1)
「見てこのグロス。スィート・ピーチだって。
ほんのりピーチの味がするのよ。どう?」
麻里はグロスを塗った唇を少し前に突き出して見せた。
「いいんじゃない」
今日子は歯を磨きながら、鏡に映った麻里の顔を見た。
「今年のクリスマスはこれでキメるぞ!」
自信ありげに麻里が言った。
洗面所の鏡の前に並んだ、麻里と今日子。
スレンダーで目鼻立ちのくっきりした米倉涼子ばりの麻里の隣りには、目蓋の腫れあがった今日子の顔。まるで対照的。身長だって麻里の肩にやっと届くほどだ。
神様はどうしてこんな不公平をするのだろう。
この対照的なツー・ショットを毎日観るたびに、今日子の劣等感は膨れ上がっていく。
「今日子も付けてみる?」
麻里はグロスを今日子に差し出した。
「いいよ」
それでなくてもダランと広がった、締まりのないぶ厚い唇。醜さを際立たせるだけ。その上にはぺしゃんこの鼻。
「今日子も少しは化粧くらいしたら?」
マスカラを塗りながら麻里が言った。
自信ありげな麻里の言葉が、今日子には、あんたなんか何したって私に叶う訳ないわ。と言っているように聞こえる。
周りの女子社員は、美しさを鼻に掛けた美人特有の高慢な性格の麻里とは一線を置いている。
同じ経理部で同期の麻里と今日子はいつも一緒。腐れ縁。でも今日子は麻里が大嫌い。
今日子は大きな音を立てうがいをし、口の中の水を思い切り吐き出した。
「ところで、今週の金曜日。システム部の矢野君に飲みに行かないかって誘われちゃった」
「システム部?そんな、繋がりあったの?」
「ふふ・・・。以前私のパソコン、ネットに繋げなくなってしまったことあったじゃない?」
「ああ、あったね」
「あの時遠隔操作で直してもらって。親切にも、その後わざわざ様子見に来てくれたのよ」
「そんなことあったっけ・・・」
「昨日偶然帰りの電車の中で一緒になって。彼も小田急線だから」
「ふーん」
「で、今度2対2で、楽しく飲み会でもしようかって事になったの」
「そう」
「中村啓介も連れてくるってさ・・・」
「中村啓介?」
その名前を聞いて、今日子は一瞬ドキッとした。
啓介は今日子のずっと憧れていた相手だ。時々仮払いの清算で担当の今日子の所へやってくるが、必要最小限の会話しかしたことはない。
身長183センチ、『私の頭の中の消しゴム』に出てきたチョン・ウソンそっくりのイケメンだ。今日子との慎重差30センチ。釣り合う訳がない。というか枠外だ。
「どうよ?」
麻理は、今日子の心の中を見透かしたように言った。
「うーん、どうしようかなあ・・・」
「好きなくせに」
「そ、そんな!」
「あんたの態度見てればすぐわかるわよ」
「やめてよ」
鏡に映った自分の顔は真っ赤に腫れ上がっていた。
「やだ。紅くなってんじゃん。わっかり易いなあ今日子って」
そんな今日子をみて、麻里は甲高い声で笑った。
「あたし・・・先に行ってるから」
「じゃ、矢野君にオッケーって言っておくからね」
洗面所を出る今日子に、麻里は大きな声で言った。
どうせ私は麻里の引き立て役。今までだって何度も合コンなんかに誘われたけど、私の隣りで男達にちやほやされるのは、決まって麻里。今回だってそうに違いない。もう、絶対行かないって思ってたけど、私の憧れの啓介がくる。
啓介と、どうこうなるなんて事は最初から考えてないけど、啓介の近くにいられる。今回はそれだけでいいか・・・。
今日子は思った。
2)
金曜日、仕事が終わり待ち合わせの店に行くと、啓介と矢野君は先に来ていた。矢野君と啓介は向かい合って座っていた。
麻里は迷いもせず啓介の隣りに座った。
やられた!と思った。でも、そんな事で驚きはしなかった。麻里はいつだって私の好きなものを横取りする癖があるんだから。私が矢野君の隣りに座ると矢野君はちょっと不服そうな顔をした。
いつものように二人の男の興味は麻里に集中し、休みの日は何をして過ごすの?だとか、好きなタイプの男性は?だとかありきたりの質問を浴びせた。私を目の前に侍らせ、麻里は優越感に浸りながら猫なで声でそれに答えていた。
…やっぱ、こなきゃ、よかったんだ。啓介だってさっきから、あたしの顔なんか見もしない。だれも、こんなブス顔の女なんかに興味はないんだよ。こうなったら仕方ない。
今日子はもう3人の会話には参加せず、部外者のような顔をして、ひとり飲み食べする事に熱中した。
「やだあー!今日子食べてばかっり」
放っといてくれりゃあいいのに、麻里がいきなり私のほうを見て、大げさに言った。
「そういえば、さっきからひとりで食べてるよね」
矢野君が言った。
「また太っちゃうよ」
さも、私の事を気遣うように麻里が言う。
自分だって男のいない所では大喰いの癖に・・・。
セックス依存症で、週末男がいないと過食に走るの知ってんだ。
コンビニの焼きソバにボンカレー掛けて、コーヒー牛乳飲みながら、牛丼おかずに食べるんだから。
デザートはプッチンプリン3個に、オーザックとハバネロ。仕上げはシュークリームだ。
そんで、最後に吐いてんだから。人差し指の付け根に吐きダコできてるよ。
しかも関係ないけど乳輪が異様にでかい。
内臓覆ってる外側の造作が違うっていうだけで、どうしてこんなに待遇が違うんだろう。
世の中の不条理に今日子は虚しくなった。
「今日子さんって、大喰いなんだね」
