互いに顔を見合わせ、姫君の怒りを解くべく思考を巡らせる。

 しかし、都合良く彼らの願いを叶えるような策がある訳がない。

 グロリエの怒りとは単純なものではなかったからだ。

 勝手な行動で彼女の策を乱した将軍たち、思うほど戦果を挙げられなかった“雷霆”、そして結果的にあの男に負けた自分。

 どれもが彼女の心を苛み、責め立てる。

 ここまで彼女が払った兵士たちの血と魂は無駄だったということなのか、自分を指揮官と仰ぎ死んでいった兵たちに何と言って詫びればいいのか。

 『ウィルマグス』が落ちたということは、帝国軍は二つの要塞に挟み込まれたということになる。

 どちらも国家の防人として建造された堅牢な要塞。皇国が『ウィルマグス』をどうやって落としたのかという疑問はあるが、そんなものはあとで考えればよい。今するべきは、これからの方針を示すこと。

 どうやってここに居る兵たちを祖国へと帰還させるかということだ。

 この期に及んで皇国に勝てるとは思えない。

 “雷霆”が落ちた以上、パラティオンを落とすことは不可能だろう。

 パラティオンを落とせなくなった今、皇国本土への侵攻という戦略目標は果たすことは出来ない。


「――――いや……待て……」


 パラティオンを落とす必要が無くなったならば、別の目標を掲げるべきだ。

 現状可能な次善の策。

 そう、皇国が立ち直れないくらいの痛手を与え、来季の戦いを有利に運ぶための策。


「―――――なるほど」


 まだ、まだだ。

 まだ終わっていない。

 この戦いを無に帰することなく、次の戦に繋げる方法はある。


「くくく……っ!」


 いや、むしろ自分向きのいい策ではないか。

 グロリエは笑いを漏らすと、がばりと顔を上げて幕僚たちを睥睨した。


「近衛を出す! 余も出るぞ!」


 彼女の目に、諦念はなかった。












 帝国軍の攻撃が緩み、皇国軍の兵士たちは『ウィルマグス』の陥落を知った。

 潮が引くように撤退行動を開始する帝国軍に対し、皇国軍の陣地からは歓声が木霊する。


「勝った」


 そう叫んだ彼らは隣の戦友と抱き合い、生を噛み締める。

 生き残った、九倍の敵を前にして生き残った。

 追撃の命令が出る可能性を考慮しながらも、彼らは目の前まで迫った死の恐怖から逃れたことに歓喜する。

 それこそが、帝国の仕掛けた罠であった。


「――――っ!? こ、近衛重装騎兵!!」


 皇国兵たちの前から退いた帝国軍部隊に代わり、深紅の鎧にその身を包んだ一団が現れたのだ。

 兵たちは慌てて壕に潜り込み、その圧倒的な存在感を放つ集団に備える。

 しかし、もう遅かった。

 皇国兵が防備を整え切る前に近衛重装騎兵団は突撃。

 これまで散々帝国軍に耕された皇国の中央陣地をぶち抜き、迎撃すら満足に出来ないほどの速さで摂政レクティファールの本営へと直走る。先頭を駆けるは、他の騎兵とは明らかに違う意匠を持つ鮮血色の鎧の美姫。

 輝く陽の色の髪を靡かせ、巨大な剣を手に黒の巨馬を操るその姿に皇国兵は恐怖した。


「――――突撃ぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」


 皇国兵の肺腑に響く掛け声。

 絶世の美姫でありながら、さながら物語の戦女神のように戦場を駆けるグロリエ。

 帝国兵はその姿に感奮し、これまでの消沈振りが嘘のように活気を取り戻す。

 再び始まった帝国の猛勢にぼろぼろの皇国陣地は悲鳴を上げた。


「殿下! お逃げ下さい!」


 近衛軍から派遣された中隊長がレクティファールに詰め寄る。

 本営からもグロリエの突撃は嫌になるくらいよく見えた。

 深紅の暴風が、自軍の陣地を薄紙のように貫いて迫る様は悪夢だ。

 本営近くの陣地には迎撃体制を整えるだけの時間が与えられたが、正直あの暴風を止めきれるかどうか分からない。

 中隊長はその暴風の前に主君を差し出すような真似はしなくなったのだろう。レクティファールの背後に控えたメリエラとウィリィアを視線で呼び付けると、二人にレクティファールの護衛を改めて命じた。


