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残業
作:立木ノエミ


 ―週明けそうそうこのザマかよ―
 
 俺は思わずパソコン画面に向って舌打ちした。机の上には資料が山積みになっている。
 頭の悪い女子社員のせいでこのザマだ。初めて任される大きなプロジェクトで重役連中を招いての大切なプレゼンテーションだってのに。
 資料に載せた全ての市場調査の結果が改訂後のものではなく改訂前になっていた。気づいたのはプレゼンテーションが始まった後だった。重役連中に舐められまいと堂々と自信に満ちた態度で臨んだ結果がこれじゃ恥さらしもいいところだ。
 
 「どんなに仕事が出来たって、肝心な時にこれじゃあねえ」
 
 上の連中に散々頭を下げた後、課長はあてつけがましく何度も嫌味を言った。普段その無能さから部下達に軽んじられているお返しのつもりか。
 俺は歯を喰いしばりながら課長にも頭を下げ、オフィスに戻ると資料を作成した女子社員に注意した。口調がきつくなるのも当然だろう。俄かに女子社員はシクシク泣き出した。
 同期入社の奴がいい人ぶって「一体どこ間違えたの」と尋ねながら女子社員を慰める。
 
 「おいおい、彼女に当たるのはやめろよ。ちゃんと確認しなかった君の責任なんだから」
 
 課長が更に俺の神経を逆撫でするように口を挟む。更に女子社員を泣かせたことで集まった周囲の責めるような視線がうざったい。

 何よりもこの失敗が自分のイライラからくる不注意のせいだということを俺自身が一番良く分っていたのだ。
 そしてこのイライラが仕事によるものではなくプライベートを引き摺っているということも……。

 そんな自分が不甲斐無くて俺は余計にイライラした。
 
 「もういい。自分で修正する」
 
 すぐにやり直しますと言う女子社員を振り切るようにして俺はオフィスを出た。足は喫煙室へ向いていた。
 この秋にはニューヨークへ配属されることになるため、そして婚約者が煙草の匂いを嫌うための禁煙が呆気なく破られる。
 そうやってイライラしながら煙草を吸っていると嫌味を言っていた課長のどこか嬉しそうな顔や女子社員の泣き顔がチラついた。

 「泣けば何でも許されると思ってるのかよ」

 俺は思わず声に出して呟いた。
 所詮結婚までの腰掛け気分でいるんだろう。きゃらきゃらと女同士で固まって自分達の狭い価値観の中だけで自分の考えも責任も持たずに行動して、ブス共が。沙和子とはえらい違いだ。

 そう心の中で呟いた途端、課長と女子社員の顔は消え沙和子のどこかふてぶてしいような艶然とした笑みが思い出された。

 そう、俺にイライラと不注意をもたらした諸悪の根源だ。

 「元はといえばあの女がこのあいだの土曜……」

 そう思い出しかけて、止めた。
 明日までに資料を修正しなければならない。

 煙草を揉み消すように灰皿に押つけると俺は仕事へと戻った。

 それからは何も考えず黙々と仕事に没頭した。いつのまにか終業時間が来たらしく、一人減り二人減り、三〇分前に最後の一人が帰ってしまうとオフィスは俺一人になった。
 時計を見るとすでに針は九時を回っていた。

 ガチャッ。

 誰かがドアを開けた、顔を上げると俺の席のちょうど通路を挟んだ隣にある企画室のドアが開かれた。

 「城嶋、まだいたのか」

 佐々木だった。
 同い年にも関わらず中年太りし始めたずんぐりした身体でまだ夏には遠いのに額にはほんのり汗が滲んでいる。

 「ああ、明日までにプレゼンの資料を修正しないと」
 「おまえらしくないな、そんなミスするなんて」

 佐々木はそう言いながら自分の席へと向った。

 ―全くその通りだ―

 俺は佐々木を眺めながら心の中で呟いた。資料が仕上がったのは先週末のことだったので、万が一のことがあってはいけないと今朝早く会社に来て内容を確認した筈だった。だから本当にこれはいつもの俺なら在りえないミスだ。
 
 そしてこの在りえないミスを起こした原因は沙和子だけでなく……この佐々木にもあった。

 さっき封印したはずのイライラがまた沸々と沸きあがってくる。

 「佐々木こそどうしたんだ。今日は定時で上がったんじゃなかったのか」
 「それが急に課長から連絡があってさあ、明日の定例会議で使う書類を失くしたとかで……」

 発簡書類のファイルに閉じてなかったかなあと思って。佐々木はそう言いながらブリーフバックをデスクの上に置いた。
 
 来簡や発簡書類は全てファイルされ隣の企画室に保管されている。企画室と事務所は行き来できるように中で繋がっているので、佐々木は外から企画室に入りそのまま事務所へ入ってきたのだろう。佐々木の席はパソコンを挟んでちょうど俺の向かい側だ。

