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羽野の決意と刀

     四章



 羽野は翌朝早くに目覚めたが、なかなかベッドから起き上がる気にはなれず、昼前までベッドの上に横になっていた。ただ天井を見つめて、時々寝返りを打っては、また天井を見つめるのだった。

 ロリータ。君は僕にどうしてほしい? 僕はどうすればいい? 僕には分からない。君がいまの僕を見たら、やっぱり「チョコレート菓子より甘い」と言って、笑うだろうか。

 ふと窓の外を見ると、向かいの建物が暖かな陽射しを浴びていた。彼はふと陽の光を浴びたいと思った。

 ベッドを出て、居間へ顔を出した。ハインリヒが挨拶するのには答えず、物思いながらキッチンへ歩き、水をコップで何杯も飲むと、口を拭って、居間を出て行った。

 羽野は玄関へ向かった。ハインリヒが追ってきたけれども、羽野は振り向かなかった。

 彼は外に出た。せっかくの天気なのに、彼は物憂げに俯きながら歩き出した。

 どこへ行こうとしているのかも、どこをどう歩いているのかも分からなかった。というのも、彼は深い物思いに沈んでいたから。

 それは、ロリータとの思い出だった。


     *


     羽野の回想



 僕がドイツのギムナジウムに留学したのは、十六歳の秋のことだった。

 僕に留学をすすめたのは父だった。父は僕を国際的な人間にさせようと思っていたらしい。高校から海外へ留学させるという話を聞いた母は、もちろん反対した。留学させるにしても、高校のうちにしっかり教養を身に着けて、それから海外の大学へ留学させればいいではないかと言うのだった。僕もそれはもっともだと思った。けれど、当時中学生だった僕は、何をするにも楽しくなくて、生きている心地がしなかったから、刺激を求めて、海外へ留学したいと言った。父は僕をたいそう褒めたが、母は嘆かわしげだった。

 留学までのあいだのことは、とくに何も話すことはない。勉強と、読書と、異国語の習得に精を出していただけである。余暇には一心に竹刀を振った。剣道部時代の習慣が抜けなかったのもあるが、なにより気晴らしのためだった。親しい友達がいなかったから、遊びに出かけることも叶わず、気晴らしをするにはそうするより他なかったのだ。

 ドイツでは、最初の二週間は母が滞在していたが、その後は早速独り暮らしだった。僕の住んでいる場所、通っている高校の周辺には、日本人がほとんど住んでいなかった。自然必然、僕は孤独になった。

 父はなぜ子供にそのような試練を与えたのだろうか。彼はどうしても生活に耐えられなくなったら帰ってきなさいと言った。だが連絡をしてはいけないと言った。連絡をするときは日本に帰ってくる時だと言った。

 学校での僕は孤独だったのではない。学校での僕は存在していないのと同じだった。自意識が剥落し、純粋な観察者となってしまう。そうなったのは、どこを見ても見慣れぬ形姿の人間、耳慣れぬ言語、居慣れぬ環境であったからだろう。たとえば漫然と映画を見ている時には人間の自意識は消える。ただの観察者となるのだ。学校での僕はまさにそれだった。人間としての存在を失っていたのだ。すなわち透明人間である。

 日に日に僕のストレスは溜まって行ったが、父親の教育的重圧、期待のために、帰ることは出来かねた。僕は留学などしなければよかったと思った。留学という選択は、僕にとってはなんらの積極性の表れではなく、むしろ極度の消極性の表れ、すなわち現実逃避の一種だった。日本での解消されぬ日常の不如意、それからの脱却だった。だが逃げ場はどこにもなかった。人間世界は共通普遍なのである。

 僕が透明人間であったのは先に述べた。畢竟、僕に友達は出来なかった。ドイツに来て僕が覚えたのは、ドイツ語の聞き取りだけであった。

 僕は完全に打ちのめされていた。ほとんど衰弱しており、あとは帰国か命を絶つかという状態だった。僕は恐らく死を選んだことだろう。

 そんなときだった。

 クラスで一番綺麗な女の子が、ある日突然僕に声をかけてくれたのだった。

「あなた、いっつも隅っこで本を読んでるのね。どんな本? 教えてくれるかしら?」

 彼女は米国からの留学生だった。本名を明かすことは出来ない。だから僕はここでも彼女をこう呼ぶことにする。彼女がロリータだった。

 僕は当惑した。ドイツ語を話すのにはまだ慣れていなかったし、誰もが振り返るような美少女に突然話しかけられたのだから。

 僕の当惑を読み取った彼女は小首を傾げて、英語でこう言った。

「あ、そういうことね。英語なら話せる?」

「いや、ええと……はい、英語ならそれなりには……」

 それから僕と彼女は日に日に親しくなっていった。彼女は他にもたくさん友達がいたのに、僕に特別親しくしてくれたのは、なんとも不思議だった。その不思議さは今も解明されていない。だがそれはおそらく知る必要のないことなのだろう。

 彼女のおかげで僕のドイツ語はみるみる上達していった。彼女のドイツ語は南部訛りだったらしく、自然僕もそうなった。

 そのうち、僕は幾人かのクラスメイトと交わりを持つようになった。それもロリータの手助けがあってのことだった。クラスメイト達は、こちらから話しかければ、案外親しく付き合ってくれるものだった。僕はこの時初めて知った。本質的な存在ではない、人間的な存在は、自ら勝ち取ろうとしなければ得られることはないのだということを。このときから、僕は透明人間ではなくなって行った。

 

 ロリータは僕に色々な話をしてくれた。なかには僕にだけ話してくれたこともある。彼女が言うには、僕は他の子達とは違っているから安心感があって話す気になるのだそうだ。

 ロリータはかつて孤児だった。ある日優しい中年夫婦に養子に貰われて豊かに育ったのだそうだ。彼女はそれからの日々を幸福な日々と呼んで、嬉しそうな顔で僕に色々話して聞かせた。だがそれとは対照的に、孤児時代のことは進んで話したがらなかった。話すときは、辛そうな、暗然たる面持ちで、悲哀に満ちた日々のことを語るのだった。僕はそれを聞いて涙した。ロリータはなぜ僕が泣くのかと言って「あなたっておかしいのね、ハノー」と言った。くすりと笑いながらも、彼女の眼尻には涙が溜まっていた。

 ロリータがあの「サイケデリック・ロリータ」であることを知ったのは、それから少し経ってからだった。「サイケデリック・ロリータ」はすでに民衆のヒーロー的存在になっていた。いつの時代も、大怪盗というものは、民衆から愛されるものである。それを、ロリータが自ら告白してくれたのだった。

 それを聞いて僕がどう思ったかと言えば、僕は正直失望した。僕は盗みは悪いことだと思った。あの優しいロリータが犯罪を楽しんでいるのだと思うと、僕は幻滅だった。と同時に、僕は軽い怒りをも覚えていた。それは心配に近い感情である。「そんな危ないことをして、もし何かあったらどうするんだ」というものである。