更に追い討ちを掛けるように、啓介が汚い動物でも見るような、軽蔑した眼付で今日子を見て言った。
そんな言い方しなくたっていいじゃん。
今日子の眼から、一気に涙が溢れ出した。泣き出したらとまらない。喉の奥から嗚咽がこみ上げてきて、口の中に頬張っていた唐揚げや、蓮根サラダ、イカの煮た奴などが涙と共に溢れ出てきた。
「あたし、帰る」
麻理はそう言って、突然立ち上がった。
「だいじょうぶ?」
啓介が今日子を気遣うように言った。
「大丈夫よ!もう‥、今日子ったらいっつもこうなんだから。ムードぶち壊し。啓介!一緒に帰ろ!」
麻里はどさくさに紛れて啓介の腕を取り、ぐいっと引っ張った。
「あ、じゃ、会計しておくから、後で精算する。矢野、あとよろしく」
帰り際に啓介はそういい残し、麻里と腕を組み、店を出て行った。
矢野君は私を残して帰るに帰れずに、おしぼりを持ってきてくれた。矢野君にしたって、この状況に納得できなかったに違いない。麻里とカップリングの予定がこの私の後始末だ。
「ごめんね。矢野君」
「なんか辛いこと、あったん?」
「いろいろね」
「世の中うまく行かないよね」
「行かないね」
店を出た。
私たちは駅までの道を殆ど会話もなく、二人並んで歩いた。
それでも矢野君は親切な人で、私をマンションの前まで送ってくれた。
「大丈夫だよね」
「うん」
「じゃ、俺、帰るわ」
「寄ってく?」
「帰る・・・」
「ありがと」
こういう状況であれば二人は意気投合し、更に一歩前進ということだろうが、言わば私たちは落ち武者だ。二人ともそんな気分にはなれなかった。
私は矢野君がタイプではなかったし、矢野君にしたって、こんなぱっとしない女がタイプのわけがない。
頭の中を巡るのは麻里と啓介のその後の行方だ。明日は休みだから歌舞伎町を通り抜け、北方に向かったに違いない。
3)
月曜日、今日子は郵便当番だったので、一階のロビー脇にある郵便受けに郵便物を取りに行った。
月曜日ということもあって、郵便物はひとりでは抱えきれないほどの量だった。よたよたと郵便物を抱え、降りてきたエレベーターに乗り込もうとした時、偶然中から出てきた啓介と出会い頭にぶつかった。
抱えていた郵便物は見事に床に散らばった。
「ごめん!あっ、君、こないだの。えっとなんて言ったっけ・・あの大食いの、あっ、ごめん」
「大喰らい今日子です・・・」
今日子はしゃがみ込み、床に落ちた郵便物を拾いながら言った。
「ははは、君おもしろいね」
笑いながら、啓介もその場にしゃがみ込み、落ちた封筒を幾つか拾い、今日子に差し出した。
「ありがと‥‥」
啓介の顔を間近で直視して、今日子の心臓は張り裂けそうにときめいた。整った造作はもちろんだが、憂いを含んだ睫毛と、どこか哀しげな瞳は、見たもの全てを吸い込んでしまいそうだった。
最後の一枚を取りあげようとして、今日子の手は啓介の手と重なった。啓介の温かい手のぬくもりが一瞬だったが伝わった。
今日子は耳が熱くなるのを感じた。そんな真っ赤な醜い顔は啓介には見せたくない。今日子は最後の一枚を拾い上げると、顔を伏せたままエレベーターに乗り込んだ。
「無理すんなよ。持ってってやるよ」
啓介は、今日子の腕の中から強引に郵便物を取り上げた。そして、エレベーターの中で唖然として立ち尽くす今日子に言った。
「階数ボタン押して」
「うん」
今日子は3階のボタンを押した。
啓介が今日子の方を振り向いた。
「で、あの後大丈夫だったの?ちゃんと帰れた?」
「うん。矢野くんが家まで送ってくれた」
「そう‥それはよかった」
啓介とふたりだけの密室。
後にも先にもこんなチャンスは二度とないだろう。おそらくね。こんなとき私が麻里だったら、最上階のボタンを押して、きっとキスなんかするんだろうな。麻里なら許される。
私がしたら?‥‥、喜劇だ。いや悲劇になるだろう。ホラーかもしれない。
二度とないシチュエーション。ああ、今、大地震が起きてエレベーターが停まってしまえばいい。もしくは、いかがわしいエレベーター会社のエレベーターで、このまま最上階まで突き抜けてしまってくれたらいいのに・・・。
しかし、そんなアクシデントは起こりえなかった。エレベーターが3階に着くと啓介はそそくさと降り、郵便物をカウンターにドサッと置き、帰って行った。
帰りしなに、麻里と眼が合って啓介が麻里に小さくウインクをしたのを私は見逃さなかった。
ああ、神様。この不条理、いったい私がどんな罪を犯したというのでしょう。身に覚えはありません。しかし、取り立てていうならば、洗面所にストックしてある麻里の歯ブラシで時々洗面台を磨きます。そのくらいです。人を欺きもせず、まじめに働いています。
昼休み。食事が終わり、今日子と麻里はいつものように洗面所の鏡の前に並んでいた。
「あのさ、今日子。誰にも言わないでね。金曜日、あの後、啓介と意気投合しちゃって、私たち竈でラーメン食べた後、ラブホにお泊りしちゃったの」
麻里はスイート・ピーチのグロスを塗りながら、悪げもなく言った。
「そんなことだろうと思ったよ」
「啓介、最高だった。テクも武器も、今までの男の中で一番かも。あ〜ん、あたしもうだめ」
鏡に顔を近づけ唇を突き出し、麻里は自分の両手で自分の身体をなでまわし、身もだえするような仕草をした。
‥Bitch!!
この、あばずれ女!盛りついた雌犬!尻軽女!ドロボウ猫!!
