挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
ゲシュタルトの庭で 作者:異島工房
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

3/6

4月25日

 朝起きると、私の目に入ってくるのは、もうお分かりだと思うが、あの黒い写真立てである。さすがに一日たつと、私はこの状況に慣れてきていることに気づいた。私はその写真立てを手に取った。しばらく見つめていたが、だんだんこの黒が現実そのものなのではないかとさえ思えてくる。私は書斎の隅の一番目立つ所に写真立てを置きなおした。何か変化があった時にはすぐに視界に入れたかったためだ。私はお気に入りのクローゼットから、決して外では着られない恥ずかしいプリントがされた黒いTシャツ、かなり使い古したGパンをきて、ドアを開けた。左を覗いたが、そこは壁のままだった。昨日のようにドアがあるようなことはなかった。私はなぜか切なくなった。そこに壁があることではなく、ドアがなかったことが悲しかったのだ。
 自分の記憶を正当化したいからだけなのだろうか?それとも、別の理由に起因していたのだろうか?
 私はよく分からないままに、下の階へと降りた。あの悪夢のような昨日からすれば、ずいぶんと気の楽な動きだったが、次に聞いた人声が私の全神経を恐怖で逆撫でした。
 あなた、ごはんですよ。
 声は、そういった。
 私はここが室内にも関わらず昨日の会社からの帰りのような勢いで残りの段をかけ下りると、思い切りダイニングへのドアを開けた。
 誰もいない。ただ、朝食があった。
 何かの嫌がらせだろうか。はっきりと聞こえたあの声に対して私は恐怖感のあとにそれ以上の嫌悪感を覚えた。悪趣味な人間が私のうちの合鍵を作り、私が起きる前に現れて飯を作っては、いたずらをして消えていくのだ。
 私は憤慨しながらも、その湯気を依然として立ち上らせる米に箸をつきたて、乱暴に口に放り込んだ。喰らいながら私はふと、この味にどこか懐かしさを感じる自分がいたことに気付き、わずかながら吐き気を催した。どうもいけない。せっかく有給をとった1日目である。もう少し暴れなければいけない。この悪質な、まるで、私に家族でもいるようないたずらを、何とかして止めなければならないのだ。私は、この犯人を見つけたら、そこら辺にいるお人よしの日本人からすれば少々やり過ぎるとでもいうような制裁を加えるつもりでいたのだった。

 私は何気なく玄関に向かった。正直に言って朝一番の尿意を感じ、すぐ隣のトイレに行こうとしていたのが理由であったが、私はそこに白い発泡スチロールでできた容器が置かれていることに気づいた。
 ふたを開ける前から、私の嗅覚はそそられていた。ふたを恐る恐る開けると、私はびっくりして腰を抜かしてしまった。まさにこの表現が適格といえよう。朝早くに私は大きな音を玄関に響かせたのだ。
 そこに入っていたのは3尾の見たこともないような鮮度の良い大きなアジだった。まるで私に開き干ししてほしいような眼をしていた。
 私は探索を一時中断したが、尿意に勝つことはできず、止むなくふたを戻して、憎むべき生理的欲求を沈めてから、その希望の箱を台所へいそいそと運んだ。
 開けて改めてみると、なるほど立派なものである。春が旬なのかどうか知らないが、脂がのっていることはひと眼見て分かった。これを開き干しすれば、どれだけおいしいだろうか。
 私は、さっそくまな板の上に載せ、包丁を取り出した。よく洗って、内臓を取り除くために腹に刃先を入れようとした。その時。
 死んでいたはずのアジが、ぽーんと、ダイニングのほうに飛んでいったのだ。私はしばし唖然とした。死体が突然、それこそピンポン玉のように跳ねたのだから、驚くのは当然のはずである。心臓の弱い者なら失神するかもしれない。事実、テーブルの上に飛んでいったアジは、そのまま動かなかったからだ。
 ここで私の中に芽生えていた二つの感情は、結局開き干しを作りたいという一心に統一された。私は映画の殺人鬼のような形相でテーブルの上に再び沈黙したアジに向かって、包丁を突き立てた。するとアジはすんでのところでまた跳ね、今度は床に落ちた。私は埃がついただろうな、と思いちっ、と舌打ちをしたが、気を取り直し、加速をして一気にアジの間合いを詰めた。逃げ場を失ったアジは、私に腹をつき立たれる瞬間に私の顔面に向かって尾びれを直撃させた。私の怒りは頂点に達した。私は日本語に表記できないような、奇声を上げながら、私に打撃を与え床に着地しようとする味の背骨から背びれに近い部分に思い切り包丁を突き立てた。
 一瞬、私の脳裏に、叫び声のようなものが聞こえたのだが、私には開き干しを作るという義務で頭がいっぱいであった。私は、素早く包丁を抜くと、魚を片手でつかみ、思い切りまな板にたたきつけた。アジは静かになった。
 私はその後残りの2つももしかしたら跳ねるかもしれない、と思い、足早にはこの中にいた2尾のアジの腹部を一気にかき切った。
 尋常ではないほどの鮮血がほとばしり出た。一部は私の顔面にかかり、私はあわてて水道の水を全開にし、憑きものを落とすようなイメージで顔を何回も洗った。