 「ないなあ、あれ誰が作成したんだっけなあ」

 企画室から戻って来ると佐々木は自分のパソコンを立ち上げた。
 アルコールの匂いに混じってほのかに、どこかで嗅いだことのあるような香水の香りが漂ってきた。

 「大変だな。デートの最中だったんじゃないか」
 「まあね」

 佐々木はパソコンからチラリと目線をこちらに向けた。
 メガネの奥の瞳は陽気で屈託がない。
 佐々木はパソコンの画面を見つめたまま笑みを浮かべて言った。

 「城嶋こそ、舞と上手くいってるのかよ。こないだ忙しくてなかなか逢う時間がないってグチってたぞ」

 佐々木はそう口を滑らせるとすぐに慌てて「ほら、近くで用事があったからって舞、会社に顔出した時あったろ。あの時に言ってたんだよ」と弁解するように言った。

 「気にするなよ。佐々木は舞の学生時代の先輩だし、元々おまえと彼女はつき合っていた訳だし……」

 こいつと舞が今だに連絡を取り合っていることは知っている。
 でもだから何だって言うんだ。
 俺は心の中でほくそえんだ。

 舞が俺を捨てて佐々木と寄りを戻すなんて在りえない。もう結納だって済ませているんだ。いくら社長令嬢と言えど、よっぽどの理由がない限り結婚を取り消すことなんて出来やしない。

 「そんな訳にはいかないよ、今はおまえ(・・・)の(・)婚約者なんだから」

 佐々木はそう言うと一瞬上目使いに俺を見た。
 佐々木の言葉に見えるか見えないかの僅かな険が含まれているような気がした。

 改めて俺は佐々木を見返したがその温和な表情からは他意は感じられなかった。舞を佐々木から奪ったことに対する一抹の罪悪感がそんな気にさせるのかも知れない。

 「舞、不安なんだよ」

 佐々木は再びパソコン画面に視線を落としたまま言った。

 「不安?」

 俺は少し身構えながら佐々木の言葉に耳を傾けた。

 「ほら、あいつって世間知らずで子供っぽくて相手に合わせるってことを知らなくて……まあそこが可愛いとこでもあるんだけど……そのせいか昔から見た目は悪くないのにうざったく思われることが少なくなかったからさ。自分でも分ってんだよ、普通の男からは倦厭されがちなタイプだってことが。それがおまえみたいにスマートで格好良くて仕事も出来る男からプロポーズされたもんだから、嬉しい反面不安なんだな。他に何か目的があるんじゃないかって……」

 さすがに佐々木は舞の事をよく知っている。
 それよりも舞がそこまで客観的に自身の事を見つめていたとは意外だった。

 しかしそんな事はどうでもいい。

 佐々木が言うとおり俺が舞と結婚する目的は他にある。会社中の人間がそう噂してることで、佐々木がそれを知らないはずがない。
 分ってるくせにあえてそんな事を尋ねてくる佐々木が忌々しかった。

 「出世目当てだっていうのか? 何言ってんだ。仮に佐々木と結婚することになったって舞は同じ心配をしているさ。仕事もバリバリこなすし上司の評価も高い、女子社員にも人気もある」

 ふと、昼間俺が叱った女子社員を佐々木が慰めていた光景が浮かんできた。

 それだけじゃない。

 こいつは何かっていうとケーキやらお菓子やら買ってきては下心が見えない程度に女子社員に媚を売っている。容姿がイマイチな分、そんなところで気を配らなければ女がついてこないのかも知れない。

 俺はそんな佐々木をさもしく思った。

 「俺は所詮二番手だからさ。それに城嶋みたいに男振りが良くない」

 佐々木の丸い顔は浮かべた笑みによって更にまろみを帯びて見えた。その人畜無害な笑顔が軽く俺を苛立たせる。

 「とにかく、佐々木は何も気にすることはないさ。むしろ舞の良い相談相手でいてやってくれって前から言ってるだろう」

 俺はそう言って無理やり話を終わらせた。

 ―もう舞はたくさんだ。昨日も一日中つき合わされたってのに―

 苛立ちを振り切るように俺は立ち上がりすっかり煮詰まってしまったコーヒーメーカーからカップにコーヒーをいれた。佐々木が「俺にもいれてくれよ」というのでもう一個カップを取り出し、砂糖とミルクを大目に入れてマドラーでかき混ぜた。

 結局こいつは負け犬だ。しかも遠吠えするどころか、尻尾振ってやがる。

 「おまえってさ」

 佐々木にカップを手渡しながら言った。

 「淡白っていうか執着がないっていうか」

 佐々木はカップを受け取りながら穏やかな問いかけるような目で傍らに立つ俺を見上げる。 その全てを受け入れるような表情を見ていると俺は少し残酷な気分になった。

 「ほら、俺と舞がつき合うことになった時もさ、それまで五年近くつき合ってたんだろう。なのに恨み言一つもなく身を引くし……」
 「そりゃそうだよ。背が高くてハンサムで有能でさ、どう考えても俺には勝ち目はないよ。俺が舞の立場でもおまえを選ぶと思うよ」

 穏やかな顔、達観したような口調。腹が立つ。

 「でも秋の人事異動だって舞がニューヨークに住みたがったって理由だけで婚約者の俺が配属されることになった。それさえなきゃ留学経験のあるおまえを行かせたはずだ。それがマレーシア支社なんて辺鄙なとこへさ……」
 「そりゃ正直ニューヨークで仕事がしたかったさ。でもまあ確かに女性にとってアジア圏で生活するのはきついだろうし、妻子のいない俺がいくのがやはり順当だろう。それにニューヨークで空きのポストが出来次第配属してくれるっていうし……」
 
