レクティファールがパラティオンの中枢である中央司令室に入ったのは、このときが二度目だった。
最初は挨拶を兼ねた顔見せ程度のもので、そこでこのパラティオン要塞の何たるかを説明されただけに過ぎない。言うなれば客人として、事実上の部外者としての扱いだった。
だが、二度目の今回は違う。
摂政として、皇国陸軍の最高司令官として、この場の最高位者として入った。
「摂政殿下、御入来!」
番兵が声を張り上げ、雛壇構造の司令室にレクティファールの入室を知らせる。
机や制御卓に向かって仕事をしている者を除き、総てが二階後方にある入り口から姿を見せたレクティファールに敬礼。答礼を返すレクティファールの表情は、これまでと変わらず、少なくとも表面上は落ち着いたものだった。
「各々の仕事に戻ってくれ」
レクティファールの許しを得た司令部要員が各々の配置に戻る。
二階の中央部にある司令官席にレクティファールが座ると、その左右に配置されている十二の幕僚席の半分に、各兵科の主任参謀の証である金色、専任参謀の銀色、そして無任参謀の銅色の参謀飾緒を掛けた参謀たちが腰を下ろした。それぞれ主任参謀が二人、先任参謀が三人、そして無任参謀が一人だ。
無任参謀であって唯一この場に座る権利を有したのは、レクティファール付き参謀から臨時に昇格したリーデ。この状況こそが、使える手札は総て使うというレクティファールとガラハの方針を如実に示していた。
グードルデン第一軍団の軍団幕僚としてガラハの行軍に幕僚の半数近くが同行している現在、無任であっても、それ以下の扱いでも、能力的に使えると判断された参謀たちは、参謀としては最下位の見習い参謀――――少尉参謀であっても司令室に入ることを許されていた。
無論、彼らのような見習いのすることといえばレクティファールの周囲に座る各参謀の補佐でしかないのだが、それでも中央司令室に入って摂政の近くで働けるということに感動している者も多い。
だがそんな彼らとて、自分たちがここに入れるほど事態が逼迫しているということは間違いなく認識している。
身体の震えが、実は恐怖が原因であった見習い参謀もいたかもしれない。
だが、今は無駄飯食らいを要塞に置いておける状況ではない。傷病兵であっても、比較的軽度で医務官の許可を得た者は職務に就いていた。
このときパラティオン要塞に残された兵士は四一〇〇〇。
対するグロリエ麾下の帝国軍はこれまでに到着した増援を含めて実に三七〇〇〇〇、その兵力比はおよそ一対九だった。
さらに帝国軍の背後にはこのパラティオンを粉砕するだけの力を秘めた巨大砲があり、ただ守るだけではそう遠くない未来にこの要塞は抜かれるだろう。自然休戦までここを守るだけであるならば、もしかしたら幾つかの幸運で可能であるかもしれない。だが、そんなことを許すような戦狂姫ではないと誰もが気付いている。
だからこそ、レクティファールはこの窮状にあって敢えて攻めに転じることを決めたのだった。
白狼越えという史上初の試み、それ故に用いる軍団は選りすぐりの精兵が集められていた。当然個人ごとではなく部隊単位だが、それでもグードルデン第一軍団はこのとき皇国で最も優れた軍事集団だっただろう。
しかし、ガラハが唯一連れていかなかった兵種がある。
砲兵だ。
今回の白狼越え、鈍重な砲を牽いていては間に合わないと判断したのか、ガラハは砲兵の総てをレクティファールに預け、その代わりに高威力魔法を行使出来る高位の魔導師を軍団に組み入れた。
元々数の限られる魔導師の代替として発達したという歴史を持つ皇国砲兵は、野戦や攻城戦などで大きな戦果を挙げてきた。やがて軽量で馬が牽く騎兵砲や動力車に載せられた砲も作られ、機動力を求められる騎兵部隊にすら砲兵は不可欠な存在となっていた。
しかし砲兵がどれだけ機動力を培っても、砲という彼らの存在意義が大荷物であることには変わりが無い。厳しい環境を乗り越えなくてはならない白狼越えには普通の馬に乗る騎兵さえ連れていってもらえず、寒さに強い陸竜や幻想種の天馬、一角馬、八脚馬などを運用する騎兵部隊のみがガラハの指揮下に入った。
普通の将ならレクティファールに遠慮して軍団を編成するものだが、ガラハは軍団編成の許可を得るとそんな遠慮や心遣いなど一切無く、これ以上無いというほど厳格な基準で部隊を選び出して軍団とした。
それだけの精兵が揃っているからこそ、僅か数日の訓練で軍団として纏まったのだとレクティファールは思っている。そう考えると、ガラハの判断は正しかったのだろう。
「帝国軍の動きは」
レクティファールの問いにこの場で筆頭の参謀――――要塞防衛軍次席参謀ハルエリオ・ハルアリオ大佐が答える。
