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王佐の才
作:堀井 俊貴



第36話 金ヶ崎の退き口(3)


 軍議が終わると、諸将は戦の最終準備をするためにそれぞれに手勢の元へと戻って行った。

「まだしばらく時がある。今のうちに、そこいらを一回りしてくるわ」

 藤吉朗はそう言い残し、数人の武者を引き連れて余裕綽々といったていを作りつつ大手門の方へと去った。士気を鼓舞するために、家来や雑兵たちに声を掛けて回ろうというのだろう。
 藤吉朗にとっても、自分を守ってくれる彼ら一人一人がまさに命綱なのである。

 これまでにも何度か触れたが、銭で雇われただけの織田家の足軽たちは、ひとたび戦況が劣勢になると、蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまうという悪癖を持っている。これが藤吉朗にとっての最大の懸念だったのだが、しかし、木下勢に属している雑兵たちは、自分たちが置かれた状況の悲惨さを忘れたかのように表情が明るかったし、その士気も不思議なほどに高かった。
 驚くべきことだが、逃亡する者もほとんど出ていなかったのである。

 木下勢の人々は、自分たちの大将が無謀な男でないことを知っていたし、無能な男でないこともよく知っていた。藤吉朗は、清洲城の石垣修理や墨俣の短期築城など、およそ不可能と思われるようなことを自ら買って出て、知恵と才覚をもって魔法のようにそれらをなし遂げ、そのことによって信長に認められ、足軽以下の境涯から織田家の重臣にまで出世を果たしたという、生きた立志伝のような男なのである。これらの履歴が、何より雄弁に藤吉朗という人間を物語っていた。

(わしらの大将は、知恵も運もあるご仁じゃ。その下知に従っておれば、まずまず間違いはあるまい)

 という陽気な楽観が彼らにはあったし、それがこの土壇場においてはほどんど唯一の希望でさえあった。

 雑兵たちにしてみれば、たとえ城を抜けて逃散したところで右も左も解らぬ敦賀の山野に放り出されるというだけのことで、しかも周辺には浅井や朝倉の軍兵が満ち満ちている。運良くそれらから逃げ切ることができたとしても、道中、落ち武者狩りなどの襲撃に脅えねばならず、食い物がなくなれば飢えとも戦わねばならなくなるであろう。実際問題として、この状況では、故郷に帰れる見込みもなければ生き延びられる保証もまったくないわけで、不安というなら独りになることの方がよっぽど不安なのである。
 で、ある以上、あの有能で陽気な大将の下知に従い、皆と一塊になって退却する方がよほどにマシだし、その方が生き延びられる可能性も高いに違いない。

 打算と言えば打算だが、彼らはこの状況でも藤吉朗を信じたわけである。

 統率力とは、一面で大将が士卒からどれだけの信頼を得られるかということで決まる。木下勢がこの期に及んで崩壊しなかったというのは、藤吉朗が持つ統率力の高さを示す証拠として評価して良い。


 ともあれ、藤吉朗や諸将は去り、小一郎はその場に残された。

 軍兵のほとんどは城の外郭である三の丸に配ってあるから、奥まった山腹にある第二の木戸の前は、いまや人影さえない。聞こえるのは風になぶられた旗の音とかがりが燃える音くらいのもので、静か過ぎるほどの静けさである。

 小一郎は床机に座り込んだまま、悄然とただ足元の石くれを見つめていた。

 家来たちの元に戻らねば――
 皆に決死の覚悟をさせねば――

 そんなことをぼんやりと考えはするのだが、どうにも思考が纏まらない。

(やがて敵が攻めてくる。そうなりゃ、わしはここで死ぬ・・・)

 そんな想いが脳裏をぐるぐると駆け巡っていた。

 木下勢は、敵の追撃を一手に引き受けて最後尾で退却する。
 小一郎は、その木下勢の殿しんがりの大将に指名された。
 藤吉朗が織田家のための捨石なら、小一郎はその藤吉朗を逃がすための捨石になるわけで、これはもう、どう考えても生き残れようはずがない。弓矢で射殺されるのか鉄砲で撃ち殺されるのか、はたまた槍で突き殺されるのかは解らないが、いずれにせよ容赦なく敵の手によって殺され、この首が胴体から切り落とされることになるだろう。