 「だから駄目なんだよ」

 俺は思わず空いていた近くの席に座り込んだ。

 「もっと貪欲にならなきゃ、おまえ、いつまで経っても二番手だぞ」

 そう言って佐々木の隣りに腰掛けた瞬間、俺は佐々木がオフィスに持って帰ってきた香りが誰のものか思い出した。

 沙和子の香水だ。

 「大丈夫、いつまでも俺だって二番手でいるつもりはないさ」

 佐々木はそう屈託なく笑った。俺は人知れず歯噛みした。

 ―畜生こいつ、まさかさっきまで一緒にいたのは―

 先週末からずっと俺の中で巣食っていた疑惑が動き始めた。
 単刀直入に問いただしたい気持ちをぐっと抑えると俺は表情を読まれまいと立ち上がり、いかにも今思い出したという風に尋ねた。

 「そういえば相原さん、今日は来ていなかったみたいだけど」

 俺はあえて佐々木の方を向かずに尋ねた。しかし答えが返ってくるまでには微妙な間があった。その微妙な間が気になってつい俺はチラリと佐々木を横目で見てしまった。

 「城嶋が相原さんを気に掛けてるとは思わなかったよ」

 佐々木は椅子を回転させ身体ごと俺の方を向いていた。まるで俺の表情を少しでも見逃すまいとでもするように。

 「別に気に掛けてるってわけじゃないさ。ただ見かけないなと思って」

 俺は目線を逸らしてカップに残ったコーヒーを飲み干した。

 「彼女、しばらく休みをもらいたいって」

 佐々木も同じようにコーヒーを飲み干す。

 「休み?」

 思いがけずすぐさま聞き返す。佐々木はそんな俺の反応をおもしろそうに見ている。

 「休みって言われても彼女は派遣だからね。辞めてもらうしかないなあ」

 沙和子を辞めさせるだと。一体何があったっていうんだ。事故か? 病気か? それとも浮気が旦那にバレたか……。

 「今日派遣元から連絡があったから、すぐに代わりの人を頼んでおいたよ」

 会社の人間はもちろん、とりわけ佐々木や舞には二人の仲を気づかれないよう、俺と沙和子は社内では一切接触をしないようにしてきた。元々女子社員とすらまともに口を利くことがなかった俺だったからそれくらいしないと不自然だったし、ちょっときれいな女が派遣されてきたからって浮ついているように周りから見られるのが癪に障るというのもあった。
 
 しかしそれが今や仇となっていた。沙和子に関する情報が一切外から入ってこないのだ。

 「旦那さんから家事に専念してくれって言われたかな。案外、オメデタだったりして」

 嫉妬深くて疑り深い旦那がいるからとメールはおろか携帯電話の番号すら聞いていない。自宅の連絡先くらいは社内の誰かが知ってはいるだろうが尋ねる理由もない。
 そもそも社内では俺と沙和子は何の接点もないのだから。

 「佐々木は何も聞いてないのか」

 あれこれ想像するように宙に彷徨わせていた視線を佐々木が俺の方へ向けた。

 「俺が?」

 ―聞いてない筈はないだろう―

 もうほとんど消えかかった僅かな沙和子の残り香に俺の嗅覚はすがりつくように触手を伸ばす。
 そんな風に沙和子の香りを探していると自然と沙和子の姿が浮かんできた。
 
 二〇そこそこの女子社員とは違う大人の女の色香を涼しい顔で撒き散らしていた沙和子。上司も同僚も社内中の男がまるで毒蛾の鱗粉でも吹きかけられたかのように彼女に魅入られていた。

 俺もその一人だとは認めたくなかった。しかし誘われるままに関係を持つとすっかり彼女の虜になった。

 ―アンタが不機嫌な顔をしているところっていいわ。会社で頭の悪いお偉いさんの分った風な説教を黙ってハイハイって聞いてさ、奥歯噛み締めてすんごい悔しそうな顔してんの。アンタのそんな時の顔って堪らないわ。もっと苛々させて怒らせたくなっちゃう―

 そんな憎たらしいことばかり言う女だった。でもなぜかその口調に俺は掻き立てられた。決してベタベタと甘えてはこず挑戦的なことばかり言って俺の闘争本能を駆り立てて、そして最後には服従してくれる女だった。

 それに沙和子は肉体だけでなく俺のプライドも満足させた。同僚達が彼女の噂話をしているのを小耳に挟んだ時など思わず優越心から笑みがこぼれそうになったこともしばしばあった。
 とりわけ同期の佐々木に対しては舞と沙和子、二人の女を俺が手に入れたことで気持ちの上で随分差をつけたような気になっていた。

 しかしそんな沙和子と佐々木は……。

 「だって、君らは仲が良かったじゃないか」

 平静を装うとするあまり声が堅く平坦になってしまった。しかし佐々木はそれをどう言うでもなく首を回しながらネクタイを緩めている。
 
 二人は社内でも特に親しくしていた。そして沙和子は少なからずとも佐々木に好感を抱いていた。
 
 佐々木は人当たりの良さから上司はもちろんのこと後輩や女子社員からよく慕われていた。どこかもっさりとした外見からすると意外だが結構女子社員からモテた。
 確かに結婚するにはいい男かも知れないが騒ぎ立てるほどのものでもないだろうと以前沙和子と話したことがあった。
 