要塞防衛軍の参謀長はガラハに同行してしまい、彼女が参謀たちの中で最も上位になる。ハルエリオ・ハルアリオは起立すると、レクティファールの前方に幾つかの情報を投影した。
真っ赤に染め抜かれた帝国軍と青く塗り潰された自軍の配置図。
要塞前方に布陣している圧倒的な数の赤に対し、青は余りにも少ない。レクティファールはその配置図を見て、少しだけ顔を顰めた。
「帝国軍はこれまでと同様に我が要塞前方に布陣、波状攻撃を仕掛けてきております。隠蔽砲塁も幾つか破壊されていますが、第三防衛線を突破されてはいません。ただ、このまま攻撃を続けても敵の損害は増えるばかり、恐らく『ウィルマグス』の巨大攻城砲――――『ムジョルニア』の発射を待っているのではないかと考えられます」
便宜上『ムジョルニア』という名を与えられた帝国側の対パラティオン用の巨大攻城砲。これが帝国の切り札であるということは皇国側の常識になっていた。
しかし、要塞から直接『ムジョルニア』を攻撃することは出来ないし、正面の帝国軍を突破することも出来ない。
手も足も出ないとはまさにこのこと。それでも何とか『ムジョルニア』を無力化しなくてはならない。その為に白狼越えという前代未聞の大博打を打つ羽目になったのだ。成功すれば大陸の戦史に残る作戦だろう。
グードルデン第一軍団が白狼山脈を越えて『ウィルマグス』に攻撃を仕掛ける予定日まであと三日。それまでは何が何でもパラティオンを突破されるわけにはいかない。
たとえ『ムジョルニア』を破壊してもパラティオン要塞が突破されれば意味はない。逆にパラティオン要塞がどれだけ正面の帝国軍相手に持ち堪えても、結局は『ムジョルニア』を落とさなくては結局負ける。皇国は土壇場に追い詰められていた。
「防衛部隊の配置は」
「各堡塁にそれぞれ一個中隊以上、さらに要塞前に第二〇三、二〇四の各師団を中核にして防衛線を敷いています。要塞には第二〇六七旅団を始め三個旅団を配置しました。それに伴い、予備はもう一個師団分もありません」
「予備は旅団規模で運用するしかないか。苦労をかけるな」
「いえ、司令官閣下の軍団が抜けた穴を埋めるには出し惜しみなど無理なことです。殿下のご采配に間違いはありません」
ハルエリオ・ハルアリオの言葉に何名かの参謀が頷く。ちらりと見てみれば、リーデも小さく頷いていた。
元々の要塞防衛軍は二〇〇〇〇を超える程度であったが、今の四一〇〇〇が多いということはない。帝国軍の数が予想の数倍に増加した時点で元々の戦力で対抗することは不可能になったのだ。
レクティファールが援軍を率いてこなければ、パラティオンは『ムジョルニア』の登場を待つことなく陥落していたかもしれない。ガラハが良将であることに疑いはないが、たった一人の将帥に総てを任せるような軍隊が国家を守れる筈もないだろう。
「各部署には私の名前で督励を。引き続きこれまでの方針通りに防衛線の維持を続けるように」
「了解しました、殿下」
ハルエリオ・ハルアリオが頭を下げ、部下たちに指示を出していく。
レクティファール自身は何の軍事教育も受けていないから、彼自身が直接指示を出すことは出来ない。尤も、司令官とは決断の責任を負うための存在だから、大凡の方針さえ示せば後は幕僚たちの仕事だ。
にわかに慌ただしくなる司令室の光景を見ながら、レクティファールはこうして相対することになった敵将のことを考える。
グロリエ・デル・アルマダ。
まさに戦う者として生まれてきたかのような戦歴の持ち主で、帝国が祀る軍神“アーリ”の娘とも言われているらしい。レクティファールのようになし崩しに軍の司令官に座った訳ではなく、幼少の頃から“そうなる為”に教育されてきた、まさに戦いの申し子。
戦況図を見ても、手持ちの火力を一点に集中させてこちらの拠点を一箇所一箇所的確に潰してきていることが分かる。
要塞というのは各拠点が相互に支援を行えるように配置されているから、何処かの拠点が失われれば当然その分の負担は別の拠点に掛かる。そしてその過剰な負担で動きの鈍化した拠点を次の目標にして火力を集中、そしてその火砲の援護の下歩兵が突撃し拠点を落とす。
言葉にすればこれだけのことだが、拠点の配置などから最も効率のいい侵攻路を選び取っている辺り、これは教育の賜物というよりも生まれ持っての勘――――言うなれば天賦の才に近いものだとレクティファールは思っていた。
こんな人物を相手にして戦わなくてはならない自分の運には呆れるばかりだが、一度責任を負ったからには投げ出すことは許されない。
今使える総てを使ってこの状況を打開する。
それが今のレクティファールの仕事、酷く難しい仕事だった。
