第1章3節 ~ シャトランジュ ~
トスティカナ大陸において最古の王国と呼ばれる国――アンフィリア王国。
その歴史は古く、深い。
かつて、このトスティカナ大陸を支配していたのは魔獣であった。
魔獣とは、森羅万象を司る精霊を自ら拒絶した獣のことである。
このトスティカナ大陸では、死者の『魂』は精霊によって大地に還され、そして再び肉体を得て誕生すると言われていた。
『大いなる循環』と呼ばれるそれによって、全ての魂は等しく循環し、その循環によって生み出される魔力が世界を支えている。
そんな大いなる循環《グリム》を、しかし拒絶したのが魔獣だった。
魔獣たちは精霊と敵対し、強い魂を持った人間を襲い、その糧とする。魔獣の糧となった魂は大いなる循環に戻ることは出来ない。
それどころか、大地に還ることのなかった魂はやがて変質し、悪意を持ち、そしてその魂が肉体を得て新たな魔獣が生まれてくる。その魔獣が再び人間を襲い、その魂からまた別の魔獣が生まれてくる。
『大いなる循環』とは違う、もう一つの『悪意ある循環』。
それによって、かつてこのトスティカナ大陸は魔獣たちに席巻されていた。
しかしそんな悪意ある循環に楔を打ち込んだのが、始祖の狼王と呼ばれる狩人王エドルだった。
伝説に寄れば、狩人王エドルは精霊の祝福を受けた者――それを『魔法使い』と呼ぶ――の助力を得て、大陸にはびこっていた魔獣を狩り取り、そして最後には魔獣の『王』を打ち倒したと言われていた。
狩人王エドルによって大陸に『大いなる循環』が取り戻され、人の繁栄をもたらしたとされている。
そんな伝説の王が創ったと言われるのが、アンフィリア王国だった。
格式と伝統によって守られた王国の権威は高く、小国でありながら、周囲の国々から一目置かれている。
―――が、しかし。
そんなアンフィリア王国であるが、しかしその実、歴史を重ねるが故の腐敗に蝕まれていた。
王宮は魔窟と化し、人の皮を被った狸や狐たちが骨肉の争いを続けている。
特にルーシェル王子暗殺に端を発する流れは、王宮を住処とする獣たちに格好の餌場を与える形になった。現王ホロスが病の床に伏せり、政治のほとんどを家臣に任せていることが、狐や狸たちの争いを助長させた。
そしてそれら争いの火種の影響は、最終的に一人に集束されることになる。
リーディル・アルス・アナ・アンフィリア。
次代を担う現皇太子の青年である。
◆ ◇ ◆
「勝ち鬨のない勝利には、なんの益もないな」
細身の長剣についた血糊を振り払いながら、王子はため息をついた。
時は早朝。王宮の一角にある厩舎の周囲は、錚々たる有様だった。刈り込まれた芝生の上には、八人ばかりの男たちが血を流し事切れている。皆、ゆったりとした黒い外套を纏い、顔を覆面で隠している。手には、鋸のような刃の短剣。
「蛇腹剣……暗殺者か」
「殿下!」
青年騎士ユージスが駆け寄ってくる。彼の白銀の鎧にも、返り血がべっとりとこびりついていた。
「周囲を探らせました。他に賊はいないようです」
「そうか、ご苦労だったな」
「自分の仕事です。それより……」
ユージスは座った目でリーディルを睨み付けた。
「この阿呆」
「……。お前、実は私に対して敬意とか遠慮とかいうものを持ってないのではないか?」
「誰のせいだと思っているんですか!」
よほど鬱憤が溜まっていたのか、ユージスは猛然と詰め寄った。
「自分の立場がおわかりですか! 殿下は現皇太子なのですよ! それなのに朝っぱらから部屋を抜け出したと思えば、一人で遠乗りに出かけようなどと! 自分が気付いたからいいようなものを、万が一のことがあったらどうするのですか!」
「い、いや、それは」
「しかも賊が出たら、自分たちを差し置いて真っ先に自分から切り込むとは……ええい! 阿呆か、貴様!」