 しかし沙和子の反応は俺の期待していたものとは違っていた。

 ―佐々木さんって一見優しくて控えめそうでいて、ちょっとずうずうしいところがあるのよね。女ってそんなちょっとずうずうしい男に弱いのよね―

 佐々木を褒めるような言い方が気に入らなかった。考えても見れば沙和子が俺の期待するような言葉を口にしたことは一度もなかったのだが……。

 「まあ仲が良いって言えば良かったけど」

 頭の中で聞こえてきた沙和子の声を掻き消すように佐々木の声が俺の耳に入ってくる。佐々木は興味なさそうな様子で椅子をデスクの正面に戻した。

 ―良いって言えば良い? そんなもんじゃないだろう―

 俺は佐々木の無関心さに苛立った。

 ―おまえは相当に沙和子に入れ込んでたじゃないか。何度も俺に「旦那さえいなかったらなあ」と話していたくせに―

 さすがに二人きりはなかっただろうが、佐々木は他の社員達と飲みに行く時は必ず沙和子にも声を掛けていた。むしろ彼女を誘うがために飲み会を開いているくらいだった。
 そんな佐々木の気持ちを知っていた上で奴を出し抜けることが出来たからこそ沙和子との関係はより価値が高いものになったのだ。

 だのに一体奴のこの余裕はどこから来るんだ。

 ―佐々木さんてね、見た目も振る舞いも普段は男を感じさせないんだけど、ふとした瞬間にね、ちょっとした男臭さをアピールするのよ。そんな時の彼ってなかなかセクシーよ―

 沙和子が前に言った言葉が蘇る。
 先程飲んだ煮詰まりすぎたコーヒーのざらつくような苦味とミルクに含まれた脂肪分と砂糖の甘さが沙和子の憎たらしい言い草と混ざり合って俺を不快な気持ちにさせる。
 それでも俺は佐々木の返答にすがりつくように質問を重ねた。

 「個人的にさ、連絡取り合ったりとかしてなかったのか」
 「連絡? どうかなあ」

 佐々木はもう俺の方は見ていなかった。パソコンの画面を見つめながらまるで俺を翻弄するように曖昧な答えしか言わない。

 沙和子と佐々木。
 在りえない話ではなかった。
 沙和子は男を誘うことを躊躇しない女だ。俺との時だって沙和子の方から仕掛けてきた。沙和子に対して最初はあまりいい印象を抱いていなかった俺でも篭絡されたのだ。佐々木なんて訳もない。

 「そういえば城嶋、先週の土曜は神戸に帰ってたんだって」

 話を逸らすように佐々木が口を開く。しかしすでに俺の頭の中には返事を考える余裕すらない。

 ―沙和子と佐々木がもしデキていたら―
 
 プライドが傷つけられるのはもちろんのこと、沙和子の性格なら俺との関係だっておもしろがって話しかねない。寄りによって佐々木は誰よりも知られたくない相手だ。

 「同窓会だったんだってな。舞が電話で言ってたよ。朝早くの新幹線で行ったって」

 ―俺が神戸になんか戻ってなかったってこと、おまえが一番良く知ってるんじゃないのか―

 佐々木の口から出る言葉の一つ一つに疑心暗鬼になり、俺の神経もさすがに消耗し始めた。

 「このコーヒー飲んだら余計に喉が渇いたな」

 俺は何とか平静を装いながらひとまず佐々木の元から離れ、事務所内に設置されてある自販機の前に立った。

 ―冷静に、頭を冷やす必要がある―

 俺は気づかれないように「フゥ」と息をついた。
 
 佐々木が沙和子と俺との関係を知っていたとしたら……おまけに舞や社長の耳に入るようなことにでもなったらと思うと気が遠くなりそうだった。

 更に沙和子と佐々木の関係。
 沙和子が俺を裏切って、しかも寄りによって佐々木に乗り換えたと思うと堪らなく悔しかった。
 自分がこれほどまでに嫉妬に狂うとは正直意外なほどだった。
 改めて沙和子はいい女だったのだと痛感する。出来ることなら手放したくない。

 ―いっそのこと単刀直入に聞いてみるか―

 俺は自販機に百円玉を入れるとペットボトルのお茶のボタンを押した。
 ゴクゴクと喉を鳴らして五百ミリのペットボトルの半分近くを一気に飲む。

 ―駄目だ、冷静に考えろ―

 佐々木が俺と沙和子との関係を知っている可能性は五分五分だ。佐々木と沙和子がデキてる可能性だって……。
 希望的観測を持つのは良くないが、相手が知らない可能性だってあるのにわざわざこちらから打ち明けるような真似をすればそれこそ薮蛇だ。

 俺は残りのお茶を飲み干した。そしてもう一度自販機に硬貨を入れてブラックのコーヒーを二本買った。

 まずは佐々木と沙和子が関係を持っているのかどうかだ。それを確認しないことには佐々木が俺と沙和子の関係を知っているかどうかも分らない。
 俺は考えを巡らせながら席に戻った。