グロリエは本陣の中心に置かれた自身の天幕で唸っていた。人払いを済ませた天幕に彼女以外の姿はない。
戦況に変化はない。しかし、変化がないということが彼女に言い様のない不快感を覚えさせていた。
彼女は『ウィルマグス』上空に侵入した正体不明の飛行物体が皇国の偵察騎であったのだと半ば確信している。これは“勘”と言うしかないようなものであったが、彼女はこの“勘”で数多の戦場を勝ち抜いてきた。
祖母の言葉を信じるなら、この“勘”は本能と言うより経験に裏打ちされた無意識の計算のようなものだということだ。
これまでに経験した情報が意識内で無意識に演算され、現在の状況とその演算結果を照らし合わせている。その照合結果が“勘”という形でグロリエに危険を知らせている。
祖母の言うことであるから的外れではないのだろう。だが、彼女にはそれを容易に認めるだけの経験はない。
いや、たとえ認められてもそれは彼女の戦術にどのような影響も与えなかっただろう。
グロリエの基本戦術はその性格に似合わず実直そのもののそれで、敵の数倍の戦力を用意してはそれを相手の最も弱い場所に叩き付けるというものだ。
ただ、その叩き付け方が尋常ではない。
相手が最も嫌がる場所を見つけ出し、敵が最も嫌がる時期に叩き付ける。
これをほぼ完全に成し遂げられるからこそ、この年齢でこれだけの地位にいると言っても過言ではない。
だが、そんな彼女だからこそ今回の皇国の動きが何とも不気味に映るのだろう。
こちらの必勝策を知っていながら手を出してこない。少数部隊による浸透戦術でも使うつもりかと警戒は強めているが、これまでの報告を纏めてみればその動きもないという。
「――――嫌な相手だ」
もう一人の帝族元帥である兄バレストローラによく似た戦い方。
彼女の兄は徹底して外堀を埋めてから直接戦闘に打って出るタイプで、実際に戦闘が始まる頃には既に戦い全体の決着が付いている。
兄の思惑に気付いたとしても、その時点から戦局をひっくり返すなど殆ど不可能に等しいのだ。
そんな兄を見てきたからこそ、グロリエはいっそ狂信的と言っても良いぐらいに戦力の一点集中戦術を多用する。例え戦場全体で不利な状況に陥っていても、一箇所ごとに有利な状況を作り上げていけばやがて戦場全体の戦局も変えられると考えたからだ。
兄はそんなグロリエの戦い方を見て朗らかな笑みを浮かべていたが、その実彼女を見る目は鋭いままだった。いつか帝位を巡って争う運命にある妹の成長を兄がどのように思っているか、想像することは容易い。
帝国の帝族の歴史とは、そのまま血みどろの帝位争いの歴史だ。
親が子を、子が親を殺し、兄弟同士、親戚同士でも謀略暗殺が日常的に行われてきた。
グロリエの父であるクセルクセス一〇世も、兄弟姉妹を手に掛けた上、当時の時期帝王最有力候補であった前帝王の弟、つまりは叔父を暗殺して玉座についた男だ。
今でこそ父王の威光が皇子や皇女の争いを抑え付けているが、その父王も既に齢六〇を越える。例え崩御しなくとも、病臥するようなことになれば彼の子どもたちは跡目を巡って争うことになるだろう。
クセルクセス一〇世はグロリエを一等気に入っているが、それでも自らの後継者に指名するような真似はしない。そんなことをすれば他の皇子皇女が手を組んで自分とグロリエを排斥しようとするかもしれないからだ。
自分を暗殺し、その濡れ衣をグロリエに着せる。
それだけで自分たちの手元に帝位が転がり込んでくるのだから彼らは間違いなくやる。
まだ時期帝王である皇太子が決まっていないからこそ、水面下の争いで済んでいるのだ。
「――――我が国の現状を知ったら、あの摂政とて声を上げて笑うかもしれないな」
実は、つい一〇年前まで帝国には皇太子がいた。
現帝王の第一皇子、ディトリア・ファス・アルマダ。
当時時期帝王確実とまで言われた彼は突如として皇太子の地位を捨て、この皇国との最前線に接する王国の国王となった。
国王といえば聞こえは良いが、所詮『ウィルマグス』を始めとした帝室直轄領に国土の二割を奪われた帝国内の小国の王に過ぎない。
或いは、ディトリアがいれば時期帝王を巡る争いも小さなもので済んだかもしれないが、彼は既に帝位継承権を放棄している。それによって次期帝王争いは幾人もの帝族が犇めき合う団子状態に陥り、未だ数名の有力候補を出すに留まっている。
その有力候補であっても、他の候補から隔絶した勢力を持っている訳ではない。
グロリエは軍の一部若手将校と父王の権威で有力候補の一人とされているが、所詮は最小派閥。第四皇子バレストローラは軍の過半の支持を受け、さらに第一皇女パルイエットが有力貴族たちの支持を、第二皇子ガルガイアンは大商会とそれと取引のある職業組合の支持を受けている。