 それから先は平穏だった。開き、腐らないように塩水につける。私のお気に入りの開き干し専用の水槽の中で、内臓を失った3匹のアジは、ぷかぷかと浮いていた。未だに腹部から血を噴き出しているのを見ると、私はぞっとするものを感じなかったわけではない。だが、それ以上に、これほどの上物を干物にするという高揚感が、私の神経を麻痺させていた。

 わたしはその日、昨日発見した壁のことや、ピアノのこと以外何の収穫も得られなかった。私はこのことに関して若干の失意を覚えたが、毎日の日課であるピアノの前に座り、また、おもむろに弾き始めた。いつも思うことなのだが、曲目を自分で決めるのではない。指が曲目を決めていた。まるで椅子に座ること自体が反射を引き起こすかのように。
 ドビュッシーの『子供の領分』だったが、私はひきながら、昨日のストラヴィンスキーに見いだせなかった、ある奇妙な幻想をまぶたの裏に描いた。
 見知らぬ、ちょうど小学生ぐらいの少女が、この曲を小さな、小さなステージで弾いている幻想である。少女は私と同じドビュッシーを、全く同じように弾いていた。テンポ感も、間も、あるいは音楽が紡ぎだす色さえ同じに思える。私はそれを遠くの席で眺めていた。いとおしげに。まるで、
 娘のように。
 私は残り18小節のところで演奏を断ち切った。少女は消えた。私の呼吸は気付くと、昨日のは知った後異常に激しくなっていた。私は椅子ににもたれかかり、天を仰ぐようにして荒い呼吸を続けた。
 瞼の裏側の少女は、昨日家に帰ってきたときにあった、あの女のこの靴と同じ靴をしていたのだ。

 何かが、壊れ始めたことを私は直感で察した。大切なものが、割れてしまったガラスの砂時計のように、こぼれおちていく予感は、私の中で大きく、大きくなっていった。

 その日夕食はあらわれなかった。別段不思議なことではない。今までが異常だったのだ。わたしは冷蔵庫を見た。野菜も肉もだいぶ少なかった。明日には買い物に行かなければならないだろう。私は簡単にゴマ油で野菜炒めを作り、残った部分でコンソメスープ、そしてご飯を炊き、ひとりで夕食をたべた。明日になったら、朝塩に漬けていたアジを倉庫に干さなければならない。

 私は今日はいつもよりも早くベッドに向かい、自然と瞼が私に幕を下ろすのを待った。何も考えずすぐにベッドに突っ込んだ私に、いつ黒い写真立てを確認する暇があったというのだろうか。
 黒い写真たて、その中にある真っ黒な写真。その右端に、シミが出てきたのだ。
 そのシミは、むしろ、もともとあった写真のように、有彩色で綺麗に彩られたシミだった。
 私は気付かずに、その意識を眠らせた。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