 「お、ありがと」

 佐々木にコーヒーを一本渡す。その邪気のない表情にやはりこいつは何も知らないのではないかとつい信じたくなる。
 
 俺は再び佐々木の隣りの席に腰を掛けた。缶コーヒーを口に含みながら佐々木は何事だろうと軽く問いかけるような視線を俺に向けた。

 「佐々木、実は俺は昨日神戸に帰っていない」

 俺の言葉に佐々木は黙ったまま次の言葉を待つ姿勢でいる。

 「休日二日とも休みが取れることなんて久しぶりだったからな。一日くらい一人でゆっくり過ごしたかったんだ。嘘ついて舞には悪いと思っているが、佐々木も分るだろう? そうでも言わなきゃ舞は納得しない」
 「遊んでくれって駄々こねるだろうな」

 そう言うと佐々木は椅子にもたれかかって笑った。
 よし。話の切り出しとしてはいい感じだ。
 佐々木は会話の流れに乗るように俺の話を促した。

 「で、ゆっくりリフレッシュ出来たのかい」
 「まあな。近くの喫茶店で遅めのモーニングを食べて、運動不足解消も兼ねて散歩に出掛けたんだ」
 「先週末はいい天気だったからなあ。気持ちよかっただろ」

 佐々木はまるで自分自身が春の陽気の中を散歩したかのような機嫌良さげな表情を浮かべた。
 俺はそれには答えずに言葉を続けた。

 「出鱈目に歩いていたら地下鉄の駅に出た。でそのまま地下鉄沿線上を歩いてたんだ」

 佐々木は静かに俺の話を聞いている。その様子に構えるところはなく誠実さすら感じさせる。

 「あれはどこの駅の近くになるのかな、とにかく途中で道を曲がったところに一軒のさ、こじんまりしたホテルが建ってたんだ。外装もきれいだったし大通りに面していないから静かだろうし、知り合いでも来た時にちょうどいいと思ってパンフレットを貰おうと中に入ったんだ」

 佐々木はもう笑ってなかった。俺は気を持たせるように手に持っていた缶コーヒーのプルトップをゆっくりと開けた。

 「もう言わなくても分るだろう、ロビーに誰がいたか」

 俺はゆっくりと缶コーヒーを口につけ傾けた。俺の言葉に佐々木は軽く握った手を口元に当てると目線を床に落とすようにして首を傾けた。

 「そうか、見てたのか」

 佐々木は動揺した様子は見せなかったものの、その言葉の響きはどこか残念そうだった。
 何と言うか、そう……。

 「出来れば城嶋には伝えない方がいいとは思ったんだけど」

 俺が抱いた印象通りの台詞を佐々木は口にした。他ならぬ自分の目で目撃したことだが、実際に佐々木と沙和子と逢っていたことをこのように認められると、怒りや悔しさよりも先に妙な緊張感が俺の身体に走り掌には嫌な汗が噴き出した。

 「近寄り難いムードだったからすぐにその場を離れたんだが」

 佐々木の次の言葉を思うと心臓の鼓動が早くなったが、俺はそんな胸の高鳴りを抑えて出来る限り落ち着いた口調を崩さなかった。

 ―本当ならそのままホテルに入り、チェックインを済ませて部屋で沙和子を待っている予定だった―

 そう、その日俺は沙和子と逢う約束をしていたのだ。

 そのホテルは人目についても怪しまれないようにと沙和子が見つけてきた場所だった。ロビーには喫茶店もあるし、料理やフラワーアレンジメントなど主婦向けのカルチャースクールを開講してあるようなホテルだったので万一、人に見られても何とでも言い訳が出来た。もちろんいつも部屋に入る時は別々に、少なくとも三〇分以上は時間差を置くようにはしていた。

 「沙和ちゃんに突然呼び出されてね」

 佐々木は社内でもいつも親しげに沙和子のことをちゃんづけで呼んでいた。こいつがこんな風に馴れ馴れしく沙和子の名を呼ぶのを聞くにつれ妙なジェラシーと優越感を同時に味わったものだ。しかし今となっては憤りしか感じられない。

 そう、あの日佐々木と沙和子が一緒にいるところを目撃した俺はいったん踵を返した。そして一時間後、佐々木と佐和子の姿がロビーにないことを確認してから俺は改めてチェックインして部屋で沙和子が来るのを待った。
 沙和子が先にチェックインして待っているかも知れないという淡い期待はその時点で裏切られたわけだが、それでも沙和子は来るだろうと思い込んでいた。
 
 ―きっとたまたま佐々木に出会ったに違いない。機転の利く沙和子のことだ、俺に知らせようとロビーでも目につきやすいところに座って―

 そんな期待は時が過ぎる毎にじわじわと形を変えていった。
 
 そしてやってこない愛人を待ち続けて時計の針が六時を指したころには当初抱いていた期待は「まさか沙和子は佐々木とこのホテルのどこかにいるのではないだろうか」という疑惑へと変わっていた。

 「一体どうしたっていうんだ、佐々木。おまえらしくない。洗いざらい話してくれよ」

 俺は今だに事実を言うべきか逡巡している佐々木に出来うる限りの穏やかな口調で促した。 もちろん内心は穏やかどころではない。
 寄りによって俺との逢瀬に使っていたホテルで……だなんて悔しさと嫉妬で変になりそうだ。

 「そうだな、俺とおまえとの間で隠し続けるのは良くないな」

 佐々木はそう呟くと改めて俺の方へ向き直った。そして俺の目を見ると思い切ったように口を開いた。

 「彼女はおまえとつき合ってるって言っている」

 いきなり変化球を投げられて俺は少なからず動揺した。

 しかし佐々木の視線は俺の目に注がれたままだ。
 俺は出来る限り顔はもちろんのこと瞳をも微動だにしなかった。
 喉が渇く。

 「そんな、事、ある訳ないじゃないか」

 俺は必死になって平静な口調を装ったが正直自信はなかった。しかし次の瞬間佐々木は表情を崩し、緊張をほぐすように俺の腕をポンポンと叩いた。

 「分ってる、彼女の妄想だってことは」

 妄、想……? 