 僕のあのなよなよした非難の言葉を聞いて、ロリータは「それは誤解よ、ハノー」と言った。そして彼女は僕にしっかりと説明をした。

「わたしは楽しんでなんかいないのよ。真剣に怪盗をやっているの。ねえ、ハノー、純ジュエル繊維製のパンツがいくらになるか知ってる? すごいやつだとそこらのお金持ちの年収を遥かに超えるのよ、ただのパンツ一枚が。それだけのお金があったら、どれだけの命が助かると思う? どれだけの子がまともに生活できるようになると思う? わたしはね、ハノー。かつてのわたしみたいに死の淵にいるような子供たちを、なんとかしてあげたいの。救いたいだとか助けてあげたいだとか、そういう軽蔑的慈悲、傲慢的慈悲ではないの。なんとか、生きて欲しい、それだけなの。その後その子がどんな憂鬱な目に遭うとしてもね、生きて欲しいの。……甘い考えだって言うかもしれない。所詮は子供じみた救済ごっこだと言うかもしれない。でも、わたしはなんとかしてあげたいの」

 ロリータはそう言いながら泣いていた。悲しい時の思い出が、頭の中を流れのだと思う。彼女にとって、過去の記憶はそれほどまでに過酷なものであるのだろう。……気付けば僕も泣いていた。ロリータは僕の思った通りの心根の優しい子だった。

 しかし僕は理性を働かせた。

「でも、ロリータ。もし逮捕された時はどうするんですか。ここまで育ててくれた両親が悲しみますよ。それでもいいんですか」

 ロリータはただ一言、「うん」と言って頷いた。それは恐らくそのままの意味での「うん」ではない。愛情を注いでくれた両親を悲しませてもいいなどと、ロリータが考えるはずはない。その「うん」の深い意味を僕はしかと了解しているつもりでいるが、僕はそれを述べるようなことはすまい。

 僕はロリータに深く感謝し、深く尊敬していた。彼女には恩義があると思っていた。

 あのとき、僕に優しく声をかけてくれたから。孤独の淵から、憂鬱の淵から、人生の深淵から引っ張り上げてくれたから。僕に存在する意味を、生きる喜びを教えてくれたから。

 ロリータ、もし君がいなかったら……

 だから僕は決意した。僕に優しくしてくれたロリータ、親しくしてくれたロリータに、悲しい思いをさせてはならない。そのためには、僕が彼女を守ってあげなければならない。僕は彼女のために身を賭して尽くさなければならない。

 だから僕は刀を手にした。

 こうして僕は「サイケデリック・ロリータ」の家臣、「ハノー」になった。


     *


 気付くと日は傾いていて、ゲーター通りの坂道は影色の橙色に染まっていた。しかしその色には憂鬱さは少しもなく、むしろ晴れやかな斜陽だった。

 羽野は拳を握りしめながら坂道を上って歩いた。

『どうしてほしい、どうすればいい……そうじゃない』と羽野は考えた。『自分がどうするか、じゃないか。忠義とは本質的にそういうものじゃないか』

『そう、そして。僕が自ら決断しなければ、答えは向こうからやってこないんだ。……僕はもうどうするべきか分かっている。そうするより他はないということも分かっている。あと一歩なんだ。その一歩。あと一歩を踏み出すんだ。なんのために?』

 羽野は決然たる表情で面を上げた。ハインリヒの家の路地に戻ってきていた。彼は儚げな斜陽を毅然と睨んだ。

『僕の大事な人のために。ロリータのために』

 彼は玄関の戸を引いて、家の中へ入った。


     *


 羽野は決意を固めた。もう後には退くまいと固く決意した。だから彼の表情や言動には、もう平生のなよなよしさは出てこなかった。

 言葉と態度とは心を表すものである。心が臆病であれば、表にも臆病さが出るものである。その人に勇気がなければ、それが人目にも知れてしまうものである。

 臆病で勇気がなくとも、気力と意志で豪壮を装うのが武士である。克服するのが武士である。本来、武士は平生よりそうでなければならない。

 羽野はいままでそれを実践できずにいた。だが今は違った。そしてそれは何も武士を意識したからではない。己の決意が自然と己をそうさせたのである。おそらく、羽野家の武家の血が目覚めたのだろう。

 羽野が居間に戻ると、ハインリヒはやや驚いた顔をした。羽野の全身から鬼気迫るものを感じ取ったからである。アーリーはひゅうっと口笛を吹き、マリアはその凄味に目を見開いた。

「行くことにしました」と羽野は言った。

「ど、どこへだい?」

「ニューデルベルク城」

 ちょっと間があって、羽野はおもむろに鞘から刀を抜いた。ハインリヒは腰を抜かして尻餅をついた。

「するってえと、決めたんだな?」

 アーリーが言った。

 羽野はこくりとうなずいた。

「討ち入りします」

 アーリーはタバコをふかしながら、渋い声で言った。

「手伝うぜ」

 羽野は理由を問うことはせず、ただ「はい」と答えた。

 ハインリヒは地面に伏してあわあわしていたが、やがて「ふふん」と怯えるように笑うと、立ち上がって言った。

「ぼくも行くよ。このままじゃロリータに顔向けできない。それに、ぼくなんか死んでしまった方がいいんだ、ぼくみたいな豚富豪は……ふふん。死んでも必ずロリータを助けよう」

「ちがいますハインリヒさん」

 と羽野は言った。

「死んでも助けるんじゃありません。――助けてから死ぬんです」

 羽野は刀を鞘に納めて、今度は腰に差した小サ刀を抜いた。

 アーリーは眉をひそめた。

「ハラキリ・サムライショーだな?」

 羽野は頷いて、小サ刀で腹を真一文字に切る仕草をしてみせた。

「中世から切腹は愚死だとして禁止され、刑罰となり、形式的なものに成り下がってしまいました。けれども、男は決意したら腹を切らねばなりません」

 ハインリヒは気持ちの悪い汗を背中に感じた。

「しょ、正気じゃない……」

「正気で戦えると思いますか」

 羽野は小サ刀を鞘に収めた。

「僕はロリータのために死ぬ覚悟をしています。……お二人にそれを強要するつもりはありません。でもそれくらいの覚悟がないのなら、かえって足手まといになります。だったら来ないでいただきたい」

 ハインリヒは目に見えて狼狽した。その言葉にもそうだが、羽野が真剣な顔でそういうことを口にするのが、不気味に感じられたからだった。

 彼は少なからず、いや、多分に罪の意識を感じていたから、今は保身よりも、身を投げ出す方に決意が傾いた。狼狽は失せた。体の震えは止んだ。彼はこう言った。

「行くよ……ぼくも……」

「俺も行こう」

 アーリーにはそれほどの覚悟があるわけではなかった。彼はもともと大事な取引相手であるロリータのために一肌脱ごうという了見だった。だが羽野の男気が彼を魅した。場には何か熱い流れがあって、彼もそれに流されてしまったのだ。何か不気味な流れに押し流されることは、人間一度は体験するものである。