「お似合いだよ。麻里と啓介」
私は心の中で思ったことと正反対のことを言った。
「ごめんね」
「なにが?」
「あんたの好きな人取っちゃって」
「だから、別に好きじゃないってば」
今日子は歯を磨きながら、大げさに手を振って言った。
「そう、ならいいんだけど。そんなことより、今日子はあの後、矢野君となんか進展あった?」
「あるわけないじゃん」
今日子は大きな音を立てうがいをし、口の中の水を思い切り吐き出した。そして、もう一度歯ブラシに歯磨きを付け、歯を磨き始めた。歯茎から血が流れるほど力を込め、思いきり歯を磨いた。
「ちょっと、今日子何回歯磨きするのよ。あたし先に行ってるからね」
麻里は鼻歌を歌いながら洗面所から出て行った。
‥ああ、啓介が麻里とね、出来ちゃったんだ。必然的だ。
二度目の歯磨きを終えても口の中はすっきりしなかった。今日子は棚の中から、ストックしてある麻里の歯ブラシを取り出し、今度は便器の淵を丁寧に磨いた。
4)
年末で何かと忙しく、処理しなければならない伝票類もたまっていたし、集計表も明日迄に出さなきゃいけなかった。
「出来ないものは、しょうがないじゃん。無理してやったら、さらに期待されて、今以上の仕事こなさなきゃならなくなってくるよ。私は絶対残業はしない」
そんな中、麻里はわれ関せずという顔で、さっさと定時に帰っていった。
麻里の考えも理解できなくはない。私はそんなにクールに割り切る事はできないから、結局残りの仕事は私が全て引き受ける羽目になるんだ。麻里はそれを知っているのだ。
結局、その日区切りがついたのは9時を回っていた。
ひどく疲れていた。私の住んでる所は辺鄙なところなので、駅から家までの間にコンビニがない。
なので、私は時々会社の近くのコンビニで買い物を済ませてから電車に乗る。その日もそうだった。帰って食事の準備をするのも面倒だったので、いつもの様に、夕食を調達するためにコンビニへ寄った。
豚キムチ弁当が私を誘惑した。疲れている証拠だ。私は迷わず豚キムチ弁当とごぼうサラダ、それにどん兵衛トン汁うどんとプッチンプリンを買った。
レジで清算をしていると、突然後ろから声を掛けられた。
「残業?」
啓介だった。
一番見られたくない相手だった。できる事ならカウンターに飛び乗り、目の前に並んだそれらの商品の上に覆い被さり、すべて隠してしまいたかった。
「今から帰るところ。あ、これ、明日の分も入ってますので…」
聞かれもしないのに咄嗟に私は言い訳していた。バカみたいだった。
「ハハハ、別にいいじゃん。気にすんなよ」
啓介は気さくに笑った。
「俺はまだ帰れないんだ。今週末納期のシステムがトラブッちゃって、今日も終電か、もしくはお泊り」
啓介の顔はかなり疲れているようだった。そんな、陰りのある横顔がまた更に、啓介を魅力的にしていた。
「噂には聞いてたけど、大変なんだ」
先に会計を済ませて、後ろに並んだ啓介がカウンターの上に載せたものを見ると、私と同じ豚キムチ弁当だった。しかも、ごぼうサラダとプッチンプリンまで。
私はなんだか嬉しくなった。
「じゃあね。頑張ってね」
「ああ、そっちも喰いすぎんなよ。ブタになるぞ」
いきなり、マシンガンで背中を打ち抜かれた気がした。
ブタになる!ブタになる!ブタになる!ブタになる!ブタになる!
啓介が最後に言い放った言葉が、電車に乗っても頭の中でこだましていた。悪気があって言ったんじゃないって事はわかってる。解ってはいたが、好きな相手に言われると、やっぱり答える。
これが麻里のような美形なら、笑って言い返す事もできるのだろうけど、実際私は身長151センチ、体重63キロのブタ女。
もう、なってるよ。おまけにブスときている。
自分で自分の醜さはよく解っている。解っているから尚更辛かった。電車を降り、豚キムチ弁当の入った袋を下げ、自宅までトボトボと歩った。
なんだかひどく虚しいなあ・・・。見上げた夜空にはオリオン座が輝いていた。涙がこぼれて来た。最近よく涙がこぼれてくる。涙と共に嗚咽が込み上げてきた。
豚キムチ弁当が妙に重たく感じた。食欲なんて湧いてこなかった。今日子は自宅近くのごみ収集所に、豚キムチ弁当の入ったビニール袋を捨てた。明日は燃えるゴミの収集日だ。
ビニール袋を捨て、ふとゴミ捨て場の中を見ると、今日子の捨てた袋の隣りに捨ててあったビニール袋の結び目から、何やらつるんとした丸いものがはみ出していた。
暗がりで眼を凝らしてみると、それはなにか人形のようなものだった。今日子はそれを引っ張り出してみた。大きさ15センチほどの薄汚れた、キューピー人形だった。
…わぁ・・・なつかしい。
可愛そうに。キューピーさん。こんなに汚されて、捨てられちゃうなんて。ひどい事するよね。
今日子は薄汚れたキューピー人形にノスタルジックな愛着を感じ、捨てるに捨てられなくなり、家に持ち帰った。
キューピー人形は洗面器にお湯をはり、中性洗剤で丁寧に洗ってやった。新品のようには行かなかったが、汚れはかなり落ち、きれいになった。
人形の材質の感触が懐かしく、それは子供の頃を思い出させてくれた。
今日子はキューピー人形を、いつでも手を伸ばせば触れる、ベッドサイドのカラー・ボックスの上に置いた。
5)
年末年始の休暇も終わり、相も変わらず今日子と麻里は、洗面所の鏡の前に立っていた。
「今年から歯ブラシ新調したの。けっこう長く使ったからなあ、これ」
麻里は新しい歯ブラシのパッケージを開け、古い歯ブラシを、離れたゴミ箱目掛けて投げ入れた。
「やったー!ナイス・シュート!今年もいい事ありそう」
「うっぷ」
ウガイをしていた今日子の口の中から、水が吹出した。
「ちょっと!やだ…今日子、水かかったじゃん!」
「ごめん、ごめん」
ペパータオルで、スカートの裾を大げさに拭く麻里の姿を横目で見て、今日子は心の中で苦笑した。
歯磨きを終えると、麻里はいつものように唇にグロスを塗りはじめた。
「あれ?色変えた?」
いつもの、スイート・ピーチの色じゃない。
「うん、なんか飽きちゃって、今年はちょっとアダルトにこのローズ・ピンクで迫るつもり。ああ、今日子にこれあげるよ」
麻里はスイート・ピーチのグロスを今日子に差し出した。
「麻里のお下がりかぁ…。これを塗ったら麻里にヘンシーン!なーんてね」
「ありえね」
「わかってるよ」
今日子はグロスを受け取り、早速自分の唇に塗ってみた。
たっぷり付けたグロスが唇の輪郭からはみ出し、ねっとりと下に垂れた。分厚い唇が更に協調され、ゾンビのような顔になった。
「ぐわーっ!!」
今日子はわざと両手を前にだらりとぶら下げ 『ドーン・オブ・ザ・デッド』 のような振りをして、麻里に迫った。
「キャーッ!やめてよ、今日子。ほんと怖いよう、それ」
「やっぱいらない」
今日子はペーパー・タオルでグロスを拭き取った。
「そう・・・」
「うん」
磨き終えた歯ブラシを、洗面台の上の棚の中にしまい込んで、麻里は突然言った。
「私さ、今年中に結婚するかも」
「えっ?」
「する。春までに、絶対!」
「相手は?」
「決まってんじゃん」
「啓介?」
「うん」
「もう、そんなとこまで進展しちゃってるんだ」
「まあね・・・」
「しょうがない。じゃ、あたしもあきらめるか・・・」
冗談で言ったつもりだったが、麻里はひどく恐い目付きで私を睨んだ。あんな恐ろしい顔は初めて見た。妖気を秘めていた。
「なんで、あんたみたいなブス女なんかに・・・」
そう言って麻里は洗面所を出て行った。
とうとう言った。あいつ。言ってはならないことを。
私は金縛りにでもあったように動けなくなり、暫く洗面所の鏡の前で立ち尽くした。
あんな高慢でナルシストのバカ女の面倒、今まで我慢して見てきたけど、もう終わりだ。
決別だ!
