プロローグ
前話のエピローグより少し遡り、円卓会議成立の一週間ほど前のお話になります。
17.09.06 再始動のため書き直したり構成しなおしたり
最初に戻ってきたのは素肌に触れる空気の感覚。それから足元の魔方陣から照射される光のカーテン越しの風景。
ほんの一瞬の浮遊感のあとに私の両足は石造りの橋のたもとにふわりと着地し、大地から伝わる重力の感覚が五体に戻る。
魔法陣が空気に溶けるように消えたあと、私の視界に鮮明に映し出されたのは、見慣れた〈ブリッジ・オールエイジス〉。現実世界では万世橋と呼ばれるアキバの街の南端の入口だ。
私が使ったのは〈帰還呪文〉。これはゲームだった頃であれば、その一日の冒険の終わりに唱えられていた瞬間移動の呪文だ。
まあ、瞬間移動とはいっても使用できるのは一日に一回だけ。それも移動先は自由に選べるわけではなく、「最後に立ち寄ったプレイヤータウン」という制限付きではあるのだが、プレイヤータウン間を接続していた〈トランスポート・ゲート〉が動作しなくなり、〈妖精の輪〉も手軽に利用できなくなってしまった今となっては、唯一残るお手軽な長距離移動の手段となっている。
私のようにアキバの街の外に本拠をもつ〈冒険者〉にとっては使用頻度の高いものとなっているこの〈帰還呪文〉なのだけれど、一瞬自分が溶けて消えてしまうようなこの感覚には未だにどうにも慣れない。ストレッチをするかのように身体を左右にひねり、自分の身体が確かに存在することを確認した後、私は街の中へと足を進める。
アキバの街。
MMORPG〈エルダー・テイル〉をプレイする日本人であれば、まず頭に思い浮かべるのはこの街の光景だろう。
日本サーバーに五つあるプレイヤータウンの中で最も古く、そして拠点とするプレイヤーも一番多い「冒険が始まる街」。
はるか昔、神代に滅びた古代人の聖地という設定をもち、遺跡と古代樹が林立する神秘的な風景をもつ街。
昨晩まで降っていた雨の影響で、アスファルトの大半が苔に侵食された大通りはまるで薄いヴェールがかけられたかのように朝もやに白く霞んでいる。道の両端に並ぶ廃ビルに絡みつくツタや、そのビルを突き抜けて生い茂る樹々は、葉が抱え込んだ雫に朝日を映して、きらきらと輝いている。
まだ朝早い時間だからだろう。ゲームだった頃であればそれこそ二十四時間絶えることなく街の中に溢れていた〈冒険者〉の姿はほとんど見られない。まばらにな人影は露天を開く準備をしている〈大地人〉のものばかりだ。
ゲームに似てるとはいえ、現実となってしまったこの世界においても現代日本人の朝はさほど早くには始まらないのだろう。
そんな風景を横目に眺めながら、街の区画を切り分ける中央の十字路を東へと曲がる。左手の生産系ギルドが多く集まる大きなビルの先に見えるのが待ち合わせの場所。アキバの街でも一際大きく異質な形状をした建造物、〈トランスポート・ゲート〉だ。日本サーバーに五つ存在するプレイヤータウン同士を接続する施設だったこともあり、この〈トランスポート・ゲート〉の周辺はアキバの中でも特に賑やかな場所だったのだけれど、その機能が失われてただのオブジェと化してしまった今となっては、ゲームだった頃の面影はない。
そんな人影のない〈トランスポート・ゲート〉の柱の陰から、長身の人影がふらりと姿を現す。
針金のように長くすらりとした手足。どこか優雅さを感じさせる身のこなし。その姿を目にした私は、思わず走り出してしまう。
「にゃあ」
目の前まで来たその男性が最初に口にしたのは、そんな言葉だった。
緑色のコーデュロイジャケットに、腰には二振りの細身の剣。細い手足とはいささかギャップのある丸い頭部には、尖った三角形の耳が並んでいる。
その背格好はゲームだった頃のアバターのままではあるのだけれど、まさに猫といった大きな釣り目には、どことなく優しげな光が浮かんでいる。
彼の名前はにゃん太。〈猫人族〉の〈盗剣士〉にして、〈エルダー・テイル〉内で私の得た、最も古い友人のうちの一人だ。
「お久しぶりです、にゃん様! まさかアキバでにゃん様に会えるとは思いませんでした!」
「クシっち。『様』は勘弁してほしいにゃあ」
