第B-2話・姉妹
「お姉ちゃん! 由美お姉ちゃん!」
ノックもせずに開けた扉の向こうには、一面の赤い景色が広がっていた。
真っ赤なカーペットに足を踏み入れ、少女はゆっくりと深紅のベッドに歩み寄っていく。
「……お姉ちゃん?」
身動き一つしない姉を見下ろしながら、少女はそっと手を伸ばす。
「ねぇ……お姉ちゃん……」
そっと姉の肩に触れ、赤く染まった姉を揺り動かした。
わずかな揺れでも目を覚まそうとしない姉に、少女はあせりを覚える。
「起きてよ……」
あせりは、すぐにふくれあがった。
「お姉ちゃん……起きてってば!」
赤に囲まれた姉はなおも動き一つ見せない。
激しく揺り動かしても、幾度となく名前を呼んでも。
時計の秒針が時を刻む。
耳の中に入っていき、あせる心を加速させる。
一秒が一秒だと思えないほどに、その一時が伸長していく。
「お姉ちゃん!」
叫びにも似た声は、やっとベッドに横たわる姉に届いたらしい。
びくりと痙攣した姉は、妹のあせりをよそに、ひどく下手くそな言葉を形成した。
「オ……ねが……い」
姉の返事にほっと胸をなで下ろそうとした瞬間、いきなり飛び起きた姉に遮られた。
真っ赤なカーペットに尻餅をついて倒れた妹は、意識があるのか無いのか判然としない姉を驚いたように見上げるしかない。
「お、お姉ちゃん……」
信じられないといった表情を浮かべる妹と、機械のようにぎこちない動きを繰り返す姉。
「オ、オ……ね……がい」
「お姉ちゃん!」
絶叫が、真っ赤な室内に破裂した。
「……お願い、もう少し寝かせて」
姉はばたりとベッドに倒れ込んだ。
「駄目! 遅刻しちゃうでしょ!」
あせりを満面にたたえて姉をベッドから引きずり出すと、カーペットに転がす。
「う〜ん、カーペットもふかふか……」
お気に入りの真っ赤なカーペットにほおずりしながら、まぶたを落としていく。
「お姉ちゃん! 今用意してあげるから、もう少しだけ、もう少しだけ意識をしっかり!」
エマージェンシー。
緊急事態。
任務内容。
姉が眠るまでに、着替えを見つけろ。
妹の頭にそんなテロップが流れ出した。
――時間は限られている! いいか、ヒヨッコども! 可及的速やかに、任務を遂行せよ!
鬼軍曹が、言葉汚くほえる幻想のおまけ付き。
妹は心の中で答える。
サー、イエッサー!
「真由……お願い……もう眠らせて……私、とっても眠いの」
「お姉ちゃん!」
姉の上下のまぶたが、つぶらな瞳を隠そうとする。
「見つけた! お姉ちゃん! これ、モルヒ……じゃなかった、着替え!」
クローゼットの引き出しから、パンツやらブラジャーやらを取り出して、姉に放り投げる。
ふわりと舞った緋色のそれは、見事にカーペットにほおずりしていた姉の目の前に着地する。
細かい刺繍が入った赤い下着。
上下おそろいであり、なおかつ薄手の生地は、どこか蠱惑的だ。
「……く、なんで」
人知れずつぶやいた妹。
姉に気付かれないように、投げる前にちらりとサイズを盗み見ていた。
……残念ながら、僅差での敗戦。
カップ一つの差だった。
けれど、そのカップ一つが大きい。
たとえるならばアジアチャンピオンズリーグと、ヨーロッパチャンピオンズリーグぐらいに、カップの規模と質が違うのだ。
下唇を噛む妹は、ウエストの勝負に持ち込むことにした。
寝る子は育つもの。
ウエストという土俵で、ぐうたら、かつ面倒くさがりな姉に負けるわけがない。
間違いない、勝っているはず。
重ねて言えば体重もだ。
そんな自負を胸に秘めながら、妹は壊れかけたプライドを何とか修繕するのだった。
一方、妹の複雑な乙女心など我感せずの姉はと言えば。
目の前に舞い降りた自らの下着を、寄り目になって見つめていた。
「……今日は〜、勝負の日じゃないわよ〜、真由〜」
おしりを突き出した格好で寝そべる姉が、論点のずれたことを言う。
「寝ぼけたこと言わないで! 毎日が勝負よ! 私にとっては!」
しばしばドラマや映画などで、寝ぼけたことを言うな、という台詞がある。
妹は思った。
おそらくこれが正しい使い方だろう、と。
「……今、妹が大胆発言を」
「違う! 方向性が違う!」
もちろん、毎日時間と勝負しているのである。
「……真由、脱退するの?」
「私はメンバーを捨てて一人歩きするボーカルじゃない!」
「冗談よ〜、もう真由ってば……朝からテンション高いアルよ」
油の切れた機械のように姉の動きが鈍くなる。
「中国人っぽく言ったって駄目! ……って、そこ! 私が丁寧につっこむのをいいことに寝ちゃ駄目!」
「…………チッ」
「舌打ち!? 起こしてあげた妹に舌打ちしましたよ! このお姉ちゃんは!」
うちひしがれる妹などお構いなし。
姉はなおもお尻をふりふり、カーペットに頬をすりすり。
よほど睡眠にご執心と見える。
睡魔が視認可能な動物だとすれば、おそらく姉は睡魔に上から覆い被さられているに違いない。
蛇足だが、きっと睡魔の姿は溶けかかったパンダのような格好をしているに決まっている。