「お、落ち着け、ユージス」
リーディルは詰め寄る幼なじみをなだめながら、
「口調が地に戻っているぞ。近衛騎士団の副団長であるお前がそんなことでは、他の騎士に示しがつくまい、ドーズ副団長?」
「ぐっ……」
ユージスは押し黙る。
厩舎の周囲には、ユージスの部下である騎士たちが哨戒と防衛にあたっていた。皇太子に向かって無礼な口をきく副団長の事を、はらはらと見守っている。
「……無礼をお許し下さい、殿下」
「まあ、よい」
「お話のところ失礼いたします」
二人のやりとりがひとまず終結したところを見計らったのか、一人の若い騎士が駆け寄ってくる。
「ドーズ副団長、検分が終わりました。全員死んでいます」
「数人は生かしておけといったはずだぞ」
「奥歯に毒を仕込んでいたようです。二人はそれで死んでいました。ただ……」
「ただ?」
「見て貰った方が早いかと」
騎士はユージスとリーディルは誘った。仰向けで倒れ伏す暗殺者を示す。
リーディルは僅かに眉をひそめながら、
「こいつは私が切った者だな。先頭にいたので手練れだと思ったのだが、さほどではなかった」
「それなのですが……」
騎士は仰向けになっていた死体を力任せに転がした。
「背中をご覧下さい」
暗殺者の背中に刻まれていたのは、平行に走る三本の傷跡だった。刃傷ではなく、まるで獣の爪にでも引っ掻かれたかのようだ。深く、背骨まで達していると思われる。
不可解な傷に、リーディルは首をかしげる。
「なんなのだ、この傷は?」
「……魔獣」
ユージスの口から飛び出した単語に、リーディルはギョッとなった。
「まさか王宮に魔獣が入り込んだというのか?」
「賊が入り込めて、獣が入れぬ道理はない……とは思うのですが、しかし可能性は低いかと思います」
「確かにな。賊と違って、魔獣を手引きする者はいないだろうからな」
逆に賊に関して言えば、王宮内部に手引きしたものがいるだろうとリーディルは思った。
「いよいよ王宮ですら、おちおちしていられぬようになったか」
これが次期国王である弊害か、とリーディルは肩を落とした。
「殿下……」
「何も言うな、ユージス。結局の所、兄君に頼りっぱなしであったこの私の落ち度だ」
リーディルという王子は、第二王子という地位故か、王宮内で一歩退いた立場をとっていた。おそらく前に出ることで、あらぬ火種を産みたくなかったのだろう。王子が二人もいれば、世を分ける原因になるからだ。
だからだろうか。リーディルは常々、自分の事を王子ではなく、一騎士だと思ってきた。兄の治世を陰から支え、場合によっては戦の中で死んでゆく騎士。その為に剣の修行も積み、近衛騎士団の演習に混ざったこともある。
しかしここに来て、彼の立場は大きく変わってしまった。
その原因となったのは、兄の死……いや、一人の少女の登場であろう。
(セネリア・ファンネウス……)
そこで王子はハッと顔を上げた。
賊の侵入によって忘れていたが、もともと自分が厩舎を訪れた初心を思い出す。こんなことをしている場合ではない。
「騎士ユージス」
「ハッ」
真剣な声に、ユージスは直立不動の体勢を取った。
「馬を持て」
「は? 馬、ですか?」
「ああ、そうだ」
リーディルはマントを翻しながら踵を返すと、
「遠乗りに出る」
◆ ◇ ◆
牢獄の住人にとって、何よりの敵は『孤独』である。
延々と続く孤独は、姑息な鼠のようなものといえる。たやすく人の精神を食い破り、塞ぐことの出来ない穴を空けてしまうからだ。
事実、生涯幽閉となった罪人の多くは、身体が死ぬよりも先に心が死んでしまう。発狂と言い換えても良い。例え心臓が鼓動を奏でていても、例え五体が満足であろうと、精神を砕かれた者はつまるところ生きる屍に過ぎない。