しかも、結婚するってさ。啓介が可哀想だ。外見だけに捕らわれて本質が見えなくなっているんだ。
あんな傲慢で、自分のことしか考えない女と結婚したって、上手く行くわけがない。不幸になるだけだよ。バカだな・・・男って。
神様はどうしてこんな不公平をお許しになるのでしょう。
私がこんなに啓介の事を想い慕っているのに、私のこの想いは決して叶うことはない。これも私に与えられた試練?私が何をしたっていうの?
おお、神よ。私の罪をお許しください。今日子は麻里の新品の歯ブラシで便器を擦りながら十字を切った。
その日、今日子と麻里は一切口を聞かなかった。
6)
家に帰っても今日子の腹の虫は治まらなかった。
あんなにはっきり、私のことブス女なんて言わなくたっていいじゃん。ひどいよ。あたしだって自分の事自覚してるよ。自分の立場わきまえてるから、今までずっとあんたの後ろから、誰も友達いないのにサポートしてきてあげたじゃん。
合コンの時だって、これ見よがしにあんたモテるの見せ付けてくれたけど、あたしいつだってあんたを立ててきたじゃん。
乳輪でかい事だって、過食症の事だって、セックス依存症の事だって、あたし誰にも言わずに秘密にしてきてやった。
それを・・・あんなひどい言い方しなくたって。
その晩、ベッドの中に入っても今日子は中々寝付けなかった。
「ひどいよ。ひどいよ。ひどいよぉ・・・」
悔しさがこみ上げてきて、今日子は枕に突っ伏して涙を流しながら叫んだ。
「あの、もし・・・」
「ひどいよ、ひどいよう・・・」
「あの、もし・・・」
「・・・・・」
誰かが耳元で囁いた。
周りを見たが誰もいない。当然、いるはずはない。
…空耳?
今日子は思った。
「ずいぶん、辛い事がおありのようですね」
今度ははっきりと聞こえた。
声の発生源はカラー・ボックスの上のキューピー人形。
「んな、まさか・・・。キューピーさん?」
「いえ・・・」
「だって、キューピーさんが話しているんでしょ?」
「まあ、一般的にはそう呼ばれていますが、ちゃんと名前があるんです」
「なんて名前なの?」
「メリーです」
「メリーさん・・・」
「遅れましたが、ありがとうございます」
「何が?」
「私を拾って、お風呂に入れてくれたじゃないですか」
「あ、ああ・・・」
「お陰で命拾いしましたよ。寒空に捨てられ、翌日燃やされてしまう所でしたからね」
今日子はキューピー人形を手に取り、頭の先からつま先まで、ひっぱたり、押したりキューピーの身体を隈なく調べまわした。
「きゃはははは・・・・やめてくださいよ。こそばゆい」
「ご、ごめん。どこかにスイッチでもあるのかなと思って」
「そんな・・・。ないですよ」
「なんでしゃべれるの?」
「うーん。難しい質問ですね。じゃ、逆に質問しますが、あなたはなんでしゃべれるのですか?」
「うーん。難しい質問ですね」
「でしょ?」
「うーん・・・」
「そんな事より、私が何故あなたに話しかけたのかと言いますと・・・。あなたが、とっても辛そうなので」
「もしかして、それって恩返し?」
「そういうことですね。何かお力になれればと思って」
「あなたが私の力に?」
「はい」
「あなたにいったい何ができるの?」
「信じてもらえないかも知れませんが・・・」
「なあに?」
「あなたの願い事をひとつ叶えてあげます」
「きゃはははは・・・」
「ほらね。やはり、信じてもらえないでしょ?」
「だって、キューピー人形が願い事を叶えてくれるなんて」
「ですから、私はメリーです」
メリーさんはちょっとむっとした口調で言った。
「ごねんなさい・・・。メリーさん」
「じゃあね。大体からして、あなた、ただのキューピー人形と話しているなんて、そんなこと信じられますか?」
「信じられません」
「でしょ?・・・でも、実際あなたは今、ただのキューピー人形と話している」
「はい」
「通常の常識では考えられないことが、時として起きる場合があるのですよ」
「そうなんだ・・・」
「そうなんです。で、最初に戻りますが、何か願い事を言ってください。ひとつだけ叶えてあげる事ができます」
「願い事・・・」
…願い事・・・うーん
宝くじ当てて世界一周?飛行機は嫌いだ。
お城のような家を買う?掃除が大変だし、ひとりじゃ寂しい。今の1ルームマンションで充分だ。
それとも鳥になって空を飛ぶか?撃たれて食べられるかも。命身近そうだし。
永遠の命?こんな退屈な毎日が永遠に続くなんて、考えただけでも苦痛かも。つまらない人生だ。
それよりこのブス顔をなんとかしたい。整形費用?いや、整形しなくてもいい訳だ。
きれいになりたい。きれいになったら人生かわるかも。恋人もできるかも。
恋人?・・・。
あたしは啓介が好き。出来る事なら啓介と結婚したい。綺麗になって。
そう、麻里みたいに・・・
そうだ!麻里になりたい。
私が麻里になれば、一石二鳥。綺麗になって、啓介の愛も得られる。
私はメリーさんに言った。
「私は麻里になりたい」
「お安い御用です」
メリーさんは言った。
7)
「しかし、条件があります」
メリーさんは眉をひそめて厳しい口調で言った。
「条件?・・・どんな?」
「今から説明します」
「はい」
「あなたが別の人間と入れ替わるためには、その相手を自分の手であやめなければならないんです」
「もしかして、殺すってこと?・・・」
「はい」
「私が?麻里を?」
「はい」