「あ、ごめんなさい、にゃん太さん」
こんなお決まりのやり取りも久し振りだ。嬉しさで思わず息が弾んでしまう。なにせこのにゃん太さんは〈エルダー・テイル〉を始めたばかりの私に色々な事を最初に教えてくれた師匠。今でも私の中では憧れの存在なのだ。
そして私がこんな朝早くにアキバの街にやってきたのも、にゃん太さんから入った一本の念話が理由だったりするのだ。
「でもびっくりしましたよ。てっきりススキノに居るんだと思っていたにゃん太さんから、アキバで待ち合わせをなんて連絡が来るなんて」
「まあ、吾輩にもちょっとした冒険があったのですにゃ」
にゃん太さんは、そう言うと眼を細めて笑う。
現実世界では北海道に住んでいて、ゲーム内でもススキノを拠点としていたにゃん太さんが、どうやって、どんな理由で長い距離を移動してこのアキバまでやって来たのだろうか。正直気にはなるけれど、にゃん太さんはいつも自分のことは話したがらない。そういう話題になるとふわりとはぐらかされてしまう。
しつこく聞けば答えてくれるのかも知れないけれど、そんな不躾な真似をにゃん太さんにはしたくはない。リアルでは北海道在住なんていうのも他の話題の中でぽろっと出てきたから偶然知っているにすぎないのだ。
「そういえば聞きましたにゃ。新しくギルドを立ち上げたとか。〈太陽の軌跡〉ですか。良い名前ですにゃあ」
「うう、なんか恥ずかしいなあ。ほんとギルマスなんて柄じゃないと思うんですけど……」
「そんなことないにゃ。とってもクシっちらしいと我輩は思いますにゃあ」
それとは逆に、にゃん太さんは不思議と普段言わないような事でも思わず話してしまう雰囲気をもつ聞き上手だ。
こっちの事ばかり知られてしまうのはちょっとずるいと思う時もなくはないけれど、にゃん太さんにそう言ってもらえると正直嬉しくなってしまう。
「おっと、そうだ。こっちが依頼されてたアイテムです。ええと何袋だったかな。バッグに入るだけ入れてきたんですけれど……」
そうなのだ。懐かしいにゃん太さんに会った事で忘れそうになってしまったが、今回のにゃん太さんからの念話の要件は、あるアイテムを譲ってほしいという依頼だったのだ。
私がバッグと言っているのは、〈ダザネックの魔法の鞄〉というマジックアイテム。ゲームだった頃の〈エルダー・テイル〉では、ある程度のレベル以上のプレイヤーであれば誰でも持っていたもので、重量の総量が二百キロまでのアイテムであればサイズを無視して収納ができるという、非常にご都合主義な性能を持っている。
同じくゲームだった頃と同じように操作できるメニュー画面から、バッグ内のアイテム目録に表示されているアイテムを選び、取り出すように操作する。すると中空に一抱え以上もある大きな麻袋がいくつも不意に現れ、すとんと地面に落ちる。
思っていた量よりも多かったのだろうか。にゃん太さんは一瞬驚いたように目を見開いた後、顎を手で撫でて少し何かを考えるような素振りを見せる。
「ありがたいですにゃあ。料金はいかほどですかにゃ?」
しかしそれも一瞬のこと。多分手持ちの金貨を確認しているのだろう。中空に指を滑らせながら、にゃん太さんが答える。
「いいですよ。どうせ不良在庫で屋敷の倉庫が埋まってるくらいですし。引き取ってもらえるだけありがたいとか、そんな感じなんです」
この大量の麻袋の中身は小麦だ。いま私のギルドが拠点としている〈テンプルサイドの街〉の周辺の〈大地人〉からとある理由で大量に買い入れているたくさんの農作物のうちでも、あまり買い取り手がつかず、どんどん屋敷の倉庫を圧迫して私たちの頭を悩ませているアイテムなのだ。
半現実となってしまっているこの世界において、食事というのは必須のもの。当たり前ではあるのだけれど、ゲームの時のように一時的に能力がアップするアイテムという理由だけではなく、朝昼晩の三食とはいわずとも「食べる」という行為は生きるためには必ず必要となる。なるのだが。
なんとも理不尽なことなのだが、この世界では特定のサブ職業を取得することにより使うことの出来る調理スキルによって生成された食料アイテムでは、味というものが欠落してしまうらしいのだ。