およそ次の帝王はこの四名の何れかだと思われているが、他の帝位継承者が有力な後ろ盾を手に入れることが出来ればまだ状況は変わるだろう。
さらに、帝位継承権を放棄したディトリアには息子と娘がいる。
嘗てディトリアを支持しており、現在も旗色を明らかにしていない有力貴族や軍高官はこの子供たちを神輿にしようとしているという話だ。
帝孫ともなれば当然帝位継承権はある。
元皇太子のディトリアが本気で子供を帝位に付けようと思えば、他の有力候補を推している勢力のいくらかはそちらに靡くかもしれない。息子か娘が帝位に付けばディトリアは帝父となり、帝国の実権を握ることも出来るのだから無理もないだろう。
しかし、ディトリアはその気配を見せていなかった。継承権の放棄以来自分の国に引き篭もり、細々と国を取り仕切っているだけだ。
グロリエとしてはいっそディトリアに立って貰いたいとさえ思っていた。
この拗れに拗れた帝位継承争い、これを終わらせることが出来るのは父王かディトリアのどちらかしかいない。
だが、それは土台無理な話だ。
ディトリアが帝位継承権を放棄した本当の理由――――帝国では人として認められていない獣人の娘を妃として娶ったという現実がそれを邪魔する。
父王こそそれを擁護しているが、頭の固い貴族などは公然と国是に反したディトリアを暗殺しようとさえした。
獣人族とはいえディトリアの妃は軍で大いに活躍した英雄。しっかりとした段階を踏めば正式に皇太子妃として認められていたかもしれない。だが、ディトリアは妃とその腹の中にいた娘を守るために帝位継承権を放棄し、望んで辺境の王国に封じられる結果となった。
この結果に何人の兄弟姉妹がほくそ笑んだのか、グロリエには分からない。
当時一〇歳にもならなかったグロリエは、大人たちの権力争いから遠ざけられていた。
ただ、ディトリアが帝都のイードヴェリウム宮を去ったあの日、彼女は兄が何処か晴れやかな顔をしていたのを覚えている。
今なら当時の兄の気持ちが多少理解出来る。兄は身内のくだらない争いに嫌気が差し、そのくだらない争いに自分の家族が巻き込まれることを恐れたのだ。
自分の身一つで片が付くなら良い。
だが、生まれてもいない子供や細君が巻き添えとなることは許容出来なかった。きっとそういうことだ。
そこまで考え、グロリエは天を仰いで眉間を揉み解す。
「――――今そんなことを考えても仕方がないか」
さらに軽く頭を振ったグロリエは、ともすれば脇道に逸れようとする思考を無理やり引き戻し、目の前に置かれた戦況図に目を落とす。
これまでの攻撃で要塞の防衛線を幾つも突破している。
しかし、相も変わらずパラティオンそのものが揺らぐ様子はない。確かに要塞前方に点在する防衛拠点は落としているが、要塞本体には殆ど傷を負わせていないのだから当たり前だ。理想を言うなら、“雷霆”の投入前にある程度の決着を付けておきたかった。
要塞に肉薄した状態で“雷霆”を投入し、相手が抵抗出来ない内に要塞を突破する。
一度要塞内に突入出来れば、数に物を言わせて内部から要塞を乗っ取ることだって出来るだろう。
グロリエとしては、出来るだけ兵士たちに死を強要したくはなかった。
彼らの仕事が死ぬことだとしても、無意味に殺して良い兵など一人もいない。死ぬのなら意味のある死を与える、これこそが彼女の仕事の筈だ。
しかし、彼女の仕事を単純に勝利することだと思っている将帥のなんと多いことか。
自分に気に入られるためだけ、たったそれだけのために自分の下にいる兵士たちに無意味な死を強要している数名の将軍の顔を思い浮かべ、彼女は大きく溜息を吐いた。
官僚的と言っていいだろう。
許されている限度一杯まで権利を行使する割に、義務は最低限しか果たさない彼ら。グロリエ個人としては部下を好き嫌いで判断したりはしないが、あれが父の臣下であると思うと暗澹たる気分にもなる。
次期帝王に決まった訳でもないのに国家の行く末を案じる自分に苦笑しつつも、今のこの国の状況は冗談では済まないかもしれないとも思い始めていた。
日々皇国と相対し、皇国兵の姿を見てその気持ちは大きくなるばかり。
徴兵され、基本のみの速成訓練を受けただけの新兵さえも最前線に投入する帝国と、年単位の訓練を終えた志願兵のみで構成された皇国軍。
その軍隊としての質の差は最早隠しようもない。
グロリエは時間さえあれば自分の軍集団に訓練を課して質の向上を図っているが、ある程度育つと他の方面に引き抜かれてしまう。
何度軍本営に抗議しても「大元帥陛下のご意思」と切り捨てられ、父に直談判して軍を掣肘して貰おうと思っても、その強固な官僚社会にはあまり効果が現れない。
