第 十九話 赤線
「なあ、かあちゃん、僕どうしても欲しいんや」
健太はいつもそう言って母親を困らせていた。
「なあ頼むわ、かあちゃん買ってえなあ」
「あかん、双眼鏡やなんて……高すぎやわ」
健太の母親は怒ったような、それでいて少し悲しそうな顔をして言った。
「うちとこ貧乏や」
夫を事故で亡くし、女手一つで子育てしていかなければならぬ彼女にとって金銭的なゆとりはない。
もちろん、できる事なら買ってあげたいと思う。
されど、ようやくありついた掃除婦の給金ではとてもじゃないが高価な双眼鏡など夢のまた夢。
もっと割の良い仕事もあるにはあるが、しかし……
母親は健太に尋ねた。
「あんた、なんでそんなに双眼鏡なんか欲しいねん?」
「あんな、僕、衛星が見たいねん」
「衛星?」
「そう、スプートニクや」
「あのけったいな飛行機もどきか?」
「飛行機ちゃう。衛星や」
そう言えばニュースでやっていた。
ソ連が人類初の人工衛星を打ち上げたとか……健太はそんな賢そうなもんに興味があるのか。
意外ではあったが、なんだか少し嬉しくもある。
ひょっとしたらこの子は偉い学者になるのかもしれない。
そんな気がした。
彼女は子供のころ、家庭の事情でまともな教育を受けられなかった。
それだけに息子には思いっきり勉強させてあげたいと思っている。
たとえこの身をすり減らして働いたとしても……
彼女は決心した。
「よっしゃ、ええで」
「ほ、ほんま?」
「ほんまや。そのかわり、ちゃんと勉強頑張るんやで」
「うん!」
健太が真新しい双眼鏡を手にしたのはそれから三日後のことだった。
あたりが薄暗くなると、さっそく近所の小高い丘へと出かけた。
少しでも宇宙に近い方が衛星がよく見えるだろうと考えてのこと。
母親は一昨日から残業するようになったそうで健太は一人で出かけた。
その日は生憎の曇り空。スプートニクどころか星さえ見えなかった。
残念だが仕方ない。
「ほな、あそこ見たろか」
健太にはもう一つ見てみたい場所があった。
それは赤線と呼ばれる所。
学校の先生からは絶対に近寄っちゃいけないと言われていた謎の街である。
好奇心にかられた少年は、小高い丘の上から赤線の街を覗き見た。
「すげー、よう見えらあ」
ピカピカの双眼鏡から見えてきた景色で、少年は全てを悟ることができた。
(ふーん、そういう所なんかあ。なんやがっかりや)
小学三年生の健太にはあまり興味のない街であった。
人工衛星の方が百倍楽しいと思う。
翌日、健太は何の気なしに先生に言った。
「あんな、先生、僕、赤線ってどんな場所か分かってしもたわ」
すると教師は少し顔を赤らめながらこう言った。
「そうか、おかあちゃんから聞いたか……頼むからこのことはみんなには内緒やで。俺も内緒にしとくから……あっ、それからな健太。おかあちゃんに伝えといてくれ。昨日はとても良かったです。またお願いしますってな」
赤線とは政府公認の娼婦街。ちなみに非公認のそれは青線と呼ばれたらしいです。どちらも昔の話ですが……
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