「そんな、人殺しなんて。あたしにはできない」
「結果的に死ぬのはあなた自身なんですけどね」
「・・・・・」
「つまり、あなたは一旦麻里さんを殺しますが、麻里さんの肉体には直ぐにあなたの魂が入りますから、結果的に死ぬのはあなたなんです」
「私が死ぬの?」
「はい。あなたは死にますが、あなたの魂は麻里さんの肉体に移動しますから、あなたの魂は麻里さんの中で生き続ける事ができるのです」
「麻里として?」
「はい」
「一生?」
「はい」
…私が麻里になる・・・。
そして、啓介と結婚するのは麻里の肉体を持った私。
美しく、そして心も優しい完璧な人間として・・・。
そして、意地悪な麻里の魂と、不細工な私の身体、つまり、この世の中で無価値な存在がふたつ、同時に消えるのだ。
それは、むしろ好ましい事なのかもしれない。
今日子はそう思った。
「世間体は、あなたは自殺したという事になります」
「はあ・・・」
「私の指示通りに上手くやれば、全ては上手く行く筈です」
「メリーさん。ひとつ質問があります」
「どうぞ」
「メリーさんは、いったい何者?」
「いい質問です。最初に話しておくべきでしたね」
「最初に聞いておくべきでした」
「もちろん、私は天使です」
「えーっ!つまんない。そんな普通の答え?」
「真実を述べているだけですから。私は天使ですからこうして、困った人を助けて回っているんです」
「へえ…」
あまり強く疑って、メリーさんが不機嫌になり、やはりやめた!と言う事になっては困るので、今日子はそれ以上追求しなかった。
「こういう事、今までにやった事はあるの?」
「残念ながら、こういうパターンは初めてなんです」
「失敗はないよね」
今日子は念を押した。
「以前に一度だけ、ヒラメになりたいという人をカレイにしてしまった事はありましたが、たいした事じゃない。確率的には99.999999%ですから限りなく完璧に近い数字です。私には人の願い事を叶えてあげられる、力が備わってますから。と言いますか、私はその為にこの世に存在しているのですから」
「なんでその人ヒラメになりたかったんだろうね」
「性格の暗い人でしたから、深い深い海の底で只じっとしていたいんだって言ってました」
「へえ・・・人さまざまだね」
「ほんとにそうです」
「間違って麻里の魂が私の中に入ってしまうような事はないよね」
「それは最悪でしょう。手順から言って、有り得ないでしょう。麻里さんが先に死ぬわけですから」
「そうだよね。でも、どうやって?」
「秘薬を調合します。あなたはそれを麻里さんに飲ませればいいだけ」
「毒薬?」
「毒薬とは違います。天使の調合した秘薬ですから、苦しみもなく眠るように逝けます」
「死んだら麻里はどうなるの?」
「魂はまた新たな肉体に宿ります」
「新たな肉体?じゃ、生まれ変わってきて復讐とかされたらどうしよう」
「ありえません。通常新しい肉体に宿る時に過去の記憶は消去されますから。今回あなたの場合は特別ですよ。これは恩返しですから」
麻里は覚悟を決めた。そして言った。
「わかったわ。じゃあ、よろしくお願いします」
「了解しました!」
メリーさんは力強くそれに答えた。
翌日、洗面所の鏡の前に並んだ、今日子と麻里。
麻里は何も語らない。さっさと歯磨きを終え、いつものようにローズ・ピンクのグロスを塗ると、歯ブラシを棚の中にしまい込んだ。そのまま、洗面所を出て行こうとする麻里に今日子は言った。
「ごめんね」
麻里は不思議そうな顔をして振り向いた。
「何が?」
「昨日の事。別にあたし気にしてないし、なんかツンケンして、あれから麻里と口聞いてなかったけど、全然気にしてないから、いつものように行こうよ」
「うん。わかった。私の方こそごめん。イラついてた。いつも通り行こ」
「うん」
「じゃ、仲直りの印に、今週の金曜日、家で鍋パーティーでもしない?」
「鍋パーティー?」
「たまにはいいじゃん。男抜きで、ゆっくり飲み明かそうよ」
「うーん、でも、週末は啓介と約束してるからなあ・・・」
「そうなんだ。じゃ、来週は?」
「基本的に週末はいつも啓介と一緒に過ごすから・・・」
「じゃ、平日は?」
「平日飲み明かしたんじゃ、仕事困るじゃん」
「そっかあ・・・」
「じゃ、あたし先に行ってるよ」
麻里は化粧ポーチを抱えて出て行った。
やっぱ無理あったかあ・・・。
最初の頃は、時々お互いの家に泊まって一緒に夕飯食べたりしてたけど、なんか、お互いの性格知り尽くしてからは、あまり一対一での付き合いってなかったからなあ・・・。家に帰ってメリーさんに相談してみよう。
今日子は歯を磨きながら考えた。
ところが帰りに更衣室で着替えていると、麻里が今日子のところへやってきて言った。
「今週末、やっぱ、今日子の家行くよ。なんか啓介用事が出来たらしくて、キャンセルになっちゃったから」
「そうなんだ。じゃ、待ってるよ」
「うん」
「鍋パーティーで、思いっきり飲み明かそ!」
「オッケー!!」
今日子は、やった!と思った。
しかし、その反面で、なにやら恐ろしい事が起きる予感がして、身震いがした。
8)
−金曜日
今日子の家で。
「ほーら、できたできた」
今日子がグツグツ煮えてきた鍋の蓋を開けると、部屋中湯気が一気に広がった。
麻里は中を覗き込んで、大きく鼻から息を吸い込んだ。
「うーん、美味しそう」
「やっぱ冬はキムチ鍋だよね」