「殿下をお守りし、要塞まで送り届けろ」


「は」


 二人は敬礼。

 中隊長はそれを見て満足そうに頷くと、自身はレクティファール撤退の時間を稼ぐために部隊と合流しようとする。


「待て」


 中隊長を呼び止めたのは、やはりグロリエに視線を固定したままのレクティファールだった。


「あの皇女に小手先の策など通じない。背を見せればこれ幸いと追撃を掛けてくるぞ」


 レクティファールの自信に満ちた声に顔を顰めたのはメリエラだった。

 その言葉からグロリエに対するある種の信頼を感じ取り、それが自分には決して向けられないものであると気付いたから。

 そして敵手に対して絶大な信頼を寄せている主君に、僅かな怒りを覚えたから。


「殿下、しかしこの場に殿下がいては兵士たちが存分に戦えません」


 言葉の選択がきつくなるのも仕方が無いことなのかもしれないが、このときのメリエラの言葉は余りにも失礼だった。中隊長は目を剥き、ウィリィアは涼しい顔をしていても額に一筋の汗が流れる。

 しかし、レクティファールが怒りを露にしなかったことで場は一応治まった。


「分かっている。だから近衛は前に出ろ。ここは私がいれば良い」


「なっ!?」


 主君を見捨てよと命じるレクティファール。

 本人にその意識は無かったのかもしれないが、三人はその言葉に衝撃を受けた。

 確かに敵騎兵団はここに居る近衛の一〇倍を超える。だが、主君を守るという絶対的な忠義こそ近衛に求められるモノ。それを否定するような命令は受け入れ難い。


「殿下! それは承服いたしかねます!」


 中隊長がそうレクティファールに掴みかかるのも無理はない。

 前に出ろ、盾になれという命令なら幾らでも受け入れられる。だが、レクティファールはここから退かないと言う。ならば近衛が前に出て守るべきものは何なのか。

 主君の身を危険に晒して、それで戦うことが近衛の存在意義ではない。

 主君の身を守ることこそ彼らの存在意義であり、これまで実戦から離れていた近衛軍が未だ高い練度を維持してきた理由だ。


「別に私を見捨てろとは言っていない。ただ、グロリエ姫以外をここに近付けてもらっては困るというだけのことだ。流石にあの数を相手に“皇剣”を制御しきる自信はない」


「グロリエ皇女と戦うお積りで!?」


 確かに“皇剣”の力を使えば可能だろう。

 だが、レクティファールが未だその段階にまで至っていないことはメリエラとウィリィアも知っている。

 故に二人はレクティファールを守ろうとした。

 戦う必要が無いように、“皇剣”にレクティファールが呑まれないように。

 しかし、レクティファールはそれを否定する。


「戦える者が戦う。当たり前のことだ。そこに戦う者の役職は介在しない」


 レクティファールは二人を見ると、小さく笑って二人の顔を順に見詰めた。


「二人には部隊を率いてこの陣の守りに就いてもらう。中隊長は残りの部隊を率いて近衛重装騎兵団を絶対に通すな」


 ここであの突撃を押し止める。

 そうすれば両翼の部隊がグロリエの退路を絶ち、今度はこちらが彼女を討つ機会を得られる筈だ。


「肉を切らせて骨を切る。向こうから来てくれるというのなら、こちらはあの分厚い帝国軍を抜かなくてもグロリエ皇女に手が届くということ。ここが正念場だ」


 レクティファールの意思は固い。

 彼は自らが次期皇王であるからこのような策を講じたのではない。

 ただ、この戦いの目的を果たすために最も確実な策を選んだに過ぎない。


「来るぞ」


 レクティファールが見詰める先に、深紅の軍団がいる。











 グロリエは愛馬に鞭打ち、摂政の紋章旗目掛けて一直線に突き進む。

 未だ紋章旗が下ろされていないのは、そこにレクティファールがいるということ。

 彼女は最愛の宿敵が自分を待っていることに狂喜する。

 飛び掛ってきた皇国兵を真っ二つに斬り捨て、こちらに背を向けて逃げようとした兵士に向かって漆黒の刃を撃ち放つ。

 通常は細かく座標を固定しなくては使えない空間の断裂だが、ある程度薄めたものならば飛ばすことは出来る。飛ばせるのは“何もない”断裂と言うより、空間のひずみ程度のものであるが、それでも十分な威力を持っていた。