現実世界のようにまともな味がするのは調理前の素材アイテムだけで、そうなると調理しないことには口にすることのできない米や小麦などの穀物系の素材アイテムの需要というのは限りなく低いものとなってしまう。
大恩あるにゃん太さんから、そんな不良在庫で料金を頂く気には、私にはどうしてもなれない。
「……では今回はありがたく頂戴いたしますにゃ。お礼はそのうちに別の形でさせてもらうにゃ」
また数秒、にゃん太さんは両目をとじて思案をした後、ため息をつくように答える。
私とにゃん太さんの付き合いは長い。こういうときに私がなかなか折れないというのもにゃん太さんはよく知っているのだ。
「でも料理だってあんなだし、小麦なんて何に使うんです? あ、もしかして粉塵爆発とか?」
「そんな物騒な事は考えてないにゃ……」
ううむ、違ったか。どうやら私では思いつかないような使い道があるらしい。
とはいえにゃん太さんのことだから、悪用される事とかを心配する必要もないし、時がくればその用途も教えてくれるだろう。
いや、そんなことよりも大事なことがあるのだ。
にゃん太さんから連絡をもらったときから思っていた言葉を口に出そうと、私はひとつ息をのむ。
「……えっと、にゃん太さんが〈ねこまんま〉の事を大事に思ってるのはもちろん知ってるんですけれど、なんかこんな事になってしまってますし。もし、もしにゃん太さんが嫌じゃなければ、私と一緒のギルドでとか、お願いできないですか?」
それは、ゲームだった頃から何度も思いながらも、勇気がなくて言いだせなかった言葉だ。
にゃん太さんが所属する〈ねこまんま〉というギルドは、私が〈エルダー・テイル〉を始める前から存在するとても古いギルドだ。
〈猫人族〉だけというアンバランスな構成ながらも精力的に活動を行っていた有名なギルドだったのだが、それもずっと昔のこと。
ギルドマスターがログインしなくなったことによりメンバーは離散し、私が〈エルダー・テイル〉を始めた十年前には、もう活動しているギルドメンバーは数人のみという名前ばかりのギルドになっていた。
それでもにゃん太さんは、その名前を守る墓守であるかのようにギルドを変えず、いつも一歩引いた場所から周りを見守るように笑っていた。
それがとてももどかしいと、どうしても私は思ってしまっていた。
私は〈猫人族〉ではないから、〈ねこまんま〉に加入する事はできない。でも、もしにゃん太さんが他のギルドに移籍してくれるのなら私が橋渡しをしてもいい。なんなら私がギルドを新しく作ったっていい。
それはゲームだった頃に何度も何度も考えながら、口にできなかった言葉だったのだ。
にゃん太さんが、私の言葉に驚いたかのように一瞬目を大きく開く。
そしてその目を閉じ、優しげな笑顔を私に向ける。
「……申し訳ありませんにゃあ」
しかし、にゃん太さんから返ってきたのは、半ば予想はしていた否定の返答だった。
「やっぱり〈ねこまんま〉を辞めるのはダメですか?」
「そうではないのにゃ」
にゃん太さんは首を横にふり、自分の肩のあたりを指さす。そこにあるのはゲームだった時のように私の目に映るステータス画面のウィンドウ。そこにはキャラクター名やメイン職業、そして所属ギルドの情報などが表示されている。
そして、その中の所属ギルドの項目には、今まで見た事が無い文字が表示されていた。
「記録の……地平線?」
「そうにゃ。まだ出来たばかりでとっても小さいけれど、我輩の新しい縁側ですにゃ」
それはもうすでににゃん太さんが〈ねこまんま〉を離れて新たなギルドに加入しているということ。
ずっと何かを守るように歩みを止めていたにゃん太さんが、この世界で何かを始めるために足を一歩を踏み出したということ。
そのことが嬉しいような、それをなし得たのが自分でなかったことが悔しいような、自分でもよくわからない感情が胸にこみあげる。
「あー、遅かったのかあ。振られちゃいましたね……」
「あんまり年寄りをからかうものではないですにゃあ」
どうにか冷静を装って口に出した私の声に、いつもどおりの口調で答えてくれたにゃん太さんは、私のこの気持ちに気づいているのかいないのか。