今日子は箸と小椀を麻里の前に並べた。
「サンキュ!鍋には日本酒だね」
二つのグラスに麻里は日本酒をドボドボと注ぎ込んだ。
「今夜は思いっきり飲んで、食べまくろうよ」
「うん!」
「カンパーイ!」
「カンパーイ!」
二人はグラスを掲げ、乾杯をした。
…私はチラッとメリーさんの方に目配せした。
メリーさんは唇の端でニヤッと小さく笑った。
それが、私には早く打ち合わせ通りにやれ、と言ってるようにみえた。
メリーさんからもらった小さな瓶入りの秘薬は私のポケットの中に
入っている。
だが、久しぶりに麻里と二人で鍋を食べながら、日本酒を飲み交わして
いたら、入社当初の頃の話になって、もう少し話していたくなった。
「あの中村ってオバン、最悪だったよね」
麻里が言った。
「私の電話のしゃべり口調が気に入らないって、逐一矯正されて泣きたくなたもん」
「今日子、山形から出てきたばかりだったからね」
「一時あたし、失語症になったもん」
「あたしは座り方が下品だって注意されたよ。机の下の自分の脚は自由だろって思ったよ。秘書課じゃあるまいし」
麻里はグラスに残っていた酒を一気に飲み干した。
「退職するって聞いたときは、嬉しかったよね。も、一杯いける?」
「ぜんぜん、いけるよ。まあ、荒波もまれて人間強くなっていくんだけどね」
「あの人、今なにしてるんだろ?」
空のグラスに酒を注ぎながら今日子が言った。
「知りたくもないね」
グラスに充たされた酒を、麻里はまた直ぐに空にした。
「ちょっと、ペース早過ぎない?鍋も食べてよ」
そう言うそばから、麻里は空のグラスを今日子の目の前に差し出した。
今日子は仕方なく、それにまた酒を充たす。
「ウィーッス!!しっかし、ワシらすっかりオヤジ化してね?」
「アハハハ・・・完璧!」
「それにしても、あんたみたいなブス女なんかに・・・」
「何?」
「うぃっ・・バッカヤロウー!!」
麻里はもうかなり出来あがっていた。今度は手酌で飲み始めた。麻里がどんなに私の事をけなそうと、私はもう平気。だってもうすぐ・・・
その時だった。部屋の隅でドスン!と物音がした。
音のした方を見ると、ベッドの脇のカラー・ボックスの上のメリーさんがいない。今日子は立ち上がりベッドに近づいた。メリーさんは床の上に転がっていた。
「落ちたんだ・・・」
今日子は独り言をいい、メリーさんを拾い上げた。
すると、メリーさんが小さな声で囁いた。
「そろそろ、やらないと。せっかくのチャンスなんですから」
今日子はメリーさんを両手で抱え、暫くじっと眺めていたが、決心したようにゆっくりと頷いた。
「じゃ、そろそろお酒はおしまいにして・・・コーヒーでも飲もうか?」
テーブルに戻った今日子が麻里に言った。
麻里は返事をしない。テーブルに肩肘を突いたまま眠っている。
「麻里ぃー!」
麻里の肩に手を当て、揺り起こそうとすると、麻里はそのままガクンとテーブルの脇に倒れ込んだ。
「麻里ったらぁー!」
更に力を込め、麻里の肩を揺らして名前を呼んだ。
麻里は何も答えず、大きなイビキだけが聞こえてきた。
「チッ!!」
ベッド脇のカラーボックスの方から、舌打ちが聞こえてきた。
9)
今日子は助けを求めるような顔で、メリーさんの方を振り向いた。
メリーさんはの眉尻は上がり、少し怒ったような顔に見えた。
「だから、言ったじゃないですか」
「ごめん・・・。寝ちゃったみたい」
「困りましたねえ」
メリーさんは、短い腕を組み、暫く何か考える振りをしていた。
「取り合えずベッドに運びましょう」
私はメリーさんに言われた通りにした。
麻里はスレンダーだったけど、意識不明で爆睡してる麻里の身体はぐにゃぐにゃで、思った以上に重かった。
「魂が抜ければ20ミリグラムは軽くなるんですけれどね」
腋の下に両腕を通し、必死で麻里を引きずる私を見てメリーさんは、ちょっと意地悪く笑った。
「メリーさんも手伝って」
私がそう言うとメリーさんは驚いた顔をして
「えっ!?いいんですか?」
「なんで?」
「それが願い事になっちゃいますよ」
「そんなあ・・・」
「どうします?」
「やっぱ、いい」
私は麻里をベッドの脇までなんとか運び、上半身をベッドに寄りかからせると、今度は自分がベッドの上に載り、上から両脇に腕を通し、思い切り持ち上げた。上半身が載った所で今度は、両足を掴んでベッドの上に載せた。
額から汗がだらだらと流れた。
「うっふーん・・・」
麻里がすごくエロい声でうめいた。
啓介に抱かれている夢でも見ているのか。
麻里の身体は見事なほどに美しかった。
乱れたスカートの裾から、白く長い生足が伸びていた。胸元までボタンが外れたブラウスの間からは、胸の膨らみが無造作にはみ出していた。
眼を瞑った目蓋には、カールされた長い睫毛がたっぷりと付いている。
中央の鼻はスッとして尖り、ハートの形をした唇が突き出していて艶かしい。男でなくても吸い込まれてしまいそうだ。この唇に啓介の唇が重なるのだ。
そして、それは私に重なる事になる。
「ああ・・・啓介」
私の心臓は大きく鼓動を打ち、頭がクラクラした。
「それでは、今から私の言う通りにしてください」
「はい」
今日子は姿勢を正した。