 藤吉朗の家来になり、侍になると決めたときから、いつかはこんな日が来るであろうとぼんやりと考えてはいた。「来るべきときが来た」という諦念もあるし、「あのまま百姓を続けておれば良かった」という後悔もなくはない。また、老母を残して先に死なねばならぬという親不孝に対して、若干の後ろめたさと無念さもあった。

(今となっては是非もない・・・悔いても詮無いことじゃ・・・)

 とも思いはするが、嵐の前のこの静けさが、かえって小一郎を物思いに耽らせる。

 篝火にくべられた薪の松が、パチパチとぜる音が、妙に耳障りだった。
 集中しているのだか弛緩しているのだか、自分でもよく解らない。
 水は飲んだばかりなのに、妙に口の中が渇いて不快だった。
 軽い吐き気と、全身の血が足元に向かって落ちてゆくような猛烈な虚脱感がある。
 しかし、恐怖や絶望で頭がいっぱいになっているかといえば、そうでもない。

(本当の瀬戸際とか土壇場とかいうのは、こういうものか――)

 妙に落ち着いた自分が、おどおどする自分を冷笑をもって見下ろしているような、滑稽とも何とも表現しようのない精神状態であった。数刻後には死ぬ、というこの現実に対して、まるで実感が伴わない。

「暑くもなく、寒くもなく――良い宵ですね」

 いつもと変わらぬ落ち着いた声音であった。
 振り仰ぐと、闇の中から人影がゆっくりと近づいて来る。
 今時珍しい革の小札こざね――歩くときの鎧の音でさえそれと解る。
 半兵衛である。

「これは半兵衛殿・・・いらしたのですか・・・」

 藤吉朗に付き従って行ったとばかり思っていた。

「星はあるが月はない。暗夜は夜戦には絶好です」

 半兵衛は置き捨てにされている床机の1つを小一郎の隣に据え、そこに腰を下ろした。
 篝火に照らされて、秀麗な白い顔が薄赤く染まっている。

「酒をもってきました。酔うほどに呑むのは問題ですが、少しなら元気も出ますし、気も落ち着きますよ」

 何も聞かず、半兵衛は土器かわらけ(素焼きの盃)を差し出した。
 小一郎がそれを受け取ると、持参した竹筒から乳白色の酒が注がれた。

「お恥ずかしい・・・・」

 半兵衛の気遣いは有難いが、心配されてしまうほどに憔悴して見える自分の姿が小一郎には情けなかった。たとえ死を目前にしても、せめて堂々と普段通りに振舞うくらいのやせ我慢ができずに、何の武士か――

「こういうお話はあまりしたことがありませんでしたが――」

 勿体を付けたわけでもないのだろうが、半兵衛はたっぷりと間を置いて続けた。

「・・・・死は、怖ろしいですか?」

 いきなり何を言うのか――

「そんなことは・・・」

 ほとんど反射的に否定し掛けて、小一郎は止めた。
 何でもお見通しの半兵衛の前で虚勢を張ったところで、それが何になるというのか。

「・・・正直申しまして、怖ろしいですなぁ。わしは、どうにも臆病で・・・」

 小一郎は呟くように言った。

「人間、生まれた以上は、皆一度は死ぬ。それは、よう解っておるのです。じゃが、わしはまだ死んだことはありませんからなぁ。解らぬことというのは、やはり怖いです」

「私もね、同じです」

 半兵衛は少し照れたように笑った。

「実は、死が怖い」

「・・・・・・」

 意外な告白であった。
 武士にとって「臆病」は最大のタブーだから、怖いなどという言葉はめったに使わないものである。それだけに、半兵衛の口からそれが出たことに、小一郎は軽い衝撃を受けた。

