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あの壁の向こう側
作:カリブー


 ついに待ちに待ったこの日が来た。今夜は曇りで月明かりがほとんど無い。これなら案外すんなりと壁を越えられるかもしれない。そんなことを思いながら私は、古ぼけた倉庫のシャッターを開け、そこに止めてある小さな飛行機に乗り込んだ。私はこの日のために、必死に金を稼いで中古の部品を買い集め、こいつを完成させたのだ。

 左手でスイッチを押し、エンジンをかける。左右のプロペラが大きな音を立てて回りだした。右手で操縦桿を握り、手前に引く。刹那、全身に大きな力を感じたかと思うと、次の瞬間には薄汚いビルの群れが眼下に広がっていた。
 前を向くと、遠くにこの街を分断する巨大な壁が見える。そしてその壁の向こうでは、一本の巨大なガラス張りの塔が、内側から放つ光で夜空を照らしていた。あれがこの街の市庁舎だ。その周囲にへばり付くようにして密集している背の低いビル群は、色とりどりのネオンで輝いており、夜中とは思えない熱気で満ち溢れている。しかし、この熱気は同時に何か臭気のようなものを一緒に運んでくるような気がして、少し嫌な感じがした。

 しばらくは静かな飛行が続いた。あの壁まではまだ距離がある。今ならまだ引き返すこともできる。しかしそれは、途方も無い空しさを抱きながら敗者として一生を過ごすということを意味する。もうそんなのはごめんだ。だからといって、死の危険を冒してまであの壁を越えたいのだろうかと自分自身に問えば、そこまで覚悟を決めることもできない。
私は夜の空の上である種の行き詰まりを感じた。壁で分断されたこの息苦しい街を出て、どこか遠くへ行ってしまいたいとさえ思った。私は飛行機のスピードを上げて、その迷いを無理矢理頭の隅に押し込んだ。

 いよいよ壁が近づいてくる。そろそろ警備兵に見つかる可能性のある地点まで来ていた。ここまで来たら何としても彼らの銃弾を避け続け、生きて壁を越えなければならない。だがそれは簡単なことではない。何せこの飛行機には武器の類が何ひとつ装備されていないのだ。買い揃えるだけの金が無かったというのもあるが、武器はどうしても性に合わないというのが正直なところだった。やはり、私には覚悟が足りなかったのかもしれない。
 そんなことを考えていると、機体の右側が急に明るくなったのを感じた。パトロール中の警備兵の戦闘機のライトが、私の飛行機を捉えたのだ。もう引き返せない。私は操縦に全神経を集中させる。ここからはわずかな判断ミスが死に直結する。
「これより先は飛行禁止区域である。今すぐ引き返しなさい」
 警備兵が無線を使って警告を発した。私は無視する。
「もう一度言う。引き返しなさい。指示に従わなければ撃つぞ!」
 先ほどと同じ警備兵だ。私は素早く周囲を見回した。敵は警告を発した一機だけだ。私の右側を、私とほぼ同じスピードで飛行している。多数の戦闘機に銃撃されることを覚悟していた私は、少し拍子抜けした。確かに、最近では壁を越えようとする者も以前と比べ少なくなっているという話を聞いたことがある。それに伴って警備も薄くなったということだろうか。だがそんなことはどうでもいい。今はともかく、敵の動きに注意しながら全速力で壁の向こう側を目指すだけだ。

 私がそんなことを考えていると、突如として警備兵が時計回りに旋回し始めた。私の後ろに回り込もうとしていることは明白だった。私も同じく旋回したが、相手は思いのほか小回りが利くらしく、後ろを取られそうになる。私は小刻みな操縦でなんとか避けて、再び警備兵と横並びの位置につける。最後には二七〇度回転して、私たちはほぼ壁と平行に飛行する形となった。
「……今のうちに聞いておこう。お前の目的は何だ?」
 驚いた。この警備兵は、この状況で私と会話する気らしい。だが、この質問は滑稽だった。そんなことは聞かなくてもわかっているはずだからだ。しかし、長時間の操縦による疲労を回復するには好都合だと判断して、私は口を開いた。
「決まってるだろ。あの壁を越えることだ」
 私がそう答えると、警備兵はさらに発言を続けた。
「ならば、あの壁を越えて、その後はどうするのだ?」
 これは鋭い質問だった。私は少し間を置いて答えた。
「さあな。私の目的は壁のこちら側から逃げ出すことだけだ」
 答えになっていないのが自分でもわかった。
「ふん、そうか。近頃では珍しい奴だ」
 警備兵はそう言って、また黙り込んだ。そして、私たちは再び並んで飛行する形となった。あの警備兵は、まるで私に攻撃する気が無いかのように静かだった。
 一方、私は先程の警備兵の質問が気になって仕方がなかった。確かに、今までは壁を越えることばかり考えていて、壁を越えたら何をするかということを考えたことは無かった。あの壁の向こう側には、本当に私の求めるものがあるのだろうか。そんなことを考えていると、警備兵が再び口を開いた。
「逃げ出す、か。なら、このまままっすぐ飛んで行けば逃げ出せるんじゃないか?」
 気づけば、かなり長い間壁に沿って飛んでいた。周囲の景色に視線をやると、建物は殆ど無く、畑や荒地が広がっていた。私たちは街の端まで飛んできてしまったらしい。
「この街が嫌なら出て行けばいい。お前にとっては、壁を越えるよりはるかに簡単だ」
 この警備兵は、まるで私の心中を見透かしているかのような発言をした。確かに私は、頭の片隅では街を出たいと考えていた。だが、街の外のことは何も知らない。出て行った者たちも、誰一人として戻っていないらしい。やはり危険なのではないか。
「どちらにせよ、お前は死を覚悟してここに来たのだろう。この壁を越えようとして俺に撃ち落とされるくらいなら、外の世界に飛び出してみたらどうだ。出て行った奴らが戻ってこないのも、案外街の外にいい場所を見つけたからかもしれないぞ」
 この警備兵は先程から突拍子もないことばかり言う。だが、その言葉には妙な説得力が感じられた。確かに、壁の向こう側がどんなに輝かしく見えたとしても、それが本当に私の求めるものかどうかなんて結局は分からないのだ。
 やはり私の性に合っている場所は、あの闇を穢す様な光り輝く街並みよりも、この広い外の世界のどこかにあるのかもしれない。そんなことを考えながら、私は再び口を開いた。
「あんたも、逃亡者の一人も撃ち落とせないんだったら、警備兵なんかやめてこの街を出たらどうだ」
「俺があと十歳若かったら、そうしていたかもしれないな」
 これが、私と警備兵との最後の会話となった。私が街の境界を越えたところで、警備兵の戦闘機は静かに右に旋回して、通常の任務に戻っていった。私はそれを横目で確認し、それからまっすぐ前を見つめた。
 いつの間にか空は晴れていた。そこには人工的な光は何一つ無く、闇を照らすのはたった一つの星だけだった。もっと遠くに行けば、たくさんの星が見られるだろう。美しい星空が見られるのなら、街を出るのも悪くない。
 しばらくして、私は操縦桿を強く握り締めていた右手の力を緩め、そして大きく深呼吸した。いつしか夜空は白みを帯びて、もはや暗闇ではなくなっていた。早朝の風の心地よい冷たさを感じながら、私は何も知らない外の世界へと飛び出していった。


小説としてきちんと書いたものとしては、これが初めてになります。まだまだ至らないところも多いかと思いますので、厳しく評価していただけると嬉しいです。













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