それを回避できたことだけは、セネリア・ファンネウスにとって幸運と言えた。
「二、七に賢者。三、六に騎士。――チェックメイトだよ、ねーちゃん。また、おれの勝ちだ」
「……そうみたいね」
得意げに鼻を鳴らす少年に対し、セネリアは抑揚のない声で返した。
石壁の床近くにある小窓を挟んで、セネリアとフォルンはチェスに興じていた。しかもただのチェスではなく、騎士や軍閥貴族が戦術を学ぶために考案された、シャトランジュという軍隊チェスである。
もっともちゃんとした駒や遊技盤はないので、線を引いた床に、木ぎれや小石を利用して作った駒を使っていた。これらはすべてフォルンの手作りである。
「さあ、ねーちゃん。もう一度やろうよ」
「……」
「ねーちゃん?」
「……もういいわ」
冷たい床に直接腰を下ろし、壁に右肩を押し当てるように寄りかかっていたセネリアは、無感情な声でつぶやいた。未だ鞭の痕が痛むため、背中を預けることができない。
「なんだよ、ねーちゃん。どうせ暇なんだから付き合ってくれよ」
フォルンは口を尖らせながら、
「もしかして弱いのを気にしてるのか?」
「弱い……そうね、私は弱いわ」
「そりゃそうさ。だってねーちゃん、いままでシャトランジュをしたことがないんだろ? 弱いのは当然だよ」
「弱いのが当然、ですって……?」
セネリアの中で、何かが音を立てて切れた。知らず知らずのうちに、顔から全ての表情が抜け落ちる。
「……私は、弱いことが当然だというの?」
ゾッとするような暗い声で、少年に問う。
しかし少年はあっけらかんとした口調で、
「そりゃそうさ。だってねーちゃん、まだ何の『牙』も持ってないんだもん」
「牙?」
「昔……ほんとーに昔だけど、死んだ俺のとーちゃんが言ってたんだ」
フォルンは一語一語思い出すように、
「獣は、生まれながらに牙を持つわけじゃない。けれど生きるうちに、生き延びることを求めようとするうちに、獣は自然と牙を持ち、強くなる――って」
「聞いたことのない格言ね」
「当然だろ。牙の一族に伝わる言葉なんだから」
「牙の一族って……あなた、蛮族の出身なの?」
牙の一族とは、トスティカナ大陸に以前から住み着いていた先住民であり、主に王国の西に広がる山岳地帯に住む人々の事である。
彼らが蛮族と言われる所以は、人の王と魔法使いがもたらした平和を拒み、獣と共に生きることを選択したが故である。彼らは自分たちのことを獣と称し、食うか食われるかという苛烈な生存競争の中で、ある程度であるが、魔獣との共存を実現させているという。
それらの思想や振る舞いから、人々は彼らのことを『蛮族』と呼んでいた。
「蛮族って言うなよ、ひでーな。そんなのねーちゃんたち後から来た人間が勝手に呼んでるだけだろ。せめてガルフって呼んでくれよ」
「ガルフ――古代語で『牙の人』という意味ね」
「物知りじゃん、ねーちゃん」
「牙を持つ人……つまりあなたは、自分たちが強者であると言いたいわけね」
「ちょっと違うかなあ。強い人じゃなくて、強くなれる人って意味だよ」
「強く、なる?」
「これもとーちゃんの受け売りだけどさ。人は、誰でも強くなれるんだってさ。だけど実際は、強い人と弱い人に分かれちゃうんだよな」
「そうね……」
セネリアは下唇を噛み締めた。
自分は弱い。そのことが、酷く悔しく惨めだった。
「……私は弱いわ。ずっと強くなりたいと思ってきた。いえ、今も思っている。でも駄目なの。強くなることが出来ない」
「だからさ、ねーちゃん。それが違うんだって」
「違う?」
「そう、強くなることは誰でも出来るんだよ」
牙の首飾りを弄びながら、フォルンは続ける。