 高出力な防壁ならば防ぎ切れるが、逆に言えば個人の持つ量産型護法など薄紙以下の防御能力しかない。

 彼女はそれをまき散らしながら、レクティファールの下へと駆ける。

 壕を飛び越え、馬防柵を切り裂き、魔法防御壁さえも叩き切る。

 グロリエを止められる者など存在しない。

 少なくとも、彼女の背後で暴れる近衛重装騎兵たちはそう思った。

 故に、あと少しで摂政レクティファールの首に手が届くというときにグロリエを襲った極太の光条に瞠目した。

 グロリエは『神殺しの神剣』を盾替わりに構えると、剣の腹でそれを受ける。

 斜めに構えた『神殺しの神剣』に光は弾かれ、水飛沫のように小さな光を撒き散らした。

 しかしそのためにグロリエの動きは鈍り、次に空から降ってきた影に気付いたときにはもう、選べる選択肢は殆ど無かった。


「――――ぁぁぁぁあああああああああああああっ!!」


 ぎゅいい、という金属の擦れる耳障りな轟音。

 それを引っ提げた影がグロリエの頭上から降ってくる。


「くっ!」


 グロリエは馬から飛び降り、地面を転がることでその一撃を躱した。

 その背後で盛大に吹き上がる土砂。

 地面は大きく揺れ、後続の近衛重装騎兵たちはその土煙の中に飛び込む羽目になった。


「姫様っ!」


「お前たちは先に往け! 余はここで準備運動を済ませてから追い付く!」


 グロリエの言葉に、近衛たちは緩めた速度を再び上げた。

 主君の意思はここで足を止めることではない。先に進み、彼女の進む道を切り開くことだ。


「姫様、御武運を!」


「任せろ! この程度、身体を暖めるには調度良い!」


 グロリエの言葉に焦りはない。

 本当に準備運動程度にしか思っていないのだろう。


「――――……」


 グロリエは晴れた土煙の中に二つの影を見る。

 一人はスカートの裾を翻してグロリエを睨む、瀟洒な白の礼装に白銀の鎧を纏った銀色の髪の龍族。

 もう一人は巨大な剣を持ち、装甲付きの侍女服を着た女。

 どちらも戦場に相応しい姿とは言い難いが、その身体から溢れる気迫にグロリエの顔が緩む。


「あのときの近衛の娘たちか」


 レクティファールとの会談の際、その背後に控えていた近衛の女だ。

 こうして戦場で相見えることは予想していたが、ここまでのものとは思っていなかった。


「ここから先は通せません。あなたとの再会をレクトが望んでいても、わたしがあなたをここで仕留めます」


「――――む、レクト……レクティファールのことか……」


 グロリエはメリエラの言葉に眉を顰める。

 そして自分を睨むメリエラの姿をじっと見詰めると、やがて哂った。


「なんだ、貴様レクティファールの女か。余に男を取られるのがそんなに怖いか?」


「っ!!」


 メリエラの瞳が細く変わり、詠唱もなく、一瞬で五発の光弾が放たれる。

 光弾はいずれも不規則な軌道を描き、グロリエに迫った。


「甘いっ!!」


 しかし、グロリエが二回『神殺しの神剣』を振るうと、それらは一瞬で黒い空間に切断されて飛び散る。

 その速度は、あの巨大な剣の動きとは思えない。


「これでは程度が知れるぞ、女。レクティファールがお前をどれだけ気に入っているか知らんが、所詮その顔と身体で惑わしただけだろう」


「黙れッ!!」


 ウィリィアが『岩窟龍断ち』を手に突撃。