 「沙和ちゃん前からおまえの事を気に掛けてたんだよ。周りの人間にはそうとは気づかせないようにしていたけどな、俺には分った」

 どうやら……佐々木は俺と沙和子の間に肉体関係があるとは思っていないらしい。

 「金曜の夜遅く、沙和ちゃんから電話があったんだ。随分取り乱した様子だったんで俺は旦那さんと何かあったのかって聞いたんだ。そうしたら旦那の事なんてどうでもいいって泣き出して、夫婦仲はとっくの昔から冷め切っている。城嶋さえ良ければ離婚して一緒になりたいって……」

 佐々木は困惑したような表情を浮かべながら言った。
 しかし俺は反対に先程かいた汗が冷えて乾いていくのを心地よく感じていた。

 ―沙和子がそれほどまでに俺のことを思っていたとは―

 あの呆気ないほどクールで俺を翻弄させるような言動の数々は全て俺を繋ぎとめておくための演技だった。そう思うと正直嬉しかった。
 佐々木はそんな俺の内心の変化など気にも留めずに話し続ける。

 「突然そう言われても到底信じられる話じゃなかったし、電話じゃラチが開かないんで逢って話をしようということになったんだ。そうしたら明日は城嶋と逢う約束になっている。待ち合わせの場所に城嶋が来ればさすがの俺も信じるだろうって……」

 そう言うと佐々木は愚かしいとでも言うように頭を振った。

 想像もしていなかった沙和子の俺に対する一途な思いにこそばゆいような喜びがじわじわと胸に染み込んでゆくのを感じながらも、佐々木がそれほどまでに俺と沙和子という組み合わせを否定するのが少し不思議な気もした。
 しかし考えてもみれば昔つき合っていた女の婚約者が他の女と浮気してるだなんて信じたくもない話だろう。
 何より佐々木は沙和子に惚れていたから無意識の内に俺と佐和子が愛人関係にあるという可能性を頭の中から排除してしまっているのかも知れない。
 ようするに沙和子の妄想だと思い込みたいのだ。

 ということは佐々木と沙和子は……。

 「そうだったのか、俺はてっきり佐々木が相原さんとデキてたのかと思った」
 「すまないな。考えてもみれば城嶋に先に尋ねるべきだった。おまえと沙和ちゃんがつき合ってるなんて話信じたわけじゃなかったんだが、あんまり彼女が思いつめた様子だったから…」
 「まあでも結果的に彼女の思い込みだってことが分って良かった。俺と相原さんなんて、在りえないよ。大体俺はあんな女のこと何とも思って……」

 その時だった。

 ガタンッ。

 企画室で物音がした。
 ドアについている擦りガラスの向こうは電気が消えたままだ。
 しかしほんのりと擦りガラス越しに人影が見えた。まさか……。

 「聞いたろう、沙和ちゃん。君の思い込みだよ」

 何だとっ、ちょっと待て。俺は思わず立ち上がった。

 「仮に君と城嶋が本当につき合っていたのが事実だったとしても諦めた方がいい。君も知っての通り城嶋は社長の娘との結婚が決まってるんだ。弄ばれて捨てられるのが関の山さ」

 沙和子がそこにいるのかっ。

 俺は企画室に駆け寄った。ドアノブに手を掛けるが開かない。内側から鍵を掛けているのだ。

 「それより、俺とのことを考えてくれないか。もちろん離婚が決まるまでいつまででも待つし、君が嫌なら海外勤務だって……」

 精神的に参っている時にそんな言葉を掛けられたらさすがの沙和子だって……。
 このままでは佐々木に沙和子を譲ることになってしまうっ。
 
 そんな焦りが俺を突き動かした。

 「沙和子っ、沙和子っ」

 俺はドアを激しく叩いた。中で白い影がユラリと揺れた。まるで揺れ動く心情を物語っているようだ。

 「聞いてくれ、沙和子。今言ったことは嘘だっ」

 佐々木に沙和子との関係が知られてしまうが仕方がない。今はとりあえず沙和子を繋ぎとめておくことが先決だった。

 「舞との結婚は出世目当てだっていつも言ってただろう。本当に好きなのは沙和子なんだ。頼むから俺と別れようなんて考えないでくれ」

 佐々木には後で何とか言い訳を考えればいい。それでも佐々木が納得しないようだったら舞に佐々木が結婚を邪魔しようとしているとでも言い含めて……。バカな舞のことだ、簡単に俺のいうことを信用するに違いない。後は佐々木と今後一切連絡を取らないようきつく言い聞かせれば……。