軍の反応が鈍い理由の一つとして、娘の求めという弱い根拠では帝王とてそうそう強い態度には出られないということもある。
帝王は帝国の絶対的専制者だが、軍の総てを知っている訳ではない。軍人たちの逃げ道など幾らでもあるのだ。
「戦が長引けば、いずれ我が国は内部から崩れる」
グロリエは密かにそんな考えを持っていた。
西方戦線と東方戦線。帝国の抱える大きな戦線はこの二つだが、もっと小規模な戦場は無数にある。
皇国の西にある民主主義国家群とも小競り合いが続いており、このアルマダ大陸は帝国にとっての従属国家か敵対国家の二つのみが存在していると言って間違いない。
皇国も厳しい状況だが、帝国も常に崩壊の危機を内包している。
外征を行って領土を増やし、その土地から搾り取った富を国内にばらまいているからこその繁栄。
帝国は敵を作り国内を纏め上げる。敵がいなければ幻の敵を見せてでも、だ。
「国家が国家として生きるということは、有意義に見せかけた無意義を国民に見せ続けること」
グロリエにそう語ったのはディトリアだ。
彼は続けてこうも言っていた。
「そして良き元首とは、見せかけだけの無意義を有意義に変貌させる者を言う」
グロリエは自分の頭を撫でながらそう教えてくれたディトリアに、
「兄上は良き元首になるのか」
と問うた。
ディトリアは幼い妹の言葉に目を見開き、すぐに苦笑でそれを隠してしまった。
すでに次期帝王としての未来が決まりかけていた当時のディトリアにとって、グロリエの問い掛けはそれこそ有意義に見せかけた無意義だったのだろう。
良き元首とは“なる”ものではなく、あとから“なった”と評されるものだからだ。
どれだけ努力したとしても結果がどうなるかは分からない。
諸外国から見た良き元首が国内では独裁者であることも十分にあり得るし、逆もあり得る。
万人にとっての良き元首、良き君主とは存在しない。
皇国の民にとっての英雄、輝ける未来の象徴であるレクティファールが帝国にとっての悪魔、冥界への導き手であるように、グロリエは帝国の民にとって英雄として相応しい存在だが、皇国の民にとっては地獄の使者となる。
これこそが世界に充ち満ちる大いなる矛盾。
人々が“個”を得た瞬間にこの世に生まれた魔物。
多くの生命を喰らう、亡霊。
だが――――
「――――それは、人が人として繁栄するために不可欠な福音」
相手を殺し、犯し、奪い、虐げ、辱め、そして、産み、愛し、与え、慈しみ、讃えるための根源的欲求。
「ふふふ、兄上、最近余は少しだけ分かった」
他人を他人と思い、尚欲する心。
それこそが繁栄と崩壊の一因。
「滅ぼすか滅ぼされるかの戦いだというのにこうも心が満たされる理由……」
それは、欲する心が満たされ始めたから。
戦いたい、思う存分、自分の総てを賭して。
「――――兄上は義姉上を欲したから、義姉上で自分を満たしたくなったのだな」
自分はこの力を全力で揮える相手を欲し、あの男で自分を満たしたくなった。
嗚呼、そのなんと愚かしく甘美なこと。
「欲することこそ人の根源であるというのならば、余は人としてあの男と戦うまでだ」
グロリエは立ち上がり、大声で従兵を呼ぶ、おっかなびっくり顔を出した従兵に自ら前線視察を行う旨を関係各所に伝えるよう言い付ける。
さらに外套と馬を引くよう命じると、彼女は天幕の外へと歩き出した。
「さあ、戦争の時間だぞ星の龍皇!」
天幕から踏み出した彼女の目に、青空が広がった。
グードルデン第一軍団は氷狼族の先導を受け、白狼山脈の中を縦横無尽に走る洞穴の中を進んでいた。
明かりを灯した兵士たちは閉塞的な行軍路に辟易としながらも、遥か遠くの帝国軍に聞こえるはずもないのに声を落として囁き合っている。さらに大型の駆動輪を持つ軍用車の奏でる機関音が静かに響いていた。
流石に精兵と言われる兵たちばかり集められているだけあって、行軍に乱れはない。さらに、この戦いに負ければ自分たちの国が蹂躙されることはよく分かっており、その士気も行軍中としては異例なほど旺盛だった。
国家の命運を懸けた大事な作戦に選ばれたという喜び。
それは彼らの自尊心を充たすだけではなく、感染病のように周囲に拡がっていく。その病の熱に浮かされた兵士たちの表情を行列の中央付近で眺めながら、私物である一角馬に乗ったガラハが隣を歩く氷狼に声を掛けた。
「まさか、こうして氷狼族と轡を並べて戦うことになろうとは……正直想像さえしていなかった」
「私も同じだ。こうして我が一族の土地に軍を入れるだけではなく、道案内まですることになろうとはな」
狼の姿ではあったが、流暢な人語が返ってくる。
ガラハには氷狼の見分けは出来ないが、この氷狼がグードルデンという名であるということは知っていた。