 一〇メイテルの距離を一瞬で縮め、その剣を振り下ろす。


「ははッ! お前も同じか! レクティファールはつくづく女運が無いな!」


 グロリエはウィリィアの攻撃を受けることさえせず、軽やかに後方へと身を翻す。

 くるりと空中で一回転すると、その眼下を『岩窟龍断ち』が通過した。


「おっと」


 すぐにウィリィアの第二撃が放たれる。

 こちらも重量級の『岩窟龍断ち』を軽々と扱い、第三撃、第四撃と続けていく。

 縦、横、斜め、上下とあらゆる角度から迫る刃を躱し、それでもグロリエの余裕は崩れない。

 むしろウィリィアの表情の方が焦りと疲労で歪み始めた。


「遅いな、同族」


 グロリエが呟く。

 ウィリィアの連撃に生まれた一瞬の空隙、それはグロリエにとって十分過ぎる隙だった。

 『岩窟龍断ち』を潜り抜け、『神殺しの神剣』の柄頭をウィリィアの鳩尾に叩き込む。


「がはッ!?」


 口から唾液を撒き散らしたウィリィアが吹き飛ぶ。

 グロリエはそのウィリィアを追い、さらに追撃を与えた。

 未だ空中に浮いたままのウィリィアに、グロリエの踵が迫る。


「弱い、弱いぞ同族。所詮数を揃えるための低コスト簡易量産型の子孫か」


「ぐッ!!」


 大きく身体を回転させた勢いをそのままに踵を落とし、それを両腕で辛うじて受け止めたウィリィアの顔に、今度は『神殺しの神剣』を叩き付ける。

 ウィリィアはそれを『岩窟龍断ち』で受け止めたが、圧倒的な質量に押し負けた。


「ぁッ!?」


 地面にめり込むほどの力で叩き落とされたウィリィアの口から悲鳴にもならない呼気が漏れる。


「ごはッ! ごほッ!」


 内臓が傷付いたのか、呼吸しようとした彼女の喉から咳と共に粘つく鮮血が溢れた。

 それでも立ち上がろうと身体に力を入れたが、返ってくるのは痛みだけ。

 身体を引きちぎられたかのような痛みに、ウィリィアの呼吸が止まった。


「ッ!!」


 そんなウィリィアの胸に、グロリエの具足に包まれた足が勢い良く降ってくる。

 今のウィリィアにそれを受け止めるだけの余力も、避けるだけの気力もなかった。


「ぐあぁッ!?」


 内臓が押し潰されそうな衝撃。

 白龍公より下賜された戦闘用侍女服の衝撃吸収機能をあっさりと超えたその衝撃にウィリィアの目が大きく見開かれ、口が空気を求めてぱくぱくと開閉する。

 口の端から漏れるのは、血液と唾液、そして吐瀉物だ。


「ウィリィア!!」


 メリエラの声は切羽詰っていたが、それでも従者が齎した機会を失う愚は犯さなかった。

 彼女は詠唱を済ませた粒子加速魔法をグロリエに向け、吼える。


「ウィリィアから離れなさい! この売女ッ!!」


 私怨が多分に含まれた掛け声と共に放たれる光は、先程の光条よりも遥かに密度の高い光だった。

 撒き散らされた熱量がグロリエの皮膚を焼き、彼女は少しだけ顔を顰めた。


「なるほど、前衛と後衛で役割を分けたか」


 龍族と龍人族では相性が悪すぎる。

 だが、龍族が体内器官で練り上げる龍族特有の龍魔法ではなく軍事魔法として開発された通常魔法ならば、竜人族の放つ対龍族用魔力形成妨害波動に影響されない。

 しかし、龍族特有の龍魔法は極短い詠唱で放つことが出来るが、通常魔法は術式を編んで詠唱を行うという手間が掛かる。先程のような低威力の魔法ならともかく、これだけの魔法ともなればそれなりの準備が必要だった。