「まず、例の秘薬を出してください。次に麻里さんの鼻をつまむ。呼吸が苦しくなって口を開けた所で、一気に秘薬を流し込んでください。その後、が肝心。秘薬を飲み込むまで、両手で口をしっかり押さえてください。途中で離すと、液体がこぼれてしまいますから。飲み込むまでしっかりと押さえてなくてはいけません。こぼれてしまえば致死量に至りませんから、植物人間になるだけです。入れ替わりは無理です」
「はぁ・・・」
ベッドの上に横たわる麻里の身体を見て、今日子は大きな溜息を突いた。しかし、迷いはしなかった。
今日子はポケットから赤い色の液体が入った瓶を取り出し、蓋を開け左手に持った。それから右手で鼻を押さえた。
麻里は口を開け少し眉をしかめたが、起きはしなかった。左手に持った瓶の液体を麻里の口の中に流し込むと、両手で口を押さえた。
「こぼれませんように」
祈る気持ちで。
麻里の両手が無意識に私の手を払いのけようとしたが、私は離さなかった。
麻里の喉元が大きく上下に動いた。
「オッケーです。手を離して大丈夫です」
メリーさんの指示通り手を離すと、麻里は一瞬眼を大きく見開いた。それから、両手で喉元を掻きむしり、酷く苦しそうに喘いだ。
「メリーさ〜ん。なんか苦しんでるみたいだよ」
「ん〜、大量のアルコール摂取によって血中アセトアルデヒドの濃度が上がり秘薬と反発反応を起こしているのかもしれない・・・」
「そ、そんなぁ・・・」
麻里の身体は痙攣し、突然眼を大きく見開いたかと思うと、ベッドの上で全身硬直し身体が海老ぞりになった。そしてまた、死んだように動かなくなる。
手の付けようがなかった。
私とメリーさんはそんな麻里を目の前にし只、呆然と立ち尽くした。
何度か繰り返し、やがて、麻里は動かなくなった。
微動だにせず、白目を剥いていた。
メリーさんは麻里の喉元に手を載せ、脈拍が停止したのを確認した。
「ちょっとした計算違いですが。心配ありません。23時28分。麻里さまはご逝去されました」
壁に掛けられた時計を見て、メリーさんは神妙な顔をして言った。それから小さな手で、見開かれたままの麻里の目蓋を片方ずつ閉じた。
私は恐る恐る麻里の顔を覗き込んだ。
今しがた苦しんでいた、歪んだ顔は美しい死に顔に変わっていた。私の目の前に横たわる高慢で美しく、7年間私を苦しませ続けた麻里はもういない。私は麻里から解放されたのだ。
しかし、この虚無感はなんだろう。
私は嬉しくもなかったし、むしろ大変な事を仕出かしてしまったという罪悪感に襲われた。
目頭が熱くなり、涙が溢れ出てきた。
「麻里ぃーーーっ!!」
私は麻里に取りすがって大声で泣いた。
どのくらい泣いていただろうか・・・。
肩をトントン叩かれた。
メリーさんが私の肩の上でジャンプしていた。
「お別れは済みましたか?そろそろお時間ですよ。早くしないと死後硬直が始まり、入れなくなります」
「どうしたら、いいの?」
涙は悲しみを癒す効果があると何かで聞いた。散々泣きわめいて、もう後戻りはできないのだと、納得した。
「では、まず最初に遺書を書きましょう。ぐだぐだ長い文章は必要ありません。簡潔に」
私はメリーさんに言われたままの文章を、そのまま書いた。
「次に、遺書を枕の隣りに置いたら、今度はこの秘薬を飲んでください」
「えっ?私も飲むの?」
「はい。これも先ほどの薬と同じような効果を現しますが、こちらはあなたの魂を引きとめ、先ほど麻里さんが飲んだ、まだ麻里さんの体内に残っている秘薬とプラスとマイナスのイオンがグッドケミストリー反応をおこし、麻里さんの肉体へと誘導されるのです」
「そのまま、私の魂・・・どこかに行っちゃうってことはないの?」
「ご安心ください」
メリーさんは自信ありげに言った。
目の前の麻里はもうすでに死んでいる。
今さら、後戻りはできない。
「わかりました」
「それでは、麻里さんの隣りに寝てください」
「はい」
私は、麻里の眠っている右側に、身体を横たえた。
「これを飲むと眠くなりますから、そのままお眠りください」
「本当にこのまま眼が覚めないって事はないんでしょ」
「ですから、ご安心ください」
「はい」
私は覚悟を決めた。
メリーさんは私に、青い液体の入った小さな小瓶を差し出した。
「では、お飲みください」
「はい」
私はそれを一気に飲み干した。
10)
眠りから覚めると、朝だった。
天井の白い色が朝の光りで、更に白さを増していた。
此処はどこだろう、見覚えのある天井の柄・・・。
私の家だ。
脳が活発に活動をはじめると、私はすぐに自分の置かれている状況を思い出した。
仰向けになったまま、私は恐る恐る左を向いた。
誰もいなかった。
ということは・・・・
今度は右を向いた。
自分の姿が眼に入った。
鏡でしか見たことのない自分の姿があった。鏡で自分の姿を映し出すときはどうしたっていい顔をする。無造作に眼を瞑っているその姿は、客観的に見るとますます醜かった。私はまじまじと醜い自分の姿を眺めた。
さあ・・・
今度は私の番だ。
私は立ち上がり、洗面所へ向かった。
洗面所の大きな鏡に自分の姿を映し出して見る。
鼻筋の通った美しい顔。
紛れもなく麻里だった。
私はついに麻里になれたのだ。
毎日会社で麻里の横に並び、その美貌を羨んだ。しかし、もうその必要もない。私は白いブラウスのボタンを外してみた。その下のピンクのレースで縁取りのしてあるキャミソールの上から、ふくよかな胸の谷間が見える。ブラウスを脱ぎ、キャミソールを脱ぎ、ブラジャーを外した。スカートもショーツも脱ぎ、私は全裸になった。
