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ゲシュタルトの庭で 作者:異島工房
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4/6

4月26日

 真夜中であった。きっと2時を回ったころであろう。私は昨日までとは違いベッドの上でも妙にそわそわしていた。西を向いている窓には、カーテンがかかっておらず、白い、向こう側がうっすらと見えるレースがかけてあった。月がぼんやりと映っていた。
 私は何気なく目を少しだけ開いた。なにが気になったのかは分からない。
 窓のほうを見て、私は体を図らずも硬直させた。窓に、いつしか見たマネキンの頭部がはりついていたのである。こっちを、じっと見ていた。
 私は恐ろしくなった。布団は毛布もかぶっているから寒いはずはないのだが、私の歯はまるで真冬のようにがちがちとなった。
 マネキンは、どこからともなく飛んできては、ドン、と大きな音を立ててぶつかった。音はしたのにに窓は全く揺れなかった。どれも同じ、あのガラスケースの囚人と同じ顔であった。次々と、際限なくマネキンはぶつかって、私を見つめている。
 私は金縛りにあったように目をそむけることもできず、気づけば私の眼球は飛び出さんばかりだった。息が苦しかった。呼吸がだんだんつまってくる感じがした。走ったあとではない、まさに首を絞められている感触だった。
 渾身の力を振り絞って、私はベッドからやっとの思いで転げ落ちた。今日一番の大きい音が鳴った。私はかなり不恰好とはいえこの理不尽な金縛りを脱出したのである。私は尻をついたままできるだけ遠ざかろうと、後ろへとずり下がり始めた。
 するとマネキンの首たちは、窓の外で、口裂け女よろしく歯を剥き出しにして大笑いし始めた。笑い声は空気を媒介とせず、私の頭蓋骨のなかに直接響き渡った。強烈な音波が骨を砕かんとばかりに私を圧迫した。私は耳をふさいだが、反響は到底おさまらなかった。私はその笑い声を消すために、喉から血が出るほど大声をしぼりだしながら、床を転げ回った。狂ったように、私は床で寝そべったままダンスを踊り続けたのだ。
 叫び続けて酸欠になった。また吸おうとしたとき、窓の外にはもうマネキンはいなかった。電気をつけた。時計を見ると、2時34分。真夜中に一人で暴れていた私は、今考えてみると実に滑稽であったことに気付き、恥ずかしさがこみあげてきた。
 私は深いため息をして、再び電気を消すと、ベッドに倒れこんだ。
 感触がおかしい。私は、恐る恐る首を横に動かしてみた。 
 マネキンが、いた。私のベッドに横たわり、私を受け止めようとしていた。私はその胸の中に見事に倒れこんだのだ。
 絶叫したのかしていないのかはよく覚えていないが、気絶したことだけは鮮明に覚えている。そう、私ははじめて失神というものを経験した。

 起きてみると、股間がじっとりと濡れていた。どうやら私は昨日のマネキンの一件で失禁してしまったようだった。それはあれだけの夢を見れば、仕方のないことだろう。
 しかし、本当にあれは夢だったのだろうか。私は確かに床で暴れ、電気をつけ、そして何より、マネキンの胸元にダイビングしたはずだった。
 私は起き上がりまずパジャマを早々と脱ぎ捨て、一刻も早く洗濯機を回そう、と必死になった。その時、私の視界に飛び込んできたのは、あの黒い写真立てだった。 
 私はその異変に早々と気付いた。
 それは、明らかに前とは違っていた。写真のふちが、まるで黒い部分をスクラッチすると、中から本物の写真が出てきたかのように、別の色に変っていたのだ。しかも、それはどこかで見覚えがあった。しかし思い出そうとしても、それが思い出せない。
 私はきりきりと脳髄が痛むのを感じた。私は頭を両手で揉みほぐすように押しながら、下着だけでベッドに戻った。とりあえず、何かを着たいと思い、最初は、外に着ていけないようなジャージを身につけたのだが、よく考えると、食料はもう底を尽きかけていた。私は外出を考慮し、まあそれなりに見栄えはするというGパンに、ワイシャツを着て、下に降りようとした。
 ふと、左を見る。壁があるはずだった。確かに壁だったのだが、私は徐々に目線を下にしていった時、吐こうと思っていた息が出なくなった。壁の下が、うっすらと扉のようになっていた。私は気味が悪くなり、階段に足を滑らせ、あっ、と声を上げる間もなくそのまま螺旋状の階段を一気に落下した。激痛が何度も私の背中に走り、私は一階の床についてから痛みをはぎ取るように背骨のあたりを掻き毟った。血が出るほどに。