 ウィリィアはその時間を稼ぐため、明らかに性能の隔絶した同族に勝負を挑んだのだ。

 主人の想いを叶えさせるために。


「――――だが、弱い」


 そう、グロリエにとってみればそんな動機は単なる弱さの言い訳にしかならない。

 強ければいい。

 強ければ他人の力など借りずとも敵を討てる。

 メリエラとウィリィアの共闘など、所詮は一人で勝てない者たちの悪足掻きに過ぎない。


「はン」


 ウィリィアが命懸けで稼いだ時間。

 その時間でメリエラが練り上げた魔法がグロリエに迫り――――


「ぬるいッ!」


 『神殺しの神剣』の一閃で弾き飛ばされる。

 軌道を逸らされた魔法はくるくると迷走、やがて地に落ちて大爆発を起こした。


「な……!」


 メリエラの驚愕。

 それはやはり、グロリエにとって隙でしか無かった。


「何処を見ている、レクティファールの女」


 『神殺しの神剣』を振り翳し、グロリエがメリエラに迫る。


「ッ!!」


 慌ててメリエラが展開する防護魔法の盾。

 光り輝くその盾は、グロリエの攻撃の前には大した意味を持たなかった。


「クズが」


 一閃。

 それだけで乾いた音を立て、光の盾は砕けた。


「なッ!」


 グロリエは驚くメリエラの顔に手のひらを押し付けると、そのまま裂帛の気合と共に地面に向けて振り抜く。


「かはッ!!」


 従者と同じように地面に叩き付けられるメリエラ。

 だが、龍族の彼女にとってこれ位の衝撃で気絶するようなことはない。

 すぐに意識をグロリエに向けると、手のひらをそちらに差し向けようとした。


「何故、そこまで弱い」


 グロリエはその動きを見て、心底詰まらなそうに『神殺しの神剣』を振るう。

 すたんという軽い音がした。


「え」


 呆けたようなメリエラの声。

 彼女はグロリエに向けた自分の腕を見詰める。綺麗に肘から先を切断されたそれを。


「ひッ!」


 吹き出す真っ赤な血。

 メリエラは慌てて治癒魔法を腕に施した。


「そうだ、お前は龍族なんだからその位すぐにくっつくだろう。本当ならその綺麗な顔を切り裂いてやりたいが、時間が惜しい」


「ぐ……あ……」


 脂汗を垂らし、腕を押さえながらグロリエを睨み上げるメリエラ。

 戦闘能力は奪われたが、その龍眼だけはグロリエに対する戦意を失っていない。

 いざとなれば噛み付いてでも戦ってやるとその目が叫んでいた。


「――――ふ、レクティファールの女だけのことはある。生き汚く、己の欲望に忠実だ」


「ぐ……か……勝手なことを……」


 メリエラは苦しげに浅い呼吸を繰り返しながらも、グロリエを睨み続ける。

 そんなメリエラの表情に、やはりグロリエは笑ったままだ。


「余を殺さない限り、余はレクティファールの許に現れ続けるぞ。そしていつか、あの男の総てをこの身に刻みつけ、あの男に余を刻む」


「――――き、きさまぁ……」


 メリエラは切断された腕をグロリエに向けようとする。

 魔法を放つのに手は必要ない。必要なのは、目標を指向するための照準だ。


「無理はしないことだ。あまり無理をすると、一生そのままの姿で暮らすことになるぞ。果たして、お前はレクティファールにその姿を晒すことに耐えられるかな」


「くッ!」


 メリエラが悔しげに目を伏せる。

 腹立たしい限りだが、今のメリエラはグロリエに勝てない。

 圧倒的な実力差が、両者の間にはあった。


「まあいい、いずれ戦う機会もある」


 グロリエは指笛を吹くと、愛馬を呼び寄せる。

 幻想種らしい巨大な黒馬はグロリエの傍らに身を寄せると、一声鳴いた。


「うむ、あの男の下に行くぞ」


 ひらりと黒馬に跨るグロリエ。

 メリエラは地面に座り込んだままそれを見上げた。

 悔しさに涙が出そうになったが、敵にそれを晒すことだけは許容出来なかった。


「ではな、龍族の女」


 黒馬の腹を叩き、グロリエはその場から去っていった。

 メリエラはそれを見送ると、地に伏したまま動けないウィリィアの許へと這い寄った。

 惨めだった。

 これ以上ない程、惨めだった。


「無事……? ウィリィア……」


「――――ひ……めさま……」


 ウィリィアの声は弱々しい。