姉は寝惚け眼のまま大きなお尻を右に左に揺らすと、みっともない格好で、お気に入りの真っ赤なパジャマを脱ぎ始めた。
立つことを知らないのだろうか。
どこまでも面倒くさがりな姉に、妹はがっくりと肩を落とす。
人類が立ち上がってから、気の遠くなるような時間が過ぎたのに、姉は無様にも退化している。
目の前でカーペットにはいずり回っている姉は、妹にとってどこかナメクジを連想させるものだった。
妹の想像は、もはやほ乳類ですらない。
「あ〜……脱げないよぅ〜」
睡眠時間を得るために、わざともたもたしている姉を見て、妹が心中で一句。
――じらす姉、理想の就職、ストリッパー。……字余り。
「う〜ん……脱げない〜」
なおも姉の格闘は続く。
「……脱げない……脱ゲナ」
パジャマのズボンを半分脱いだ格好のまま、とぎれた言葉尻とともに停止する。
「お姉ちゃんが、抵抗するのを放棄した!?」
……妹は強く確信した。
この姉の面倒くさがりな性格は、一生かかっても治らない、と。
「駄目だよ、お姉ちゃん! 頑張って! お姉ちゃんならきっと出来るよ! あきらめちゃ駄目だよ!」
「むむ、あれ駄目これ駄目それ駄目〜……妹はそうやって姉のフリーダムを奪おうとする〜」
「私はお姉ちゃんのフリーダムを奪おうなんて思ってないよ!」
ナメクジに化けた姉が、屁理屈の鬼と化す。
「妹よ、そんな君に……ジャスティスはあるのかね〜?」
半眼で指を突きつける姉。
言葉とは裏腹に、全く威厳がない。
「フリーダムもジャスティスもないよ! 私がナーバスになってるのは、マイシスターが、タイムにルーズで、トゥーバッドだってことだよ! ハリーアップ! ゲッドアップ! スタンドアップ! これ以上は、さすがの私も、堪忍袋がプットアップウィズできなくなるよ!」
息を切らせた妹の耳に、窓の外でおしゃべりをする小鳥たちのさえずりが入り込んでくる。
室内の喧噪に比べ、窓一枚隔てた向こうは平和そのもの。
肩で激しく息をしながら、妹は小鳥たちをとてもうらやましく思っていた。
「……姉は今の言葉の半分以上を理解できなかった……」
「……妹も言ってて何が何だか分からなかったよ……」
一人称を変えてため息をつく姉妹。
姉は自分の英語力の無さを呪い、妹は虚無感で目にじんわりと涙を浮かべた。
「真由、私、決めたよ。起きようと思うんだ」
決意の朝。
姉の勝負下着である真っ赤な下着が、握り拳からはみ出している。
「うん……うん……私もそれがいいと思う」
目に浮かべた涙を指先で拭い、やっと進化してくれた姉を感動のまなざしで見つめた。
――ナメクジから、人類へ。
前向きに考えれば、途方もない大進化だ。
後向きに考えれば、やっと人並みに戻れたと言うことか。
妹はそれすらも度外視して感動していた。
「少しだけ待ってて、すぐに着替えるから」
次の瞬間。
妹は、驚きに目を見開くことになる。
――姉が着替えていた。
なにより、一人で出来ていた。
問題なくパジャマのボタンを外すことも出来た。
姉は、進化したのだ。
やっと人間に戻れたのだ。
一人で着替えられるようになったのだ。
「真由……」
登校の準備を整えた二人は、お互いに頷き合う。
「お姉ちゃん……」
さぁ、一日が始まる。
「――パンツをはかないで行くのは止めてね」
三点リーダをいくつ使っても足らないくらいの沈黙を経て、姉は頬を指でかきながら、笑って見せた。
「面倒じゃない」
「面倒じゃない!」
「だよね〜! 同意してくれるなんて、お姉ちゃん嬉しい〜」
自らの両手をがっちりと合わせながら、大きな目でウインクを飛ばす。組んだ手を頬のわきに添え、絵に描いたようなしなを作る姉。
「……あ! お、お姉ちゃんの愉快な冗談でした〜、あ、あはは〜……」
姉の趣味である真っ赤な装飾を施した真っ赤な部屋。温暖化がコンセプトの赤い部屋に勝るとも劣らない、真っ赤な妹の憤怒に、姉は慌てて睡魔を捻り潰した。
……一分後の玄関。
「さ、さぁ! 行くわよ真由! 遅刻遅刻〜!」
王道ともいえる食パンをくわえた姿で、元気よく玄関を飛び出していく姉。
そんな姿も、どこか面倒くさがりな姉らしい。
翻ったスカートの中には、姉の大好きな色である赤い下着があって、鞄には赤いキーホルダー。携帯電話も、もちろん赤。
赤には食欲増進の効果があると色彩心理学でも証明されているけれど、ハンバーガーが好きな姉ならばそれも頷ける。
放課後にふらふらとハンバーガー店に入店する姉。
彼女は黄色と赤で彩られたファーストフード店の目論見に、まんまと乗せられているというわけだ。
「もう……由美お姉ちゃん……調子良すぎるよ」
そんな姉にどこか頬がゆるみそうになる自分を慌てて訂正して、妹は振り返る。
「お母さん! お父さん! 行ってきます!」
奥から聞こえた優しい両親の声と、前方で手招きしながら走る姉の呼び声。
その中心で、妹は知らず微笑んでしまうのだった。
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