 食事は出なかった。私はいつものように一人朝食を作った。出来栄えは悪くない。あかだしのみそ汁に、白米と、卵焼きをつけた。黙々と食べながら、ふと、昨日塩漬けにしておいたアジのことを思い出した。あれを干さなければならないだろう。わたしは朝食の速度を速めた。最後の一口を口の中にほおりこんでから、私は食器を乱暴に流し台に下げると、私の大好きな水槽に歩み寄った。塩の匂いがする。まるで海水から上げて間もない魚を見ている気分になる。3匹のアジはすっかり生気を失って、漂っていた。
 私は口の部分に使いこんでいる金属製のフックを突っ込むと、それを倉庫にかけてある物干しざおにぶら下げた。天日干しをしたいのだが、前それをやったところ、隣に住むアル中の男から理不尽な暴言をふりまかれ、厄介事に巻き込まれたくない私は、それ以来時間をかけて倉庫で干すことにしたのだ。とはいえ、あと2日もしないうちにできるはずだ。
 私は、久しぶりにコーヒーを飲むことにした。思えば、コーヒーを飲んだのは、あの日コーヒーを見て嘔吐して以来だった。落ち着いて黒い液体を喉に注ぎ込む。
 久しぶりに私は安堵のため息を漏らした。恐怖から来る息漏れでないため息は、長らくしていなかった。

 今日ほど恐ろしい目覚めを経験したことはなかったが、それでも美しい習慣というのは規則的に守られるものだ。私は今日も一日の営みを終え、ピアノに向かった。
 この何日間かで、私の記憶のピースは少しずつ、もとの形に向かって集束され始めたように思えた。少しずつ私の前に、広大な私の人生というパズルの一片がみえてき始めた気がした。が、私はこうも思ったのだ。
 ピースはめるべき枠を私は間違えていないのか、と。
 事実、奇妙だったことがあのあと一つだけあった。しみである。それもどす黒く変色した、だが、それはひと眼見て分かる、血のしみである。
 最初は、流し台のタイルの上に、なんの不自然さもなく表れた。私は昼につかった豚肉に混ざっていた血だと自らを強迫して拭きとったのだが、十五分ほどたってまた見てみると、またそこに、血が現れるのだ。それも、その範囲はだんだんと広くなっていき、わたしは、9割の戦慄と1割のめんどうくささを抱えて台所と他の部屋を行ったり来たりしていた。ピアノに座る前には、ついにテーブルにまで現れた。そこは私がいつも使っているところで、夕食を食べたところに血の痕跡が現れることにはあまり良い印象を持てなかったが、しだいに私はこのたび重なる恐怖の波が、日常であるという、ある種の境地にたどりつくことに成功した。つまり、あの写真立ても、マネキンも、跳ねるアジの開きも、そしてこの血のしみも、全ては現実である。それは日常でしかない。それが私の結論だった。私は自分に結論付けさせた。

 弾いた曲は、あとで調べたが、スクリャービンの『幻想曲 ロ短調』であった。独特の暗くも、明るくもない響きの中に、ぼんやりと浮かぶ光。空気を一気に引き締める左手の重厚なバス。私はしばしすべてを忘れて指を泳がせ続ける。昨日のドビュッシーや、ストラヴィンスキーよりも、私はもっともっと、音楽に浸かっていった。
 私にはわかっていた。体が、徐々にいいようのない、しかし確信に満ちた破滅に侵されていくのが。私は音楽でそれを追い払おうと、ピアノを壊すほどの勢いでのめり込んだ。が、そのうっすらと、やがて迫ってくる霧のような響きが、あの血のしみに思えてきた。私はその悪徳な妄想を焼き払おうとして、中間部の激しい場面を一気に滑らせる。
 私は涙をこぼした。怖くて怖くて私は泣いていた。美しいメロディーが歌われようと、その陰には常に私の傷があった。あまりのギャップに私は吐き気さえ催した。が、私の指は止まらずに音を紡ぎ続けた。
 どうしてわたしが、こんな仕打ちを受けなければならないのだろうか。
 私は号泣しながら、食事をとるのも忘れ、周りの家からやめろ、という怒鳴り声がするのも聞こえずに、一晩中何回もその音楽を紡ぎ続けた。同じ曲を、何回も、何回も。
 悪夢が、曲を変えた瞬間に、その一瞬に、私の中に入ってくるのを恐れていた。
 私は朦朧とし始めた。もう何回目だろうか。最強のフォルティッシモを叩きつけ、真夜中の家を震わせた。世界は美しい。私だけが、醜かった。泣いても泣いても涙はとどまるところを知らなかった。
 ふと、私は鍵盤を見つめた。鍵盤は、血で染まっていた。それも私の指から出た血ではなく、ずっと前について、そのままになっていたような。
 私はそれにもう恐怖すら感じなかった。ただ弾き続けた。回を重ねるごとに完成度は増していき、私の音楽は天国へと限りなく近く昇華されていく。
 10回、20回、30回・・・・・・
 私は疲れ果てた。もうあのマネキンを見たころと同じ時刻だった。私は最後の和音を鳴らし終えると、スイッチが切れたように、床に倒れ伏した。私はまどろんでいった。しみによって血塗られたピアノが、私を優しく見下ろしていた。


 
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