 龍人族でなければ一発で潰れていた攻撃を何発も受けたのだ、無理もない。

 メリエラはそんな従者に治癒魔法を掛けると、レクティファールのいる本営をじっと見詰めた。


「――――レクティファール……」


 負けるとは思わない。

 連れ合いを信じることが出来ない女にもなりたくはない。


「――――――――」


 だから彼女は、小さく頭を垂れて祈った。

 これまで散っていった英霊たちに、これまで皇国を守り抜いた英雄たちに。

 今だけ、あの人をお願いします、と。













「――――ぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」


 本営目掛けて怒涛の勢いで飛び込んでくるグロリエ。

 すでに近衛重装騎兵団はレクティファールの本営までの道を切り開いており、今はその道を維持するために本営の周辺で戦いを繰り広げていた。

 目の前の戦場を睥睨していたレクティファールは、今まで杖替わりにしていた“皇剣”を眼前に構えると、それをゆっくりと引き抜く。

 刀特有の刃紋が、光を反射した。


「――――――――」


 その光を振り払うように一度“皇剣”を振り抜くと、彼は半身を下げてグロリエの前に立つ。

 受け切る。

 それだけを考えた。


「うおぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」


 『神殺しの神剣』を振り翳すグロリエ。

 その刀身には、間違いなく漆黒の断裂。

 レクティファールは刃を構え、大きく息を吸い込んだ。


「レクティファァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアルッ!!」


「グロリエェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!」


 同時に振り抜く刃と刃。

 グロリエの勢いを“皇剣”の性能でねじ伏せようとするレクティファール。

 黒い断裂と極小の“何もない”空間が衝突し、凄まじい暴風が戦場を吹き荒れる。


「ッ!!」


「――ッ!」


 一撃のみでレクティファールの横を駆け抜けるグロリエ。

 二人は睨み合い、無言の暇が生まれる。

 第二撃に備えて再び“皇剣”を構えるレクティファールの耳に、聞き覚えの無い声が飛び込んできた。


「殿下! これ以上は支えられません! 包囲されます!」


 鎧も纏わぬ女将が二人の戦場に飛び込み、叫んだ。

 よく見ればグロリエに何処と無く似たその女将は、レクティファールに一瞥をくれるとすぐにグロリエに向き直る。


「敵を侮ったのはこちらも同じということか、お婆様……」


「はッ、此処から先の戦いは、次に預けるべきかと」


「――――ちッ、あの女どもに時間を取られ過ぎたか」


 グロリエは不満そうに口を尖らせ、自分に向けて放たれた矢を斬り捨てる。

 近衛に守られたここも安全とは言い難い。

 時間を掛ければそれだけ脱出が困難になるだろう。

 彼女は決断した。


「――――退くぞ! 摂政に一撃を入れたのだ、我らは敵に一矢報いた!」


「ははッ!」


 地を蹴立てて去っていく二人の後ろ姿を見詰め、レクティファールはこの戦いの終わりをようやく感じ始めた。

 だが、感じ始めただけでまだ終わりではない。

 まだ、終われない。


「誰かある!」


 レクティファールはグロリエとの戦いに巻き込まれないよう退避させていた従兵を呼んだ。

 しかし、彼の呼び声に答えたのは従兵ではなく一人の参謀だった。


「アーデン大尉」


「何かございますか」


「ああ、追撃に移るぞ」


 レクティファールはリーデの顔が強張るのをしっかりと見て取った。

 九倍の相手、今は多少討ち減らして八倍強といったところか。

 それでも圧倒的多勢であることに変わりはない。


「危険です、殿下」


「危険は承知、だが、このまま逃がしてはすぐに体勢を立て直してしまう」


 ここで出来るだけ討っておかなくてはならない。

 さらに言うなら、『ウィルマグス』に余計な手出しをされても困る。ここは帝国軍を追い立て、その気を失せさせなくてはならない。グロリエならば、無駄な犠牲を嫌って一直線に撤退するはずだ。