 羽野は頷いた。彼は、黙り込んできょとんとしているマリアを見た。

「一緒に来てくれますか」

 彼の目に迷いはなかった。ためらいはなかった。

 マリアはおそるおそる、彼の前で初めて口を開いた。か細い声だった。

「……行きます。……わたし、恐ろしい体験をした。この世のものとは思えなかった。こんな地獄が世の中にあるなんて思わなかった……わたしのことは気にしないでください。わたし、いつ死んでもいい。ロリータには、御恩があるし……」

「ありがとうございます」

 羽野は言った。頭を下げることはしなかった。

 彼は決然とした眼差しを彼らに向けた。

「討ち入りは明日の夜。それまでに身支度を整えてください」

 こうして、ロリータ救出討ち入りが決定した。


     *


 羽野は翌朝早く目を覚ますと、すぐに布団から起き上がって風呂場へ行き、冷水を浴びた。風呂から出ると、爪を短く切り、ハインリヒの整髪剤を借りて髪を撫でつけた。衣服は洗濯して、乾燥機で乾かしてから、アイロンをかけて、それから身に着けた。アーリーに研ぎ石を仕入れて来てもらって、刀を研いだ。鋭く輝く白刃をじっと見つめ、彼は精神を集中させた。

 アーリーは朝出掛けると、研ぎ石の他に銃や防弾チョッキを持って帰ってきた。ハインリヒに拳銃とチョッキを渡した。ハインリヒは、銃は受け取ったが、チョッキは身に着けなかった。

「後で泣いても知らないからな」

 とアーリーがおどかしても、ハインリヒはチョッキを身に着けなかった。

 アーリーはマリアにもチョッキを渡そうとしたが、彼女はそれを拒んだ。死にたいという気持ちが強かったのだろう。それに、もし脚を撃たれて死ぬような思いをするなら、いっそハチの巣にされて死んでしまった方がよいと思っていた。

 こうなると、とても自分一人だけチョッキを着られる雰囲気ではなかった。アーリーはチョッキをソファの上に放り投げ、その傍らに座り、タバコをふかしはじめた。

 夕方になった。

「さあ、行きましょう」

 四人は立ち上がった。


     *


 彼らがニューデルベルクに着いたとき、あたりはまだ明るかった。日は地平線に沈み、半ば顔を隠し、最後の力を振り絞って、街を赤々と照らしていた。日に赤く染まった中世風の街は、一種厳粛な風情であった。

 彼らはアタルヴァ川の橋を渡った所、城下町の手前で、日が暮れ夜が来るのを待った。これから討ち入りだというのに、四人にはなぜかそわそわした気配がなく、緊張さえもなく、不気味なほどに落ち着いていた。

 と、そこへ不意に子供っぽい得意げな笑い声が聞こえてきた。

「ふっふっふ」

 羽野は凝然とニューデルベルク城を見上げていたが、アーリーとハインリヒは声の方を振り返った。

「見ーつけたのだ。何やらにおうと思って張っていた甲斐があったのだ」

 彼女は落ち日を背に受けて、腰に手を当て仁王立ちしていた。

 金髪のつややかな長い髪に、真っ白い肌、くりくりとした瞳、レオタード一丁。戦闘モードらしく、コートもハットも身に着けていない。

 それはゆりあ警部だった。

「なにしに行くのだ?」

「ロリータを助けに行くんだよ。ニューデルベルク城にな」

「ふむ」とゆりあ警部は考えた。ということは、ロリータがヨハンに捕らえられたということか。やつらは一昨日の夜、大きな荷物を持ってここを通った。その荷物の中に入っていたのがロリータか。ふむ。

「わたしも加わるのだ」

「やめとけ。遊びに行くんじゃないんだよ」

「そんなこと分かってるのだ。いいか、ロリータを捕まえるのはこのわたしなのだ。あんな金髪スリムに捕まえられては困るのだ。そしてだな、わたしはあの金髪スリムをなんとしても逮捕せねばならんのだ。殉死した部下のためにも」

「そうか。じゃあ勝手にしろよ。だがな」

 アーリーは一呼吸おいて、言葉に重みをもたせた。

「死ぬぜ」

 すると、ゆりあ警部は俯いてくつくつと笑い始めた。

 彼女はついに顔を上げ、胸を張り、大笑いした。

「なーはっはっはっは!」

 そして毅然とした瞳で、アーリーたちを見た。

 彼女は仁王立ちのまま、居丈高に言った。

「正義は死なないのだ!」

 アーリーはくすりと笑うようにため息をついた。

「つくづく変なやつだよ、あんた」

 こうしてゆりあ警部が討ち入りに加わることになった。

 やがて日が暮れた。淡い藍色が世界を包んだ。

 誰からともなく、五人はニューデルベルク城へと歩きだした。



 城下町を抜けて、城へ繋がる坂道に入ると、アーリーが計画の確認をはじめた。

 ヨハンは恐らくもっとも安全な場所にいる。ロリータも一緒に違いない。中庭、三階の大広間、そのどちらかだろう。なぜならば、広い場所なら多く人員を配置して、やってきた敵を囲むことができるからだ。

 そこへ着くまでにも、もちろんブデンブロクスのやつらがいるだろう。

 自分とハインリヒはマリアを守りながら進行の邪魔になる敵を撃つ。ヨハンを発見したら、羽野はその脚力を生かしてロリータを奪い取れ。敵に囲まれる前に窓を破って外に逃げろ。やつらが羽野とロリータに気を取られている間に、自分たちも外へ逃げる。大勢の敵に囲まれることがあってはならない。そうなったら勝ち目はない。

「で、ロリ警部は……」

「わたしは休暇中なのだ」

「だからなんだよ……ほれ、とりあえずこれ持っとけ」

 アーリーはベルトから予備の拳銃を抜き出して、ゆりあ警部に渡した。

「丸腰じゃ死ぬだけだ」

 ゆりあ警部はしばしそれを見つめていたが、ひょいとアーリーに投げ返した。アーリーは慌ててお手玉するように受け取った。

「わたしは銃を持たない主義なのだ。わたしなんかより、むしろその剣士にその言葉をかけてやるのだ」

 彼女は羽野を指差しながら続けた。

「銃の中に刀一本。火だるまにされる気なのだ?」

 羽野はそれに対して一言、簡単に答えた。

「刀は精神なんです」

 ゆりあ警部は首を傾げた。彼女はアーリーに尋ねた。

「なに言ってるのだ? こいつ」

「知らねえよ、日本人の考えることなんてな。ただ一つ言えるのは、ハノーは本気だってことだけだ」

 ふむふむ、とゆりあ警部は腕組みした。

「気力で勝てるほど世の中甘くないのだ」

 しかし彼女はそう言いながらも、腕組みを解いて、羽野の肩をぽんと叩いた。

「でも精神論は嫌いじゃないのだ。世の中気合なのだ」

 そして彼女は「そう、だから」と続けた。

「わたしは銃を持たない主義なのだ」

 アーリーは変な奴だ、と呟いた。

 ニューデルベルク城の全体が明らかになって来た。

 討ち入りの時が近づいてきた。


     *


 ニューデルベルク城の城門には松明があって、いまはそれに火が灯されていた。火はゆらゆらと絶えず揺らめき、それに伴い地や壁にへばりつく濃い影も踊っていた。

 城は森閑としていた。物見台や二階の外部分に見張りや狙撃手などはおらず、無防備な状態になっている。

 羽野を先頭に、ハインリヒとゆりあ警部が並んで続き、二人の間の一歩後ろにマリア、その後ろにアーリーが続いた。五人は城内に入った。

 城内も静かである。不気味な沈黙である。廊下や小部屋など、城内のところどころに燭台があって、外と同様、火が灯っている。火は小刻みに、まるで生き物のように揺れている。やはり影も揺れている。視界の隅で影が揺れると、それが敵のように思えて、思わず身構えてしまう。時ごとに緊張感が漸増し、いやでも神経が研ぎ澄まされていく。物陰から突然人が出てきたら、大声を上げてしまいそうだ。