にゃん太さんと初めて出会ったのは私が中学生の頃だ。親身になってたくさんのことを教えてもらい、多くの時間を共にはしたものの、にゃん太さんから私に向けられる感情は被保護者に対するそれで、当時から異性として意識されることはなかったと思う。
私自身、にゃん太さんとの関係が壊れるのが怖くて年がたってもそれ以上踏み出すことが出来ず憧れるだけだったのだ。今更文句など言えるはずもないのだけれど、胸に湧き出すもやもやとした気持ちはどうしても押さえようがない。
続く言葉を紡ぐことができず黙ってしまった私にあわせるかのように、にゃん太さんは腕を腰の後ろで組み、霧も晴れ始めたアキバの風景に無言で目線を移す。
のろのろと少しずつ街に姿を現し始めた〈冒険者〉たち。そして一見普段どおりに見えるものの、どこか怯えたような表情を顔に浮かべながら露店を開く〈大地人〉の商人たち。大通りの先に見える一団は街の外へと向かう戦闘系ギルドのメンバーだろうか。
そんな風景を無言で眺めながら時間が過ぎる中、ふとにゃん太さんが呟く。
「クシっちには、今のこのアキバの街はどういった風に見えますかにゃ?」
「え? アキバですか?」
突然投げかけられた抽象的な質問に、私の中で渦巻いていた感情がふっとゆらいで薄まる。
一時期よりもPKなどは減って、比較的治安はよくなった。しかし規模の大きなギルド同士は牽制をしあっていて街の雰囲気は良いとはいえない。そういう説明はいくらでもできるけれど、にゃん太さんが私に求める答えはそういうものではない気がする。
だから私はあまり考えずに心の中に浮かんできたイメージをそのまま声に乗せる。
「ええと、あんまり上手く説明はできないんですけれど、なんだかみんな暇そうというか」
「暇、ですかにゃ?」
「……違うなあ。いや暇じゃなくて退屈なのかなあ。なんだかみんなやること、できることがわからなくて困ってるように見えます」
「クシっちも退屈ですかにゃ?」
いくつか言葉をやりとりをしながらそのイメージを整理する中、不意ににゃん太さんの質問の差す先が私自身へと向く。
「いやあ、私は毎日もうばたばたで。ヤエは帳簿の処理までぜんぶ押し付けようとしてくるし、ギルドの仲間たちと狩りにも出たいし、〈D.D.D〉っていうか山ちゃんにもよく呼び出されたりもするし……」
「にゃははは。相変わらずですにゃあ。クシっちのそういうところ、すごく良いと思いますにゃ」
言われてみればそうだ。どうも私の周囲は〈冒険者〉の大半が住むこのアキバの街とはぜんぜん違うことになってしまっているらしい。とはいえそれが良いのかと言われるとどうにも素直には頷けない。正直、忙しさは半端ないのだ。
「では、あまり長く引きとめてしまっても迷惑になってしまいそうですにゃあ。また近いうちに連絡をいれますにゃ」
さっきの会話の中の何に納得したのかはわからない。しかし何かに満足したらしいにゃん太さんは、私から受け取ったアイテムを全て自分のバッグにしまい、いつものように優雅に一礼をする。
そして、背をむけて数歩足を進めたあと、何かを思い出したかのように私をふりむく。
「ああ、そういえばクシっちのサブ職業は、まだ〈料理人〉のままですかにゃ?」
「はい、料理はあんなですし、〈会計士〉や〈筆写師〉の方が今の私には役に立つと思うんですけど、だからって簡単に変えてしまうのはちょっと嫌で……」
そう、私のサブ職業〈料理人〉はにゃん太さんと出会う切欠ともなった思い出深いものだ。便利さなどを考えれば他のものに変えた方が有利なのだが、なかなかその決心はつかないでいる。
「だったらクシっちにはもうひとつお願いがあるのにゃ。今はまだ理由は言えないのだけれど、〈料理人〉のサブ職業をもうちょっとだけ変えないでいて欲しいんですにゃ」
「はい。そんなことであれば全然問題ないですけれど……」
「ちょっとだけ待っていて欲しいですにゃ。我輩たちも今、ちょっと頑張っているんですにゃ」
不思議なお願いの内容に首をかしげる私を見て、にゃん太さんはにこりと笑う。
そして、芝居気まじりに右手の人差指をたててポーズをとると、ぱちりとウィンクをひとつしたのだ。