「とーちゃんが言ってたんだ。人は、誰でも強くなる力がある。なぜならば、人も元を辿れば獣なのだから、って。あとこうも言ってたかな。獣は、生きようと足掻くうちに牙を手に入れる。幼い顎は、やがて大きく逞しい牙を得る、って。たしかねーちゃんの国の諺に『能ある狼は――』っていうのがあるだろ?」
「能ある狼は牙を見せては笑わぬ……ね」
「それそれ。それって逆に考えれば、能のない狼にも牙はあるってことだろ?」
「それは……」
多少強引だが、しかし新鮮な解釈だ、とセネリアは思った。能ある狼は牙を見せては笑わぬ。それは逆に考えれば、隠していないだけで、能のない狼でも牙は存在する、という意味にとれないこともない。
「誰でも牙は持ってるはずなんだよ。どんな人でも、強くなれる才能はあるんだ。じゃあ、どうしたら強くなれるのか。森の獣を見ればすぐ分かるだろ? 獣って、自分から強さを求めてるように見えるか?」
「……。いいえ、見えないわ。強くなろうとしてるわけじゃない」
「だけど獣は強い。それはきっと、強くなろうとしてるんじゃなくて、『強くあろう』としてるからなんだ。……といっても、おれも強くあるってのがどんなのか、よくわかんないんだけどさ」
フォルンは首飾りを握りしめながら、そう締めくくる。
彼の言葉は、思いの外、セネリアの心の奥底まで届いた。
(強くある……)
押し黙り、思考を巡らせる。
なにやら思案に暮れる少女を横目に、フォルンは床の上にある王の駒をつついた。先端を削って王冠状にしただけの、酷くみすぼらしい石の駒である。
しかしみすぼらしいその駒は、それでも王として盤面に悠然と立っている。
フォルンはぽつりと、
「……ねーちゃんにもあるのに、すごい牙が」
セネリアのシャトランジュの腕を弱いと称したフォルンであるが、しかしその実、彼女の成長速度に舌を巻いていた。
そもそもシャトランジュは、通常のチェスよりも駒が多く、またその動きは複雑である。一度に二つの駒が動かせるために、取り得る戦術の幅はチェスの比ではない。
そんなシャトランジュを、セネリアはわずか数回の対局でものにしてしまったのである。
実をいうと先ほどの対局において、フォルンは狡手を使っていた。セネリアから盤面が上手く見えないのをいいことに、自軍の駒を勝手に動かしていたのだ。
もちろんそれは違反行為であるが、しかしそこまでしても、フォルンの勝利は薄氷の上の勝利であった。もしもう一度やれば、負けるのは自分になるだろう。
(もしねーちゃんが軍師とか兵法家にでもなったら……)
嫌な想像に、少年は背筋を震わせた。
セネリアの戦術は、盗賊のフォルンからしても『えげつない』ものであった。搦め手と奇策をふんだんに用い、まるで手の上で玉を転がすようにこちらを追い込んでくる。
今は意識してやっている訳ではなさそうだが、もし己の才能に自覚を持ち、その才能を惜しみなく使ってくることになれば……
「おれ、もしかして眠ってる獣にちょっかい出しちゃったのか……?」
冷や汗を流す。
――と、その時だった。
「へっへ、こんなとこにガキがいやがったとはな」
フォルンのいる牢獄の扉が開いたかと思うと、厭らしい笑みを浮かべた巨漢が入ってきた。フォルンのすぐ側でしゃがみ込むと、彼の細い顎を掴む。
「な、なにするんだ!」
「威勢がいいな。しかも別嬪じゃねえか。なあ、知ってるか、ボウズ。南の大陸にある砂漠の国じゃ、娼館で少年が売ってるらしいぜ。しかも女より高い値がつくこともあるって話だ」
「まさか……」
フォルンの顔が真っ青になる。
巨漢は酷い口臭のする顔をフォルンに寄せると、
「高値分の価値があるのか、俺の部屋でゆっくり確かめてやるぜ」
少年が連れ出されてゆく。
押し殺した悲鳴が聞こえたのは、それからしばらくした後のことだった。