 だがそういう緊張感を多かれ少なかれ感じているのはハインリヒを初め、後続の者たちだけだった。先頭を行く羽野は恐ろしいほどに冷静で、泰然としていた。彼はすり足で一歩一歩進んで行った。

 石の廊下を過ぎると、赤い絨毯の敷き詰められた廊下に入った。絨毯の両側には、金の線が入っている。

「な、なかなか出て来ないね、ふふん……」

「だからといって気を緩めるなよ」

「そうなのだ。わたしの経験上、敵は相手が油断した頃合いに――」

 ゆりあ警部は敏感に何かの気配を感じとって後ろを振り向いた。それよりわずかに遅れて、アーリーも振り返った。

「敵なのだ!」

「分かってるよロリ警部!」

 背後、廊下の突き当たりに闇色スーツ姿のブデンブロクスが三人立って銃を構えていた。

 アーリーは素早く三発発砲した。

「おい豚野郎、ぼけっとしてないでさっさと打ちやがれ!」

「ふ、ふふん、えっと……」

 ハインリヒはあまりの動揺にどうしていいか分からなくなっていた。

 アーリーの撃った弾は三人の内の二人に命中した。一人は衝撃で後ろに吹っ飛んでそのまま動かなくなり、一人は胸を押さえてぶるぶる震えながらくずおれた。

 ハインリヒはどうすればいいか分からず、闇雲に引き金を引いた。

「ぐおああっ!」

 それは見事に敵の胸のあたりに命中して、敵は倒れた。

「や、やった、ふふん!」

 ハインリヒは鼻息荒く喜んだ。

「ふふんじゃねえ、まだ来るぞ!」

「――っ! そっちは頼んだのだ!」

 ゆりあ警部が叫んだ。彼女は前方にも敵を発見したのだった。

「ハノー、君はそこでマリアを守るのだ!」

 彼女はレオタードの胸元に手を突っ込んだ。指先が敏感な部分に触れてしまったらしく、ちょっとくすぐったそうに身悶えした。しかしひるむことなく、レオタードの中からある物を引っ張り出した。それは新体操で使うリボンだった。いや、それよりも遥かに長い。

 ゆりあ警部はリボンを頭の上で華麗にくるくる回し、前方にあるポールのようなものに向かってリボンを振るった。リボンはしゅるしゅるしゅると矢のように進んで行き、ポールに巻きついた。そしてゆりあ警部は手元のリボンを両手で掴み、軽くジャンプして、それを引っ張った。彼女は弾丸のように宙を突き抜けて行った。

 壁際から出現した敵に、ゆりあ警部は勢いそのままキックを食らわせた。敵はあまりの威力に即気絶した。

 彼女は廊下の突き当たりのところに着地し、そこでまたリボンを回した。羽野から見て死角の敵と彼女は戦った。――と、銃弾が飛んで来たらしく、彼女はリボンを回すのを止めて、優雅に側転して壁に身を隠した。体勢を立て直すと、再びリボンを回して、今度は敵本体に向かって振るった。リボンの先は敵の手にしている銃をはたき落とした。リボンを引いて、その反動を用いてもういっちょ振るう。敵の脚を絡め取って、引っ張り、転ばせる。そして自分はその力で宙を突き抜け、敵の腹の上にキックを浴びせる。

 彼女は同じような具合に敵を倒していった。

 あまりに意外な戦闘能力であった。

 一通り片付け終わると、ゆりあ警部は味方の方へ声をかけた。

「こっちは終わったのだ」

「こっちも片付いたぜ」

「なんとかね、ふふん」

 五人はゆりあ警部のいる廊下の突き当たりに集まった。一仕事終えて、彼らは少しの間休んだ。

「ゆりあ警部の動きは意外だったね、ふふん」

「あんたには銃が必要ないってことがよく分かったぜ」

「当然なのだ。あんなの朝飯まえなのだ。警部を舐めてもらっちゃ困るのだ。わたしは優秀なのだ」

 三人が話している間、羽野は腰の刀に手をかけたままじっとしていた。すさまじく集中しているように見えるので、三人は羽野に声をかけられなかった。

「そろそろ行きましょう」

 羽野が言うと、五人は口を閉じて、再び手に汗握りながら進んで行った。

 廊下を歩きながら、彼らは中庭の様子を窺った。人一人居なかった。

「ここじゃないみたいだな」

「では三階でしょうか」

「おそらくな。逃げやすさを考えると二階ってこともありうるが、普通に考えて三階だろうな」

「なぜですか」

「あちこち探し回らせて疲れさせるのが狙いだろうからな」

「そうですか……とりあえず、全ての部屋を見て回りましょう」

「ふふん、なんでさ? 見当がついてるなら一直線に三階へ行けばいいじゃないか」

「おい、豚バカ野郎。ちょっと考えりゃ分かることだ。きちんとその階の敵を片づけておかないと、もしもの時退路を塞がれちまうんだよ」

「ああ、なるほど……」

 羽野はその意見には反対したかったが、黙っていた。彼にとって退路などどうでもよかった。ただ、一カ所一カ所確実に潰しておかないと、ロリータを助ける確率が低くなるからだった。

 そうして、彼らは一カ所一カ所、着実に城を攻略していった。

 ハインリヒはひぃひぃ声を上げながら相手を撃ち、アーリーはそんなハインリヒを叱咤しながらも援護し、ゆりあ警部は華麗にリボンを操り敵を圧倒した。その間、羽野はずっとマリアについて彼女を守っていた。彼が敵に対して刀を振るうことは一度もなかった。敵の攻め方や数的に、羽野がマリアを守って他が戦うという方法が一番適っていたからである。

 妙なことに、三階へ上がるまで、大勢の敵が攻めて来ることは一度もなかった。これといってトラップも意表をつかれることも無かった。まるで、五人が三階へやってくるのを待っているようだった。三階には大勢のブデンブロクスが待ち構えているよ、さあ気を付けておいで、と誘導しているかのようだった。