「説法を聞き、仏典に目を通し、叡山の法に触れ、高野山の法に学び、あるいは禅を齧ってみたりと――まぁ、これでも色々とやってはみたのです。世は無常。盛者は必衰。生ある者は必ず死ぬ。解っていても怖いものは怖い。人間いつかは死ぬと決まっているのですが、まだ当分は死にたくないものですね」

 半兵衛でさえそう思っているというのなら、凡夫の自分あたりが死を怖れるのはむしろ当然で、何も恥ずかしいことではないのかもしれない――などと、そんなことをうっすらと思った。
 盃を干すと、半兵衛はさらにもう一杯、酒を注いでくれた。

「とはいえ、敵の出方次第では、私も明日の朝日を拝めぬかもしれません。小一郎殿にも、そのお覚悟だけは、しておいていただかねばなりません」

「わしは――」

 言い掛けて、やめた。
 状況から考えて、自分が死ぬのは、ある意味で当然である。しかし、半兵衛が死ぬかもしれぬというのはどういうことであろう。まして、半兵衛さえ死ぬかもしれぬということは、藤吉朗も死ぬということではないのか――

 そう考えて、小一郎はほんの少しだけ慌てた。
 自分の死はやむを得ぬとしても、ここで藤吉朗にまで死なれてしまっては、自分の死が無駄死にということになってしまうではないか――

「兄者も・・・危ういということですか?」

 先ほどの軍議で、半兵衛は自信たっぷりに軍略を献策していた。その姿を見たものだから、策は当たるのが当然で、退却も成功するのが当然であると小一郎は勝手に思い込んでいた。
 そうではないということか――

「世に、戦ほど先の読み難いものはありません」

 半兵衛はそれには答えず、別のことを言った。

「百の策を練り、千の軍略を描き、万の備えを施したとしても、たったひとつの偶然によって結果があっさりと崩れてしまうのが戦というものです。私は天文も学びましたが、それでも先々の出来事の不確かさを読み切ることまではできません。私の策が図に当たる割合なぞ、せいぜい五分。八卦見(占い師)とそう変わるものではないのです。神ならぬ我が身では、予知はできぬ。明日のことなどは解らぬ。見込みが外れることもある。しかし、それをあらかじめ覚悟した上で策を施すことならば――できる」

「・・・どういうことですか?」

「解りにくいですかね?」

 半兵衛は手酌で土器に酒を満たし、それをあおった。

「では、此度の戦の話をしましょう。先ほど軍議の席で披露した私の策ですが、あの軍略は、我らの寡勢が敵に漏れてないという前提でのみ――この細い糸の上でのみ成り立っています。ですから、たとえば――朝倉殿が忍びの名手でも飼っておったとして、金ヶ崎にも手筒山にも織田勢がほとんどおらぬということが敵に筒抜けであったとすれば、この策はことごとく破れるのです。敵は先手をもって小当たりに当たることをせず、手筒山にも目もくれず、初手から全軍でこの金ヶ崎を総攻めにするでしょう。そうなれば衆寡敵せず――我らはひとたまりもなく負けるでしょうし、私も小一郎殿も死なねばならなくなります。しかし、その場合でも、木下殿にだけは生きて京まで帰ってもらわねばならぬ――ですから、そのときのためにこそ、木下殿には城を出てもらうことにしたのですよ」

「兄者だけは、死なぬ、と・・・?」

「2千の兵と共に城外にあれば、たとえ私の読みが外れ、敵が総攻めを始めようとも、その城攻めの隙をついてそのまま退却することはできましょう。残った城衆が死に物狂いで時を稼げば、おそらくは逃げ切れると思います。どれほどの人数が死んでも、大将さえ生きて帰れば、殿戦は成功ですからね。木下殿にだけは死んでもらっては困る」