「騎兵を出せ。撤退する敵勢を削ぎ落とす」


「は」


 リーデはすぐに走り去り、代わりに従兵が厚掛けを持って現れた。


「馬はどうなさいますか、殿下」


「言うまでもない、回せ」


「は」


 従兵は同僚に目配せする。それを受けて頷いた別の従兵が、レクティファールの馬を引くために厩舎へと走った。


「――――これで終わりにしよう。グロリエ皇女」


 レクティファールは整然と引き上げる近衛重装騎兵団を見送り、呟いた。

 ファルベル平原会戦が終結し、龍虎戦役の最終幕、皇国軍による帝国軍追撃戦が幕を開けた。











 皇国側の追撃はグロリエの予想を超えて苛烈だった。

 騎兵を主とした快速部隊が幾つも帝国軍の最後尾に攻撃を仕掛け、慌てて迎撃体制を整える頃にはその姿はすでにない。

 再び撤退を開始するとその快速部隊はまたどこからか現れ、帝国軍を散々引っ掻き回して引き上げていく。

 決して帝国軍と正面から戦おうとはせず、その戦力を少しずつ削ぎ落としていくかのような戦い方。グロリエは追撃を受ける度に神経をすり減らし、それでも撤退速度だけは落とさないよう麾下の部隊に命じた。

 ここで皇国軍を待ち受けるようなことをしても、恐らく皇国は攻撃を仕掛けてこない。

 そうなれば砲撃でこちらを討ち減らす算段でもしているだろう。グロリエはその考えを正確に読み取り、ここは早期の撤退こそが肝要であると決断した。

 そんな帝国軍に更なる不幸が降りかかったのは、兵士たちが破壊された“雷霆”の残骸に半ば呆然としながらも『ウィルマグス』の近傍を通過したときだ。

 彼らの前方に、数万の集団がいた。

 最初は『ウィルマグス』を落とした皇国軍が待ち受けていたのかと緊張した帝国軍だが、すぐにそれが『ウィルマグス』から脱出した帝国からの移民であると気付いた。

 彼らはグロリエたちがここまで引き上げてくるのを待っていたのだ。

 帝国本土への道には凶悪な魔獣が多く潜んでいる。とてもではないが数万にもなる住人を五〇〇〇に満たない数で守り切るのは不可能。

 都市防衛司令官を任されていた将軍は、そう言ってグロリエの前に跪いた。

 グロリエは司令官の苦労をねぎらうと、すぐに住人たちを行軍に組み込むよう命じた。

 住人たちは帝国の民、グロリエが守るべき存在だった。

 しかし、彼女のそんな気持ちは、彼女が守りたかった住人たちに踏み躙られる。


「都市奪還の兵を出せ」


 住人たちはそう言ってグロリエに詰め寄った。

 あそこには彼らの財産が残されている。それを捨てることが出来なかったのだ。

 しかし、グロリエがそれに是と答えることは無かった。

 ここで『ウィルマグス』の皇国軍と戦えば、すぐにレクティファール率いる本隊が現れるだろう。

 もしそうなれば、彼女は背後からの攻撃を受けながら都市を落とさなくてはならなくなる。

 今の疲弊しきった帝国軍に、これ以上の戦いは無理だった。

 さらに行軍の中に都市の住人が増えたことで物資の残りも心許なくなっている。

 余計な時間を費やせば、最悪餓死者が出る。グロリエはそう都市住民を説得し、撤退を続けた。










 彼女のこのときの行動が種火となり、帝国を揺るがすことになるのはこれから五年後。

 この龍虎戦役で皇国が得た猶予期間が終わりを迎えるときでもあった。

 しかし、このときのグロリエはそれを知らず、当然レクティファールも知らなかった。

 もしどちらかがその事実に気付いていれば、五年後に大陸を襲う悲劇は回避されたのかもしれない。














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