 三階への階段を上りながら、アーリーは言った。

「何かあるかもしれないな」

「ふふん、なにが?」

「どう考えてもおかしいんだよ。ハナから取引する気が無いってのは予想通りだが――つまり俺たちを殺してロリータを警察に突き出すってことだが――、本気で殺しに来ているようには思えない。三階で待っているとしてだ、なぜわざわざ三階まで来させる必要がある? 俺たちを囲むのなら、中庭やら他の場所もあるだろう。ヨハンと俺たちが対面する必要がまるでない。――いままで、どこの部屋にもヨハンはいなかった。奴がいるのは三階以外にはありえない。となると、三階には何かがある。とっておきの何かが。あいつは性根の腐った野郎だ。ロリータの犯行予告に乗じてクラーク家をほぼ皆殺しにした事からもそれは分かる。――たとえば大規模なトラップがある。俺たちが足を踏み入れた瞬間、天井から檻が降ってくる。どうすることもできない俺たちがハチの巣にされるのを見てほくそ笑む……」

「トラップ? 何を言っているのだ。この城は市が管理しているのだ。いくらクラーク商会でも、トラップを仕掛けるなんて勝手は許されないのだ」

 ゆりあ警部が言った。アーリーは斜め後ろを歩く彼女を振り見た。

「なんだ幼女警部、あんた知らないのか。この城は近々市から個人へ売られるんだぜ」

「そうなのだ? そんな話は全然知らなかったのだ。ということは――」

「ああ、買ったのはヨハンだ。どんな趣味してるのか知らねえが、ここの収益、維持費管理費何十年分も支払って買い取った。やつはここを『新しい世界の中心』に考えているらしい。ヨーロッパを世界の中心と思い込むなんて、何百年前の人間だよって話だぜ、まったく」

「ふふん、それなら、ふふん、たしかにトラップが仕掛けられていてもおかしくはないね……」

「お前はなんでも知ってるのだな。ところで、お前は何者なのだ?」

「何回答えりゃ気が済むんだ。ただの情報屋だ」

「ふむ」とゆりあ警部は腕組みして呟いた「世の中には変な奴がいるものなのだ」

「へっ、あんたもな、ロリ警部」

 階段を上りきると、アーリーは言った。

「ともかく。ここから先は何が出るか分からねえ。……死ぬ覚悟を決めとけ」

 ハインリヒ、マリア、ゆりあ警部は深々と頷いた。

 羽野は刀を軽く振るった。燭台の揺らめく炎を受けた白刃が、ぎらりと光った。

 ニューデルベルク城の三階は驚くほど簡単な構造になっている。あるのは大広間一つで、その周囲を枠組みのように廊下が囲んでいる。四方にはそれぞれ出入り口がある。真ん中が割れて開く、親指型の大きな扉である。

 だが広間の中は仕切りや壁や大きな家具があるので、十分警戒しないと、敵から不意打ちを食らいかねない。

 羽野は扉を押し開いた。討ち入りの宣言はしなかった。

 中はひっそりしていた。火が灯っていないので、かなり暗い。廊下の火が射して、ほのかに明らんでいるだけである。

 壁一面に豪華な額縁入りの魁偉な宗教画がかかっている。天井には瀟洒絢爛なシャンデリヤがぶらさがっている。床はつるつるした光沢のある白い石で、部屋の中央には方形の大きな絨毯が敷かれている。中世を感じさせる時代物の家具が、整然と並べられている。

 いまいる場所からは、ほとんど正面しか見えない。仕切りや壁に遮られているのである。

 ヨハンの姿はなかった。死角にいるのかもしれない。

 五人はマリアを中心に背を向けて囲み、慎重に、ゆっくりゆっくりと部屋の真ん中へ進んで行った。

 そして彼らが部屋の真ん中に着いた瞬間――忽然部屋が明るくなった。シャンデリアに火が灯ったのだった。いや――シャンデリアは電気製だった。ともかく、部屋は一瞬にして明らんだ!

 五人は不慣れな眩さに目を細めた。

 羽野はほとんど反射的に叫んでいた。

「ゆりあ警部、マリアを連れて部屋の外へ!」

「分かったのだ!」

 ゆりあ警部はマリアを脇に抱え、リボンを振るって部屋の外へ緊急退避した。

 果たして、部屋に残った男たちが目を開くと、自分たちの両側を、闇色のスーツを着たブデンブロクスの連中が囲んでいた。ざっと三十人はいる。

 おそらくブデンブロクスの連中も不意の眩さに目を閉じていたのだろう、彼らが銃を構えるのには時間がかかった。

 その隙に、羽野たちはそれぞれ目についた大きな家具や仕切りの陰に飛び込んだ。三人はそれぞれ少し離れた場所に隠れながら、言葉を交わし合った。

「ちくしょう、何かあると思ったら逆じゃねえか、何もねえ! いたのは笑えねえギャングたちだけだよ!」

「アーリーも、ふふん、知らないことがあるんだね。ふふん、それより、どうするの? この状況?」

「どうするもこうするも……」

 アーリーは一度物陰から顔を出して敵に威嚇発砲した。するとその何倍もの銃弾が返ってきた。

「こっから出たらハチの巣だ。ただ向こうも無暗に撃つことは出来ないだろ。仲間同士向かい合ってるからな、流れ弾が危険だ」

 ハインリヒは「ふふん」と震えた。

「ど、どうするハノーくん?」

 羽野は瞑目して眉間にしわを寄せてなにやら考えことをしていた。

「こ、こんなときになに落ち着いてるのさ」

「いや、三階にはいない、いままでどこにもいなかった、となると、ヨハンはどこかなって、考えていたんです」

 羽野の頭には何かが引っ掛かっていた。つい最近の記憶なのに、それも二、三日前の記憶なのに、なかなか思い出すことが出来なかった。焦燥感が溢れだしそうになったところで、羽野は一旦考えるのを止めた。

「まずはここから逃げることを考えましょう。僕たちの目的はブデンブロクスと戦って死ぬことじゃない」

「そうだね。ふふん。っていうかさあ、もしかしたらヨハンはそもそも城にはいないのかもね、卑怯なやつだ……」

「いや、やつは城にいるよ。幼女警部がずっとニューデルベルクにいたんだ。もし城から離れたのなら、幼女警部が見ているはずだ。そして俺たちに教えているはずだ」

「城下のほうに隠れてるのかもしれないよ……」

「そうかもしれない。だが豚野郎、もうその話はおしまいだ。ハノーの言う通り、逃げることを考えなけりゃしょうがねえ。それをお前はすぐさま話をほじくりかえしやがって、この豚野郎」

 ふふん、とハインリヒは小さく言った。

「といったって、どうやって逃げるのさ」

「単純無謀かもしれませんけど、いっせーので逃げるしかないでしょうね」

「奇遇だなハノー。俺も同じことを考えていたところだ」

「一斉にって、三人一気に火だるまにされるだけじゃないか、ふふん……」

 アーリーは苛立たしげにハインリヒに銃を向けた。

「そのふふんをやめやがれ豚野郎。いいか、てめえの豚足のおかげでそうするよりほか仕方がないんだよ。俺とハノーはな、別に一人でも逃げられるんだ。むしろそのほうがいいくらいだ。ところがどうだ、この豚足野郎」