 自分の予測が当たった場合はもちろん、それが外れた場合でも藤吉朗だけは生かす――
 半兵衛の策は、二段構えになっていたのである。

 小一郎はいつもながらに感心したが、ただ一点だけに不満を覚えた。

「半兵衛殿には、兄者の傍にあってもらわねば困ります。城に残るは木下家の者のみと、兄者も先ほど申しておったはずです」

 この稀代の軍略家を、こんなところで殺してはならないと、小一郎は思った。
 藤吉朗が生き残るというならなおさら、半兵衛には今後も藤吉朗を支えてもらわねばならない。捨石の役なぞは自分が居れば十分で、半兵衛まで巻き込む必要はない。
 小一郎がそう言うと、

「そうはいきませんよ」

 半兵衛は笑った。

「宣託をし損ねた巫女が死なねばならぬように、軍略を誤った軍師も死なねばならぬものです。私はこれで見栄っ張りですからね。死ぬのは怖いですが、知略で破れ、敗軍の汚名を残し、なお生き恥を晒すというのはご免です。この城で、己の策の行方を見守りますよ」

「それはなりません!」

 小一郎は強く言った。

「半兵衛殿には、兄者の傍に居てもらいます。第一、半兵衛殿は木下勢の軍監。その役儀は、大将の傍らにあらねば務まらぬはずです」

「そんなことは、どうでも良いことです」

 半兵衛は首を振った。

「私の策が当たる割合は五分、と申し上げた。当たったときに、私がこの城で全体の指揮を執らねば軍略が立ち行きません。木下殿が埋兵となって城外にある以上、戦の全体を見渡し、合図をもって兵を動かす人間が必要になりますからね」

 それは、確かにその通りだった。
 敵の動きを読み、戦機を見極め、軍兵を駆け引きさせるとなると、一軍を率いて合戦に臨んだ経験さえない小一郎ではまったく力不足なのである。

「いや、しかし・・・」

 小一郎はなお食い下がった。半兵衛を、こんなところで死なせてはならない。

「私の読みが図に当たれば、私も小一郎殿も生きて帰れるやもしれません。外れれば、私も小一郎殿もここで死ぬ。その方が、解りやすくて良い。ここは一蓮托生、私を信じて、当たる方に賭けてみてくれませんか」

 自分に命を預けろと、半兵衛は言った。
 このことをわざわざ言いに来てくれたのだと、ようやく小一郎は気がついた。

 どうせこの城で死ぬと定めた命である。
 ならば、半兵衛にくれてやったら良い。
 半兵衛の知略に、生死のすべてを預けてしまえば良い。

「・・・解りました。万事、お任せします」

 小一郎は頭を下げた。



 藤吉朗に率いられた2千の軍兵が城を出てしまうと、金ヶ崎城はまったく閑散としてしまった。
 もちろん、外から見れば無数の篝火と旗とによって万余の軍勢が立て篭もっているように見えてはいただろうが、内実は大手門付近にせいぜい8百人ほどがたむろしていたに過ぎないのである。
 金ヶ崎城は海に突き出した岬に築かれた城だから、背後や側面を攻撃に晒される危険が少なく、少人数でも守りやすい要害ではあった。しかし、この大きな城の周囲全域を千人にも満たない人数でカバーするのはまったく不可能で、事実、二の丸、本丸には1人の軍兵も配置されてはいなかった。もし、敵が少数の兵を割き、船などを使って海際の断崖から侵入を企てていたとしたらあっさりと城に入り込むことができたであろうし、半兵衛の偽兵戦術も簡単に見破られていたであろう。

 しかし――幸いなことに――朝倉勢の戦場諜報能力はどうやら低かった。
 迎撃部隊の大将に指名され、2万5千ほどの兵を率いて一乗谷から急行してきた朝倉 景鏡かげあきらは、「金ヶ崎、手筒山ともに、篝、旗などが夥しく、敵の数はざっと数万」という物見の報告を鵜呑みにしたのか動きがひどく慎重で、木の芽峠を越えたところで全軍を休止させ、高地に陣して野営の準備をし始めた。
 本格的に攻めるのは陽が昇ってから、という腹づもりだったのだろう。