白狼山脈に入ってからずっと、この氷狼はガラハの傍にあったからだ。
「諸君らの頑固さと気紛れは前任者からよく聞かされたものだ。麓の子供が山に迷い込んだのを村まで送ってきたかと思えば、次の日には墜落した竜騎士と飛竜を死体の状態で要塞前に置き捨てる。付き合うには骨の折れる相手だと言っていた」
「我が一族とて、君たち皇国軍には手を焼いた。何処から迷い込んだのかは知らないが、我々を敵と勘違いして襲いかかってきたことがある。当時は帝国なんてものは無かったらしいが、北の蛮族とは戦争を続けていたからな。君たちの先達はよく山に迷い込んでいたよ。族長が本当にこれで国を守れるのかと心配したと聞いている」
辛辣な物言いではあるが、二人に悪意はない。
周囲の皇国兵はグードルデンの言葉に眉を跳ね上げたり肩を震わせたりと非常に分り易い反応を繰り返していたが、ガラハは常に同じ表情で淡々としていた。
グードルデンも同じように、淡白なものだ。
「ただ、北を氷狼族が守っていてくれたから、今の皇国はある。小官はそう思っている」
「私も、個人的には皇国の者共が嫌いじゃない。麓の猟師たちとは時折鍋を囲んだりもしているしな」
「ほう、それは……」
ガラハが面白がる様にグードルデンを見下ろす。氷狼はそんなガラハの表情に気付かない振りをして、言った。
「戦いが済んだら、一度麓の村に行ってみるといい。白狼雷鳥の肉などは非常に美味だぞ」
「氷狼族は必要最低限の獲物しか取らないと聞いていたが、何事にも例外はあるらしい」
ガラハはくく、と喉を鳴らした。
人にも個性がある。なら、氷狼にも個性があるのだろう。
そもそもこのグードルデンという氷狼は、人の姿になっては麓まで降りてきていたという。
ひょっとしたらガラハも何処かで顔を合わせたことがあるかもしれない。
「例外といえば、新たな皇王も例外的な皇王らしいな」
グードルデンの笑いを含んだ声。
ガラハはその問い掛けの意味に気付き、その表情を歪めた。
「ああ、皇王としてはいっそ珍しいほど――――」
そして、吐き捨てる。
「――――甘く、優しく、果断で……なのに限りなく残酷になれる、皇王に向かない男だ」
片や明確な侵攻意図を持って、片や国家の存亡を賭けて、共に全力で激突した両軍の損害は加速度的に増えた。
帝国側の膨大な物量に皇国は地の利と高い質で対抗し、帝国はその抵抗を圧し潰さんとさらにその重圧を高めていく。
新たに徴兵された帝国兵は所詮皇国など時代遅れの武器兵装ばかり使う蛮族に過ぎないと教えられ、実際に皇国兵が弩弓などを持っているのを見て密かに安堵していた。彼らはその安堵から来る優越感を胸に敵陣に向けて突撃を仕掛け――――しかし予想に反して次々と討ち取られた。
彼らは知らなかった。皇国兵の個人携行武器が弩弓であるのには明確な理由があり、それは皇国軍事技術の根幹を成している付与式の魔法術式だということを。
この技術には大前提となる一つの法則がある。付与出来る術式の量は付与対象となる物体の質量と材質に影響するというものだ。刻める術式の量は対象となる物体の質量に比例し、また無機物よりも有機物の方が刻める量が多い。
つまり銃の弾丸よりも弩弓の矢の方が多くの術式を付与でき、その分威力や命中性能が優れるということだ。
無論弾丸や弓を発射する装置の側にも術式を刻むことは出来る。しかし一度発射した弾や矢はそれそのものに刻まれた術式に従って威力を発揮するので、発射装置に刻まれる術式とは基本的に発射速度の向上と弾道の安定化に重きが置かれる。
無論、銃などは発射速度が上がれば威力が増すという面はある。しかしその質量の小さい弾丸に付与出来る術式は少なく、最終的には弩弓と矢の方が高威力となった。
弾丸の場合は相手兵士の持つ護法術式を突破するのに何発も撃ち込まなくてはならなかったが、術式付与された矢は一発で相手の護法術式を貫くことが出来る。さらに弾丸を誘導することは出来ないが、矢なら刻んだ術式で敵を追尾することが可能であった。
しかしながら、それだけの術式を刻めば兵器一式辺りのコストは上昇する。
低コスト低性能の銃か、高コスト高性能の魔動式弩弓か。
帝国のように質よりも数を優先する軍隊なら前者の方がその体質に合っており、皇国の場合は高コストであっても兵士一人辺りの戦闘能力が高くなる後者を選んだ。
帝国の場合は術式付与技術に劣っているという面も確かにあったが、何よりも皇国兵に比べて“死に易い”兵士一人一人に金を掛けることを避けたという側面もある。