 そう言われると、ハインリヒはしゅんと肩を落とした。たしかにその通りだった。じゃあ、自分は足を引っ張っているのか。自分のせいで二人をこんな危険な目に遭わせて、そのうえ足まで引っ張っているのか。

 ハインリヒは憂鬱そうに言った。

「ふふん……ごめんよ。そうだ、その通りだ。ぼくは使えない豚足野郎だ。ぼくなんて死んでしまった方がいい」

 ハインリヒの心を追い詰めたのは、それだけではない。むしろこの緊迫した状況が、死を身近に感じさせるこの状況が、彼の心を圧迫したのだろう。

「二人とも、ごめんよ。生きてロリータに会えたら――」

 彼は突然立ち上がって、扉へ向かって駆けだした。

「ハインリヒが泣いて謝っていたって、伝えてくれ!」

「バッ、おいバカッ、豚野郎!」

 ハインリヒはひぃひぃ泣きながら、懸命に走った。意外にもなかなかの俊足だった。

 ひよわそうな色白の太っちょが飛び出してきたからだろうか、ブデンブロクスの反応が遅れた。そして誰も撃たないことが、彼らの判断を迷わせているらしかった。

 ハインリヒがかなり進んだところで、ようやく一人が発砲した。乾いた射撃音が広間に響いた。

「ぐぅっ!」

 ハインリヒはその場にヘッドスライディングするみたいに倒れ込んだ。彼は左足を手で押さえて呻いた。敵の銃弾が彼のふくらはぎに命中したのだった。

「まずいっ!」

「出ましょう、アーリーさん!」

「了解!」

 二人が物陰から飛び出ると、ブデンブロクスの意識は瞬時にそちらに移動した。たちまち多数の発砲音が起こり、入り乱れた。広間は騒がしくなった。

 いくつかの弾丸が二人の身体を擦過した。いくつかは肌を焼いた。かなりの速度で走っているから狙いが定まらないのか、命中弾は一つもなかった。

「ひゅう、スリルだねえ」

「拾いますよ、アーリーさん!」

「はいよお!」

 二人は床に倒れるハインリヒの右肩、左肩を手で掴み上げ、そのまま扉へ一目散に駆けて行った。ハインリヒは水上スキーみたいに引きずられた。足が痛んで、彼は情けない声を上げた。

「痛いよお、ふふん、ふふん、ふふーん!」

「この豚野郎、無茶しやがって……!」

 三人は広間の外へ出た。廊下の隅にマリアとゆりあ警部がいた。羽野が素早く扉を閉めると、ゆりあ警部たちが合流した。

「大丈夫だったのだ?」

「豚野郎の勇気のおかげでなんとかな」

 扉の奥から「追え追え!」「逃がすな!」「ぶっ殺せ!」という怒声が湧き起った。

 五人は慌てて階段を駆け下りて行った。ハインリヒは、アーリーが一人で腕に抱えた。

「おい豚野郎、てめえさっきロリータに伝えてくれって言ったな」

「う、うん、ふふん……」

「人任せにするな。てめえで伝えるんだよ。ちゃんと生きてな」

「ふ、ふふん……」

 ハインリヒの目に痛みとは別の熱い涙が溢れた。

 階段を駆け下り、二階に着いたとき、羽野の頭にひらめきが起こった。彼はふと、何の脈絡もなく思い出した。先程の危機感が効いたのかもしれない。

「思い出しました! この城、地下があるんです!」

「地下……? そうだ、それだハノー! すっかり忘れてたぜ!」

「地下? 敵はそんな逃げ場のない所に隠れてどうするのだ? バカなのだ?」

「またブデンブロクスがうようよいやがるんだろうよ」

 五人は懸命に城の廊下を駆けた。彼らが炎の脇を通り過ぎると、風で炎が大きく揺れた。

 地下へ繋がる降り階段のところへやってきた。

 重厚な鉄の扉にはいかつい鎖と錠がかかっている。

「下がっていてください!」

 羽野は叫ぶと、肩口から一閃、刀を振り落した。金属でできているはずの鎖は真っ二つに切断され、鍵も半分に切れた。羽野は扉を蹴っ飛ばした。扉は乱暴に開かれ、壁にぶつかって重々しい響きを立てた。

 羽野は地下に半身を入れながら、仲間たちを手招いた。

「さあ、中へ!」

 五人が中に入ると、急いで扉を閉めた。

 扉の所からは、一本の細く短い通路が伸びている。すぐに突き辺りで、左折できるようになっている。その先に敵の気配が感じられる。

 アーリーはハインリヒを地面に座らせ、扉にもたれかけさせた。

「豚野郎も扉封じの役には立つだろうよ」

 そういって彼は扉を両手で支え、足を開いて踏ん張った。

「ここは俺たちで抑えておく」

「頼みます。……マリア」

 羽野はマリアに手を差し伸べた。マリアは彼の手を掴んだ。

「ゆりあ警部もここで待っていてください。――行きましょう、マリア」

「はい」

「出来る限りあなたを守ります。でもダメだったら……」

「気にしないでください。わたしはもう何度か死んだ命です」

「ありがとうございます」

 扉の外からは怒声が聞こえる。扉に銃弾が当たる激しい音も聞こえる。

 羽野は決然とマリアの手を引いて歩き出した。

 ゆりあ警部もそれに続いた。

「ゆりあ警部……」

「わたしも着いて行くのだ」

「ここからは、本当に死にますよ」

「だから言っているのだ。正義は死なないのだ」

 彼女は八重歯をきらりんと光らせて、ニッと笑った。

 羽野はため息をついてゆりあ警部を睨んだ。それから、敵のいる方へ視線を移した。

「行きましょう」

「はい」

「なのだ」

 彼らは細く短い通路を進み、左に折れ、そしてまた進んだ。すぐに広い所へ出た。太い長方形の部屋で、およそ教室二個分程度の広さである。火が灯っていて明るい。

 部屋の奥の壁際に、王様の椅子がある。そこにヨハンが背筋を伸ばして座っていた。彼の傍らには、手足を縛られ、口をテープで塞がれたロリータの姿があった。そしてさらに彼女の横には、大きな革張りの椅子に腰かける巨漢の姿があった。ブデンブロクスの「総統」だった。

 羽野はロリータの姿を目にすると、憤怒に燃えた。

 が、そう簡単に動ける状況ではなかった。

 ヨハンや総統の手前に、横一列に並んで銃を構えるブデンブロクスの姿があったからだ。横一列と言っても、ヨハンたちのいる真ん中で途切れていて、八の字型のようになっている。

 のこのこやってきた羽野たちの姿を見ると、ヨハンは哄笑した。

「ゲームセットだね。どうする? 素直にマリアを渡せば、君たちを生かしてあげてもいいよ。君たちの訴えなんかなんの価値もないからね、ぼくのことを知られていても問題ない。なぜならぼくは神だからね」