 しかし、朝倉方も織田勢撤退の報はさすがに掴んでおり、敵を急追すべきであるという意見も軍の中では大きかった。もし、金ヶ崎・手筒山共に実は喪抜けの空であったとすれば、居もせぬ敵を怖れて追撃を見送った朝倉勢は天下の物笑いになるし、総大将としての景鏡の面目は丸潰れになる。何もせず朝まで時間を過ごしたのでは、怠慢の謗りは免れぬであろう。

 そこで、諸将と協議の末、全軍は臨戦態勢のままに待機し、先鋒の3千だけを金ヶ崎に向かわせることにした。小当たりに当ててみて、敵の様子を窺おうというのである。

 半兵衛の読みは、ものの見事に当たったことになる。

 手に手に松明を掲げた3千の精鋭が、闇を裂くように金ヶ崎へと進軍を開始した。
 街道を取り、2列縦隊でまっしぐらに進んで来る。
 急行軍だけあって付近への警戒なぞはまったくおざなりで、自分たちが半兵衛が作った縦深陣に誘い込まれているということにはまったく想いが及んでいなかった。

 このとき、小一郎と半兵衛は、ごくわずかの伝令将校を伴って金ヶ崎城の本丸の櫓の上に居た。山頂の櫓の上に登れば、南方の敦賀平野などは一望に見渡せるし、北東の木の芽峠の辺り宿営する敵陣の無数の松明までが遠望できる。
 物見からの報告を聞き、敵の松明の動きを見据えていた半兵衛は、

「どうやら初手は、こちらの思惑通りになりそうですね」

 と言って微笑し、すぐにその口元を引き締めた。

「では、そろそろ参るとしますか」

 敵を監視し、何か動きがあれば報せる役の武者を2名だけその場に残し、半兵衛は小一郎を伴って山を降り、大手門の櫓へと移動した。

 金ヶ崎の城門近くまで急進してきた朝倉勢は、そこに居り敷いて火矢を射掛け、少数ながら鉄砲も撃ち掛け、攻撃を開始した。
 すでに準備万端整えて待ち構えていた城方は、慌てることもなく整然と反撃を始める。8百人全員が飛び道具を持ち、櫓や塀の上から雨のように矢弾を降り注がせた。

 城方の反撃に対応し、朝倉勢が竹束の盾を前面に押し並べ、陣を整え、本格的な寄せに掛かった。
 弓隊の援護を受けながら、槍隊が喚き声を上げながら塀際へと押し寄せてくる。
 城方は、この最初の寄せを弓・鉄砲の猛射で退けた。
 いくつかの骸を残して先陣が退却し、繰り代わって第二陣が突撃を敢行した、まさにそのとき――

「頃はよし――」

 半兵衛の合図で、最初の法螺貝かいが吹き鳴らされた。
 闇夜にその音が吸い込まれ、手筒山の山肌に反響すると、手筒山に篭った川並衆たちが呼応するように鬨の声を上げた。
 法螺貝の音と鬨の声が不気味に闇を揺らす。と、その空気の鳴動が終わらぬうちに藤吉朗率いる1千の兵が暗闇から踊り出し、朝倉勢の背後からさんざんに矢を射掛け、その隙に火縄に火を点した2百人の鉄砲隊が居り敷いて鉛弾を斉射した。
 凄まじい射撃の轟音が山にこだまする。
 その反響も消えぬ間に、鉄砲隊・弓隊と繰り代わって前に出た槍隊が、獣のような咆哮を上げながら敵に殺到した。

 朝倉方は、慌てた。
 自分たちが罠に嵌ったことを瞬間的に悟り、狼狽する。

 背後からの突然の攻撃にうろたえつつ、それでもなんとか後衛を反転させて態勢を立て直そうとする敵勢を見、さらに半兵衛は次々と法螺貝を吹かせた。
 四つの部隊に小分けされた残る千人が、法螺貝の音に誘われるように朝倉方の左右側面の森や林から次々と湧き上がった。まず敵の右翼にいた部隊が攻め掛かかって痛撃を与え、敵がそのために態勢を入れ替えたと見るや今度は左翼から別の部隊が法螺貝の音に合わせて襲い掛かる。さらに金ヶ崎の大手門が八の字に開かれ、走り出た木下家の軍兵が弓、鉄砲を至近から猛射し、それがさっと退くと、繰り代わった槍隊が攻め太鼓の轟きに合わせてまっしぐらに敵に突き込んだ。

