ストーカー男と覗き穴
「うっへっへっへ、とうとうこの日がやってきた……!」
俺は冷たいフローリングに座り込み、壁にあいた小さな穴を興奮気味に見つめる。
壁一枚隔てた向こうには超人気アイドル「すたぁ☆えんぜる」のメンバー、みっちぃの居住空間が広がっているのだ!!
この日をどれだけ待ちわびただろう。
みっちぃが好きすぎてCDや写真集はもちろんみっちぃとお揃いのカバンやアクセサリーも購入した。みっちぃがヨーグルトにハマっていると聞けば同じ銘柄のヨーグルトを取り寄せ、みっちぃの家のテレビが壊れたと聞けばみっちぃの事務所に新しい大型テレビを送った。
もっともっとみっちぃを身近に感じたくて出待ちや追っかけもしたが、事務所のガードは固くなかなかみっちぃに近づくことはできなかった。
しかし俺は諦めなかった。
一人の男を雇い、湯水のごとく金を使ってようやくみっちぃのマンションを突き止めたのだ。
胡散臭い男であったが信じて良かった。隣室を抑え、さらに覗き穴まであけてくれるとは!
ああ楽しみで仕方がない。
何千何万のファンの中でみっちぃの生活を垣間見ることのできるファンが何人いるだろう? きっと俺一人だ!
そうこうしているうちに隣の部屋からガチャリと鍵の開く音が聞こえてきた。
みっちぃが収録を終えて帰ってきたのだ!
電気が付き、穴の向こうの部屋が明るくなる。俺は齧り付くように目を穴にあてた。
「ふぃー、たっだいまー」
気の抜けたような声。
舞台の上では絶対に出さない声だ。
そう、こう言うのが聞きたかったのだ。普段の一人の少女としてのみっちぃの声を!
「あー、疲れた」
カバンをソファの上に放り投げるのが見える。
それから布の擦れるような音が微かに耳に届いた。まさかと思い目を見開くと、Tシャツとスカートが弧を描くようにしてソファへと着地した。
これはつまり、俺の視界の数十センチ外でみっちぃの生着替えが行われているということ……!
俺は必死になってみっちぃの着替えを見ようと覗き穴に噛り付く。角度を変えたりあえて穴から離れたり、逆に眼球がめり込むほど穴に顔をくっつけたり……しかし無情にもみっちぃの裸をこの目に焼き付けることは叶わなかった。
「ンフーッ! ンフーッ!!」
目がダメならせめて鼻を。
俺は穴に鼻を突っ込み、みっちぃの匂いを嗅ごうと必死に呼吸を繰り返した。
「ぶぼぉ」
ああ、なんだか花の匂いがするような……あれっ、いや……なんだこの硫黄臭は。
「ボッッブゴボォッッ」
な、なんだこの火山が噴火したような音は……!?
しかもこの匂い……まるで火山地帯に身を置いたような!?
まさかこれは――
「お、おなら……?」
い、いや。みっちぃだって人間だ。誰もいない部屋でおならをして何が悪い。
でも、でも少し――音と臭いが強烈すぎるんじゃないだろうか。せめて「ぷぅ」みたいな、「あっ、出ちゃった」みたいな可愛らしいおならでも良いのでは? あんな「大砲を出してやったぞ!」みたいな、下手すれば実まで出るようなモノをぶっ放さずとも……
いやいや、落ち着け俺。ここはみっちぃの部屋だ。
アイドルは大変な職業。しかも彼女はまだ20歳そこそこの少女である。常にアイドルとしての振る舞いを求められ、そりゃあストレスも溜まるだろう。家で一人でっかいおならをするくらい大目に見てあげねば。
「カァーッッ……ペェッ!!」
う、うんうん。
アイドルにとって喉は命。タンが絡まってると良くないもんね。
「ブババババッ」
……溜まってたんだね。
まぁ外でおならするよりは……良いよね。
そしてしばらくの沈黙の後、ジャブジャブという水の音が聞こえてきた。手を洗うにしては派手な水の音。
俺の脳裏にある雑誌に載っていたみっちぃのインタビュー記事が浮かぶ。確か、みっちぃは肌のために帰ってすぐメイクを落として顔を洗うのだとか……
みっちぃは今まですっぴんをテレビに映したことはないし、もちろん俺も見たことがない。
俺は腹の底から湧き上がるような、ムズムズするような、叫びだしたくなるような興奮に襲われた。
みっちぃのすっぴんが見られるなんて。今まで親やごく親しい友人しか見ることができなかったであろうすっぴんをこの俺が見られるなんて! これはもはや彼氏と言ってもいいのではないか?
ペタペタとフローリングを歩く音が少しずつ大きくなっていく。それと共に自らの心音も大きくなっていく。
ああ、もう少し。もう少しでみっちぃのありのままの姿をこの目にできる!
そしてとうとう俺の視界にみっちぃが入ってきた。興奮のあまり声が漏れる。
「ああ……! ハァハァ、みっちぃ……みっち……ッ!?」
ソファに寝ころぶ「それ」は、みっちぃであってみっちぃではなかった。
ダサい緑色のジャージに身を包み、前髪をゴムで結んでいる。そしてその顔には眉毛がなく、あのパッチリした二重は跡形もない。
そして「それ」はおもむろに足を開き、尻に手を伸ばし――
「ブボボォ……ボフッ」
そしてその手を自らの顔に当て――
「クッセ」
「――!!!」
それはもはや、俺の愛した「みっちぃ」ではなかった。
*********
「はい、はい。そうですか、ではあの部屋は引き払われると……はい、分かりました」
妙に胡散臭い顔をした男は電話を切ると目の前に座る人気アイドルユニット「すたぁ☆えんぜる」のメンバー、みっちぃこと山本ミチコに微笑みかける。
「例のストーカー男からです。部屋を引き払ってあなたのファンもやめるそうですよ」
ミチコはホッと安堵のため息を吐いたが、すぐに不安げな表情に戻る。
「それは良かったんですけど……いくらなんでもあのすっぴんはちょっと。私あんなに酷くないですよ」
「ストーカーを撃退するためです、少々のことは我慢していただかないと」
男は携帯を懐に入れて立ち上がり、彼女に一礼する。
「ではダミーの部屋は引き払っておきますので。謝礼はこちらの口座にお願いしますね。ではこれで失礼いたします」
それだけ言うと男は足早に部屋を去った。
その後、ミチコへのストーカー被害はパッタリと途絶えたが、彼女のスッピンが酷いとの噂がネット上でまことしやかに囁かれたと言う。