「……ロリータを返せ」

「それは無理な話だね。彼女にはすぐに逮捕されてもらわないと。事件はそれで一件落着」

「取引する気はなかったんですね」

「当たり前だろう?」

 ヨハンはふふふと笑った。

 羽野は静かに言った。表情は険しかった。

「あなたは神なんかじゃない。神はもっと高い存在です。ところがあなたはすこぶる卑しい。あなたは卑しい人間です。ただの、この上もなく、卑しい存在です」

「はあ? 何を寝ぼけたことを言っているんだ。ああそうか、卑しい人間には他者がみんな卑しく見えるってわけだね。ふふふ」

 羽野は奥歯を噛みしめた。

「さっき、取引する気はないと言いましたね」

 彼は腰に差した刀に手をかけた。

「生憎、こちらも取引をする気なんてありません」

「じゃあ何、戦う気でいるのかい? そんな刀一本と無装備の警部を連れて?」

 ヨハンは滑稽だと言わんばかりに笑った。

「頭がおかしいんじゃないのかい。戦う気ならそれなりの銃器を装備して来るんだったね」

「なぜですか」

「なぜ? これだから頭の悪いアジア人は! 相手が見えないのかい? この状況が分からないのかい? 銃を構えた多勢の敵に対して刀一本? 戦闘機に竹槍で突っ込むようなものだよ!」

 羽野はじっとヨハンを睨んだ。間が空いた。羽野は深く息を吐いた。

「刀では敵わないと言いたいのですか」

「尋ねるまでもないだろう」

 ……あなたは勘違いをしている、と羽野は呟いた。

 彼は続けた。

「刀が銃に勝てない、刀が兵器に勝てない……そんなこと、誰が決めたんですか」

「決めるまでもないことだ。誰もが認めていること、すなわち真理だね」

「……銃に殺意がありますか。兵器に殺意がありますか。ありません。人の命を機械的に奪うだけの武器に殺意はありません。銃は冷たい鉄です。それを手にする人には、せいぜい緊張感と生への意志があるだけです。いいですか、殺意と情熱は、刀だけに宿るんです。なぜなら、刀は手にするものの肉体となるからです。刀を握るということは死ぬことと同義だからです。己の死意識の先鋭化がすなわち殺意となって刀となるからです」

 ヨハンはそれを鼻で笑った。

「君が狂人的思想を持っているのはじゅうぶん分かったけどね、情熱の時代は終わったんだよ。これからはどんどん冷たい時代になる。いや、もうすでに冷たい時代だ。兵器に殺意が宿らないからこそ、それが権力になるんだろ?」

「もういい……もういいです」

 羽野はゆっくりと、鞘から刀を抜いた。

「……ゆりあ警部、下がっていてください、絶対に手を出さないでください」

「? 何を言っているのだ?」

 と言いながらも、ゆりあ警部は羽野の雰囲気に圧倒され、マリアの手を引き、じりじりと後ろへ下がった。

「僕は……侍です……ロリータの家臣です……」

「はっは、だからなんだい?」

 羽野はヨハンを睨んだ。ヨハンはその凄味に一瞬言葉を失った。

 羽野は歯を食いしばった。目は見開かれ血走った。こめかみに青筋が浮かんだ。

 彼は絶叫した。

「貴様ら全員、斬り殺す!」

 羽野は刀を構え、鬼神のごとく厳めしい形相で駆けだした。

「う、撃て!」

 ヨハンが叫ぶと、ブデンブロクスが一斉に射撃した。集中砲火だ。だが羽野には一発も当たらなかった。

 羽野は人狼のようだった! 身を屈め、低く構えながら部屋の中を駆け回った。白刃はまさに牙のように見えた。

 敵に近寄りては肩越しから一閃斬り落とし、鮮血が吹き、牙は紅の汗を流し、斬、斬、斬と続けざまにかたきの身を食らいゆく。狼に喉笛を、はらわたを食い破られた屍が、冷たい石床のうえにばたばたと積もっていった。

 人狼が息を荒くして、牙から血をしたたらせ、気高く佇立したとき、彼は一面横たわる屍の群れを冷酷な目で見下ろしていた。すべては片付いてしまった!

 羽野は刀を振るって、血を払った。彼はじろりとヨハンを睨んだ。ヨハンも総統も、凄烈な光景に口元を震わせ、言葉を失っていた。

 羽野は悠然たる足取りで、一歩一歩と、ヨハンの方へ歩み寄った。

 ヨハンはごくりと息を呑んだ。慌ててスーツの内かくしから拳銃を抜き出すと、傍らのロリータを腕に抱えて、こめかみに銃口を突きつけた。身体がぶるぶる震えていた。

「こ、こっち来るな……! 来るなっ、殺すぞ、こいつを殺すぞ! いいのか!」

 羽野はヨハンを睨みながら歩みを続け、剣の切っ先でヨハンを指した。

「ロリータからその汚い手をどけろ」

「来るな、殺すぞ、撃つぞ!」

 羽野はヨハンの目の前に立ち止まって、刀を構えた。そして恐ろしい気力に満ち満ちた声音で言った。

「貴様も斬り殺すぞ!」

「うあ、あ、ああ……」

 ヨハンは慄然として、身体の力がたちまち抜けた。手から拳銃が落ちた。石床の上に想い鉄が落ち、鈍い音が響いた。

 羽野はおもむろに銃を拾って宙に放り、斜め一閃、刀で切った。銃は使い物にならなくなった。

 続けて彼はロリータの足の縄を切って、彼女の手を取り立ち上がらせ、肩を抱いた。彼はロリータの顔を見なかった。声をかけることもしなかった。

 ヨハンに刀の切っ先を突きつけた。

「お前が今後どうなろうと僕の知ったことじゃない。お前が神になろうと何になろうと僕には関係ない。だがこれだけは約束だ。自首しろ。ロリータの潔白を自ら宣言しろ。さもなければ――かならずお前を斬る、斬りに参上する」

 羽野は刀を鞘に納めると、くるりと背を向けて、扉の方へ歩きはじめた。

 途中、ゆりあ警部とマリアがおそるおそるといった感じに歩み寄ってきた。しかし彼女らは彼に声をかけることが出来なかった。彼がなおも鬼神の形相でいたからだ。

「がっはっはっはっは!」

 羽野の背後から、銅鑼のようによく響く笑い声が起こった。総統だった。

「こりゃ面白いもんを見させてもらった。おい若造 (ヨハンのことだ)、お前さんもこれでおしまいだな。よく分かったろう。思想ごっこはな、本物の情熱の前では、肉体の前では、まるで無力だ。とくに、『恋』の前ではな。はっは! さて、わしからお前さんにもう一つ教訓を垂れてやろう。人間てのは自分の利益のためにしか動かない。お前さんからはたっぷり前金を受け取ったからな、もう用無しだ。お前さんもわしに利用されたにすぎないってことだ。思い上がるのは結構。だがもっと視野を広く持ちたまえよ。世に生きているのはお前さんだけではない」