 夜の闇も、木下勢に味方している。不意をつかれて襲撃された朝倉方にすれば、暗闇の中から次々と殺到してくる敵の兵数がまったく解らない。織田勢が大軍かもしれぬという先入観もあり、数倍の敵に袋叩きにされているような錯覚に陥ってしまったのである。四方八方からの銃声と雄叫びのためについには前後さえ見失い、指揮系統がめちゃくちゃになり、反撃しようにも味方も敵も解らないという大混乱に陥った。

 それはまるで、溺れる巨牛が無数のピラニアに全身の皮膚を食い荒らされているような格好であった。

 銃声に興奮した馬が暴れ回り、乗り手を振り落として狂乱する。逃げる味方に押し倒された兵たちは馬蹄に踏まれ、敵に向かって振り出した槍は味方に刺さる。戦意をもって踏みとどまろうとする者は真っ先に討たれ、組頭を失った雑兵たちは我を忘れて右往左往し、混乱に拍車を掛ける。どの兵も包囲の輪から逃れ出ようと走るのに懸命で、すでに軍勢としてのていさえ成していない。

 勝敗の帰趨は、ほとんど一瞬でついていた。

「ここらで仕上げじゃな」

 戦況を見ながら藤吉朗は呟き、配下の軍勢を動かした。

 この戦は、敵を殲滅することが目的ではない。とにかく総崩れにさせて追い返せば良いわけで、そのことは藤吉朗もよく心得ている。藤吉朗は背後の囲みの一角をわざと開け、敵をそこに追い込むようにして壊走させた。

 木下勢の完勝と言っていい。


 十面埋伏の陣――


 江戸後期に描かれた『絵本太閤記』では、半兵衛が得意とするこの巧緻きわまる戦術をそのように呼んでいるのだが、むろんこれは半兵衛本人がそう名づけたわけでも宣伝したわけでもない。

 ともあれ、小一郎は、眼前で起こっているこの戦闘を、ほとんど魔術か奇術でも見るような想いで見下ろしていた。
 こちらの兵の動きに敵がいいように翻弄され、哀れなほどに狼狽し、面白いように混乱し、あっという間に崩壊し、踏みとどまれずに四散する。
 こんな痛快な合戦は、見たことがなかった。

(これが、兵法っちゅうもんか・・・!!)

 数だけで言えば、3千対3千の戦いなのである。こちらに金ヶ崎城という防御拠点があるとはいえ、こう一方的な展開になるとは想像もしていなかった。
 いや、半兵衛は最初からこうなると予言してはいたのである。

 その言葉が、ここまで見事に嵌るとは――!

 敵が壊走すると、藤吉朗はそれを追撃することもなく2千の兵をすぐさま纏め、そのまま無灯火で南を指して駆け始めた。
 撤退である。
 小一郎はその様子を、金ヶ崎城の櫓門の上から見送った。

「さて、まずは上首尾ですね」

 傍らの半兵衛は――さして興奮した様子もなく――事も無げに言った。

「夜明けまであと2刻(4時間)というところですか。物見に敵の動きを監視させて――何事もなければ、空が白み始める前に我らも退くとしましょう」

 半兵衛は小一郎を先導するように櫓を降りた。

 半兵衛は、あらかじめ勝ち鬨を上げることを禁じていた。声の大きさで、こちらの人数を推測されることを嫌ったのであろう。それでも、半兵衛を見た木下家の人々からは、無数の歓呼の声が湧いた。この戦の天才としか言いようがない男の手腕を実感した彼らにすれば、胴が震えるほどの感動を表さずにはおれなかったのだろう。

 その歓声は、あたかもきざはしから降りてきた半兵衛と小一郎を祝福しているようであった。









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