 「もし君が旦那と離婚したいっていうんならそうすればいい。君一人の面倒を看るためのお金くらい舞と結婚さえしてしまえば何とでもなる。ニューヨークへ行っても月に二回は日本に帰ってくるし、君さえその気なら向こうに部屋を借りてもいい」

 俺は思いつくままに言ったものの考えてみれば決して無理な話ではなかった。
 沙和子が離婚さえしてしまえば今までのように月に二、三度の逢瀬で我慢することもない。 沙和子と舞、本当の意味で二人を手に入れることが出来る。

 「こないだの土曜日だって、あの後ずっと君を待ってたんだ。ホテルの部屋で君を待ちながらさ、君と佐々木が一緒にいるんじゃないかって気が気じゃなかった」

 この素晴らしい思いつきを実現させるかどうかは今沙和子を繋ぎとめられるかどうかに掛かっている。

 「沙和子、分ってくれ。一番好きなのは君なんだ。頼む、ここを開けてくれ」

 俺は何度もそう言いながらドアを叩いた。
 そうしてしばらく叩いているとドアがふっと軽くなりドアが開けられた。

 ―沙和子、俺の申し出に応じてくれる気になったのか―

 俺はドアの向こうから沙和子が現れるのを期待に満ちた眼差しで迎えた……が、しかしそこにいたのは沙和子ではなかった……。

 「舞っ」

 思わず声が裏返った。俺は次の言葉が思いつかないままパクパクと口を動かした。

 沙和子だと思っていた人影は舞だった!?

 舞は蒼白な顔をして目には涙を浮かべながらも口元では悔しさでギリギリと歯を喰いしばりながら俺を見ている。

 「実は僕が相談を受けていたのは舞の方なんだ」

 佐々木が感情の籠らない淡々とした口調で言う。まるでこうなることを予想していたかのように……。

 「何よ、神戸に行ってただなんて。ご丁寧にお土産まで買って小細工して」

 俺は驚きのあまり声が出なかった。
 それでも何とかしなければと思い舞の方へ手を伸ばした。しかし舞は「近づかないでっ」と甲高い声で言うとまるで汚い物でも見るような視線を向け俺に触れられるのを拒んだ。

 「分ったろう、この男は出世のためだけに君と結婚しようとしてるんだ」

 佐々木の優しい口調と残酷な言葉に舞の瞳から涙がこぼれ落ちた。
 佐々木はそんな舞の肩に手を回す。瞬間、舞はまるで涙を流せる場所を見つけて安心し切ったかのように声を上げて泣いた。

 「大丈夫、大丈夫。僕がついてるから」

 佐々木はそんな舞の髪を労わるように撫でてやる。

 「君の幸せを思ったからこそ僕は身を引いたんだ」

 佐々木の言葉に対して舞は泣きながら「ごめんね、ごめんね」と呟いた。佐々木はそんな舞を包み込むような優しい顔で見つめる。

 「僕は昔から君が好きだった。それは君が僕と別れて城嶋と婚約することになった時も、今も変わらない」

 佐々木に慰められやがて発作のような慟哭は沈み始め、何とか平静を取り戻そうとするように舞は息を整え始めた。しかし佐々木は舞の息が落ち着かない内に更なる言葉を続けた。

 「結婚しよう。こんな男に君を渡すわけにはいかない」

 舞はしゃくりあげながらも目を見開いて佐々木の顔を見つめた。舞の視線を受け止める佐々木の表情は真摯で誠実そのものだ。

 「ま、待って、突然そんなことを言われても……今は私、何も考えられない」
 「もちろん今すぐ答える必要なんてないよ。僕は今までもこれからも君を待ち続けるよ」

 そう微笑む佐々木の着ていたグレーのカッターシャツの胸元は舞が流した涙で変色している。
 
 「今夜ゆっくり考えればいい」

 そう舞の手を取りながら佐々木は更なる言葉を続けた。

 「でも携帯電話は僕に預からせてくれ。今夜の君は動揺して不安定な精神状態だ。城嶋の声を聞けば君はまた流されてしまうだろう」

 舞は黙って頷くと携帯を佐々木に手渡した。

 「さあ、今日は帰ってゆっくりお休み。タクシー拾ってあげるよ」

 佐々木に背中を押されるようにして舞は部屋を出た。ほどなくしてエレベーターが動く気配が遠くから感じられた。

 ―佐々木は舞に俺と沙和子との関係を吹き込んでいたに違いない―

 一人になって俺の思考回路はようやく戻ってきた。

 佐々木はおめおめと舞から手を引いたわけではなかったのだ。
 
 普通なら結納を済ませ、招待状まで送ってしまった縁談をそうそう覆すことは出来ない。しかしこれは結婚を取り止めるには十分過ぎる理由だ。どんなに申し開きしようとも俺は二度と舞と結婚することは出来ない。例え舞が俺を許してくれたとしても社長が決して許さないだろう。

 俺はデスクの上に置いてあったコーヒーの缶を手にとり残りを飲み干した。甘みのない無味乾燥なコーヒーを喉に流し込みながら、俺はふと自分の気持ちが意外に穏やかであることに気がついた。