 総統はそれだけ言うと、扉の方へ歩いて行った。ヨハンはうなだれていた。

 総統が近づいてくると、羽野はちょっと振り返ってぎろりと睨んだ。総統は苦笑した。だが堂々としていた。

「そうそう睨むな。また仲良くやろうじゃあないか」

 扉が近づいていた。総統は大声を上げた。

「おいお前ら、わしだ! もう引き上げじゃい!」

 すると、扉の外から一斉に雄々しい返事が返ってきた。三階から地下へ羽野たちを追ってきたブデンブロクスだ。それからすぐ、ブデンブロクスは地下扉から離れ、城の外へ出て行った。

 やがて五人も城を出た。だれも一言も交わさなかった。

 夜は深まっていた。深い藍色の空が世界を支配していた。澄明な星明りがいくらか見られた。

 城下町を出ると、目の前をアタルヴァ川が流れていた。川はさざ波立ち、空の色を受けて深い藍色となり、閑雅な街明りを水面に湛えていた。なんともいえず美しかった。

 橋を渡っている時、ふいにアーリーが言った。

「おい、俺たちは先に行くぞ」

「ふ、ふふん、なんで?」

「ロマンチックだからだよ」

「ふふん?」

 アーリーは足を負傷したハインリヒを抱えて、走り、ゆりあ警部とマリアもそれに続いた。彼らは橋の向こう側で、羽野とロリータが来るのを待っていた。

 橋の上を歩きながら、ロリータは羽野の顔を見上げてくすりと笑った。

「なんですか……あっ、すっかり忘れてました」

 羽野は慌ててロリータの口を塞ぐテープを優しく剥がした。小刀を抜いて、彼女の手を縛っている縄を切った。彼は小刀を鞘に納めた。

 ロリータは手と口が自由になると、その場に立ち止まった。橋の真ん中だった。

 羽野はロリータを振り返った。彼の顔には、討ち入り時の厳めしさが貼り付いたままだった。

 ロリータはくすりと笑った。

「な、なんですか……」

「だって、ハノー、あなた、いつまでもそんな顔してるんだもの」

「えっ、あっ」

 羽野は手で顔を撫でた。しばらく頬をこね回すと、彼はすっかりいつもの気弱な少年の顔に戻った。

「そう、それこそハノーよ」

「はい」

「ねえ、ハノー」

 ロリータはそう言って、羽野に一歩近寄った。

「いまのあなたの唇は、きっと苦いのね?」

 彼女は羽野の顔を両手で掴んで、親指で瞼を伏せた。

 羽野がなんのことかと問い返す間もなく、ロリータは少し背伸びして、羽野の唇にキスをした。可愛らしい、ちゅっ、という程度のキスだった。

 顔を離し、二人は見つめ合った。ロリータはおかしそうに笑った。

「なんだ、やっぱり甘いみたいね。チョコレート菓子より甘いわ、ハノー」

「え、えっと、あの、その、……ええっと」

「好きよ、ハノー」

「……、!」

 羽野は顔を真っ赤にして固まった。ロリータはそんな彼を置いて、歩き出した。ふふふと笑っていた。

 少し歩くと、ロリータは振り返った。

「急ぎなさい、ハノー。置いて行くわよ」

「いや、だって、えっと……!」

「もう、あなたといたら夜が明けてしまうわ」

「あっ……待ってくださいよぉ、ロリータぁ」

 羽野は小走りして、ロリータに追いついた。

 ロリータはふとあることを思い出して羽野に言った。

「ねえハノー。どうして死んじゃいけないかって聞いたわね」

「あ、はい。このあいだ」

「答え、分かったわ」

「なんですか?」

「簡単なことよ」

 羽野は首を傾げた。ロリータは嬉しそうな顔をした。

「生きている喜びを分かち合えなくなってしまうから」

 そうして、二人は橋を渡りきった。

 羽野はロリータのその言葉を聞いて、切腹という考えを完全に捨てた。



     五章



 我々の物語は先の章にて幕を下ろしても良かったのだが、まだ少しだけ語っておかねばならないことがある。

 翌日、ゆりあ警部はマリアを連れてメレスデルヒ警察署へ行った。予想していた通り、いくら事実を説明しても、署長はそれを聞き入れなかった。なにかと文句をつけてはそれを否定するのだった。

 ところがその最中、突然のニュースが飛び込んできた。

 ヨハンが自殺したのだった。彼は遺書を残した。それはこういうものだった。

『クラーク事件はすべてぼくがやった。ぼくは本物の神を見てしまった』

 おそらく、自分は神であるという観念を失って、己を支えるものがなくなってしまったのだろう。彼の自殺は唐突でおかしなものに思えるかもしれないが、青年はどうしようもない理由でころっと自殺するものなのである。認識が世界を変えるというのは誰もが知っていることであるが、青年は容易に認識を変えることが出来ない。なぜか意固地になって自分を苦しめる認識に留まりたがるのである。

 こうして、ロリータの身の潔白は完全に証明された。


 数日後、ハインリヒの家に怪盗二人と情報屋が集まっていた。

 ハインリヒはあれからなんども謝った。謝罪の言葉に「ふふん」を混ぜるものだから、アーリーが怒って「豚野郎」と罵った。むろん、ロリータはハインリヒのことを悪く思っていなかった。しょうがないことだと思っていた。ロリータは彼を許した。それなのに彼は「ふふん」と謝り続けた。だから、ハインリヒのあの件は、いつしか笑い話になってしまった。

 食卓に着きながら、ハインリヒは言った。

「ふふん、それで、次回は何を盗ってきてくれるのかな?」

「そうね、誘惑のミッドナイトブルーかしら」

「おお、いいね、ふふん、ちょうど欲しかったんだ、それ!」

「おい豚野郎、てめえほんとに反省してるんだろうな」

「ふ、ふふん……!」

 羽野はそんな話に耳を傾けながら、テレビを見ていた。テレビにある女性の姿が映ると、羽野は声を上げて、テレビを指差した。

「マリアさんが出てますよ」

「あら、ほんとね」

 二人はテレビに見入った。

 マリアはインタビューを受けていた。ここにその一部を抜粋しよう。

『――はい。ロリータとハノーは、とっても素敵な方たちでした。彼女たちは、わたしの命の恩人です。わたしはあんな素敵な方たちを見たことがありません。とってもかっこよくて、強い怪盗です。警察の皆さん、見ていますか? ゆりあ警部、見ていますか? もしロリータを捕まえたら、わたしが許しませんからね。ふふ。警部さんもありがとう。そして、豚野郎さんと背の高い渋い人、あなたたちも。ロリータ、ハノー、もし気が剥いたら、いつでも盗みに来てくださいね』

 こうして彼らの最大の事件は去った。

 もしかしたら、ロリータたちは再び大変な事件に巻き込まれるかもしれない。しかしそれは、また別の話である。

            (了)




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