美しく完璧な身体だった。
弾力のあるしっとりとした白い肌。たわわに実った二つの乳房。乳輪は大きいがそれが、ピンクでやたらに艶かしい。きゅっと引き締まったお尻はまるでハートを逆さにしたみたい。私が野に咲く犬フグリなら麻里は胡蝶蘭。
いや、最早麻里ではない。これは私自身。
週末になると男漁りをしていた、麻里の気持ちがわかるような気がした。
こんな完璧なまでに美しい顔と身体持ったら、これを見せびらかしたくなるのは当然だろう。
私は麻里がよく会社の洗面所の鏡の前でしていたように、自分の両手で肩から胸、腰から太腿へと撫でまわした。唇を鏡に向かって突き出して見た。
その時だった。
ピンポーン♪
インターフォンのベルの音。
どうせセールスか何かだろう。私はとりあえずバスローブを羽織りインターフォンに出た。
「こんにちは・・・」
聞きなれた声。
モニター画面に映し出されたのは啓介だった。
まさか・・・
麻里と会う約束をしていたのだろうか?・・・そんな、ありえない。だって此処は私の家。なんで、啓介が私の家に来るの?なんで?いったいどうなっているの。とりあえず私はインターフォンに出た。
「はい・・・」
「啓介です」
「どうしたの?」
「えっ?もしかして麻里?なんでお前此処にいるんだよ?」
「そ、それは・・・麻里の家に来てるから」
意味のない言い訳をした。
「とりあえず開けてくれる?」
私はロックを解除し、玄関のドアを開けた。
「なんで麻里が此処にいるの?」
私の姿を見て啓介が言った。
「あの、いえ、さ、さっき来たの」
…いけない。バスローブ姿だった。
「なんで、そんな格好してるんだい?」
「ちょっとシャワー借りたの」
「今日子は?」
…やばい!
「ま、まだ、寝てるよ。そんなことよりなんで啓介が此処に来るわけ?」
「だから、言っただろう!」
啓介は酷く腹立たしげに言った。
「何が?」
「何がって、なんでお前そう、いつまでもとぼけるんだい?」
「わからない」
「だから、言っただろ。俺はお前と結婚する気なんてまったくないんだよ。もういい加減、勘弁してくれよ。1・2回成り行きでセックスしたかも知れないけど、それだってお前がそういう状況無理やり作ったんだろ?」
「えっ?」
啓介の言ってる意味がよく理解できなかった。
「とぼけるなよ。こないだきっぱり言っただろ。俺にはその気はないって。
俺はお前みたいな女は好きじゃないんだ。結婚なんて考えられないよ。これ以上ジャマしないでくれよ。何度も言っただろ?俺の好きなのは今日子だって。今日は思い切って今日子に俺の気持を伝えたくて、矢野にこの場所聞いて来たんだ」
「えっ?誰が好きって?」
「俺の好きなのは今日子」
「えっ?」
「俺が好きなのは麻里じゃなくて、今日子!」
「啓介・・・あたしの事好きだったの?」
私は嬉しくなった。
「お前頭イカレてんとちゃう?だから俺の好きなのは今日子」
そう、私は今日子。でも、身体は麻里・・・。
「失礼するよ・・・」
啓介は靴を脱ぎ、部屋の中に入って来た。
ベッドの上で眠っている、醜い私の傍に近寄り、名前を呼んだ。
「今日子・・・」
当然、今日子は返事をしなかった。
何度か今日子の名前を呼び、そしてとうとう、枕の脇に置かれた白い封筒に気づいた。
これは非常にまずい状況だ。
啓介は不審な顔つきで、すぐに封筒の中身を取り出し、白い便箋に書かれた文字を読んだ。
「もう、疲れました。
さようなら
今日子」
啓介の握り締めた手紙が、激しく震えた。
「今日子・・・。今日子ぉーーーっ!!!」
啓介は今日子の上に被さり、身体を大きく揺らして泣いた。
私は啓介の後ろで成す術もなく、呆然と立ち尽くした。
涙は悲しみを癒してくれる効果がある。暫くして泣き止んだ啓介が私の方を振り返った。啓介は鼻水をたらし、啓介の瞳はまだ涙で潤んでいた。
男の泣き顔が、こんなに愛らしいって感じたのははじめてだ。そんな悲しい想いをしている啓介を、思い切り抱きしめ、慰めてやりたかった。
私は啓介に近寄り、その背中に額をくっつけ、後ろから抱きしめた。
「さわるなよっ!!」
その途端、啓介は激しい力で私を払いのけた。
私は床に叩きつけられた。
「メリーさぁ〜ん」
私はメリーさんの名前を呼んだ。
しかし、いくら呼んでもメリーさんは何も答えてくれなかった。
その後、啓介の通報で私は警察に連行された。。
私は麻里に入れ替わる前に遺書を書いていたはずなのに、今日子の遺書は私の筆跡と一致したのだ。警察は自殺に見せかけた偽装殺人だということで私を逮捕した。メリーさんの事を私がどう説明しても、啓介も警察も信じてくれなかった。メリーさんは現場検証の時も何も話してくれなかった。
ただのキューピー人形の振りをして・・・。
私は今、精神鑑定を受けている。
白い部屋にベッドが一つ。私はそこで寝起きし、起きては精神科医に質問を受ける日々を送っている。毎日毎日同じような質問が繰り返される。私が事実を言っても相手は聞こうとはしない。
あまりに何度も同じ事を質問されるので、最近ではもうでもいいや、と言う気持にもなっている。
私は麻里。
死んだのは今日子。でも、本当は私は今日子。そして本当に死んだのは麻里。だから私は麻里でもあり、今日子でもある。
−完−
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