経験の浅い帝国兵が思っているように帝国の銃が皇国の弩弓に比べて優れているということはなく、彼らがそれを知るにはまず生き残らなくてはならない。そして生き残ることが出来たのなら、今度は自分たちの武器が相手より劣っているという劣等感、そして恐怖と戦うことになるのだ。
古参の帝国兵は自分たちの持っている武器が、信用は出来るが、決して優れている訳ではないと知っている。だから生き残れるし、皇国の弩弓は装弾数が少ないという弱点を突くべく、攻撃に晒されながらもそれに耐えて反撃の機会を窺うことが出来るようになる。
そんな古参兵に率いられた帝国兵の一団は皇国の攻撃が緩んだ瞬間に壕を飛び出し、その銃を乱射しながら突き進んで行く。
混血種相手であるなら、人間種でも十分に戦える。混血種と人間種の違いなど、寿命と僅かな使用魔力の差くらいしか無い。
皇国の守る壕に飛び込んだ帝国兵たちは銃剣を振り翳して皇国兵に躍りかかり、次々と死体を生産していく。
生産される死体は皇国兵であったり、帝国兵であったり、一切の不公平なく均等に死が量産された。
死は常に平等で、これだけは誰にでも訪れる。
帝国兵はそれを実感しながら皇国兵を殺し、次の瞬間には別の皇国兵に殺された。
そんな光景が繰り広げられ、パラティオン要塞前の激戦区には血と硝煙の匂いのする空気が充満した。時間が経てばこの匂いは腐った肉の匂いに変わり、そして最後には人々の記憶から消え去る。
雄叫びを上げながら巨人族の兵士に飛び掛る帝国兵。その帝国兵はすぐに巨人族の巨大な腕に捕まり、背骨をへし折られて絶命した。だが、仲間の仇を討つというよりも、自分が死にたくないと願う別の帝国兵たちが次々と巨人族の身体に飛び掛り、その体に銃剣や短剣を突き刺していく。結局巨人族は十数人の帝国兵を道連れに息絶えたが、その姿を賞賛する者はいない。
死にたくない。だから殺す。
生物的に至極真っ当な欲望の花が乱れ咲き、殺し殺されるという光景は珍しくないのだ。
どれだけ英雄的に戦おうとも死ねばそこで終わり、相手に慈悲を掛ける余裕もなく。相手を殺して殺し多分自分が長生きするだけ。
初めて人を殺した衝撃に怯える帝国の少年兵は僅か数分後には歓喜の声を上げながら次々と皇国兵を殺す英雄となり、つい数分前まで部下を率いて英雄的に戦っていた帝国軍士官は、部下が全滅するや皇国兵に命乞いをする俗物に成り下がる。
英雄が生まれ、英雄が殺され、英雄が堕ちる。
戦場では賞賛される英雄が現れ、そして賞賛されない英雄が消える。
争いを知らぬ人々が英雄譚で読むような美しく身奇麗な戦いは、ここには存在しない。
戦場とは飢えれば屍肉を喰らい、渇けば血を啜る悪鬼の宴。
悪鬼は後に英雄と呼ばれるようになり、或いは殺人鬼と貶められるのだろう。
だが、ここには殺す者と殺される者の二種類しかいない。
まさに究極の不平等であり、至高の平等。
たった二人の指揮官が望んだ地獄がそこにあった。
レクティファールが前線視察という名目で各陣地を激励して回る間にも皇国軍の兵士は次々と死んでいく。
グロリエが馬を駆って兵士たちにその姿を誇示している間にも帝国軍の兵士は次々と物言わぬ骸に変わっていった。
これは正義の戦いだと両者は言う。
大義は我らにあると誇る。
敵を蛮族や獣と貶め、自らこそが正しいと叫ぶ。
どこの戦場でも繰り返された空虚な言葉の数々、それでも兵士たちはその言葉を信じて戦い続ける。
何故か、決まっている。
戦うに足る理由があるからだ。
生きるため、名誉のため、譲れないもののため、どれであっても命を賭ける価値がある。
相手を殺す価値がある。
相手の総てを否定する価値がある。
「ここより背後には諸君らの守るべき国、守るべき人々しかいない。そうだ、これほど分り易い戦いはない。退けばそれだけ我らの守るべきものが侵される、倒れればそれだけ我らの大切なものが奪われる、殺されればそれだけ我々の救いたい人が殺される。私を許せとは言わない、だが、今は後顧せず戦って欲しい。私は諸君らの奮戦を忘れない、この生命ある限り諸君らの命に報い続ける」
レクティファールは摂政としての仮面の下で、それでも嘘を吐かずに訴える。
言葉によって国民を殺すことはしよう。
だが、言葉によって国民を欺く真似はしない。
たとえ人々がレクティファールを虚言者として罵倒しようとも、自ら嘘は吐かない。
「我が帝国より約束の地を奪った魔獣共に正義を示せ。貴様らの献身に我が帝国は応えよう。諸君らが勝ち取った地は、誓って諸君らのものである。我らは奪うのではない、奪還するのだ。古に我らの先祖が奪われた肥沃な地、多くの知識、大いなる繁栄。ヒトの形を真似たヒトならざる者共から、あの日の暖かな日々を取り戻せ」
グロリエは帝国が掲げる理想を謳い続ける。
それが自分の理想であると信じ、兵士に理想に殉じろと命じる。