 「騙すような真似して悪かったな」

 舞を送って戻ってきた佐々木は一番にそう言った。いつもの余裕のある笑みが今日は意味深に見える。

 「仕方ないさ。元はといえば俺が悪い」

 自分でも驚くほどあっさりと舞を、そして出世を諦める気持ちになれた。

 「随分物分りがいいんだな」

 佐々木はそんな俺に意外そうな視線を投げかけた。恨み言を言うつもりはなかった。一番大切なものが何か分ったのだ。

 「舞の事は元々好きでもなんでもなかった。結婚してもきっと上手くは行っていなかったさ。それに」

 ―俺には沙和子がいる―

 舞よりもニューヨークよりも、沙和子を失うことが自分にとってどんなに恐ろしいことなのかがよく分った。俺は沙和子さえいれば他に何もいらない。

 「おまえもいつまでも二番手ではいないってことが良く分ったよ」

 そう俺が薄く笑みを浮かべるのと同時に携帯電話が鳴り響いた。佐々木は「悪い」というように軽く手を上げると電話に出た。

 「ああ、ちょうど今終わったところだ。もちろん上手くいったよ」

 どこか肩の荷が下りたような気軽さすら感じながら佐々木の電話を聞くともなく聞いていた。

 「会社の前まで来てるって? なら上がって来いよ。城嶋に最後のお別れくらい言ってやったらどうだ」

 城嶋に最後のお別れくらい……自分の名前が出てきたことに引っ掛かった。佐々木は電話を切ると近くのデスクに腰掛けた。

 「城嶋さあ、何で俺がおまえと沙和子の関係を知ってたと思う」

 清々しいほどに空っぽになった胸の中を一陣の冷たい風が吹き抜けていった。

 俺はゆっくりと顔を佐々木の方へ上げた。デスクに腰掛けた佐々木は膝のあたりで手を組みいたってリラックスした様子である。
 そしてその様子は最早リラックスを通りこして尊大にすら見えた。

 ガチャッ。

 ドアが開けられる音と共に覚えのある香水の香りが部屋の中に入ってきた。
 もちろん先程佐々木が事務所に持って帰ってきたのと同じ匂いだ。

 「沙和子」

 事務所に入ってきた沙和子は俺には一瞥もくれずに佐々木に近寄った。そうして佐々木の首に腕を絡みつかせるように巻きつけるといつもの艶然とした憎たらしいような笑みを俺に向けた。

 「沙和子、お、おまえ一体いつから」

 怒りのあまりに声が震えた。そんな俺を小馬鹿にするように「いつからって言われてもねえ」と沙和子と佐々木は二人して愉快そうに顔を見合わせる。

 「派遣社員の手配をしたのは俺だからね」
 「なっ、それじゃあ……」
 「沙和子は元々俺の女さ。ジュエリーデザイナーの勉強をしながらクラブで働いているところで出会った」

 クラブで働いていただと!? 道理で男あしらいが上手い筈だ。
 沙和子の素人ばなれした華やかさと艶っぽさにも納得がいった。

 「じゃあ、最初から俺を嵌めるつもりで近づいたのか」
 「佐和子から計画を持ちかけられた時は、正直抵抗あったんだけどね」

 佐々木は優しくそう言いながら沙和子のしなやかな腰に手を回す。

 「だって私、ニューヨークで勉強したかったんだもの。それにあなただって……」
 「そうだな」

 佐々木はそう呟きながら沙和子の肩に顔を寄せた。

 「五年間もあの我儘な女につき合ってきたんだぜ。それをお前に横からかっさらわれてさ……」

 黙って指くわえて見てる訳にもいかないじゃないか……そんな無言の呟きが聞こえてくるようだった。

 俺はわなわなと身体を震わせた。
 その震えが怒りからくるものなのか、あるいは事実を知った驚愕からかはもう自分では判断が出来なかった。

 「ふっ、ふざけるな、俺が黙ってると思うか」

 負け犬の遠吠えでしかない俺の脅迫などものともせず佐々木は「おまえの言うことなんて今更信じると思うか」とうそぶき、舞から預かった携帯電話のストラップを持ちながら俺の目の前でブラブラと揺らした。まるで馬の鼻面でニンジンでも揺らすように。

 「チクショウ、佐和子、お前何だって結婚してるだなんて嘘を」

 俺は沙和子を睨みつけた。
 沙和子は相変わらず小憎たらしい不遜な笑みを浮かべている。これほどまでに沙和子が憎いと思ったことはない。
 魅惑的な笑みを湛えるだけの沙和子に変わって佐々木が言う。

 「あれは俺のアイデアさ。沙和子に必要以上にお前のお守りをさせたくなかったし、それに……人のものだと余計に欲しくなるだろう、君は」

 全くその通りだ。

 佐々木にしなだれかかるように寄り添いながら俺を見下すような視線を投げかける沙和子は悔しいほどに魅力的だった。
 俺は初めてなぜこの女にこれほどまでに翻弄されたのかを理解した。
 
 なぜなら沙和子は俺のことなどこれっぽっちも思ってはいなかったからだ。

 そしていつしか俺は佐和子に対する飢餓感を覚えさせられていた。

 「俺もおまえと同じく全てを手に入れたいんだ。出世と恋人との両方をね」

 ―マレーシアで頑張れよな―

 佐々木はそう捨て台詞を残し沙和子を連れて出て行った。

 事務所には俺一人が残された。














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