凍えぬ土地、豊かな資源、碧い海。
帝国の欲する総てがパラティオンの向こうにある。
「戦え」
二人は命じる。
互いに退けない理由があった。
退けば滅びる。
二人とも、それを許せる立場ではない。
戦わなくてはならない。
殺人者と罵られても、悪魔と貶められても。
それが時代の大きなうねり、逆らえぬ時の潮流。
戦いこそが今の時代。
戦いこそが正義。
少なくとも、今このとき、この場所ではそうだった。
軍靴の鳴らす地響きと喚声。
そして着弾の振動と悲鳴。
レクティファールは戦場の最中にあってそれを睥睨する。
眼下では帝国兵が吹き飛び、皇国兵が串刺しにされていた。
獣、そう獣のような争い。彼らを知恵ある者共などと呼ぶには抵抗さえ感じる。
「第一一二四砲塁は放棄。要塞第一〇九砲塔に援護要請。――――第四四地区より中隊規模の敵影」
「第四戦闘区域のベルゲイン中佐の大隊を差し向けろ、絶対に通すな!」
「は」
淡々と戦況を報じる情報分析官は機族の女性大尉。
機族は元々感情の起伏が乏しく、荒事を専門とする軍や衛視庁では情報分析官として非常に重宝されていた。予想外の事態に動揺するようでは分析官は務まらない。
彼女の言葉を聞きながら指揮を執っているのがこの最前線の陣地の責任者である陸軍少将。
初老の混血種で、手堅い指揮で定評のある男だった。
レクティファールの前線視察にこの陣地が選ばれたのも、おそらく彼の堅実な指揮官ぶりが評価されてのことだろう。
「――――殿下、ここもその内砲火に晒されます。パラティオンにお戻りを」
しかし、その少将を以てしても戦線を支えきれないらしい。
レクティファールは指揮官の役割として前線視察を行っているが、少将にとって戦えない人間は邪魔なのだろう。戦おうと思えば戦えないことはないのだろうが、レクティファールの仕事はそうではない。
戦況の把握は指揮官の大切な役割であるが、兵士の真似事をすることは指揮官の職分から逸脱している。
レクティファールもそれに気付いていたから、背後で自分を窺うリーデに小さく頷いてみせた。
「では、帰還の準備を始めます」
リーデがそう言って指揮所から去っていく、レクティファールはその後姿を見送ると少将に問い掛けた。
時間がないため、その質問は非常に簡潔なものだった。
「いつまで陣地を保持出来る?」
少将はレクティファールの言葉に少し考える素振りを見せたが、それでも気分を害したようには見えなかった。
彼も軍人として上役の不躾な質問には慣れていた。だが、こういう場面では実の伴わない激励よりも冷たい現実の方が有り難い。
「――――今日一日は保証致します。ですが、それ以上は保証しかねます」
これが少将の精一杯だった。
戦場に楽観論はいらない。
必要なのは最悪に近い現実を直視することで、それ以上でもそれ以下でもない。
レクティファールは少将の言葉に頷き、外套を翻して出口に向かう。
自分に出来る最上級の仕事をしている少将に余計な言葉は必要ない。
だが、レクティファールは出口で立ち止まり、呟くように一言だけ漏らした。
「あなたは良い指揮官だ。そして、あなたの部隊は良い部隊だ」
レクティファールのような素人が口に出来る賞賛など彼らにとってどれ程の意味があるのか分からない。
しかし、自分の命令で死ぬ人々にレクティアファールは最大の賛辞を送りたかった。
少将は特に感情を表さないまま頷き、レクティファールを促す。
「部下にも伝えましょう。御武運を、殿下」
「ああ」
少将は小さく頭を下げ、すぐに指揮に戻った。
レクティファールは随員を伴って指揮所をあとにする。
カツカツと打ち鳴らされる靴音が廊下に響き渡る中、随員の一人がふとレクティファールの顔を覗き込む。
その表情に変化はなかった。
愚直なほど真っ直ぐに前だけを見ている。
しかし、何かに急かされているようにも見えた。
レクティファールは誰にともなく問う。
「ガラハ中将の軍団が『ムジョルニア』攻撃を開始するまであとどれくらいだ」
随員の一人、少佐参謀が答えた。
「あと一日半と言ったところでしょう。遅滞なく進行中とのことですので」
「――――そうか」
レクティファールは短い諒解の返答だけでそれ以上の言葉は発しなかった。
それから丸一日、ガラハ率いるグードルデン第一軍団が白狼山脈を越えて『ウィルマグス』を眼下に収めた頃、事態は動き始める。
彼ら第一軍団の前に威容を見せ付けていた巨大な斜塔。
帝国軍の切り札である“雷霆”――――皇国側名称『ムジョルニア』が突如火を吹いたのだ。
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